結婚生活の喜び
1891年に,ハドソン・テイラーは雅歌に関する説教集を出版しました。その再版の序文において, J・A・モウシャーは次のように記しています。「とりわけ19世紀の聖書研究者は,すすんで雅歌について瞑想し,説教したものだが,現代の牧師は,たとえしたとしても,まれにしかそうしない。しかも,現代のクリスチャンは全体的に,疑念をもってではないにしても,びくびくしながらそれを見ているように思われる。正直なところ,これにはそれなりの理由がある。というのは,雅歌が〔性という〕人間経験の微妙な領域を率直さと喜びをもって扱っているからである。少なくてもクリスチャンのあいだでは, 現代の風潮として, この問題があまり語られないため, 悪魔にお株を奪われてしまっている」(ハドソン・テイラー『一致と交わり』序6ページ)。
今日,さまざまな歌,映画,出版物が,いわゆる愛の喜びや楽しみについて描写していますが,結婚生活に関するものはまれです。今は結婚生活における深い喜びを取り戻すときです。
Ⅰ. 結婚生活の危機
テモテヘの第2の手紙3:1〜7を読んでください。終わりの時代における人々の生き方は神の計画とどのように異なりますか。
友情
結婚生活
家庭生活
性
使徒パウロは結婚と家庭生活に関する勧告(エペ5:21〜6:4)のあとで、軍事的なたとえを用いたり、戦いの言葉を用いたりしてクリスチャンの経験を描写していますが、このことは何を意味していますか(エペ6:10〜12)。結婚生活における「悪魔の策略」は何ですか。彼の攻撃にどのように対抗したらよいでしょうか。
結婚に対する周到な策略 「サタンは,とりわけ結婚制度をゆがめ,その義務を弱め,その神聖さを減ずることに力を入れた。というのは,人間のうちにある神のかたちをそこない,悲惨と悪徳に戸を開くのに,これほど確実な方法はなかったからである」(『人類のあけぼの』上巻398ページ)。「祈りによって十分に強化され,聖書の真理によって不動のものとされていない人々に対して,敵は大きな力を持っている」(『教会へのあかし』第5巻292ページ)。
不幸な結婚生活が多いことは,夫婦間の暴力が多いことや離婚が増えていることを見れば明らかです。結婚生活を続けている人たちの中にも,争い,愛を失わせるような欲求不満,さまざまな不幸を経験している人がたくさんいます。
不当な関係に対する弱さ キリストの恵みに信頼することによって十戒の第7条に従うことは,結婚生活と家庭の神聖さを守ってくれます。この戒めは性道徳のあらゆる面にあてはまります。それは私たちのうちに罪によるみだらな傾向があることを示しており,この傾向に従うことに対して警告を与えています。
Ⅱ. 警告のしるし
「たとえさばきや来世がなくても,結婚の誓約を守ることは賢明なことであり,それを破ることは愚かなことである。しかし,来世があり,それに入ることはすべての汚れから自発的に清められることにかかっている。姦いんを行う者は二重の宣告を受ける。彼はこの世の真の喜びを失い,また来るべきいのちのより大いなる, より永続的な喜びから締め出される(蔵15:3,マラ3:5,ヘブ13:4)」(『S DA聖書注解』第3巻964ページ)。
初期の警告の合図 私たちの人間的な弱さは罪を犯す口実にはなりません。私たちはどんな状況において弱さをあらわすのかをよく知っておく必要があります。自分の弱さを知ることはより真剣に忠誠と純潔を守るうえで助けになるからです。警告のしるしを無視す
る者は,知らない間に姦いんの罪に陥ることがあります。自分の弱さを知るときに,私たちはキリストの恵みに頼るようになります(蔵5:21参照)。
不穏当な関係に陥りがちな場合
・自分の配偶者から離れて働いているとき
・悲しみや損失を味わっているときや,特別な助言を必要とするとき
・霊的,感情的に同じ問題を共有しているとき
人間関係は複雑な生理学的,心理学的な原則によって支配されていますが,これは正当な関係においても不当な関係においても同じように働きます。だれかに会うことによって,だれかの声を聞くことによって,あるいはだれかに触れ,触れられることによって,特別な慰め,心の喜び,興奮を感じるなら,これは特別な関係が始まっていることのしるしです。その人と二人きりになりたい,もっと親しく交わりたいという願望は,その関係がさらに深くなりつつあることのしるしです。この思いがさらに強くなると,昼も夜もその人のことばかり考えるようになります。
◆上のようなしるしに気づいたなら,あなたはどのようにして自分自身を抑制しますか( I ヨハ5 : 1 〜5 , 1 8 参照) 。
Ⅲ. 神の処方菱
「多くの人々は,神と聖天使たちの目が見守っているなかで,同胞の前ではしないようなかってなふるまいをする。しかし,ヨセフはまず第一に神のことを考えた。『どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって,神に罪を犯すことができましょう』と彼は言った」(『人類のあけぼの』上巻237ページ)。
モーセの律法では, 姦いんの罪が死刑だったことを考えると(レビ20:10),姦いんを犯した女に対するキリストのゆるしはなぜ重要ですか(ヨハ8:1〜11)。どの点で,ゆるしの精神が実際の罪を越えて,個人の心にある罪悪感を扱うように見えますか。
神のゆるし 「この女をゆるし,もっとよい生活をするように励ましておやりになったイエスの行為を通して,イエスのご品性は完全な義の美しさに輝いている。イエスは,罪を軽く見たり,不義の意識を弱めたりはされないが, 罪に定めようとしないで, 救おうとされる。世の人たちは,過失を犯しているこの女を軽蔑し嘲笑することしかしなかった。だがイエスは,慰めと望みのことばを語られる。罪のないおかたは,罪人の弱さをあわれみ,彼女に助けの手をさしのべられる。……
人間は罪人を憎みながら,一方では罪を愛する。キリストは罪を憎まれるが, 罪人を愛される。これがキリストに従うすべての者の精神である。クリスチャンの愛はいつも,人を非難するのに遅く,悔い改めをみとめるのに早く,人をゆるし,励まし,さまよっている者を聖潔の道に歩ませ,彼の足をそこにしっかりととどめるようにするのである」(『各時代の希望」中巻249ページ)。
◆「魂の扉を地上に対して閉じ,天に向けてあけなさい」(『アドベンチスト・ホーム」94ページ)という勧告は,不純な関係を避けるうえでどんな助けになりますか。結婚生活が危機に直面したとき,専門家の助言や指導を受けることはどれほど役に立ちますか。姦いんを犯した女に対するイエスのゆるしから, 私たちは同じ立場にある人々に対してとるべき態度に関してどんなことを教えられますか。たとえ結婚関係を維持できなくなったとしても, 姦いんの罪を犯した相手をゆるすことはなぜ重要ですか。
Ⅳ. 愛の木を育てる
ソロモンは結婚関係を強化することについてどんな積極的な勧告を与えていますか(箴5:15〜19)。これは雅歌のテーマとどのように比較されますか。
「家庭は最も純粋な高貴な愛情の中心でなければならない。……愛の植物は,注意深く栄養を与えなければ枯死してしまう」(『アドベンチスト.ホーム」211ページ)。
「自分の井戸から飲め」この節(蔵5:15〜19)は結婚生活への強い支持であり, 自分の配偶者との愛を養うことについての命令です。聖書はここで夫と妻の一致を, 両者の心を活気づける泉にたとえています(雅4:15比較)。「妻に対する夫の愛は人生のあらゆる面に及ぶくらい強いものでなければならない。良い意味で, それは何かにとりつかれることであって, 人生をともにする相手を考慮することなしには何ごとも考えられないし, なされもしれない。この意味において, 愛は有頂天になることである。『喜べ』(箴5:19)という言葉は, 字義的には『酔え』という意味である」(「S DA聖書注解』第3巻964ページ)。
生涯にわたる愛 「結婚関係を正しく理解するには一生かかる。結婚する人は,この世では決して卒業することのない学校にはいるのである。
いかに注意深く, 懸命に結婚が進められても,結婚式が行われたときに完全に一致している夫婦はほとんどない。結婚によるふたりの真の結合はその後においてできるものである」(『アドベンチス卜・ホーム』106ページ)。
健全な結婚生活を維持するためには,たとえば互いにほめ合い,共に語り,触れ,遊び,笑い,耳を傾け,礼拝し,長所をほめたたえ,欠点を受け入れ,喜びと不安を分かち合うといった不断の交わりが必要です。
◆たとえ理想的な結婚生活でないにせよ,クリスチャンの愛と献身はどんな変化を生み出しますか。あなたは今日,自分の友人,配偶者,子供,親戚に対してどんな新しい賛辞をおくることができますか。
Ⅴ. エデンの回復
シュラムの女についてのこの描写はまた,キリストの純潔な花嫁である教会についてもあてはまります。「ここに描かれている美と力はまさに教会にふさわしいものである」(「S DA聖書注解』第3 巻1121ページ)。
「教会はキリストの義の武具をまとって, 最後の争闘を始めなければならない。『月のように美しく, 太陽のように輝き, 恐るべき事, 旗を立てた軍勢のよう』に,教会は全世界に出て行って,勝利に勝利を収めなければならない(雅歌6:10)」(『国と指導者』下巻326ページ)。
雅歌7 : 1〜1 0 には,結婚愛の肉体的側面がどのように是認されていますか(創世26:7〜9,29:17〜20, 箴5 :19比較)。
エデンの回想 シュラムの女に対するソロモンの喜びは雅歌におけるもう一つの頂点になっています。彼らはその結婚生活において最も深いきずなを体験しています。ふたりはそれを心から喜んでいます。妻は喜びと驚きをもって次のように叫んでいます。「わたしはわが愛する人のもの,彼はわたしを恋い慕う」(雅7 : 10)。これらの聖句はエデンを思い出させるような結婚関係を描写しています。
愛は情欲ではない 「愛は純潔できよい原則である。だが情欲は抑制する余地を与えず,また理性に命令されたり支配されたりすることをうけがわない。情欲は結果に対して盲目的であり,原因から結果を推し測ることをしない」(「アドベンチスト.ホーム」127ページ)。「正当と認められていることをやり過ぎるとき,それはいむべき罪となる」(同125ページ)。
愛の感情は創造主の賜物 「愛におちいるために必要な強く情熱的な感情は,創造主が私たちに与えられた能力である。明らかに神は,私たちの感情的能力が結婚生活において十分に発達し,愛する者との一致において完成するように意図された。……陶酔は要求し,奪うが,愛は喜んで与える。……真の愛において,聖書の原則に基づいたあなたの理性はその感情を導き,その関係を神の知恵によって形づくる」(エド.ホイート『人生を愛せよ』94,95ページ)。
◆結婚生活における精神的な愛と肉体的な愛の関係をどのように理解したらよいでしょうか。
まとめ
主の計画は,男女間のきよい結婚生活がふたりにとって霊的,精神的,肉体的祝福となり,また彼らの愛する者たち,友人,隣人,社会にとっても祝福となることでした。利己心と不道徳はこの祝福を台無しにします。しかし,キリストの恵みはそれを強化します。
*本記事は、ロナルド・M・フラワーズ(英:Ronald M. Flowers)著、1992年第4期安息日学校教課『雅歌 愛の歌』からの抜粋です。