人生の指針は何か?
1954年9月、台風15号のため青函連絡船「洞爺丸」が函館沖で沈没し、1155名が死亡した事故がありました。「洞爺丸事件」という史上最大の海難事故でした。この時、洞爺丸に乗り合わせたストーン牧師という宣教師は、自分の救命具を一人の婦人に渡して、自らは海の中の「もくず」と化した、という実話が残っています。
作家三浦綾子さんの処女作「氷点」の中では、「啓造」という医者がこの洞爺丸に乗り合わせています。船が難破し、啓造は海に放り出されてしまいます。そこで彼は死という極限状況に直面させられるのです。その場面を三浦綾子さんは次のように描写しています。
「死に面したいま、地位も医学も何の役にも立たなかった。死に対して啓造は何の心構えもなかった。今まで医師として数多くの死を見てきたはずであった。しかし、それは他人の死であった。自分のこととして見た死ではなかった。いま啓造は全く無力だった。」
かろうじて死を逃れることのできた啓造は、胃けいれんの女に自分の救命具を与えてやった宣教師のことを思うのでした。自分には決してできない行為をやってのけたあの宣教師が生きているようにと願ったのでした。啓造は思います。「あの宣教師が見つめて生きていたのと、自分が見つめて生きてきたものとは、まったく違っているにちがいなかった。おれは汝の敵を愛せよという言葉は知っていた。しかし、人を愛するというのは、スローガンを掲げるだけじゃだめなんだ。あの宣教師は、もっと大事な何かを知っていたんだ。単なる言葉じゃないものを知っていたのだ。言葉だけじゃなく、もっと生命のあるものを知っていたんだ。」
啓造の「あの宣教師はもっと大事な何かを知っていたんだ」という言葉は、私たちに非常に重みのある言葉として迫ってきます。私たちが生きていく上での最高の価値観とは何でしょうか。私たちが人生の岐路にたって重大な選択を迫られる時に、その基準となっているものはいったい何でしょうか。
聖徳太子以来「和をもって尊しとする」日本社会では、何が正しいかよりも、何がふさわしいかが問題となります。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という表現があるように、自分の心の中ではこれは正しくないと思っても、みんながしていれば、特別なにも良心の責めを感じずに生きていけるのです。みんなの動きに身を任せながら生きていくのは、ある意味では楽な生き方です。
しかし、私たちが本当の「自分の人生」を生きていく上で「みんながそうしている」ということは、決して「自分がそうする」という根拠とはなり得ないし、そうなってはならないのです。日本社会のように対人関係という横の関係を重要視する社会は、横軸の社会です。しかし、縦軸がなく横軸しかない人生は、ただ浮き草のように波間を漂ってしまいます。
波間に漂わない、しっかり地に着いた生き方をするためには縦軸が必要です。時代に流されず、時代を超えて生きようとするなら、しっかりした人生の縦軸という錨が必要になってきます。神様は、人生の指針というべき縦軸を私たちに与えて下さっています。それが十戒なのです。
十戒
聖書に出てくる「十戒」は、一般にも良く知られています。日本語では十戒と呼びますが、外国では「デカローグ」と呼んでいます。これは「十の言葉」という意味です。
十戒とは、「人生の道しるべ」、あるいは「人生のルール」とでもいうべきものです。十戒は、決して生活規定、禁止事項を集めたものではありません。私たちが人生の色々な場面に直面した時、いかなる行動をとるべきなのか、その決断の根本的土台になるのが十戒なのです。
十戒は、旧約聖書の出エジプト記20章に書かれています。十戒は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という前置きをもって始まります。十戒は、まず神が罪の奴隷の中にあった私たちを救い出してくださったという事実が大前提になっています。希望のない奴隷状態にあった私たちが、神の救いによって自由な者にされているという神の恵みの福音こそ、十戒全体の基礎なのです。
では、出エジプト記の記述に沿って、十戒を一通り学んでみましょう。
第1条:「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。
この戒めは「神以外のものを神としてはならない」ことを教えています。神以外の何ものかが、私たちの第一の関心事となる時、その何ものかがまさに私たちの神になっています。クリスチャンの生き方は、神を第一とする生き方です。神こそが私たちの人生の至上であり、人生の全ての場面において最優先されるべきお方なのです。この第1条は、単に最初に出てくるので「第1の戒め」なのではありません。この戒めこそが最大の戒めであり、十戒全体を規定し貫いている思想なのです。
マルチン・ルターは、この第1条を「私たちは、全てのものを超えて、神を畏れ、愛し、信頼すべきである」と簡潔に述べました。そして彼は、それに続く第2条以下のそれぞれの戒めの冒頭に「私たちは、神を畏れ愛するがゆえに・・・」と付け加えて、十戒の解説をしました。
宗教改革者カルバンは、人生の主たる目的は「神を知ること」であり「神を神として崇めるために神を知ること」であると述べました。自分中心の生き方、すなわち自分の人生や幸福のために神が存在するかのような生き方ではなく、自分も含めて宇宙全体が、真理である神を第一とする時、宇宙全体の真の完成があるというのです。キリストが「まず神の国と神の義とを求めよ。そうすればこれらのものは全て添えて与えられるであろう」と仰せになった時、この真理を教えられたのでした。
第2条:「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」
この第2条は、偶像を作ったり拝んだりすることを戒めています。十戒が与えられた当時、イスラエルの周辺諸国においては、偶像(彫像祭儀)は一般的な習慣でした。しかし、創造主なる神は自然界を超越しておられる神であり、自然界の被造物をもって神を表現することは不可能です。神は全てを超越されるお方であり、具体的な像では決して表現できないお方なのです。像においては、私たちは聖書の神に出会うことはできません。唯一、神の像は、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14章9節)と仰せられたキリストにおいてのみ具体化されたのです。
第3条:「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」
第3条は、神を神として畏れ敬うこと、そして神に対する軽薄な行動を戒めています。神のみ名を唱える時、神に対する真摯な態度と献身の祈りが私たちに求められているのです。それは、積極的に表現するならば「主の祈り」の冒頭の「み名を崇めさせたまえ」という真剣な祈りになるのです。
キリストは「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7章21節)と仰せられました。神のみ名を口先だけで唱えるのではなく、神のみ旨を実行することが求められています。神のみ名が崇められない状況において唱えられる神のみ名は、みだりに唱えられ乱用されているのです。
第4条:「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
第4条は、神の創造の行為を記念して、第7日目の安息日を神との交わりの日として聖別しています。安息日を尊ぶことによって、天地万物の創造者である神を覚えるのです。人類の堕落以後、さらに安息日は罪の贖いの象徴ともなりました。安息日は、創造主なる神と贖い主なる神を覚える日なのです。この安息日の意味については、さらに別の箇所で深く考察することになります。
第5条:「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」
第1条から第4条までは、「神と人との関係」を論じていたのに対し、第5条以降は「人と人との関係」、すなわち人間世界におけるルールを論じています。この第5条は、まさに移行部にある戒めで、人間世界のルールの最初の戒めです。聖書では、神の愛は親の愛に例えられ、神と人間との関係は親子の関係に例えられています。両親との関係は、誕生後の最初の人間関係であり、家庭は最初の社会です。人は、家庭生活で両親を敬うことを通して、神を敬い、人を愛することを学んでいくのです。
しかし父母を敬うことは、盲目的に両親に追従することではありません。第五の戒めも、十戒全体を規定する第一の戒めのもとにあります。両者が対立する時には「人間に従うよりは神に従うべき」(使徒言行録5章29節)です。使徒パウロが「子たる者よ、主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである」(エペソ6章1節)と述べている通りです。
第6条:「殺してはならない。」
第6条は、侵すベからざる人間の生命の尊厳と神聖について述べています。被造物である人間の生命は、人間に属するものではなく、その付与者なる神に属するものです。被造物である人間は、すべて神のみ前において等しく価値ある存在です。そこから他者を愛し尊重する生き方が生まれてきます。殺すという行為は他者の存在そのものを否定し抹殺することです。
キリストは「『殺すな。殺す者は裁判を受けなければならない』と言われていたことはあなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、誰でも裁判を受けなければならない。兄弟に向かって愚か者と言う者は、議会に引き渡されるであろう」と仰せられました。他者に怒りを発することや他者を罵倒することは、根本的意味において他者の尊厳を傷つけ損なう行為なのです。他者の固有的価値を認めて、その生に対して畏敬の念を持つ者は、他者を尊重し愛する者になっていくのです。
聖書は、自殺を認めていません。人間の命はあくまでも創造主なる神に属するものであり、たとえ自分の生命であっても、人間にはそれを自由にする権利はありません。「殺すな」との神のご命令は、「生きよ、そして生を全うせよ」との積極的な呼びかけでもあるのです。
第7条:「姦淫してはならない。」
聖書は結婚関係を清く保つように教え、夫婦に対して性の純潔と誠実を要求しています。聖書は結婚関係についてこう述べています。「『それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。」(エペソ5章31-33節)
結婚関係がキリストと教会の関係に例えられているように、夫婦関係は相手本位の愛と自己犠牲の上に成り立っている関係なのです。
姦淫の罪は、表面に現れた不倫行為だけを指すのではありません。キリストが「誰でも情欲をいだいて女を見る者は心の中で姦淫を犯したのである」(マタイ5章28節)と仰せられたように、聖書は、姦淫の罪についてもその根本的問題を心の状態として教えているのです。
第8条:「盗んではならない。」
ここでは他人の所有物に対する欲求を戒めています。パウロはこれに関連して「また、悪魔に機会を与えてはいけない。盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」エペソ(4章27-28節)と勧告しています。
現代においては、この戒めは、根本的な意味において単に持ち物だけではなく、他人の時間や賃金、品物を不当な手段(値段)で得ることを含めて禁じていると解釈してもよいでしょう。ルターは、この戒めを「取引が行われて品物や仕事のために金銭のやり取りがなされる全ての場所に及ぶもの」として理解しました。
これはヤコブの「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました」(ヤコブ5章4節)という警告に共通するものがあります。
第9条:「隣人に関して偽証してはならない。」
ここでは、他者に対して真理を重んじ真実を貫く態度が求められています。聖書は「あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互いに肢体なのであるから。」(エペソ4章25節)と述べています。私たち人類全ての者は、お互いにキリストの肢体であり兄弟姉妹なのです。真実を語ることは、他者に対する誠実な態度を貫くことであり、他者を尊重することなのです。
宗教改革者ヤン・フスは「誠実なキリスト者よ、死に至るまで真理を求め、真理に聞き、真理を学び、真理を語り、真理を保持し、真理を語れ」と述べました。聖書の真理を発見した彼は、断固たる決意を持って当時の腐敗した宗教勢力と戦い、真理を撤回すること拒否しました。その結果、彼は真理の殉教者となったのでした。
第10条:「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
ここにおいて、十戒は直接的に人間の内部の「心の思い」を扱っています。略奪や窃盗などは、すべて他者に属するものに対する所有欲求から始まります。他者を愛する者は、他者の家庭や所有物を尊重します。
聖書は、全ての悪の根源を人の心の問題として捉えています。キリストは「悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。」(マタイ15章19-20節)と仰せられました。
カルヴァンは彼の説教中で「『欲してはならない』という命令に私たちが出会うとき、私たちの内側にある全てのものが顕わにされ、自覚させられる。たとえ、私たちが罪であると考えなかったことでも、神は目の前で行われたことのように、裁き咎めるのである」と述べています。このように、この戒めは、外面的なものではなく、私たちの心の奥底に潜んでいる欲望を戒めているのです。
自由の律法
十戒には、人類に対する神のご意志が明らかにされています。この十戒は私たちの歩むべき正しい道を指し示しているからです。しかし、この戒め通りに生きることは、私たちの力では実行不可能なことです。十戒に従う道は、神の恵みと救いの事実があって初めて私たちの現実となりうる道なのです。神の恵みと救いの中に生き続ける時にのみ、私たちに望みがあり、自由があるのです。十戒とは、決して私たちが救われる条件ではなく、神の救いに対する私たちの応答なのです。
十戒は、第4条の「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と第5条の「あなたの父母を敬え」以外は、すべて「……してはならない」という禁止命令に訳されています。しかし、この十戒のヘブライ語の原文は否定詞「ロー」に未来完了形のついた形で、元来の意味は「否定の推量」です。すなわち「……しないであろう」と訳すべきだといえます。これは「……するはずはない」、あるいは「……することはありえない」と言いかえることもできるのです。
例えば、第1条は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」となっていますが、これは「あなたには、わたしをおいてほかに神としないであろう」、あるいは「神とすることはありえない(神とするはずがない)」となります。「殺してはならない」は「殺さないであろう(殺すはずがない)」、「姦淫してはならない」は「姦淫しないであろう(姦淫するはずがない)」なのです。十戒は禁止事項ではなく、神に従う者の必然的な結果としての状態を述べているのです。
イスラエルの民に与えられた十戒の前提は、エジプトでの奴隷状態から神の恩恵によって救い出されたという事実に基づいています。それは、一般的に表現するならば、十戒が与えられている前提は、あくまでも神の愛と救いを体験しているということです。
神学者ロッホマンは、十戒を「自由への道しるべ」、そして「十の大きな自由」と表現しています。私たちは、神の愛と救いを体験するときに、おのずと戒めを守るものに変えられていきます。その意味において、罪に支配されない自由へと導かれていくのです。
詩編記者は律法について、「わたしはあなたの律法をどれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。あなたの戒めはわたしを敵よりも知恵ある者とします。それはとこしえにわたしのものです。」(詩編119編97-98節)と述べています。
十戒の役割
1.罪の状態を指摘する
律法は私たちに罪を指摘します。律法によって、私たちは初めて自分の現実の姿すなわち罪に汚れた自分を知るようになるのです。
「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」(ローマ7章7-13節)
神の律法は、私たちの罪に汚れた無力な状態を示します。
「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7章18-24節)
2.救い主の必要性を示す
「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ3章20-25節)
キリストの十字架は、神の正義を貫き律法(十戒)を確立しました。同時に、罪ののろいを取り去り、キリストを信じる者を律法の有罪宣告から解放しました。律法の前に、死と定められた私たちに対して、すなわち救われる希望のなかった人類に対して、愛なる神は御自ら、キリストを遣わされ、キリストの十字架の犠牲によって救いの道を開いて下さったのでした。十字架において神の愛と義が貫かれたのです。十字架こそ、まさに文字通り、神の正義と愛の交わる所なのです。
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ7章25節-8章3節)
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(1ヨハネ4章9-11節)
「神への愛」と「人への愛」
第一条から四条までは、神に対する私たちのあるべき関係、すなわち神と人との関係を述べています。これを縦軸の関係と言うことができるでしょう。第五条から十条は、私たち人間同士、すなわち、人と人との関係を述べています。これを、横軸の関係と言うことができます。これらは、それぞれ、「神への愛」と「人への愛」と言い変えることができます。
キリストは、十戒を二つに要約して、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12章29-31節)と仰せられました。
キリストは「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられました。本当の意味において自分を愛することができる者のみが、他人を愛することができます。自分自身を受け入れ肯定できる人は、他人をもそのまま肯定し受け入れることができます。自己を受容できて初めて、他人を受容できるのです。逆に、自分が自分であることに不安を持つ者は、他人を受け入れることができず、批判的また攻撃的になります。故に、エーリッヒ・フロムはその古典的名著「愛するということ」の中で「自己自身に対する愛の態度は、他者を愛することのできる人すべてにみられるものである」と述べるのです。
キリストが、「善いサマリア人」のたとえ話をされたのは、この言葉との関連からでした。
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』
そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10章25-37節)
十戒は「神と人を愛する」ことであり、それは究極的には「愛」に集約されると言ってよいでしょう。神を愛する者がどうして、神以外のものを神とすることができるのでしょうか。人を愛する者が、どうして人を殺したり、姦淫したり、また盗んだりできるのでしょうか。
作家の太宰治は、キリストの言われるこの愛と苦闘した人でした。彼は「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスの言う『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』といふ難題一つにかかっていると言ってもいいのである」と書いています。彼はまたこう書くのです。「しかし己を愛するが如く隣人を愛するということは、とてもやりきれるものではないと、この頃つくづく考えてきました。さういふ思想はただ人を自殺にかり立てるだけのものではないでしょうか。」
彼は、キリストの言葉との激しい格闘の末、ついには自殺という破滅への道を歩んでいったのでした。彼の悲劇は、キリストの言われる第一の戒めをおろそかにして、第二の戒めを守ろうと努力したことにありました。
聖書はこう述べています。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(1ヨハネ4章19-21節)
神の戒めの大前提は、まず神の愛が人に注がれているという事実です。私たちは、決して自分の努力で人を愛することなどできないのです。神の愛を受けることなしには、神と人を愛することは不可能です。神の愛が注がれて初めて、私たちは神を愛することができるのであり、そして人を愛する者に造り変えられていくのです。第一の戒めすなわち、神との関係を正しく持つとき、その結果として第二の戒めを守るものに変えられていきます。故にアウグスチヌスは「心に愛をもて。しかして汝の欲することを行なえ」と言うのです。
その意味において、創造主なる神を愛し畏れることは、隣人を愛し尊ぶことになります。私たちがキリストの救いを体験するときに、神の恵みによって新しい義なる生活を送ることができるようにされるのです。
愛は律法を全うします。戒めを守ることは、愛を実行することであり、愛を実行することは、すでに戒めの要求を満たしていることになるのです。キリストの愛のうちにいるならば、私たちの人生は喜びに満ち溢れたものとなり、神と人を愛する者へと自然に変えられていきます。
「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ15章10-12節)
神の愛の象徴である十戒は、神の愛と共に、永遠に続きます。キリストは仰せられました。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」(マタイ5章17-19節)
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