【ヨナ書】神に従った風と虫と木【4章解説】#10

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神が邪悪なニネベの人々に憐れみを示されたことに対して、ヨナはあからさまに不快感を表しました(「異教徒」に救いの福音を伝えることを使命とする私たちにとって、これは信じがたいことです)。ニネベの人々がヨナの警告を受け入れて悔い改めたことを、ヨナは快く思いませんでした。神は日射しを避けるために建てた小屋の中に座っているヨナに、不機嫌な態度を改めるように求められます。ヨナと神の対話は続きます。この最終章には、旧約聖書の最も深遠な神学思想のいくつかが述べられていますが、ここにも過ちの多い人間に対する神の恵みの現れを見ることができます。

今回の研究を通して、ヨナがどのような人物であり、どんな特権を与えられ、主からどんな恵みを受けてきたか、それにもかかわらずどんな態度を保持しているかを学んでください。

ヨナの小屋

「あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。……これは、私がイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ23:42、43)。

神はヨナのために一つの「実物教訓」を用意されます(『国と指導者』上巻240ページ)。地中海の「巨大な魚」と同様、木と虫と強風が神の道具となります。「巨大な魚」と同様、それらは神に従います。ここでも、主が御自分の被造物を支配しておられることが強調されています。

ヨナ書4:5には、ヨナが都を出て、自分のために建てた「小屋」は、レビ記23:39~44やネヘミヤ記8:14~16に出てくる「仮庵」と同じです。同じ意味の言葉をここで用いていることにはどんな深い意味がありますか。

これらの小屋はイスラエルの子らに、とりわけエジプトからの奇跡的な救出とその後の神の守りを思い起こさせるものでした。ヨナにとって、ヘブライ人が救われるのはともかく、異教徒が救われるのは受け入れがたいものでした。ヨナは自分の安楽ばかり考えていたために、自らの行為の矛盾に気づかなかったのでしょう。

「小屋」を意味するヘブライ語のメスコーモ(ヨナ書に出てくるのは単数形のメスカーモ)は、ユダヤ人の「スコーの祭り」、つまり「仮庵の祭り」の名前にもなっています。今日でもこの祭りの期間、伝統的なユダヤ人はメスカーモと呼ばれる小屋の中で生活します。このようにして彼らは、自分たちの先祖がエジプトから脱出した後、荒野で仮住まいしたことを思い起こすのです。

神の備え

ヨナ書4:6の前半には、どんな動詞が再び出てきますか。

この「備える」という動詞はヨナ書に4回用いられていますが、これはそのうちの2番目のものです。前回用いられていたのは、主がヨナを飲み込むために魚を「備えられた」場面においてです。いずれの場合も(ヨナ2:1-口語訳1:17、4:6~8)、神が動詞の主語、つまり備える、あるいは定めるお方です。ここでも、神が自然界を支配することによって御自分の目的を達成されることが強調されています。ヨナが異教徒に対する主の恵みに失望するあまり死を望んだときでさえ、神はヨナをお見捨てにはなりませんでした。ヨナが小屋の中に座ってニネベの成り行きを見守っていると、神はヨナの「苦痛を救う」ために1本の木を生えさせ、ヨナのために日陰を作られます。

新共同訳聖書では、この木が「とうごまの木」となっていますが、なぜこんなに早く生長したのかは説明してありません。

ヨナ書4:6~8を読み、内容を要約してください。

ニネベが滅びを免れたために気落ちしていたヨナが、こんどは日陰を作ってくれた1本の木のゆえに大喜びしています。この男をどう考えたらよいのでしょうか。神は木を生えさせ、次に虫に木を食い荒らさせ、次に強風を吹きつけさせられます。ヨナはニネベの代わりに神の裁きを受けているようにさえ見えます。彼はニネベに求めた災難をかすかに経験していたのです。彼は恵みによって木が生えると非常に喜びましたが、それが取り去られると深い絶望に陥りました。

再燃するヨナの怒り

神に滅ぼしてくださるようにとのヨナの求めに神は虫を送られ、ヨナに日陰を与えていた木を枯らし、強風によって小屋と一緒に吹き飛ばされます。ヨナは苦しみを通して教訓を学ばねばなりませんでした。二度にわたって死を求めていることから、彼が重い霊的病にかかっていたと思われます。これらはヨナの最後の言葉となります(ヨナ4:8、9)。彼は初めから神に反抗し続けます。

主はヨナに何と言われますか。ヨナ4:9

神の質問はやんわりとヨナに圧力をかけます。主がヨナに自分の怒りについて熟考するように求められるのはこれで二度目です。今回は、枯れた木が話題になっています。神は4節でヨナに、ニネベが救われたことを怒ることは正しいことかと尋ねておられます。そして9節で、とうごまの木が枯れたことを怒るのは正しいことかと尋ねておられます。主はヨナに一つの都市全体と1本の木とを対比して見せておられたのです。それは、彼の考え方がいかに調和を欠いているか、また優先順位がいかに誤っているかを悟らせるためでした。主がニネベの都を滅ぼされなかったことを怒り、その一方で主が1本の木を滅ぼされたことを怒っているからです。確かに、ヨナはどこかが狂っています。

ヨナは主の質問に何と答えていますか。ヨナ4:9

主は恵みを軽んじる人類に、なおも分不相応の恵み、憐れみ、忍耐を示してこられました。これは、主が歴史を通じて御自分の民のためになさってきたことのほんの一例です。

ヨナ10:4の聖句に示されている主の答えに注目してください。神は「惜しむ」という動詞によって、とうごまの木に対するヨナの同情心を描写しておられます(10節)。そして、11節で同じ言葉を用いて、ニネベに対する神御自身の思いを描写しておられます。両者を対比するためです。ヨナは1本の木を惜しみ、主はニネベの住民を惜しまれます。聖なる神と堕落した人間の価値観の違いを表すものです。神はヨナの態度と御自身の態度に関して、同じく「惜しむ」という言葉を用いておられます。これは、ヨナに自分自身の誤りを悟らせるためでした。ヨナがとうごまの木を惜しんだのは、ただ日陰がなくなったからでした。

10節の「滅びた」という動詞に注目してください。それは以前にどのように用いられていますか。ヨナ1:6〔英語聖書参照〕、ヨナ1:14、ヨナ3:9   

イエスはヨハネ3:16で、全世界の「滅び」に関連してこれと同じ意味のギリシア語を用いておられます。ヨナ書の著者はここで、注意深く、とうごまの木に対するヨナの関心が、もし神がニネベに裁きを下されたら生じるであろう滅びに比べたら取るに足らないものであることを強調しています。水夫たち、ニネベの住民、そしてヨナ自身(嵐の中で海に投げ込まれれば、たいていの人は死ぬ)の直面していた問題は、基本的にはすべての人が直面する問題、すなわち生か死かという問題でした。実際のところ、この問題は霧に過ぎない現世の命(ヤコ4:14)と一時的な眠りに過ぎない現世の死(Iコリ15:51)を超えて、永遠の命(ヨハ3:15)か、永遠の滅び(同16節)かという問題とかかわりがあります。

恵みの問題

ヨナは9節で、いわば次のように言っています。「もちろんです。わたしは怒っています。死にたいくらいです。あなたがわたしの木を枯らしてしまったからです」。しかし、10:4でヨナに対する神の返答は真相を明らかにしています。すなわち、ヨナにはとうごまの木に対する所有権を主張したり、権利や権威を要求したりすることができないということです。彼はとうごまの木のために努力し、それを獲得し、それを育てたのではありません。木が彼に日陰を与えてくれたのは、ヨナのためになされた神の超自然的な行為の結果でした。

自分の力で得ることのできないもの、自分の努力で獲得することのできないもの、自分自身で作り出すことのできないもの、つまり完全に神から賜わるもの――それは何に似ていますか。ヨブ4:17~21、エフェ2:5~10、ロマ3:28、4:13~16参照

私たちもヨナと似ていないでしょうか。私たちは神の賜物を当たり前のことと考えていないでしょうか。神の憐れみと恵みに慣れてしまって、それらを当然与えられるものと考えていないでしょうか。それらが恵みの賜物であること、また恵みが与えられるためにはどれほどの代価が支払われたかを忘れがちです。私たちのすべて、また私たちの人生の一瞬一瞬は神の恵みの賜物です。それは、私たちが認識しているよりもずっと広範囲に及ぶものです。そして、このことこそ問題なのです。ヨナと同様、私たちはこの事実を認識していません。

テモテへの手紙Ⅱ・1:8~10を読むと、そこには、恵みが「永遠の昔に」キリストにおいて私たちに与えられていたと書かれています。何かが世の初め以前から私たちに与えられていたということは、それを求める以前から与えられていた、あるいはそれを得る以前から与えられていたということです。

もう一度、テモテへの手紙Ⅱ・1:8~10を読み、神がヨナになさったことと比較してください。

まとめ

ニネベは結局、紀元前612年に滅びました。しかし、ヨナの説教を聞いた世代は奇跡的な救いを経験し、ヘブライ人の神は「異邦世界全土において、賛美され栄光を帰せられ、神の律法はあがめられ」ました(『国と指導者』上巻238ページ)。ヨナ書は贖いの歴史における最大の出来事の一つについて記しています。

「神の御子は私たちの贖いのためにすべてのもの、すなわち命と愛と苦しみを捧げられた。このような大きな愛を受けるに値しない私たちは、御子に心を捧げないでおられようか。私たちは人生の一瞬一瞬、御子の恵みの祝福にあずかっている。このことのゆえに、私たちは自分の救われた無知と悲惨の深みを十分に理解することができない」(エレン・G・ホワイト『驚くべき神の恵み』185ページ)。

「イスラエルの民の間と同様に、異邦人の間にも神の恵みがあらわされることが神のみこころであった。この事は、旧約聖書の預言の中に明らかに説明されていた。パウロは、彼の議論の中で、これらの預言を用いている。彼は、次のようにたずねる。『陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造り上げる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである』」(『患難から栄光へ』下巻58、59ページ)。

ミニガイド

仮庵で

ニネベの町の東側、そこは丘陵地帯で、小高い丘に囲まれた静かな場所でした。そこにヨナは、木の枝や小枝を集め、粗末な小屋をこしらえ、暑い日差しをしのぎながら、これからニネベがどのような経過をたどるか、神がこの後どのようなご処置をなさるかを観察することにしました。

イスラエル人は、幼い頃から年に一度親と一緒にこの小屋を作って、仮庵の祭りの期間(7日間)は、小屋で寝泊りする習慣がありました。それは、彼らがモーセに率いられてエジプトを脱出したあと、荒野でテント生活を続けたあの経験を思い出し、辛かったけれど、奴隷の過酷な境遇から救われた感謝を捧げるお祭りでした。

ここでヨナはその祭りを思い出し、自分が、あの嵐から救われ、何よりも大魚のお腹でいわば死んでいたのに生き返らされたことへの感謝、また、神の信頼を得て、主の御用に再任されたことへの感謝、滅びるはずであった異教の人々が自分の宣教によって悔い改めるという奇跡を体験した喜びなど、これまでの神のお計らいを省みて、主に数々の感謝を捧げる機会となすべきでした。

ところが、ヨナの仮小屋住まいの目的は別のところにありました。ニネベの人々の悔い改めも見せかけであって、40日もすれば元の木阿弥の悪しき生活に逆戻りし、ふたたび神がこの町を滅ぼされるのではないだろうか、北方から外国の勢力が攻めてくるのではないだろうか、そうなって欲しい……。異教の人々を見下す狭量な彼の心は変わることがありませんでした。

粗末な小屋は、強烈な砂漠の暑熱を遮るには十分ではありませんでした。そこで神は一夜のとうごまの木を生長させて、彼の小屋を覆われたのです。ヨナは、十分な日覆いができたことに喜びはしましたが、神に感謝することもありませんでした。暑さから守ることによって体の不快さを取り除き、ニネベに対する彼の不満と偏見を和らげようとなさる神の努力も彼には響きませんでした。

試練

ヨナの忘恩の態度に、今度は厳しい試練を与えられます。雨の降ったあと、多肉多汁の植物であるとうごまの木の葉を好んで食べる黒い毛虫が繁殖するそうですが、おそらく神はその毛虫を送られて、また一夜にしてその日覆いの木は枯れ、更に「焼け付くような東風」をも送られます。太陽の熱射と強い熱風に襲われるという試みでした。そして絶望の叫び声をあげます。ヨナに備えられたとうごまの木のように、神がくださったもの、それが品物や状況であれ、人であれ、喜ぶこと自体はそれでよいのですが、私たちも肝心の与え主である神を忘れ、神に感謝を捧げることを怠るなら、それはご利益宗教と大差がありません。主権者にいます神を自分の下僕か道具のように考える不敬虔な態度を改めましょう。ヨナは、全ては神の支配と管理下にあることを試練によって学ばされました。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。

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