中心思想
神の民とその指導者が、たとえどんな危険に遭おうとも、礼拝、服従、信頼、奉仕において喜んで心を一つにする時、神はご自分の民に勝利をお与えになります。これを拒む者たちは、勝利の祝福の分け前を失うことになります。
教会のすべての霊的競技者は重要
その地区最小の中学校が陸上競技大会での優勝をねらっています。そのためには生徒の側における献身、努力が必要です。走り、跳び、投げる能力のあるすべての生徒が大会のために何か月も前から練習します。
いよいよ大会の日です。筋肉が緊張します。汗が流れます。応援のため声がかれます。その小さな中学校が優勝します!
様々な場面で全的参加が必要とされます。スポーツのチームが勝つためには全員必要とします。教会はすべての会員を必要とします。
教会の伝道活動においても、全員の参加と協力が成否の鍵を握っています。デボラとバラクの時代に、間に合わせのイスラエル軍がヤビンとシセラに率いられた強力なカナン軍を打ち破った時もそうでした。
I.デボラとバラク(士師記4章1節〜10節)
イスラエル人の背信はさらに悪化し(士師2:19)、その刑罰はさらにひどくなっていきました。彼らは8年間、クシャン.リシュアタイムに仕え(士師3:8)、18年間、エグロンに服従していましたが(14節)、その一方で20年間、北部カナンの王ヤビンによって苦しめられていました(士師4:3)。敵は三方から、すなわちメソポタミア(カナンの北東)、モアブ(カナンの南東)、そしてカナンのすぐ北から本拠地に迫っていました。
オトニエルとエフドは明らかに神によって直接召されましたが(士師3:10、15)、バラクは女預言者デボラによって召されました(4:4〜7)。彼女に与えられた預言の賜物のゆえに、イスラエル人は法的な問題を彼女の裁きにゆだねました(4、5節)。(レビ24:13、14、民数36:5比較)
ほかに神からの特別な霊感を受けた女性を聖書からあげてください。
出エ15:20、21
列王下22:12〜20
ルカ2:36
使徒21:9
バラクはデボラの預言の賜物を受け入れ、神が自分を用いてイスラエルを救われると信じました(ヘブ11:32、33)。しかし、彼はデボラが一緒に来るようにと願いました(士師4:8)。女性に対して危険な戦場についてくるように要求することは、きわめて異例なことでした。さらに驚くべきことに、彼女は同行することに同意しています(9節)。神の御言葉に対する絶対的な信頼から出た彼女の勇気には驚かされます。
公認された指導者デボラ(士師4:4)は行動を開始しました。彼女の存在は兵士たちに神の勝利の約束が確実であるという確信を与えるのでした。彼女は人々に行けと言う所には自分もついて行ったことでしょう。さらに、女が戦いに行ったとなれば、戦いに行かなかった身体強健な男たちは臆病者になるのでした。
Ⅱ.天幕の中で殺された将軍(土師記4章11節〜22節)
バラクがデボラに一緒に来てくれるように頼んだ時、デポラは言いました。「わたしも一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです」(士師4:9)。デボラは自分がシセラに勝つものとして語っています。
もう一人、女性が登場します。その名をヤエルと言い、天幕生活者であり、モーセとのつながりのゆえ、イスラエル人と親戚関係にあったケニ人(カイン人)です(士師4:11、17)。大部分のケニ人は南部にとどまっていましたが(士師1:16)、ヤエルの一族は北部に移住し、ヤビンと友好的な関係にありました(士師4:17)。
強力なシセラの鉄の戦車と軍勢はバラクの軍勢をもって主によって滅ぼされます。シセラは傷つき、疲れ果て、やっとのことでケニ人の天幕に隠れ場と安息を見いだします。ヤエルは好意的な態度で彼を自分の天幕に迎え入れ、そこに隠します(18節)。彼女はもてなすふりをして、彼に水の代わりにミルクを与えます(19節)。シセラが眠ってしまうと、ヤエルはイスラエル人を助けるために行動します。彼女の真の忠誠はイスラエル人と主のためのものでした。彼女はバラクが来てシセラを片付けるのを待つこともできましたが(22 節)、勇敢にも自分で将軍を片付けてしまいます(21節)。
イスラエル人のための行動と功績という面から、ヤエルの果たした役割(士師4:17〜22)とエフドの果たした役割(3:15 〜25)とを比較してください。
エフドは一人でエグロンを暗殺し、イスラエル人をモアブ人に勝利させましたが(士師3:15〜30)、神はデボラ、バラク、ヤエルの連携によってヤビンを滅ぼされました。ヤエルがセシルに対して果たした役割と同じでした。エフドもヤエルも共に、敵を滅ぼすようにという神の命令に従って行動しました。彼らの行為は殺人ではなく、恩恵期間の終了した者たちに関して神が命令された懲罰的行為、死刑でした(士師5:24〜27、使徒5:1〜11、ヘブ10:26〜31参照)。
Ⅲ.勝利の歌(士師記4章23節〜5章31節)
デボラという名は「蜂」を意味し、バラクは「稲妻」を意味します。彼らの軍勢は稲妻のように打ち、蜂のように刺しました。最大の戦闘の後も、ヤビン王は古代パレスチナの最大の町の一つであったハツォル(ハゾル)で生きていました(士師4:2)。しかし、イスラエル人はついには彼も滅ぼします(24節)。
最後の戦いが終わると(「その日」、土師5:1-4:14、23比較)、デボラとバラクは勝利の歌、神を賛美する国歌を歌います(士師5章)。
デボラとバラクの歌(士師5章)の主題は何ですか。
へプライ語の歌は多くの古い詩に特有の特徴や用語を含んでいるので、これは聖書の中でも最も翻訳が困難な部分に数えられています。それでも、この詩は明らかに先行する思想と同じ思想、つまり全的に神に協力し、神の力に信頼する人間によって、神が救いを達成されるということを強調しています。士師記4:14の思想と比較してください。「立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先立って出ていかれたではありませんか」
この歌は、神がモーセの時代にカナンへの旅においてイスラエル人と共にいてくださったという回想の言葉をもって始まっています(士師5:2〜5-申命33:1、2比較)。次に、戦争前のイスラエルの状況について描写し(士師5:6〜8)、戦争への召集と勝利について述べ(9〜13節)、召集に応じた部族と応じなかった部族を列挙しています(14〜18節)。この回想の言葉はまた、戦いそのものを生々しく描写し(19〜22節)、助けが必要だった時に助けに来なかったメロズの住民をのろい(23節)、シセラの死を描写しています(24〜31節)。
皮肉にも、カナンの最も賢い女官たちであっても、シセラが勝利ゆえに遅れていると想像しています。彼女たちの「知恵」が全くに立たなかったのです。それはイスラエルの神を考慮に入れなったからです。
Ⅳ.進んで主の助けを求める(士帥記5章 2、9、13~18、23節)
デボラとバラクの歌は、自発的に戦いに参加したイスラエル人のゆえに主を賛美しています(士師5:2、9)。自発的に神の働きに貢献することにはどんな力が伴いますか。自発性力了重要なのはなぜですか。
出エ32:26〜29
出エ35:4〜9、21〜29、36:2〜7
歴代上29:5〜9、14〜18
ネヘ11:1、2
Ⅱコリ9:6〜15
弟子たちを宣教といやしのためにつかわされた時、イエスは次のように言われました。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタ10:8)。神からただで受けたことを認める時、私たちは神の働きのためにただで与えるようになります。神はキリストとキリストの犠牲を通して私たちに賜物として救いを与えてくださいますが(ロマ3:24、テト3:4〜7)、それは私たちを愛しておられるからです(ヨハ3:16)。もし神に対する感謝と愛をもって応答するなら、私たちは人々の救いという神の目的のために自分自身を喜んでささげるようになります。神は真心から献身した人々の奉仕を通して大いなる働きを達成されます。士師記に記されているカレブ、オトニエルといった勇士たちの物語がそのことを示しています。
多くのイスラエル人が生命の危険を顧みずに(士師5:18)、バラクに従って戦いに参加しました18節)。しかし、一部の役目を果たしませんでした(15~17節)。特に恐るべき呪いを受けたのがメロズの町の住民でした(2 3 節) 。
「退却するシセラの軍勢の進路にいたメロズのイスラエル住民は、いかなる形においても援助することを拒んだ。これらの人々の助けがあれば、追撃するイスラエル人はおそらく、いかなるカナン人も、たとえシセラであっても、戦場から逃れることを防ぐ”ことができたはずである」( ISDA聖書注解』第2巻336ページ)。
Ⅴ.主の勝利を語り告げる(士師記5章11節 )
デボラとバラクはその歌の中で、主がご自分の民のために獲得された主の勝利を語り告げるように言っています(士師5:11)。
士師記5章を、聖書に記された他の救いの歌と比較してください(出エ15:1〜21、詩107編、イザ12章、黙示15:3、4)。このように勝利を祝うことにはどんな効果がありますか。
デボラとバラクの歌は、イスラエル人がカナンへ旅をした時、神が共におられたことをまず述べています(士師5:2〜5)。ヤビン王とシセラからの解放について語るそれ以降の部分も、神がデボラとバラクの時代にも再びご自分の民と共におられたことを明らかにしています。神が幾度もご自分が信頼できるお方であることを証明しておられたので、イスラエル人は現在においても将来においても完全に神に信頼することができました。
「主が私たちを導かれた方法と私たちの過去の歴史における主の教えとを忘れない限り、私たちは将来に対して恐れることは何もない」(『エレン・G・ホワイト略伝』196ページ)。
ファラオ(パロ)、ヤビン、シセラによる圧迫も、神がアダムとエバに与えられた主権を偽りによって奪取したサタンに対する屈服に比べれば取るに足りないものです(創世3:1〜24)。しかし、信じ難いほどの自己犠牲の代価によって、主はご自分を信じるすべての者をサタンの力から解放し、彼らをご自分の保護の下にある御国の民とされました。
十字架にかかる直前に、イエスは言われました。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:31、32)。イエスは最高の士師であり救助者です。彼は人間の代わりに罪人として死ぬことによって、人間を完全にサタンを追放し、それによってご自分に従う者たちを救われました。キリストはその再臨において、ご自分の血をもって獲得された権利を行使して世を譲り受けます(黙示19:11〜20:3)。
まとめ
イスラエル人はデボラとバラクの下で勝利しました。それは優勢な勢力から自分たちを解放してくれる神の力に信頼したからです。彼らの信仰は行為によって表されました。信仰から出る行いがなければ、私たちの信仰は死んだものです(ヤコ2:26)。
*本記事は、アンドリュース大学旧約聖書学科、旧約聖書・古代中近東言語学教授のロイ・E・ゲイン(英Roy E. Gane)著、1996年第1期安息日学校教課『堕落と救いー士師記』からの抜粋です。