中心思想
カナン征服に取りかかる前に、ヨシュアは賢明にも軍事的偵察活動を始めます。彼の戦略から、私たちは敵サタンに対する信仰の戦いにおいても霊的な偵察が必要であることを学びます。
アウトライン
- ラハブ、斥候をかくまう(ヨシ2:1~14)
- ラハブの信仰(ヨシ2:8~14)
- 赤いひもの約束(ヨシ2 :15~21)
- 希望の模範、ラハブ(ヨシ6:17,22~25、マタ1:l、5,6、ヘブ11 :31、ヤコ2 :25)
- 斥候の帰還(ヨシ2 :22~24)
信仰、行為、救い、メシヤ
ヨシュアは生活の中で神と交わり、同時に賢明な将軍としての備えを怠りませんでした。クリスチャンの生活には、いつでも信仰と行為が共存します。忠実な二人の斥候の一人だったヨシュア(民数13)は、同じように忠実な二人の斥候を2回目の偵察活動につかわします。エリコの要塞で、斥候たちは思いがけない人によって助けられます。彼女は四つの点で不利な状況にありました。(1)この人は女でした。(2)彼女はカナン人でした。(3)彼女は遊女でした。(4)彼女は平気でうそをつく人でした。このラハブは聖書の中でも最も素晴らしい生きた信仰の模範者の一人となりました。彼女の家に救いが訪れ、彼女の家からメシヤが生まれます。
この物語は、神が思いがけない普通の人々を通して働かれることの素晴らしい実例です。イエスは祭司長や長老たちに言われました。「取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる」(マタ21 : 31)。
ラハブ、斥候をかくまう(ヨシ2:1~14)
質問1
カナンに侵入するに先立って、ヨシュアはどんな賢明な行動をとりますか。ヨシ2:1
「エリコは山地に上る道を支配していた。その道を上った頂に、もう一つの要塞であるアイがあった。起伏の多い山道はこれらの険しい山々から流れ出る急流によって形成された古い河床からできていた。……もしイスラエル人が山地を攻め取り、そこからカナンの地を支配するためには、まず低地を支配しているエリコを攻め、次に山を上り、アイを取る必要があった。そうすれば、山地の頂上にあって、そこからカナンの様々な地方に支配を拡大することが可能であった」(フランシス・A・シェイファー『ヨシュア記と聖書の歴史』93ページ)。
質問2
斥候の使命は何でしたか。彼らはどのようにして敵の探索を逃れましたか。遊女の家に行くことは適切なことでしたか。ヨシ2:1~7
ヨセフスをはじめとする解釈者たちは、ラハブが実際には遊女でなく宿屋の主人であったとして、斥候たちがラハブの家に行ったことを正当化しようとしています。しかしゾナーというへブル語の意味は明白であって、それは聖書の中では遊女を意味します。彼女は宿屋の主人であったかもしれませんが、それはヘブル語の意味にはありません。この物語の文脈を見れば、斥候たちが性的な目的のためにそこに行ったのではないことは明らかです。ラハブの家は人に知られていない、安全な場所にあり、城壁の中にあって脱出するには便利でした。神が斥候たちを導かれたことは明白です。
質問3
聖書はイスラエルの斥候を守るためのラハブのうそを許していますか。聖書はうそをつくことについて何と言っていますか(『人類のあけぼの』上巻129ページ参照)。
ある人たちは、ラハブの答えは実際にはうそには当たらないと説明したり、大した罪ではないとして正当化したりします。しかし、そのような説明は聖書の教えに忠実ではありません。ラハブは明らかにうそをついたのであり、このことが聖書に記されているからといって、それで神が彼女の答えを是認されたことにはなりません。
ラハブの信仰(ヨシ2:8~14)
質問4
ラハブはイスラエルとイスラエルの神の業についてどんなことを知っていましたか。このことは神に対する彼女の態度に関してどんなことを示していましたか。ヨシ2:8~11
ラハブは主の救いの業について知っていましたが、これは唯一の、まことの神に対する驚くべき信仰のあかしです。
彼女は信じました。これが物語の核心です。アブラハムは「主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世15: 6)。これと全く同じように、アモリ人と思われるこのカナンの遊女は信じました。「信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった」(ヘブ11 : 31)。ヤコブ2 :25には、行いによって信仰が完全とされた者としてラハブがあげられています。
「わたしは知っていますへブル語では、「わたしは知っていた」、あるいは『わたしは知った』。ここで、ラハブは預言者たちの言葉を用いて、約束がすでに成就していたかのような言い方をしている。彼女の信仰は斥候たちの信仰と同じであった。これこそヨシュアとイスラエルの子らが必要としていた励ましであった」( 『SDA聖書注解』第2巻183ページ)。
質問5
400年以上も昔になされたアモリ人についての預言に照らして考えると、ラハブの信仰はどれほど素晴らしいものですか。創世15:16~21
神はアブラハムに対して、「4代目[または、終生]になって」アモリ人の悪が満ちると預言されました。彼らは400年にわたって堕落と放とうの生活を送ってきました。大部分の者たちが悪に対する感受性を完全に失っていました。しかし、遊女ラハブは聖霊に従ったので、聖霊は彼女の信仰の手をしっかりとつかんでくださいました。
質問6
ラハブは斥候たちにどんな要求をしましたか。彼らは何と答えましたか。ヨシ2:12~14
エリコの住民と王はラハブの行為を死に値する反逆罪とみなしたはずです。ラハブは自分自身の生命ばかりでなく、家族全員の生命をも危険にさらしたのです。
赤いひもの約束(ヨシ2:5―21)
質問7
斥候たちはどのようにしてエリコから逃れましたか。ヨシ2:15~17
考古学者たちは紀元前1400年のヨシュアの時代から古代エリコの城壁の中に家が建てられていたという証拠を発見しています。ラハブの言及している山とは、エリコの北西にそびえている「ジェベル・カランタル」(40日山)のことと思われます。十字軍の兵士たちはそれをイエスが誘惑に会われた山だと考えました。ユダの荒野の果てにあるこの険しい地域には、ほら穴や小峡谷が数多くあって、隠れるには都合のよい場所でした。
質問8
斥候とラハブはさらにどんな三つの条件に合意しましたか。ヨシ2:18~21
質問9
ラハブが窓に結びつけた赤いひもは、何と類似していますか。斥候たちがここで用いている言葉(ヨシ2:12,18~21)を、最初の過越の儀式における小羊の血と比較してください(出エ12:7,13,21~23)。
注解者たちは、「過越との驚くべき類似点」を認めています。「赤いひもを振りかけられた血と、またラハブの家族が家の中にいなければならなかったことを、過越の羊が家族ごとに食べられ、だれも家の外に出てはならなかったこと(出エ12 :21~23)と比較してください」(ドナルド・H・マドビグ「ヨシュア記」『エクスポジターズ聖書注解」第3巻263ページ)。
どちらの話も「しるし」について述べており(ヨシ2 :12、出エA12 : 13)、斥候たちは過越の描写にほぼ平行した言葉を用いています(出エ12:21,22をヨシ2 :19と比較)。過越における身代わりの小羊の「血」は、赤いひものついた家にとどまらなかった者たちの頭の血と対照をなしています。これらのことは、赤いひもが門柱の血に対応していることを示しています。
「ひも」をさすヘブル語はヨシュア記2章では「ひも」としか訳されていませんが、へブル語聖書のほかの箇所(31回)では、この言葉はいつでも「希望」を意味します。語り手は言葉遊びをしているのでしょうか。いずれにしても、他の聖書記者たちはラハブを希望の模範と見ていました。
希望の模範、ラハブ(ヨシ6:17,22―25、マタ1:1,5,6、ヘブ11:31、ヤコ2:25)
質問10
イスラエルがエリコに入った時、ラハブとその家族はどうなりましたか(ヨシ6:17,22~25)。彼らが、すぐにイスラエル人の宿営に入らなかったのはなぜですか。
ラハブは後に(ユダのつかさの一人であった)サルモンと結婚し、ボアズを生みます。こうして、彼女はメシヤの先祖の一人となります(ルツ4 :18~22、歴代上2 :11,12、民数7 :12、マタl:1,5,6参照)。
質問11
後世の聖書記者たちはラハブの生きた信仰をどのようにたたえていますか。ヘブ11:31、ヤコ2:25
フランシス・シェイファーも指摘しているように、ラハブが実際に行ったことを考える時、私たちは彼女に与えられた賞賛を不思議に思わなくなります。「ヤコブの手紙の中では、ラハブはアブラハムに匹敵する唯一の人物である。……アブラハムは信仰を持っていたが、それは実証される必要があった。事実、それは恐ろしい代価によって実証された。すなわち、彼は自発的に神に信頼し、息子をささげた。ラハブもまた威力と形式と効力のある信仰を持っていた。彼女も自分の信仰の価値を実証するために進んで犠牲を払おうとした。
この女、ラハブだけが自分を取り巻く社会全体に対して信仰を持って立った。一時的ではあるが、彼女は見えるものに反して見えないもののために立ち、エリコが崩壊するまで極度の危険に身をさらした」(『ヨシュア記と聖書の歴史』72ページ)。A
質問12
ラハブの経験はどんな意味で私たちの経験と似ていますか。
ある意味で、私たちはみなラハブです。キリストに来る以前の私たちはみな、神の家族の外にあり、堕落した社会の中にある罪人であり、サタンの犠牲者でした。しかし、神はその力強いみ業を私たちに示し、私たちのうちに信仰を目覚めさせてくださいました。キリストにあって、私たちはみな過去と決別し、神の民に加わる選択をしました。赤いひもと同じく、イエスの血は私たちに塗られたしるしです。私たちは今や、神なき世界の中に生きる寄留者であって、さばきの時に完全に救われるのを待っているのです。
斥候の帰還(ヨシ2 :22~24)
質問13
二人の斥候の偵察活動はどんな意味で成功でしたか。彼らはどのようにして帰り、ヨシュアに何と報告しましたか。ヨシ2:22~24
質問14
12人の斥候の働き(民数14)をヨシュア記2章の二人の斥候の働きと比較してください。「斥候の話」のどこが同じで、どこが異なっていますか。
質問15
40年前の12人の斥候のように、二人の斥候がカナンの地から「果物」を持ち帰らなかったのはなぜですか。それとも、彼らはやはりカナンの「果物」を持ち帰ったのでしょうか。
ある意味で、二人の斥候も結局のところ偵察活動によって実を持ち帰ったのです-ラハブとその家族が最高の「実」でした。エレン・ホワイトはラハブとその家族をイスラエルの穀倉に集められた異教の地からの「実」の一つとしてあげています(「国と指導者』上巻337ページ参照)。
神の穀倉にはまだまだ余裕があるエリコの町を完全に滅ぼされたことは残酷なように思われるかもしれませんが、ラハブとその家族を救われたことは神の恵みについて多くのことを教えています。
「イスラエル人は神の命令に厳格に従った(申命20: 16,17)。……カナン人は恩恵期間の限界に達していた。この世のすべての人に与えられるように、神はカナン人に悔い改めのための適切な機会を与えておられた(ヨハl:9,Ⅱペテ3:9)。いつかは必ず、憐れみが神の正義の干渉を受ける。その時、神は正義と憐れみからなるご自分の品性に従って行動される。自らの邪悪な模範が人々を堕落させることのないように、機会を与えられた者たちを滅ぼすことが愛の行為となることがよくある。……エリコの住民も望んでいたならば、ラハブとその家族に訪れた救いにあずかることができたはずである」( 「SDA聖書注解』第2巻198,199ページ)。
神は邪悪な人々を滅ぼされますが、彼らを滅ぼす前に必ず彼らを救おうとされます。ラハブは救いの信仰の性質と力を例示しています。私たちはだれもラハブのような者をメシヤの祖先として選ばないでしょう。
まとめ
二人の斥候の偵察活動によって、必要な情報ばかりでなく、ラハブという「実」が得られました。彼女は遊女でしたが、神の恵みによって救われた、信仰の人でした。私たちも同じ恵みによって神のみ国に入れそうにない人々を救いに導くことができます。
*本記事は、安息日学校ガイド1995年2期『神の安息に入る ヨシュア記』からの抜粋です。