この記事のテーマ
ある意味で、今回の研究で学ぶこと(ヨナ1:4~13)は古代イスラエルの経験に対する模範とも言えるものです。神の当初の計画は、異教の民が神の選民に対する神の憐れみを学ぶためにあらゆる国から集まってくることでした。残念ながら、結果はそうではありませんでした。イスラエルの不信仰のゆえに、異教の民がヘブライ人のもとに来る代わりに、ヘブライ人がしばしば鎖につながれて、異教の民のもとに下って行きました。神が予告されたとおり、彼らは大いなる災難と苦悩の中で神をあかしすることになります。
今回は、これほど大規模なものではありませんが、同じような経験について学びます。ヨナは大いなる試練と災いの中で、つまり大風によって船が沈みそうになるという極限状況の中で、異教徒に主をあかしせざるを得ませんでした。
海上の嵐
ヨナ書1:4、5を読んでください。主は大風を送られます。船は沈みそうになります。異教徒の水夫たちはそれぞれの神に助けを求めて叫んでいます。しかし、ヨナは「船底に降りて」(5節)寝込んでいるところを船長に見つかります。このような危機に際して寝込んでいるヨナを見て、船長は憤慨したことでしょう。
異教徒の水夫たちはどうしたでしょうか。聖書によれば、彼らは「積み荷」を海に投げ捨て始めました。これらの積み荷は普通の状態であれば大切なものでした。しかし、危機に際して、彼らはすすんでそれらをすべて海に投げ捨てたのです。ここに霊的教訓があります(マタ16:26、コヘ2:11、Ⅰヨハ2:15~17参照)。あなたは大切であると思っていたものが突然、無価値に思われる経験をしたことがありませんか。主はそのような状況を通して真に価値あるものを教えようとしておられるとは思いませんか。
船長がヨナに憤慨したのはなぜですか。彼は眠っている預言者にどうするように言いましたか。それは信仰から出たものですか。それとも単なる絶望から出たものですか。ヨナ1:6
船長はヨナに、「起きて」(ヨナ1:6)と呼びかけていますが、これはヨナが初めに神から言われた「立って」(1:2、口語訳参照)と同じです。また、船長はヨナに、神を「呼べ」(6節)と求めていますが、これは神が初めにヨナに言われた、ニネベに「呼びかけよ」(2節)と同じです。起きて、呼べという命令が天の神を拝まない異教徒の水夫の口から出ていることは興味深いことです。
奮発する水夫たち
ヨナがひとり取り残されている間、水夫たちは荒れ狂う嵐と格闘します。この暴風は神々が怒っていることの証拠であると、水夫たちは考えます。
実際には、この暴風は怒りではなく愛から出ていました。ヨナと水夫たちにはそのことがわかりませんでした。このことは、何か恐ろしい状況に直面したときに誤った結論を引き出すことのないように注意すべきことに関してどんなことを教えていますか(箴3章、ロマ8:28、Ⅰペト4:12参照)。
このような恐ろしい嵐は誰かが罪を犯したせいだと水夫たちは考えましたので、くじ引きで犯人探しをします。昔のイスラエルなどでは、くじは困難な状況を打開する方法として一般に用いられていました(民33:54、サム上14:41、42、エス3:7、参照)。
聖書には、人の悪が災いをもたらした実例が記されていますが(ヨシュ7章)、災いがだれかの罪の結果であると考えることが危険であるのはなぜですか(ヨブ1、2章参照)。
くじがヨナに当たると、水夫たちは次々に質問しています。なぜくじがヨナに当たり、なぜヨナが暴風の原因なのかと。ここまで沈黙を守っていたヨナですが、質問攻めにあうと、用心深く答えます。しかし、自分の仕事、出身地、国については答えず、彼は自分が「ヘブライ人」であると告げます。それから、自分は「主を畏れる者だ」と答えています。
海でのあかし
自分がヘブライ人であることを明かした後で、ヨナは水夫たちに「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と。
ほかにどんな預言者が「天の神」という称号を用いていますか。ダニ2:19
神がネブカドネツァルの夢を解き明かし、バビロンの知者たちの命を救われた時、ダニエルは「天の神」をほめたたえています。何よりも興味深いことは、ヨナが「天の神、主」と言い、この主が海と陸を造られた創造主であると言っていることです。
次の各聖句はわたしたちの信仰にとって非常に重要なことを教えています。それは何ですか。出2:11、詩100:3、146:5、6、マラ2:10、コロ1:16、17、使4:24、黙4:11、14:7
主が万物の源、真理の基礎、創造主、この世界を創造されたお方であるという単純ではあるが非常に重要な事実から、神の力と権威が来ていることをヨナは知っていました。私たちの信仰は、私たちが万物を創造された神を礼拝しているという観念にもとづいています。それは、神だけが創造主、神だけが唯一の、まことの神であるという事実です。もし神が創造主でなかったなら、神を礼拝する意味はありません。なぜなら、神は私たちと同じく、神以上に偉大なお方によって造られた被造物に過ぎなくなるからです。
なんという皮肉なことでしょう。ヨナはニネベの異教徒にあかしすることを拒み、せっかく神の召命から逃れてきたというのに、船上の異教徒たちに神をあかしせざるを得ない破目になりました。
ヨナのどんな言葉が水夫たちを恐れさせましたか。ヨナ1:9、10
水夫たちは暴風のためにすでに「恐怖に陥」っていたのに、暴風の恐ろしさよりも、むしろヨナの信仰告白に対して「非常に怖れ」ました。それもそのはずです。ヨナが力ある神を崇めると言いながら、その神から公然と逃れていたからです。異教徒の彼らは神についてあまり理解していませんでしたが、神がヨナの不従順を罰するためにこの暴風を送られたと理解しました。そして、自分たちが不運にもこの男と居合わせたために、一緒に滅ぼされるのだ、と。
これら異教徒の水夫たちとヨナとの間には、際立った違いが見られます。神の預言者ヨナは自分の畏れる神に逆らいましたが、異教徒の水夫たちは力ある天の神と聞いただけで大いに畏れました。水夫たちは暴風に遭っただけで、ヨナが怒らせたに違いない神の力を認めました。
水夫たちのこの確信は、ヨナが意識的に神を証したことによるものではありませんでした。ヨナは嵐の中でやむなく信仰を告白しただけでした。しかし、この予期せぬ告白によって、水夫たちの心は動かされました。ヨナが天地の神から逃れてきたと聞いたとき、彼らは恐怖の念に満たされました。このように、不従順の中にあってさえ、ヨナは神によって証人として用いられたのでした。
水夫たちが心を動かされたのはヨナの品性によってではありませんでした。事実、彼らはヨナのうちに特別な美徳を何一つ見ていません。それにもかかわらず、神はヨナの不従順を避けてお働きになることができました。皮肉なことに、水夫たちがまことの神について何かを学んだのは、ヨナのあかしのおかげでした。
状況が悪化する
ヨナ書1:10で、どんな言葉が3度繰り返されていますか。
ヨナ書1章で、「主の前から」(主から)という表現が繰り返しのように用いられています。3節にもすでに2度用いられています。ヨナ書の著者は、ほかの聖書書巻の著者と同様、慎重に言葉を選んでいます。ヘブライ語の物語における繰り返しは、重要なことを強調するために用いられる手法です。ここでは、ヨナの強情な態度が強調されています。
この表現が再び用いられているのはなぜだと思いますか。著者は何を言おうとしていると思いますか。そこにはどんな皮肉が込められていますか。全知の神の前から逃れることのできる人がいますか(箴5:21)。
暴風がひどくなるにつれて、水夫たちはますます絶望的になります。何らかの手を打たなければ、だれも助からないでしょう。水夫たちがなおも主導権を握っていることに注目してください。
彼らはヨナの崇める神を認めました。今、彼らは自分たちの取るべき方法をヨナに尋ねます。神の怒りを静めるにはどうしたらよいか。「さあ、教えてくれ。言われた通りにするから。事の発端はお前さんにある。解決策を示してくれ」。
ヨナの応答に注目してください(ヨナ1:12)。彼は自らの非を認めて進んで犠牲になろうとしたでしょうか。敬虔な殉教者になろうとしたでしょうか。それとも、なおも神に反逆し続けたでしょうか。あるいは、悔い改めの表現でしょうか。
さすがのヨナも、いくぶん考えが変わったようです。彼は自分が主から逃れてきたこと、また自分が現在の苦難の原因であることを認め、滅びを免れるために進んで海に投げ入れられようとします。
まとめ
ヨナの応答を、同じ水域で暴風に遭った使徒パウロの体験と比較してください(使27:21~25)。
パウロは全体を指揮し、神が必ず自分たちを救ってくださると言っています。彼は失望しないように励ましています。「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります」(使27:23~25)。ヨナも神に対して同じ信仰を表していたならどうなっていたでしょうか。
ミニガイド
正当化
「どうして、あの残忍極まりないアッシリアに行けと言われるのか!その役がよりによってなぜこのわたしなのか!」この愛する自国イスラエルを支配しようとたくらむ宿敵の町に「行って呼ばわれ」という主のお言葉は、ヨナにとって我慢のならない不愉快な役割でした。狭量な愛国心にかられて、ヨナはそれだけ排他的になり、不安と不満の中で彼の頑固な心は、ますます募っていきました。
「何とかこの役をはずしてもらいたい」。イスラエルがアッシリアの求めにしたがって、みつぎ物をささげ、隣国アラムがアッシリアにさいなまれているのを知ってはなおさらでした。
「こうなれば、主のみ顔を避けて、どこか遠くへ行くしかない」、そう意を決して、ヤッファに行きます。はたして、タルシシ行きだというおあつらえ向きの船がありました。「やった、やはり自分の判断も見捨てたものではない。こんなに遠くへ行けば主もあきらめてくださるだろう」。非常な後ろめたさを持ちながらも、早速乗船切符を手にして、タイミングの良さと自分の決断の早さにほくそ笑んで、出帆を待ちました。
ヤッファにやってくる途中でも、良心はうずいたかもしれません。「あれもこれも、神様が間違っておられたのだ。無理な命令だ、不合理だ、わたしこそ被害者だ」と道すがら自分に言い聞かせて歩いたのでしょうか。
首尾よく船には乗り込めましたが、やはり主のみ心に背いている後ろめたさからか、彼は人目も避けて、船底に一人身を隠し、ふて寝を決め込むのでした。
傍目から見れば、ヨナの行動は滑稽で、幼児性を感じさせるものですが、いざ私たちが主の明白な御心を知り、それに従うよう求められた際、ヨナを笑うことができるでしょうか。
私たちはどのようにして神の私に対するみ心を知ることができるでしょうか。預言者たちのように直接天の声を聴くことはないでしょう。しかし、よく聖書を読んでいる人は、その人がなすべき行動が示されるはずです。
もちろんヨナのように、様々な被害者意識を育てて、自分を正当化することもできます。キリスト者の多くは、全面的にご命令を否定することはしませんが、また、全面的に主に従ってもいません。「ほんのこれくらいだから、これくらいは赦される」と言っては、自分を納得させ、神の赦しを勝手に決め込んでいることはないでしょうか。
*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。