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第1課 ペトロの人間性
第1課 ペトロの人間性
ペトロは、彼の名前が付いた二つの書簡(ペトロI・II)の著者です。彼はイエスの初期の弟子の1人であり、地上における公生涯の間、ずっとイエスとともにあり、空の墓を見た最初の弟子たちの1人でした。ですからペトロには、聖霊に導かれて、説得力のある二つの書簡を書くための豊富な体験がありました。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」(IIペト1:16)。
ペトロは四福音書の中にしばしば登場し、彼の功績も失敗も明らかにされています。弟子たちがイエスと話をする際には、たいていペトロが代弁者でした。復活と昇天のあと、彼は初代教会の重要な指導者になりました。使徒言行録は、ガラテヤの信徒への手紙と同様、ペトロについて記しています。
最も重要なのは、ペトロが、誤りを犯すこと、赦されること、信仰と謙遜によって前進するとはどういうことなのかを知っていた点です。神の恵みを自ら体験したがゆえに、その同じ恵みを体験する必要のある私たち全員にとって、彼は力強い声であり続けています。
「わたしから離れてください」
私たちが最初に出会うペトロは、ガリラヤ湖の漁師です(マタ4:18、マコ1:16、ルカ5:1〜11)。彼は夜通し漁をしていましたが、魚が獲れませんでした。しかしそれにもかかわらず、彼と仲間は、岸から少し漕ぎ出してもう一度試してみなさい、というイエスの命令に従いました。舟が沈みかけるほどのたくさんの魚が獲れたとき、ペトロやほかの仲間は、ものすごく驚いたに違いありません。この奇跡のあと、どんな思いが彼らの頭の中をよぎったでしょうか。
ルカ5:1〜9を読んでください。ペトロは、彼がイエスについて知っていたことによって、強い感銘を受けていたに違いありません。この奇跡が起こる前だというのに、イエスが網を降ろしてみなさいとその漁師の一団におっしゃったとき、ペトロは——何も獲れていなかったので疑わしく思いながらも——「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えています。ペトロはイエスについてすでに多少知っており、その知識のゆえに彼は従わずにはいられなかったようです。確かに、この出来事が起こる前のしばらくの間、ペトロがすでにイエスと一緒にいたことを示す証拠があります。
もしかすると鍵の一つは、この魚の奇跡の前に起こったことについて記しているルカ5:3にあるかもしれません——「そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」。たぶんここでのイエスの言葉が、ペトロに初めて深い感銘を与えたものだったのでしょう。
しかし魚の奇跡のあと、ペトロはそれ以上のもの、つまり自分の罪深さとは対照的な何か聖なるものをイエスの中に感じました。ペトロが自分の罪深さを自覚し、それをみんなの前で進んで認めたことは、彼がどれほど主に心を開いていたかを示しています。彼が主に召されたのも不思議ではありません。ペトロの欠点がどのようなものであれ、またそれがどれほど多かろうと、彼は霊的な人であり、犠牲を払ってでも主に従う心の準備ができていたのです。
問1
ルカ5:11を読んでください。ここでの極めて重要な原則は何ですか。イエスがどのような献身を求めておられるかについて、この聖句は何を教えていますか。網が魚であふれていたときに、この漁師たちが進んですべてを捨てたことから、私たちは何を学ぶべきですか。
キリストを告白する
イエスの物語における重要なときの一つが、ペトロとの会話の中で生まれました。イエスは、何人かの律法学者やファリサイ派の人々に対応されたばかりでした。彼らは、イエスの正体を証明するしるしを見せるように、と迫りました(マタ16:1〜4参照)。その後、弟子たちとだけになったとき、イエスはかつてなさった奇跡について語られました。それは、わずかなパンと魚で何千人もの給食をした二度の奇跡でした。イエスは弟子たちに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種」(マタ16:11)に対する警告を与えるためにこれらのことを語られました。
マタイ16:13〜17を読んでください。ペトロは、イエスに対する信仰を大胆に語りました。マタイ16:20によると、イエスがメシアであるというペトロの告白を、ほかの弟子たちも共有しました。ペトロを含め、弟子たちは学ぶべきことがまだありましたが、これはイエスの働きにおいて転換点になった出来事でした。
「弟子たちは、キリストがこの世の王として統治されるものと、まだ期待していた。キリストはご自分の計画を長い間かくしてこられたが、いつまでも世に知られず貧しいままであられるとは限らないのだ、イエスが王国を建設される時は近づいているのだと、弟子たちは信じていた。祭司たちとラビたちの憎しみは決して克服されないということや、キリストがご自分の国民からこばまれ、欺瞞者として非難され、犯罪者として十字架につけられるなどという考えを、弟子たちは決していだいたことがなかった」(『希望への光』887、888ページ、『各時代の希望』中巻183、184ページ)。
弟子たちからメシアとして認められるとすぐに、苦しみを受けて死なねばならないことを教え始められます(マタ16:21〜23参照)。それはペトロにとって受け入れがたい考えでした。ペトロはイエスを「叱責」します。するとイエスは振り向いて、「サタン、引き下がれ」(同16:23)とペトロに言われました。それは、主が公生涯の中で言われた厳しい言葉の一つですが、ペトロを思っての言葉でした。ペトロの言葉は、彼の願望、彼が望む利己的な態度を反映していました。イエスは(実際にはサタンに向かって話しておられ、ペトロはサタンのメッセージを受けたのですが)、その場でペトロを制止しなければなりませんでした。主に仕えることには苦しみが伴うことを、ペトロは学ぶ必要がありました。この教訓を学んだことは、彼が後に書いていることの中で明らかです(Iペト4:12参照)。
水の上を歩く
弟子たちはイエスと一緒にいたとき、多くの驚くべきことを目にしましたが、マタイ14:13〜33、マルコ6:30〜52、ヨハネ6:1〜21に記されている出来事に匹敵するものはわずかしかありません。イエスは5つのパンと2匹の魚を用いて5000人以上の人に食事をお与えになりました。このようなことを目撃したあと、再び弟子たちの頭の中をどんな思いがよぎったでしょうか。
マタイ14:22〜33を読んでください。群衆に食事を与えるという出来事によって、弟子たちはイエスの力を驚くべき形で目撃しました。イエスは自然界を支配する力を本当にお持ちでした。そのことは、ペトロがかなり大胆な願い事、というよりも厚かましい願い事をする手助けになったはずです。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(マタ14:28)。なんという信仰の表明でしょう!
すると、イエスはこの信仰を認めて、「来なさい」とペトロに言われ、彼はそのとおりにしました。それはペトロの信仰のさらなる表明でした。穏やかな水の上を歩くのも信仰の表明ではあったでしょうが、ペトロは嵐のさなかでそうしました。
この物語のお決まりの教訓は、イエスから目を逸らすことに関する教訓です。しかし、ここにはそれ以上のものがあります。ペトロはイエスを心から信じていたに違いありません。さもなければ、このような願い事をして実行したりしなかったでしょう。しかし、ひとたび行動に移ると、彼は恐ろしくなってきて、その恐れの中で沈み始めました。
なぜでしょうか。ペトロの恐れにもかかわらず、イエスは彼を沈まないようにおできにならなかったのでしょうか。しかしイエスは、ペトロが無力感の中で、「主よ、助けてください」(マタ14:30)と叫ぶ以外に何もできない状態になることをお許しになりました。それからイエスは手を伸ばし、ペトロが願ったことをされました。そのような体の接触なしにペトロを沈まないようにできたにもかかわらず、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ(た)」(同14:31)という事実は、イエスに信頼することをどれほど身に付けねばならないかをペトロに気づかせるのに間違いなく役立ちました。
私たちは主の力を信じ、強い信仰で物事を始めることができます。が、恐ろしい状況がやって来るとき、イエスがペトロに言われた言葉を思い出さねばなりません。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタ14:31)。
主を否認する
ルカ22:31〜34、54〜62を読んでください。ペトロの動機は良いものでした。しかも実際に、彼はほかの弟子たちより勇気を見せました。ペトロは、イエスにどんなことが起きるのかを知ろうとして、実際に主のあとを追いました。しかしその際に、彼は自分の正体を隠すことにしました。つまり「良い事と正しい事」の道から外れたこの妥協が原因となって、イエスの警告どおりに、ペトロを三度も主の否認へと導きました。ここでのペトロの物語は、妥協がいかに悲惨な結果を生じうるかという点において、悲しい意味でとても教訓的です。
知ってのとおり、キリスト教の歴史は、クリスチャンが極めて重要な真理を妥協させることで生じた悲惨な結果によって汚されてきました。人生にはしばしば妥協が伴い、ときとして私たちは譲り合う必要がありますが、極めて重要な真理に関しては、私たちの立場を貫かねばなりません。人間として、私たちはどのような状況下でも決して妥協してはならないものが何かを、学ばなければならないのです(例えば、黙14:12参照)。
エレン・G・ホワイトによれば、ペトロの妥協と失敗はゲツセマネで始まりました。あのとき、彼は祈る代わりに眠ってしまい、これから起こることに霊的準備ができなかったからです。もしペトロが忠実に祈っていたなら、「彼は主をこばむようなことをしなかったであろう」(『希望への光』1050ページ、『各時代の希望』下巻211ページ)と、彼女は書いています。
確かに、ペトロはひどい失敗をしました。しかし、彼の失敗が大きければ、神の恵みはさらに一層大きいのです。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ロマ5:20)。ペトロを初代教会の重要な指導者の1人にしたのは、キリストの赦しでした。私たちすべての者にとって、神の恵みの現実に関する、なんと説得力のある教訓でしょう。私たちの失敗にもかかわらず、信仰において前進すべきだという、なんという教訓でしょうか!
確かに、ペトロは赦されるということの意味を知っていました。福音がどのようなものであるかを、彼は直接体験して知っていました。彼が自分の人間的罪深さの現実だけでなく、罪人に対する神の愛と恵みの大きさと深さを味わったからです。
教会の指導者としてのペトロ
イエスの公生涯の間、ペトロはしばしば十二弟子のリーダー役を果たしました。たいてい彼が弟子たちの代弁者でした。マタイは弟子たちを列挙するとき、「まずペトロ……」(マタ10:2)と記しています。ペトロはまた、初代教会において重要な役割を担いました。イエスを裏切ったイスカリオテのユダに代わる弟子を任命するために率先して動いたのは、ペトロでした(使徒1:15〜25)。五旬祭の日、群衆に向かって、目にしているのは約束された聖霊の賜物、神が御自分の民に注がれたものだ、と説明したのもペトロでした(同2:14〜36)。死者の復活について話したために逮捕されたとき、大祭司と集められたユダヤ人指導者たちに向かって語ったのもペトロでした(同4:1〜12)。イエスの弟子として最初に受け入れられた異邦人、コルネリウスのもとに導かれたのもペトロでした(同10:1〜48)。回心後、パウロが初めてエルサレムへ来たとき、15日間滞在したのもペトロの家でした(ガラ1:18)。当時のエルサレムにおけるイエスの弟子たちの集団を説明するとき、パウロは教会の3本の「柱」を明らかにしています。ペトロ、イエスの兄弟ヤコブ、主に愛された弟子ヨハネの3人です(同2:9)。
ガラテヤ1:18、19、2:9、11〜14を読んでください。教会の指導者であり、はっきりと主に召された者であるにもかかわらず(イエスはペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」〔ヨハ21:17〕と言われました)、「どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか」(使徒10:28)呼んではならないことに関する幻を見せられた者であるにもかかわらず、ペトロにはまだ成長すべき部分がありました。
教会の初期、ほとんどのクリスチャンはユダヤ人で、彼らの多くは「律法に熱心」(使徒21:20、口語訳)でした。彼らの律法解釈では、異邦人と食事をすることには問題がありました。なぜなら、異邦人は汚れていると考えられていたからです。エルサレムのヤコブのもとから何人かのユダヤ人クリスチャンがやって来たとき、ペトロはアンティオキアで異邦人と食事をすることをやめました。
パウロにとって、そのような行為は福音そのものに対する攻撃でした。彼はペトロの行動を明らかな偽善とみなし、恐れることなく、そのことでペトロに異議を唱えました。それどころか、パウロはこの機会を用いて、キリスト教信仰の主要な教えである「信仰による義認」を表明しました(ガラ2:14〜16参照)。
さらなる研究
参考資料として『各時代の希望』第25章「海辺での召し」、第40章「湖上の一夜」を読んでください。
その漁師が早くに自分の罪を認めたことから、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)とイエスについて大胆に宣言したことや、不快にも彼の主を否認したことや、教会の指導者として功績も失敗も残したことに至るまで、ペトロは確かに中心的な人物でした。それゆえ、彼は聖霊の完璧な導きのもとで、神学的知識からだけでなく、経験そのものからも書くことができたのです。ペトロはキリストの救いの恵みだけでなく、人を変える恵みも知っていました。「彼〔ペトロ〕が大きな失敗を犯す前、彼は厚かましく、尊大で、一時の感情に駆られて軽率に語った。彼はいつも、自分自身や言うべきことをはっきり理解する前に、ほかの人を正したり、自分の考えをあらわしたりする傾向があった。しかしペトロは回心し、回心後の彼は、性急で衝動的なペトロとはまったく違った。彼はかつての情熱をとどめつつも、キリストの恵みがその熱意を制御した。衝動的で、自信過剰で、自己称揚的である代わりに、彼は穏やかで、冷静で、素直だった。それゆえ、彼はキリストの群れの羊だけでなく小羊をも飼うことができたのである」(『教会への証』第5巻334、335ページ、英文)。
私たちの中に、少しもペトロに共感できない人がいるでしょうか。ときとして、自分の信仰のために勇敢に戦ったことのない人がいるでしょうか。そして、ときとして、惨めに失敗したことのない人がいるでしょうか。
第2課 朽ちない財産
第2課 朽ちない財産
聖書を、とりわけ一つの書やその一部分に焦点を合わせて学ぶときはいつでも、可能であれば、いくつかの質問が問われる必要があります。
第一に、対象とする読者がだれであるかを知るのは、良いことでしょう。第二に、おそらくもっと重要なことですが、執筆の正確な理由が何であるかを知るのは、良いことでしょう。(もし問題があるとしたら)著者が取り組みたいと思っている特定の問題は、何だったのでしょうか(例えば、救いと律法について教えられていた神学的誤りに関して、パウロがガラテヤの信徒に書き送ったように……)。知ってのとおり、新約聖書の多くは書簡として、つまり手紙として書かれたのであり、人々が手紙を書くのは、たいていの場合、受け取り手に具体的なメッセージを伝えるためでした。
言い換えれば、私たちがペトロの手紙を読むとき、その手紙の歴史的背景をできるだけたくさん知るのは、良いことでしょう。「彼は何と書いているのか」「それはなぜなのか」。そして言うまでもなく、何よりまず、「(聖霊の導きのもと、その手紙が人々に書かれたように)私たちはそこからどんなメッセージを引き出すことができますか」……。
そして、これからすぐ見ていくように、ペトロは最初の数節の中にも、執筆当時から何世紀も離れた私たちに示すために重要な真理をたくさん込めています。
離散している人たちへ
もしあなたが、「担当者様」と書かれた1枚の紙を受け取ったなら、その紙は、あなたと親しくない人から送られてきた手紙だ、と推測するはずです。
現代の手紙に定型の書き出しがあるように、古代の手紙にもそのようなものがありました。Iペトロの手紙は、古代の手紙らしく始まっています。その書き出しは、手紙の執筆者と手紙がだれに送られるかを明らかにしています。
Iペトロ1:1を読んでください。ペトロは、自分がだれであるかを明確にしています。彼の名前が手紙の最初の言葉です。しかし、彼はすぐに自分のことを「イエス・キリストの使徒」と説明しています。パウロがしばしばそうしたように(ガラ1:1、ロマ1:1、エフェ1:1)、神の召しをこのように強調することで、ペトロは直ちに自分の「資格」を証明しています。彼は「使徒」、つまり「派遣された者」であり、彼を派遣した方は主イエス・キリストでした。
次にペトロは、彼の手紙の送り先である地域を明らかにしています。「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア」。これらはすべて、現代のトルコに相当する小アジア内の地域です。
ペトロがおもにユダヤ人信徒に向けて書いているのか、異邦人信徒に向けて書いているのかを巡っては、議論があります。ペトロがIペトロ1:1で用いている「離散して」「仮住まいをしている」といった言葉は、1世紀の聖地の外に住むユダヤ人に本来用いられるものです。次の2節における「聖なる」「選ばれた」といった言葉は、ユダヤ人にもクリスチャンにも同様に当てはまります。共同体の外の人たちを「異教徒」(Iペト2:12)とか「異邦人」(同4:3)と表現していることも、ペトロが書き送っている相手のユダヤ人的特徴を際立たせています。
それに対して、注釈者たちの中には、ペトロがIペトロ1:18、4:3で言っている内容は、ユダヤ人のキリスト教改宗者よりも異邦人改宗者に向けて語られたほうがずっとふさわしいだろう、と論じる人もいます。結局のところ、ペトロは「先祖伝来のむなしい生活」(Iペトロ1:18)についてユダヤ人に書いたのでしょうか。それともユダヤ人読者に、「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です」(同4:3)と言おうとしたのでしょうか。
しかし、私たちにとってもっと重要なのは、だれが手紙の受け取り手であったかということより、むしろメッセージの内容です。
選ばれた
Iペトロ1:2を読んでください。特にユダヤ人信徒に向けて書いていようと、異邦人信徒に向けて書いていようと、ペトロは次の1点に関しては確信しています。彼らは「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて……選ばれた」(Iペト1:2)という点です。
しかし、私たちはここで注意する必要があります。この聖句は、だれが救われ、だれが滅びるかを神が運命づけておられるとか、幸運にも、ペトロが手紙を書いている相手は、救われるためにたまたま神によって選ばれた者たちであり、それ以外の人たちは神によって滅ぼされるために選ばれているのだ、などということを意味しているのではありません。聖書はそのようなことを教えていません。
問1
Iテモテ2:4、IIペトロ3:9、ヨハネ3:16、エゼキエル33:11を読んでください。ペトロがどういう意味でこの人たちを「選ばれた人たち」と呼んだのかを理解するうえで、これらの聖句はいかに助けとなりますか。
すべての人が救われることは、神の御計画、地球が造られる前に立てられた計画であると、聖書ははっきり述べています。「天地創造の前に、神はわたしたちを……お選びになりました」(エフェ1:4)。すべての人が救われ、だれも滅びないことが神の本来の目的であったという意味において、「皆」が「選ばれ(る)」のです。神は人類すべてに永遠の命を前もって定められました。これは、たとえ、すべての人がその贖いの提供するものを受け取るわけではないとしても、だれもが贖われるために、救いの計画が十分であったことを意味します。
選びに関する神の予知とは、彼らの自由選択が救いに関してどうなるかを、神が単純に前もって知っておられるということです。この予知は、彼らの選択をまったく左右しません。自分の子どもがインゲン豆よりチョコレートケーキを選ぶだろうことを母親が前もって知っているからといって、彼女の予知が子どもの選択を左右したことにはなりません。それと同じです。
鍵となる主題
問2
Iペトロ1:3〜12を読んでください。これらの聖句におけるペトロの中心メッセージは何ですか。
Iペトロ1:1、2における読者への挨拶の中で、ペトロはすでに、父、御子、聖霊に触れていました。そして、神の神性の三者が、Iペトロ1:3〜12における主題を成しています。父と御子が3〜9節の主題であり、聖霊は10〜12節で際立っています。ペトロは、父、御子、そして聖霊の働きについて記しながら、あとで再び扱う多くの主題を提示しています。
クリスチャンは新たに生まれたものだと、ペトロは論じ始めます(Iペト1:3、さらにヨハ3:7参照)。クリスチャンの全人生は、イエスの復活と、彼らを天で待つすばらしい財産によってすっかり変えられました。新約聖書の多くのほかの箇所と同じく、ここでもイエスの復活がクリスチャンの希望の鍵です。
ペトロの手紙Iを読んでいる多くの人が苦しんでいるという事実にもかかわらず、クリスチャンが喜ぶ理由はこの希望にあります。苦しみは、火が金を溶かし、精錬するように、彼らの信仰を試し、精錬します。ペトロの書簡の読者は、イエスが地上で働かれたときに会ったことはありませんでしたが、それでも彼を愛し、信じています。そして、イエスに対する彼らの信仰の結果が、救いと、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」(Iペト1:4)という約束です。
ペトロはまた、昔の預言者たちが「あなたがたに与えられる恵み」(Iペト1:10)を預言したことを彼らに知らせています。旧約聖書の預言者たちは、この人たちが今イエスにあって体験している救いについて「探求し、注意深く調べました」(同)。彼らが信仰に対する迫害によって苦しむとき、彼らは、ずっと広範囲に及ぶ善と悪の戦いの一部なのだと、ペトロは指摘します。結局のところペトロは、彼らが試練のさなかにあっても信仰に忠実であるよう、助けようとしています。
救いの人生を送る
Iペトロ1:13〜21を読んでください。13節の冒頭にある「だから」という言葉は、ペトロが次に言おうとしていることが、たった今語ったことに基づいていることを示しています。昨日の研究で触れたように、ペトロはこれまで、神の恵みとイエス・キリストにあってクリスチャンが抱いている希望について語ってきました(Iペト1:3〜12)。
この恵みと希望の結果として、ペトロは彼の読者に、「心を引き締め……なさい」(Iペト1:13)と勧めています。つまり、彼らがイエスにあって持っている救いに対する応答として、彼らは固く立ち忠実であるために、心の備えをしなければならないということです(同)。
Iペトロ1:13を読み直してください。疑いの余地なく、彼らの希望はただイエスにかかっていると、ペトロは言っています。が、続いて彼は、クリスチャンには救いの結果として、一定水準の行動が求められている、と強調しています。ペトロはクリスチャンの行動の背後にある三つの大きな動機を指摘しています。神の御品性(Iペト1:15、16)、近づいている裁き(同1:17)、贖いの代償(同1:17〜21)の三つです。
クリスチャンの行動を動機づける最初のものは、神の御品性です。この御品性は、「神は聖なる方」という言葉で要約できるでしょう。ペトロはレビ記11:44、45から引用して、「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」(Iペト1:16)と記しています。それゆえ、イエスに従う者たちも聖なる者である必要があります(同15〜17節)。
クリスチャンの行動の第二の動機は、聖なる方である神が、すべての人を公平に、各自の行いに従って裁かれるという認識の中にあります(Iペト1:17)。
第三の動機は、クリスチャンが贖われているという大いなる真理から生じます。これは、彼らが代償によって、しかも非常に大きな代償——キリストの尊い血(Iペト1:19)——によって買い取られたということです。ペトロは、イエスの死が歴史上の偶然ではなく、天地創造の前から定められていたものであったと強調しています。
互いに愛し合う
ペトロは次に、清く忠実な人生を送るとはどういうことなのか、その究極のあらわれ方へとクリスチャンを導きます。
Iペトロ1:22〜25を読んでください。ペトロの主張の出発点は、クリスチャンがすでに清められており(「あなたがたは、……清め……たのですから」)、真理を受け入れて生きているという点です(Iペト1:22)。この「清める」という動詞は、ペトロが数節前に記した「聖なる」とか「聖」といった言葉と密接に関係しています(同1:15)。イエスへの献身とバプテスマを通して(同3:21、22と比較)、クリスチャンは神のために自分を取りのけることで自分自身を清めました。彼らは真理に従うことによって、これを行います。
彼らの人生におけるこのような変化には、気づけば、今や同じ世界観を共有する者たちと親しい関係になっているという当然の結果が伴います。彼らの関係は非常に親しいので、ペトロは彼らを描くのに家族という言葉を用いています。クリスチャンは兄弟愛や姉妹愛から行動して当然です。ペトロが「兄弟愛」について語る際にIペトロ1:22で使っているギリシア語「フィラデルフィア」は、文字どおりには「兄弟姉妹の愛」を意味しています。それは、家族が互いに対して持っている愛のことです。
ギリシア語には「愛」と訳されている言葉がいくつかあります。「フィリア」(友情)、「エロス」(夫婦の情熱的な愛)、「アガペー」(他者の役に立とうとする純粋な愛)など。ペトロが「深く愛し合いなさい」(Iペト1:22)と記す際に用いている「愛」は、通常、他者の役に立とうとする純粋な愛を意味する「アガペー」と関連しています。だからこそ彼は、「愛し合いなさい」という言葉に「清い心で」(同)——朽ちない神の御言葉を通して「新たに生まれた」(同1:23、さらに1:3参照)ことによって生じる心で——と付け加えています。このような種類の愛は、神によってしか生じません。それは、身勝手で、自己中心的で、生まれ変わっていない心からあらわれるものではなく、それゆえにペトロは、清められることや「真理を受け入れる」(同1:22)ことを強調しています。真理は、単に信じるだけのものでなく、それに従って生きるものなのです。
さらなる研究
ペトロの手紙Iの第1章の内容の豊かさ、深さ、広さは、驚くべきものです。ペトロは、父、御子、聖霊を登場させ、神である方の御品性を瞑想することで彼の書簡を書き始めています。父なる神は、子なるイエス・キリストを救い主としてお与えになりました。そして私たちは、清められ、従うためにキリストにあって選ばれます。私たちはイエスを愛すようになり、彼のゆえに、高められた喜びに満ちあふれています。なぜなら、私たちはイエスの死と復活によって、「朽ちない財産」が天にあるという約束を持っているからです。それゆえ、私たちは試練のさなかにあっても、キリストによって私たちに与えられた救いを大いに喜ぶことができます。「彼〔ペトロ〕の手紙は、試練や苦難に耐えている者たちの勇気を奮い起こさせ、信仰を強め、また、多くの誘惑の中で神とのつながりを失う危険に陥っている者たちを、再び良い働きに励ませる手段となった」(『患難から栄光へ』下巻216ページ)。一方、聖霊は、ペトロと彼の読者たちが生きている時代の概要を説明するために、預言者たちを通じて働かれました。結果としてクリスチャンは、「清い心」から生じた愛で特徴づけられる共同体の中で、真理への服従にあふれた清い生活を送らなければなりません。
第3課 王の系統を引く祭司
第3課 王の系統を引く祭司
ペトロは、ユダヤ人の文化、宗教、歴史の中にどっぷり漬かっていたので、彼が手紙を書き送っている相手のクリスチャンを「聖なる国民、神のものとなった民」と呼んでいます。そうすることによって彼は、旧約聖書が古代イスラエルを指すために用いている契約用語を使い、ここでそれを新約聖書の教会に適用しています。
それもそのはず。イエスを信じる異邦人信徒は、神の契約の民に接ぎ木されたからです。今や彼らも、契約上の約束にあずかる者です。「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(ロマ11:17、18)。
今回学ぶ箇所(Iペト2:1〜10)において、ペトロは読者に聖なる責任と高い召しを指し示しています。その責任と召しは、彼らが神の契約の民、(パウロの言葉を使えば)オリーブの木に接ぎ木された者たちとして持っているものです。そしてそれらの責任は、古代イスラエルが持っていた責任と同じであり、主によって提供される救いの大いなる真理を宣べ伝えることです。
クリスチャンとして生きる
Iペトロ2:1は、「だから」で始まっています。つまり、これから述べることは、これまでに述べたことに基づいているということです。すでに見たとおり、ペトロの手紙Iの第1章は、キリストが私たちのために成し遂げられたことと、私たちがそれにどう応えうるかということに関する「力作」でした。第2章において、ペトロはこの主題を取り上げ、それをさらに考えています。
Iペトロ2:1〜3を読んでください。クリスチャンには二つの義務があることを示すために、ペトロは関連性のない二つのたとえを用いています。一つは(不要なものを捨てる)否定的であり、もう一つは(しようと努める)肯定的です。
最初のたとえ(説明)においてペトロは、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」(Iペト2:1)を捨て去りなさい、とクリスチャンに勧めています。そうすることでクリスチャンは、周囲にいる多くの人とは違ったふるまいをするでしょう。彼らは悪意を捨て去ったので、ほかの人を傷つけたいとは思わず、それどころか彼らの役に立とうとするでしょう。クリスチャンは偽善を捨て去ったので、ほかの人をだますために行動したりせず、率直かつ正直にしているでしょう。クリスチャンは自分より多く持っている人をねたまないでしょう。彼らは自分の人生に満足し、神の導きによって置かれた場所で花を咲かせます。彼らはほかの人の評判を傷つけるようなことをわざと言ったりしません。
ペトロが用いている第二のたとえ——乳に飢えている赤子(Iペト2:2)——は、彼の勧めの肯定的な側面です。クリスチャン生活は、単に悪いものを捨てるだけではありません。そんな生活はむなしいでしょう。そうではなく、クリスチャン生活は、空腹の赤子が乳を求めて泣き叫ぶのと同じ激しさで霊的栄養を求める生活です。ペトロは読者に、霊的栄養の源である神の御言葉、つまり聖書を指し示しています(ヘブ4:12、マタ22:29、IIテモ3:15〜17も参照)。私たちが霊的、道徳的に成長できるのは、神の御言葉によってです。なぜなら、イエス・キリストが(少なくとも私たちにとって)最大限に啓示されているのは、その中においてだからです。そして、私たちが愛し、お仕えすべき聖なる神の御品性と御性質は、そのイエスの中に最もあらわれているのです。
生きた石
Iペトロ2:4〜8を読んでください(イザ28:16、詩編118:22、イザ8:14、15も参照)。ペトロは、霊的栄養を求めなさい、と読者に語ったあと、すぐに彼らの注意をイエス・キリスト、生きた石(エルサレム神殿のこと)に向けます。また、ペトロは、旧約聖書の三つの箇所を引用しており、それらの箇所は、教会におけるイエスの役割をあらわす隅の石の重要性を強調しています。これらの聖句をイエスに結びつけたのは、ペトロだけではありません。イエス御自身が、一つのたとえ話の締めくくり(マタ21:42)において、詩編118:22を用いておられます。ペトロはユダヤ人指導者に向けた演説の中でも同様にしています(使徒4:11)。またパウロは、イザヤ28:16をローマ9:33で用いています。
イエスは拒絶され、十字架にかけられたが、彼は神の霊的な家の隅の石として、神によって選ばれた方であった、というのがペトロの主張の要点です。そしてクリスチャンは、この霊的な家に組み込まれる生きた石です。隅の石、建築用の石といった専門用語を用いることで、ペトロは教会のイメージを表現しています。教会はイエスの上に築かれていますが、彼に従う者たちによってできます。
クリスチャンになるというのは、クリスチャン共同体か地域の教会の一部になることを意味するという点に注目してください。ちょうど一つのれんがが大きな建築物に組み込まれるように、クリスチャンは他の仲間から離れてイエスの弟子になるように召されたのではありません。神の国を広げるために、仲間のクリスチャンと一緒に礼拝したり、働いたりしないクリスチャンは、矛盾しています。クリスチャンはバプテスマを受けてキリストのものとなることによって、彼らはキリストの教会の一部となるのです。
ペトロはまた、教会の機能についても述べています。教会は、「霊的ないけにえ」をささげる「聖なる祭司」(Iペト2:5)によって構成されます。旧約聖書において、祭司は神とその民とを仲介しています。新約聖書において、ペトロやほかの聖書記者たちは、教会を神の生ける神殿、神の民を神殿の祭司として示すために、神殿や祭司といった言葉を用いています。ペトロは、今日のクリスチャンがいかに生き、行動しうるかについての真理を明らかにするために、旧約聖書の礼拝形式を指し示しています。
神の契約の民
ペトロは旧約聖書の視点から大いに書いています。そして、この視点の中心になっているのは、契約という考えであり、契約はユダヤ教神学とキリスト教神学の中心的主題です。
契約とは何でしょうか。「契約」を意味するヘブライ語の「ベリト」は、二者の間における条約とか、正式な協定を意味します。契約は、2人の個人の間(例えば、創世記31:44におけるヤコブとラバン)や2人の王の間(例えば、王上5:26〔口語訳5:12〕におけるソロモンとヒラム。新共同訳では「条約」)で結ばれることもあれば、王と民の間(例えば、サム下5:3におけるダビデとイスラエルの長老たち)で結ばれることもありました。これらの契約の中で最も目立つのは、神と神の選民(アブラハムの子孫)との間に存在する特別な契約関係です。
創世記17:1〜4、出エジプト記2:24、24:3〜8を読んでください。聖書の最初の書である創世記は、神がどのようにアブラハムと契約を結ばれたのかを詳しく記しています(創15:9〜21、17:1〜26)。神は、御自分の民をエジプトにおける苦しみから救う際に、この契約を「思い起こされ」(出2:24)ました。またモーセの時代に、十戒とそのほかの律法をイスラエルの子らにお与えになったとき、神はこの契約を結び直されました(出19:1〜24:8、特に24:3〜8)。
しかし、契約上の約束は無条件ではありません。「主は、もし彼らが主の要求を忠実に守るなら、すべての収穫物において、あるいは従事しているすべての仕事において彼らを祝福する、と契約されたのである」(『教会への証』第2巻574ページ、英文)。
確かに預言者たちは、契約を連想させる言葉をしばしば用いながら、神の律法に従わないことの危険性を繰り返しイスラエルに警告しました。ダニエル書や黙示録の預言の例外を除けば、聖書の中の多くの預言は条件付きであると言われてきました。契約上の約束にとって、それほど服従という考えは重要です。契約による祝福の預言は、神の律法への服従が条件であり、災いの預言は服従しない者たちにのみ適用されます。
王の系統を引く祭司
出エジプト記19章において、主はモーセに言われました。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出19:3〜6)。
ここには、十字架の何千年も前に明らかにされた福音のメッセージがあります。つまり、神は御自分の民を贖い、彼らを罪と罪の縄目から救い、それから彼らに、御自分と世界の前で特別な契約の民として神を愛し、神に従いなさい、と命じています。
Iペトロ2:5、9、10と出エジプト記19:6を読んでください。クリスチャンを「王の系統を引く祭司、聖なる国民」と呼ぶこの言葉は私たちセブンスデー・アドベンチストに、私たちの義務を物語っています。「霊的な家」「選ばれた民」「王の系統を引く祭司」「神のものとなった民」は、いずれも聖書の中で、神がアブラムの子孫と持っておられた特別な関係をあらわす名誉ある言葉です。今や新約聖書の中で、つまりイエスと十字架という背景の中で、ペトロは同じ契約の言葉を用いて、それを教会員に当てはめています。イスラエルに対してなされた契約上の約束が、今やイエスを信じるユダヤ人だけでなく、異邦人信徒を含むまでに広げられているのです。そうです。イエスによって異邦人も、自分はアブラハムの子孫である、と主張できます。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(ガラ3:29)。キリストによってだれでも、生まれに関係なく、この「王の系統を引く祭司」の一員になることができるのです。
力ある業を広く伝える
旧約聖書の教会との類似点は、救いや、神によって召され、選ばれたことだけではありませんでした。問題は、何のために召され、何のために選ばれたのかということです。ペトロはすぐに答えています。
この特別な関係は一つの目的のためだと、ペトロは指摘しています。「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(Iペト2:9)。これは、古代イスラエルがしなければならなかったことです。神が彼らを召されたのは、この世に対する神の証人とするためでした。神の目的は、古代イスラエル、つまり御自分の契約の民を通してこの世を祝福することだったのです。
次の聖句を読んでください(申4:6、26:18、19、イザ60:1〜3、ゼカ8:23)。契約の民である古代イスラエルは、主によって与えられた救いという福音をこの世に届けるという使命を持っていました。クリスチャンも同じ天来の使命を持っています。クリスチャンは、神に関する彼らの体験や知識、また神がキリストによってこの世のために成し遂げてくださったことを、ほかの人に伝えるために召されているのです。
Iペトロ2:10を読んでください。この聖句は、クリスチャンのあらゆる使命と目的にとって、重要です。この世は、罪や死や差し迫った破滅にあふれています。しかしイエスは、この滅びから全ての人を救うためにご自分の命を与えてくださいました。古代イスラエルと同様、名誉という言い方は、責任という言い方でもあるのです。クリスチャンは極めて高い地位、神の民という地位にいます。しかしこのことは、ほかの人を招いてその高い地位を共有させるという責任をもたらすのです。Iペトロ2:10が述べているように、今やクリスチャンは自ら一つの民を形成しています。彼らはかつて民ではありませんでしたが、今や憐れみを受けて聖なる民になったのです(ホセ1、2章参照)。聖書において、「聖なる」という言葉は、礼拝のために分離されることを通常意味します。ですから、「聖なる」民であるクリスチャンは、この世から分離されなければなりません。彼らの生き方に違いが見られなければならないのです。クリスチャンはまた、人々をその温かさのゆえに引きつける、寒い夜の火のようでなければなりません。クリスチャンは、彼らがあずかった輝かしい救いをほかの人にも伝える任務を課せられています。
さらなる研究
「教会は、神の目に非常に尊いものである。その外面の装いではなく、世とは全くかけ離れた誠実な敬神さのゆえに、神は教会を重んじられるのである。神は、その教会員がキリストを知る知識にどの程度成長しているか、また、霊的な経験にどの程度進んでいるかによって教会を評価なさる。
キリストはそのぶどう園から、清潔と無我という実を得たいと渇望しておられる。キリストは、愛と善意の原則を求めておられる。いかなる美術品であっても、キリストの代表者である人々のうちに、現されるべき性質と品性の美には匹敵できない。信ずる者を生命から生命に至る香りとし、そのわざに神の祝福をもたらすものは、彼の魂をつつむ恵みの雰囲気である」(『希望への光』1302ページ、『キリストの実物教訓』277ページ)。
第4課 社会的関係
第4課 社会的関係
ペトロの手紙は、当時の難しい社会問題のいくつかにも真正面から取り組んでいます。例えば、クリスチャンは抑圧的で腐敗した政府と——彼らのほとんどが当時体験していた異教のローマ帝国のような政府と——いかに共存すべきか、といった問題です。ペトロは読者に何と言っていますか。彼の言葉は、今日の私たちにとってどういう意味があるでしょうか。
クリスチャンの奴隷は、彼らの主人から厳しく不正に扱われるとき、いかに応じるべきでしょうか。現代の雇用主対被雇用者の関係は、1世紀の主人対奴隷の関係とは異なりますが、ペトロが語っていることは、理不尽な上司に対応しなければならない人々の心に、間違いなく響くでしょう。とても興味深いことに、クリスチャンがひどい扱いを受けたときにいかにふるまうべきかの模範として、ペトロはイエスと、同様のことに対するイエスのふるまいを挙げています(Iペト2:21〜24)。夫と妻は、とりわけ信仰心のような基本的な事柄において意見が異なるとき、いかに接しうるでしょうか。
最後に、実際問題として、社会的、政治的秩序が明らかに腐敗していて、キリスト教信仰に反するとき、クリスチャンはその社会秩序といかに関係しうるでしょうか。
教会と国家
聖書はずいぶん前に書かれたものですが、それにもかかわらず、クリスチャンと政府の関係といったような、今日的にも有意義な問題に触れています。
時として、その関係は明瞭です。黙示録13章は、政治権力に従うことが神に背くことを意味する時代について述べています。そのような場合、私たちが選びうる道は明らかです(木曜日の研究参照)。
Iペトロ2:13〜17を読んでください。ローマ帝国の悪は、その領土内に住む人たちによく知られていました。この帝国は、冷酷な軍隊を用いながら、野心的な男たちの多少気まぐれな意志に基づいて大きくなってきました。暴力によるあらゆる抵抗に遭遇しました。組織的な拷問と十字架刑による死が、この帝国が罰する者たちに与えたわずか二つの恐怖でした。ローマ政府は、縁故主義と腐敗によってむしばまれていました。支配層のエリートたちは、まったく傲慢かつ冷酷に権力を行使しました。こういったことにもかかわらず、ペトロは読者に、帝国内において人間が立てたすべての制度の権威を、皇帝から総督に至るまで認めなさい、と勧めています(Iペト2:13、14)。
ペトロは、皇帝や総督たちが悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめると論じています(Iペト2:14)。そうすることで、彼らは社会を形作るうえで重要な役割を果たします。
実際、数々の欠点にもかかわらず、ローマ帝国は安定をもたらしました。戦争をなくしました。過酷な正義ながらも、法の支配に基づく正義を広めました。道路を建設し、軍事上の必要を支えるための通貨制度を確立しました。そうすることによってローマは、人口が増え、たいていの場合繁栄できるような環境を生み出しました。このような観点から見れば、政府に関するペトロの言葉も合点がいきます。完璧な政府などありませんし、ペトロや、彼が手紙を書き送った先の教会を治めている政府も完璧ではありません。それゆえ、私たちがペトロから学べることは、クリスチャンは、たとえ彼らがそのもとで暮らしている政府が完璧には程遠いにしても、可能な限り国法に従いながら、善良な市民であろうとする必要があるということです。
主人と奴隷
Iペトロ2:18〜23を読んでください。この聖句を注意深く読むと、この箇所は、奴隷制度の承認ではなく、ある時点で変えようのない困難な状況をどう考えるかということに関する霊的勧告を与えていることがわかります。
Iペトロ2:18で「召し使い」とか「僕」と訳されているギリシア語(「オイケテース」)は、特に家事をする奴隷に用いられる言葉です。奴隷をあらわすもっと一般的な「ドゥーロス」という言葉はエフェソ6:5で使われており、この聖句も同じような助言を奴隷たちに与えています。
高度に階層化されたローマ帝国において、奴隷は、主人の完全な支配下にある法的な所有物とみなされ、主人たちは奴隷を大事にも残酷にも扱うことができました。奴隷の出どころはさまざまで、敗軍の兵士、奴隷の子ども、借金を返すために売られた者たちなどでした。中には大きな責任をゆだねられる奴隷もいました。主人の大規模な不動産を管理する者もいれば、主人の財産や事業を管理する者、主人の子どもたちを教育する者さえいました。
奴隷の自由はお金で買うことができ、そのような場合、奴隷は「贖われた」と表現されました。パウロはこの言葉を使って、イエスが私たちのために成し遂げてくださったことをあらわしています(エフェ1:7、ロマ3:24、コロ1:14)。
初期のクリスチャンの多くが奴隷であったということを覚えておくことは重要です。そういうわけで彼らは、自分たちが変えることのできない制度の中に組み込まれていることを知っていました。不幸にも厳しくて理不尽な主人を持つ者たちは、とりわけ困難な状況の中にあり、よりよい主人を持つ者たちでさえ、苦しい状況に直面することがありました。奴隷であったすべてのクリスチャンに向けたペトロの指示は、新約聖書のほかの言葉と一致しています。キリストが服従し、耐えられたように、奴隷たちも服従し、耐えなければなりません(Iペト2:18〜20)。罪を犯して、その罰を苦しんでも、何ら誉れはありません。キリストの本当の精神は、不当にも苦しんでいるときにあらわされます。イエスと同様、そのようなときにクリスチャンは仕返しをしたり、脅したりせず、公正に裁かれる神に身をゆだねます(同1:23)。
妻と夫
Iペトロ3:1〜7を読んでください。この聖句においてペトロが扱っている問題を、注意深い読者が理解できるようになる重要な糸口が聖句の中に一つあります。1節でペトロは、「御言葉を信じない」夫について語っているのだ、と述べています。言い換えれば、クリスチャンの妻がクリスチャンでない夫と結婚しているとき(たとえ、信じない者の数が少なくても)、どのようなことが起きるかについて、ペトロは語っています。
クリスチャンの妻は、信仰を異にする夫と結婚生活を送る中で、多くの難しさを感じるでしょう。そのような状況において、どうすべきでしょうか。彼女は夫と離婚するべきでしょうか。ペトロは、ほかの箇所におけるパウロと同様(Iコリ7:12〜16参照)、クリスチャンの妻が信仰のない夫から去るように勧めてはいません。むしろ、信者でない夫を持つ妻は、模範的な生活を送る必要があると、ペトロは言います。
1世紀のローマ帝国において女性たちが手にできる役割は、たいてい個々の社会によって決定されました。例えば、ローマ人の妻は、ペトロが手紙を書いている先のほとんどの女性たちより、財産や法的救済策に関する法律のもとで多くの権利を手にしていました。しかし1世紀のある社会では、女性たちが政治や行政、ほとんどの宗教の指導に関わることはできませんでした。ペトロはクリスチャンの女性たちに、自分のいる状況において称賛に値する一連の基準を持つようにと勧めています。彼は畏敬の念と純潔さを勧めています(Iペト3:2)。彼はまた、クリスチャンの女性は、流行のヘアースタイルや宝石や高価な服で身を飾ることよりも、内面的な美しさに関心を持つべきと提言しています(同3:3〜5)。クリスチャンの女性は、最も親しい形で同居する者(つまり、彼女の夫)にキリスト教を魅力的に思わせるような態度でふるまうでしょう。
ペトロの言葉は夫たちによって、いかなる形であれ、妻を虐待する許可証と受け取られるべきではあません。彼が指摘しているように、夫たちは自分の妻に思いやりを示すことができます(Iペト3:7)。
ペトロは(信者でない男性と結婚しているクリスチャンの妻という)具体的な問題を扱っていますが、私たちはクリスチャンの結婚の理想についても垣間見ることができます。クリスチャンの夫婦は互いに支え合い、日々の活動を通して神を礼拝しながら、曇りのない誠実さをもった生き方をしましょう。
社会的関係
ローマ13:1〜7、エフェソ5:22〜33、Iコリント7:12〜16、ガラテヤ3:27、28を読んでください。パウロは、Iペトロ2:11〜3:7で提起された問題のいくつかを扱っています。彼が言っていることは、ペトロの手紙Iの中に見いだされることと非常に一致しています。例えば、ペトロと同じく、「上に立つ権威」(ロマ13:1)に従いなさいと、パウロは読者に勧めています。支配者は神によって任命され、悪を行う者には恐ろしい存在、善を行う者にはそうではありません(同13:3)。従ってクリスチャンは、「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(同13:7)と言われています。
パウロはまた、信者でない夫と結婚している女性は模範的な生き方をするなら、その結果として、彼女の夫が教会に加わるでしょう、と強調しています(Iコリ7:12〜16)。パウロにとってのクリスチャンの結婚の理想は相互依存的な結婚です。夫は、キリストが教会を愛してこられたように、自分の妻を愛さなければなりません(エフェ5:25)。さらに彼は、奴隷はキリストに従うように、この世の主人に従いなさい、と勧めています(同6:5)。
つまりパウロは、法律によって定められた文化的境界の中で働こうとしていました。彼は、自分たちの文化に関して変えられることと変えられないことを理解していました。しかし、彼はまた、人間に対する社会の考え方を最終的に変えるものもキリスト教の中に見ていました。キリストが社会秩序を変えるためにいかなる種類の政治的改革も引き起こそうとなさらなかったように、ペトロも、パウロも、そうしようとはしませんでした。そうではなく、変化は敬虔な人々の影響力を社会に少しずつ与えることによって起こるのです。
問1
ガラテヤ3:27〜29を読んでください。これは明らかに神学的な発言ですが、(イエスが成し遂げてくださったことのゆえに)クリスチャンの相互の人間関係について、この聖句には説得力のあるどんな社会的な意味がありますか。
キリスト教と社会秩序
パウロも、ペトロも、人間の組織や政府が不完全であり、ときとして罪深いことを知っていました。また彼らは、政府や宗教指導者たちとの間で苦い経験を味わいました。しかしそれにもかかわらず、クリスチャンは人間の権威者に従いなさい、と勧めています(Iペト2:13〜17、ロマ13:1〜10)。クリスチャンは国民の義務として課せられる税金や労役に貢献しなさいと、彼らは言います。できる限り、クリスチャンは模範的な市民になる必要があります。
問2
使徒言行録5:27〜32を読んでください。ペトロとほかの使徒たちがこの出来事の中で実際に行ったことと、権威者に対してなすべきだ、とペトロが言う服従との間には(Iペト2:13〜17)、どのような関係がありますか。
キリスト教会の初期の成功は、ペトロとヨハネの逮捕につながりました(使徒4:1〜4)。2人は、議員、長老、律法学者たちによって尋問され、その後、説教することをやめなさい、という厳しい警告とともに釈放されます(同4:5〜23)。しかしほどなくして、彼らは再び逮捕され、なぜ権威者たちが命じたことに従わなかったのか、と問われました(同5:28)。するとペトロは、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(同5:29)と答えました。
ペトロは、言っていることとやっていることが違う偽善者ではありませんでした。神に従うか、人間に従うかが問題になったとき、その選択は明らかでした。その時点までは、たとえクリスチャンは社会的改革を起こそうと働きながらも、政府を支持し、政府に従うのです。しかし道徳的問題が争われるとき、クリスチャンはイエスの価値観や教えを反映するような社会的改革を合法的に推進することにこれまで関わってきましたし、これからも関わるでしょう。それがどのようになされるかは多くの要素によって決まりますが、忠実で誠実な市民であるというのは、クリスチャンが社会を改善できないとか、改善しようとすべきではないということを意味するわけではありません。
さらなる研究
参考資料として、『各時代の大争闘』第36章「差し迫った戦い」、第37章「ただ一つの防壁——聖書」、第39章「大いなる悩みの時」を読んでください。
アドベンチストは善良な市民であり、国の法律に従うようにと、エレン・G・ホワイトは提唱しました。彼女は、地元の日曜休業令に公然とはなはだしく背くべきではないとさえ、人々に言いました。つまり、神が命じられたように聖なる第七日安息日は守らなければならないが、日曜日の労働を禁じる法律を故意に破る必要はないということです。しかし、一つの事例について、アドベンチストはその法律に従わなくてよいと、彼女の立場ははっきりしていました。もし奴隷が主人のもとから逃れて来たなら、法律は、その奴隷を主人に戻すようにと求めていました。ホワイト夫人はその法律を激しく非難し、その結果にかかわらず、従わないように、とアドベンチストたちに語ったのです。
「人間の法律が神の言葉や律法と対立するとき、たとえどんな結果になろうとも、わたしたちは後者に従うべきです。わが国の法律は、奴隷をその主人に引き渡すようにと要求しています。わたしたちは従うべきではありません。すると、わたしたちはこの法律に違反した結果を負わねばなりません。奴隷はいかなる人の所有物でもありません。神が奴隷の正当な主人です。人間には、神が創造された作品を自分の手中に収め、自分のものだと主張する権利はありません」(『教会への証』第1巻分冊①211ページ)。
第5課 神のために生きる
第5課 神のために生きる
聖書記者たちは、人間が罪深いという現実を知っていました。知らないわけがありません。この世は罪のにおいであふれています。加えて、彼らは自分自身の罪深さも知っていました(Iテモ1:15参照)。それがどれほど深刻であるかも知っていました。結局のところ、罪の問題を解決するために必要だったもの(イエス・キリストの十字架)に目を向けてください。それほど罪の現実は深く、広範囲にわたります。しかし聖書記者たちは、私たちの人生を変え、私たちを新しい人にするキリストの力もよく知っていました。
今週、ペトロはこの路線の話——クリスチャンが神に献身し、バプテスマを受けたあとに、キリストにあって送る新しい人生に関する話——を続けます。実際、その変化は大きいので、ほかの人がそれに気づくでしょう。ペトロは、このような変化が常に簡単なものだとは言っていません。確かに彼は、私たちに約束されているその勝利を得るためには、肉において苦しむ必要があると語っています(Iペト4:1)。
ペトロは、聖書の中に行き渡っている一つの主題、つまりイエスを信じる者たちの人生における愛の現実という主題を続けています。「愛は多くの罪を覆う」(Iペト4:8)と、彼は書いています。私たちが愛し、赦すとき、私たちは、イエスが私たちのためにすでになさり、今もなさることを再現しています。
「心を一つに」
Iペトロ3:8〜12を読んでください。ペトロは、みんなが「心を一つに」(ギリシア語で「ホモフロネス」)するように、と語りだします。彼は、だれもがまったく同じことを考え、行い、信じるという意味の画一性について述べているのではありません。彼の考え方を最もよく示している例は、Iコリント12:1〜26の中にあります。パウロはその箇所で、体がさまざまな部分でできていることを指摘しています。手や目などがあるのに、それぞれの部分が集まって全身を作り上げています。同様に、教会も異なる霊的な賜物を持つ個人によってできています。彼らは結束した共同体を形成するために協力して働くのです。
当然、そのように一致団結することは、必ずしも容易ではありません。悲しいかな、キリスト教会の歴史は、このことを頻繁に示してきました。それゆえ、ペトロは信者たちに、考えが一致しないことを戒めています。それから彼は、彼らがいかにしてこの一致というキリスト教の理想を示すことができるかを語っています。
例えば、クリスチャンは同情し合って行動すべきです(Iペト3:8)。同情とは、あるクリスチャンが苦しむとき、ほかのクリスチャンがともに苦しむこと、別のクリスチャンが喜ぶとき、ほかのクリスチャンがともに喜ぶことを意味します(Iコリ12:26と比較)。同情は、私たちがほかの人の視点を理解できるようにさせます。それは一致に至る重要な一つの段階です。ペトロは次に、私たちは「愛し合う」(同3:8、英訳)ようにと言います。イエス御自身が、彼の真の弟子たちを見分ける方法は、彼らが愛し合っていることによってである、と言われました(ヨハ13:35)。さらにペトロは、クリスチャンは憐れみ深くあるように、と言います(Iペト3:8)。彼らは互いの問題や失敗に同情を寄せるのです。
「自己を十字架につけなさい。あなた自身よりも、ほかの人を高く評価しなさい。そうすれば、あなたはキリストと一体になるだろう。全天の前に、教会とこの世の前に、あなたが神の息子、娘であるという明白な証拠を、あなたは示すことになる。神は、あなたが示した模範によって栄光をお受けになるのである」(『教会への証』第9巻188ページ、英文)。
肉において苦しむ
イエスは私たちの罪のために亡くなられ、私たちの救いの希望は彼の中に、彼の義の中にのみあります。私たちはその義によって覆われ、神の目に義と認められるようなるからです。あなたが「神の前に全く罪を犯したことのない者として受け入れられる」(『キリストへの道』改訂版93ページ)のは、イエスのゆえです。
しかし神の恵みは、私たちの罪が赦されたという断言や宣言だけで終わるのではありません。神は罪に勝つ力をも与えてくださいます。
Iペトロ3:18、21、4:1、2とともに、ローマ6:1〜11を読んでください。Iペトロ3:18で用いられている一つの小さなギリシア語は、イエスの犠牲の包括的な性質を強調しています。それは「ハパクス」という言葉で、「一度限り」という意味です。ペトロは、イエスの苦しみと、私たちのための彼の死の包括的な性質を強調するためにこの言葉を用いています。
Iペトロ4:1の「このように」(口語訳)という言葉は、3:18〜22で言われたばかりのことと、4:1、2とを結びつけています。ペトロがそれらの前の聖句において指摘したのは、キリストが私たちの罪のために苦しまれたということ、それは、キリストが私たちを神のもとへ導き(同3:18)、「洗礼(が)、今や……あなたがたをも救う」(同3:21)ためだということです。
「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」(Iペト4:1)というペトロの言葉を理解するのに最も役立つのは、バプテスマでしょう。クリスチャンはバプテスマによって、イエスの苦しみ、死、復活にあずかります。
「人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きる」(同4:2)選択をしました。これは、日々自己を主に明け渡すこと、「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけ」(ガラ5:24)ることによって成し遂げられます。
パウロはローマ6:1〜11において、クリスチャンはバプテスマを受けたときイエスと一体になり、その死と復活にあずかると言っています。バプテスマにて、私たちは罪に死にました。今や私たちは、罪に対する死を私たちの生において現実のものとする必要があります。「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ロマ6:11)というパウロの言葉は、クリスチャン生活の秘訣を明らかにしています。
生まれ変わる
キリストによって、私たちには新しい命、新しい始まりがあります。私たちは生まれ変わります。このことが何か意味を持つのであるとすれば、とりわけ大人になってからキリストを受け入れた者たちにとって、それは、彼らがこれまでとは違う人生を送ることを意味します。イエスと彼の救いの恵みのゆえに根本的に変えられる体験をした人たちの信じがたい物語を聞いたことのない人がいるでしょうか。
実際ペトロは、自己に死ぬことと、イエスにおいて新しい命を得ること(バプテスマを受けて彼の死と復活にあずかったこと)について語ったあと、次に人が経験するであろう変化について述べています。
問1
Iペトロ4:3〜6を読んでください。1人の人間の生活に、どのような変化が起きるでしょうか。ほかの人はその変化にどう反応しますか。
アルコールの乱用に関してペトロが用いている三つの言葉は、「泥酔」「酒宴」「暴飲」です。現代的な表現を使うなら、パーティーで大騒ぎする日々は終わった、ということです。それどころか、ペトロによれば、クリスチャンが経験する変化は非常に大きいので、そのクリスチャンの過去の人生を知る人々は、彼(または彼女)がそのような「乱行」に加わらなくなったことを「不審に思(う)」(Iペト4:4)のです。このように、説教をすることなく、不信心な人たちにあかしをする機会がそこにはあります。敬虔なクリスチャンの生活は、この世のあらゆる説教よりもずっとあかしになりうるのです。
聖書のほかの箇所(ヨハ5:29、IIコリ5:10、ヘブ9:27)と同様、ペトロはここで、いつの日か「肉における」(Iペト4:2)行為に対する裁きがあるだろう、とはっきり述べています。また彼は、「死んだ者にも福音が告げ知らされた」(同4:6)と語っていますが、それは、過去においても、今や死んでいる人々が生きていたときに神の救いの恵みを知る機会があったということです。それゆえに、神は彼らをも公正に裁くことがおできになるのです。
肉の罪
人々が過去に行っていた悪行で、イエスの信者になってからやめたことを列挙する中で、ペトロは「性的な罪」と呼ぶべきものも挙げています。
Iペトロ4:3を読み直してください。二つの言葉が、明らかに性的な意味を含んでいます——「好色」(原語は「肉欲にふけること」を意味する「アセルゲイア」)と「情欲」(原語は「激しい性欲」を意味する「エピスミア」)です。
しかし、クリスチャンが性生活に誤った印象を与えてしまうことは、あまりにも簡単です。聖書は性交を否定していません。それどころか、性交を創造し、大いなる祝福となるよう性生活を人類にお与えになったのは、神でした。性生活は、当初からエデンにありました。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創2:24、25)。それは、子どもを育てる最良の背景を形成する生涯の誓いにおいて、夫と妻を結びつける重要な構成要素の一つとなるべきものでした。そして、この近しさと親密さは、神が御自分の民にも求めておられるものを反映するのです(エレ3章、エゼ16章、ホセ1〜3章参照)。
結婚している男女の間という正しい場所において、性生活は大きな祝福です。が、間違った場所、誤った状況において、それは世界で最も大きな破壊的力の一つになりえます。このような罪がすぐにもたらす破滅的な「結果」は、人間の予測を超えています。このすばらしい賜物の悪用によって台なしになった人生について知らない人が、私たちの間にいるでしょうか。
次の聖句には共通点があります(サム下11:4、Iコリ5:1、創19:5、Iコリ10:8)。言うまでもなく、こういった罪が引き起こした痛みや苦しみの物語を知るために、だれも聖書を必要としません。
しかし、私たちは慎重でもなければなりません。確かに、この手の罪は人々に激しい悪影響を与えることがありますが、社会はそれらを非難する傾向があるからです。しかし、罪は罪であって、キリストの死は性的な罪をも覆います。あなたはクリスチャンとして、とりわけこの慎重に扱うべき領域で、「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」(ルカ6:42)ように注意すべきです。
愛はすべてを覆う
ペトロの時代でさえ、クリスチャンはキリストの速やかな帰還と現在のこの世の終わりを期待しながら生きていました。Iペトロ4:7から、このことがわかります。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」。言い換えれば、終わりに備えなさい、ということです。実質的に「終わり」は、私たち1人ひとりに関する限り、死んだあとの一瞬にすぎません。私たちは死ぬときに目を閉じ、その後数千年が過ぎようと、数日しか過ぎまいと、次に私たちが目にするのは、キリストの再臨とこの世の終わりです。
ペトロによれば、「万物の終わりが迫ってい(る)」ので、クリスチャンの生き方が述べられています(Iペト4:7〜11参照)。思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈ることに加えて、クリスチャンは「心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(同4:8)。
これはどういう意味でしょうか。愛はどのように罪を覆うのでしょうか。鍵は、ペトロが引用している箴言10:12の中にあります。「憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う」。私たちが互いに愛し合っているとき、私たちは、自分を傷つけ、怒らせる相手を、よりたやすく、より進んで赦すことができます。キリストはその愛によって私たちをお赦しになります。私たちも自分の愛によってほかの人を赦す必要があります。愛にあふれている場所では、小さな侮辱が、そして大きな侮辱さえもが、よりたやすく見逃され、赦されます。
確かにペトロは、イエスやパウロと同じ考えをあらわしていました。2人は、すべての律法が、神を心から愛し、隣人を自分のように愛すという義務に要約されると言っています(マタ22:34〜39、ロマ13:8〜10)。
ペトロはまた、クリスチャンは温かくもてなしなさい、と勧めています。再臨は近いかもしれませんが、それを理由に、クリスチャンは社会的関係から身を引くべきではありません。そして最後に、クリスチャンは語るとき、神の言葉を語っている者にふさわしい語り方をしなければなりません。言い換えれば、時が迫っているので、霊的真理を真剣に伝える必要があるということです。
さらなる研究
「長く耐え忍ぶ愛と親切は、無分別を大きく拡大したり赦されない違反に導いたりせず、他の人々の間違いの元を作ることはしません。聖書ははっきりと、間違いを犯した人には寛容と十分な考慮を持って接するように教えています。正しい方法に従うならば、見たところ強情な心はキリストに勝ち取ることができます。イエス様の愛は諸々の罪を覆っています。彼の優雅さは積極的な必要性がない限り、他人の間違いを決して公表することはありません」(『次世代につなぐ信仰——両親、教師、生徒への勧め』202ページ)。
例えば、姦通の現場で捕らえられた女性とイエスのことを考えてみてください(ヨハ8:1〜11)。通常、私たちはこれを、罪深い女性に対するイエスの憐れみの物語とみなしています。それは間違っていません。しかし、そこにはもっと深い要素もあるのです。この女性を連れて来た宗教指導者たちとの対決において、なぜイエスは「彼ら自身の生活の罪の秘密」(『希望への光』912ページ、『各時代の希望』中巻247ページ)を地面の上に、つまり言葉がすぐに消し去られてしまう場所に、書かれたのでしょうか。なぜイエスは彼らをあからさまに非難し、この女性の罪と同じくらい悪いか、あるいは一層悪い彼らの罪についてご存じのことを、みんなの前で公表されなかったのでしょうか。イエスはそうする代わりに、彼らの偽善と悪を知っていることを示されたものの、ほかの人たちにそれをさらそうとはなさいませんでした。おそらくそれは、これらの宗教指導者たちに働きかけ、御自分が彼らの意図を知っていることを示し、彼らに救われる機会を与えるイエスの独自のやり方だったのでしょう。罪を犯した人と私たちが向かい合う必要があるとき、これは実に有効な教訓です。
第6課 キリストのために
第6課 キリストのために苦しむ
キリスト教の最初の数世紀における迫害の歴史はよく知られています。聖書自身が、とりわけ使徒言行録が、教会を待ち構えていたことを垣間見せています。苦しみを伴う迫害は、ペトロが手紙を書き送っている先のクリスチャンたちの生活においても、明らかに目の前の現実です。
ペトロは最初の章で、次のように述べています。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(Iペト1:6、7)。
手紙のほぼ最後の言葉も、同じ考えを述べています。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(同5:10)。
短いこの書簡の中に、読者が受けているキリストのための苦しみを扱っている箇所が、さらに三箇所もあります(Iペト2:18〜25、3:13〜21、4:12〜19)。それゆえ、どう考えてみても、迫害によって生じた苦しみがペトロの手紙Iの大きな主題であり、私たちはこの主題に目を向けることにします。
初期のクリスチャンへの迫害
Iペトロ1:6、5:10を読んでください。〔西暦の〕最初の数世紀の間、クリスチャンであるというだけで、恐ろしい死を招く可能性がありました。ローマ皇帝トラヤヌスに宛てて書かれた1通の手紙は、初期のクリスチャンたちの安全がいかに危ういものであったかを示しています。この手紙は、執筆当時、(Iペト1:1に記されている二つの地域)ポントスとビティニア地方の総督であったプリニウス(在職111〜113年)から送られたものです。
プリニウスはトラヤヌス帝に〔この手紙の前に別の〕手紙を書き送っており、クリスチャンであると告発された人々にどう対処すべきか、助言を求めていました。プリニウスは、クリスチャンであると主張した者たちを処刑した、と説明しています。かつてはクリスチャンであったものの、もはや自分は信者でない、と言う者たちもいました。プリニウスは、トラヤヌス帝や他の神々の像に香をそなえ、イエスをのろうように命じることで、これらの者たちに自分の無罪を証明する機会を与えました。
生きている皇帝を礼拝することは、ローマではめったに行われませんでした。しかし、ペトロの手紙Iが送られたローマ帝国の東部地域では、皇帝が自分たちの神殿を建設することを許可し、ときにはそうすることを促しました。こういった神殿のいくつかは、専属の祭司や、犠牲をささげる祭壇も持っていました。プリニウスは〔元〕クリスチャンたちに、香をそなえさせ、皇帝の像を礼拝させることで帝国への忠誠を明らかにさせましたが、そのとき彼は小アジアにおける長年の慣行に従っていました。
1世紀には、クリスチャンたちがクリスチャンであるという理由だけで大きな危機に直面した時期がありました。特に、皇帝ネロ(在位54〜68年)と皇帝ドミティアヌス(81〜96年)の治めていた頃がそうでした。
しかし、ペトロの手紙Iの中で触れられている迫害は、もっと地方に限定されたものです。ペトロが語っている迫害の具体的な例は、手紙の中にほとんどありませんが、おそらくは、根拠のない悪口(Iペト2:12)、侮辱や非難(同3:9、4:14)だったのでしょう。試練は厳しいものでしたが、少なくとも当時、その試練が広範囲における投獄や死を招いたようには思えません。たとえそうであっても、クリスチャンとして生きることは、信者たちと1世紀のより広い社会の有力階級との関係を悪化させ、信仰のゆえに彼らを苦しめることになりました。それゆえ、ペトロはこの書簡を書いたとき、心から深刻な懸念を述べています。
苦しみとキリストの模範
Iペトロ3:13〜22に目を通してください。ペトロは、「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです」(Iペト3:14)と述べていますが、それは、「義のために迫害される人々は、幸いである」(マタ5:10)というキリストの言葉を繰り返しているにすぎません。続いてペトロは、クリスチャンは自分たちを攻撃してくる者たちを恐れたりせず、心の中でキリストを主としてあがめなさい、と命じています(Iペト3:15)。このように心の中でイエスを支持することは、彼らが直面する敵対者たちからの恐れを鎮めるのに役立つでしょう。
次にペトロは、クリスチャンはいつでも自分たちが抱いている希望について説明できるようにしなさい(Iペト3:15、16)、ただし、「優しく、慎み恐れて」(同3:16、新改訳)訴えるような方法でそうしなさい、と勧めています(「慎み恐れること」は、ときとして「敬意」〔新共同訳〕と訳されます)。
クリスチャンは自分たちを非難させるような理由をほかの人に与えないようにしなければならないと、ペトロは主張します。クリスチャンは後ろめたいところがないように良心を保たなければなりません(Iペト3:16)。これは重要なことです。なぜなら、そうすれば、クリスチャンを非難している者たちが、非難されているクリスチャンたちの非のない生き方によって、恥をかかせられるからです。
明らかに、悪を行う者であるために苦しむことには、何の価値もありません(Iペト3:17)。良いこと、正しいことをするために苦しむことは、決定的な違いを生み出します。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(同)のです。
次に、ペトロはイエスの実例を挙げます。キリストは御自分の義のために苦しまれました。彼の聖く純潔な生き方が、彼を憎む者たちにとって絶え間ない非難だったからです。悪いことではなく、正しいことをして苦しんだ人がだれかいるとしたら、それはイエスでした。
しかし、イエスの苦しみはまた、救いの唯一の手段をもたらしました。彼が罪人の代わりに(「正しい方が、正しくない者たちのために」〔Iペト3:18〕)死んだので、彼を信じる者たちは、永遠の命を得る見込みがあります。
火のような試練
Iペトロ4:12〜14を読んでください。(IIテモ3:12、ヨハ15:18も参照)。クリスチャンであるために迫害に苦しむのは、キリストの苦しみにあずかることだと、ペトロははっきり述べています。それは予期せぬことではありません。それどころか、パウロなら、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(IIテモ3:12)と書くところです。イエス御自身が弟子たちに、彼らが直面するであろうことについて、「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる」(マタ24:9、10)と警告なさいました。
「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者たちはみな、このようになるであろう。キリストの霊に満たされている者たちすべてに、迫害と非難が待っている。迫害の性質は時代によって変わるが、その本質、すなわち、その根底にある精神は、アベルの時代以来主の選ばれた者たちを殺害してきたのと同じものである」(『希望への光』1576ページ、『患難から栄光へ』下巻280ページ)。
問1
黙示録12:17を読んでください。クリスチャンに対する終末時代の迫害の現実について、この聖句は何と言っていますか。
間違いなく、忠実なクリスチャンにとって、迫害は絶えず付きまとう現実になりえます。これこそ、読者が直面していた「火のような試練」についてペトロがここで警告している現実です。
火はぴったりの比喩でした。火は破壊をもたらしますが、不純物を一掃することもできます。何が火で燃やされるかによります。家は火によって破壊され、銀や金は火によって精錬されます。人は意図的に迫害を招くべきではありませんが、神は迫害の中から良いものを引き出すことがおできになります。それゆえ、パウロは読者(や私たち)に、「確かに、迫害は悪いものだが、あたかも予期せぬものであるかのように、それによって失望してはならない。信仰によって前進しなさい」と語っています。
裁きと神の民
Iペトロ4:17〜19を、イザヤ10:11、12、マラキ3:1〜6と比較して読んでください。これらの箇所において、裁きの過程は神の民から始まるように描かれています。ペトロは、読者の苦しみを神の裁きに結びつけることさえしています。彼にとって、クリスチャンの読者が味わっている苦しみは、神の家族から始める神の裁きにほかならないのかもしれません。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」(Iペト4:19、強調著者)。
問2
ルカ18:1〜8を読んでください。この箇所は、神の裁きを理解するうえで、いかに助けとなりますか。
聖書の時代、裁きは通常、とても望ましいものでした。ルカ18:1〜8のかわいそうな未亡人の描写は、裁きに対するより幅広い考え方を捉えています。このやもめは、彼女の一件を裁いてくれる裁判官を見つけることさえできたら、勝訴することを知っています。やもめにはその一件を審理してもらうだけの十分なお金と地位がありませんが、彼女は最終的に裁判官を説得し、その件を審理させ、彼女が受けるに値するものを得ます。イエスはおっしゃいました。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(ルカ18:7)。罪がこの世に悪をもたらしたので、神の民は、神が物事を再び正されるのを、時代を超えてずっと待ってきました。
「主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになったからです」(黙15:4)。
試練の中における信仰
すでに触れたように、ペトロは、信仰のために苦しんでいる信者に手紙を書いていました。そしてキリスト教史が示してきたように、少なくともしばらくの間、事態は悪くなる一方でした。その後の数年間、確かに多くのクリスチャンが、ペトロの書いた物の中に励ましと慰めを見いだしました。間違いなく、今日でも多くの人がそうです。
なぜ苦しみがあるのでしょうか。言うまでもなく、それは大昔からの疑問です。聖書の中で最初に書かれた書の一つであるヨブ記は、苦しみを主題にしています。確かに、(イエスを除いて)「人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者」(Iペト4:15)ではないのに苦しんだ人がだれかいるとしたら、それはヨブでしょう。何しろ神でさえヨブのことを、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(ヨブ1:8)と言われたのでした。それにもかかわらず、哀れなヨブが悪人だからではなく、善人であるために、どんなことに耐えたか、考えてみてください!
次の聖句は、苦しみの起源に関する疑問に答えるうえで、助けとなります。(Iペト5:8、黙12:9、2:10)。簡単に言ってしまえば、私たちが苦しむのは、キリストとサタンの大争闘の中に私たちがいるからです。これは、私たちの性質における善と悪の単なる比喩や象徴ではありせん。本物のサタンと本物のイエスが、人類のために本物の戦いを行っているのです。
Iペトロ4:19を読んでください。私たちが苦しむとき、とりわけその苦しみが私たちの悪行の直接的な結果として生じたものでないとき、私たちは、ヨブが何度も問いかけた「なぜ」という疑問を自然に問いかけてしまいます。そして、たいていの場合がそうであるように、私たちには答えがありません。ペトロが言うように、苦しみの中においてさえ、私たちにできることは、神に魂をゆだね、私たちの「真実であられる創造主」(Iペト4:19)を信頼し、「善い行いをし続け(る)」(同)ことだけです。
さらなる研究
日曜日の研究では、クリスチャンが直面していた迫害を扱いました。以下の文章は、最初の数世紀にクリスチャンが苦しめられたことについて皇帝に宛てて書かれた手紙からの長めの引用文です。
「さしあたって私は、クリストゥス信者として私の前に告発されてきた者に対し、次のような手続きをとってきました。彼らに先ず、クリストゥス信者であるかどうかを尋ねました。告白した者には処罰すると脅しながら、二度も三度も問い質しました。それでも固執した者は、処刑のため連れ去るように命じました。というのも、彼らの告白している信仰がいかなるものであれ、その強情っ張りと頑迷狷介は、処罰されるべきだと信じて疑いませんでした……。クリストゥス信者である、あるいはあったことを否認した者は、私の先導で、ローマの神々の名を呼び、祈りの言葉を復唱し、あなたの像——これはこの時のため、神々の像とともに法廷に持ち込ませました——に、香料と葡萄酒を捧げ、さらにクリストゥスを罵りましたら——このようなことは、もし彼らが正銘のクリストゥス信者であれば、強制されても決して受けつけないと言われています——釈放すべきだと考えました。密告者から名を挙げられた者の中には、初め自分はクリストゥス信者だと言っていて、間もなく否認した者もいました。たしかに信者であったが、今は信仰を捨てた、ある者は3年前に、ある者はもっと以前に、中には20年も前に捨てたと申しました。この者たちも皆、あなたの像やローマの神々の像を崇め、そしてクリストゥスを罵りました」(『プリニウス書簡集』講談社学術文庫422、423ページ)。
第7課 奉仕型の指導者
第7課 奉仕型の指導者
成長している教会に関する研究は、たいてい効果的な指導者の重要性を浮き彫りにします。このような指導者は、神と御言葉からビジョンを得、福音の務めを実行するために霊的な賜物を用いる機会を教会員全員に与えます。
しかし、教会の指導は極めて大変です。常に多忙でありながらも、自分の時間をしばしばささげるボランティアたちが、おもに教会を運営しています。教会員は、何か賛同できないことが起きると、教会に通わなくなることで「反対の意思表示」をします。さらに、有能なクリスチャン指導者は、非常に霊的でなければなりません。また私たちは、ペトロが手紙を書いている先の教会は迫害を受けていることを忘れてはなりません。教会の指導者は、そのようなときにとりわけ攻撃を受けやすいのです。だとすれば、いったいだれにこのような仕事をする能力が備わっているのでしょうか。
Iペトロ5:1〜10において、ペトロは地域の教会におけるクリスチャン指導者の課題に取り組んでいます。これらの聖句の中で、彼は地域の教会の指導者だけでなく、教会員にも必要とされる重要な特徴のいくつかについて書いています。彼の言葉は、当時と同様、現代の私たちにとっても意味があります。
初代教会の長老たち
問1
次の聖句を調べてみてください(使徒6:1〜6、14:23、15:6、Iテモ5:17、Iペト5:2)。初代教会とその指導者たちが直面していた問題に関して、私たちはこれらの聖句からどんな洞察を得ることができますか。
大勢の人が信徒になって教会に加わることは、神からの大きな祝福です。しかし、初期のクリスチャンたちの体験が示しているように、急成長は問題をもたらす可能性があります。
例えば、使徒言行録1章から5章は、聖霊の導きと、多くの人がキリスト教に改宗したことを記録しており、使徒言行録6:1〜6は、その結果を示しています。その集団は、指導者たちにとって大きくなりすぎ、教会の日々の機能を果たすために、体制を整備する必要がありました。
組織の体制におけるそのような弱さを明らかにした問題は、差別に関する苦情でした。ギリシア語を話すグループから、彼らのやもめが日々の分配において軽んじられているという苦情が出ました。そのことへの対応として、執事という一連の人々が、教会の資源を管理することで十二使徒を助けるために特別に任命されました。
確かに、初代教会は聖霊によって特別な形で導かれていました。しかし当時でさえ、教会の体制を整える必要がありました。かなり早い段階で必要とされた教会指導者の主要な集団の一つは、各地域の教会のために立てられた長老でした。実際、新たに形成されたこれらのクリスチャン集団を導くために長老を任命することは、パウロとバルナバが、イエスのことをまだ聞いていない場所へ行った際に行ったことです(使徒14:23)。
初期のキリスト教において、長老にはさまざまな役割が与えられました。彼らは、自分が所属する共同体の指導者として、新しい改宗者を教える教師の役を務めることも時折ありました。彼らは説教をすることもあれば、共同体の福利のために必要なことが確実に行われるようにもしました(使徒15:6、Iテモ5:17、Iペト5:2)。
長老
Iペトロ5:1〜4を読んでください。ペトロは長老たちへの指示を、彼自身が長老の1人であると言うことによって始めています。そして次に、彼自身に関する二つのことを指摘しています。彼がキリストの苦しみを目撃したことと、やがてあらわれる栄光にあずかることを期待していることです。そう述べることによって、ペトロは長老の中に見いだされるべき第一の特徴を明らかにしています。長老は、キリストが私たちのために苦しまれたことと、彼が私たちに提供しておられる大いなる希望の重要性を理解している必要があります。
ペトロは長老の役割を、神の群れの世話をする羊飼いになぞらえています。彼が教会を羊にたとえていることは、教会員が羊のように、時折、勝手な単独行動を取るという考えを示しています。それゆえ、彼らは羊飼いによって群れへ引き戻してもらい、群れと協調して働くように助けてもらう必要があるのです。長老はまた、クリスチャンはいかに行動すべきなのか、その謙虚な模範になるという役割も果たさなければなりません。
羊飼い(牧者)である者たちにとっての警告がここにあります(エレ10:21、エゼ34:8〜10、ゼカ11:17)。クリスチャン指導者の重要な役割の一つは、羊飼いが羊たちと一緒に働く必要があるように、教会員と一緒に働くことです。長老は教会員を優しく呼び集めなければなりません。それは礼拝のためであったり、イエスと彼の中に見いだされる救いを知る必要のある人に、彼のメッセージを伝えたりするためです。
ペトロはまた、長老たちは、強制されてではなく、自ら進んで監督をしなさい、とも言っています。教会で指導をするという困難に自ら進んで挑む人を見いだすことは、必ずしも容易ではありません。このことは、役員推薦員会などで特に明らかです。しかし、教会がきちんと機能するためには、果たされなければならない異なる役割がたくさんあります。多くの人が指導者の役割を担いたがらないことには、理由があります。こういう役割のいくつかは、かなりの時間の投資を求められますし、そのような役割に適した人は、すでに多くの責任を担っているかもしれないからです。また人によっては、この役割を担うには、自分は十分な準備ができていない、と感じるかもしれません。しかしペトロは、もし私たちが頼まれ、そうすることができるのなら、進んで指導の役割を引き受けるべきだ、と言っています。
奉仕型の指導
Iペトロ5:3、マタイ20:24〜28を読んでください。ギリシア語聖書において、Iペトロ5:3の中の重要な言葉は、「カタキュリユーオンテス」です。この同じ言葉はマタイ20:25にもあり、だれかに対して「支配権を振るう」とか、「威張る、権力を振るう」とかいったことを意味します。それゆえ、Iペトロ5:3で長老たちに与えられている指示は、「あなたが任されている人たちに権力を振るってはならない」とも訳すことができ、マタイ20:25におけるイエスの言葉を反映しています。
マタイ20:20〜23は、24〜28でイエスがおっしゃったことの背景を説明しています。ヤコブとヨハネの母親が、願いを持ってイエスに近づいて来ました。その願いとは、イエスが王座に着かれるとき、1人の息子を彼の右に、もう1人を彼の左に座らせてほしい、というものでした。
「イエスは、兄弟たちよりも有利な立場を占めたいという彼らの利己心を責めないで、彼らのことをやさしく忍耐される。イエスは彼らの心を読まれ、彼らが深く主を慕っていることをお知りになる。彼らの愛はただの人間的な愛ではない。それは、人間の世俗的な水路によってよごれてはいるが、主ご自身のあがないの愛という泉から湧きあふれたものである。主は責めないで、それを深く愛し、清められる」(『希望への光』957ページ、『各時代の希望』中巻366ページ)。
イエスは、この名誉ある地位を与えるのは御自分でなく、父なる神である、と説明なさいます。しかし次に、イエスの王国と異邦人の王国との重要な違いは、彼の王国に登場する指導者の種類である、と説明を続けられます。イエスが王であられる国で指導者になりたい者は、僕にならねばなりません。というのも、イエスの王国における指導者は、イエスに似ているからです。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタ20:28)……。
それゆえ、ペトロは教会の指導者たちに、同じ理想を目指すよう呼びかけています。イエスに見られる服従と自己否定が、彼らの中にも見られなければならないのです。
謙遜を身に着け
ペトロが生きていた古代世界では、社会が階級化されていました。支配階級のエリートたちは、「威風堂々」と今日呼ばれるものを持っていました。彼らの周りには下層階級の人々が集まり、あらゆる階級の中で最も低いのは奴隷でした。謙遜は、そのような下層階級の人が上の階級の人に対して持つのに適当な態度でした。「謙遜」に相当するギリシア語は、「低い身分」「取るに足りない」「弱い」「貧しい」といった意味を持っています。この言葉は、社会において地位や権力を持っていない人を言いあらわしています。ユダヤ教やキリスト教の外の世界では、「謙遜な」という言葉は低い地位の人たちに関連づけられており、謙遜にふるまうことは、自由人にとり適切な行動として、必ずしも推奨されなかったでしょう。
Iペトロ5:5〜7を読んでください。聖書では、謙遜というものが、ペトロの生きていた時代や文化の中での見方とは異なる見方で捉えられています。ペトロは七十人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)の箴言3:34を引用しており、この聖句はヤコブ4:6でも引用されています。旧約聖書の中では、歴史における神の働きの一環は、地位の高い者や力の強い者たちの高ぶりをくじくことです(イザ13:11、23:9、ヨブ40:11)。
人間が神に対して持つのにふさわしい態度は謙遜です。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(Iペト5:6)。高慢でなく謙遜が、クリスチャンと神との関係、クリスチャン同士の関係の特徴です(同5:5)。
クリスチャンは、指導者であればなおさら、自分が神の恵みによって救われた罪人であることを知っています。それゆえ、この最も重要な意味において、私たちはみな平等であり、キリストの十字架の前で、私たちは謙遜になります。そしてこの謙遜は、他者との関係において、とりわけ私たちが監督している人との関係にてあらわす必要があります。確かに、天地の創造主なる神の前なら、だれでも謙遜になれます。また、私たちより上の人、私たちを支配する人、私たちより地位が高い人の前でも、謙遜になることは比較的容易です。本当に試されるのは、私たちが、自分の「下」にいる人、私たちに対して力を持っていない人たちに謙遜をあらわすときです。ペトロがここで語っているのは、このような謙遜です。
ほえたける獅子
すでに触れたように、ペトロは迫害という背景のもとで書きました。大争闘という主題は、彼の読者にとって単なる抽象的な神学ではありませんでした。彼らは、私たちの多くが、少なくとも今のところ体験したことのない形で、その戦いを体験していました。
Iペトロ5:8〜10、黙示録12:7〜9を読んでください。黙示録は、善と悪の勢力の間における宇宙規模の闘いにクリスチャンが関わっていることを明らかにしています。黙示録において、善の勢力はイエスによって、つまり「神の言葉」「王の王、主の主」なる方によって導かれ(黙19:13、16)、悪の勢力は悪魔によって、つまりサタンとも呼ばれ、竜として描かれている者によって導かれています(同12:7〜9、20:7、8)。有力なメディアや、クリスチャンの中のある人たちは、サタンの存在を否定しますが、実のところ、悪魔は私たちに対する悪意しか持っていない強力な存在です。しかしうれしいことに、悪魔は最終的に滅ぼされます(同20:9、10)。
ペトロは、悪魔が意味する危険性を過小評価していません。悪魔はほえたける獅子のようで、食い尽くせるものをすべて食い尽くそうとしています(Iペト5:8)。ペトロはまた、読者が彼らの現在の苦しみの中に悪魔の力を見ることができる、と指摘しています。しかし、この苦しみは永遠の栄光という結果で終わります(同5:10)。
問2
Iペトロ5:10を読み直してください。ペトロは、私たちに何と言っていますか。
私たちには、彼らの試練がどんなものだったか正確にはわかりませんが、ペトロが表明している希望はわかります。確かに、悪魔は実在します。闘いも現実ですし、苦しみも現実です。しかし、「あらゆる恵みの源である神」は悪魔を倒されました。だから、私たちがどんなことで苦しんでいようと、死に至るまで忠実であり続けるなら(ヘブ11:13〜16参照)、イエスのお陰で勝利は保証されています。
さらなる研究
イエスの奉仕型の指導の良い実例は、最後の晩餐の中に見られます。あのときイエスは、御自分が何者であるか(神の子である)ということ、そして、まもなく父なる神のもとへ帰られることを十分に意識しておられました(ヨハ13:1)。食事のあと、イエスは弟子たちの足を洗われました。そして、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハ13:14、15)と言われました。イエスに従う者たちは、互いの足を洗い合うたびに、この場面を再現するだけでなく、イエスの王国で指導者になるためには、僕のようにならねばならないことを互いに思い出します。きっと弟子たちは、残りの生涯の間ずっと、とりわけイエスが何者であるかをより深く理解したあと、主のこの謙遜の行為を覚えていたでしょう。そして間違いなく、ペトロが教会長老たちに、他者に権威を振り回すのではなく、謙遜を「身に着けなさい」と求めたとき、彼の心の中にはイエスの謙遜の行為がありました。
「人間になることに同意することで、キリストは謙遜をあらわされたが、それは天使たちにとって驚きであった。人間になるという行為は、キリストが天高く先在しておられたという事実がなければ、謙遜ではないだろう。私たちは、キリストが王衣も王冠も最高司令部をも捨て、人間のいる場所で人間に会い、人類家族に神の息子、娘になる道徳的力を与えるため、御自分の神性の上に人性を着られたということを実感するために、私たちの知性を開かなければならない。キリストの生涯を特徴づけた柔和と謙遜は、『イエスが歩まれたように自らも歩(む)』者たちの人生と品性の中にあらわされるだろう」(『神の息子・娘』81ページ、英文)。
第8課 ペトロの書簡の中のイエス
第8課 ペトロの書簡の中のイエス
ペトロの手紙Iをここまで学んできたので、内容の背景がどうであれ、扱っている具体的問題が何であれ、ペトロの目がイエスに向けられていることは、すでにはっきりしています。ペトロの文章のあらゆる部分に、イエスが染み込んでおられます。それはこの手紙に織り込まれた金の糸です。
ペトロが、自分は「イエス・キリストの使徒」であると書いた最初の行から、「キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように」(Iペト5:14)と書いた最後の行に至るまで、イエスが重要な主題です。そして、彼はこの書簡において、私たちの犠牲としての死について語っています。また、イエスが体験された大きな苦難について語り、その苦難の中でのイエスの模範を私たちの手本としています。ペトロは、イエスの復活とその意味について語ります。さらに彼は、イエスを救い主、つまり「キリスト」(油を注がれた者)としてだけでなく、神なる救い主としても語ります。つまり、私たちはペトロの手紙Iの中に、イエスの神としての御性質に関する多くの証拠を見るのです。イエスは神御自身であり、私たちが永遠の命の希望と約束を持つために肉体を取り、生き、死なれたのでした。
私たちは今回、ペトロの手紙Iの全体を振り返り、それがイエスについて明らかにしていることを詳しく調べます。
イエス——私たちの犠牲
聖書の重要な主題の一つ、たぶん最も重要でさえある主題は、堕落した人類の救済における神の働きという主題です。創世記におけるアダムとエバの堕罪から、黙示録におけるバビロンの倒壊に至るまで、聖書はさまざまな形で「失われたもの」(ルカ19:10)を救おうとする神の働きを明らかにしています。そしてこの主題は、ペトロの手紙の中にもあらわれています。
Iペトロ1:18、19、コロサイ1:13、14を読んでください。Iペトロ1:18、19
は、イエスの死の意味を次のように説明しています。「知ってのとおり、あなたがたが……贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」。この聖句の中には、二つの重要なたとえ(象徴)があります。「贖い」と「動物の犠牲」です。
「贖い」という言葉は、聖書においていくつかの意味で用いられています。例えば、(犠牲にできない)ロバの初子や男の子の初子(出34:19、20)は、代わりの小羊によって贖われました。お金を使うことで、貧しさのために売られてしまったものを買い戻す(贖う)こともできました(レビ25:25、26)。最も重要なのは、ユダヤ人奴隷が買い戻せたことです(レビ25:47〜49)。ペトロの手紙Iは読者に、「先祖伝来のむなしい生活」(Iペト1:18)から彼らを買い戻す(贖う)ための犠牲は、「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」(同1:19)にほかならなかったと伝えています。言うまでもなく、小羊というたとえ(象徴)は、動物の犠牲(いけにえ)を連想させます。
このようにペトロは、キリストの死と旧約聖書における犠牲の動物の死を結びつけています。罪を犯した人は、傷のない羊を連れて来ました。そして、彼の手をその動物の頭に置きます(レビ4:32、33)。その羊はほふられ、その血の一部は祭壇に塗られ、残りは祭壇の基に流されました(同4:34)。犠牲の動物の死は、その犠牲をささげた人に「贖い」を提供しました(同4:35)。イエスは私たちの代わりに死なれ、彼の死は私たちを以前の人生と(さもなければ私たちのものとなったであろう)運命から贖ったのだと、ペトロは言っています。
キリストの受難
クリスチャンは「キリストの受難」についてよく語ります。英語のパッション(受難)という言葉は、「苦しむ」という意味のギリシア語の動詞から派生したもので、「キリストの受難」という言葉は、たいていの場合、エルサレムへの勝利の入場に始まる彼の生涯の最後の期間に彼が苦しまれたことを指します。ペトロも、その最後の日々のキリストの苦しみという主題にこだわっています。
Iペトロ2:21〜25、イザヤ53:1〜12を読んでください。イエスの苦しみには、特別な意味があります。彼は、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」(Iペト2:24)。罪は死をもたらします(ロマ5:12)。罪人である私たちは、死に値します。しかし、完全なキリスト——その口に偽りがなかった方(Iペト2:22)——が、私たちに代わって死なれました。その引き換えに、私たちは救いを持っているのです。
問1
イザヤ53:1〜12を読み直してください。この箇所は、イエスが私たちのために救いの計画を実行されたとき、何に苦しまれたと述べていますか。このことは、神の御品性について何を物語っていますか。
「サタンは激しい試みでイエスの心を苦しめた。救い主は墓の入口から奥を見通すことがおできにならなかった。キリストが征服者として墓から出てこられることや、犠牲が天父に受け入れられることについて望みは与えられなかった。キリストは、罪が神にとって不快なものであるため、ご自分と神との間が永久に隔離されるのではないかと心配された。キリストは、不義の人類のためにあわれみのとりなしがやんだ時に罪人が感じる苦悩を感じられた。キリストが飲まれたさかずきをこんなにもにがいものとし、神のみ子を悲しませたのは、人類の身代りとしてキリストに神の怒りをもたらしている罪についての観念であった」(『希望への光』1075ページ、『各時代の希望』下巻275ページ)。
イエスの復活
Iペトロ1:3、4、21、3:21、ヨハネ11:25、フィリピ3:10、11、黙示録20:6を読んでください。すでに触れたように、ペトロの手紙Iは、イエスに対する信仰のゆえに苦しんでいる人々に宛てて書かれています。それゆえ、手紙のまさに冒頭で、ペトロが読者の注意を、彼らを待ち受けている希望に向けさせていることは、極めて適切です。彼が述べているように、クリスチャンの希望は、ほかならぬイエスの復活に基づく希望であるので、生き生きとした希望です(Iペト1:3)。イエスの復活のゆえに、クリスチャンは朽ちることのない天の財産を期待することができます(同1:4)。言い換えれば、どんなに状況が悪くなろうと、すべてが終わるときに私たちを待っているものを考えなさい、ということです。
確かに、死者の中からのイエスの復活は、私たちも復活しうることの保証です(Iコリ15:20、21)。パウロはそのことを、「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(Iコリ15:17)と述べています。しかし、イエスが死者の中から復活されたので、彼は死そのものを打ち破る力があることを示されました。それゆえ、クリスチャンの希望は、キリストの復活という歴史的な出来事の中にその根拠を見いだせます。キリストの復活は、終末時代における私たちの希望の土台です。
その希望と約束がなければ、私たちはどうなるでしょうか。キリストが私たちのために成し遂げられたすべてのことは、復活の約束において完結します。それがなければ、私たちにはどんな希望があるでしょうか。なぜなら、私たちは、一般的なキリスト教信仰とは違う、死者が墓の中で眠った状態にあることを知っているからです。
「クリスチャンにとって死は眠り、一瞬の沈黙と暗黒にすぎない。生命はキリストと共に神のうちにかくされ、『キリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう』(コロサイ3:4)。……再臨の時にはすべての死せるとうとい人々がキリストの声を聞いて、輝かしい永遠の生命に入るのである」(『希望への光』1092ページ、『各時代の希望』下巻318、319ページ)。
メシアとしてのイエス
先に触れたように、イエスの地上での働きにおける重要な転換点の一つは、彼が何者かという質問への返事として、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)と答えたときでした。「キリスト」(ギリシア語で「クリストス」)という言葉は、「油を注がれた者」「メシア」(ヘブライ語で「マシアハ」)を意味します。「メシア」という言葉は、「油を注ぐ」という意味の言葉に根差しており、旧約聖書の中では、さまざまな状況で(異教徒の王キュロスを指す箇所〔イザ45:1参照〕においてさえ)用いられています。それゆえ、ペトロがイエスをキリストと呼んだとき、彼は旧約聖書に基づく理想的な人をあらわすためにこの言葉を使っていました。
旧約聖書の中で、「メシア」「油を注がれた者」という言葉が使われている次の聖句を読んでください。詩編2:2、18:51〔口語訳18:50〕、ダニエル9:25、サムエル記上24:7〔口語訳24:6〕、イザヤ45:1。ペトロは主に触発されて、イエスをメシアと宣言しましたが(マタ16:16、17)、間違いなく、彼はそのことの意味を十分にはわかっていませんでした。メシアとはだれなのか、メシアは何を成し遂げるのか、そしておそらく最も重要なことに、メシアはそれをどのように成し遂げるのか、ペトロは明確には理解していませんでした。
そのような理解に欠けていたのは、ペトロだけではありませんでした。イスラエルには、メシアに関して多くの異なる考えがあったからです。先の聖句における「メシア」「油を注がれた者」という言葉の使い方自体が、最終的にメシアがどうなり、何をするかをかなり予示していたにしろ、全体像を示していません。
ヨハネ7:42は、メシアに期待(予想)されていたことのいくつかを明らかにしています。メシアはダビデの子孫であり、ベツレヘムの村から出るのです(イザ11:1〜16、ミカ5:2)。その部分は、そのとおりになりました。しかし、一般的なイメージだと、ダビデの家系から出るメシアは、ダビデがしたことをするのです。つまり、ユダヤ人の敵を倒すのです。ローマ人によって十字架につけられるメシアなど、だれも予想しませんでした。
言うまでもなく、ペトロはこの書簡を書くときまでには、メシアとしてのイエスを(二つの書簡の中で、メシアは15回イエス・キリストと呼ばれています)、また彼が人類のために成し遂げられたことのすべてを、もっとはっきり理解していました。
イエス——神なるメシア
ペトロは、イエスがメシアであるだけでなく、主であることも知っていました。つまり、これらの書簡が書かれたときまでに、ペトロは、メシアが神御自身であることを知っていました。「主」という称号は、世俗的な意味も持ちえますが、この言葉は神性を明確に意味します。Iペトロ1:3、IIペトロ1:8、14、16において、ペトロはイエス・キリストを主、神御自身と呼んでいます。
新約聖書のほかの記者と同様、ペトロはイエスと神との関係を「子」と「父」という言葉であらわしています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(Iペト1:3)という聖句は、その一例です。イエスは「愛する子」(IIペト1:17)と称され、主としてのイエスの権威の一部と天の地位とは、彼が父なる神との間に有するこの特別な関係に由来しています。
IIペトロ1:1、ヨハネ1:1、20:28を読んでください。IIペトロ1:1には、「わたしたちの神と救い主イエス・キリスト」と書かれています。原語のギリシア語では、同じ定冠詞が「神」と「救い主」の両方に用いられており、このことは、イエスが「神」でも「救い主」でもあることを文法的に意味します。従ってこの聖句は、新約聖書の中でイエスの完全な神性をはっきり明示する箇所の一つとして存在しています。
初期のクリスチャンはイエスを理解しようと努力しながら、新約聖書の中の証拠を次第にまとめていきました。ペトロの書簡の中では、新約聖書のほかの部分と同様、父、子、聖霊がはっきりと区別されています(例えば、父、子に関しては、Iペト1:3、IIペト1:17、聖霊に関しては、Iペト1:12、IIペト1:21)。しかしその一方で、イエスは、聖霊と同様、完全に神として描かれています。長い期間をかけ、多くの議論を重ねたのち、教会は、神の聖なる神秘を可能な限りうまく説明する「三位一体」という教理を生み出しました。アドベンチスト教会もこの三位一体の教理を「信仰の大要」の中に一つの項目として含めています。このように私たちは、ペトロが彼の書簡の中でイエスをメシアとしてだけでなく、神御自身としても明瞭に表現しているのを見るのです。
さらなる研究
「『メシア』という言葉で始めることは、キリスト教会の名前の由来がギリシア語の同義語『クリストス』(油を注がれた者)にあるのだから、理にかなっているように思える。そのヘブライ語は、ユダヤ人が待望していた解放者、新しい時代の幕開けに、神の民のために神の代理人となる解放者と関係している。これらのヘブライ語もギリシア語も、『油を注ぐ』ことを意味する語根から派生した言葉である。新約聖書の記者たちはイエスを『キリスト』と呼ぶことによって、特定の働きのために特別に聖別された方と明らかにみなしていたのである。
『クリストス』という称号は、新約聖書の中に500回以上登場する。イエスの同時代人の間には、メシアという身分に関して複数の概念があった。しかし西暦1世紀までに、ユダヤ人はメシアを神と特別な関係にある者とみなすようになっていた、と一般的に認識されている。メシアは、神の国が樹立されるときに、時代の終わりの到来を告げるのである。神は彼を通して、御自分の民を解放するために歴史に介入される。イエスは『メシア』という称号を受け入れられたが、それを使うように勧めることはなかった。なぜなら、この言葉には、その使用を難しくさせる政治的なニュアンスが伴っていたからである。イエスは御自分の使命を説明するために、その言葉を公の場で使うことはためらわれたが、それを使ったことでペトロ(マタ16:16、17)やサマリアの女(ヨハ4:25、26)を責めることはなさらなかった。マルコは、『キリストの弟子だという理由で』(マコ9:41)彼の弟子の1人に1杯の水を与えることに関してイエスが語られたことを報告しているが、その報告からわかるように、イエスは御自分がメシアであることをご存じだったのである」(『SDA聖書注解』第12巻165ページ、英文)。
第9課 あるがままでいなさい
第9課 あるがままでいなさい
新約聖書に関して驚くことの一つは、非常に限られた文章量の中に、どれほど多くの真理が目白押しかという点です。IIペトロ1:1〜15を学ぶ今週の研究を例に取り上げましょう。この15節の中で、ペトロは信仰による義について教え、次に、自分をイエスにささげた人たちの人生の中に神の力がなしえることを取り上げます。そして彼は、私たちが「神の性質にあずかる者」(IIペト1:4、口語訳)になり、この世の情欲と退廃を免れることができるというすばらしい真理について語ります。そのうえ、私たちはクリスチャンの徳の目録のようなものを手に入れることができるだけでなく、ペトロはそれらを特定の順序で述べています。一つの徳のあとに別の徳、そのあとにさらに別の徳というように続き、それらは最終的に最も重要な徳で頂点に達します。
ペトロはまた、キリストにあるということ、以前の罪から「清められた」(IIペト1:9)ということが何を意味するのかについて書き、続いて、救いの確信という考え、主の「永遠の御国」(同1:11)における永遠の命の約束さえ持ち込んでいます。
そして最後には、死者の状態という重要な話題に関する短い説教もしています。わずか15節の中に、なんと多くの豊かで深い真理が含まれていることでしょう!
尊い信仰
IIペトロ1:1〜4を読んでください。この手紙は、「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」(IIペト1:1)宛てたものだと、ペトロは冒頭で述べています。「尊い」と訳されている言葉は、「同じ価値の」とか、「同じ特権の」といった意味です。彼は、彼らがこの尊い信仰を「受けた」と言っています。彼らがそれを「獲得した」とか、彼らがそれを「得るに値していた」と言わずに、それを神からの賜物として「受けた」と述べています。パウロが、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェ2:8)と書いているとおりです。その信仰が尊いのは、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブ11:6、口語訳)からであり、私たちは信仰によって多くのすばらしい約束を握っているからです。
ペトロは、イエスの「神の力」(IIペト1:3)が命と信心に関わるすべてのものを私たちに与えた、と強調しています。神の力によってのみ、私たちは存在し、神の力によってのみ、私たちは聖さを獲得することができるのです。そしてこの神の力は、「ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識」(同口語訳、さらにヨハ17:3も参照)を通じて私たちに与えられます。
私たちは神を愛すように呼びかけられていますが、知らない神を、どうしたら愛すことができるのでしょうか。私たちが神を知るようになるのは、イエス、聖書、被造世界、信仰と服従の実生活の体験などを通してです。私たちが神と神の現実性を知るのは、神が私たちの生活の中でなさることを体験するときです。
次にペトロは、さらに信じがたいことを言います。私たちには、「尊くすばらしい約束」(IIペト1:4)も与えられており、それには、「神の本性」(同)にあずかる者となることが含まれていると……。もともと人間は神のかたちにかたどって創造されましたが、すでにそのかたちは大きく損なわれ、退化しています。私たちが生まれ変わるとき、私たちはイエスによって新しい命を持ち、そのイエスが神のかたちを私たちの中に回復するために働いてくださるのです。しかし、もし私たちがこのような変化を起こしたいと望むのなら、この世の退廃や情欲から逃れなければなりません。
愛——クリスチャンの徳の目標
IIペトロ1:5〜7を読んでください。徳を列挙することは、古代世界の哲学者たちの間ではよく見られることでした。そのようなリストは、しばしば「徳の目録」と呼ばれ、新約聖書の中にもいくつか例があります(ロマ5:3〜5、ヤコ1:3、4、ガラ5:22、23)。かなりの確率で、ペトロの読者はこういったリストに慣れ親しんでいたはずですが、哲学者が列挙する徳とペトロが列挙している徳との間には、興味深い違いがあります。ペトロがこれらの徳を意図的な順序で並べ、それぞれの徳は先行する徳を土台にしており、最終的に愛において頂点に達している点に注目してください!
ペトロが用いているそれぞれの徳には、重要な意味があります。
「信仰」——ここでの信仰とは、救いを人にもたらすイエスに対する信心にほかなりません(ガラ3:11、ヘブ10:38参照)。
「徳」——徳(ギリシア語で「アレーテー」)、つまりあらゆる種類の善良さは、古代思想家の間でさえ歓迎されました。確かに、信仰は不可欠です。しかし、それは変えられた生き方、徳があらわれている生き方につながる必要があります。
「知識」——ペトロはイエス・キリストとの救いの関係によってもたらされる知識について語っています。
「自制」——成熟したクリスチャンは、衝動を、とりわけ過度になる衝動を抑えることができます。
「忍耐」——忍耐とは、とりわけ試練や迫害に遭遇した際に耐えることです。
「信心」——異教世界では、「信心」と訳されているこの言葉は、異教の神への信仰から生じる道徳的な行動を意味します。新約聖書の中では、唯一なる真の神に対する信仰から生じる道徳的な行動という概念を持っています(Iテモ2:2)。
「兄弟愛」——クリスチャンは家族同然であり、信心は、教会員が互いに親切である共同体をもたらします。
「愛」——ペトロのリストは、愛において頂点に達しています。彼の言葉はパウロの言葉のようにも聞こえます。(Iコリ13:13)。
あるべき姿になりなさい
クリスチャンとして私たちが熱心に求めるべきもののリストを与えたあと、次にペトロは、その結果がどうなるかについて明言しています。
IIペトロ1:8〜11を読んでください。ペトロは読者に、イエスによって可能となる新しい現実に従って生きなさい、と勧めています。信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛といった特徴が彼らに「備わり、ますます豊かになる」(IIペト1:8)ためです。
問題は、すべてのクリスチャンがこの新しい現実に従って生きるわけではないという点です。中には、私たちの主イエス・キリストを知っても、役に立たず、実を結ばない人がいます(IIペト1:8)。そのような人たちは、彼らが「以前の罪」(同1:9)から清められたことを忘れているのです。彼らはキリストにおいて、赦し、清め、神の本性にあずかる権利を得ました。ですから、彼らは「召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努め」(同1:10)なければなりません。かつてのように生きることや、「実を結ばない」クリスチャンでいることに、弁解の余地はありません
「私たちは、信仰については多くのことを聞きますが、行いについてもっと多くのことを聞く必要があります。多くの人は、気楽で融通のきく、十字架のない宗教によって自分を欺いています」(エレン・G・ホワイト『信仰と行い』56ページ)。
問1
ローマ6:11を読んでください。パウロはここで、きょうの聖句の中でペトロが書いた内容を反映するどんなことを言っていますか。
ある意味で、ペトロもパウロも、「あるべき姿になりなさい」と言っているのです。私たちは罪から清められ、キリストによって新しく造られた者、神の本性にあずかる者です。だから私たちは、私たちに命じられているような人生を送ることができます。私たちは「キリストのように」ならなければなりません。それが、「クリスチャン」であるということなのです。
仮の宿を脱ぎ捨てる
「わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」(IIペト1:13、14)。
1956年、ルター派の新約聖書学者オスカー・クルマンは、『霊魂の不滅か死者の復活か——新約聖書の証言』という短い研究論文を書き、復活という概念と霊魂の不滅という概念はまったく相いれない、と論じました。さらに、新約聖書は死者の復活をまったく支持しているとも書きました。彼はのちに、「私の出版物で、これほどの歓迎とこれほどの激しい反対を受けたものはほかになかった」と記しています。
Iコリント15:12〜57を読んでください。死や復活について新約聖書が述べていることに関する1つの研究は、クルマンが正しいと、ほとんどの新約聖書学者を納得させました。新約聖書は確かに、肉体の死のあとに残る霊魂の不滅という考えではなく、復活という考えを当然のものとみなしています。例えば、Iテサロニケ4:16〜18においてパウロは、愛する者と死別した人たちが、再臨のときにイエスが死者を復活させられるということを知って慰められるように、と励ましています。
Iコリント15:12〜57では復活についてさらに詳しく述べており、まずパウロは、キリスト教信仰がイエスの復活に根差していると指摘することから論じ始めています。もしイエスが復活されなかったら、彼に対するいかなる信仰も無駄です。しかし、パウロは言います。キリストは、すでに眠りについた者たちの初穂として確かに復活された、と。そして、キリストが死者の中から復活されたことで、彼を信じて眠っている者たちもみな、死者の中から復活することができるのだ、と。
Iコリント15:35〜60において、パウロは復活の体について語っています。彼は、復活のときに私たちが受ける新しい体と私たちの現在の体を比較しています。私たちが現在持っている体は死にますが、私たちが復活のときに得る体は死にません。
要するに、新約聖書が死について語るとき、それは霊魂の不滅の観点からではなく、復活の観点から語っているということです。IIペトロ1:12〜14を読むうえで、この点を背景として知っておくことが重要です。
死に臨んでの信仰
IIペテロ1:12〜15(口語訳)を読んでください。この箇所は、この手紙が書かれた時期を明らかにしています。ペトロは、間もなく亡くなろうとしており、この手紙には彼の最後のメッセージ、最後のあかしが含まれています。
ペトロがほどなくして死ぬであろうことは、「私が地上の幕屋にいる間は……私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っている……」(IIペテ1:13、14、新改訳)という表現によって明らかです。彼は体を「幕屋」にたとえており、その体は、彼が亡くなるときに脱ぎ捨てるものです。実際に、ペトロが「幕屋を脱ぎ去る」と言うときに彼の体を意味していることは明らかなので、現代の聖書翻訳者たちは先の聖句を、「私がこの体の中にいる間は……私は自分の死が近いことを知っている……」(英訳聖書からの直訳)と訳す傾向があります。「幕屋を脱ぎ捨てる」とペトロが言うとき、その言葉の中に、彼の魂が独立した存在として生き残ることをうかがわせるようなものは一切ありません。
IIペトロ1:12〜15を読み直してください。この聖句は、ペトロの言葉にさらなる厳粛さを加えます。彼は、自分の人生が間もなく終わることを知りつつ、これを書いています。彼がそのことを知っているのは、記されているとおりに、「主イエス・キリストが示された」からです。しかし、恐れ、不安、不吉さは、まったく見当たりません。それどころか、彼は、あとに残す人々の幸福を重視しています。ペトロは、彼らが「いま持っている真理」(口語訳)を固く信じることを願い、忠実でありなさいと、(自分が生きている限り)彼らを諭そうとしています。
私たちはここに、ペトロの、主と交わった体験の現実と深さを見ることができます。確かに、彼は間もなく亡くなり、しかもその死は好ましいものにはなりませんが(ヨハ21:18、『患難から栄光へ』第52章の最後の数段落参照)、彼の無欲な関心は他者の利益なのです。ペトロは確かに、自分が教えた信仰を生き抜いた人でした。
さらなる研究
すでに触れたように、ペトロは間もなく死ぬことを知っていました。しかも(長年の間)、どのように死んでいくのかも知っていました。なぜなら、イエス御自身が彼に、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハ21:18)と言われたからです。
彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。「ペテロはユダヤ人であり外国人として、むちで打たれて十字架につけられる刑が宣告された。この恐ろしい死を目前にして、使徒は、イエスの裁判の時にイエスを拒んだ自分の大きな罪を思い出した。かつては十字架を認める準備のできていなかった彼は、今、福音のために命をささげることを喜び、ただ、主を拒んだことのある自分は、主と同じ死に方をするという大きな栄誉には値しないということしか思わなかった。ペテロはその罪を心から悔いて、キリストにより既にゆるされていた。羊と群れの小羊を養う高い使命が彼に与えられていたことがそれを示している。しかし彼は自分を決してゆるすことができなかった。最後の恐ろしい場面の苦しみを考えてさえも、彼のはげしい悲しみと後悔の念は軽くならなかった。最後の願いとして、彼は頭を下に向けて十字架に釘づけされるようにと執行人に頼んだ。この願いは聞き入れられて、この方法で偉大な使徒ペテロは死んだ」(『希望への光』1561ページ、『患難から栄光へ』下巻240ページ)。このようになるという見通しにもかかわらず、彼の関心は群れの霊的な幸福だったのです。
第10課 預言と聖書
第10課 預言と聖書
ペトロの手紙を学び続けるにつれ、一つの点が際立ってきます。それは、ペトロが自ら書いていることにどれほど自信と確信を持っているか、という点です。同じことがパウロにも見られます。イエス・キリストとその十字架について宣べ伝えていることに対する明確で確固たる信念です。
今回の聖句(IIペト1:16〜21)の中に、私たちはペトロのこの確信をさらに見るでしょう。彼は、なぜそのような確信を持っているのか、理由さえ述べています。彼は、「巧みな作り話」(IIペト1:16)——例えば、当時の異教を成り立たせていたような作り話——を信じているのではない、と言っています。そうではなく、ペトロは二つの理由によって、彼が信じたことに確信を持っていたのです。
第一の理由は、彼が「わたしたちの主イエス・キリスト」(IIペト1:16)の目撃者であったこと。第二の理由は、(ほとんどの人は目撃者になれないので)こちらのほうが重要なのですが、「確かな預言のみことば」(同1:19、新改訳)です。ペトロは再び聖書に戻り、イエスをはっきり確認するために聖書を、とりわけイエスについて述べている預言の箇所を挙げています。それらは、イエスが御自分について述べられたのと同じ箇所です(マタ26:54、ルカ24:27)。ですから、もしイエスとペトロが聖書をこれほど重要視したのであれば、私たちもそうすべきです。
旧約聖書におけるイエス
二つの書簡を通してずっと、ペトロは確信を持って書いています。彼は、自分が何について語っているのか、よくわかっていました。なぜなら彼は、自分が語っている人のことを知っていたからです。そして、その一つの理由は、イエスが旧約聖書の預言者たちによって指し示された方だ、と彼が知っていたことです。ペトロが「肉となっ(た)」(ヨハ1:14)言を知る助けとなったのは、書かれた御言葉に対する彼の信頼でした。
Iペトロ1:10〜12においてペトロは、読者の目を旧約聖書に、いにしえの預言者たちと彼らがイエスについて教えたことに向けています。ペトロによれば、聖霊は旧約聖書の中でイエスについて二つの重要な真理を明らかになさいました。「キリストの苦難」と「それに続く栄光」(Iペト1:11)です。これら二つの要素が、旧約聖書全体を通して見られます。
次の聖句を読んでください(詩編22編、イザヤ53:1〜12、ゼカリヤ12:10、13:7、エレミヤ33:14、15、ダニエル7:13、14)。Iペトロ1:10〜12において、ペトロは読者に、彼らが救済史の中で非常に特別な位置を占めていると断言しています。彼らには、いにしえの預言者たちに示されたことよりもずっと多くのことが示されたからです。預言者たちは確かに当時の人々に語りましたが、彼らのメッセージの重要な部分は、イエスが到来されるまで成就しませんでした。
預言者たちが預言したことの中のあるものは、ペトロの読者が生きていた時代になって初めて成就しました。この読者たちは、「天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たち」(Iペト1:12)から、天使たちさえも知りたいと願っていた真理を聞くことができました。福音が告げ知らされたので、彼らは、いにしえの預言者が知っていたよりもずっと詳しく、救い主の苦しみとへりくだりの現実と性質を知ったのです。言うまでもなく、私たちと同様に、彼らも「それに続く栄光」(同1:11)を待たなければなりません。それらの預言の前半が成就したので、私たちは後半の成就も確信することができます。
威光の目撃者たち
問1
IIペトロ1:16〜18を読んでください。イエスを信じるための証拠として、ペトロはほかにどんなものを持っていると述べていますか。
預言の言葉に加えて、ペトロは、彼が宣べ伝えたことの多くの目撃者でした。キリスト教は「巧みな作り話」(IIペト1:16)に基づいているのではなく、歴史の中で実際に起こった出来事、ペトロ自身が目撃した出来事に基づいていると、彼は言います。
福音書の中で、ペトロはイエスの人生と働きにおける重要な出来事の多くに立ち会っています。イエスがそこにおられたのは、説教や教えや奇跡のためでした。初期の魚の奇跡(ルカ5:4〜6)から復活後のイエスにガリラヤで会うこと(ヨハ21:15)に至るまで、ペトロは起こったことの大半を目撃しました。
IIペトロ1:17、18を読んでください。ペトロは、彼が目撃した一つの具体的な出来事、イエスの変貌を強調しています。イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、祈るために山へ登られました(ルカ9:28)。そこにいる間に、イエスは彼らの目の前で姿を変えられました。彼の顔は輝き、その服は光のように白くなりました(マタ17:2、ルカ9:29)。そこへモーセとエリヤが加わり、さらに天から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタ17:5)という声が聞こえたのでした。
ペトロはイエスと一緒にいた頃に多くのことを目撃しましたが、この出来事が際立っていたのです。その出来事は、イエスが神の御子であること、地上における彼の時間は神の御計画に基づいて費やされたこと、そして彼が父なる神と非常に特別な関係をお持ちであったことを明らかにしています。ペトロがそれまでに見た、またこれから見ることになるあらゆる出来事の中でも、(「天から響いてきたこの声」〔IIペト1:18〕を含む)この出来事は、彼が特に手紙の中で強調したものでした。
心の中の明けの明星
IIペトロ1:19を注意深く読んでください。聖書の多くの箇所で見られるように(創1:4、ヨハ1:5、イザ5:20、エフェ5:8)、ここでも光と闇が区別されています。ペトロにとって、神の御言葉は「暗い所」(「むさ苦しい所」「汚い所」とも訳せる)のともし火のように輝いていました。それゆえ、私たちはその光に注意を払い、「夜が明け、明けの明星が〔私たち〕の心の中に昇るときまで」それに従う必要があると、ペトロははっきり述べています。私たちは堕落した存在であり、罪に堕ちた暗い世界の中に生きています。私たちは、この暗闇の中から光へと私たちを導き出される神の超自然的な力が必要であり、その光がイエスです。
ペトロは読者にゴールを指し示しています。ある人たちは、「夜が明け……るときまで」という表現がキリストの再臨を指すと考えています。確かに、それは私たちの究極の希望ですが、「明けの明星があなたがたの心の中に昇る」というのは、もっと即時の、もっと個人的なことのように思えます。「明けの明星」はイエスを指しています(黙2:28、22:16)。イエスが心の中に昇るというのは、イエスを知ること、彼をしっかり捉えること、個人の生活において生けるキリストを実際に体験することと関係しているようです。イエスは単なる教理上の真理であってはなりません。彼は私たちの存在の中心、私たちの希望と信仰の源であるべきです。それゆえにペトロは、神の御言葉を学ぶことと、イエス(明けの明星)と救いの関係を持つこととを、はっきり結びつけています。
そして言うまでもなく、私たちは自分の中で輝く光をほかの人にも分け与えるでしょう。「地球全体は、神の真理の輝きによって照らされるために存在している。その光は、すべての土地、すべての人を照らすために存在している。その光が輝き出るのは、それを受け取った者たちからである。明けの明星は私たちの上に昇った。だから、私たちはその光を暗闇の中にいる人々の進路に照らすために存在している」(エレン・G・ホワイト『クリスチャン経験と教え』220ページ、英文)。
一層確かな預言の言葉
IIペトロ1:19〜21を読んでください。キリスト教は「巧みな作り話」(IIペト1:16)に基づいていないことを強調する際に、ペトロは2種類の証拠を挙げています。第一は目撃であり(同1:16〜18)、第二が聖書の預言(同1:19〜21)で、これは、彼が先に用いた論拠です(Iペト1:10〜12)。
ペトロはまた、「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」(IIペト1:20)とも述べています。こう言うことで、彼は、私たちが自分で聖書研究をするのを禁じているわけではありません。そのような禁止は、Iペトロ1:13で、「心を引き締め……なさい」(別の英訳聖書では、「行動できるように心の準備をしなさい」)と言っている人の考えとはかけ離れています。また、すでに与えられていた預言の意味を熱心に探求したことについて、いにしえの預言者たちを称賛した人が(Iペト1:10)、そんなことを言うはずもないでしょう。
では、ペトロは何が言いたいのでしょうか。新約聖書の教会は、ともに成長し、ともに学びました。クリスチャンは一つの大きな体の部分でした(Iコリ12:12〜14)。そこでペトロは、信徒の共同体から得られた洞察をどれも認めないような研究をここで牽制しています。他者と交わることによって、私たちは共同体として互いに成長することができます。聖霊は共同体とその中の個人とともに働かれます。洞察は、共有し、磨き、深めることができます。しかし、他者の意見を拒んで独りで研究する者は、とりわけ預言の解釈に関して、誤った解釈に至る可能性が高くなります。
続く数節を見ると、ペトロがこのような意見を述べるもっともな理由がわかります。彼が手紙を書いている先のクリスチャンたちの間に、偽預言者や偽教師があらわれようとしていたのです(IIペト2:1)。ペトロは彼らに、聖書の解釈は教会全体の指導に従いなさい、と強く勧めています。どれほど多くの人が、聖霊に導かれた信徒の共同体の勧告を聞き入れなかったために、熱狂や誤りの中に陥って行ったことでしょうか。それは当時も危険でしたが、今日でも依然として危険です。
生活の中における御言葉
すでに触れたように、ペトロは聖書をとても重視しています。IIペトロ1:19〜21は、私たちのクリスチャン経験にとって聖書が重要であることや、聖書が神の霊感を受けていることを力強く断言しています。彼の主張が明確に出ているのは、IIペトロ1:21です。聖書は、ほかの本のように人間の意志、人間の考えによって生まれたものではありません。聖書は、「人々が聖霊に導かれ」、聖霊の力によって生み出された本です。
IIテモテ3:15〜17を読んでください。これらの聖句は、IIペトロ1:19〜21の真理を補強しています。パウロは、テモテと教会が直面している危険について警告を与えたあと、聖書の重要性を大まかに短く述べています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(IIテモ3:16)。
次の三つの点について考えてみましょう。
教理:教理とは教会の「教え」のことです。教理は、神の御言葉の中で重要とみなされるさまざまな主題に対する共同体の信仰内容をあらわしています。理想的には、それぞれの教理がキリスト中心であり、それぞれが私たちに、「神の御心」(ロマ12:2)と一致した生き方を知る助けとなる何かを教えているべきです。
導き:パウロはテモテに、聖書は「人を……戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(IIテモ3:16)と語っています。ペトロも、聖書の預言は暗い所で輝くともし火に似ていると言うことで(IIペト1:19)、同様の指摘をしています。言い換えれば、聖書は、私たちの生き方や善悪の判断において「導き」を与えるということです。聖霊の霊感を受けているので、聖書は啓示された神の御意志にほかなりません。
「救いに導く知恵」:パウロが、聖書は「救いに導く知恵」を私たちに与えると言うとき、彼は、聖書が私たちにイエスを指し示していると指摘しています。救いは、イエスが私たちの罪のために死んでくださったという信仰の上に成り立っているからです。
教え、道徳的導き、救いの知識——間違いなく、神の御言葉は、「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火」(IIペト1:19)に似ています。
さらなる研究
「聖書から真理を学び、その光に歩み、そして他人にも自分の模範に従うように励ますことは、すべて理性のある者の第一にして最高の義務である。われわれは日々熱心に聖書を研究し、すべての思想を熟考し、聖句と聖句を対照すべきである。われわれは神の前で自分で答えるのであるから、神の助けによって自分で自分の考えを定めなければならない。
聖書の中に最も明白に示されている真理が、学者たちによって疑いと暗黒に包まれてきた。彼らは、偉大な知恵を持っているように見せかけながら、聖書にはそこに用いられている言葉に現れていない神秘的で霊的な隠れた意味があると教える。これらの人々は偽教師である。イエスが『あなたがた……は、聖書も神の力も知らないからではないか』と言われたのは、こういう種類の人々に向かってであった(マルコ12:24)。聖書の言葉は、象徴や比喩が用いられていないかぎり、その明瞭な意味に従って解釈されるべきである。キリストは『神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教えが……わかるであろう』と約束された(ヨハネ7:17)。もし人々が、聖書をその書いてあるとおりに受け取りさえすれば、もし人々を誤らせ、その心を混乱させるような偽教師がいないならば、現在誤謬の中に迷っている幾千もの人々をキリストの囲いの中に導き、天使たちを喜ばせるような働きが成し遂げられるであろう」(『希望への光』1890、1891ページ、『各時代の大争闘』下巻365、366ページ)。
第11課 偽教師
第11課 偽教師
ペトロの手紙Iにおいて、ペトロは大きな牧会的心配から、迫害の危機に関して読者を励まそうとしました。ペトロが具体的にどのような種類の迫害のことを述べていたのかはわかりません。しかし異教のローマ帝国が、「クリスチャン」と呼ばれる人々の、拡大しつつある運動を消滅させようとしたときに、教会が厳しい試練に直面するだろうことはわかります。
ところが、サタンは二面攻撃を始めました。確かに、外部からの迫害——凶暴な力と暴力——は強力な道具です。しかし、教会はもう一つの脅威、おそらく外部からの迫害よりも危険な脅威に直面しました。それは内部からの脅威でした。かつてユダヤ民族が偽預言者に対処しなければならなかったように、ペトロの時代のイエスの弟子たちは、教会に「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込(む)」(IIペト2:1)偽教師に対処しなければなりませんでした。そしてさらに悪いことに、多くの人がこの「みだらな楽しみ」(同2:2)を見習うだろうと、ペトロは警告しました。
ペトロが警告していたこういう教えとは、どのようなものだったのでしょうか。ペトロはそれらにどう反応したのでしょうか。そして今日の私たちは、やはり内側からの脅威に直面するときに、彼の警告からどんな教訓を得ることができるでしょうか。
偽預言者、偽教師
初代教会は、イエスの初期の信者たちの間に大きな平和と調和のあった時代だと考え、それを理想化することは、ときとして簡単です。
しかし、それは誤りでしょう。イエスがおられた当時でさえ、教会はしばしば内部からの争いに直面しました(ユダのことを考えてください)。新約聖書の書簡が示すように、問題の多くは教会内での偽の教えから生じました。初代教会は外部からの迫害だけでなく、内部からの問題にも苦しみました。それはどのようなものだったのでしょうか。「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません」(IIペト2:1〜3)。兄弟姉妹の間に大きな平和と内部的調和のあった時代とは、とても思えません。
問1
IIペトロ2:1〜3、10〜22を読んでください。ペトロはここで何について警告していますか。教会内で広がりつつあった偽りには、どのようなものがありますか。
IIペトロ2:1は、主の霊感によってペトロが手紙を書いた理由を明らかにしているようです。ペトロは教会員に、かつて偽預言者がいたように、これから偽教師があらわれるだろう、と警告しています。彼は、この教師たちが「滅びをもたらす異端」(IIペト2:1)を持ち込むことや、不用心な者たちを滅亡の奴隷(同2:19)や他の多くの過ちへ導くことなど、彼らに対するさまざまな非難を繰り返し述べています。ペトロが書いたことから、これらの教えが非常に危険なものであったこと、そして彼がなぜこれほど強くそれらに反応したかがわかります。教理(教え)は重要ではないなどという考えを、彼は持っていませんでした。
キリストにある自由
問2
「彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです」(IIペト2:18)。ペトロはこの聖句で、何について警告していますか。彼の心配を説明する助けとなる次の節(同2:19)で、彼は何と言っていますか。この節における「自由」という言葉は、なぜ重要なのでしょうか。
可能な限り強い言葉で、ペトロは偽教師の危険性に対する警告を読者に与えています。IIペトロ2:18〜21において彼は、偽教師たちが自由を約束しながらも、実際には人々を束縛へ導くだろう、と警告します。
なんという福音の完全な曲解でしょう!キリストにある自由は、罪の隷属からの自由を意味しなければなりません(ロマ6:4〜6)。人を罪の束縛の中に残す「キリストにある自由」という概念は、いずれもペトロが警告しているような種類の誤りです。学者たちは、ペトロがここで取り上げている異端がどんな種類の異端であったかについて論じてきました。しかしそれが何であれ、罪の問題や人が罪の奴隷であるという問題全体とつながっていることは明らかです。
問3
ヨハネ8:34〜36を読んでください。ここにおけるキリストの言葉は、ペトロが言っていることを理解するうえで、いかに助けとなりますか。
これらの偽教師がどのようなことを伝えていたにしろ、彼らは餌食——主イエスを見いだしたばかりの人々——をこれまでの罪深い生き方へ引き戻していました。純粋さや聖さを軽視した、ある種の安価な恵みの福音や、抜け出てきたばかりのこの世の「滅亡」(IIペト2:19)の中へ彼らを再び巻き込んだ何かを想像することは難しくありません。ペトロがこういう教えを鋭く、強く非難し、それに従った結果がどうなるかについて警告したのも当然です。
犬は自分の吐いた物に戻る
問4
IIペトロ2:17〜22、マタイ12:43〜45を読んでください。キリスト教に改宗した者が以前の生き方に戻るとき、どのような危険がありますか。
ペトロは、偽教師たちが以前の罪に引き戻した者たちの運命を心配しています(IIペト2:18)。偽教師は自由を約束しますが、ペトロの指摘どおりに、彼らが約束する自由は、イエスが弟子たちに約束された自由とはまったく異なるのです。
ペトロが与えた警告に目を向けてください。義の道を知ってから古い生き方に戻るよりは、「義の道を知らなかった方が」(IIペト2:21)よかったでしょう。
言うまでもなく、これは、彼らが絶望的だという意味ではありません。私たちはみな、主に背いたものの、のちに立ち戻った人たちの話を知っています。さらに、彼らが戻るときに主は歓迎し、喜んで彼らをもとに戻されることも知っています(ルカ15:11〜32参照)。つまるところ、主に背くことは非常に危険な道であり、また不愉快な道だということです。自分が吐いた物のところへ戻る犬というのは、それをあらわす下品で辛辣な表現方法ですが、ペトロはこのようなイメージで自分の主張を述べています。
IIペトロ2:20でイエスの言葉が繰り返されているのは、たぶん意図的なのでしょう(マタ12:45、ルカ11:26参照)。イエスは汚れた霊から自由になった人のたとえ話を語られました。その霊は休む場所もなくうろつき、やがて「出て来たわが家」(マタ12:44)に戻ります。着いてみると、そこは空き家で、整えられています。そこで霊は戻って入るのですが、自分よりも悪いほかの七つの霊も一緒に連れて来ます。こうしてイエスが言われるように、「その人の後の状態は前よりも悪くなる」(同12:45)のです。イエスが説明され、ペトロが描写する危険は現実です。新しい信徒は、聖霊に属するものが、かつてその人の人生を支配していたものに取って代わる必要があります。もし教会に関わり、新しい信仰を共有することが、それまでの世俗的な活動に取って代わらないなら、その人のかつての生き方に戻ることはあまりにも簡単です。
ペトロとユダ
ユダ4〜19はIIペトロ2:1〜3:7のほぼ繰り返しであると、多くの人が認めてきました。聖書がメッセージを繰り返すときは、神が重要な何かを伝えたいと願っていることに、私たちは留意すべきです。内容が似ているこの箇所において、ペトロとユダは1つの重要な真理——神が悪人たちの運命を支配しているという真理——を私たちに知らせるために多くの行数を用いています。ペトロもユダも、神は悪を注意深く監視しているということに関して明快です。不正を行う人であれ、堕落した天使たちであれ、神は彼らの悪を特に注目し、裁きの日に彼らを罰することを計画してきました(IIペト2:9、17、ユダ6)。
IIペトロ2:1〜3、7、ユダ4〜19を読んでください。ペトロとユダは、神が過去になさった復讐の三つの実例を記録しています。その三つとは、ノアの時代以前の世界を大洪水によって滅ぼしたこと、ソドムとゴモラを焼き払ったこと、滅ぼし尽くすために堕落天使たちを鎖につないだことです。これらはみな、最終的な滅びをにおわせています。聖書は神の憐れみと恵みについて大いに語っていますが、神の正義が最終的に罪を滅ぼすことにおいて重要な役割を担っています。
このような厳しい罰を引き起こした罪とは、どのようなものだったでしょうか。それらには、破壊的な異端を持ち込むこと、権威を侮ること、自分を打ち負かした者に服従すること、神の恵みを不道徳への許可と曲げて解釈すること、唯一の支配者、主としてイエス・キリストを認めないこと、身体を汚すこと、無意味な大言壮語をすること、中傷することなどが含まれます(IIペト2:1、2:10、19、ユダ4、8、IIペト2:18、ユダ10)。
興味深いことに、これらの記述の中には、暴力行為や、私たちをしばしば憤慨させるひどい残虐行為は含まれていません。その代わりに、一つの共通性を持つ、あまり目立たない罪が記されています。これらは、ときとして教会共同体の中で許されている罪です。この事実は、教会における誠実な悔い改めと改革が大いに必要であることを私たちに気づかせます。
旧約聖書のさらなる教訓
IIペトロ2:6〜16を読んでください。聖書の中で初めてソドムに触れているのは、創世記13:12、13です。ロトとアブラハムは、「財政的な」理由から別々に住むことにしました。ロトはヨルダン川の低地を選び、「ソドムまで天幕を移し」(創13:12)ました。聖書は、「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」(同13:13)と述べています。のちに神がアブラハムに、ソドムを滅ぼすと警告されたとき、アブラハムは、もし正しい者が10人そこにいれば滅ぼさない、という協定を行いました(同18:16〜33)。ソドムには正しい者が10人もいなかったことは、ロトを訪ねた使者たちの身に起こったことで十分説明されています。この町は滅ぼされ、ロトと2人の娘だけが逃げました(同19:12〜25)。
ペトロはこの物語から二つの教訓を引き出しています。第一、二つの町(ソドムとゴモラ)は、不信心な者たちに罰が与えられることを例示している(IIペト2:6)。第二、主は試練の中から正しい者を救い出す方法をご存じである(同2:7〜9)。次にペトロは、ソドムとゴモラで滅ぼされた者たちの特徴をいくつか記しています。彼らは、汚れた情欲に溺れ、権威を侮り、あつかましく、わがままで、天使たちを中傷することをためらいませんでした(同2:10、11)。これらの特徴には、偽教師と彼らに従う者たちについてペトロが説明していることと共通点があります。
バラムの話は民数記22:1〜24:25に記されています。彼は、イスラエルの人々を呪うようにとモアブの王バラクに雇われていました。最初は気乗りしなかったのですが、多額の金を受け取ることで説得され、この仕事を引き受けます(民22:7〜21)。途中、バラムは「主の御使い」に立ちふさがれ、彼のろばが道をそれたのでかろうじて死を免れました。バラムはろばを打ちましたが、彼の目が開かれ、「主の御使い」を見たときに、自分の誤りを悟りました(同22:22〜35)。最終的に、バラムがイスラエルを祝福することで、物語は終わっています(同23:4〜24:24)。ペトロは、姦通と強欲によって誘惑された人々の例としてバラムを用いました(IIペト2:14:15)。そのような人たちはバラムに似ています。彼らは歩むべき道を外れたからです。
さらなる研究
私たちは、クリスチャンが「キリストにある自由」について語るのをとてもよく耳にします。そして言うまでもなく、これは根拠のある概念です。罪の刑罰から逃れること、そして、私たちの業ではなく、キリストが私たちのために成し遂げられたことのゆえに救いの確信を持つことは、確かに自由です。宗教改革者マルティン・ルターと、彼が恵みを理解する前に苦しんでいた隷属に関する物語は、この自由がどのようなものであるかを示す良い例でしょう。しかし、ペトロの手紙の中で見たように、このすばらしい真理は曲げて解釈されることがあります。
「救いに関して私たちがまったくキリストに依存しているという大いなる真理は、誤った憶測と隣り合わせており、キリストにある自由は、多くの人によって無法だと誤解されている。キリストが私たちを律法の刑罰から解放するためにおいでになったので、律法は廃止され、律法を守る者は恵みから落ちこぼれていると、多くの人が力説する。偽りと真理が似ているように見えるとき、聖霊に導かれていない魂は、偽りを受け入れるように導かれ、そうすることで彼ら自身をサタンの欺きの力のもとに置くことになる。真理の代わりに偽りを受け入れるように人々を導くことで、サタンはプロテスタント世界の尊敬を手に入れるのである」(エレン・G・ホワイト『勝利されたキリスト』324ページ、英文)。
第12課 主の日
第12課 主の日
これまで長年にわたって、神を信じない人々は信頼できない、危険でさえある、とみなされてきました。なぜでしょうか。その考え方は単純です。もし神を信じていないなら、彼らは、自分たちが神の前で自らの行為の釈明をしなければならない未来の裁きを信じていないからです。この動機づけがなければ、人々は悪事を働く傾向が大きくなります。
今日、こういった考え方は時代遅れ(であり、「差別的」)ですが、その裏にある理屈や理由を人は否定できません。言うまでもなく、正しいことを行うために、多くの人は未来の裁きを恐れる必要はありません。しかしその一方で、神に釈明するという見通しは、確かに正しい行いの動機づけになりえます。
すでに触れたように、ペトロは、悪事を働く者たちが神の前で直面する裁きについて警告することを恐れませんでした。なぜなら、そのような裁きがやって来ると、聖書がはっきり述べているからです。ペトロはこのような背景において、時代の終わり、裁き、イエスの再臨、「自然界の諸要素は熱に熔け尽く(す)」(IIペト3:10)時などについて、明瞭に述べています。ペトロは、私たちがみな罪人であることを知っていました。それゆえ、こういう先の見通しの中で、「あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません」(同3:11)と、彼は言います。
権威の系統
ペトロは、教会が遭遇するであろう危険な教えについて読者に警告するとともに、自由を約束しながらも人々を罪の束縛(キリストにおいて約束されている自由とは正反対のもの)に連れ戻す者たちに釘を刺しました。
しかし残念なことに、教会が直面するであろう偽の教えは、これだけではありませんでした。危険な教えがもう一つ、やって来ます。しかしペトロは、その具体的な警告を与える前に、まずほかのことについて述べています。
問1
IIペトロ3:1、2を読んでください。なぜ読者がペトロの書いていることに耳を傾けるべきなのかということについて、ペトロはここでどのような主張をしていますか(ヨハ21:15〜17も参照)。
ペトロはIIペトロ3:1、2において、「聖なる預言者たち」によってすでに与えられていた、霊感を受けた言葉を読者に思い出させています。それによって、彼は読者の目を聖書に、つまり旧約聖書に向け、彼らが「確かな預言のみことば」(IIペト1:19、新改訳)を持っていることを再認識させています。ペトロは、彼らの信仰が神のみ言葉に根差していることをはっきりさせたかったのです。新約聖書の中のいかなるものも、旧約聖書がもはや無効であるとか、ほとんど重要でないとかいった考えを正しいと認めていません。それどころか、新約聖書と、イエスについてペトロが訴えている主張の妥当性を確立するうえで助けとなるのは、旧約聖書です。
しかし、それだけではありません。ペトロは次に、旧約聖書の「聖なる預言者たち」から、「主であり救い主である方の使徒たち」の1人としての自分に至る明確な権威の系統を主張します。ペトロは、今彼がしていることをするようにと主から受けた召しについて明快でした。彼が確信をもって語っているのもうなずけます。ペトロは彼のメッセージの源を知っていました。
あざける者たち
ペトロは読者に、「聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出して」(IIペト3:2)もらおうとしたあと、具体的な警告に取りかかります。たぶんこの教えがどれほど危険になるかを知っていたので、彼は権威をもって書くことによって警告を印象づけようとしたのでしょう。
IIペトロ3:3、4を読んでください。偽りの自由を宣伝する者たちと、キリストの再臨について疑いを表明する者たちとの間には、重要な類似点があります。前者は「汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み」(IIペト2:10)、キリストの再臨を否定する者たちは、「欲望の赴くままに生活して」(同3:3)いました(罪深い欲情が偽の教えにつながるというのは、単なる偶然の一致でしょうか)。
ペトロは、あざける者たちが、「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」(IIペト3:4)という辛辣な質問をするだろうと警告しています。そうすることによって彼らは、イエスがこの地球に間もなく戻って来られるという、クリスチャンの長年にわたる信仰に挑戦するでしょう。結局のところ、彼は特に終末時代について語っているので、これらのあざける者たちは、多くのクリスチャンがすでに死に、世の中のことはいつものように続いているという否定しがたい事実を指摘するでしょう。
一見すると、それは不合理な質問ではありません。エノクでさえ、「義人も悪人も共に土に帰り、それですべてが終わるもの」(『希望への光』44ページ、『人類のあけぼの』上巻82ページ)と思い悩んだと、エレン・G・ホワイトは記しています。大洪水の前に生きていたエノクでさえ、このような疑問に悩みつつ生きていたのなら、その後の数千年の間に生きた者たちや、さらに「終わりの時」に生きる者たちは、なおさらそうでしょう。
セブンスデー・アドベンチストである私たちは、今日どうでしょうか。私たちの名前は、キリストの再臨という考えを宣伝しています。それにもかかわらず、主はまだおいでになっていません。ですから、ペトロが予告したように、私たちはあざける者たちに遭遇するでしょう。
「一日は千年のよう」
ペトロはIIペトロ3:8〜10において、あざける者たちが持ち込む意見に応じています。キリストがまだ戻られない理由を理解するうえで、現在の私たちの助けとなることを彼は言っています。ペトロは、この世の不変性という問題に対応しています。彼は読者に、この世が天地創造以来変わっていないというのはうそであることを思い出させます(ペトロが彼の情報源、根拠として、聖書にすぐ立ち戻るところに注目してください)。かつてはなはだしく悪い時代があり、その後、神はその世界を大洪水で滅ぼされました(IIペト3:6)。そして確かに、大洪水はこの世に大きな変化をもたらし、その世界が今日の私たちに残されています。それからペトロは、次に来る滅びは水によるものではなく、火によるものだと述べています(同3:7、10)。
彼はまた、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(IIペト3:8)とも書いています。ペトロはこう書く際に、詩編90:4の言葉を思い浮かべていたのでしょう——「千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」。言い換えれば、私たちの時間概念は、神の時間概念とは異なるということです。ですから、時間に関して下す私たちの判断は、慎重でなければなりません。
人間的な観点からすると、キリストの再臨は遅れているように思えます。しかし、私たちは物事を人間的観点からしか見ていません。神の観点からすると、遅れはありません。それどころかペトロは、延長時間が認められてきたのは、神が忍耐を示しておられるからだと述べています。神は1人も滅びないことを願っておられます(IIペト3:9)。それゆえ、多くの人に悔い改める機会を与えるために、延長時間が認められてきました。
しかし神の忍耐は、イエスについての決心を先延ばしにする機会と受け取るべきではないと、ペトロは警告します。主の日は、夜中の盗人のように思いがけなくやって来るでしょう。夜中に来る盗人は、たぶん気づかれずに立ち去れると思っています。しかし、主の日は盗人のようにやって来ますが、はっきりと気づかれるでしょう。「天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽く(す)」(IIペト3:10)とペトロが言うとおりです。このように、ペトロのメッセージはパウロのメッセージと似ています——「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(IIコリント6:2)。
だから何なの?
ある青年が母親にあかしをしようと、イエスの死と再臨の約束について話しました。彼はとても説得力のある話ができたと思い、自分をかなり誇らしく思いました。しかし、青年がイエスと再臨についての小さな説教を終えたとき、母親は彼を見てこう言いました。——「だから何なの?今の私とどんな関係があるの?」
IIペトロ3:11〜13を読んでください。すでに述べたように、セブンスデー・アドベンチストという私たちの名前は、キリストの再臨という現実への信仰をあらわしています。この教えは基礎的なものです。私たちのキリスト教信仰の全体は、キリストの再臨とそれが約束するあらゆるものがなければ、意味がなくなるでしょう。
しかし私たちは、マタイ24:45〜51のたとえ話に出てくる悪い僕のようになる危険にさらされていないでしょうか。私たちはこのたとえ話の中に描かれているような悪事を働いていないかもしれませんが、その点が問題ではありません(これは、あくまでもたとえなのです)。そうではなく、このたとえ話が警告しているのは、私たちが簡単に基準(とりわけ、他者の扱い方に関する基準)を下げ、ますます世的になって、主の再臨を熱心に信じなくなりうるという点です。
確かに、独自の図表と預言の計算を使って、キリストの再臨の日を知っていると主張する人々に、私たちは時折遭遇します。しかしほとんどの場合、アドベンチストが直面している危険は、キリストの速やかな再臨の日付を設定することではありません。むしろその危険とは、年月が経つにつれて、再臨の約束が私たちの考えの中でより小さな役割しか果たさなくなることです。
確かに、私たちが地上に長くいればいるほど、私たちは再臨に一層近づきます。その一方で、私たちが地上に長くいればいるほど、私たちは日々の生活に影響を及ぼさないほど遠くに主の来臨を思い描きやすくなります。聖書はこの種の気の緩みを警告しています。ペトロが言うように、もしイエスが再臨され、私たちが裁きを受けるのであれば、クリスチャンは聖なる信心深い生活を送らなければなりません(IIペト3:11)。再臨の真実性は、それがいつ起ころうと、私たちの現在の生き方に影響を及ぼすべきです。
最後の訴え
ペトロは、最初からずっと述べてきた主題で彼の書簡を終えています。聖い生活を送り、「不道徳な者たちに唆されて」(IIペト3:17)堕落しないように注意しなさいという主題です。
IIペトロ3:14〜18を読んでください。ペトロが「愛する兄弟パウロ」(IIペト3:15)の書き送ったものへの訴えで彼の書簡を終えているのは、実に興味深いところです。パウロもまた、イエスの再臨を待ちながら平和に暮らすこと、また聖い生活を深めるためにその時間を用いることの必要性について書きました(ロマ2:4、12:18、フィリ2:12参照)。
また、パウロが書き送ったものへのペトロの言及の仕方から、キリスト教史の初期において、それらが高く評価されていたことがわかる点にも注目してください。ペトロが、現在の新約聖書の中にあるパウロの手紙のすべてを指しているのか、それとも一部だけを指しているのかは、判断できません。それにもかかわらず、ペトロの言葉は、パウロの手紙が高く評価されていたことを示しています。
最後の点として、ペトロは、パウロの手紙が、聖書のほかの部分と同様に曲解されうることがあると述べています。〔「聖書」に相当する〕「グラファ」というギリシア語の文字どおりの意味は「書かれたもの」ですが、ここでは明らかに、モーセの五書や預言の書などの「聖なる書かれたもの」を意味します。ここには、パウロの手紙が旧約聖書と同様の権威を獲得していたという極めて初期の証拠があります。
そして、自由を約束する偽教師たちについて私たちが先に読んだことを考慮するなら、自由や恵みに関してパウロが書いたことを罪深い行為の言い訳に用いていた人々を想像するのは難しくありません。パウロは信仰のみによる義を強く主張しましたが(ロマ3:21、22)、彼の手紙のいかなる箇所も罪の許可証を人々に与えてはいません(同6:1〜14参照)。パウロ自身が、信仰による義について彼が説教し、教えてきたことに関するこの誤解に対処しなければなりませんでした。しかしペトロは、彼が書いたものを曲げて解釈する者たちは「自分の滅び」(IIペト3:16)という危険を冒しているのだ、と警告しています。
さらなる研究
私たちの観点からすると、再臨はひどく遅れているかのように思えます。イエスは、私たちがそのように感じるであろうことを明らかにご存じでした。そこで、いくつかのたとえ話において、私たちがその間に注意深く、警戒していないとどうなるかを、彼は警告なさいました。(水曜日の研究で触れた)マタイ24:45〜51における2人の僕のたとえ話を取り上げましょう。彼らはいずれも、主人が帰って来ると思っていました。1人は、主人がいつ帰って来てもよいように備えなければならないと心に決め、もう1人は、主人が遅れているからこの機会を利用して悪いことをしようと言いました。
「キリスト来臨の正確な時はわからないのだから、目をさましているようにと命じられている。『主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである』(ルカ12:37)。主の来臨を待ち望んでいる者たちは、何もしないでただ期待して待っているのではない。キリストの来臨を期待することによって、人々は主を恐れ、不義に対する主のさばきを恐れるのである。彼らは主がさし出された憐れみをこばむ大きな罪を自覚するのである。主を待ち望んでいる者たちは真理に従うことによって自らの魂をきよめる」(『希望への光』1007ページ、『各時代の希望』下巻102、103ページ)。
第13課 ペトロの手紙における大きな主題
第13課 ペトロの手紙における大きな主題
ペトロの手紙I・IIは、実際的な目的のために書かれました。手紙Iにおいてペトロが取り組んだ問題は、クリスチャンが直面していた迫害であり、手紙IIにおける重大な問題は、偽教師でした。ペトロは読者を励ますとともに、彼らの前に立ちはだかる挑戦に関して警告しようと、強く、権威をもって書きました。
重要なのは、ペトロがいずれの問題にも神学的用語で対応していることです。迫害によって生じる苦しみは、私たちに救いをもたらしたイエスの苦しみと死をペトロに思い返させました。偽教師たちは、イエスがこの地球に戻られたあとに行われる裁きに直面することになります。こういったことが、二つの手紙の中でペトロが扱っている主題の一部です。
今週の最後の研究では、ペトロが書いた次の五つの主題について、もう少し詳しく考えます——私たちに救いをもたらしたイエスの苦しみ、神が最後の裁きにおいて私たちの行動を裁かれるという知識に対する私たちの実際的な対応、イエスの速やかな来臨に寄せている私たちの希望、社会や教会における秩序、私たちの人生に指針を与えることにおける聖書の役割。
苦しみ、イエス、救い
問1
Iペトロの次の聖句を読み、それぞれが救いについて明らかにしている点を書き留めてください。1:2、8、9、18、19、2:22〜25、3:18
ペトロが救いについて語るとき、それは大抵の場合、罪人の身代わりとしてのイエスの苦しみとの関連においてです。例えば、ペトロはIペトロ2:22〜24において、イザヤ53:6、9を反映する言葉を用いながらイエスの苦しみについて語っています。「〔イエスは〕十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。……そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(Iペト2:24)という言葉は、身代わりと犠牲という考えを示しています。
旧約聖書に記されている犠牲において、罪人は献げ物を神殿に携えて行き、手をその上に乗せました。この行為は罪人の罪を動物へ象徴的に移すもので、その後、動物は罪人の代わりに殺されました(レビ4:29、30、33、34、14:10〜13)。祭壇に蓄積された汚れは、贖罪日に清められ、取り除かれました(同16:16〜19)。
犠牲の血は、罪の贖いにおいて重要な役割を果たしました。クリスチャンは、イエスの尊い血によって買い取られました(Iペト1:18、19)。パウロもまた、同じ身代わりの考えを伝えています。罪と何の関わりもないイエスが、私たちのために罪となされた(IIコリ5:21)、と。Iペトロ3:18が述べているように、キリストは罪のために苦しまれました。正しい方(イエス)が、悪人(私たち)のために苦しまれたのです。
パウロと同様(ロマ3:21、22)、ペトロは信仰の必要を強調しています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し……ています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Iペト1:8、9)と述べています。救いは信心深い行為によっては得られません。私たちのためにイエスが成し遂げられたことを信じ、個人的救い主として受け入れるときに与えられます。私たちの確信は、イエスの中にあります。もし確信が私たち自身の中にあるとするなら、どんな現実的な確信を私たちは持つことができるでしょうか。
私たちはいかに生きるべきか
ペトロが何よりも頻繁に立ち戻っている主題は、IIペトロ3:11で彼が問いかけた質問によって提示されています——「このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません」
問2
次の聖句を読んでください(Iペト1:15〜17、22、2:1、3:8、9、4:7〜11、IIペト3:11)。クリスチャンの行動について、ペトロは何と言っていますか。
ペトロは二つの手紙における多くの箇所で、クリスチャンの行動に注目しており、多くの主題が繰り返し出てきます。
第一に、神の裁きとクリスチャンの行動のつながりをペトロは強調しています(Iペト1:17、IIペト3:11)。神はすべての人の行動を裁かれるでしょう。それゆえ、クリスチャンは清い人生を送らなければなりません。
第二に、クリスチャンは聖なる者にならなければならないと、ペトロは何度も述べています。旧約聖書において、聖なるものは、神殿での使用や(出26:33、34、28:36、29:6、37)神の御目的(例えば、創2:3における安息日)のために取りのけられます。実際、神の御計画は、神の民が神のように聖くなることであり、ペトロはその主題にも触れています(レビ11:44、19:2、Iペト1:15、16)。何かを聖いものとして取りのける過程は「聖化」と呼ばれ、ペトロの願いは、彼の読者が聖霊によって聖なる者とされ、イエスに従うことです(Iペト1:2)。
第三に、聖化される人たちにふさわしい行動について、ペトロはいくつか細かい点を挙げています。彼らは、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去らねばなりません(Iペト2:1)。彼らは、霊において、同情心において、謙虚な心において一致し(同3:8、9)、徳、信心、そして愛を持っていなければなりません(IIペト1:5〜7)。
再臨の希望
問3
次の聖句を読み、未来の出来事について言われていることを書き留めてください。Iペト1:4、1:17、4:5、6、4:17、IIペト3:1〜10
ペトロの手紙Iを初めて読んだり、聞いたりした人たちが直面していた重大な問題の一つは、迫害でした。ペトロはその読者を次のような考えによって慰めています——彼らの今の生活は、迫害によって妨げられているかもしれませんが、天では彼らの報いが、取り去られることのない報いが待ち受けているのだ、と。彼はペトロの手紙Iの書き出し部分で、クリスチャンには朽ちることのない資産が天に蓄えられている、と述べています(Iペト1:4)。
ペトロは、未来に起こる二つのこと、つまり最後の裁きと火による悪の滅びを強調しています。言い換えれば、現在は迫害があるけれども、未来には公平な裁きがなされ、信徒は永遠の報いを受けるということを、彼は示しています。
ペトロは三つの別の箇所で、裁きについて語っています(Iペト1:17、4:5、6、17)。彼は、父なる神がすべての人間を彼らの行為に従って公平に裁かれると言い(同1:17)、イエス御自身が生きている者と死んだ者を裁こうとしておられると指摘しています(同4:5)。彼はまた、裁きは神の家から始まるという興味深い所見を述べています(同4:17)。ペトロは、「不信心な者たち」が世界規模の火の嵐によって滅ぼされることも強調しています(IIペト3:7)。
ペトロは、イエスが本当に戻られるのかどうかということに関して起こった問題を扱っています(IIペト3:1〜10)。ここで彼は、イエスの再臨の「遅れ」は、より多くの人が悔い改めて救われるためなのだ、と指摘しています。また、みんなが、未来の報いの確かさによって、聖く、汚れのない生活を送るためだ、とも指摘しています。
このように、ペトロが現世と実際的なクリスチャンの生き方に注目していようと、彼は読者の前に、未来の希望を提示し続けています。要するに、現在の状況がどうであれ、彼らは信仰と服従によって前進する必要があるということです。
社会と教会における秩序
問4
Iペトロ2:11〜21、5:1〜5を読んでください。政府や教会の指導者の重要性について、また、両者に対するクリスチャンの応じ方について、ペトロはこれらの聖句の中で何と言っていますか。彼の言葉は、私たちの生きている場所にかかわらず、いかに現在の私たちの状況に適用されるべきでしょうか。
ペトロが生きていたのは、クリスチャンが政府や宗教の権威者によって迫害を受けていた時代でした。この事実は、ペトロやパウロが政府の権威者の適切な役割について言わねばならなかったことを、一層重要なものにしています(Iペト2:13〜17、ロマ13:1〜7)。2人にとって、政府の権威者は、悪を行う者たちを阻止する役割を果たすために、神によって置かれたものでした。言うまでもなく、統治する権力者が問題になる時代はあります。クリスチャンは、ペトロの時代にこのことに直面しており、長年にわたって、その状況は悪くなるばかりでした。
しかし一般的な考えでは、良い政府は法律や秩序や安全を守るものです。現在も、法律や秩序が壊されている実例はありますし、分別のある政治の切実な必要性をだれもが目にすることができます。良い政府が神から人間に与えられた祝福の一つであるというのは、確かです。
ペトロは、教会をよく統治することは重要だというパウロの確信を、間違いなく共有していたでしょう。パウロは、教会の礼拝において「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」(Iコリ14:40)と主張しています。同様にペトロも、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」(Iペト5:2)と教会の指導者たちに求めています。彼らは謙虚さと配慮をもってそうしなければなりません。個々の教会はきちんと導かれる必要があります。良い指導者はビジョンと一貫性を与え、教会員が各自の霊的な賜物を神の栄光のために用いることができるようにします。
聖書の重要性
問5
Iペトロ1:10〜12、IIペトロ1:16〜20、3:2、16を読んでください。聖書は、それが今日の私たちの生活や信仰においてどのような役割を果たすべきかを理解するうえで助けとなります。その聖書について、これらの聖句は何と言っていますか。
第二の手紙において、ペトロは偽教師に立ち向かいます。次のように言うことで、読者の目を権威の二つの源に向けています——「聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです」(IIペト3:2)。今日、私たちは、「聖なる預言者たち」の言葉を知るために旧約聖書を持っています。生きている使徒には会えませんが、私たちにはそれよりも良いものが与えられています。新約聖書の中で明らかにされている、霊感を受けた彼らのあかしです。四福音書は、イエスの人生、死、復活に関する信頼のおける物語を残しました。使徒言行録には、使徒たちの働きが収められています。私たちは、霊感を受けた使徒たちの言葉を確かに読むことができます。パウロは、神のみ言葉の権威について力強く書いています(IIテモ3:16)。そして、ペトロは読者の目を、教理的、道徳的権威の源としての聖書に向けています。
ペトロはIIペトロ3:16において警告しています——聖書は真理の源であるけれども、聖霊が私たちに理解させようとしておられるメッセージに細心の注意を払わなければ、その真理の源自身が誤解され、おそろしい結果を招きうる、と。
ペトロの言葉は、聖書を学ぶための基本的原則を現在の私たちに思い出させるものです。私たちは祈りつつ聖書の一節を読まねばなりません。私たちはそれを、章、書、聖書全体の背景に即して読まなければなりません。聖書記者は、書いたとき、何に的を絞って語っていたのでしょうか。私たちは書かれた時の歴史的状況に照らして読むべきです(ペトロの手紙I・IIの場合、1世紀のローマ帝国でしょう)。私たちは霊的洞察を求めつつ、また、聖書のメッセージの中心がキリストの犠牲的死によってもたらされた救いであること(Iペト1:10〜12)を承知のうえで、読まなければなりません。そして最後に、私たちは、私たち自身の生活とのつながりにおいて読むべきです。神は、どんな真理を私たちに受け取らせたいと願っておられるのでしょうか。私たちは神のみ言葉を、神の国に積極的な貢献をする形で、いかに私たち自身の生活に適用できるのでしょうか。
さらなる研究
深刻な神学の中においても、ペトロの手紙は、クリスチャン生活とクリスチャン同士の接し方を非常に重視しています。言い換えれば、私たちは真理を、イエスが知っておられたように知る必要があるということです。しかし、それより重要なのは、私たちも真理を生きることです。私たちは早い段階で次のような重要な言葉を得ています。すなわち「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(Iペト1:22)。彼が、真理に従うことと魂を清めることを結びつけている点に注目してください。真理は私たちを変え、私たちを「清い心」で熱く愛し合う人間にします。服従、心の清さ、そして愛——これら三つは互いに関係しており、これが私たちの追い求めるべき理想です。もし私たちがこの命令に従うなら、私たちの生活や教会がいかに変わるか、あなたは想像できるでしょうか。ほかのことはともかく、それが教会の連帯感にどんな貢献をするか、考えてみてください。
「兄弟がた、あなたは自分の家や教会へ帰るとき、キリストの精神を伴っているだろうか。不信や批判を捨てているだろうか。私たちは、これまで以上に団結し、一致して働く必要のある時代に来ている。一致には力がある。しかし、不和や不一致には弱さしかない」(『セレクテッド・メッセージ』第2巻373、374ページ、英文)。