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第1課 預言者でない預言者
第1課 預言者でない預言者
アモスとは誰か。どんな訓練を受けたか。この信徒説教者に宗教、政治の指導者を非難する権限を与えたのは誰か。彼の時代、対決した指導者はどう語ったか。なぜ神は彼に使命を託したのか、などを学びましょう。
アモスは神の言葉を語り、多くの反対と批判に遭遇しました。神のために働く大祭司アマツヤの強い攻撃を受けましたが、彼は敢然としてメッセージを語り続けました。これが預言者の生き方です。使命を伝えるために主によって召されたのに、同じ主のために働く人たちの反対に遭う――アモスは預言者であるよりセールスマンの方が楽だと思ったかもしれません。彼の働きは決して容易なものではありませんでした。その背景を理解するときに、私たちは「重荷を負う者」という彼の名の意味を理解することができます。
預言者でない預言者(アモ1:1、7:14)
家畜を飼い、いちじく桑を栽培することから、一国の政治的、宗教的指導者の前に立って、その罪を非難し、神の裁きについて警告することは大きな人生の変化でした。この任務をさらに困難にしたのは、アモスが国家的な豊かさと繁栄の中にあったことです。そんな時に悲観的な預言者の不吉な言葉を聞きたいと思う人はだれもいません。しかしこれが「テコアの牧者」アモスのしたことでした(アモ1:1)。既成の体制にあえて異議を唱えた、この卑しい、無学な若者とはどのような人物だったのでしょうか。これほどの力と権威をもって語る権利を彼に与えたものは何だったのでしょうか。
問1
アモス1:1は彼の召し、職務という序言ではなく、直ちに「アモスの言葉」とあり、警告の使命が続きます。この辺の事情は1:3、6、9、11、13、2:1、6に見つけることができますが、彼の召命、権限はどこから来ていますか。
アモス書には、アモス自身のことはほとんど記されていません。7章でも、基本的には、彼が1章1節で述べていること、つまり彼が牧者また「いちじく桑を栽培する者」(アモ 7:14)であることが繰り返されているだけです。しかしながら、彼はここで自らの任務を正当化し、主が「わが民イスラエルに預言せよ」(15節)と言われた、と述べています。それ以上に何が必要だったでしょうか。神が彼を召された――重要なのはそれだけでした。
アモスは、「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない」(アモ7:14)と言っています。「預言者の弟子」とは、サムエルによって始められた預言者の学校で教育を受けた人たちを指します。つまり、アモスは「プロの預言者」ではありませんでした。しかし、そのようなことはアモスにとっては問題外でした。アモスを使徒パウロと比較してください。パウロ書簡の冒頭の数行を読んでみてください(ロマ1:1、2、ガラ1:1、Iコリ1:1参照)
現代と似た時代
「彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ/悩む者の道を曲げている。/父も子も同じ女のもとに通い/わたしの聖なる名を汚している」(アモ2:7)。
アモスが生きたのは平和と繁栄と快楽に満ちた時代でした。イスラエルはヤロブアム2世のもとで権力の絶頂にありました。ぜいたくと放縦に満ちた生活をする裕福な人々がかつてないほどに増えました。安楽と浪費に満ちた彼らの生活は貧しい人々の苦しみとみじめさとは対照的でした。田舎が見捨てられ、都市は急速に発展し、裁きは不正に満ち、政治は堕落し、正義は笑いものとなっていました。強奪、犯罪、憎しみが至るところに見られ、女性たちは気ままに生活し、高価な着物を着ていました。飲酒がはやり、犯罪と不法が増加し、不道徳、近親相姦が普通になり、強盗や殺人がひんぱんに起こりました。人は信心深いように見えながら、実際には神を否定した生き方をしていました。さまざまな宗教の中で最大のものは自己崇拝でした。切迫した破滅の前兆がありましたが、脅威は去ったかのように見えました。
問1
アモスの時代は現代と同じ下記の問題を抱えていました。こうしたことに悩む人々に聖書やキリストはどのような解決、いやしを与えることができるでしょうか。
- 快楽と堕落に導く繁栄
- 利己心,悪にふける
- 不正
- 犯罪と不道徳
国家も個人も、試練と騒乱の中にあるときほど福音に心を開きやすいことがわかります。福音を受け入れないのは、むしろ人生が順調、資産が豊富、経済が好調なときです。
政治的背景(列王上12:25~33)
アモスはヤロブアム2世がイスラエルを統治した紀元前 760年ごろに働きました。彼は大地震が現地を襲った 2年ほど前に働きを開始しました。地震の規模はおそらく1906年のサンフランシスコ大地震、1999年のトルコ大地震に匹敵するものであったでしょう。人々はその地震から何年目というように年代を数えたのですから、よほどの大きな災害だったことがわかります。
「ヤロブアム2世の統治期、イスラエルはその絶頂に達していました。……ヤロブアムはシリアを破り、北王朝は最初の統一時代の最北端国境まで領土を拡張していました。……ユダに関して言えば、ウジヤ王はエドム人とペリシテ人を征服し、アンモン人を屈服させ、農業と国内産業を奨励し、大規模で強力な軍隊を組織し、エルサレムを要塞(ようさい) 化しました。……
外見上、イスラエルは外敵からは安全、内部的には強力だったので、全く危険や滅びを予期していませんでした。確かに新興アッシリアは注目を引く存在でしたが、アッシリアがイスラエルを攻撃することはありそうに見えませんでした。繁栄にありがちな高慢、ぜいたく、利己心、圧制の実が、どちらの王国にも完全に熟しつつありました。しかしながら、状況はイスラエルにおいては、初代の王ヤロブアム1世の制定した子牛礼拝のゆえに、いっそう悪化していました(列王上12:25~33参照)。アモスとホセアが特に北王国に対して預言するように命令されたのは、明らかにこの子牛礼拝のためでした」(『SDA聖書注解』第 4巻953,954ページ)。
問1
アモスだけが政治、宗教の堕落時代に預言者としての働きをしたのではありません。彼のような立場に立った他の預言者を挙げてください。彼らはどんな罪を指摘したでしょうか。
アモスの見た幻(アモ8:1)
アモスは羊飼いが軽蔑の目で見られていた時代に羊飼いをしていました。彼はまた「いちじく桑を栽培する者」でした(アモ7:14)。彼は荒れ野の近くに住んでいました。そこの住民はすぐ北の地方の恵みにあずかることができませんでした。いちじく桑の「実」は貧しい人々の食糧でした。それを「手入れ」するために、アモスはナイフを持って木に登り、実の一つ一つに切れ目を入れました。切れ目を入れることによって、昆虫が実の中に入りやすくなると考えられていました。昆虫が実の中で卵を産むと、実の熟成が早まり、おいしくなるのです。アモスは荒れ野で育った田舎者でしたが、自分の経験に基づいて、人々の過ちをはっきりとした言葉で描写しました。
問1
次の聖句を読んで下さい。どのような象徴や例示を挙げていますか。3:124:95:196:12
アモスはなぜこのような例を挙げたのでしょうか。福音伝達においてこうした例示はどのような役目をするでしょうか。自分に与えられたメッセージをこうした象徴や例示を用いた人がいますか。
言葉は力強い道具です。人間は言葉で考え、言葉で意思を伝え、言葉で周囲の世界を理解します。箴言によれば、私たちの言葉は人を生かし、また殺します。ヨハネがイエスを「言((ことば) ロゴス)」と表現したことには理由がありました(ヨハ1:1、14)。アモスは自分の語る言葉の重要性をよく知っていました。もし彼が正しく言葉を選ばなければ、魂が滅びるかもしれないのです。とすれば、伝えるべきメッセージを持つ私たちは自分の用いる言葉に十分注意する必要があります。
「定められたこと」を示される主
「まことに、主なる神はその定められたことを/僕なる預言者に示さずには/何事もなされない」(アモ3:7)。
何と素晴らしい約束でしょう。ヘブライ語で読むと次のようになります。「主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには一つの事もなされない」。神は、(アモスの場合のように)特に裁きに関連して、人々にメッセージを伝えるべき預言者に「その定められたこと」を示すまでは「一つの事」もなされない、と約束しておられます。
問1
現代とは違うアモス時代の特殊な背景の中で、神はこの聖句を通して何を語ろうとしたのでしょうか。
キリスト教は啓示された宗教です。言い換えるなら、神は私たちの本当に知る必要のある事柄を啓示してくださるということです。神は私たちが自分でそれを探し出すままにはされません。神は私たちの知る必要のあることを教えてくださいます。神が伝えようとしておられることは、私たちが自分で理論づけするにはあまりにも重要すぎるからでしょう。アモスのメッセージに関して言えば、主はまず人々に警告を与えることによって、裁きを逃れないまでも、その備えをする機会を与えてからでなければ、これらの恐ろしい裁きを人々に下されませんでした。
問2
歴史の中で神は来るべき裁きと滅びから人々を救うために特別な預言者を選び、特別なメッセージをお語りになりました。厳しい、鋭い、恐ろしい言葉と内容の中で、罪人への愛はどのように伝えられたのでしょうか。
まとめ
“「重荷を負うもの」アモス”は人々が負うことを望まないようなメッセージを伝えました。彼は神に召され、とにかくそれを伝えました。世の信任もなく、地上の支持もなく、彼はどんなに苦痛であろうと、感謝されまいと、言うべきことを語ったのでした
「イスラエルが、アッスリヤに捕囚になる前の50年間の罪悪は、ノアの時代、またその他、人々が神を拒否して、全く悪行にふけってしまった各時代の状態とよく似ていた。自然の神よりも自然をあがめ、創造者の代わりに造られたものを礼拝することは、常に最も卑しい罪悪に人間を陥れた。こうして、イスラエルの民は、バアルとアシタロテを礼拝して、自然の力に最高の敬意を払い、人間を向上させて、高尚にするあらゆるものから関係を絶ち切って、やすやすと誘惑のえじきになってしまった。誤った礼拝に陥った人々は、心の防備がくずれ去って、罪に対する防壁を失い、人間の心の邪悪な欲望に負けてしまったのである」(『国と指導者』上巻 249ページ)。
第2課 隣国の罪
第2課 隣国の罪
アモスはなぜイスラエルの近隣諸国への警告を持って働きを始めたのか。多民族の特異な罪、“書かれた律法”を持たない異教徒への刑罰の基準などを学びます。
アモスは宣教師となって南王国ユダから北王国のベテルへ旅し、イスラエルの民に神の譴責(けんせき) の言葉を伝えました。彼はヤロブアムの神殿を、偶像崇拝を、イスラエルの表面的な宗教を強く、あからさまに攻撃しました。普通ならイスラエルの祭司、支配者たちは次のように答えたことでしょう。「ユダ人よ、帰れ!お前は自分の国の問題だけを考えていろ。なぜここまで来て、われわれを煩わすのか」。
アモスは興味深い、機転のきいた方法で神から与えられたメッセージを伝えました。ある聖書注解者によると、アモスがベテルに現れたのは宗教的な祭りの日で、大声で周辺諸国の罪を非難することによって群衆の関心を引きつけたというのです。シリヤ(ダマスコ)、ペリシテ(ガザ)、フェニキア(ティルス)、エドム、アンモン、モアブを責め、ユダの罪を列挙します。裁きを宣告するアモスに対して、「アモスよ、彼らにそのように告げよ!」と叫ぶ群衆の叫び声が今にも聞こえてくるようです。しかしイスラエルの罪が指摘されて自分たちに向けられると、歓迎の声がやみます。今も昔も同じです。
ベテルの騒動(アモ1:3、6、9、11、13、2:1、4、6)
世の中で一番だましやすいのは自分自身です。他人の失敗に対して寛大、正直、公正であることはそれほど難しくありませんが、自分自身の問題となると、事はそれほど簡単ではありません。人間は自分自身をだます能力に長(た) けています。私たちは自分をいつも身近に見ているので、自分をありのままに見ることが難しいのかもしれません。いずれにしても、自分と正直に対峙(たいじ) すること、特に自分の失敗をありのままに受け入れることはいつも苦痛を伴います。アモスがすぐにイスラエル人と対決しなかったのはそのためでしょう。むしろ、彼はイスラエルの周辺諸国の罪を列挙し、彼らに下る裁きについて警告しました。偶像崇拝の中にありながらも、人々はアモスの語ることに耳を傾け、理解しました。それどころか、彼らは異教徒に対するアモスの警告に声援を送ったことでしょう。しかし、そうすることによって、彼らは結局、自分自身の罪を認めたのでした。
問1
ダビデ王の罪を告発した預言者ナタンの物語とアモスとの共通点を考えてみましょう(サム下 12章)。
詳しいことは書かれていませんが、自分たちの罪が攻撃され始めると、人々はアモスを称賛するのをやめました。「イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに/わたしは決して赦さ(ゆる) ない」(アモ2:6)。
アモスは力強く、率直に、イスラエルの不正、残忍、近親相姦、ぜいたく、偶像崇拝、貧しい人々に対する搾取を(さくしゅ) 告発しました。これらの罪をいっそう重くしたのは、近隣諸国とは異なり、彼らの中に豊かに光と真理を与えられた人たちがいたことでした。
契約履行に関する訴訟(アモ1:3~2:16)
イスラエルとその周辺諸国の罪を告発するこれらの長い詩文体の聖句は「契約訴訟における申し立ての形式を取っている」(T・E・マコミスキー『小預言書注解―アモス書』第1巻318,319ページ)と思われます。第 1章と第 2章に見られる契約訴訟は次の各要素によって構成されています。
- 原告と裁判官の紹介
- 被告の紹介
- 告訴状
- 判決
アモスが周辺諸国に「主は言われる。……の三つの罪、四つの罪のゆえに……赦さない」と繰り返して語る言葉に契約履行に関する訴訟が表されています。
構成を見ると、神がイスラエルと同様、他の諸国民とも契約を交わしておられたことがわかります。主の言葉はすべての時代の、すべての人に当てはまります。神は初め被造物全体と契約を交わし、その後、ノアと再創造の契約を交わされましたが、それはすべての民に受け継がれてきました。モーセの時代、主はイスラエル人と特別な契約を交わしました。やがてそのイスラエルの民が神の契約の祭司・仲介者としての役目を諸国民に果たしたのです。
今日、キリストは人種・国籍にかかわりなく彼を受け入れるすべての人に新しい契約の祭司・仲保者としての役目を果たしておられます。アモス書1、2章を見ると、神が故意に悪を行うことに関してすべての国民にその責任を問われることがわかります。
周辺諸国に対する告発(アモ1:3~15)
「わたしはハザエル(ダマスコ王家)の宮殿に火を放つ」(アモ1:4)。罪のゆえに神に罰せられることになっていた最初の三つの国民は、イスラエルと近接していたシリアとペリシテとフェニキア(ティルス)でした。これらの国民は神の怒りを招くようなどんなことを行ったのでしょうか。ダマスコは隣国の一つに対して暴虐を行ったゆえに(3節)、またガザとティルスはある種の奴隷貿易のゆえに断罪されています(6、9節)。
彼らが処罰されたのは偶像崇拝や偽りの神への礼拝、あるいは貧しい人々への不敬、とういうことでない点です。彼らの断罪は、最も基本的な人権を踏みにじったことによります。
問1
聖書によれば罪は律法によって知ると教えています(ロマ3:20)。十戒を与えられなかった他国民は彼らの罪に責任があるでしょうか。ローマ 2:12~16を読みながら考えてください。
十戒を与えられたのは古代イスラエルだけですが、善悪に関する同じ原則を信じていた国民の例は古代世界にいくつも認められます。たとえば、十戒を聞いたことのないはずのアリストテレスは『倫理学』という書を著し、その中で盗み、姦淫、殺人に加え、「ねたみ」、「悪意」、「恥知らず」を罪悪と見なしています(山上の説教と似ています)。聖書そのものにも、ある程度、基本的な道徳原則を理解していた異教徒の例があげられています(創世12:10~20)。また、もしソドムとゴモラの住民が善悪についての知識を持っていなかったら、神は彼らを正しく裁くことがおできにならなかったはずです。
イスラエルの身内に対する告発
「彼らが剣で兄弟を追い/憐れみの情を捨て」(アモ1:11)。
ダマスコ、ガザ、ティルスに加えて、エドム、アンモン、モアブ、ユダも断罪されています。その違いは、後者がみなイスラエルの身内であることです。エドム人はエサウの子孫であり、アンモンとモアブはロトと二人の娘たちとの近親相姦による子孫です。ユダはかつてイスラエルと一つの間柄でした。
彼らが断罪されている理由にもう一度注目してください。エドムは「剣で兄弟を追い/憐れみの情を捨て」(11節)、アンモンは「ギレアドの妊婦を引き裂き」ました(13節)。モアブはエドムの王を冒涜(ぼうとく)するような行為を犯しました(2:1)。
問1
アモス2:4、5を読み、ユダの民が断罪された特殊な罪を挙げてください。
ユダの隣国が罰せられたのは、妊婦の腹を引き裂き、人々を奴隷として売り渡し、剣をもって人々を撃ち殺したためでした。しかし、ユダが罰せられたのは、神の律法を軽んじ、戒めに背き、偽りに従ったためでした。
このことは何を意味するのでしょうか。ユダの罪が周辺諸国のそれと全く異なっていたのはなぜでしょうか。イエスは「多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(ルカ 12:48―ヨハ 19:11参照)と言われましたが、知らない方が得なのではありません。責任を伴うことを教えられたのでした。
イスラエルへの勧告(アモ2:6~16)
「彼らが正しい者を金(かね) で……売ったからだ」(アモ2:6)。アモスは周辺諸国から始めて、次に遠くの身内、それから近くの身内、最後にイスラエル自身の罪を糾弾(きゅうだん) しました。
問1
アモス 2:6~8を読み、イスラエルの罪を列記してみましょう。
正義が金によって曲げられ(6節)、貧しい人々が抑圧され、性ぼうとくがゆがめられ、宗教が冒されていました(8節)。
「預言者たちは、その時代のはなはだしい圧迫、悪評高い不正、異常なまでの華美(かび) とぜいたく、恥を忘れた宴楽と酔酒、野卑な放蕩と(ほうとう) 堕落に対して、その声をあげたのであるが、彼らの抗議も、彼らの罪の告発も、その効果がなかった。『彼らは門にいて戒める者を憎み、真実を語る者を忌(い) みきらう』。『あなたがたは正しい者をしえたげ、まいないを取り、門で貧しい者を退ける』とアモスは言った(アモス書 5:10、12)」(『国と指導者』上巻249,250ページ)。
豊かに光を与えられていたイスラエルの民は、なぜこれほどまでに堕落したのでしょう。その答えを見いだすことは必ずしも容易ではありません。彼らは創造主との日ごとの歩みを捨てました。その結果、創造主の代わりに被造物を拝むようになりました(ロマ1:25)。彼らの道徳観は堕落し始めました。人間は自分の拝む神々以上のものにはなり得ないからです。子牛を拝んでいる限り、道徳的高みに到達することは期待できません。
まとめ
アモスは鋭いメッセージを、機知をもって伝えました。まず近隣諸国の罪から始めて、イスラエルへの警告の門を開いたのでした。アモスは、すべての国民は裁かれると言いましたが、それぞれ与えられた光に応じて裁かれる点を訴えたのでした。特権には責任がともないます。このことは私たちアドベンチストとして決して忘れてはならない教訓です。
「主は、世々にわたって、かたくなな神の民を耐え忍んでこられた。そして、今でさえ、大胆不敵な反逆にもかかわらず、喜んで彼らを救おうとする神としてご自身をあらわすことを好まれたのである。……国中に広がった罪悪は、どうにもできなくなった。そして、イスラエルには、恐るべき宣告が下された。『エフライムは偶像に結びつらなった。そのなすにまかせよ』(ホセア書4:17)。イスラエルの十部族は、今や、ベテルとダンに別の神のための祭壇を築いたことから起こった背信の実を刈り取らなければならなかった」(『国と指導者』上巻252,253ページ)。
第3課 この言葉を聞け
第3課 この言葉を聞け
イスラエルの歴史をたどると様々な教訓に満ちています。アモスは彼らの過去の経験や誤りを思い起こさせて、教訓を与えましたが、そこには今日の教会や私個人への学びが見いだされます。
アモスは激しく、しかもはっきりと、イスラエルの罪とその罪がもたらす刑罰について神の代弁者として語ります。愛と憐れみに満ちた主は、必然的な罪の結果と、正義の神が罪に対して下される最終的な刑罰からイスラエルを救おうとしておられました。イスラエルに対する恐るべき告発と警告の背後にある真のメッセージは、「善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために」ということでした(アモ5:14)。それは私たちに対する神のメッセージで、次の言葉が天に鳴り響く終わりの時まで変わることがありません。
その時まで、そしてなお希望があるうちに、神はご自分の民に神との救いの関係に入るように求めておられます。終わりの時には一切のものが無となるからです。この世から救われるのは、ただキリストの血によってあがなわれた魂だけです。ほかの一切のものは永遠に滅び去ります。灰すらも残りません。神が「この言葉を聞け」と言われるのも不思議ではありません。この言葉は「命の言」、キリストにある命、キリストが世の罪のために流された血です。
心から離すことなく
「イスラエルの人々よ/主がお前たちに告げられた言葉を聞け。――わたしがエジプトの地から導き上った全部族に対して――地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する」(アモ3:1、2)。この聖句はイスラエルの目を出エジプトに向けています。聖書の中で、主は何度もそのようにしておられます。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である」(レビ 11:45)。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(申命5:6)。「イスラエルの神、主は仰せになる。『イスラエルをエジプトから導き上ったのはわたしだ。わたしがあなたたちをエジプトの手から救い出し、あなたたちを圧迫するすべての王国からも救い出した』と」(サム上 10:18)。
問1
なぜ神はこれほどしばしばヘブライ民族に出エジプトを思い出させるのでしょうか。申命4:9
クリスチャンが直面する危険の一つは、個人として、団体としてキリストがしてくださった御業を忘れることです。主がイスラエルの子らに、出エジプトの出来事を忘れず、そのことを「生涯心から離すこと」(申命4:9)のないように教えられたのはそのためです。彼らはそのことを子供たちに教えなければなりませんでした。それは子供たちが神の大いなる御業について知るためばかりでなく、語ることによって自分たち自身も忘れないようになるためでした。
イスラエル史を見ると、人間がいかに忘れやすいかがわかります。これは教会にとって大切な教訓です。世代が新しくなるごとに、私たちは原点から離れ、先駆者たちの経験を忘れがちです。そこに流れる原則を忘れず、心に留めるのは重要なことです。
正しくふるまうことを知らない
アモス書3:10は「彼らは正しくふるまうことを拒んでいる」、あるいは「彼らは正しくふるまうことができない」と言うのでなく、彼らは正しくふるまうことを「知らない」と言ってます。なぜそのようなことがありうるのでしょう。「地上の全部族」(アモ3:2)にも増して主が知る民、これほど多くの真理を与えられた民が、正しくふるまうことを「知らない」とはどういうことでしょうか。
ホセア書4:6「わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。/お前が知識を退けたので/わたしもお前を退けて/もはや、わたしの祭司とはしない。/お前が神の律法を忘れたので/わたしもお前の子らを忘れる」。
ここに答えがあります。彼らは知ることを拒みました。知ることを拒めば、当然、知識に欠けるようになります。つまり、いくら光が与えられていようとも、もしそれを受け入れ、従い、学び、大切にしなかったなら、遅かれ早かれ、その光は失われてしまいます。光が失われるとき、人々は結局、「正しくふるまうことを知らな」くなります。まさに、これがイスラエルの状態でした。
問1
ヘブライ5:14で教えようとしている原則を学びましょう。
罪の恐ろしさは感覚麻痺(まひ) という現象です。万引きをしてうまく誰にも見つからないと、また同じことを繰り返し、やがて良心の痛みも感じることなく、ごく自然に盗みができるようになってしまいます。罪も同じです。罪は人の感覚を麻痺させるので、やがて罪深いとも、悪いとも感じなくなり、ついには「悪を善と言い、善を悪と言う」(イザ5:20)ようになります。
エレン・ホワイトは次のように述べています。「すべての罪深い満足は、機能をまひさせ、知的霊的知覚力を鈍らせる。そして、神の言葉や聖霊も、心になんの印象も与えることができなくなるのである」(『各時代の大争闘』下巻 203ページ)。
破棄された契約
「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。/イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか」(ホセ11:8)。
救いの計画の核心をひと言で言うなら次のようになります。すなわち、人類は罪によって神と仲たがいしたが、神はキリストによってその仲たがいをいやしてくださいました。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(IIコリ 5:19)。
聖書の歴史は、エデンから始まってこの主題の繰り返しです。人間は罪と反逆によって神から離れてきましたが、神はつねに人間をその翼の陰に集めようとされてきました(詩17:8)。アモス書においても同じことが言えます。イスラエルは神との契約を破りました。神は御自分の契約に忠実でしたが、イスラエルは契約を守りませんでした(ホセ6:7、8:1、エレ34:18参照)。
問1
イエスは彼を拒む人たちのために最善を尽くして救いをもたらそうとしましたが、悲しい結果を生みました。今日、私たちも同じ罪を繰り返すことはありませんか。
今週の研究に関連して、ドイツの神学者ディートリヒ・ボンヘッファーの次の言葉を読んでください。「十字架がすべてのキリスト者の上に置かれている。だれもが経験しなければならない最初のキリストの苦しみは、この世の愛着を捨てることである。これがキリストとの出会いの結果として、古き人に死ぬということである。弟子となるとき、われわれは自分自身をキリストにゆだね、キリストの死と一つになる。すなわち、自らの生を死に引き渡すのである。……キリストが招かれるとき、彼は人に来て、死ぬようにと言われる」(『弟子となることの代償』99ページ)。
必然的な結果(アモ3:1~8)
アモス書3章で、神はイスラエルの罪を列挙しておられます。初めの 8節を読んで、注意深く分析してください。何気なく読んだだけでは意味を十分に理解することができないかもしれません。それらは次のように要約することができます。*お前たちはわたしの家族であって、特別な恩恵にあずかっている。したがって、わたしが罰することはふさわしい(アモ3:1、2)。
- 獅子(しし) が森の中でほえるのは獲物を見つけた証拠である(4節)。
- わなにかかった鳥は、イスラエルが自らの罪のゆえに自分で仕掛けたわなにかかることを例示している(5節)。
- 警告が発せられると、人々は恐れる(6節)。
- 神はあらかじめ預言者に御心を啓示することなしには災いを送らない(7節)。
- 神が語られるとき、預言者が預言する(8節)。
これらの言葉は一見無関係のように見えますが、じつは共通点を持っています。それらは必然的な結果について述べています。
問1
パウロはガラテヤ6:7で生命の因果律をどのように表現しましたか。
ヘブライ語に「アハリット」という語があります。これは「背中」と関係がありますが、文字通りの意味は「後にくるもの、遅れて現れる結果、最終的結果、終局」です。箴言 19:20には「勧めに聞き従い、諭しを受け入れよ。将来[アハリット、最終的結果として]、知恵を得ることのできるように」。
私たちの行為は必然的な結果を伴います。遅かれ早かれ、私たちはみな自分の「アハリット」に直面します。それは大部分、私たちの現在の行為にかかっています。アモス書において、イスラエルは自らの行為の結果を刈り取っています。イスラエルは自らの「アハリット」にあずかりました。罪は避けがたい結果を伴います。サタンはその「アハリット」を私たちに見せたがらないということです。彼は今を楽しむように勧めます。
裁き(アモ3:11~15)
イスラエルに対する神の契約に関する訴訟(そしょう)の 最後の段階で、契約条件に従わなかった者たちに対する裁きが宣告されています。11節には、サマリアを滅ぼすために神によって用いられる「敵」のことが述べられていますが、それは後にイスラエル人を捕囚にするアッシリア帝国をさしています。
羊飼いの描写遊牧民のイスラエル人にとっては、羊に関する描写はわかりやすいものでした。羊飼いアモスは羊を捕らえる獅子について述べています。イスラエルの反逆がなぜこれほど厳しく罰せられなければならないのかは、私たちにはなかなか理解できないところです。アッシリア人は征服した民に対しては恐ろしく残酷でした。
主が外部の権力を用いて御自分の民を罰せられたのは、もちろんこのときだけではありません(イザ 13章参照)。いつの場合もそうですが、今回の刑罰にも略奪、強姦、死、奴隷など、数々の恐ろしい災いが含まれていました。こうした聖書の記録を見て、多くの人が神の品性を疑うようになったとしても無理ないことかもしれません。
問1
旧約のアモスに見る「罰する神」と、新約に見る「愛し、赦すキリスト」とをどのように調和させることができますか。
この疑問に答えることは容易ではありません。私たちは罪の恐るべき性質という背景の中でこの問題を理解するしかないでしょう。大争闘は決して軽々しい事柄ではありませんでした。それは全宇宙を包括し、その争点はきわめて重要な意味を持ち、私たち人間には理解できないことがたくさんあります。パウロも言っていますように、私たちは、今は「鏡におぼろに映ったもの」(Iコリ13:12)を見ているにすぎません。はっきりしていることは、罪が重大で、致命的なものであるということです
まとめ
今週の研究が教えていることは明白です。イスラエルは神が彼らのために何をしてくださったかを忘れ、こうして彼らが主の道についての知識を失ったことです。こうして民は神との契約関係を破り、自分たちの行為の結果を刈り取ったのでした。
「罪人には、多くの悔い改めの機会が与えられた。彼らが、背信の極に達して、最大の必要に迫られていたときに、彼らに対する神からの言葉は、ゆるしと希望の言葉であった。『イスラエルよ、あなたは、あなた自身を滅ぼす。しかし、あなたの助けは、わがうちにある。わたしは、あなたの王になろう。わたしのほかに、あなたを救う者がどこにあろうか』(ホセア書 13:9、10、英語訳)。
預言者は嘆願して言った。『さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、2日の後、わたしたちを生かし、3日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される』(同6:1~3)。
サタンの力に捕らえられた罪人を救うための世々にわたる計画を見失ってしまった人々に対して、主は、回復と平和を与えると次のようにおおせになる。『わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。わたしはイスラエルに対しては露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り、その枝は茂りひろがり、その麗しさはオリブの木のように、そのかんばしさはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲き、そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。エフライムよ、わたしは偶像となんの係わりがあろうか。あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。わたしは緑のいとすぎのようだ。あなたはわたしから実を得る』(同14:4~8)」(『国と指導者』上巻250,251ページ)。
第4課 自分の神と出会う備えをせよ
第4課 自分の神と出会う備えをせよ
アモスはまずイスラエルの女たちを叱責し、彼女たちをバシャンの「雌牛ども」と呼んでいます。バシャンはヨルダン川の東にある牧草地で、ぜいたくな暮らしをしていた圧迫者たちの妻を象徴していました。実利主義に溺(おぼ)れたこれらの人たちは、最初にその富を失い、捕囚となるのでした(アモ4:1~3参照)。次に、イスラエルを悔い改めに導くための5つの刑罰を警告しています。しかし人々は預言者の言葉に耳を傾けませんでした。そのため彼らは神の裁きに直面したのでした。その理由はイスラエルの人々が悔い改めなかったからであり、悔い改めない世界も同じです。「『自分の神と出会う備えをせよ』(アモ 4:12)。これは世に伝えるべき警告である。それは私たち一人ひとりに対する警告である。私たちは……キリストと一つになるように求められている」(『セレクテッド・メッセージ』第 2巻 116ページ)。
バシャンの雌牛ども(アモ4:1~3)
「弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げ(しいた) る女たちよ」(アモ4:1)。主が特に不快なものとして挙げておられる罪に注目してください。「雌牛ども」と呼ばれているこれらの女たちは、貧しい人々を虐げていました。彼女たちについて具体的に述べてはいませんが、「これらの女たちが、ぜいたくと遊興のための富を手に入れるために夫に強制していた暴力と詐欺(さぎ) を暗示しているかもしれません」(『SDA聖書注解』第4巻966ページ)。要点として、これらの女たちは自分自身の個人的な利得のために、貧しい人々を虐げていたということです。
問1
貧しい人々を圧迫することはどれほど罪深いことでしょうか。マタ25:35~ 40
この虐待と結びついているのが貪欲(どんよく) と金銭欲です(Iテモ 6:10)。裕福な人々は貧しい人々を犠牲にしてでも豊かになろうとします。アモス書にあるこれらの女たちは夫を利用して自らの富と快楽を手に入れようとしました。聖書は決して金持ちを非難しているわけではありませんが、貧しい人々を虐待し、だましてまでお金を手に入れようとする人々に対しては明らかに警告しています。
神の聖
「主なる神はご自分の聖なることによって誓われた」(アモ4:2、口語訳)。
問1
神が民を罰することを「聖なるがゆえに誓われた(英文)」とはどういうことでしょうか。
神の聖が処罰を要求するのでしょうか。神が罪を拒まれることは確かです。ある人たちは、神が罪を(お受け入れにならないのではなく)お受け入れになることができないと考えます。神の全く聖なる性質がそれを許さないからです。またある人たちは、神は聖なるお方であるので、罪を罰せずにはおられないと言います。この聖句にどんな意味があるにせよ、神は罪を犯し、悔い改めようとしない人々を罰せられることは明らかです。
【聖なる神のご性質を示す聖句】
- 「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる」(イザ 57:15)。
- 「神は光であり、神には闇が全くない」(Iヨハ1:5)。
- 「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである」(レビ11:44)。
- 「彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う』」(イザ 6:3)。
- 「我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方」(詩99:9)。
- 「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり」(ヨシュ24:19)。
- 「お前は誰をののしり、侮ったのか。誰に向かって大声をあげ/高慢な目つきをしたのか。イスラエルの聖なる方に向かってではなかったか」(列王下19:22)。
- 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(黙示4:8)。
皮肉に満ちた招き(アモ4:4、5)
神はアモスを通し、あらゆる手段を用いてイスラエルの注意を喚起しておられます。警告を彼らに理解させるためです。アモス4:4、5では、皮肉を用いて、イスラエルの民に偶像礼拝の本拠地であるベテルとギルガルに行くように招いておられます。彼らが偽りの礼拝にいかに熱心であるかを示すためでした。
問1
背教の避けられない結果は何でしょう。ホセ9:17
預言者ホセアは背信的な国民の象徴として、イスラエル部族内の背信の指導者エフライムについて言及しています。10部族はやがて「諸国にさまよう者」となるのでした。国を弱体化させるこれらの原因を取り除く代わりに、指導者たちはうぬぼれ、異教の民と同盟を結ぶことによって政治的な権力を手に入れようとたくらみました。
「ベテルの祭壇の前に現れた神の人により、また、エリヤやエリシャ、アモスやホセアによって主は、くり返し、十部族に不服従の罪を指摘した。しかし、イスラエルは、譴責(けんせき) と勧告を受けたにもかかわらず、ますます、背信の深みに沈んでいった。『イスラエルは強情な雌牛のように強情である』。『わが民はわたしからそむき去ろうとしている』(ホセ4:16、11:7)。
天からの刑罰が、反逆した民の上に厳しくくだった時があった。神は言われた。『それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わが口の言葉をもって彼らを殺した。わがさばきは現れ出る光のようだ。わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よ(はんさい) りもむしろ神を知ることを喜ぶ。ところが彼らはアダムで契約を破り、かしこでわたしにそむいた』(同 6:5~7)」(『国と指導者』上巻248,249ページ)。
「お前たちはわたしに帰らなかった」
問1
アモス4:6~11節で警告された神の5つの罰は何でしょうか。
聖句に示されている最も悲しいことは、恐るべき刑罰がイスラエルに臨むということよりも、イスラエルが繰り返しそれらの刑罰から教訓を得ることを拒み続けてきたということです。それぞれの聖句には、「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」という表現が鍵となる言葉として語られています。これらの刑罰はすべて同じ目的を持っていました。その目的とは、イスラエルを罪から離れさせ、主に立ち帰らせることでした。
これらの聖句に用いられている「帰る」という言葉は、「悔い改め」を意味するヘブライ語から来ています。語根の“シュブ”は“テシュバ”(帰る)の基礎となっている語で、一般的には「悔い改め」を意味します。悔い改めは確かに信仰生活において重要な要素です。「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」という表現の最後の言葉を“テシュバ“に置き換えると、「しかし、お前たちは悔い改めなかった」となります。
悔い改めについて述べている次の聖句を調べてください。マルコ2:17、ルカ 15:7、使徒 20:1、21、ローマ 2:4、ヘブル 6:1、黙示録 3:19、2:21。それらは直接的な意味で、神に立ち帰ることについて何と教えていますか。神に立ち帰るという思想は悔い改めを理解する上でどんな助けになりますか。
自分の神と出会う備えをせよ
「かつて、神がソドムとゴモラを覆し(くつがえ) たようにわたしはお前たちを覆した。/お前たちは炎の中から取り出された燃えさしのようになった。/しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる。/それゆえ、イスラエルよ/わたしはお前にこのようにする。/わたしがこのことを行うゆえに/イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ」(アモ4:11、12)。
聖書は、裁きがあることをはっきりと教えています。繰り返しご自分を正義のお方として示しておられる神(申命 32:4、イザ45:21、エレ23:5)が、世の終わりに裁きを執行されないということは考えられません。あまりにも多くの罪、不義、悪が地上に行われています。正義の神はいつの日にか必ずその正義を現されるはずです。正義の神がその正義を執行されないということはありえません。
問1
神はイスラエルの民に「会うための備えをせよ」と言われました。これは救いと希望のメッセージでしょうか。それとも恐怖に満ちた裁きのメッセージでしょうか。あなたはこの聖句をどのように受け取りますか。
神はキリストを通してその救いの愛を豊かに私たちに啓示してくださいました。天は人類を救うために大いなる犠牲を払ってくださいました。しかし、神は決して私たちの意志を強制されません。人が忠実に、謙虚に、従順に神に仕えるか否かという重大な決定は、その人の選択にゆだねられています。生死を分けるこの決定に比べれば、ほかの選択はどれも取るに足らないものです。遅かれ早かれ、私たちの選択は永遠に封印されるのです。これが、アドベンチストの言う、いわゆる「恩恵期間の終了」です。
まとめ
預言者を通してイスラエルは「神に帰る」ことを充分に警告されました。人々はそれを拒み、裁きが来ました。実に明快な事実です。
イスラエルの恩恵期間の終了と、この世界の最終的な恩恵期間の終了との関係について、次の引用文を読んでみましょう。
「『イスラエルの人々よ、主の言葉を聞け』という言葉が、ついに彼らに語られた。『あなたはあなたの神の律法を忘れたゆえに、わたしもまたあなたの子らを忘れる。彼らは大きくなるにしたがって、ますますわたしに罪を犯したゆえ、わたしは彼らの栄えを恥に変える。……わたしはそのわざのために彼らを罰し、その行いのために彼らに報いる』(ホセ 4:1、6~9)」(『国と指導者』上巻 249ページ)。
「不運なイスラエル王国の最後の年月は、アハブ家の治世下における最悪の争闘と不安の時代でさえ見ることができなかった暴力と流血のはなはだしい時であった。2世紀以上にわたって、十部族の王たちは、風をまいてきた。そして、今、彼らは、つむじ風を刈り取っていた。王は、次々に暗殺されて、野望をもった他の者がそれに代わった。……正義の原則は、すべて破棄された。神の恵みの保管者として地の国々の前に立たなければならなかった者が、『主にむかって貞操を守らず』互いに裏切り合った(ホセ5:7)」(『国と指導者』上巻 247ページ)。
「キリストを裏切り、拒絶したときにエルサレムで見られた取引の光景は、世界の歴史においてキリストが最終的に拒絶されるときに見られる光景を表しています。宗教界は最初の大いなる反逆者に加担し、神の戒めとイエスの信仰に関する憐れみのメッセージを拒否します」(『SDA聖書注解』第5巻1107ページ、エレン・G・ホワイト注)。「神はこの世と、また大いなる変節者の虚偽を受け入れ、キリスト教会のすべての人々に迎合し、神の律法を捨てる自称クリスチャンと論争されます」(『原稿』第 40号、1897年)。34
第5課 主を求めよ
この記事のテーマ
イスラエルは主を求めて生きるように召されました。イスラエルはどのように答え、どのような罪に陥ったでしょうか。こうした反逆にも神が憐れみたもうたことを学びましょう。
アリストテレスは、「すべての人は生まれながらにして知ることを欲する」と言いました。問題は「何を知るか」です。今日の世界にはさまざまな情報や知識があふれています。しかし、すべての情報や知識が善であるとは限らず、悪となる情報や知識もあります。大量殺人が可能となった20世紀の知識と歴史を見れば明らかです。
知識と情報の量が信じられぬ速さで増加していることは確かです。私たちはひと昔前の人々と比べると、はるかに多くのことを知っています。もし世界がこのまま続くなら、次の世代は私たちよりもずっと多くのことを知るようになるでしょう。
しかし私たちは本当に重要なことを知っているでしょうか。何が永遠に続くものであるかを知っているでしょうか。今週は一時的なものではなく、永遠に続く、しかも私たちに永遠の命を与えてくれる知識を求めるようにという神の招きについて学びます(ヨハ17:3)。
わたしを求めて、生きよ(アモ5:1~4)
この言葉は世に対する神のメッセージの本質を表しています。主を求めて、生きる――これ以外に命を受ける方法はありません。
問1
次の聖句にある共通点は何でしょう。ヨハ14:6、コロ3:4、Ⅱテモ1:1、Ⅰヨハ5:11
「私たちの命はイエスから来ます。イエスのうちには、本来の、借り物ではない、他に由来するものではない命があります。イエスのうちには、命の源泉があります。私たちの命は与えられ、賦与(ふよ) 者によって再び引き取られるものです。もし私たちの命がキリストと共に神のうちに隠されているとするなら、キリストがお現れになるとき、私たちもまた彼と共に栄光のうちに現れるでしょう。私たちはこの世にある間、神から与えられたすべての能力を、清められた奉仕を通して神にささげるのです」(『医療伝道』7ページ)。
最終的には命か死かという二つの選択肢しか私たちにはありません。すべての人間は、永遠に生きる人と死による消滅に分けられます。そこには中間の位置、妥協の余地、均衡の保持というものはありません。だれであろうと、どこに住んでいようと、どんな状況にあろうと、すべての人はどちらかを選ばなければなりません。しかし、永遠の命はキリストによる神のうちにしかないために、主はエデンの時代から私たちに主を選ぶように、また「主を求めよ、そして生きよ」(アモ5:6)と言われるのです。それ以外に命を受ける方法がないからです。
すばるの創造者(アモ5:8)
すばるとオリオンを造り
闇を朝に変え
昼を暗い夜にし
海の水を呼び集めて地の面 (おもて)に 注がれる方。
その御名は主。
アモスは熱意をもってイスラエルに、主に立ち帰り、「主を求める」ように訴えていますが(6節)、それは主が「すばる……を造り」、「海の水を呼び集め」たもう創造主であられるからです(8節)。ヘブライの預言者たちは、聖書全体を通じて、しばしば創造主としての主に言及し、民に対して偶像崇拝や創造主以外の被造物礼拝を捨てるように訴えてきました(イザ40:28、37:16、44:24参照)。事実、創世記から黙示録に至るまで、聖書は私たちの起源をはっきりと示しています。「万物は言に(ことば) よって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハ1:3)。
問1
“創造主である神”と“神にのみ命がある”との基本的な二つの教え、思想はどれほど私たちに重要でしょうか。
命は神のうちにのみ存在します。神だけが創造者であられるからです。神は命を創造されました。命は神だけから来ます。したがって、人類が罪によって創造主から離れたとき、人類は唯一の命の源から離れてしまったのです。「知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」(エフェ 4:18)。
福音の本質、救いの本質は、命の与え主である創造主とつながっていることと関係があります。神以外のものを拝むことが偽りの礼拝となるのはそのためです。創造主なる神のうちにのみ命があります。アモスは、神が創造者であることを明示することによって、この真理を教えているのです。
悔い改めの勧告(ホセ10:12、13)
神は背信したイスラエルに主を求めることの恵みを強調しておられます。もし彼らが神に立ち帰るなら、生きることができます。神の条件を受け入れるなら裁きを免れることができます。
問1
悔い改めよとの神の訴えに多くの人々はどう応えるでしょうか。
「この招きの言葉を聞いた人々の大部分は、それによって利益を受けることを拒んだ。神の使者たちの言葉は、悔い改めない人々の邪悪な欲望とは非常に異なっていたので、ベテルの偶像礼拝の祭司は、イスラエルの王に使者をつかわして、『イスラエルの家のただ中で、アモスはあなたにそむきました。この地は彼のもろもろの言葉に耐えることができません』と言ったほどであった(アモ7:10)」(『国と指導者』上巻 252ページ)。
問2
神の悔い改めへの招きにはどんなことが含まれていますか。ホセ10:12
主は神を信じるように求めています。ただ言葉で神をあがめ、賛美するように求めておられるのではありません。神は具体的な行動を要求しておられます。「恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ」とあります。主が関心を示されるのは宗教的な形式だけでなく、ホセアもアモスも人間相互の関係を問題としています。
「お前たちの咎がどれほど多いか……わたしは知っている」(アモ5:10~13)
偽りの礼拝と憐れみの欠如に対するアモスの非難は、イスラエルの社会的不正に対する非難へと変わっていきます。アモス書の大部分は詩文体で書かれていますが、これは預言者アモスの牧者という身分を考えると興味深いことです。アモス書5:10では「交差対句(ついく) 法」という詩の手法が用いられています。これは特定の思想をA、B、B、Aの順序で表現する方法です。ある思想に勢いと優美さを与えるこの手法は、邦訳聖書では用いられていませんが、ヘブライ語聖書では次のようになっています。
A彼らは憎む
B町の門で訴えを公平に扱う者を
B’真実を語る者を
A’彼らは嫌う
アモスは悪を責め、真実を擁護した士師に対する民の態度について語っています。士師はイスラエルの町々の門で法廷を開き、人々の必要に応じて裁きを行いました。
アモスは11、12節でもイスラエルの民を非難しています。彼らが不公平な税と裁きに苦しんでいた貧しい人々を虐待していたからです。その罪があまりにもひどかったので、主は「その罪がどれほど重いか」と言われるのです。罪だけでも悪いのに、「重い罪」と言われていることに注意してください。主が「これは悪い時代だ」(アモ5:13)と言われるのも不思議ではありません。
問1
罪の最終的な罰とはなんですか。
この世界には多くの不正行為、抑圧、不公平があります。私たちの周りにも、アモスの時代と同じ不正があふれています。教会の中にも悪の原理が入り込んできています。私たちは心の中で正義、平等、回復を求めて叫びますが、今は実現しそうにありません。アモスは不義や不正が起こらないと約束しているわけではありません。彼は人々がいつか悪の報いを受けると語りました。
悪を憎み、善を愛する(アモ5:14、15)
「善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために。/そうすれば、お前たちが言うように/万軍の神なる主は/お前たちと共にいてくださるだろう」(アモ5:14)。
アモスはここで何を言っているのでしょうか。自らの罪と不義に目がくらみ、憐れみのメッセージをかたくなに拒んでいたこれらの民は、それでも「万軍の神なる主」(15節)が自分たちと共にいてくださると考えていたのでしょうか。おそらく、そうでしょう。たしかに彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの子らでした。シナイにおける律法、約束、契約を受け継ぎ、創造者なる、まことの神に従う者たちでした。周りの異教の民と区別されるべき者たちでした。
問1
14節にある原則は今日の教会にどのように適用できるでしょうか。
神はイスラエルに対して、悪を退け、善を求めるように、悪を憎み、善を愛するように仰せになりました。このことは善悪の区別を知るときにのみできることです。良心が罪によってかたくなになっている場合は容易ではありません。フランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソーは言いました。「良心!良心!神的な本能、不滅なる天の声。無知で有限なる被造物のための不滅なる導き手」。
問2
「良心」は自分の誤りなき導き手でしょうか。善悪を知り、見分ける信頼すべき唯一のガイドは何でしょうか。Ⅱテモ3:16
善と悪の違いを理解するなら、一方を愛し、他方を憎むようになります。それは私たちのうちに働いておられる聖霊の力によってのみ可能です(ヨハ16:13参照)。私たちは善を愛するばかりでなく、悪を憎むようにも教えられています。善を愛し、同時に悪を愛するということはありえません。心から神を愛する人は罪を憎みます。
まとめ
私どもの命は神に依存しています。生ける者は命の源につながっているべきです。神はイスラエルに悔い改め、立ち帰って生き、他者を圧迫することを含めてすべての罪を捨てるように求めています。不義が地に満ちていようと、神は正義をもたらすことを約束されました。今、世にある私たちは善を愛し、悪を憎むことです。これはアモスの時代も、現代も変わりありません。
「踏みにじられた律法を高く掲げ、世の罪を取り除く神の子羊を世に示す教会を、神は地上に持っておられます。……現在、城壁の破れ目に立ち、防壁を据え直し、古い廃墟(はいきょ) を築き直している教会は世に一つしかありません。……神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける残りの民の特徴を持つ唯一の民に反対することのないように留意すべきです。……真理を教え、神の律法を擁護することにおいてだれにも劣らない、むしろすべての者にまさる、一つの特異な民、一つの教会を、神は地上に持っておられます。……もしセブンスデー・アドベンチスト教会がバビロンであると教えているなら、あなたは間違っています」(『牧師へのあかし』50、58、59ページ)。
第6課 過ぎ越すか、中を通るか
第6課 過ぎ越すか、中を通るか
出エジプトとアモスの時代との共通点、差異は何でしょう。「主の日」とは喜びの日でしょうか。悲しみの日でしょうか。神はどのような犠牲、賛美、集会を喜ばれないのでしょうか。
今週の研究で神は私たちに罪深い生き方をやめて、神に従うように求めておられます。イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタ16:24~26)。
イエスか、この世か、救いか滅びか……これは当時の人々、また現代の私たちに対するアモスのメッセージです。これがすべての人に訴える争点です。アモスの言葉を聞いた人々はもちろんのこと、現代に生きる私たち一人ひとりも何らかの応答を迫られています。
アモス書における最も注目すべき警告の一つは、イスラエル人に対する主の次の言葉です。「わたしがお前たちの中を通るからだ」(アモ5:17)。これは理解しにくい言葉です。なぜなら、ここにはエジプト人に対する裁きを表す出エジプト記 12:12の言葉(「巡り」、英語では「中を通る」)と同じ言葉が用いられているからです。つまり、主はエジプト人に対して行ったのと同じことをイスラエル人に対しても行うと言われるのです。
問1
アモス書 5:17と出エジプト記 12:12、13を読みましょう。出エジプトを思い起こさせる語句がありますか。
出エジプトにおいて、へブライ人をエジプト人の運命から救ったのは血でした。「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(出エ12:13、強調付加)。
「過ぎ越す」を意味するヘブライ語の動詞“パサク”(英語の“Passover”はここから来ている)は、出エジプト記 12:12やアモス書 5:17に用いられている動詞「巡る」あるいは「中を通る」とは全く異なるものです。「過ぎ越す」と「中を通る」(巡る)は全く反対のことを意味しています。一方は神の救いに、他方は滅びにつながります。
出エジプトで生死を分けたのは“血”でした。“血”に救いがあると新約に書かれています(ヘブ9:22、Ⅰヨハ1:7、黙示7:14)。
今日、主は私たちに「滅ぼす者」(出12:23)を避けるために家の入り口の柱に血を塗るように要求されません。しかし争点はエジプト時代やアモスの時代と全く同様に、現実に、重要なものであることには変わりありません。善悪の大争闘の性質からするなら、私たちの罪に対する神の報いは私たちの「中を通る」か「過ぎ越す」かのどちらかです。何が決定的な違いをもたらすのでしょうか。出エジプトの時代であれ、アモスの時代であれ、現代であれ、決定的な要素はイエスの血です。私たちはイエスの血をどのように見なしているでしょうか。
主の日(アモ5:18~20)
「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない」(アモ5:18)。
18節に皮肉が込められていることに注意してください。イスラエル人は罪と自己欺瞞(ぎまん) に目がくらんでいたので、「主の日」には何か良いことがあると考えていました。彼らがこの日を待ち望んでいたのはそのためです。しかし、それは光ではなく闇の日、人が獅子(しし) を逃れても熊に会う日であると、主は警告しておられます(19節)。つまり、それは決して喜ばしい日ではないということです。もちろん、一部の人々にとっての話ですが……。
問1
聖書の中の「主の日」という言葉に注目してみましょう。ヨエ3:1~ 5 、使徒2:20、21
これらの聖句は、主の日が滅び、裁き、刑罰の時であると述べています。しかし、同時に、クリスチャンは「主の日」を喜ばしいものと理解しています。主が再臨される日であるからです。これ以上に喜ばしい日はありません。
この逆説の意味は明らかです。主の日はある人々にとっては恐怖の時ですが、他の人々にとっては解放と救いの時です。決定的な違いをもたらす要因が、上に挙げた聖句の中に暗示されています。
空虚な儀式(アモ5:21~23)
「罪人よりもファリサイ派の人々の方が恐ろしいということを、私は知った」(ローレンス・ヴァンダポスト――南アフリカの作家)。
聖書全体を通じて、主は絶えず偽りの礼拝、偶像崇拝、異教の神々に従うことをイスラエルに禁じてこられました。それなのに、アモス書5章において、イスラエルの祭日や「祭りの献げ物」、つまり主ご自身が定められた祭り、犠牲、賛美、聖日を退けておられるのはなぜでしょうか。
大部分のイスラエル人は儀式を伝統的に守っていましたが、その意味するところを無視していました。こうした外面的な形式は偽善につながるだけでした。たとえば、感謝、善意、兄弟愛のしるしである動物の捧げ物も、もしその人がこれらの特質を表さなければ、何の意味もありません。神殿で捧げる音楽も、心がこもっていなければ、神の耳には騒音でしかありません。
ここで教えられていることは明らかです。どんな宗教的形式や儀式も、もしその人の心が新たにされ、神に献げられていなければ、神にとっては無意味で、不快なものであるということです。それどころか、きわめて危険でもあります。なぜなら、宗教的な儀式や慣例に従っている場合、自分は聖なる者、神の選民であり、過ちを犯すことがないと思い込んでしまうからです。
問1
イスラエルの空しい礼拝について他の預言者たちも書きました。イザ1:11~15、マラ1:6~8
神の求められるもの
「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ」(アモ5:24)。
なんと力強く、率直な言葉でしょう。神は宗教的な形や儀式よりも、私たちの対人関係、慈善の精神、公正な態度に深い関心を寄せられます。神が求められるのは細く流れる小川のような正義ではなく、力強く、とうとうと流れる大河のような正義です。
問1
この義はどこから来ますか。その義をどのように得ることができますか。
「主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。/わが咎(とが) を償(つぐな)う ために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。/人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。/正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6:7、8)。
問2
マタイ7:22を今日の勉強との関連で読みましょう。イエスは何とおっしゃいましたか。
宗教的であるとは難しいことではありません。マフィアから堕落した政治家まで、だれでも宗教的であることができます。しかし、愛情深く、寛大で、謙遜で、憐れみ深くあることは、決して容易なことではありません。堕落した人間は本質的に利己的で、自己中心的です。世にあるどんな公正な宗教や信仰、儀式、外面的な生活、また「焼き尽くす献げ物」「肥えた動物の献げ物」(アモ5:22)、「幾千の雄羊」(ミカ 6:7)も、決して人間の品性を善なるものに造り変えることはできません。信仰と服従によって神に捧げられた心だけが、神に喜ばれるものに造り変えられるのです。
「神として仰ぐ星」(アモ5:26)
「今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や(みこし) /神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。/それはお前たちが勝手に造ったものだ。/わたしは、お前たちを捕囚として/ダマスコのかなたの地に連れ去らせると/主は言われる。/その御名は万軍の神」(アモ5:26、27)。
アモス書 5:26には、イスラエルと全世界の深刻な問題である偶像崇拝のことが具体的に描かれています(偶像ケワンについては不明)。偶像とは救いの神以外のものを崇(あが) めることです。
偶像崇拝(必ずしも彫像を必要とはしない)はあらゆるところに見られます。人間は、たとえ救いの意味を十分に知らないとしても、なお救いを渇望します。わかっているのは、自分が救われる必要があるということだけです。人間の心には「永遠」「意味」「安定」を求める渇望がありますが、私たちの周りにあるものは「一時的」「無意味」「不安定」ばかりです。熱力学の第2法則[エントロピー増大の法則]は、すべてのものが崩壊に向かっていると教えています。もしそれですべてが終わるとすれば、人間とはいったい何なのでしょう。
「私たちの存在を支えるもの、あるいは私たちの知識の基礎となるものがなければなりません。そうでなければ、私たちを包み込む闇の勢力から逃れることができません」(リチャード・バーンスタイン『客観主義と相対主義を超えて』18ページ)。このように、至るところで、また様々な形で、人間は答えを求めています。そして、これこそ答えであると信じるものが、彼にとって礼拝の対象となります。これが彼の偶像にほかなりません。人々はどんなものを偶像にするのでしょうか。
まとめ
イスラエルに対する神のメッセージは前回と同じ内容です。「私は裁きの神であり、また赦しの神である。私はあなたの罪ととがとを罰し、またそれらを赦す神である。選ぶのはあなた自身!」と。
「神に対する深い信仰と献身がほとんど見られません。キリストの霊が心を占領するとき、人は神のための宣教師となります。偶像崇拝という最も悲しむべき罪が教会の中にあります。クリスチャンを自認する者と神に対するその全的な献身との仲を妨げるものは偶像です。偶像崇拝そのものが偶像崇拝の最も悲しむべき罪なのです」(『原稿集』第 12巻 330ページ)。
「最後の大いなる日は律法の勝利する日です。主は最後の大いなる業のために準備しておられます。主は世の不義を罰するために御座を立たれます。地はその血をあらわにし、もはやその死者を覆い隠すことはありません。この世の道徳的暗闇の中にあって光を掲げる者はだれでしょうか。世々にわたって蓄積され、人類を堕落させてきた悪は、十分に認識されていません。『あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない』と、神は命じておられます。ノアの時代と同様、今日のクリスチャンのうちにも偶像崇拝が見られます。しかし、神の命令に従うなら、人類家族は高められ、高尚にされ、賞揚されるのです」(『クレス文書』)。
第7課 シオンに安住する
第7課 シオンに安住する
「シオンに安住」とはどういう意味でしょう。当時のイスラエルとラオディキアの共通点、愛の神が「憎む」とは?悔い改めないイスラエルに降る運命などを学びましょう。
宇宙には四つの大きな力が働いていると物理学者は信じています。四つの力とは引力、電磁気、弱い原子力、強い原子力です。物理学者たちはいつの日にか、これら四つの力が宇宙を統合・支配する一つの大きな力の各側面であることを理論づけたいと望んでいます。すべての物理現象を説明する一つの力を解明するこの試みこそ、物理学の究極的な目標と、多くの人は考えています。
この試みの成否は分かりませんが、仮に解明されれば、その結果に驚嘆するでしょう。宇宙を説明する一つの力とは愛、神の愛です。イエス・キリストは、堕落した、忘恩で無情な世界の罪のために十字架の上で死ぬことによって、永遠に、疑問の余地のない宇宙の最大の力が神の愛であることを証明されたのです。今週は、神の愛が様々なかたちで、しかも時には「憎しみ」というかたちで表現されるということを学びます。愛の神が憎まれることがあるのでしょうか。
安楽な生活
「災いだ、シオンに安住し/サマリアの山で安逸を(あんいつ) むさぼる者らは」(アモ6:1)。
アモス 6章は裕福な生活を送る人々を描写しています。彼らは「象牙の寝台」に横たわり、長いすに寝そべり、子牛を取って宴を開き、「ダビデのように楽器を考え出」し、「最高の香油」を身に注ぎ、安楽に暮らしています(4~6節)。しばらくはそれも悪くはないでしょう。
「ぜいたくとばか騒ぎに満ちた彼らの生活は、象眼で飾った寝台に横たわり、長いすに寝そべり、最上の肥えた子羊と子牛を取って宴を開き、みだらな歌や音楽によってその堕落した精神を慰め、儀式用の大杯をもって酒を飲み、最高級の香油を身に注ぐことに表されています。しかしその退廃した精神は『ヨセフの破滅に心を痛める』ことも、貧しい兄弟たちを思いやることもありませんでした。イスラエルに臨む滅びは、征服者アッシリア人の台頭しつつある勢力とアモスの警告によって予告されていましたが、それもばか騒ぎと浮かれ騒ぎに慣れた彼らの心を動かすことはありませんでした」(H・ヘイリー『小預言書注解』114ページ)。
問1
ソドムとアモスの時代の状態を比べてください。エゼ16:49
イエスはマタイ19:24で「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。この言葉は金持ちの青年に対して語られたものです。イエスはこの青年を救おうと望んでおられました。同じことがアモス書でも言えます。神は外面的には豊かに見えるイスラエルの民に警告し、彼らを救おうとしておられました。しかし、彼らは招きを受け入れようとはしませんでした。
ラオディキアに安住する(黙示3:14~20)
「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨め(みじ) な者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(黙示3:17)。
アモスの時代の教会とラオディキアの教会との間にはいくつか共通点が見られます。ラオディキアの教会へのメッセージを注意深く読み、それをアモス書6:1~6のメッセージと比較してください。全く同じでないにしても、そこには共通点が見られます。
問1
二つの使命の共通点、相違点は何でしょうか。どちらも同じ問題を扱っているのでしょうか。
アモスはおもにイスラエル人の物質的な面、つまり経済的な富や物質的な繁栄について述べているように思われます。ラオディキア人へのメッセージは、教会の物質的な面よりも(ラオディキアの人々は必ずしも裕福ではなかった)、むしろ霊的な状態を扱っているように思われます。ラオディキアの人々にとっては、お金が最大の関心事ではありませんでした。彼らは自分たちの霊的状態が優れていると考えていました。すでに学んだように、イスラエル人も同じ問題を抱えていました。彼らの富は霊的な堕落をもたらしました。
アドベンチスト教会は世界の多くの国にあります。非常に裕福なアドベンチストもいれば、非常に貧しいアドベンチストもいます。しかし、富んでいても貧しくても、私たちはみな神の前に平等です。神が私たちをあがなうために同じ代価を支払ってくださったからです。裕福な人の魂も貧しい人の魂も、あがなうためにかかった代価は全く同じで、どちらも高価な代価がかかっています(Iペト1:18、19)。
神が「憎」まれるとき(アモ6:7~11)
「わたしはヤコブの誇る神殿を忌(い) み嫌い/その城郭を憎む」(アモ6:8)。
聖書全体に流れるテーマの一つは、神が無限の愛と憐れみの神であるということです。主が何かを「嫌う」と言われるときには、耳を傾けてその真意をはっきりと理解する必要があります。
問1
主が憎まれるものは何ですか。詩編10:3、詩編11:5、詩編78:58
アモスは今日の研究に関連して、主がヤコブの誇りと「そのもろもろの宮殿」を「憎む」と述べています(アモ 6:8、口語訳)。「正直に稼いだお金を仰々しい建物のために浪費することはまさに悪ですが、イスラエル人は不正直、特に貧しい人々に対する不正によってそのぜいたくと繁栄を手に入れました。……ヤコブの『誇』と『もろもろの宮殿』に対する神の憎しみは、神の憎まれるのが人ではなく、人の罪深い行為と業であることを示しています」(『SDA聖書注解』第 4巻 974ページ)。
主の名
「『いない』と答え、『声を出すな、主の名を唱えるな』と言う」(アモ6:10)。
アモス書6:9、10は将来に目を向け、イスラエルが罪の結果どのようになるかについて述べています。興味深いことに、10節の終わりには、イスラエル人が「主の名」を唱えなくなると書かれています。ヘブライ語聖書では、「主の名」が賛美、崇敬、喜び、権威、救いの象徴ということを考えるなら(出エ 33:19、申命 31:3、詩 7:18〔口語訳 7:17〕、20:8〔口語訳 20:7〕、116:4、13、使徒2:21)、彼らが主の名を唱えないというのは信じがたいことです。
『SDA聖書注解』第 4巻974、975ページには、当時のイスラエル人がなぜ主の名を唱えようとしなかったのかについて考えられる理由がいくつか挙げられています。
(1)失望感から神を呼び求めても手遅れだと感じていた。
(2)不信仰のゆえに主の名を唱えようとしなかった。
(3)自分たちの受けた裁きを神のせいにした。
(4)主の名を唱えると人々の笑いものになると考えていた。
問1
アモス6:10をどう理解しますか。
もう一つ考えられるのは罪悪感です。罪悪感はサタンが用いる強力な武器の一つです。私たちが罪を犯すと、罪悪感が頭をもたげます。罪悪感そのものは悪ではありません。聖霊はこの罪悪感を用いて、私たちを悔い改めと祈りと十字架に導かれることがあります。このような罪悪感は「善」です。一方、罪悪感が悪となるのは、私たちが自分の罪のゆえに神の前に出ることができないと感じるときです。神の憐れみと赦しを求めるには、自分はあまりにも罪深いと感じることがあります。イスラエル人のように「主の名を唱える」ことを恐れます。再び赦されると考えるのは無遠慮すぎるように感じます。これが魂の敵の狡猾(こうかつ) な方法です。サタンは罪悪感を用いて私たちを唯一のいやしの源である十字架から引き離そうとします。
アッシリアの捕囚を逃れる道はない
「しかし、イスラエルの家よ/わたしはお前たちに対して一つの国を興(おこ) す」(アモ6:14)。
アモス書6:11~13には、イスラエルの現状が興味深いたとえを用いて描写されています。主はここで何を言おうとしておられるのでしょうか。特に興味深いのは12節にある問いかけです。「牛が海を耕すだろうか」。これはイスラエルが悔い改めなかったので裁きを受けること、避けようとしても無益であるという意味です。
問1
イスラエルを滅ぼすことになった国はどこでしょうか。列王下18:9、10、アモ6:14
アッシリアの王ティグラト・ピレセル 3世は、イスラエルの王ペカを暗殺し、ホシェアをかいらいの王として即位させ、彼に重い貢物を納めさせました。窮したホシェアはエジプトと同盟を結び、アッシリアに対抗します。ティグラト・ピレセルの後を継いだシャルマナサルはイスラエルを攻め、サマリアを包囲します。彼はその治世の最後の年(前723/722)にサマリアを占領しました。
「北王国の陥った破滅は、天からの直接の刑罰であった。アッスリヤ人は、神がご自分の目的を達成させるためにお用いになった器に過ぎなかった。……『彼らはその神、主のすべての戒めを捨て、自分のために二つの子牛の像を鋳て造り、またアシラ像を造り、天の万象を拝み、かつバアルに仕え』、頑強に悔い改めることを拒み続けたために、『主は……彼らを苦しめ、彼らを略奪者の手にわたして、ついに彼らをみ前から打ちすてられた』(列王下 17:16、20)」(『国と指導者』上巻258ページ)。
まとめ
イスラエルが安眠をむさぼり、神の警告をまったく無視していたとき、神の裁きは地平線のかなたから近づいてきました。
「主は、十部族に下った恐るべき刑罰の中に、賢明であわれみ深いご計画を秘めておられた。神は、先祖たちの地においては、もはや彼らに実行させ得なくなったことを、異邦人の間に彼らを離散させることによって達成しようとなさったのである。人類の救い主によって、ゆるしを受けようとするすべての者に対する神の救いの計画は、なお達成されなければならなかった。そして、イスラエルに与えられる苦難によって、神は、神の栄光が地の諸国にあらわされる道を備えておられたのである。捕らえられて行った者が、みな悔い改めなかったのではなかった。彼らの中には、神に忠実に仕えたものがあり、神の前に自らを低くした者があった。このような『生ける神の子』によって、神は、アッスリヤ帝国の大群衆に、神の品性の特質と神の律法の恵み深さとをお知らせになるのであった(ホセア書 1:10)」(『国と指導者』上巻258,259ページ)。
第8課 第1の幻 ー いなごと祈り
第8課 第1の幻 ー いなごと祈り
アモスを通して与えられたイスラエルへの災害の内容と意味。それは象徴か、実際に起こったことかという点。神はなぜなすべきことを悔いたのか。預言者アモスが果たした役割。執り成しの祈り……などについて研究しましょう。
いなごによる文字通りの、先例のない災害が実際にイスラエルの王国南部を荒廃させたのでしょうか。それとも、いなごは破滅の象徴にすぎないのでしょうか。いずれにしても、アモスとヨエルによって伝えられたメッセージは、聴衆の注意を引きつけるような生々しい表現で語られています。聴衆はそのメッセージの時宜を得た重みを感じ取ることができたはずです。
ヨエル書のいなごの大群に関する描写などに見られる特有の誇張法は、いなごについての預言が終末の日の、裁きの時と関連があることを示唆しています。それらは当時の人々に対する神からの警告でしたが、同時に私たちのためにも書かれたものです。アモス書7:1~9:10にある五つの幻は、古代イスラエル人に臨もうとしていた裁きについての警告でした。しかし、それ以上に、これらの幻は終わりの時に生きている私たちに対する警告でもあるのです。
第1の幻
「主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、主は二番草の生え始めるころ、いなごを造られた。それは、王が刈り取った後に生える二番草であった」(アモ7:1)。
アモスはこれまで主の御名においてイスラエルに語った言葉を記してきました。しかし第 7章は「主なる神はこのようにわたしに示された」という言葉で始まっています。ヘブライ語では「わたしは見させられた」という意味です。これは預言者が幻を受けたことを示す聖書の一般的な表現法です。アモスの幻を受ける方法が大きく変化しましたが、彼は今、イスラエルに伝えるメッセージを幻によって与えられています。
問1
アモス7:1~3にある最初の幻を読んで下さい。
いなごは文字通りのいなごであり、イスラエルがいなごの大群に襲われ、その作物を根絶やしにされるということなのか、あるいはいなごが象徴的でアッシリア軍によって滅ぼされるということなのかは、学者によっても意見が異なっており、どちらの解釈も可能です。どちらでも基本的な意味は同じで、自らの罪を悔い改めることを拒み、喜んで赦し、いやし、恵みに回復してくださる主に立ち帰ることを拒む、背信した民のうえに、神の裁きが下るということです。
アモス書を読んで気づくことの一つは、その利害関係の大きさです。イスラエルは悔い改めるように警告されていました。さもないと、大いなる災いが彼らに臨むことになっていました。神は冗談を言っておられるのではありません。全宇宙の前で神が擁護されるのはもちろんのこと、魂が永遠に救われるか滅びるかの問題です。刑罰が厳しいとすれば、問題がそれだけ重大で、永遠の結果をもたらすからです。イスラエルがなぜこれほど厳しい裁きに直面しなければならなかったのかを疑う前に、このことを心にとめる必要があります。厳しい裁きは善悪の大争闘における争点の重大さを思い起こさせるものです。これは私たちとも密接な関係のある問題です。
主は思い直された(悔いた)
「いなごが大地の青草を食べ尽くそうとしたので、わたしは言った。『主なる神よ、どうぞ赦してください。/ヤコブはどうして立つことができるでしょう/彼は小さいものです。』/主はこれを思い直され/『このことは起こらない』と言われた」(アモ7:2、3)。
アモス書 7:3に、「主はこれを思い直され」[英語では「主はこれを悔い」]という言葉があります。主がアモスの執り成しのゆえに今回はイスラエルに災いを下すのをやめられたという意味です。
「主が思い直された」とはどういう意味でしょうか。ここで用いられているヘブライ語動詞の“ナハン”は、民が「立ち帰る」ことによって悔い改めたときに用いられている動詞とは異なります。“ナハン”には「情けをかける」「憐れみをかける」という意味もあって、ここではそのほうが正確な意味を伝えています。
問1
神が思い直された(悔いた)例が次の聖句にあります。これらをどう解釈し、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。出エ32:14、サム上15:35、エレ42:10
神の「悔い」は人間の「悔い」とは異なります。神が「悔いる」という思想は、神の予知と人間の自由意志に関する様々な哲学的、神学的議論を含んでいます。これらの聖句は、たとえ神が預言者を通して警告された出来事でも、もし条件が満たされるなら中止される場合もあることを示しています。言い換えると、神が「悔いる」という思想は、預言が条件つきであり、預言が実現するか否かは特定の条件が満たされるか否かにかかっていることを教えています。人間の態度もしばしば大きな役割を果たします。人間が従うとき、警告された災いは起こらず、人間が従わないとき、それは起こります。
仲保者(1)
問1
次の聖句に共通なことは何でしょうか。出エ32:32、ダニ9:16~23、ゼカ3:1~ 5
これらの聖句に共通して言えることは、神の民が罪を犯したときにも、神の前に立って彼らのために執り成してくれる人がいたということです。どの場合にも、仲保者が執り成しをしました。アモス書でも、アモス自身が神の前で、災いを撤回してくださるように神に嘆願しています。「主なる神よ、どうぞ赦してください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう。彼は小さいものです」(アモ7:2)。主は彼の叫びに耳を傾けられました。
これらの聖句は「執り成しの祈り」について教えています。祈りによって神はご計画を変更してくださるという考え方です。聖書は繰り返し、祈りが私たち自身の人生ばかりでなく、私たちが祈るその人の人生をも変える力を持つと教えています。聖書が他の人々のためにも祈るように勧めているのはそのためです。もし祈りに物事を変える力がなければ、神は私たちに祈るようには言われなかったはずです。祈りがどのようにして聞かれるかはわかりませんが、その祈りが聞かれることは確かです。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(ヤコ5:16)。
仲保者(2)
「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ロマ8:34)。
「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブ7:25)。
アモスをはじめ、何人かの人たちは仲保者として働きましたが、聖書によれば、唯一の、真の仲保者はイエス・キリストだけです。事実、学者たちは火曜日の研究で学んだ人たちの中にキリストの予型となる人たちを認めています。彼らは私たちの仲保者であるキリストの御業の模範として、自分の民のために執り成しました。
問1
旧約のある人物はキリストの“型”とみなされています。彼らはキリストのどのような部分を示唆するようなことをしたでしょうか。
聖書は、罪深い人間である私たちには仲保者が必要であると教えています。罪は聖なる神と汚れた被造物との間に深い溝をつくりました。この罪の大きさのゆえに、人間はひとりでは神の前に立つことができません。「聖人」と呼ばれている人々でさえ、聖なる神の前に立つことはできませんでした。
主が燃える柴の中でモーセに現れたとき、モーセは「神を見ることを恐れて顔を覆」いました(出エ3:6)。ヨブも「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵(ちり) と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:5、6)と叫びました。御座に座し、天使の礼拝と賛美を受けておられる神を幻の中で見たとき、イザヤは叫びました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の(くちびる) 者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザ 6:5)。エゼキエル、パウロ、ヨハネの場合も、神を見たときの状況こそ異なっていても、その反応はみな同じでした。彼らはその光景に耐えられず、神の前にひれ伏しました。
いなご
ヨエルの預言は、いなごの大群が文字通りのものであったことを示し、全土を覆ういなごの災害について詳しく描写しています。
問1
同じようないなごの災いがヨエル 1:4~15にはどのように描写されていますか。
ヨエル1:4にはかつてないいなごの災害が次の4つの順序で描かれており、『SDA聖書辞典』には次のような説明があります。
【かみ食らういなご】「おそらく成長の第一段階にあるいなごで、まだ羽はないが、毛虫のような幼虫でもない。若い成虫」。
【移住するいなご】「完全に成長した羽を持つアフリカ移住いなご……と考えられる。大群で来襲し、卵を産みつける。このいなごはパレスチナではごく普通に見られる」。
【若いいなご】「おそらく羽を持った成虫になる前の、最後の成長段階のよたよた歩く、まだ羽のない移住いなご。飛び跳ねることはできても、這うことのできない、ふ化したばかりのいなごとも考えられる」。
【食い荒らすいなご】「オランダの科学者、F・ブルージェルによれば、パレスチナを去る段階の完全に成長したいなご」。
4段階に及ぶいなごの災害に強調されているのは、差し迫った荒廃が完全なものであるということです。いなごの大群が国土を覆い、最後の1本まで植物を食い尽くし、干ばつと飢饉(ききん) と荒廃をもたらすのです。ヨエルはいなごの災害だけでなく、この災害によって予示された主の日の悲惨な出来事にも注目しています。歴史上の主の日の出来事は、その時代に生きていた人々にとっては未曾有の出来事でした。同様に、終わりの時代における主の日の出来事は、空前絶後のものとなります(ダニ12:1参照)。
まとめ
神はアモスを通して彼の時代に迫りくる災害を警告し、また私たちの生きる現代にも語っておられます。これらの使命には警告と希望の約束とが入り混じっています。
「キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、私たちを義とするために借り物の墓から復活し、勝利のうちに、『わたしは復活であり、命である』と宣言されます。イエスは私たちの仲保者として父なる神の前で嘆願しておられます。彼は全世界の罪を負われましたが、死すべき人間を人の罪を負う者とはされませんでした。人はだれも自分自身の罪の重荷を負うことができません。十字架につけられたお方がすべての罪を負われたのです。このお方を信じる者はひとりも滅びることがなく、永遠の命を受けるのです。
キリストに従う者は、品性の完成を求めて努力するときに、キリストの恵みによってすべての試練と試みに勝利する者となります。イエスから目をそらし、ほかの人、ほかの物に目を注いで、ときに過ちを犯すかもしれません。しかし、その危険を警告されるとすぐに、彼は再び永遠の命の望みであるイエスに目を注ぎ、主の足跡に踏み従い、安全に旅を続けます。彼は喜びに満たされて、次のように言います。『イエスは神の前におられる私の生きた仲保者です。彼は私のために祈ってくださいます。彼は私の弁護者であり、ご自身の完全な義をもって私を覆ってくださいます。それゆえに、私は御名のゆえに恥と責めを負うことができます。私が迫害に耐えることを許されるときにも、彼は私に恵みと慰めに満ちた臨在とを与えてくださいます。それによって、御名の栄光が現されるためです』」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1896年 5月 12日)。
第9課 第2の幻 ー 火による審判
第9課 第2の幻 ー 火による審判
聖書はしばしば火を刑罰、または清めの象徴として用いています。火にはどのような意味、性質、役割があるでしょうか。聖書には終わりの時の火、罪と罪人とを滅ぼす報復的で破滅的な地獄の描写がいくつもあります。これが火と硫黄(いおう) の燃える「地獄」です。
このような光景を神の愛と調和させることは容易ではありません。しかしこの火の目的、背景、最終的な結果を理解するなら、それもまた同じ愛の神から出たものであることがわかります。
本当の意味で地獄を理解する唯一の方法は、イエス・キリストが十字架にかかられたときに、私たちに代わって地獄の火を受けられた意味を理解することです。私たちが自らの罪のゆえに、当然の報いとして地獄に行くことのないように、イエスは私たちに代わってカルバリーにおいて「地獄」を経験されました。イエス以上に地獄で苦しまなければならない人は世界にだれもいません。
裁きか、清めか(アモ7:4~6)
「見よ、主なる神は審判の火を呼ばれた。火が大いなる淵をなめ尽くし、畑も焼き尽くそうとした」(アモ7:4)。
アモスは第 2の幻の中で、いなごに代わって神のもとから下る火について描写しています。しかし、旧約の預言者が火の幻を用いて神の裁きを描写しているのはここだけではありません。
「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした」(創世19:24、25)。
「アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ」(レビ10:1、2)。
「外に出る人々は、わたしに背いた者らの死体を見る。蛆(うじ)は 絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。すべての肉なる者にとって彼らは憎悪の的となる」(イザ 66:24)。
問1
火は刑罰や裁きという否定的な意味で多く用いられていますが、何かよいことの象徴としての例はないでしょうか。
火は聖書の中で、刑罰ばかりでなく、浄化、清め、精錬の象徴としても用いられています。「祭司エルアザルは、戦いから帰還した兵士に言った。『主がモーセに与えられた律法の定めは次のとおりである。金、銀、青銅、鉄、錫(すず) 、鉛など、すべて火に耐えるものは、火の中を通すと清くなる。それ以外のものは、清めの水で汚れを清める。火に耐えないものは、すべて水を通さねばならない』」(民数31:21~23)。イザヤ書 6章やマラキ書3:1~3で、火がどのように用いられているか見てください。これらの聖句では、火は先の例とはいくぶん違う働きをしています。
十字架における第2の死
「罪と何の係わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(Ⅱコリ 5:21)。
十字架において、イエスは第2の死を経験されました(黙示20:14、21:8)。それは第 1の死ではありません。クリスチャンであると否とにかかわらず、私たちはみなこの肉体の崩壊する第 1の死に直面するからです。イエスがカルバリーで死なれたのは、この肉体の死から私たちを解放するためだけではありませんでした。むしろ、イエスが十字架におかかりになったのは、「第2の死」、つまり火による死、罪に対する神の義なる怒りから来る死から私たちを解放するためでした。イエスご自身、十字架において、私たちに代わってこの第 2の死を経験されたのです。
問1
「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(マル15:34)とのキリストの言葉をあなたはどう理解していますか。
「われわれの身代りまた保証人としてキリストの上にわれわれ全部の者の不義がおかれた。律法による有罪の宣告からわれわれをあがなわんがために、キリストは、罪人にかぞえられた。アダムの子孫ひとりびとりの不義がキリストの心に重くのしかかった。罪に対する神の怒り、不義に対する神の不興の(ふきょう) 恐るべきあらわれが、み子の魂を非常な驚きと恐れで満たした。……しかしいま、自ら負っておられる不義の恐るべき重さで、キリストは、天父のやわらぎのみ顔を見ることがおできにならない。この最高の苦悩の時に神のみ顔が見えなくなったために、救い主の心は、人にはとうていわからない悲しみに刺し通された。この苦悩は、肉体的な苦痛などほとんど感じられないほど大きかった」(『各時代の希望』下巻274、275ページ)。
悪人は焼き尽くされる(マラ3:21〔口語訳4:1、3〕)
「見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない」(マラ3:19)。
救いの計画がいかに素晴らしくても、十字架上のキリストの死がいかに完全で十分であろうと、聖書によれば、すべての人がそれを受け入れるわけでなく、またすべての人がイエスの犠牲の究極的な祝福にあずかるのでもありません。信仰によってキリストの身代りの死を受け入れることを拒むために、多くの人が自らの罪に対する刑罰を受けなければなりません。
しかしここにも神の愛と憐れみが現されています。失われた者たちが地獄において永遠の責め苦にあうという一般的な考えに反して、聖書ははっきりと、滅びが永遠のものではあっても、滅ぼされ続けるのではないと教えているからです。これは決定的な違いです。
問1
次の聖句を読んで下さい。ヨハ3:16、ヨハ10:28、Ⅱテサ1:9
神はどんな悪人であっても、地上における一時の間に起こった悪業のために彼を永遠の火で罰し続けるということはありません。こうした誤った理解のため、神の愛を疑う人があります。神が地獄の火で罪を焼き尽くされる目的は、罪とその痕跡を消し去り、汚れのない新しい地球を出現させるためです。罪と罪人を滅ぼす前に、神はすべての人に悔い改めの機会をお与えになります。
主は再び「思い直される」(1)
「わたしは言った。/『主なる神よ、どうぞやめてください。/ヤコブはどうして立つことができるでしょう/彼は小さいものです。』/主はこれを思い直され/『このことも起こらない』と主なる神は言われた」(アモ7:5、6)。
ここでも、先の幻と同じことが繰り返されています。すなわち、アモスは神に執り成し、その結果、神は予告されていた滅びについて「思い直され」、「考えを変え」られます。このことは重要な問題を提起します。先週の研究でも学びましたが、ある人々の執り成しの結果、預言が撤回されたり、延期されたりしています。つまり、これらの預言が条件付きであったということです。ある預言が条件付きであるとするなら、他の預言もすべて条件付きということになるのでしょうか。
問1
次の聖句のうち、どれが条件的預言で、どれが神の不変の預言と思いますか。イザ1:19、20、エレ18:7~10、使徒1:11、ロマ14:10、Ⅱペト3:13
主は再び「思い直される」(2)
「わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。/わたしの計画は必ず成り/わたしは望むことをすべて実行する。/……わたしは語ったことを必ず実現させ/形づくったことを必ず完成させる」(イザ46:10、11)。
アモス書7:5と昨日の研究は非常に興味深い問題にふれています。それは“預言”の性質という問題です。
アドベンチスト教会は、聖書にある多くの預言が条件付きであると理解しています。つまり、預言が実現するか否かは人間の応答にかかっていると考えています。たとえば、主はしばしばイスラエルに災いについて警告されました。もし彼らが従わなければ、それは起こりますが、従うならば、その災いは起こりません(申命記 28章参照)。アモス書の場合もそうです。
問1
なぜ神は、イスラエルの人々が恐るべき結果を避けるべく罪から離れようとせず、行動を変える希望もないのに警告を発して危険を訴えられるのでしょうか。
すべての預言が条件付きなのでしょうか。長期的に見れば、神はつねに支配しておられ、ご計画にしたがってみ旨を実施されます。神の救いの計画は永遠不変な種類のものです。罪と反逆に終止符を打つという神の最終的な目的は実現します。地上の歴史を締めくくる諸事件についての預言は条件付きではありません。
しかし短期的に見れば、人間個人、国家、民族単位の種類についてはそれぞれが神にどのように応答し、反応するかが運命を左右し、預言の実現に影響を与えているように見えます。神は人間に意志の自由をお与えになりました。私たちの自由意志が自分の将来を決定するのです。
まとめ
神は火をもってイスラエルを罰すると警告されました。預言者アモスが主に執り成したとき、神はそれをおやめになりました。やがて歴史の最後にこの世のすべてが火をもって新しくされ、永遠の義が住む新天地が神によって創造されます。
「悪人の運命は自分自身の選択によって定められる。彼らが天国から締め出されるのは自分自身の自由意思によるのであり、神にとっては正当で、憐れみ深い行為である」(『終末の諸事件』279、280ページ)。
「だが定められた広大な軌道にある星のように、神の目的は急ぐことも遅れることもない。大いなる暗黒とけむるかまどの象徴を通して、神はアブラハムに、イスラエルがエジプトで奴隷生活を送ることを示し、その滞在期間は400年であると宣言された。『その後かれらは多くの財産を携えて出てくるでしょう』と神は言われた(創世記15:14)。このことばに対して、パロが誇りとする帝国は、全力をあげて戦ったがむだだった。神の約束に定められていた『その日に、主の全軍はエジプトの国を出た』(出エジプト記12:41)。同じように、天の会議では、キリスト来臨の時が決定されていた。時という大時計がその時間を指し示すと、イエスはベツレヘムにお生れになった」(『各時代の希望』上巻 22ページ)。
第10課 第3の幻 ー 下げ振り
第10課 第3の幻 ー 下げ振り
前の二つの幻と違い、なぜアモスは神への執り成しをしなかったのか、義について、また、恩恵期の積極面などを学びましょう。
マルチン・ルターはある男を捕虜にした貴族について書いています。捕虜になった夫の妻が夫を受け戻しに来たとき、その貴族は夫を返すとの交換条件に彼女に不倫を強要しました。やむなく彼女は条件に従ったのですが、貴族は彼女の夫を殺し、その夫の死体を彼女に返したのでした。彼女は涙とともに事の次第をブルゴーニュ公爵に訴えます。公爵は貴族に彼女を妻とするように命じ、その後で貴族の首をはね、その財産すべてを彼女に与え、彼女の名誉を回復しました。
ルターは実例をあげて、正義が法律や規則にまさる場合があることを教えました。今回は神の正義の約束について学びます。今は完全に理解することができないかもしれませんが、神の正義はつねに憐れみと義に満ちています。
下げ振りを持たれる主
「主はこのようにわたしに示された。見よ、主は手に下げ振りを持って、下げ振りで点検された城壁の上に立っておられる。主はわたしに言われた。『アモスよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『下げ振りです。』主は言われた。『見よ、わたしはわが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、見過ごしにすることはできない』」(アモ7:7、8)。
いなごと火の幻に代わって、アモスは壁や柱などの垂直を確認するときに用いる「下げ振り」を見ました。下げ振りとは「建築家が建物を平行にしたり、垂直にしたりするときに用いる道具です。この『下げ振り』は明らかに、主がイスラエルの行動を点検されることを象徴しています」(『SDA聖書注解』第 4巻 977ページ)。初めの二つの幻においては、神は予告された滅びを「思い直して」おられます。しかしここでは全く条件をつけることなく、起こるべきことをはっきりと告げておられます。
問1
イスラエルに起こる預言の出来事を調べ、なぜアモスは今回、執り成しをしないのか考えてみてください。
主が下げ振りを下ろされたのは「城壁が基準を満たしているかどうかを見るためでした。イスラエルは神の要求を満たしていないために、拒否されるのです。……イスラエルは悪に執着し続けたので、悔い改める希望はありませんでした。それゆえ、預言者は執り成すことをやめました。北王国はアッシリアによって征服され、捕囚の身となるのでした」(『SDA聖書注解』第4巻977ページ)。
アモス7:7、8の主の言葉によって、アモスはイスラエルがもう悔い改めないことを悟ったのでしょう。この言葉は、エルサレムのために涙を流されたときの主に似ています(マタ23:37~39参照)。
まっすぐな義
「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください。/わたしを陥れようとする者がいます」(詩5:9)。
下げ振りは町の城壁をまっすぐに保つために用いられました。ヘブライ語聖書にしばしば出てくる「まっすぐ」「正直」という言葉は、主がご自分の民に望まれる特質を表しています。この言葉は「正しい」(民数 23:10)と訳されることもあります。「誰がヤコブの砂粒を数えられようか。/誰がイスラエルの無数の民を数えられようか。/わたしは正しい人[語源は「まっすぐ」「正直」]が死ぬように死に/わたしの終わりは彼らと同じようでありたい」。「正直」という言葉は「正義」に近い意味に用いられています(詩11:7、32:11、33:1参照)。
下げ振りを示すだけでなく、それを「イスラエルの真ん中に」(アモ7:8)下ろすことによって、主はご自分の民の前に裁きの基準を示しておられたのです。下げ振りを正義の象徴と呼んでいる聖書注解者もいます。この聖句に関連して、ある注解者は次のように言っています。「道徳世界における正義は物質世界で垂直に対応する」(『プルピット・コメンタリー、アモス書』147ページ)。
問1
下げ振りは神の義の基準を意味し、イスラエルはこの基準によって裁かれます。次の聖句を見て共通点を注意してください。エゼ40:3、黙示11:1、2
もし私たちが神ご自身によって定められた義の基準によって裁かれるとすれば、自分自身ではとてもそれに耐えられません。私たちのどんな「正しい業もすべて汚れた着物のよう」だからです(イザ64:6)。イスラエルの唯一の望みは信仰によって彼らに与えられる神の完全な義にありました。イスラエルは神に対する信仰を失ったゆえに滅びに直面していました。彼らは下げ振りによって測られる唯一の義である神の義を持たず、義の覆いを失っていました。
道を外したイスラエル
「わたしはサマリアを野原の瓦礫(がれき) の山とし/ぶどうを植える所とする。/その石垣を谷へ投げ落とし/その土台をむき出しにする」(ミカ1:6)。
第 3の幻の中で、主はまずイスラエルを裁き、次にその罪のゆえにイスラエルを罰すると言われます。さらに「もはや、見過ごしにすることはできない」と言われます(アモ 7:8)。9節には、イスラエルがこの裁きの結果、廃墟になる様子が描かれています。
(1)高き所(口語訳)は荒らされる(エレ 2:20、ホセ 4:13参照)偶像礼拝のための宮はふつう、近隣の最も高い場所に建てられました。神は申命記7:5や33:29で、イスラエルにこれらの高い所を壊すように命じておられます。しかし、アモスによれば、イスラエルはそれらを壊すどころか、自分で自分のものを建てていたようです。彼らが壊そうとしないので、神が壊されるのです。
(2)イスラエルの聖なる高台は廃墟になる これらの高台はギルガル、ダン、ベテルにおける偶像礼拝の中心になっていました。
(3)「わたしは剣をもって/ヤロブアムの家に立ち向かう」ヤロブアム 2世の父イエフがヤハウェに従わずに、ヤロブアム1世の罪に従ったので、ヤハウェはイエフの子孫が4代にわたって統治すると言われました(列王下10:30)。ヤロブアム2世の死後、4代目の息子ゼカルヤは6か月間統治した後で、殺害されます(列王下15:12)。こうして、ヤハウェ神の言葉は成就し、イエフ王朝は終わります。
国と言葉
「ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。『イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません』」(アモ7:10)。
米国の哲学者ジョージ・サンタヤナは言いました。「歴史を忘れる者はそれを繰り返す運命にある」。「運命にある」という言葉を用いていることからもわかるように、歴史はこうした教訓から学ぶことをしない悲劇を続けてきました。この世の過去の記録は何度も繰り返してほしいほど楽しく美しいものではありません。
アモスの時代にも同じパターンが繰り返されています。アモスは宗教指導者たちが聞きたくない言葉を語りました。彼らにとって、自分たちが批判されること、その考えや行政を非難されることは許しがたく、そこで彼らがまずしたことは、政治的指導者を利用して自分たちに反対して語る者の口を封じてもらうことでした。結果は長く悲しい流血の歴史です。このようなことは以前にもなかったでしょうか。
問1
宗教が政治を利用して反対者を圧迫するというような例が旧新約聖書の中に書かれていませんか。宗教と政治が混合するときの危険性について私たちが学ぶことは何でしょうか。世界歴史の中で、宗教者が自分たちに反対し、反抗する人々をこの世の権力を用いて沈黙させ、処刑した例を考えてみましょう。
祭司アマツヤは、「この国は彼のすべての言葉に耐えられません」と言っています。これは興味深い言い方です。もちろん、アモスの言葉に耐えられないのは国そのものではなく、アモスの言葉を聞こうとしない国民のことです。アマツヤが言いたかったのはアモスの言葉が国そのものをだめにしているということでした。
恩恵期の終わり
アモス書のこの部分には、どこか恩恵期間の終了を思わせるところがあります。無理な類推はすべきではありませんが、一つ共通点があります。つまり、何度もメッセージと悔い改めの機会が与えられた後で、ついに裁きが下されているということです。しかし異なる点もあります。恩恵期間が終了するときには、多くの人が正しい選択をしていますが、アモス書の場合は、イスラエルのほとんどすべての人が滅びに定められています。
問1
黙示録22:11には「義、聖なる者」と「汚れたまま」の人のことが書かれています。この2種類の人の差は何だと思いますか。
恩恵期間の終了は否定的に見られがちです。確かに、誤った選択をする人々にとって、それは悲しむべき時となります。しかし、恩恵期間の終了は、多くの人が正しい選択をする時であり、その選択は神ご自身によって最終的に確定されたものとなります。ある意味で、「一度救われたなら常に救われている」という思想が現実となります。キリストを選んで恩恵期間が終了した時、私たちは決して滅びることがありません。これは喜ばしい福音です。
問2
恩恵期は死とともに閉じられますが、私たちはいつ死ぬかを知りません。「毎日、毎瞬、神と正しい関係にある」という状態は何によって実現すると思いますか。
恩恵期間の終了は、イエスがご自身の血をもってすべての人の魂をあがなってくださった十字架の光に照らして理解する必要があります。さもなければ、それはきわめて否定的なものとなります。確かに、魂の永遠の運命が量られるという意味で、恩恵期間の終了はきわめて厳粛な時です。しかし、神がひとりでも多くの人を永遠の王国に導き入れようとしておられること、またこの永遠の命がイエスご自身の死によって可能となったことを、私たちは覚えるべきです。
まとめ
イスラエルの最後の王はホシェアです。アッシリアによってサマリアが陥落したとき、ホシェアは捕囚となり、イスラエルの運命は決しました。恩恵期の終了はやがて来る世界に対する恩恵期の終了を指し示すものです。
「北王国の陥った破滅は、天からの直接の刑罰であった。アッスリヤ人は、神がご自分の目的を達成させるためにお用いになった器に過ぎなかった。サマリヤが陥落する少し前に預言し始めたイザヤによって、主はアッスリヤの軍勢が、『わたしの怒りのつえ』であると言われた……(イザヤ書10:5新改訳)。……[イスラエルが]頑強に悔い改めることを拒み続けたために、『主は……彼らを苦しめ、彼らを略奪者の手にわたして、ついに彼らをみ前から打ちすてられた』。……主は、12部族に下った恐るべき刑罰の中に、賢明であわれみ深いご計画を秘めておられた。神は、先祖たちの地においては、もはや彼らに実行させ得なくなったことを、異邦人の間に彼らを離散させることによって達成しようとなさったのである。人類の救い主によって、ゆるしを受けようとするすべての者に対する神の救いの計画は、なお達成されなければならなかった。そして、イスラエルに与えられる苦難によって、神は、神の栄光が地の諸国にあらわされる道を備えておられたのである。捕らえられて行った者が、みな悔い改めなかったのではなかった。彼らの中には、神に忠実に仕えた者があり、神の前に自らを低くした者があった。このような『生ける神の子』によって、神は、アッスリヤ帝国の大群衆に、神の品性の特質と神の律法の恵み深さとをお知らせになるのであった(ホセア書1:10)」(『国と指導者』上巻258,259ページ)。
第11課 第4の幻 ー 夏の果物
第11課 第4の幻 ー 夏の果物
人間の性質を表すのになぜ“果物”が選ばれたか。宗教の規則をすべて守りながら宗教の本質を失うとは。主が罪を“忘れる”、“覚える”ということ。み言葉の飢饉(ききん) ……などを学びましょう。
アモス書8章のテーマは次から次と変わり、どれ一つを取り上げても小さな本になるくらいの内容です。アモスはまず実を結ぶことについて論じています。それから、宗教的な形式主義でその形式に命を吹き込む精神を持たない人々にふれています。これはいつの時代のクリスチャンにも言えることかもしれません。
次に、救いに関する興味深い問題、つまり赦されている罪と赦されることのない罪について語っています。また世の終わりにおける最終的な闘争にふれています。
そして最後に、「主の言葉」を聞くことに関する「飢えと渇き」について論じています。どれも大切なテーマですが、こうした重要な問題について考え、祈りたいと思います。
その実によって
「主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、一籠の(かご) 夏の果物(カイツ)があった。主は言われた。『アモスよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『一籠の夏の果物です。』主はわたしに言われた。『わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。その日には、必ず宮殿の歌い女(め) は泣きわめくと主なる神は言われる。しかばねはおびただしく至るところに投げ捨てられる。声を出すな』」(アモ8:1~3)。
ここで語られている果物は「早く熟する果物で、とくに『いちじく』のことです。この幻の目的は民の裁きの時が熟したこと、神の忍耐が終わりに来たことを示すことにありました。神の忍耐はただイスラエルの罪を長引かせるだけでした」(『SDA聖書注解』第4巻979ページ)。
問1
果実についての次の聖句を読んでください。マタ3:10、マタ7:17、ヨハ12:24、ロマ7:4、ガラ5:22~ 23
果物はたとえば変化、円熟、熟成、腐敗などの過程を表すのに用いられています。果物は甘くて美味ですが、腐ると悪臭を放ちます。聖書の中で果物が人間とその行為を描写するのに用いられているのも不思議ではありません。
安息日が終わってから貧しい者を踏みつける
「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう』」(アモ8:4~6)。
この聖句はサタンの最大の、最も一般的な霊的偽りの一つである宗教的形式主義を述べています。それは最も基本的な宗教原則の乱用を覆い隠そうとするものです。これらの人たちは、自分たちが安息日と儀礼を厳格に守っているので、そうでない人たちよりも霊的に優れていると考えていました。これらの宗教的儀礼を守っている自分たちは聖なる者であって、正直、貪欲、(どんよく) 貧しい人への援助といった細かいことを気にとめる必要はないと考えていました。
「月の第1日は……宗教儀式のために捧げられていて、明らかにすべての取引が休みとなる日でした。……ここに、真の献身の精神が伴っていないのに、ただ形式的に聖なる儀式を守る空しい実例があります。これらの背信者たちは利己的な思いから、宗教的な形式主義に費やされるべき時間を惜しみ、その礼拝は祝福となるどころか呪(のろ) いとなります」(『SDA聖書注解』第 4巻 980ページ)。
これらの人たちは早く安息日が終わるように願い、日没になるや直ちに商売で人をだまそうと考えていました。自分たちの詐欺(さぎ) 行為を妨害するのは“安息日”でした。安息日の真の意味を理解し、神の意図された通りにそれを守る人にとって、貧しい人をだますというのは考えられないことです。明らかに、これらの宗教的偽善者たちは、自らの霊的状態に全く無知になっていました。
問1
キリストが直面した安息日遵守についての同じような問題を挙げて下さい。
この研究で、宗教の形式部分を守り、形の背後にある献身の精神が失われているとのことにつき、ラビであるヨシュア・ヘシェルの安息日についての言葉を読んでください。「この日、人は手の業を休め、世界はすでに創造されて人の助けなくして動いていることを知る。6日間、私たちは世と戦い、地より利を受ける。安息日は魂に蒔かれた種の世話をする。この世は私たちの手にあるが、魂は他の偉大な力に属す。6日間、私たちは世を支配することを求めるが、安息日は自分を治めることを求める」(アブラハム・ヨシュア・ヘシェル『安息日』13ページ)。
「わたしはいつまでも忘れない」
「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない」(アモ8:7)。
この聖句は恐ろしいほどの厳しさを持っていますが、救いに関する聖書の基本的な立場から言えば実に正確です。私たちのすべての罪は赦され、忘れられ、抹消されるか、もしくはつきまとって私たちを有罪とするかのどちらかです。罪の刑罰を免れるか、もしくはそれをまともに受けるかのどちらかです。罪の結果から完全に自由の身となるか、罪の結果の重圧によって滅びるかのどちらかです。神が私たちのすべての罪を「忘れる」か、もしくは「覚える」かのどちらかです。中立、司法取引、妥協はありえません。
問1
アモス8:7にある「(行った悪を)いつまでも忘れない」との主の言葉と「あなたの罪を思い出さない」(イザ43:25、ヘブ 8:12、10:17)との言葉をどう調和させたらいいでしょうか。
これらの聖句の中で、神は彼らの罪を「忘れる」と約束しておられます。つまり、彼らの罪はもはや彼らに対する神の取り扱いを左右する要因とはならないということです。これらの言葉は、いわば詩的な表現であって、神が私たちの罪を赦すときには、それを完全に赦し、もはや「記憶する」ことすらないという意味です。私たちがイエス・キリストによって救われるとき、キリストの義が信仰によって私たちのものとなるとき、そのようになるのです。
一方、アモス書8:7はまた、イエスの義によって覆われていない人々の運命についても語っています。マタイ18章の「仲間を赦さない家来」のたとえにも、これと同じ原則が啓示されています。私たちは自分のすべての罪を赦されるか、罪に対する刑罰を受けるか、完全に赦されるか、完全に罰せられるか、完全に救われるか、完全に滅びるかのどちらかです。
苦悩の日
アモス書 8:9には、主の日が次のように描かれています。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ……」。パレスチナに生きていたアモスは、主の日に太陽が真昼に沈むのを見ました。それからほぼ3000年後、エレン・ホワイトは一つの幻を与えられました。彼女はその中で、神がご自分の民を救出するために世界の歴史に介入されるとき、太陽が真夜中に昇るのを見ました(『各時代の大争闘』下巻 414ページ参照)。
問1
イスラエルへの罰としての“その日”は、終末の運命の日についての予表と考えていいでしょうか。(イザ4:1、12:1、4、ヨエ3:1、18参照)
アモス書8:9で、預言者アモスはずっと後に起こる出来事について予告しています。アモス書8:9、10は、最後の裁きの日におけるキリストの再臨を指し示しています。
問2
サマリアの滅亡についての悲しみ(アモ 8:10)と最後の裁きの日の全世界の悲しみ(黙示 1:9~19)とを比較してみましょう。
「神のみ声が神の民を捕われの身からかえされるときに、人生の大きな争闘においてすべてを失った人々に、恐るべき覚醒が起こる。恵みの期間が続いていたとき、彼らは、サタンの欺瞞(ぎまん) に目をくらまされ、自分たちの罪の行為を正当化していた。金持ちは自分たちは貧しい人々に優越していると誇っていた。しかし彼らは、神の律法を犯してその富を得たのであった。……ところが今、彼らは、彼らを偉大にしていたすべてのものをはぎ取られて、何も持たず、なんの防備もないのであった。彼らは、自分たちが創造主よりも好んだ偶像が破壊されるのを見て、恐れおののく。……金持ちは、自分たちの豪壮な邸宅が破壊され、金銀が四散するのを見て悲しむ。……悪人たちは、無念の思いに満たされる。それは、彼らが神と同胞とを無視した罪深さのためではなく、神が彼らに勝利されたためである」(『各時代の大争闘』下巻436,437ページ)。88
飢えと渇き
「見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。/わたしは大地に飢えを送る。/それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。/人々は海から海へと巡り/北から東へとよろめき歩いて/主の言葉を探し求めるが/見いだすことはできない」(アモ 8:11、12)。
この聖句は信じがたいことを述べています。人々は「主の言葉」を探し求めても見いだすことができないというのです。私たちを天国に入れるために御子を十字架につけてくださった神が、「御言葉」を探し求めても見いだすことができない状況をお許しになるとは!
問1
ヨハネ12:35にあるイエスの言葉から、アモス8:11、12の教えようとしているポイントをつかんでください。
「今、神の僕たちによって語られた御言葉を理解し、研究し、尊ばない者たちは、将来ひどく悲しむことになります。終わりの時に、裁きの主が地を歩き回られるのを、私は見ました。恐ろしい災いが来ます。そのとき、御言葉を軽蔑し、軽視していた者たちは、『海から海へと巡り/北から東へとよろめき歩いて/主の言葉を探し求めるが/見いだすことはできない』(アモ 8:12)。御言葉を聞くことのできない飢えが地に臨むのです」(『終末の諸事件』234,235ページ)。
アモス書の言葉は、私たちの現在の状況に関して重要な原則を教えています。私たちが絶えず不要なもので自分の心を満たすなら、「主の言葉」がやがて意味を持たなくなってしまいます。霊的真理に対して鈍感、無感覚になるあまり、真理を聞いても、それが心に浸透して行かなくなるのです。私たちが読んだり、見たり、考えたりすることが私たちを真理に対して鈍感にし、その結果、「神の御言葉」に接することができないのと同じ状態になるのはそのためです。
まとめ
第 4の幻も来るべき裁きを伝えるものでした。安息日の意義を悟らず、形は守ったものの中身は偽善、不正、悪に満ちたものでした。“その日”は終わりの日を意味していました。イスラエルにとって「その日」は「泥棒が夜のいつごろ来るか」(マタ 24:43)わからないようにということではありませんでした。現代に生きる私たちも重大な事件とその予兆によって予告されています。私たちは“その日”のための備えがあるでしょうか。
第12課 第5の幻 ー 逃れる道はない
第12課 第5の幻 ー 逃れる道はない
神は罪をどのように見、どう扱うのでしょうか。最後に神が罪を罰し、審判を行うということは私たちに慰め、喜びと思えるでしょうか。罪の刑罰より私たちを助けてくださった十字架、創造の神が滅ぼす神でもあること、神だけが公正な審判者であることなどを研究しましょう。
シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の中に、若いハムレットが王によって殺された父の復讐を(ふくしゅう) するため王の寝室に忍び込む緊迫した場面があります。しかし、ひざまずいて祈っている王に近づいたとき、ハムレットの心は突然変わります。祈っている人を殺したくなかったからです。彼は考えます。「あの悪党がおれの父を殺して、そしてこの一人息子のおれがその悪党を天国に送りこむ」というのか。
シェイクスピアが神学的に無知であったかどうかは別として(彼は死者の状態について知らなかった)、ここでの問題は復讐心です。ハムレットのように復讐の思いを抱くことは誰にもあるはずです。自分が不公平な扱いを受けたり、憎むべき不正が罰せられず、見過ごしにされたりするのを何度も見聞きしているからです。
全知の神が最終的に正しく裁かれることを今週は学びます。神の完全な正義に信頼しましょう。
祭壇の傍らに立たれる主
「わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた。『柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者はひとりもない』」(アモ9:1)。
主は祭壇の傍らに立っておられますが、祭壇がどこかという点では聖書注解者の間でも解釈が分かれていますが、おそらくベテルの祭壇だと思われます。そこはイスラエルの偶像礼拝の中心地でした。神の正義の裁きがまさに不義の民の上に下ろうとしていました。
問1
アモス9:1に書かれている要点は何でしょうか。
神は決して罪を黙認されません。完全に義にして聖なる神が罪を容認することも、見逃すこともありません。しかし神は罪を忍耐されます。これが決定的な違いです。忍耐は黙認や容認とは異なります。むしろその逆で、最終的に神はこの宇宙から罪を完全に、永遠に根絶されます。どのようにして罪人を除去することなく罪を除去することができるのでしょうか。十字架の意味がここにあります。カルバリーにおいて、神は罪人を罰せず、罪を罰することをされたのでした。
問2
十字架において神は罪を滅ぼしたが、罪人を滅ぼしたのではないということをあなたは信じますか。
残念ですが、すべての罪人がその罪から救われるわけではありません。アモス書はこの悲しく、厳しい現実について教えてくれます。最後には、すべての罪が罰せられます。重要な問題は、この刑罰を受けるのがだれかということです。神は十字架によって、私たちがこの刑罰を逃れる道を備えてくださいました。しかし、それは十字架を受け入れるときだけです。受け入れなければ、刑罰が臨みます。これと同じことがアモス書で起こりました。罪から離れよ、という訴えが繰り返されたのに、彼らはその罪のうちにとどまることを選びました。それゆえに、罪が滅ぼされるとき、彼らもまた滅ぼされるのです。
隠れる場所はない―その1(アモ9:2~4)
「たとえ、彼らが陰府(よみ) に潜り込んでも/わたしは、そこからこの手で引き出す。/たとえ天に上っても/わたしは、そこから引き下ろす」(アモ9:2)。
これは恐ろしい言葉ですが、ある意味で慰めを与えてくれる言葉でもあります。なぜなら、最後には神の正義が実現することを教えているからです。いかに悪が満ちあふれようとも、いかに不正がなされようとも、悪を行う者たちは、いつの日かそれに答えなければなりません。この約束は私たちに希望と慰めを与えてくれます。迫害者の手によって苦しんでいる人たちは特にそうです。
問1
次の聖句の共通点を挙げて下さい。ヘブ10:30、黙示20:13~15
私たちの神は正義の神です。正義の実現は遅れているように見えますが、それは私たちが大争闘における神の働きを十分に理解できないからにすぎません。いま理解できないことが多々あったとしても、毎日主に献身する必要があります。たとえ今は理解できないように見える事柄であっても、神はご自身に信頼すべき十分な理由を私たちに与えておられます。理解できる事柄について瞑想すればするほど、またはっきりしている事柄に思いを集中すればするほど、不公平に見える事柄に関して忍耐し、神に信頼することができます。
隠れる場所はない―その2
「主は……助けを求める叫びに耳を傾けてくださる」(詩34:16)。アイザック・ニュートンは最も基本的な運動の法則の一つを確立しました。「すべての作用にはそれと同等の反作用がある」(作用反作用の法則)。私がいくら強く壁を押しても、壁はそれと同じ力で押し返しているというのです。この法則は、ある意味で、霊的な世界にも当てはまります。アモス書9:1~4は、悪人が神の裁きを逃れることができないと教えています。たとえ彼らがどこに逃れようとも、全知全能の神は彼らを探し出されます。
しかし、この法則は逆の方向にも働きます。神は私たちの特別な状況、痛み、悲しみ、恐れをご存知です。もし神から逃れようと望む者たちが逃れることができないのであれば、神の助け、約束、保証を求める私たちはそれ以上に神の守りのうちにあることになります。
問1
次の聖句にはどのような約束が見られますか。マタ18:20、マタ28:20、ロマ8:38、39
共産主義のもとで何年も牢獄(ろうごく) につながれていたリチャード・ブルムブラントは、信仰の驚くべき事実について記しています。多くのクリスチャンが牢獄の中でさえ十分の一を捧げていたというのです。「週に一度、一切れのパンが、また毎日、薄いスープが支給されますが、そのときでさえ、われわれは忠実に『十分の一』を捧げることを決めました。10週に一度、われわれはその一切れのパンを取って、それを主に献げる『十分の一』として、衰弱した兄弟たちにお分けしました」(『キリストのために苦しむ』45ページ)。どんな過酷な状況にあっても、主が共におられると信じる人たちでなければできないことです。
創造主にして破壊者(アモ9:5、6)
問1
「万軍の主」で始まり「その御名は主」で終わるこの聖句に神のどのような属性が強調されていますか。
神は意思と力において独立したお方(詩 115:3参照)、すなわち全能のお方です。神は天の万象の支配者であり、すべての被造物の正当な支配者です。神は天と地においてあらゆる権威を持っておられます(Ⅰペト3:22参照)。アモス書9:5、6は神の力、威厳、権威をはっきりと描写しています。それらはイスラエルの裁きにおいて明確に啓示されるのです。
問2
神の力が「大地に触れる」と何が起こりますか。
ろう神の火は「火の前ののように」地を溶かします(ミカ1:3、4参照)。再臨においてはいろいろな自然の災害が地を滅ぼすために用いられますが、多くの活火山もまた地中からマグマを噴き出します。アモス書 9:5、6はキリスト再臨における出来事を象徴的に描いていると考えられます。
興味深いのは、アモス書9章の5節と6節に見られる違いです。5節では、主が大地を溶かし、それを洪水のように盛り上がらせると書かれていますが、6節では、主が天に高殿を設け、地の上に大空を据えられると書かれています。一方では神が創造者として、他方では神が破壊者として描かれています。これはきわだった対照です。
私たちは神を創造者としてのみ見がちですが、それだけが神の役割ではありません。神は創造者にして破壊者なのです。重要なのは、神が何を創造し、何を破壊されるのかを理解することです。このことを理解するときに、私たちの神がどのようなお方であるかがわかります。
ふるい
「見よ、わたしは命令を下し/イスラエルの家を諸国民の間でふるいにかける。/ふるいにかけても/小石ひとつ地に落ちないように」(アモ9:9)。
ヨーロッパでのある宗教戦争のときのこと、ある村を包囲した司令官が王に向かって、村のだれが味方であり、だれが敵であるかを識別する方法を教えるように要求しました。王は答えました。「彼らをすべて殺すがよい。神が裁きのときに彼らを識別されるであろう」。
これは性急な言葉かもしれませんが、その中にはいくぶん真理が含まれています。「主は御自分の者たちを知っておられる」(Ⅱテモ2:19)。アモス書に描かれた危機に際しても、神は忠実な人を識別されるのでした。
問1
このようなふるいの時にも「もっとも小さい実も地に落ちない」(新欽定訳、英文)とは何を意味しますか。
イエスは毒麦のたとえの中で(マタ13:25~30)、「良い麦と悪い麦」が一緒に育つこと、それらが分けられるのは最後の収穫においてであること、区別をするのは御自身の役割であることを教えておられます。イエスがこのたとえの中で教えておられるのは、人を裁くな、裁きはわたしのすることであるということです。
問2
人が人を裁けないことについて教えている聖句を挙げて下さい。
これらの聖句はアモスに、自分の口を閉じて、自分のことに専念するように教えていると考えることもできます。いずれにせよ、アモスにもこれらの民を裁くことはできませんでした。
まとめ
聖書は裁きについて述べており、この事実を避けることはできません。恐ろしいことですが、神は逃れの道や方法を私どもに啓示しておられます。なぜ私たちはおびえ、心配するのでしょう。キリストの宗教は心の平和を与えるものではありませんか。神だけが公正な審判者です。人がそれをしてはなりません。これが聖書の堅い教えです。
「国民が主の前に集められる時、そこには二つの階級しかないのであって、彼らの永遠の運命は、貧しい者や悩める者を通して主のためにつくしたか、それともつくすことを怠ったかによって決まるのである。
その日には、キリストは、ご自分が人々のあがないのために生命をささげて彼らのためにつくされた大いなるみわざを彼らの前にお示しにならない。主は、人々が主のためになした忠実な働きをお示しになる。主はその右手を置かれる人々にこう言われる、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』(マタイ25: 34~36)。しかしキリストからほめられる人たちは、自分がキリストに奉仕していたことを知らない。彼らのとまどった質問に、主はこう答えられる、『わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』(マタイ25:40)」(『各時代の希望』下巻107、108ページ)。
第13課 回復
第13課 回復
「キリストが弟子たちに、『全世界に出て行って、福音を宣ベ伝えなさい』と言われたとき、ペトロはこう質問したでしょう。『主よ、エルサレムに戻って、あなたを殺した者たちに福音を伝えよと言われるのですか』。主は答えます。『そうだ。行って、わたしの顔につばをかけた人を捜し出し、天国に彼のための場所が用意されていると告げなさい。茨の冠を作り、それをわたしの頭にかぶせた人を捜し出し、彼が天国に来るとき彼のためにとげのない冠を用意していると告げなさい。葦(あし) の棒を取って茨の冠をたたき、わたしの額に食い込ませた人を捜し出し、……もしわたしの救いを受け入れるなら、その手に王の笏を(しゃく) 授けると告げなさい。槍(やり) でわたしのわき腹を刺し通した人を捜し出し、わたしの救いを受け入れるなら、彼を赦し、救いに入れると告げなさい』」(D・L・ムーディ)。
今回は神の回復の約束について学びます。ムーディの言葉は、私たちの仕える神がどのようなお方か、アモス書に啓示された神がどのようなお方であるかを例示しています。神はみ子を十字架につけた者を赦し、救うお方です。新天地のイメージ、新天地を象徴するユダヤ捕囚の終わりとエルサレムへの帰還のことも研究しましょう。
ダビデの仮庵
「その日には/わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し/その破れを修復し、廃虚を復興して/昔の日のように建て直す」(アモ9:11)。
ある人が有名な伝道者のビリー・グラハムに、「あなたは楽観主義者ですか、それとも悲観主義者ですか」と尋ねたことがあります。これに対して、ビリー・グラハムは、「わたしは楽観主義者です。聖書の最後のページを読んでいますから」と答えました。
この答えは当然であり、私たちもそうあるべきです。しかし、聖書の最後のページだけが、神にあって喜び、神の約束に信頼し、将来を楽観視する根拠を与えてくれるのではありません。新約聖書も旧約聖書も、その詩文、散文、歌、手紙を通して、新しい世界、回復された地球についての素晴らしい約束を与えています。それは、万物が正しく、きよく、真実なものとされるときです。すべての不義、汚れ、不正が永遠になくなるからです。
問1
忠実な神の聖徒たちへの最終的な報いを示す聖句を読んでみましょう。イザ25:8、Ⅰコリ15:52、55、Ⅱペト3:13、黙示21:1~7、黙示22:1~5
破壊された所を建て直す―異邦人への福音
「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする」(使徒15:16)。
アモス書の最後の数節(アモ 9:11~15)は神の約束について述べています。それはへブライ民族が不従順のゆえに捕囚となるが、神は元の地に回復してくださるという約束です。
しかし、それで終わりではありません。アモスの時代から何世紀もたってから、ヤコブは使徒言行録 15章の中でアモス書 9:11を引用して大事な福音の真理に適用しました。
問1
エルサレム会議で議長のヤコブはアモス9:11、12を引用して重要な真理を述べました(使徒15:16~18)。使徒言行録 15章を読み、アモスが単にユダヤ人の帰還と回復だけを意味しない、もっと大きな福音の姿を伝えようとしたことを学んでください。
「議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。『兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした』」(使徒 15:7~9)。
アモスは、ユダヤ人が祖国へ帰還することばかりでなく、福音が異邦人に宣べ伝えられることも預言していたのです。初代教会によって開始された異邦人への宣教は、福音が「あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に」(黙示 14:6)宣べ伝えられるときに最高潮に達します。
神はこの世界を完全に回復し、罪から清め、元の計画どおりに、いやそれ以上のものに再創造しようと計画しておられます。私たちにはすべての人によき訪れを伝える責任があります。
耕す者は刈り入れる者に続く
「見よ、その日が来れば、と主は言われる。/耕す者は、刈り入れる者に続き/ぶどうを踏む者は、種蒔(ま) く者に続く。/山々はぶどうの汁を滴ら(したた) せ/すべての丘は溶けて流れる」(アモ9:13)。
直接的には、悔い改めたイスラエルが長年の捕囚の後に祖国に帰るということが述べられていますが、象徴的には、人類の最終的な望み、すなわち神がキリストの死を通して完成してくださった大いなる贖い(あがな) のことが述べられています(ロマ 8:23、エフェ1:14、ヘブ 9:12)。
アモスは13節で、耕す者が刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者が種蒔く者に続く日が来ると述べています。これは、収穫があまりにも多く、豊かなため、次の種蒔きまでに刈り入れることができないことを示しています。言い換えるなら、収穫があまりにも豊かなため、畑を耕す者がまだ刈り入れている者とぶつかるということです。もちろん、これは象徴的な意味であって、実際の意味は、私たちがキリストによって想像もできないほどの素晴らしい祝福を約束されているということです。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(Ⅰコリ 2:9)。
問1
捕囚ユダヤ人の帰還と回復は終末の最終的な贖いの型、または象徴となっています。両者にどのような関連が考えられますか。黙示録 18:1~4の聖句も読んでください。相似点を書き出してみましょう。
新天地の希望
「わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。/彼らは荒された町を建て直して住み/ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み/園を造って、実りを食べる」(アモ9:14)。
ここに田園詩のような美しい光景が描かれています。罪、背信、偶像崇拝、圧迫、堕落、刑罰についての警告に満ちたアモス書の結びにしては信じ難いくらいです。これまでの内容を見ればとても考えられないことです。聖霊の霊感を受けた者にしか預言できません。イスラエル民族は、放っておけばエドム人、モアブ人、エブス人などと共に、とうの昔に歴史の中に埋没していたことでしょう。
同じように、周囲の世界を見渡しても、将来に希望を与えてくれるものはほとんどありません。人間の考え出したユートピアを待ち望んでいるのは一部の楽天主義者だけです。ユートピアを建設しようとしたあらゆる試みが、その甘い言葉とは裏腹に地獄の現実しか生み出さなかったことを見れば明らかです。
たとえ人類がより良い世界を創り出すことができたとしても、科学者の予言によれば、太陽はいずれ爆発します。もしそうなれば、たとえユートピアを創り出しても、何の意味もありません。
幸いなことに、聖書には、愛と力の神がこれまで見たことのない方法で終わりをもたらしてくださることが約束されています。神は必ず実現してくださいます。なぜなら、神がそのように約束し、その約束をご自身の血をもって封印されたからです。
無条件の、永遠の王国
「わたしは彼らをその土地に植え付ける。/わたしが与えた地から/再び彼らが引き抜かれることは決してないと/あなたの神なる主は言われる」(アモ9:15)。
アモス書の最後の節は捕囚後の回復の約束について述べています。それは美しく、希望に満ちた約束ですが条件つきでした(エレ18:7~10参照)。確かにイスラエルは祖国に帰りましたが、何世紀か後には再び故国を失う辛酸(しんさん) な苦痛を経験しました。このことからもアモス書 9:15が神の最終的な回復についての完全な象徴ではないことがわかります。回復された新天地は永遠にわたるものです。
問1
ダニエル7:14、27には、神が最終的に回復されるみ国についてどのように表現されていますか。
キリストの十字架によって神が永遠の王国を確立されるのは疑いの余地がありません。これには何の条件、曖昧(あいまい) さ、疑問もありません。神の国は必ず実現します。キリストの死はそのことの保証です。変更しうる唯一の条件があるとすれば、それは私たち自身の問題であり、私たちの意思、私たちの選択です。あなたはこの無条件の、永遠の王国に入ることを選びますか。
素晴らしい知らせがあります。私たちが神の永遠の王国に入ることができるように、イエスはカルバリーで私たちに代わって死んでくださいました(ヘブ2:9)。イエスの十字架は無条件で、普遍的で、充分なものでした。それは例外なくすべての人のため、また私たちのすべての罪を贖う(あがな) に十分なものでした。取り残される人、見過ごされる人、無視される人は一人もいません。イエスを十字架にかけた人たちでさえそうです。イエスの死はすべての人類を包含します(ロマ5:15~19)――どんな極悪人であっても、です。とするなら、残るのは人間の側の理由だけです。神が私たちのために無条件に成し遂げてくださったことにどう応答するか、です。あなたはそれを受け入れますか、それとも拒みますか。モーセからエレン・ホワイトまで、各時代の預言者たち、またアモスも同じことを訴えてきました。それは、「主を求めて、生きよ」ということです。
まとめ
来るべき神のみ国、完全な救いについて瞑想しましょう。この世に生きる私たちはやがて来る永遠の世界をどれほど待望しているでしょうか。どれほどの価値を期待しているでしょうか。
次の聖句を読んで、主の日に関連した出来事について理解を深めてください。イザ 25:9、ゼファ 1:14、18、マラ3:23(口語訳4:5)、マタ 16:27、25:32、Ⅰテサ 4:16、17、Ⅱペト3:10~ 13
「間もなく、わたしは、天地を振動させる神のみ声を聞いた。大きな地震が起こった。建物はいたるところで倒れた。その時わたしは、大きな、音楽のような、はっきりした勝利の叫びを聞いた。わたしは、ついさきほどまで困惑と捕われの中にあった一団の人々を見た。彼らの束縛は解かれた。彼らの上には栄光の光が輝いていた。その時彼らは、なんと美しく見えたことだろう。心労と苦労のあとはすべて消え、すべての者の顔に健康と美がみなぎっていた。彼らの回りの敵や異教徒は、死人のように横たわっていた。彼らは、救われた聖なる人々の上に輝いた光に耐えられなかったのである。イエスが天の雲にのって来られ、忠実で試みを経た一団の人々がまたたく間に一瞬にして栄光から栄光へと変えられるまで、この光と栄光とは、彼らの上にとどまった。そして、墓は開かれ、聖徒たちが、不死をまとって、『死と墓に対する勝利』を叫んで出てきた。彼らは、生きている聖徒たちと共に天に携えられて、空中で主と会った」(『初代文集』441,442ページ)。
アダムを通してすべての人は滅亡の運命が不可避となりました。キリストを通してその不可避と思ったものは避けられることが確実になりました。アダムによって全世界は有罪とされました。キリストを通して全世界は第2のチャンスを与えられました。この第2のチャンスを私たち個人個人がどう受け取るのかが究極の選択です。十字架によるイエスの救い、み業に私たちはどう応えますか。