第4課 十字架上で破れた2つの心臓

目次

逃れられない二つのもの

こんなことわざをご存じでしょうか。

「人生で2つのものは必ず向こうからやって来る。それは死と税金だ」

実に当たっていると思いませんか?税金のほうは、払わずにごまかすこともできるかもしれませんが、死をごまかすことは決してできません。

旧約聖書のエゼキエル書には、こう記されています。

「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである」(18章20節)

預言者エゼキエルは、「罪を犯した本人が死ぬ」と単刀直入に述べています。言い換えれば、罪を犯すすべての人間には、必ず死が訪れるという、これは実に悪い知らせなのです。

心臓の上のあざ

私の弟のグレッグは、なかなかユーモアのセンスがあって、若い頃私は彼のジョークでよくやり込められました。あるとき、弟は(アメリカでかつて大流行した)ギャリー・ラーソンという漫画家の作品を私に紹介してくれたのです。それは1コマ漫画で、「ザ・ファー・サイド(TheFarSide)」というタイトルのシリーズものでした。人生のばかげた様子を、牛や鹿など動物の目や口を通して描いたものです。グレッグと私は、カードショップに立ち寄ってはこの「ザ・ファー・サイド」のグリーティング・カードの絵を見て、よく笑いこけていました。

私たちがよく覚えているのは、2匹の鹿が人間のように後脚で立ち上がり、話し合っている絵です。そのうちの1匹(ハルという名前)の鹿の毛深い胸に、大きな円形の的が描かれています。円の輪の中央には牛の目のような赤い点があり、それはちょうど心臓の真上なのです。それを見て、もう1匹の鹿がきついジョークを言います。

「ハル、それはなんとも恐ろしいあざだなぁ。牛の目のような中心点が心臓の真上にあるあざをもって生まれてくるとは、君もよっぽど運が悪い。君は森のすべての猟師を喜ばせているぞ。『ここを狙え!』とね」……。

冒頭の預言者エゼキエルの言葉をこのジョークに置き換えれば、罪を犯す人の心臓の真上にはみな赤い点が記されていて、「死」という名の猟師がこれを確実に狙ってくるのだ、ということです。しかも、罪を犯した人は死ぬかもしれないのではなく、必ず死ぬのです。

しかし、この悪い知らせを打ち消すような良い知らせがあります。罪を犯さなければ死ぬことはない、という良い知らせです。ローマの信徒への手紙には、「罪が支払う報酬は死です」(6章23節)とあります。罪は永遠の死という報酬を支払うわけです。しかし、これを逆転させて考えてみましょう。もし罪を犯さなければ、死という報酬を受け取らなくても済む、ということになります。心臓の上のあざはちっともこわくありません!ただしそれは、私たちが罪を犯さなければの話なのです。

神との関係を断ち切るのは私たち

そこでもう一度、読者のみなさんに質問してみます。心臓の上に不吉なあざを持たない人が、私たちの中にどれだけいるでしょうか?つまり、罪を犯さない人はどれだけいるのでしょうか?この質問は、実はあまりしたくない質問なのです。と言うのも、悪い知らせにもう1度戻ることになってしまうからです。

ローマの信徒への手紙3章には、こう書かれています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(3章23節)。「皆」とは、あらためて確認するまでもなく、例外なく全員ということです。言葉も、文化も、年齢も、性別も、教育も、収入も、血筋も、宗教も一切関係なく、地球上のすべての人が罪を犯したのです。一人残らず私たちには、かわいそうな鹿のハル君のように、心臓の真上に大きな的がついていて、死という名の猟師の餌食になる運命が背負わされているということなのです。

しかし、罪とは一体何なのでしょうか?聖書の中に、実に簡潔な罪の定義が記されています。簡潔ですが、奥深い意味を含んでいる言葉です。その定義とはこうです。

「罪を犯す者は皆、法に背くのです。罪とは、法に背くことです」(ヨハネの手紙13章4節)

「罪とは、法に背くこと」。つまり「不法」ですが、この言葉は、イギリスの歴史家アーノルド・トインビー卿によって文明崩壊の徴候の一つとして用いられた言葉でした(第3話参照)。

その正体は何だったでしょうか?第3話を少し思い返してみたいと思います。

神の偉大な愛の律法、十戒の中心は「関係」でした。十戒は人間のあらゆる関係――人と神との関係、人と人との関係、そして自分自身との関係――を保護し、育てるものです。ですから、法に背くこと、すなわち罪は、関係の破壊を意味することになります。

イザヤ書59章を見てみましょう。

「主の手が短くて救えないのではない。/主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。/むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。/お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ/唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく」(59章1~3節)

ここに、関係の世界における罪のもう一つの姿が描かれています。罪は、神と私たちの関係を断ち切るものです。ただし注意しなければならないのは、私たちが罪を犯したとしても、神は決して私たちを拒み、ご自身を私たちから切り離されたりはしない、ということ。神ではなく罪が、その本来の性質によって、私たちに神を拒ませ、私たちを神から切り離させるのです。

つまり、私たちが罪を犯すとき、神を私たちから引き離すのは私たち自身だということです。電話での神との会話を一方的に切ってしまうのは私たちなのだ、と言ったらわかりやすいでしょうか。

あなたはどこにいるのか?

私たち人間が一方的に関係を断ち切ろうとするとき、神はどうなさるのでしょうか。「やっかい払いができて、せいせいした」と喜ばれるのでしょうか。いいえ、神は決してそんなふうにお喜びになったりしません。ここに、さまざまな悪い知らせに対する良い知らせがあるのです。

神がどうなさるか、お知りになりたいですか?最初の2人の人間、アダムとエバが罪を犯し、自分たちのほうから神を切り離してしまったとき、神がまずどうなさったかを見てください。

「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」(創世記3章8、9節)

アダムとエバは神の律法に背くと、逃げて身を隠しました。しかしそのとき、彼らの創造主なる神は、逃げた彼らを探し求められたのです。エデンの園以来、この地上の長く苦悩に満ちた歴史の中で、私たち人類はずっとこの言葉を聞き続けています。「あなたはどこにいるのか?」という神のお言葉です。

神に背き、神から逃げ去った子らを探し求める神の叫びが、この聖書全体の中でこだましています。どの預言者の訴えを聞いても、どの英雄や悪党の物語を読んでも、それらの行間には、反逆した罪人である私たちをいつも探し求めておられる神の声を聞くことができるのです。

私たちは神の偉大な愛の律法を破りました。アダムとエバと私とあなたとで、律法を破ったのです。そして敵の側に乗り換え、自己を拝むようになりました。そのことが、神を恐るべきジレンマへと追い込んだのでした。神は、ご自身が制定された愛の律法である十戒を廃することなどできません。この律法は神ご自身の愛の品性の表現ですから、それを廃せばご自身を廃すことになってしまいます。では、堕落した地上の子らを滅ぼせばいいのでしょうか。

このような選択も、愛の神にはやはり到底できないことです。神はどのようにして私たちを救い、また同時に、ご自身の品性の表現である律法を維持できるのでしょうか?人間の罪の刑罰はどうしたらいいのでしょうか?罪人の報酬はどう支払われるべきなのでしょうか?要するに、神が律法の神としてご自身に誠実でありながら、同時に愛の神として神の子らに対し、どのように真実であり得るのでしょうか?

愛のジレンマを克服する計画

エデンの園でのあの夕べ、神はこのジレンマに対して決断を表明なさったのです。こうして、人類にとって最悪の知らせが、最良の知らせによって対処されます。人類の緊急事態に対して、神はそのご計画を地上で初めて発表なさいました。

「主なる神は、蛇に向かって言われました。『このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。/お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。/お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。/彼はお前の頭を砕き/お前はかかとを砕く』」(創世記3章14、15節)

神のお言葉の後半を言い換えると、こういういうことです。

「サタンよ。私[神]は、堕落した人間の子供たちとおまえの間に、生まれながらの悪感情、敵意を植えつけよう。それはお前に抵抗する良心であり、人間が決してお前の支配下にあるように創造されたのではないという思いをひらめかせてくれるものだ。敵意、それは、人間が王なる私の子供として生まれてきたのであって、悪魔の奴隷などではないという感覚なのだ。お前はこの地球に悪と反逆の種子を播き続けるだろうが、私は一人の聖なる子孫を送る。それはある日、女の胎内に植えつけられるであろう。そして彼が成長したとき、お前は彼のかかとを砕き、彼を傷つけるであろう。しかし、彼はお前の頭を砕く。彼は、お前の支配を永久に滅ぼすのだ!」

こうして神が語り終えられたとき、創世記3章の物語は、来るべき子孫が必ずしなければならないことの血生臭い暗示を与える最も不可解な一文で終わっているのです。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(21節)

死のない完全な園に「皮の衣」が存在し得るでしょうか?アダムとエバの裸を覆う動物の皮を、神は一体どこでお見つけになるというのでしょうか?この答えは明らかです。人間の裸の恥を包むために、罪のない動物の命が犠牲にされなければならなかったのです。その瞬間、この地球上で最初の死がやって来たのでした。これは、堕落した人類を救うために、やがて神ご自身が血生臭い犠牲を払われるという最初の暗示となるできごとだったのです。

身代わりの受難者はだれ?

創世記3章における神の預言の数千年後に、イザヤ書53章の預言が(紀元前700年頃に)与えられます。この古代の預言は、だれのことを語っているのでしょうか?

「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。/彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。/彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。/わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。/そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。/苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。/屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」(4~7節)

この犠牲の小羊に象徴される受難者は、一体だれなのでしょう?私たちのすべての罪、すべての不法が、彼に負わせられるといいます。全人類の罪を彼は背負わされるのです。この犠牲の小羊、この受難者は、一体だれでしょうか?

新約聖書は、預言者イザヤが指し示したこの受難者について、一片の疑いの影すら残していません。

「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになるお方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(ペトロの手紙12章21~24節)

この受難者こそイエス・キリストであった、というのです。

苦悩に満ちたイエスの叫び声

ここで、キリストが十字架で亡くなられた恐るべき瞬間を見てみましょう。その様子は、4つの福音書に記録されていますが、最も劇的に描写されているマルコによる福音書の記事を読みます。これは詩人のぺンや雄弁家の弁舌によって美しく飾られるべきようなものではありません。キリストの十字架の物語は、美化することなくストレートに読まなければならないものです。

「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。……そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』……昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マルコによる福音書15章25、29~34節)

私はこれまでに人間の叫び声を何度か聞きました。苦痛のために病室でうめき叫ぶ声、子供たちの泣き叫ぶ声。「わが神よ!」という叫び声も聞いたことがあります。それは航空機事故でのものです。事故のあとで回収されるブラック・ボックスには、操縦室と航空管制室との交信記録が残されていますが、しばしばパイロットの最後の言葉は「神様!」という叫び声なのです。死を前にして苦悩のうちに叫ぶ「神様、神様」という声。しかしこの叫びさえ、イエスが十字架上で発せられた叫びとは、比較になりません。これまでの生涯の中で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、これほどむき出しの恐怖の叫び声を私は聞いたことがないのです。

私の手元に『米国医学協会ジャーナル』が一冊あります。これは、私の友人の医師が「ドワイト、この雑誌の特集記事はおもしろいと思うよ」というメモと一緒に送ってくれたものです。確かに興味深い記事でした。表紙には、ローマの兵士たちに囲まれたイエスの絵が描かれていて、中の記事には「イエス・キリストの肉体的死に関して」という題がつけられていました。

記事は3人の共著で、1人は医師、1人は牧師、もう1人は解剖学に強い画家。キリストの生涯と死に至る最後の24時間を綿密に研究して書かれた論文です。生理学的に見たキリストの死の原因については、このような結論が記されています。

「十字架刑による直接の死因は複合的で、それぞれのケースによって幾分違いがあるが、主要な2つの原因は、血液量減少性ショックと極度の体力消耗による窒息であろう。その他の要因として考えられることは、脱水、ストレス性不整脈、心膜からの滲出液の急速な蓄積による心不全などである。イエスの直接の死因は、致命的な心臓の不整脈であったかもしれない」

この医学論文は、十分な研究に基づいて書かれたものでしょうが、福音書の記録は、イエス・キリストの死が生理学的、解剖学的できごと以上のものであったことを明らかに伝えているのです。十字架から聞こえてきた恐怖の苦悩に満ちたイエスの叫び声は、決して黙らせることができないようなものでした。イエスの心に、絶望的な恐るべき何かが起こっていたのです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

苦悩と絶望の理由

神から見捨てられたというこの恐怖は、あなたや私を含むすべての罪人の、法に背く反逆に対して、神ご自身が血生臭い値を支払われた、という測り知れない愛を物語っているのです。彼はこれらすべてを、ただ私たちの救いのためにしてくださったのです。

「罪は法に背くこと」。これはすでに学びました。「私たちはみな罪を犯し、法に背いた」。私たちはこれも認めています。「罪の支払う報酬は死、永遠の死である」。聖書は確かにそう述べています。これらのことから言えるのは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びは、イエスが、罪の最終的結果、つまり神から永遠に切り離されてしまうことを強く自覚され、その恐怖から沸き上がる苦悩を経験なさった、ということなのです。

十字架上のイエスの心の中では、父なる神との別離は徹底的であり、永遠のものでした。その苦しみが、彼の唇から「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫び声をほとばしり出させたのです。

十字架の上で2つの心臓が破れた

キリストの生涯を描いた『各時代の希望』という古典には、次のように記されています。

「一生の間、キリストは、天父のあわれみとゆるしの愛についての良い知らせを堕落した世に宣伝してこられた。罪人のかしらの救いがキリストのテーマであった。しかしいま、[十字架上で]自ら負っておられる不義の恐るべき重さで、キリストは、天父のやわらぎのみ顔を見ることがおできにならない。この最高の苦悩の時に神のみ顔が見えなくなったために、救い主の心は、人にはとうていわからない悲しみに刺し通された。……キリストは、罪が神にとって不快なものであるため、ご自分と神との間が永久に隔離されるのではないかと心配された」(E・G・ホワイト『各時代の希望』下巻)

イエスは、罪のために生じた巨大な負債を支払うことを自ら選ばれたために、父なる神から永久に切り離されるものと覚悟して、十字架におかかりになったのでした。しかし、イエスだけがこの世の罪の値を支払っておられたのではなかったのです。

「[父なる]神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネによる福音書3章16節)のです。カルバリの丘の十字架から発せられた赤裸々な叫びの中に、2つの心臓が破れる音、血生臭い神秘の音が聞こえるのです!

偉大なドイツの思想家ユルゲン・モルトマンは、この深遠な真理を次のように描写しています。「御子は死の苦しみに会われたが、天父は御子の死の苦しみに会われた。ここにおける天父の悲嘆は、御子の死と同じほど重要である。天父を失った御子の悲しみは御子を失った天父の悲しみと同じである」(『十字架につけられた神』)

これが、コリントの信徒への手紙2に書かれている輝かしい真理なのです。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(5章19節)

英語でならわずか4語にすぎない「神はキリストによって」(GodwasinChrist)という言葉の中に、神の何と感動的なお姿が描かれていることでしょうか。一本の十字架の上で、父なる神と子なるキリストの2つの心臓が破られたことを、決して忘れないでいただきたいと思います。み子のとりなしによって、かろうじてなだめられているような怒り狂う父なる神の姿は、聖書のどこを探してもないのです。それどころか、父と子のお姿は、いつも全く同じなのです!

「神はキリストによって」何をなさったのでしょうか。「世を御自分と和解させ」られたのです。わかり易く言い直せば、神はキリストによって、神から逃げていた子らを大きく開いたご自分の腕の中で抱擁しようと熱心に求められた、ということです。

神はキリストによって、逃げている私たちを追い求め、反逆の子らを永遠の友情に引き戻してくださったのです。そのために、神はキリストによって、この地上においでになり、ご自分の子らが破ってしまった愛の律法に対する違反の刑罰を自ら受けるため、ご自分の命をすすんで捧げられたのです。神はキリストによって、永遠の死という暗闇へ降りて来られたのでした。

命をかけた少女の決心

しかし、読者のみなさんはきっとおっしゃるでしょう。「ちょっと待ってください。イエスは罪の報酬である永遠の死を受けなかったのですよね。そして、彼の最期の言葉は、『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』ではなかったのですか。それなのにどうして、イエスは私たちの罪のために永遠の死という刑罰を受けられた、と結論することができるのですか」と。

これはもっともな質問です。そこでそれにお答えするために、私が子供の頃に聞いた一つのお話をしたいと思います。

1人の少年が重い病気になりました。主治医は、少年の特殊な血液と適合する同じ血液がなければ死んでしまう、と言いました。そこで家族全員の血液検査を行ったところ、少年の姉の血液だけが遺伝子的に適合していることがわかりました。そこで少年の命を救うために彼女の骨髄が必要だということになり、医師と両親は、この小さな姉に弟の緊急事態を説明したのです。とても重い病気の弟のために、彼女の骨髄の一部を分けてくれるかどうか、尋ねたのでした。

彼女はすぐには返事をしませんでした。思いがけない重大な話に、彼女はどうしていいかわからなかったのです。しかし、しばらくすると彼女は心を決め、彼らに向かって「うん」とうなずきました。弟のために自分の骨髄をあげることにしたのです。

そこで彼女を病室に運び、専門の医師が彼女の骨髄の一部を抽出する準備を始めました。医師は彼女に、骨髄を取ることでどこに痛みが来るかといったことを注意深く説明しました。しかし彼女は、その価値ある目的のことだけを考え、勇敢にもうなずくだけでした。

処置が終わり、大切な骨髄を取られた少女は、病院から待っていた家族のもとへ連れて来られました。車イスで運ばれていた彼女は、そのとき、父親の顔を見上げながら、目に涙を浮かべて震える声で次のように言ったのです。

「お父さん、私、いつ死ぬの?」

父親は、娘が何のことを言っているのか、すぐにはわかりませんでした。が、次の瞬間、彼の心に稲光のように一つの考えがひらめいたのです。彼女は自分の骨髄を分けてあげると、しばらくして自分は死んでしまう、と思っていたのです。医師や両親の説明のあとで彼女が「はい」と同意したとき、それは「はい。私は弟のために命をあげます」ということを意味していたのでした。

罪と救いが要約されたもの――十字架

最後に、読者のみなさんに質問をさせてください。この少女は死んだのでしょうか?それとも死ななかったのでしょうか?私は、確かに彼女は死んだ、と思うのです。それは肉体的な死ではありませんが、精神的に彼女は死んだのです。なぜなら、彼女は心の中で、弟を救うために自分の命を与える、と決心したからです。

私にはこの小さなお話が、神の物語、つまりあの十字架の上で父なる神から見捨てられた子なる神の物語とだぶって見えるのです。そして、少女の「はい」という言葉の中に、「全人類を救うため、私は永遠に死ぬのだ」というキリストの決意が聞こえてくるのです。ですから、私たちの罪と神の救いがあの十字架に要約されている、と言えるでしょう。ご自身を愛する以上に神は私たちを愛しておられるという深い真理が、十字架であらわされたのでした。

私たちが父なる神に赦していただけるように、イエスは私たちの刑罰をお受けになったのです。私たちがイエスの命を受け取れるように、イエスは私たちの死を苦しまれたのです。私たちがイエスの救いを得られるように、イエスは私たちの罪を担われたのです。言い方を換えれば、神はキリストによって、私たちが神の良い知らせを受けられるように、私たちの悪い知らせをお受けになった、ということなのです。そしてこれこそ、私たちが聞くことのできる最も良い知らせなのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)

これほど良い知らせがほかにあるでしょうか。私たちをこんなに深く愛してくださった神に感謝をささげようではありませんか。神に向かって高く手を上げ、一緒に祈ろうではありませんか。

「神様、イエス・キリストによるあなたの友情の贈り物を心から感謝します。私は感謝しつつ、あなたの贈り物を受け入れます!」

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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