あふれるばかりの神の愛
ダビデの生涯は私たちに大切な教訓を与えてくれます。それは,私たちの人生がいかに悩みに満ちていようとも,神の計画からいかに遠く離れていようとも,またいかに厳しい状況におかれていようとも,神の愛とあわれみは私たちの罪をはるかに超越しているということです。神の救いは私たちの必要を満たして余りあるものです。
ダビデの治世の終わり サムエル記の研究もいよいよ最後になりましたが,今週は,ダビデの治世の終わりに起きた出来事のいくつかについて学んでみましょう。サムエル記下の最後の数章は,年代的に主婆な記事と合致しない雑多な出来事からなっているように思われます。それらはダビデの生涯の後年に起きたものと考えられます。
聖書には残忍で血なまぐさい出来事もいくつか記録されていますが,それらは決して神の品性を反映したものではありません。見せかけの神の子らの行動は神の意思と意図を正しく反映したものではありません。このような人たちの誤った行動のゆえに神を非難することのないように注意しなければなりません。
さらに,ダビデの業績と彼の最後の言葉について,預言者ダビデの心そのものとも言える彼の霊感による詩歌と祈りについて学びます。ダビデはイスラエルの歴史において最も尊敬されていた王であり,またメシヤの先祖でした。さらにその預言の賜物はすばらしい詩歌と音楽とともに人類に祝福をもたらしてきました。
最後に,この偉大な神の人についての研究を簡単に復習します。
Ⅰ. 悩み多いダビデの後年(サムエル記下20章1節~21章14節 )
アマサはどういう人でしたか(サム下17:25)。ダビデが彼を軍の長にしたのはなぜでしたか(サム下19:11~13, 5~7節も参照)。
息子アブサロムの死に対するダビデの悲しみは,アブサロムを殺したヨアブに対する怒りにまさっていました。悲しみにくれる王に対するヨアブの厳しい叱責は,王を憤らせたことでしょう。しかし,ダビデはそのとき将軍の忠告にすなおに従いました。けれども,彼はもう陰険なヨアブにがまんができなくなりました。そこで大胆にも,自分の甥で,以前は敵であったアマサをヨアブの代わりに軍の長に任命します。
ヨアブは軍人としてのすぐれた才能を持っていましたが,殺人者であることには変わりありませんでした。ダビデは軍隊を組織し,指揮することに関してはヨアブの力に強くたよっていました。ダビデがヨアブの横柄な態度を忍んでいるのも,そのためであったと考えられます。しかし,このような態度は神の統治の原則と全く相いれないものです。あわれみ,愛,ゆるし,親切は神の支配の特徴です。ヨアブは行動の人,洞察と知恵の人でしたが(サム下20:16~22参照),神の品性を身につけていませんでした。力に頼ることは失敗のもとです。
ヨシュアがカナンの地を征服したとき,ギベオン人は策略を用いて滅びから免れようとしました。そのとき,ヨシュアとイスラエルの民は彼らと契約を結び,彼らを自分たちのうちに安らかに住まわせました(ヨシ9:3~27参照)。ところがサウルは,自分の民の利益を守るために多くのギベオン人を殺したのでした。それは,いわば民族差別によるものでした。イスラエルがききんに苦しんでいたのはそのためでした(サム下21:1)。
「全国民は, 400年以上もまえにヨシュアと会衆の長たちによってなされた厳粛な誓いを破ることにかかわっていた。……『どんな償いをすれば』ききんの原因についての先の質問と同じように,ダビデはこの質問を神に対してすべきであった。ダビデがこの問題を主に問うたか否かは,聖書に記されていない。また,ギベオン人の要求とそれに対するダビデの応答とが,状況を正すために神が要求されることと調和していたか否かも明らかにされていない」( 「SDA聖書注解」第2巻695ページ)。
「「神は…・・祈を聞かれた」という聖句は必ずしも,ダビデがサウルの悪行をつぐなうための神の計画に従ったことを意味するものではない。主は動機の誠実さによって人の行為を評価されるが,行為そのものを是認されるわけではない」( 「S D A 聖書注解』第2巻697ページ)。
Ⅱ.ダビデの業績(サムエル記下21章15節~22節,23章8節~24章25節)
ダビデの「栄誉の殿堂」には,多くの偉人,戦士,政治家が名を連ねています。彼らはみなイスラエルの全盛期において軍事的勝利と政治的繁栄に貢献した人たちです(サム下20:23~26,23:8~39参照)。ダビデと彼の部下たちとのあいだには,相互の愛と忠誠がみられました(サム下23:13~17参照)。
高慢による権力の誇示 「ダビデは諸外国の征服を拡張するために適齢に達したものをすべて徴兵して,軍隊を拡充することを決意した。そのためには,人口調査が必要であった。王にこうしたことを行なわせたのは,誇りと野心とであった。人口の調査は,ダビデが王位についたときの王国の微弱な状態と,彼の治世下の力と繁栄との相違を示すことになるのであった。これは,すでに王も民もすでに持っていた自己過信を,さらに助長するものであった」(『人類のあけぼの」下巻457ページ)。
同じ出来事についての異なる描写 サムエル記下24:1では,イスラエルに対する神の怒りがダビデを動かして民を数えさせたとなっていますが,歴代志上21:1では,サタンがダビデを動かして民を数えさせたとなっています。「これらの表現は必ずしも矛盾するものではなく,単に同じ出来事のもつ二つの側面を表しているものと考えられる。」( 「SDA聖書注解」第2巻710ページ)。
イスラエルが高慢になった結果,神の守りが取り去られ,サタンがダビデを誘惑して神のみこころに反する行為をさせたのでした。
アブラハムが息子をささげるために祭壇を建てたモリヤの山に,ダビデは今,滅ぼす天使からの救いを記念するための別の祭壇を建てました。ダビデの息子ソロモンはそこで,ダビデ自身が建てることを望んだ輝かしい神殿を建てることになるのでした。
サムエル記には書かれていませんが,ダビデはほかにどんな業績を残しましたか。
1.彼は神殿を建てるための「多くの物資を準備」しました(歴代上22:1~5)。
2.彼は神殿における礼拝を組織化しました(歴代上23:2~6)
3.彼はイスラエルの音楽を発展させました。また,音楽家を組織し(歴代上25:1~6参照),楽器を作り(同23:5),さらに多くの歌を作り,へブルの賛美歌集を編集しました。
◆ ダビデの経験は一つの原則について教えています。それは,私たちが主に従うとき祝福を受け,主にそむくとき主の守りを失い,苦しみに会うということです。あなたはそのような経験をしたことがありませんか。
Ⅲ. 詩篇作者ダビデ(サムエル記下22章)
詩篇は今期の研究のテーマではありませんが,これまで全世界を祝福してきたダビデのすばらしい詩篇の一つに目を向けることなしには彼の生涯についての研究は完全とは言えません。
サムエル把下22竜に記された感謝の詩篇は詩篇18篇にも出てきます。この賛美の歌について研究するとき,私たちはダビデのほかの詩篇もより深く蝿解することができます。
ダビデはサムエル記下22章でさまざまな言葉をもって神に言及していますが,それらはどんな福音的な意味を持ちますか。
敵に対するダビデの苦悩を理解するために,事を復習してみましょう。サムエル記下22:5~7,17~20の描写を,あなたはどのように理解しますか。
敵をめぐる苦悩の祈りのなかで,ダビデは生ける神との出会いを生き生きと,かつ力強く描写しています(サム下22:8~16参照)。詩篇作者はあたかも自分の避け所である神のおそるべき威厳と偉大さを思い起こすことによって,自分自身の恐れを静めているかのようです。
キリストとサタンとの大争闘の原則に照らして,サムエル記下22:35~43を読んでみましょう(黙示12:1~17参照)。つぎの聖句をどのように説明しますか。
「わたしの手を戦いに慣らされた」(サム下22:35, エペ6:10 ~17参照)。
「わたしを攻める者をわたしの下にかがませられた」(サム下22:40, 黙示12:9~11参照)。
「わたしは彼らを地のちりのように細かに打ちくだき」(サム下22:43, 詩2:8,9,黙示19:15参照)。
ダビデはどんなことについて感謝していますか。サム下22 :20~51
20, 24節
26〜28節
29〜31節
36, 37節
50, 51節
晩年をナチの収容所で過ごし,ついには殉教の死をとげたディートリッヒ・ボンヘッファーは,毎日,詩篇を愛読しました。晩年の彼とともに過ごした友人によれば,彼はまわりの人々に幸棉と喜びについて語り,生きていることを深く感謝していたということです。彼は詩篇作者の教訓,つまり逆境において生まれる感謝は口先だけでない,心からの賛美であるということを学んだのでした。
Ⅳ. 預言者ダビデ(サムエル記下23章1節~7節)
ダビデは来るべきメシヤについて預言しています。つぎの預言を新約聖書の記録と比較してみましょう。
預言 | 成就 |
詩篇89:3, 4 | ルカ1:31〜33 |
詩篇118:25, 26 | マタイ21:9 |
詩篇22:1 | マタイ27:46 |
詩篇22:7, 8 | マタイ27:39〜43 |
預言者ダビデは大いなる畏敬と聖なる期待をもって,神が威厳と栄光のうちにお現れになるのを予見したことでしょう。イスラエルの王,生ける主,ヤーウエ(詩97:1,99:1)は,「すべての聖徒」(同148:14),もろもろの国民(同102:15),すべての生きもの(同150: 6)の礼拝を受けるにふさわしいおかたです。
詩篇全体に流れている主題は,「地をさばかれる者」があだを報いられる神であって,高ぶる者,悪しき者に「罰をお与え」になるということです。しかし,詩篇作者は同じ熱意をもって正義のもう一つの側面,すなわち貧しい者,しいたげられた者に対するあわれみと公平,「イスラエルの家」に対する救いと忠誠(詩98:3)を強調しています。
V. ダビデから学ぶ教訓
私たちはここまでダビデの弱さと偉大さについて学んできました。彼を真に偉大な人物としたものは何だったのでしょうか。彼を「神のみこころにかなう者」と言わせたものは何だったのでしょうか。
詩篇に記されたダビデの性格について考えてみましょう。
●一意專心(詩27:4,8)
●悔い改めの精神(32:5)
●神のあわれみと救いに対する信頼(13:5)
●神の力に対する信頼(56:3,4,60:11)
●神の計画に対する信頼(37:23~29)
●忍耐して主を待ち望む(27:14,37:7)
●すなおに教えをきく(25:4,5)
●神の臨在を認める(16:8)
●神を求める(42:1,2)
●神を喜ぶ(16:11,17:15,34:8)
イスラエルの初代の王サウルとダビデとの違いについて考えてみましょう。二人の失敗や過ちを比べてください。彼らに対する神の扱いに違いが生じたのは何が原因でしたか。
天の聖所におけるさばきの光景を想像してください。天使たちが父なる神の御座をとりまいています。キリストは神の右手におられます。いのちの書が開かれ,そのなかにダビデの名が現れます。御座のそばの天使がダビデについての記録の書を開きます。そのとき突然,遠くのほうから声がします。「不公平だ,不公平だ!ダビデはなぜ救われるのか。彼の罪を見なさい!」。訴える者(黙示12:10)は説明を求めます。
天使はゆっくりとダビデの記録の書をめくります。どの罪の横にも大きな字で,「告白し,ゆるされた」と書かれています。ダビデの子,メシヤなる王,イエスが進み出られます。そして,手のくぎあとを示しながら,深い感情のこもった美しい声で言われます。「わたしの血はダビデの罪のために流された。わたしは彼の救いのための代価を払った。ダビデはわたしの救いの恵みを受け入れた。わたしは彼の名をいのちの書から消すようなことをしない。また,わたしの父と御使いたちの前で,その名を言いあらわそう」(黙示3:5参照)。しばらく沈黙がつづいたあと,訴える者は無言のまま出ていきます。そのとき,天使たちの聖歌隊が高らかに歌います。
「ほふられた小羊こそは,力と,富と,知恵と,勢いと,ほまれと,栄光と,さんびとを受けるにふさわしい」(黙示5:12)。
ダビデの名をあなたの名に置き換えて,あらためてこの部分を読んでみましょう。
まとめ
将来,どのような問題・苦難に直面することがあろうとも,ダビデの神は今日もやはり私たちの神です。私たちは神によって勇ましく働きます(詩60:12参照)。
参考書「人類のあけぼの』下巻456~470ページ。
*本記事は、1991年第1期安息日学校教課『危機、変化、挑戦ーサムエル記 上・下』からの抜粋です。