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悪があるのは神がいない証拠?
天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。エフェソ(エペソ)3:15(口語訳)
この世界の時計を巻き戻していったときに、最後に行きつくのは「すべてのものの源」です。聖書はそれを「父なる神」と呼んでいます。そのお方は何かのエネルギーではなく、人格的なお方として登場しているのです。
神がいない証拠として、よくこの世界の「悪」がよく挙げられます。
宗教がこんな事件を引き起こしたとか、こんな悪があるなんて神はいないのだとか、そのような声が聞こえてきます。
しかし、あくまでそれは「宗教」の問題であって、「神」の問題ではありません。
また、もし「悪」がいない証拠として挙げられるなら、「善」は神がいる証拠になるのではないでしょうか。そもそも、神がいるなら悪を許すはずがないという質問は愛の神を前提とした質問です。
こうした質問をもっとシンプルにすると1つ目は「神は愛なのか」。2つ目は「神は愛ならばなぜ悪があるのか」言い換えれば、「神は正義なのか」という質問になります。
この質問について今日、すべては答えられないため、シリーズの中で少しずつ見ていきたいと思います。
「愛の神」と「悪」は両立する
短く答えると、聖書ははっきりと「神は愛である」と言っています。愛には自由意志が必要です。愛を強制することはできません。それゆえに、神と人が愛の関係にあるためには、神と神のルールを拒否することが許される必要があるのです。
つまり「愛の神」と「悪」は両立する概念なのです。では「愛の神」はなぜ愛の神と言われるのでしょうか。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16(口語訳)
父なる神ご自身が「悪」のために痛みを負っておられるゆえに愛の神と言えるのです。
では、父なる神がお与えになった「御子」とは誰なのでしょうか。次回、学びましょう!