【士師記】非黄金律【14章、15章解説】#10

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中心思想

サムソンの生涯は模範からほど遠いものでしたが、神は人間の行動と状況を支配し、御心を行い、ご自分の民を救い出されました。

仕返し

「お前が先に殴ったんだ」。「いいや、お前の方が先に殴ったんじゃないか」。よくあることです。根底にある考えは仕返しとして殴ったのなら正当化されるということです。この論法は子供の間だけではなく、大人や国家の間でも通用しています。相手の挑発に応じたのなら、軍事的攻撃や戦争も「正しい」というわけです。もちろん、相手方も自分たちが挑発を受けたと考えています。こうして生じた敵意の循環が何年も、いや何百年も続き、計り知れない苦しみをもたらすのです。

イエスは言われました。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタ5:39 ——44節比較)。愛とゆるしは憎しみによって生じた敵意の循環を断ち切ります。

サムソンはなぜ、もう一方のほおをもペリシテ人に向けなかったのでしょうか。それは、特別な状況があったからです。主はサムソンに、ご自分の民の敵に対して主の裁きを執行するよう命じられたのでした。これらの敵がその不義の杯を満たしていたので、主は彼らに報復されたのです。

Ⅰ.摂理による挑発(士師記14章1節〜4節)

「サムソンはテイムナに下って行ったが、そのティムナで一人の女、ペリシテ人の娘に目をひかれた」(士師14:1)。こうして、問題が起こります。エバも同じような経験をしています。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け」(創世3:6)。エバは自分の見たものを好み、自分の感覚に従うことによって、愚かな決定をしました。サムソンの両親は愚かな決定に反対しましたが、無駄でした。

サムソンの両親はどんな理由に基づいてサムソンに再考を促しましたか。

士師14:3-出エ34:16、申命7:3比較

偶像礼拝に陥る危険があるために、イスラエル人はカナンの偶像礼拝者たちとの交婚を明白に禁じられていました(申命7:3、4)。この命令がイスラエルに与えられる以前から、アブラハムとイサクはカナンの住民から妻をめとるべきでないことを認めていました(創世24:3-27:46〜28:5比較)。

神の命令、族長たちの模範、両親の反対があったにもかかわらず、サムソンはペリシテ人の娘を望みました。彼は聖なる人物として、生涯を神に捧げることになっていました。それだけに、彼には神のお認めになる妻を迎える責任がありました(レビ21:7比較、祭司の結婚を規定している)。

士師記14:4の言葉は何を意味していますか。「父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった」。

主はサムソンに対して、イスラエル人でない女をめとることに関してご自分がお与えになった戒めを破るように望まれたのでしょうか。この問いに答える前に、別の質問をしてみましょう。主はヨセフの兄弟たちがヨセフを奴隷として売ることを望まれたのでしょうか(創世37:25〜28)。ヨセフは後日、この出来事を兄弟たちに次のように説明しています。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(創世45:5—50:20比較)。このように、神は人間の過ちでさえご自分の目的を達成するためにお用いになるのです(ロマ8:28比較)。

Ⅱ.問題だらけの結婚(士師記14章5節~20節)

両親の反対にもかかわらず、サムソンはペリシテ人の娘と結婚すると言い張ります(士師14:3)。そこで両親はサムソンと一緒にティムナ(テムナ)に行きます(5節)。たぶん、結婚式の用意をするためだったのでしょう。途中、どこかで一人になった時に、一頭の獅子が彼に襲いかかりました。

サムソンが素手で獅子を引き裂くことができるように、主の霊がサムソンの上サムソンは獅子の手からではなく、ペリシテ人の手からイスラエルを救うのではなかったのでしょうか。

次の答えの中から最も適当なものを選んでください。

1.もしサムソンが主の霊の力によって獅子を殺していなかったなら、彼は獅子に殺され、だれひとり救うことができなかったでしょう。

2.人間を恐れることがないように、主はサムソンに自分の力を悟らせてくださいました。

3.このようにして、主はサムソンのなぞのための状況を整えられました(14節)。サムソンとペリシテ人との間に争いを引き起こすことによって主の目的を達成するためでした(15〜20節—4節比較「主がペリシテ人に手がかりを求めておられる」)。

4.サムソンはなぞの意味を自分の妻に明かした時(17節)、その背後にある状況をいくらか話し、妻もそのことをペリシテ人に話していたとも考えられます。そうだとすれば、サムソンがアシュケロン(アシケロン)で30人を殺した後も(19節)、ペリシテ人がサムソンを捕らえようとしなかったのも当然なことです。このように、サムソンが獅子に対して行った恐るべき行為は、ペリシテ人を恐れさせたという点で神の目的を遂行しました。11節は、ペリシテ人がなぞについて知る前から、サムソンの容姿に恐れをなしていたことを暗示しています。なぜなら、彼らが「30人の客を連れて来てサムソンと同席させ」ていたからです。たぶん、サムソンに圧力をかけるためだったでしょう。

5.別の答え

6.上の答えすべて

この物語(士師14:5〜20)はサムソン、彼の妻(16、17 節)、ペリシテ人(15節)の性格についてどんなことを明らかにしていますか。

Ⅲ.恨みに満ちた「士師」(士師記15章1節~8節)

サムソン夫妻は苦難の道を歩み始めました。サムソンの妻は、非情で残忍な同族の者たちが、自分と自分の父の家を焼き払うと脅していることを夫に打ち明けず、かえって夫の秘密を明かすことによって夫を裏切りました(士師14:15〜17)。皮肉にも、彼女は自分が逃れようとした災いに陥って一生を終えます。

サムソンの妻の死はどんな状況の連鎖によるものでしたか。

士師15:5、6

一つの出来事は別の出来事を引き起こします。個人の性格に従ってなされた選択が、一連の「段階的結果」となって現れるからです。獅子を殺し、蜂蜜を食べたことによって、強くて賢明なサムソンはなぞを思いつき、ペリシテ人にかけをさせます。ペリシテ人はなぞを解いて、かけに勝つために、サムソンの妻を脅して夫を裏切らせます。そのことがサムソンを怒らせ、サムソンは妻を捨すてます。サムソンが永久に妻を捨てたと考えた妻の父親は、娘をサムソンの友に嫁がせます。怒りが和らぐと、サムソンは妻を訪ね、妻の部屋に入ろうとします。しかし、彼女はすでに別の人の妻とないたので、父親はそれを許すことができませんでした。それでサムソンはペリシテ人の麦畑に火を放つことによって報復します。ペリシテ人はサムソンの義父がサムソンを怒らせたと責め、この義父を、娘つまりサムソンの(先)妻と共に焼き殺します。

妻と妻の父に対して怒っていたサムソンが、二人を焼き殺したペリシテ人に仕返しをしようとしたのはなぜですか。

士師15:7、8

次の答えの中で最も適当なものはどれですか。

1.サムソンは彼らの残忍な行為に怒っていました。

2.サムソンは初めからペリシテ人を憎んでおり、どんな口実を用いてでもいいから彼らに損害を与えようとしていました。

3.サムソンはなおも、かつて自分が愛した女に対していくぶん忠誠心を持っていたようです。

4.別の答え

5.上の答えすべて

Ⅳ.報復に対する報復(士師記15章7節~15節)

サムソンは妻の死に報復するために、妻を焼き殺したと、思われるペリシテ人の一団を打ち殺します。「サムソンは……彼らを徹底的に打ちのめし」、つまり完全に滅ぼしました(士師15:7、8)。ペリシテ人は直接サムソンに対して報復しませんでした。たぶんサムソンを恐れていたためでしょう。彼らはもはやサムソンが気ままに振る舞うことに耐えられなくなっていました。そこで、サムソンは捕らえられることのないように人里離れた所に住みました。

ペリシテ人もサムソンもどんな原則に従って行動していましたか。

士師15:10、11

どちらの側も、相手からされたことを相手にしようとしていました。この報復の原則は、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタ7:12)というイエスの黄金律とは対照的に、いわば「非黄金律」とも言えるものです。

ユダの人々はどのようにしてサムソンを助けましたか。サムソンはどのようにして神に対する信仰を表しましたか。

士師15:12〜15

サムソンの仲間である3000人のイスラエル人は、サムソンを助けるつもりではありませんでした。もし彼らがサムソンと共に戦っていたなら、どんな救いがもたらされていたかわかりません。しかし、彼らの恐怖心は神に対する信仰にまさっていました。それにもかかわらず、臆病なユダの人々はペリシテ人を驚かすような状況を作り出すことによって、知らずにサムソンを助けたのでした。サムソンが自分たちの手中に下ったと考えたペリシテ人は彼に飛びかかりますが、主の霊がサムソンに降り、彼はペリシテ人を皆殺しにします。

サムソンは自ら進んで捕らえられましたが、このことは彼が主の霊によって与えられる力を心から確信していたことを示しています。彼の信仰の勇者でした(へブル11:32)。

サムソンは筋骨たくましい体をしていたにちがいありません。しかし、彼は柔軟性がなかったわけではありません。彼は獅子を殺し(士師14:6)、300匹のジャッカル(きつね)を捕らえ(15 : 4)、敵の軍勢と格闘する(15:15)だけの敏捷性も備えていました。サムソンの体力は超人的でした。彼のうちには神の霊が働いていたので、無敵でした。「士師」時代の初期には、1万人の勇者が進んでバラクに従いましたが(士師4:10)、サムソンは一人で戦わなければなりませんでした。これほど勇敢な人々が減っていたのも、イスラエル人の霊的堕落のためでした。

Ⅴ.奇跡の水(士師記15章16節〜19節)

サムソンは1 0 0 0 人のペリシテ人を打ち殺した後で、デボラとバラクのように、詩をもって勝利を祝いました(士師15:16-士師5 章比較)。彼の詩は短いものですが、先のなぞと同じく巧みにできています(士師14:14参照)。この詩の中の「ろば」と「山」はヘブライ語では同じような響きを持っていて、一種の語呂合わせになっています-ビルキ・ハッチャモール、チャモール・チャモラタイム(ろばのあご骨で、ひと山、ふた山)。

サムソンはどんな苦境に陥りますか。

士師15:18

ろばのあご骨で1000人を殺すこと(士師15:15)は、サムソンといえども骨の折れる仕事でした。彼は勝利し、詩を作った後で、水のない熱い土地で脱水状態に陥り、本当に参ってしまいます。

イスラエル人が紅海においてファラオ(パロ)なら解放された後の状況と比較してください(出エ14:21〜31)。彼らは歌をもって勝利を祝った後(出エ15:1〜21)、荒れ野で渇水状態に陥りました(22節)。

サムソンの祈り(士師15:18)は、彼が神に信頼していたことに関してどんなことを教えていますか。

主はサムソンに超人的な力をお与えになりましたが、彼を疲労と渇きからはお守りになりませんでした。サムソンは勝利しましたが、神の助けがなければ、その場で死んでいたことでしょう。彼は心から天の父なる神に信頼していました。サムソンにとって、これは理解すべき重要な問題でした。

イエスは天の父なる神に信頼することの大切さを教えられました。イエスは聖霊によって荒れ野に導かれ、40日の断食の後に空腹になられました(マタ4:1、2)。そこへサタンがやってきて、イエスが肉体的必要を父なる神に依存していることを否定するように誘惑します(3、4節)。敵が敗北して立ち去ると、御使いたちが来て、弱り果てたイエスに仕えます(マタ4:11)。

この勝利の後に御使いたちがイエスに仕えたのと同じように、また神が荒れ野のイスラエル人に水を与え(出エ15:25)、岩から水を出させられたのと同じように(出エ17:6、民数20:10、11)、神はサムソンの祈りに答えて、彼に水をお与えになりました(士師15 : 19)。

まとめ

サムソンは主のために孤軍奮闘しました。神は失敗の多いサムソンを有効に用いるために、一連の事件によってサムソンとペリシテ人を互いに反目させられました。決定的な時に、主の霊がサムソンに臨み、ペリシテ人を大いに苦しめます。私たちもサムソンのように神の力に信頼すべきです。神に対する完全な信頼によってのみ、私たちは与えられた使命を成し遂げることができます。

*本記事は、アンドリュース大学旧約聖書学科、旧約聖書・古代中近東言語学教授のロイ・E・ゲイン(英Roy E. Gane)著、1996年第1期安息日学校教課『堕落と救いー士師記』からの抜粋です。

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