目次&この記事について(書籍情報・引用元情報)
第1課 アイデンティティーの危機
第1課 アイデンティティーの危機
低い生垣に縁どられたアイルランドの細い田舎道を車で走っていると、たらふく草を食べてのんびりと家路をたどる牛の群れに道をふさがれることがあります。彼らは、牛飼いがいなくても、主人の牛舎に帰って行きます。自分たちがどこにいるべきであり、だれのものであるかを知っているからです。
幼い男の子が母親からはぐれて、「ママー!」と大声で泣いていたとします。彼は、その店の中の自分がいる場所や母親がいるところはわからなくても、通り過ぎて行く大勢の母親たちの中に、自分の母親だけはちゃんと見つけるでしょう。
残念ながら、ユダヤの民は、幼い子どもやアイルランドの牛でさえ知っていたこと、つまり、彼らが主のものであること、しかも天の主のものであることを忘れたために、契約の民としての真のアイデンティティー(独自性)を失ってしまいました。「わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない」(イザ1:2、3)。
今回は、その民をご自身のもとに連れ戻される神の働きについて学びます。
天よ聞け(イザヤ書1章1節~9節)
イザヤ書は、その著者(「アモツの子」)、メッセージの出所(「幻」)、主題(4人の王の時代のユダとその首都エルサレム)について、手短に紹介しています。イザヤの主な聴衆は、彼が生きた時代の自分の国であるユダの人々です。イザヤは、彼らの状態と運命について語っています。
イザヤが預言者として活動した期間に国を治めた王たちの名前を記すことによって、イザヤは聴衆を限定し、本書を特定の期間の歴史的・政治的諸事件に結びつけています。その期間は、列王記下15~20章と歴代誌下26~32章に示されている時代です。
問1
イザヤ1:2で主が言われたメッセージの本質は何ですか。神の民の歴史すべてに当てはまるこのメッセージは、今日のキリスト教会についても当てはまりますか。
イザヤのメッセージは、「天よ聞け、地よ耳を傾けよ」という言葉で始まっていることに注目してください(申30:19、31:28と比較)。これは、字義通り天と地が聞き、理解するという意味ではなく、強調のためです。
ヒッタイトの皇帝のような古代の中近東地方の王が格下の支配者と政治的な条約を結ぶ際には、条約違反は必ず罰せられることを強調するため、自分の神々を証人として引き合いに出しました。しかし、王の王なる神が、モーセの時代にイスラエルの民と契約を結んだ際には、証人として他の神々を用いることはありませんでした。唯一の、まことの神であられるお方は、天と地に証人としての役割をお与えになりました(申4:26参照)。
腐敗した儀式主義(イザヤ書1章10節~17節)
問2
イザヤ1:10を読んでください。ここで主は、ソドムとゴモラを比喩表現として用いることによって、何を語っておられるのでしょうか。
問3
イザヤ1:11~15を読んでください。主はご自分の民に何を語っておられますか。主はなぜ、彼らの捧げる礼拝を退けられたでしょうか。
人々は、犠牲を捧げた「血にまみれた」その同じ手を祈るために上げました。それは暴力と虐待という罪に汚れた手でした(イザ1:15、58:3、4)。彼らは、同じ契約の民を虐待することによって、イスラエル人すべての保護者である神を侮辱していました。他の人に対する罪は、主に対する罪だからです。
犠牲制度を定め(レビ1~16章)、エルサレムの神殿をその場所として定められたのは、神ご自身でした(王上8:10、11)。しかし、これらの儀式は、ご自分の民と結ばれた契約に従って行われるように意図されたものでした。神とイスラエル人との契約によって、神が聖所または神殿において、彼らの間にお住みになることが可能になったのです。ですから、彼らが神とその契約に忠実である限り、そこで行われる儀式と祈りは効力を持っていました。同じ契約の民に対する正しくない行為を悔い改めないまま犠牲を捧げる者たちは、儀式を偽りのものにします。ですから、彼らの犠牲は無効であったばかりでなく、罪でした。彼らの儀式行為が自らの忠誠を示していても、行動は契約を破っていることを証明していたからです。
赦しについての議論(イザヤ書1章18節)
問4
イザヤ1:18を何度も読んで、ここで主が言われていることを書いてみましょう(文脈をつかむために必要なら、その前後の数節も読んでみてください)。
神は、ユダの民の契約違反の罪の確かな証拠を挙げて(イザ1:2~15)、彼らに改革を迫ります(同16、17節)。この訴えは、彼らにまだ希望があるからでした。死刑に値する犯罪者に改心を迫るでしょうか。死刑の順番を待っている囚人がどうして「搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護」できるでしょうか(同17節)。しかし、神が「論じ合おうではないか」と言われるとき(同18節)、私たちは、主がなおも、彼らがどんなに堕落していようとも、ご自分の民と論じ合い、彼らを悔い改めと回心に導こうとしておられることを知るのです。
主は彼らに、「おまえたちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる」と言われます。なぜ罪は赤いのでしょうか。赤は、民の手をおおう「血」(流血の罪)の色だからです(イザ1:15)。これに対して白は、流血の罪のない状態、純潔を表す色です。神はここで、私たちは変わることができると言われます。これは、ダビデ王がバト・シェバを奪い、その夫を殺した罪の赦しを神に求めたときに用いたのと同じ言葉です(詩51:9、16〔口語訳51:7、14〕)。神はイザヤ1:18で、ご自分の民に赦しを与えようと論じておられるのです。
問5
神の赦しの申し出が、同時にその民に回心を迫るのはなぜですか(イザ1:18を44:22と比較)。
ここに、ご自分の民に対する神の厳しい警告の目的が示されています。それは神の民を拒むためのものではなく、むしろ彼らを神のところに連れ戻すためのものです。神の赦しの申し出は、民に自らを道徳的に清めるようにと迫る神の訴えです(イザ1:16、17)。神の赦しは、その民が神の力によって造り変えられるのを可能にします。ここに、エレミヤ31:31~34に預言されている「新しい契約」の始まりを見ることができます。新しい契約においては、赦しが、新しい心をつくる神との関係の土台となるのです。私たちは、決して返済することのできない負債を負ったまま出発するのです。謙虚に赦しの必要を認めるときに、神が与えてくださるあらゆる祝福にあずかる準備ができるのです。
食うか食われるか(イザヤ書1章19節~31節)
問6
イザヤ1:19~31を読んでください。ここに示されている、聖書全体を通して語られている主題は何でしょうか。
イザヤ1:19、20の論理構造に注目してください。もし、民が快く神に従うなら、地の良き物を食べます(19節)。対照的に、もし神の赦しと回復の申し出を拒み、神に背くなら、剣の餌食になります(20節)。決めるのは彼ら自身です。したがって、これらの聖句は条件付きの祝福と呪いを含んでいます。
イザヤ1章には、申命記30:19、20にあるイスラエルの民との契約を記したモーセの言葉が用いられています。「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く」(申30:19)。
問7
モーセの言葉に注目してください。そこには、中立的な立場はありません。命か死、祝福か呪いのどちらかです。なぜ妥協は許されず、二つのうちの一つしか選択できないのでしょうか。
これらのモーセの言葉は、申命記27~30章に記された一連の警告、祝福、呪いを結びつけ、要約するものです(レビ26章と比較)。この契約に含まれる要素を挙げてみましょう。
(1)イスラエルのためになされた神のみ業の確認(2)契約を維持するために守るべき条件・規定〈命令〉(3)証人(4)契約条件を守ることによる祝福と、違反への警告のための呪い
これらの要素は、ヒッタイト人のようなイスラエル以外の民族の政治的条約にも同じ順序で出てきます。つまり、神はイスラエルと契約を結ぶに当たって、彼らが自ら選んで相互に結ぶ契約関係ですから、理解しやすく印象に残りやすい形式を用いることによって、その本質とその結果をできるだけ強く印象づけようとされたのでした。この契約が持つ潜在的な恩恵は、圧倒的ともいえるものでした。しかし、イスラエルが同意した契約を破るなら、かつてないほどの困窮を招くのでした。
不吉な愛の歌(イザヤ書5章1節~7節)
イザヤ5:1~7の歌のたとえを読んでください。神は7節で、やっとこのたとえの意味を説明されます。このたとえの目的は、イスラエルの民が自らを客観的に眺めることによって、彼らの真の状態を知るためでした。神はダビデ王に対してもこの手法を効果的にお用いになりました(サム下12:1~13参照)。神はこのたとえを「愛の歌」と呼ぶことによって、イスラエルに対するご自身の思いを明らかにされています。神とイスラエルとの関係は、神のご品性、すなわち愛に基づいています(1ヨハ4:8)。神は彼らに愛の応答を期待しておられましたが、神が収穫したのは「良いぶどう」ではなく、ヘブライ語では「悪臭のするもの」を意味する「酸っぱいぶどう」でした。
問8
「わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか」(イザ5:4)というみ言葉を通して、主は何を語ろうとしておられるのでしょうか。
神は、次の節で次のように言われます。「さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ/わたしはこれを見捨てる」(イザ5:5、6)。
私たちが罪を犯しても、神はみ守りを取り去って滅びるままにし、私たちをすぐにご自分から切り離されることはありません。神は忍耐強く、私たちが神の赦しを受け入れるチャンスをお与えになります(2ペト3:9参照)。神は、ご自分の訴えに応える人を切り捨てることはありません。人の中に応答の望みがある限り、訴え続けられます。神は、私たちの「いいえ」をそのまま受け取られません。なぜなら、私たちが無知で、罪によって欺かれていることをご存知だからです。しかし、もはや応答の余地はないと見ると、神は最終的に私たちの選択を認めて、私たちが選んだ道を行くままにされます(黙22:11参照)。
聖霊を通して聞こえる神の訴えを頑なに拒み続けるなら、私たちは結局、戻れない一線を越えることになります(マタ12:31、32)。キリストから離れることは、危険です(ヘブ6:4~6)。神がどうしてもおできにならないことがあるのは、私たちが自由な意思で選択することを尊重されるからです。
さらなる研究
イザヤ1:4に関連して、エレン・ホワイトは次のように記しています。
「神の民を自認する民は神から離れ、その知恵を失い、その判断力をゆがめてしまった。彼らは、古い罪から清められた過去を忘れて思い起こすことができなかった。彼らは、以前の自由、確信、幸福についての記憶を消し去ろうとして闇の中を、不安を抱えてあてどなく歩き回った。彼らはあらゆる無遠慮で、向こう見ずな狂気に飛び込み、神の摂理に逆らい、すでに負っていた罪を増し加えた。彼らは神の品性を攻撃するサタンの声に従い、神には憐れみと赦しがないと非難した」(『SDA聖書注解』第4巻1137ページ、英文)。
まとめ
神の民が主を忘れ、その祝福を当たり前のことと感じるとき、神は彼らに主と結んだ契約の責任を思い起こさせられます。憐れみ深い神は、民の状態をお示しになり、主のみ守りが取り去られたときの壊滅的な結果について警告し、主にいやし、清めていただくように民に強く迫ります。
第2課 指導者の危機
第2課 指導者の危機
弟子の1人から、良い政治に欠かせないものについて尋ねられた時、孔子は次のように答えました。「十分な食物、十分な武器、それに人民の信頼です」
弟子は尋ねました。「では、これら三つの中からどうしても一つ除かねばならないとしたら、どれを除かれますか」
「武器です」と孔子は答えました。
弟子は、なおも尋ねました。「では、残りの二つの中からさらに一つ除かねばならないとしたら、どれを除かれますか」
孔子は答えました。「食物です。人民は、昔から飢えには慣れています。しかし、人民が指導者を信頼しなくなったら終わりです」(マイケル・P・グリーン編『説教のための1500の例話』215ページ、1989年、英文)。
人々は強力で、信頼できる指導者を求めます。
ある兵士が二度目の兵役に応募したところ、募集係が再入隊の理由を尋ねました。兵士は答えました。「民間の生活をしようとしましたが、あそこには良い指揮官がいないんです」
今回は、ユダ王国における指導者の危機と、その悲しい結末について学びます。
ウジヤ王の死
問1
イザヤ6:1には、ウジヤ王の死について書かれています。歴代誌下26章を読み、ウジヤ王の死の意味について考えてください。
ウジヤ王の死から、次のような異なる見方ができます。
(1)ウジヤ王の統治は長く、繁栄に満ちたものでしたが、「勢力を増すとともに思い上がって堕落し」、神殿で香をたこうとしました(代下26:16)。香をたくことができるのは、アロンの子孫の祭司だけです(同18節)。祭司たちが王をとどめようとしましたが、主は、王がこの譴責を拒んだその瞬間、直ちに重い皮膚病をもって打たれました。「ウジヤ王は死ぬ日までその重い皮膚病に悩まされ、重い皮膚病のために隔離された家に住んだ。主の神殿に近づくことを禁じられたからである」(同21節)。皮肉なことに、イザヤが神の家・神殿の中で、聖にして不死の天の王の幻を見たのは、汚れた人間の王が死んだ、まさにその年でした。
(2)ウジヤとイザヤの間には、大きな違いが見られます。ウジヤは僭越にも、誤った動機(高慢)から清めを受けようとしましたが、汚れた者となり、清めから断たれました。一方、イザヤは神の清めが近づくのを待ちました。彼は、謙遜に自分の弱さを認め、道徳的な清めを慕い求め、それを受けました(イザ6:5~7)。イエスのたとえに出てくる徴税人のように、彼は義とされて帰りました。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18:14)。
(3)重い皮膚病にかかったウジヤの体と、神の民の道徳的状態には、驚くほどの共通点が見られます。「頭から足の裏まで、満足なところはない。打ち傷、鞭のあと、生傷は/ぬぐわれず、包まれず/油で和らげてもらえない」(イザ1:6)。
(4)ウジヤ王の死(紀元前740年頃)によって、神の民は指導者がいないという大きな危機に直面しました。絶対的支配者が死ぬと、権力が移行する間、その国は敵の攻撃を受けやすくなります。ユダ王国は、特にそうでした。というのは、紀元前745年に即位したアッシリアの王、ティグラト・ピレセル3世は、軍隊によって自国を無敵の超大国にし、中近東地域の諸国を脅かしていたからです。このような危機に際して、すべてはなお神の支配の下にあることを示すことによって、神は預言者イザヤを励まされたのでした。
「聖なる、聖なる、聖なる」(イザヤ書6章1節~4節)
イザヤ6章の最初の4節で起きている出来事に注目してください。王は、アッシリア軍が攻め上って来るという政治的大混乱の中で死にます。イザヤにとって、だれがこの国を支配しているかわからない、不安な時だったに違いありません。
その後、どうなったでしょうか。イザヤは幻の中で、み座の上に光り輝く神の栄光を見、輝くセラフィムたちが「聖なる、聖なる、聖なる」と互いに歌い交わすのを聞きます。神殿の床が揺れ動き、神殿が渦巻く煙に満たされます。これは預言者にとってすばらしい経験だったことでしょう。イザヤは今、周囲に何が起ころうとも、神がすべてを支配しておられることを確かに知るのでした。
問2
この幻の中で、主はどこにおられましたか(イザ6:1)。主がその場所でイザヤにご自身を現されたのは、なぜですか(出25:8、40:34~38)。
エゼキエル、ダニエル、ヨハネが幻を受けたのは、捕囚となっている時でした(エゼ1章、ダニ7:9、10、黙4、5章)。イザヤと同様、彼らはみな、世界の混乱の中にあっても、神がすべてを支配しているという特別な慰めと励ましを必要としていました(ダニエルとエゼキエルは、自国を滅ぼした異教の国で捕囚となり、ヨハネは敵対する政治権力によって流刑に処されていました)。神からの幻が、このような危機的状況の中でも、信仰に留まるに十分な保証を与えたはずです。
「イザヤが、この主の栄光と威光の啓示を見た時に、彼は、神の純潔さと神聖さとに圧倒された。彼の創造主の無比の完全さと、自分も含めてイスラエルとユダの選民の中に長い間数えられていた人々の罪深い行いとの間には、なんと大きな相違があったことであろう」(『希望への光』505ページ、『国と指導者』上巻271、272ページ)。
ヨハネが描いている天の神殿は、イザヤの見たそれとよく似ています。黙示録4:8に出てくる4つの生き物は、それぞれ6つの翼を持ち、やはり「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と歌います〔イザ6:2、3と比較〕。
イザヤの幻に強調されている神の超越した神聖さは、彼のメッセージの基本にあるものです。神は聖なるお方であり、ご自分の民にも聖さをお求めになりますが、悔い改めて悪の道から離れ、信仰によってその道を主にゆだね、主に従う人々には聖さを与えてくださるのです。
新しい人格(イザヤ書6章5節~7節)
聖所・神殿において、大祭司だけが贖罪日に至聖所で神のみ前に近づくことができました。彼は、神の栄光に打たれて死なないように、香の煙幕が必要でした(レビ16:2、12、13)。しかし、大祭司でないイザヤが、香もたかずに主を見ます。煙で満たされた神殿は(イザ6:4)、贖罪日に現れた神の栄光の雲を思い起こさせます(レビ16:2)。恐れに打たれ死ぬと感じたイザヤは(出33:20、士6:22、23と比較)、自分と民の罪を認めて叫びますが(イザ6:5)、これは贖罪日における大祭司の告白を思い起こさせます(レビ16:21)。
「彼は、至聖所の中の神の臨在の満ちあふれる光の中に立ったように思われたので、もし彼自身の不完全さと無能さのままに放任されるとするならば、彼が、召された任務を完成することは、とうてい不可能であると自覚した」(『希望への光』505ページ、『国と指導者』上巻272ページ)。
問3
セラフィムが、祭壇から取り出した燃える炭火を用いて、イザヤの唇を清めたのはなぜですか(イザヤ6:6、7)。
セラフィムの説明によれば、預言者の唇に触れることによって、彼の咎と罪は取り除かれました(イザ6:7)。唇は言葉だけでなく、それを語る人全体を象徴します。ここで、罪の種類は明記されていませんが、悪い言葉に限定する必要はありません。道徳的な清めを受けたイザヤは、晴れて神に聖い賛美を献げます。
火は不純物を焼き尽くすので、清めに用いられます(民31:23参照)。しかしここで、セラフィムは祭壇の特別な聖なる火から取り出した炭火を用います。それは、神ご自身が灯した火であって、永久に燃え続けました(レビ6:5〔口語訳6:12〕)。セラフィムは、イザヤを清めると同時に、聖なる者としたのです。聖所または神殿での礼拝において、祭壇から炭火を取り出す主な理由は、香を燃やすことでした。レビ記16:12、13では、大祭司が祭壇から取り出した炭火の入った香炉を取り、それで香に火をつけます。しかし、イザヤ6章では、セラフィムは炭火を香にではなく、イザヤに触れさせています。ウジヤ王が自ら香をたくことを求めたのに対して、イザヤ自身が香になったのです。聖なる火が聖なる香りで神の家を満たすために香を燃やしたように、聖なるメッセージを宣べ伝えさせるために預言者の心を燃やしたのでした。イザヤ6章の8節以降で、神がイザヤを民のもとに遣わしておられるのは、偶然ではないのです。
神による任命(イザヤ書6章8節)
「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」(イザ6:8)。
清められた後、イザヤは直ちに神の召しに応え、神の代表者として遣わされます。イザヤは、新約聖書でいう使徒、つまり「遣わされた者」として召されたのです。
他の預言書では、預言者として召しを受ける描写で始まっていますが(エレ1:4~10、エゼ1~3章と比較)、おもしろいことに、イザヤ書はそうではありません。言い換えるなら、彼は6章の出来事以前に、すでに預言者として召されていたと考えられます。聖書には、出エジプト記34章のモーセ、列王記上19章のエリヤなど、宣教の働きが始められた後に、神によって預言者が励まされた記述があります。通常、神がふさわしい人に預言者になるように告げられるのに対して、イザヤ6章では、イザヤが自発的に、特別な使命のために志願しています。イザヤ1~5章は、イザヤが初めて召された時のユダの状態を記しています。その後、神は神殿でイザヤを励まし、神の預言者としての使命を再確認させることによって、宣教の働きを始めさせられたのでした。
問4
神は、ご自分の神殿でイザヤを励まされました。神の聖所が励ましの場であることに関して、聖書は他に何を語っていますか(詩73:17、ヘブ4:14~16、10:19~23、黙5章)。
神の聖所は、その恐るべき力が脈打つところであるばかりでなく、私たちのような弱く、欠点だらけの人間にとって、逃れの場でもあります。神が大祭司なるキリストを通して、私たちを救うために働いておられることを知るとき、私たちの心は安らぎます。
ヨハネもまた、のどを切り裂かれ、屠られた犠牲の小羊によって表されるキリストを見ました(黙5:6)。これは気持ちのいい光景ではありません。この描写は、キリストが死から復活し、天に昇られてもなお、十字架の出来事をご自身のうちにとどめておられることを意味しています。主は今なお、すべての人を、祭壇の上のご自身に引き寄せるために、あげられているのです。
驚くべき勧告(イザヤ書6章9節~13節)
問5
神がイザヤを再度任命し、この不思議なメッセージをご自分の民に伝えるように命じられたのは、なぜですか(イザ6:9、10)。
私たちが、イザヤが聞き違いをしたとか、あるいはこのメッセージがあまり重要でないなどと考えることがないように、イエスはこれらの聖句を引用して、ご自分がなぜたとえを用いて語るのかを説明しておられます(マタ13:13~15)。
神は、だれ1人滅びることを望まれません(2ペト3:9)。神がイザヤをユダの民に、またイエスをこの世に遣わされたのは、このためでした。神の願いは、滅ぼすことではなく、とこしえに救うことです。しかし、神の訴えに積極的に応答する人々がいる一方で、頑なに拒む人々もいます。それでも神は、彼らに悔い改める機会を与えるために、何度も何度も訴え続けられます。
モーセ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、そしてキリストのような牧者の役割は、たとえ民がメッセージを拒んだとしても訴え続けることにあります。神は、エゼキエルに言われました。「彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう」(エゼ2:5)。神とその僕たちの役割は、公平な選択の機会を民に与えることにあります。そうすれば、たとえ彼らが最終的に滅びと捕囚の人生を選ぼうとも(イザ6:11~13)、必要な警告を受けることはできるでしょう(エゼ3:16~21と比較)。
問6
これらのことを念頭において、ファラオの心を頑なにされた神の役割について、私たちはどのように理解すればよいでしょうか。
出エジプト記4:21で神は、「わたしがファラオの心をかたくなにするので」と言っておられます。これは同じように、神がファラオの心を頑なにすると9回語られたうちの1回です(出8:11、28〔口語訳8:15、32〕、出9:34参照)。
ファラオは、明らかに自由意思を持っていました。そうでなければ、彼は自分の心を頑なにすることはできなかったでしょう。
さらなる研究
「各階層に邪悪な風習が広く行きわたっていたので、神に忠実であったわずかな人々は、誘惑に負けて気落ちし、失望落胆に陥るのであった。イスラエルに対する神の目的は、失敗したかのように思われ、反逆した国家は、ソドム、ゴモラと同様の運命に陥るかのように思われたのである。
ウジヤの治世の晩年のこうした状態の下で、イザヤが、神の警告と譴責の使命をユダに伝えるように召された時に、その責任を回避しようとしたのは驚くに当たらない。彼は、かたくなな抵抗に会うことをよく知っていた。彼が、事態に当面する自己の無能と彼が働きかけなければならない人々のかたくなさと不信とを考えたときに、彼の任務は、絶望的に思われるのであった。彼は、失望して、その任務を放棄し、偶像礼拝をなすがままにユダを放任しておくべきであろうか。ニネベの神々が天の神に反抗して地を支配するのであろうか」(『希望への光』505ページ、『国と指導者』上巻271ページ)。
まとめ
人間のリーダーシップの弱さが痛いほど明白な、この不確かな時代にあって、イザヤは宇宙の至高のリーダーであるお方のすばらしい幻を与えられました。欠点だらけで、ただ石のように立ちすくむしかなかった者であったイザヤは、憐れみによって清められ、力を与えられ、神の使者として敵の陣地に向かって前進する準備ができたのでした。
第3課 あなたの世界が危機に直面するとき
第3課 あなたの世界が危機に直面するとき
ある安息日のこと、教会が終わり、車に乗ったコニーとロイが、家へと続く私道に入った時でした。突然、一羽のチャボが狂ったように庭を横切って、車の前に飛び出したのです。きっと何かあったに違いありません。安全な檻の中にいるはずのペットの鳥たちが、外に出ているのですから。調べてみると、悲劇は進行中でした。隣家から逃げ出した子犬のベートーベンの口に、デイジーがくわえられています。デイジーは、ふわふわの白い尾羽の美しいめんどりです。コニーはデイジーを子犬から取り返しましたが、すでに手遅れでした。コニーの可愛いペットは首をかみ砕かれ、腕の中で息絶えました。彼女は死んだデイジーを抱えたまま座り込み、声をあげて泣くばかりでした。
この事件は、他のペットたちも混乱に陥れました。背の高い白いアヒルのワドルスワースは、死んだデイジーを抱いているコニーを見て、彼女がデイジーを殺したのだと勘違いしました。それから数週間というもの、ワドルスワースはコニーを見るたびに、その頑丈なくちばしで激しく彼女をかむのでした。このように、友と敵を見分けることは、時に難しいものです。
今回は、同じような問題に直面したユダの王について学び、彼がなぜ誤った選択をしたのかを考えます。
北の脅威(イザヤ書7章1節~9節)
問1
アハズ王は、その治世の初めに、どんな危機に直面しましたか(王下15:37、38、16:5、6、イザ7:1、2)。
北イスラエル王国(エフライム)とシリア(アラム)が団結して南の小国ユダを攻めたのは、ユダ王国がエドム人とペリシテ人の攻撃によって弱体化していた時でした。過去にも、ユダがイスラエルと戦火を交えたことがありました。その時、イスラエルとシリアの同盟は、アッシリアの圧倒的な脅威に脅かされていました。イスラエルとシリアは、拡大し迫り来るアッシリアのティグラト・ピレセル3世(王下15:19では「プル」)の強大な軍隊に対抗するために、ユダを彼らの連合に引き込もうと考えました。この最大の危機を前に、イスラエルとシリアは長年にわたる両国間の抗争を休止しました。彼らがユダを征服し、この国の操り人形のような王を送り込むことができれば(イザ7:5、6)、その資源と人材を活用できるからでした。
問2
この危機に直面した時、アハズ王はどのような解決策に打って出ましたか(王下16:7~9、代下28:16)。
アハズ王は、神だけが国と自身を救うことのできる唯一の友であることを忘れて、彼の敵の敵であるティグラト・ピレセル3世を友に選びます。アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世は、シリアとイスラエルの連合軍に対する救援要請に喜んで応じます。アハズ王から多くの賄賂を受け取ると同時に、シリアを攻める絶好の口実を得て、直ちにそれを実行に移しました(王下16:9)。シリアとイスラエルの連合は崩壊し、アハズ王はユダ王国を救ったかのように見えました。
アハズ王のこの行動は、驚くには当たりません。彼は、歴代のユダの王の中でも最悪の王の1人だったからです(王下16:3、4、代下28:2~4参照)。
妨害の企て(イザヤ書7章3節~9節)
アハズ王が、イスラエルとシリアの脅威に対処するために、政治的な選択を検討していた時、アハズ王の知らない神の摂理がありました。
問3
主はなぜ、イザヤに息子のシェアル・ヤシュブを連れて行くように言われたのでしょうか(イザ7:3)。
アハズ王は、イザヤから「残りの民は帰る」という名の息子を紹介されて、ドキッとしたことでしょう。だれの残りの民で、どこから帰るというのでしょうか。その息子の父は預言者なので、その名は捕囚になろうとしている民についての、神からの不吉な預言のように響いたことでしょう。あるいは、この名は「悔い改め」の意味で、神に帰ることを意味したはずです(「帰る」は悔い改めも意味します)。アハズに対する神のメッセージは、「あなたが決める通りになる。あなたの罪から離れなさい。そうしなければ捕囚となる。そして残りの民は捕囚から帰る。決めるのはあなたである」というものでした。
問4
神のメッセージは、アハズ王の置かれた状況をどのように述べていますか(イザ7:4~9)。
シリアとイスラエルの脅威は去り、ユダは守られました。しかし、アハズ王は正しい決定を下すために、主と主の約束に信頼するべきでした。彼が確かにされるためには、信じる必要がありました(イザ7:9)。「信じる」と「確かにされる」という言葉は、同じヘブライ語の語源を持っており、「真理」(「信頼すべきもの」の意)と「アーメン」(「真実で信頼すべきものに賛同する」の意)も、同じ語源から派生した言葉です。アハズ王は、確かなものとされるために、主のみ言葉を確かにする必要がありました。信頼されるものとなるために、主に信頼する必要がありました。
新たな機会(イザヤ書7章10節~13節)
アハズ王は、イザヤの信仰の求めに応えませんでした。そこで、憐れみに富む神は、王に新たな機会として、「深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」(イザ7:11)、主なる神にしるしを求めるように告げられます。これは、かつて人間に与えられた中で、最高の信仰への招きの一つです。
問5
アハズ王がしるしを求めなかったのは、なぜですか(イザ7:12)。
一見、アハズ王は敬虔で、礼儀をわきまえた答えをしたように思えます。彼は、何世紀も前に荒野を放浪したイスラエル人のように、神を試そうとはしませんでした(出17:2、申6:16)。しかし大きな違いは、神のほうからアハズに、ご自分を試すように招かれたことです(マラ3:10と比較)。神の忍耐を試すことではなく、神の圧倒的なほど寛大なお申し出に応えることこそが、神に喜んでいただけることなのです。しかし、アハズは、信頼する新たな機会を与えてくださった神の助けを受けようとしませんでした。彼は、自分の心の扉にかんぬきをかけ、釘を打ち、信仰を締め出したのでした。
問6
イザヤ7:13で、イザヤは何と言っていますか。
アハズは、神を試すことを拒むことによって、外面的には神を煩わせないようにしているようで、実はそのことが神を煩わせているのだ、とイザヤは指摘します。しかし、この節で最も難解な点は、イザヤがイザヤ7:11で、アハズ王に対して、主なる「あなたの神」にしるしを求めよ、と言っているのに対して、同13節では、はっきりと「わたしの神」をも……と言っていることです。アハズが天の申し出を拒んだ時、彼は主を「わたしの神」とすることを拒んだのです。この時、主はイザヤの神ではありましたが、アハズの神ではなくなったのでした。
「男の子」のしるし(イザヤ書7章14節)
「深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」(イザ7:11)しるしを求めよとの神の申し出は、アハズ王を動かしませんでした。そこで今度は、神ご自身がしるしを与えると仰せになりました(同14節)。私たちは、神の想像力のみが考え出すことのできる、息をのむような次元のしるしを思います(イザ55:9、1コリ2:11と比較)。
驚くべきことに、そのしるしとは「男の子」です。しかし、どのようにして若い未婚の女性が子どもを産み、その子を「インマヌエル」と呼ぶことが聖書の重要なしるしなのでしょうか。
問7
この女性は、そしてその子どもはだれですか。
旧約聖書における、しるしの成就の可能性を考えてみたいと思います。
(1)「おとめ」という言葉が結婚適齢期の若い女性を指すことから、このおとめはエルサレムに住んでいる既婚の女性であり、おそらくイザヤの妻であろうと考える意見も多くあります。
(2)「インマヌエル」が、次に王となるアハズの子ヒゼキヤを指すと考える意見もありますが、ヒゼキヤを「インマヌエル」と呼んでいる記述はありません。
(3)「インマヌエル」がどこか神秘的であること、またこの名前が一般的に「神われらと共にいます」と訳され、神のご臨在を表すことから、彼はイザヤ9章と11章に預言されている特別な「男の子」を示すと考えることができます。
(4)適齢期の未婚の女性から生まれた子は、正式の婚姻関係でない男女の間に生まれた非嫡出子ということになります(申22:20、21参照)。
これに対して、新約聖書は、イエスを無垢な「男の子」、「インマヌエル」であると確認しています(マタ1:21~23)。婚約中で未婚の処女から奇跡的に生まれたイエスは、神のみ子であり(イザ9:6、マタイ3:17)、エッサイの「株」・「根」です(イザ11:1、10、黙22:16)。アハズ王の時代に、将来の救い主を象徴する「インマヌエル」という名の人がいたかもしれません。それは、私たちの知る由もないことです。私たちが知らなければならないことは、私たちと共におられる神を示すために、「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ」られたという事実です(ガラ4:4、口語訳)。
「神われらと共にいます」(イザヤ書7章14節)
「インマヌエル」という名前は、単なる抽象的な表現ではなく、「神われらと共にいます」という約束が成就されたことの確証です。
問8
神が私たちと共におられる約束は、私たちにとってなぜ重要なのでしょうか。
これほどの安心と慰めはありません。神は、その民に、耐えなければならない困難や苦痛は与えないとは、約束されていません。神は、「彼らと共にいる」と約束しておられるのです。詩編記者は言います。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」(詩23:4)。
「主は言われます。『水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない』(イザ43:2)。
バビロニア人がダニエルの3人の友だちを火の中に投げ込んだ時、主はどこにおられたのでしょうか。彼らと共におられたのです(ダニ3:23~25)。ヤコブが夜明けまで主と格闘した試練の時は、どこにおられたのでしょうか。それ以上近づけないほど近いところである、ヤコブの腕の中におられたのです(創32:24~30)。
主は、肉体を取った姿で地上におられなくなった今も、ご自分の民と共に、その経験を分かち合っておられるのです。群衆がステファノに詰め寄った時、主はどこにおられたのでしょうか。『神の右に立っておられ』たのです(使7:55)。しかし、主は天に昇られた時、『天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きに』なったのではなかったでしょうか(ヘブ1:3)。ステファノの苦難の時に、まさに石で撃ち殺されようとしていたその時に、なぜ主はただ立っておられたのでしょうか。モーリス・ヴェンデンが言ったように、『主はただ座ってそれを見ていることができなかった』からなのです」(ロイ・ゲイン『欠点だらけの神の英雄達』66ページ、1996年、英文)。
さらなる研究
「『その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。神われらと共にいますという意味である』(マタイ1:23)。『神の栄光を知る知識』は、『イエス・キリストの顔』にみられる(2コリント4:6)。永遠の昔から、主イエス・キリストは天父と一つであられた。キリストは、『神のみかたち』、神の偉大さと尊厳のみかたち、『神の栄光のかがやき』であられた。キリストがこの世にこられたのは、この栄光をあらわすためであった。神の愛の光をあらわすために、すなわち『われらと共にいます』神となるために、キリストは、罪のために暗くなったこの地上においでになった。だから、『その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』とイエスについて預言された」(『希望への光』675ページ、『各時代の希望』上巻1ページ)。
「もしアハズが、この言葉を天からのものとして受け入れたならば、ユダ王国は幸福だったことであろう。しかしアハズは、肉の腕に頼り、異邦人の助けを求めることにしたのである。彼は、自暴自棄に陥って、アッスリヤの王、テグラテピレセルに使者をつかわして言わせた。『わたしはあなたのしもべ、あなたの子です。スリヤの王とイスラエルの王がわたしを攻め囲んでいます。どうぞ上ってきて、彼らの手からわたしを救い出してください』(列王記下16:7)。この願いには王の家の倉と神殿の倉庫から、おびただしい贈り物が伴っていた」(『希望への光』513ページ、『国と指導者』上巻294ページ)。
まとめ
神は、不信仰な王アハズを難しい判断を迫る環境に置かれました。信じるか信じないか、それが彼に与えられた問題でした。主は、彼の想像力で理解できるしるしを与え、さらに信じる理由を求めることさえお許しになられたのに、彼はそれを拒み、主を信じる代わりにアッシリアの王を「友」に選んだのでした。
第4課 厳しい道
第4課 厳しい道
「ニューヨークのハーレムの燃えさかるビルの4階の窓に、盲目の少女が取り残され座っています。消防隊員にとって、状況は絶望的でした。ビルの間は狭く、はしご車は入れません。救助用のネットを張っても、少女が飛び降りるのは無理でしょう。見えないのですから。
少女の父親がようやく到着し、下にはネットがあるから合図をしたら飛び降りなさいと拡声器を使って叫びました。少女は飛び降りました。四階の高さから。しかも、彼女は完全にゆだね、力を抜いていたので、骨1本折れず、捻挫さえなかったのでした。彼女は父親を完全に信頼し、父親の言うことは最善だと信じていたので、飛び降りることができたのでした」(マイケル・P・グリーン編『説教のための1500の例話』135ページ、英文)。
同じように、神はご自分の子らに、主がお望みになることが最善であることがわかるように、明白な証拠をお与えになりました。しかし、彼らは、最初の流れるような優しい神の声を拒みました。そこで神は代わりに、大水のとどろきと洪水のような声をもって、彼らにお語りになったのでした。
今日、私たちは、彼らの失敗から何を学ぶことができるでしょうか。
実現した預言(イザヤ書7章14節~16節)
イザヤ7:14~16で、このしるし、「インマヌエル」は、アハズ王が抱えていたジレンマと関係があります(イザ7:16)。これは、シリアと北イスラエルの領土と王たちを指し(同1、2、4~9節)、彼らの権力が間もなく消滅するという神の約束を繰り返しています。
問1
イザヤはなぜ、幼子が食べる「凝乳と蜂蜜」に言及しているのでしょうか(イザ7:15)。
ユダの農作物と畑は、アッシリア人によって荒らされます(イザ7:23~25)。そこで、人々と旧約聖書の「インマヌエル」は(同14、15節)、遊牧民の食事に戻ることになります(同21、22節)。しかし、貧しくても生き延びるに十分な食事が与えられます。
問2
シリアと北イスラエルについてのこの預言は、いつ成就しましたか(王下15:29、30、16:7~9、代上5:6、26)。
この預言が、紀元前734年頃イザヤに与えられました。ティグラト・ピレセル3世は、アハズ王の賄賂に応えて、かねてからの計画を実行します。彼は北の連合軍を破り、ガリラヤと北イスラエルのヨルダン川東岸地方を征服し、住民の一部を国外に退去させ、征服した領土をアッシリアの属州にします(前734~733)。ホシェアがペカ王を暗殺し、降伏して貢ぎ物を納めたので、イスラエルの残りの民は生き延びました。ティグラト・ピレセル3世は、紀元前733年と732年にシリアの首都ダマスコを征服します。その後、彼はシリアをアッシリアの属州にします。このように、イザヤの預言から約2年後の紀元前732年までに、シリアとイスラエルは決定的敗北を喫し、アハズを脅かした2人の王の時代は完全に終わります。
アッシリアは、紀元前722年にサマリアの首都を占領し、何千人ものイスラエル人をメソポタミアとメディアに追放します。そこで彼らは、最終的に地域住民に吸収され、そのアイデンティティー(独自性)を失います(イザ7:8参照―65年たてばエフライムの民は消滅する)。
予見された結果(イザヤ書7章17節~25節)
問3
イザヤ7:17~25を読んでください。ここでは、主はユダの地に何が起こると言われていますか。なぜこのような出来事は、当然と言えるのでしょうか。
「招きの声が次から次へと誤りに陥ったイスラエルに送られて、主に忠誠をつくすように訴えた。預言者たちは、慈悲深く人々に訴えた。彼らが、人々の前に立って、熱心に悔い改めと改革を勧告した時に、彼らの言葉は実を結んで神の栄光をあらわしたのである」(『希望への光』512ページ、『国と指導者』上巻289ページ)。
こうして、信仰よりも恐れが先立つアハズ王にとって、神が預言されたことのうち、シリアとイスラエルが滅びるということは、彼にとって良い知らせでした。しかし、同盟を組むために「友」として選んだアッシリアが、シリアやイスラエルよりもはるかに危険な敵になるだろうということは、悪い知らせでした。神が無償で提供された救いを拒んだ時、アハズ王の敗北は確かなものとなりました。自分の国が傾き始めたとアハズ王が感じた時、事態はすでにひどいものでした。
「君侯に頼らず、主を避けどころとしよう」(詩118:9)。アハズ王は、ティグラト・ピレセル3世が、北の国々だけを取って、ユダをそのままにしておくと考えたのでしょうか。アッシリア王の年代記などの記録を見ると、アッシリアの王たちの権力への飽くなき欲望が証言されています。
問4
列王記下16:10~18と歴代誌下28:20~25を読んでください。アハズ王の身に何が起こりましたか。そこに、どんな霊的原則を見ることができますか。彼の行為は、なぜ当然の結果と言えるのでしょうか。
歴代誌下28:20~23には、アハズ王が主に頼らずアッシリアに助けを求めた結果を如実に記録しています。
名前の意味するもの(イザヤ書8章1節~10節)
イザヤの2番目の息子と野球をしていると想像してみてください。彼の名前があまりにも長いので、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ、こっちにボールを投げてくれ!」と言っている間に、相手に点を取られてしまいそうです。しかし、それ以上に長いのがその名前の意味です。「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」
問5
この名前は、明らかに迅速な征服を意味していますが、だれが攻めてくるのでしょうか(イザ8:4)。
イザヤ8:1~10は、7章の内容を補強しています。子どもが物心つく前に、シリアの首都と北イスラエルからの戦利品がアッシリアに運び去られます。さらに、神の保証のメッセージを拒んだユダは、アッシリアの大軍という激流にのみ込まれます。
アハズがアッシリアに頼ったために、北イスラエル同様、ユダについて予告するイザヤの息子たちの名前は、「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」、しかし「残りの者は帰る」と告げるのです。なぜ希望があったのでしょうか。それは、アッシリアの激流がインマヌエルの地にあふれたとしても(イザ8:8)、彼らには、「神が我らと共におられる」(同10節)という約束があったからです。これこそが、イザヤ書全体を貫くテーマです。ユダとその他の国々において、神の敵に裁きが下ることがあってもなお、戦禍や苦難、そして捕囚から彼らを救い出し、主は忠実な残りの民と共におられ、彼らに故国を回復してくださるのです。
問6
イザヤはなぜ、彼の子どもの名を正式に記録したことや、「女預言者」との関係についてまで、私たちに語っているのでしょうか(イザ8:1~3)。
この息子にかかわる時間の流れは、しるしとして重要な意味を持っていました。「インマヌエル」としてのしるしと同様、彼が母の胎に宿り、そして生まれた時から、アッシリアがシリアとイスラエルを打ち破るまでの期間は、この子がお父さん、お母さんと呼ぶまでの期間よりも短いというのです(イザ8:4)。イザヤが息子の名前を、その懐妊よりも前に正式に記録したのは、その子とその名前が人々の前に明らかにされ、引き続き起こる出来事によって、その名前の持つ預言的な意味が公に確認されるためでした。
神を畏れる者に恐れはない(イザヤ書8章11節~15節)
アメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルトは、その就任演説の中で、大恐慌に打ちひしがれていた国民に向かって、次のように語りました。「我々が恐れねばならない唯一のもの、それは、恐れそのものです」(1933年3月4日国会議事堂にて)。意気消沈した民に語られたイザヤのメッセージは、「神ご自身を畏れるとき、私たちには何一つ恐れるものはない」と似たものでした。
神はイザヤに、民が恐れるものを恐れるのではなく、主を畏れるように警告されました(イザ8:12、13)。これは、聖書の重要なテーマです。たとえば、黙示録14:6~12では、3人の天使が全世界に向かって「黙示録13章に描かれた地上の獣の力をたたえ、恐れるのではなく、神を畏れ、その栄光をたたえなさい」と告げています。
問7
神を「畏れる」とは、どんなことでしょうか。神を愛しなさいとの戒めに照らして考えるとき、それは何を意味しますか(マタ22:37)。
神を畏れるとは、宇宙を支配される最終的権威として、神を認めることです。真の畏れは、他のどんな恐れにも打ち勝ちます。それがあなたのためであるなら、神の許しなしには、だれ1人あなたに触れることはできません。しかし、あなたが神に逆らい続け、ひとたび神があなたの敵になるなら、どんなに逃げても神から隠れることはできません。
問8
神を畏れなさいとの考えは、1ヨハネ4:18と矛盾するものでしょうか。
恐れには種類があります。畏怖するほどの権力を持った人があなたの友人で深い信頼関係があるなら、あなたを傷つける相手としてその人に恐れを感じたりはしないでしょう。しかし、あなたがその人との信頼関係に不安を感じているとすれば、その人物への敬意は、ある種の恐れに変わるかもしれません。
忘恩の民(イザヤ書8章16節~22節)
問9
イザヤ8:16~22を読んでください。アハズ王について、どんなことを語っているでしょうか。
アハズ王は、異教の宗教と深くかかわっていました(王下16:3、4、10~15、代下28:2~4、23~25)。そして、これら異教の宗教は、神秘主義(オカルト)と非常に深く関わっていました(申32:17「彼らは神ならぬ悪霊に犠牲をささげ」、1コリ10:20と比較)。現代の多種多様な魔術は、聖書以外の古い文書からも明らかなように、古代中近東の習慣と驚くほどよく似ています。事実、今日のニューエイジ運動(新時代主義)の多くは、こうした古代の神秘主義的慣習の現代版とも言えるものです。
イザヤがここに描写している、主に頼らず、他の霊たちに頼ることの絶望的な結果は(イザ8:21、22)、まさにアハズ王に当てはまります(代下28:22、23と比較)。イザヤは、民は憤り、自分たちの王を呪ったと記しています(イザ8:21)。このことは、アハズ王が民を神秘主義に導いたことへの警告となったことでしょう。事実、アハズ王が死んだ時、その埋葬に際して、「その遺体はイスラエルの王の墓には入れられ」ず(代下28:27)、王にふさわしい敬意は払われなかったのでした。
問10
次の聖句は、神秘主義についてどのように命じていますか(レビ20:27、申18:9~14)。
神秘主義から離れることは、主に忠誠を尽くすことです。歴代誌上10:13、14は、この原則をサウル王の行いに適用しています。「サウルは、主に背いた罪のため、主の言葉を守らず、かえって口寄せに伺いを立てたために死んだ。彼は主に尋ねようとしなかったために、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに渡された」
さらなる研究
参考資料として、『各時代の大争闘』第34章「心霊術の正体」を読んでください。
「ヘブル人の時代にも、今日の心霊術者と同様に、死者と交通すると主張するある種の人々がいた。しかし、他の世界から来たといわれている『口よせの霊』が、聖書には『悪鬼の霊』と断言されている(民数記25:1~3、詩篇106:28、1コリント10:20、黙示録16:14と比較)。口よせの霊を呼ぶことは神が忌みきらわれるものと明言され、死の刑罰をもって厳しく禁じられていた(レビ19:31、20:27参照)。口よせという名称そのものは、今日では軽べつされている。人が悪霊と交わることができるという主張は、暗黒時代の作り話と考えられている。しかし心霊術は、幾十万、いや幾百万の信者をもち、科学者たちの仲間にも入り込み、諸教会に侵入し、議会の好意を得、王室にまでも侵入している。この巨大な欺瞞は、昔罪とされ、禁じられていた口よせが、新しく変装して復活したものにすぎないのである」(『希望への光』1869ページ、『各時代の大争闘』下巻310、311ページ)。
まとめ
神は、イザヤの言葉だけでなく、彼の行動や家族を通して、警告と希望のメッセージを強くお示しになりました。唯一の安全な道は、すべてをご承知の上で、人の歩みに介入しておられる神に頼ることです。神は、私たちを愛し、守り、導く力をお持ちであり、神のために用いる用意のある者たちには、その力をお与えになります。この力以外の力に頼るとき、そこには失望、落胆があるのみです。
第5課 いと高き平和の君
第5課 いと高き平和の君
「最初の原子爆弾の製造を指揮したロバート・オッペンハイマー博士が連邦議会委員会の前に姿を見せました。委員会が博士に、原子爆弾に対する防御策はあるかと尋ねた時、偉大な物理学者はこう答えました。
『もちろんです。それは……』。オッペンハイマー博士は、息をのんで見守る聴衆を見渡し、静かに答えました。『平和です』」(ポール・リー・タン編『7700の例話百科事典』989ページ、1985年、英文)。
平和は、人類の手の届かない永遠の夢です。有史以来、世界が全く平和だったのは、歴史のわずか8パーセントにすぎません。この間、少なくとも8000の条約が破棄されています(同987ページ)。「すべての戦争を終わらせる戦争」となるはずであった第1次世界大戦後の半世紀の間でさえ、戦争のない平和な時間は、1年のうちのわずか2分間しかなかった計算になります。
ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルは1895年、平和のために目覚ましい貢献をした人に贈る基金を設立しました(同988ページ)。しかし、近年、ノーベル平和賞の受賞者の中にさえ、武力衝突に関わる人が出ています。
今回は、真の永続的な平和をもたらすことのできる唯一のお方について学びます。
ガリラヤの辱めが終わる(イザヤ書9章1節~5節)
問1
イザヤ8:23(口語訳9:1)が、前の章の記述とは対照的な内容を導く言葉である「先に」(口語訳では「しかし」)で始まっているのはなぜでしょうか。
イザヤ8:21、22は、真の神よりも心霊術(オカルト)に頼る人々の悲惨な状態を、「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」と描写し(同22節)、続いて対照的に、彼らは「辱めを受けたが/後には……栄光を受ける」と描いています(同23節)。ここで、特別な祝福である「大いなる光」を受ける民として、ガリラヤ地方の人々が選ばれています(同9:1〔口語訳9:2〕)。神が「虐げる者の鞭」を折ってくださったので、彼らは深い喜びと大きな楽しみに満たされます(同9:2、3〔口語訳9:3、4〕)。
ここにガリラヤ湖地方が描かれているのは、それがイスラエルの領土で最初に征服された地域だったからです。ティグラト・ピレセル3世は、アハズ王の救援要請に応えて、北イスラエル王国のガリラヤ地方とヨルダン川東岸地域を手に入れ、住民の一部を捕囚にし、この地域をアッシリアの属州にしたのでした(王下15:29)。ですから、イザヤのメッセージは、最初に征服された〔ガリラヤの〕人々が最初に救出されると述べているわけです。
問2
神は、だれを用いてご自分の民を救出されますか。イザヤ8:23~9:4(口語訳9:1~5)の預言は、いつ、どのように実現しましたか(マタ4:12~25)。
イエスがガリラヤ地方でみ国の福音を宣言し、病人をいやすことによって希望を与え、悪霊にとりつかれた人々を悪霊から解放することによって伝道を開始されたのは、偶然ではありません(マタ4:24)。
これは聖書が、旧約時代に起こった出来事を新約時代に起こる出来事としてあらかじめ示す完璧な例の一つです。主は、一つの時代の出来事を別の時代に起こる出来事と重ね合わされますが、マタイ24章では、紀元70年におけるエルサレムの滅亡と世の終わりの滅亡をだぶらせておられます。
ひとりのみどりごが生まれた(イザヤ書9章5節、6節)
問3
この聖句に記された「みどりご」は、どんな点が特別なのでしょうか(イザヤ9:5、6〔口語訳9:6、7〕)。
この「救い主」には、この方を描写するためのいろいろな名前、または呼び名があります。古代中近東地方では、王たちや神々は、その偉大さを示すために多彩な称号を持っていました。
このお方は、「不思議」(新改訳2017)です。主の使いがサムソンの父に自らの名を「不思議」と名乗ったのと同じです(士13:18、両者はヘブライ語で同じ語根)。
み使いはその後、マノアの祭壇から犠牲の炎と共に天に昇りますが(同20節)、これは1000年以上も後に実現するご自身の犠牲を予示しています。
このお方はまた、聖なる者(「力ある神」)、永遠の創造主(「永遠の父」)とも言われています(ルカ3:38参照─「……アダム。そして神に至る」)。
このお方は、ダビデ王朝の「王」であって、その平和の王国は、永遠に続きます。
問4
これらの特徴から考えると、この「みどりご」は唯一、だれを指していますか(ルカ2:8~14参照)。
これに当てはまるお方は、唯一、神のみ子にして創造主なるイエス・キリストだけです(ヨハ1:1~3、14章、コロ1:5~17、2:9、ヘブ1:2)。
「キリストがこの世においでになられた時、サタンはすでに地上にいて、飼い葉桶からカルバリーに至るまで、キリストの歩まれるすべての道で、その前進しようとする歩みの一歩一歩を邪魔した。サタンは、彼にとってまったく意味のないことである他者のための自己犠牲を天使たちに要求される神を非難した。それは天でのサタンの神に対する非難であり、後にこの邪悪な者が天から追い出されてからも、彼は主に対して、ご自分ではされない奉仕を強制される方だと言って非難し続けた。キリストは、これらの偽りの告発に答えるために、そして父なる神を現わすために地上においでになったのである」(『セレクテッド・メッセージ』Ⅰ巻406、407ページ、英文)。
問5
この引用文は、神のご品性について、私たちにどのようなことを述べていますか。
神の憤りの杖(イザヤ書9章7節~10章34節)
この個所は、心霊術に頼り、アッシリアの軍隊による征服と圧制のえじきとなった民、闇の中を歩み、虐げられていた民の救出を告げるイザヤ8:23~9:4(口語訳9:1~5)、「虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった」(イザ9:3〔口語訳9:4〕)ことをさらに詳しく説明しています。
問6
上記の聖句を読み、神の民の苦難について、レビ記26:14~39の呪いと比較してください。神はなぜ、民を一度にではなく、段階的に罰せられたのでしょうか。このことは、神のご品性と目的について、どんなことを教えていますか。
神は「士師」の時代のように、ユダとイスラエルの民に、彼らの愚かな行為の結果を体験させることによって、彼らが、まず自分たちのしていることを理解し、より良い選択をするチャンスをお与えになったのでした。しかし、彼らがなおも悪に執着し、神とそのメッセンジャーを通して与えられた勧告に対して、心を頑なにしたので、神はその保護を取り去られました。
問7
イザヤ9:7~10:2(口語訳9:8~10:2)を読んでください。ここに言われている民の罪は何ですか。だれが、だれに対して、その罪を犯しているのでしょうか。
ここで、聖書全体を通して語られている自由意志の現実について考える必要があります。神は、人間を自由な存在としてお造りになりました(そうでなければ、人間は決して真の意味で神を愛することはできないからです)。この自由は、過ちを犯す選択肢を含みます。神は、時間をかけて何度も、その愛とご品性を現わすことによって、私たちが主に帰るよう懇願されます。しかし同時に、神は、私たちが自らの誤った選択の結果として、痛み、恐れ、悩みなどを刈り取ることをお許しになります。これらはすべて、神から離れたとき、人はどうなるかを私たちが知るためです。自由意志は、かけがえのないものです。自由意志がなければ、私たちはもはや人間ではありません。しかし、この尊い賜物を誤って用いる人のなんと多いことでしょうか。
「根」と「枝」は一つ(イザ11章)
問8
「エッサイの株」から育つ「芽(若枝)」(イザ11:1)とは、だれのことですか(ゼカ3:8、6:12参照)
イザヤ11:1は、10:33、34で切り倒された木を再度登場させます。「エッサイの株」は、エッサイの息子であるダビデの王朝が力を失ったことを表しています(ダニ4:10~17、20~26)。しかし、見捨てられたかに見える「株」から一つの「芽(若枝)」がでます。それは、ダビデの血を引く統治者を意味します。
問9
新しいダビデの血を引く統治者は、「エッサイの根」とも呼ばれていますが(イザ11:10)、それにはどんな意味があるのでしょうか(黙22:16)。
イザヤ書の描写と「ダビデの根、その子孫」(黙22:16〔新改訳2017〕)の両方を満たすお方は、イエス・キリストだけです。
問10
ダビデの血を引く新しい統治者は、どのように罪と背信による悪の影響をくつがえしますか(イザ11章)。
新しい統治者は、主のみ心を自分の心として考え、行動します。彼は公平に裁き、悪人を罰し、ダビデよりも偉大で、創造の本質である平和を回復します。捕食動物は肉食をせず、かつての獲物と穏やかに共存します(イザ11:6~9)。
問11
イザヤ11章は、キリストの初臨についてだけ語っていますか。再臨についてだけですか。その両方ですか。それぞれについての預言を書き出してみましょう。
イザヤ11章では、イエスの初臨と再臨が一つの光景として描かれています。人類救済の計画が完結するためには、初臨と再臨の両方が必要です。初臨はすでに実現しました。私たちクリスチャンは、すべての希望が成就する時として、キリストの再臨を待ち望むのです。
「わたしを慰められた」(イザヤ書12章1節~6節)
イザヤ12章は、憐れみと力に満ちた慰めのために神に感謝を捧げる短い詩編(賛歌)です。
問12
この賛歌を、黙示録15:2~4の、モーセと小羊の歌と比較してください。両者は神に何を賛美していますか。
イザヤ12:2は、来るべき解放者をほぼイエスと見なしています。「神はわが救い」(口語訳)、「わたしの救いとなってくださった」(聖書協会新共同訳)とあります。「イエス」という名前は、「主は救い」という意味です(マタ1:21と比較)。
問13
私たちにとって、イエスの名前にも含まれる「主は救いである」との考えは、どのような意味で重要なのでしょうか。
主は救いを与えるだけではなく(イザ12:2)、主ご自身が救いです。私たちのただ中におられるイスラエルの聖なるお方は、私たちのすべてです(同6節)。神が私たちと共におられます。イエスは奇跡を行われただけではなく、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」のです(ヨハ1:14、強調付加)。イエスは十字架の上で私たちの罪を負われただけではなく、私たちのために罪となられたのです(2コリ5:21)。イエスは平和を生み出すだけでなく、私たちの平和そのものなのです(エフェ2:14)。
間違いなく、「エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ」(イザ11:10)ます。
さらなる研究
「人間の父親の心は自分の子供の上にそそがれる。彼は幼い子供の顔に見入り、人生の危険を思ってふるえる。彼は自分のかわいい子をサタンの力から守り、誘惑と戦いに会わせたくないと熱望する。神は、われわれの幼な子たちのために、人生の道を安全にするために、ご自分のひとり子を、もっとはげしい戦いと、もっと恐ろしい危険に会わせるためにお与えになった。ここにこそ愛がある。ああ、もろもろの天よ、驚嘆せよ。ああ、地よ、おどろけ」(『希望への光』687ページ、『各時代の希望』上巻35、36ページ)。
「人類の救済に必要な条件を満たすことのできるお方はキリストだけであった。いかなる天使も人間も、この大いなる働きを達成するには不十分であった。人の子だけが上げられねばならない。無限の性質だけが贖いの業を成し遂げることができるからであった。キリストは、ご自分の血を献げ、ご自分の魂を罪の供え物とするために、不従順で罪深い者たちと一つになり、人の性質を取ることに同意された。天の会議において、人の罪科が測られ、罪に対する怒りが見積もられたが、キリストは、堕落した人類に希望を与える条件を満たす責務を負う決意を表明されたのであった」(『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1896年3月5日、英文)。
まとめ
イザヤの時代に、神は「主の救い」という名前の方が、国家的な背信の結果として彼らの上に下った圧制から、残りの民を救うことを約束されました。この希望の預言は、究極の意味で、「主は救い」という意味の名前を持つイエスのうちに成就します。
第6課 神を演じる
第6課 神を演じる
「その日牧師は高慢について悔い改めを求める説教をしました。説教の後で、ある女性が、このところひどく悩んでいる重大な罪を告白したいと牧師に申し出ました。牧師がどんな罪かと尋ねると……
彼女は答えました。『高慢の罪とでも言うのでしょうか。つい先日なんか、自分の美しさに見とれるあまり、鏡の前に1時間も座っていたのです』。
『おやおや……』牧師は続けました。『それは高慢の罪ではありません。妄想の罪です』」(ポール・リー・タン編『7700の例話百科事典』1100ページ、1988年、英文)。
1人のすばらしく力のある天使の心に罪が生まれて以来、高慢は(天使にも人間にも)現実と妄想の境界線をあいまいなものにしてきました。この高慢の罪の問題で何より深刻なのは、霊的高慢です。むしろ、あまりに堕落していて他人に頼る以外に救いはないと考える哀れな罪人のほうに救いがあります。
は、罪の起源である高慢と自己賞揚について考えます。
諸国民の裁き(イザヤ書13章)
イザヤ13:1には、改めてイザヤが著者として紹介されています(イザ1:1、2:1と比較)。これは新しい区分の始まりを示しています。イザヤ13~23章は、諸国民に対する神の裁きのことば(託宣)が含まれています。
問1
諸国民についての預言がバビロンから始まっているのは、なぜでしょうか。
イザヤ10:5~34はすでに、イザヤの時代における最大の脅威であったアッシリアに対する裁きを宣言しています。イザヤ14:24~27がアッシリアを滅ぼす主の計画について簡単に繰り返す一方、13~23章は、最も重要な存在であるバビロンを筆頭に、その他の脅威について述べています。
文化的、宗教的、政治的に豊かな富に恵まれたバビロンは、後に超大国として頭角を現し、ユダを征服し、追放するまでになります。しかし、イザヤの時代の人々は、バビロンが間もなく神の民を脅かす存在になるとは、想像できなかったでしょう。イザヤが宣教した時代には、アッシリアがバビロンを支配していました。ティグラト・ピレセル3世がバビロンを征服し、プル(王下15:19、代上5:26)の名でバビロンの王となった紀元前728年以降も、アッシリアの王は何度もバビロンを奪い返しています(紀元前710、702、689、648年)。しかし、バビロンは最終的にこの地域の超大国となり、ユダ王国を滅ぼします。
大いなる都バビロンの滅び(イザヤ書13章2節~22節)
カルデア人ナボポラサルによってバビロニアの栄光が回復したのは、紀元前626年のことでした。彼は自らバビロンの王となり、新バビロニア王朝を開き、(メディアと共に)アッシリアを破る戦いに参戦しています。その子、ネブカドネツァル2世はユダを征服し、その民を捕囚としました。
問2
バビロンの都は、どのようにして最終的に滅びましたか(ダニ5章参照)。
紀元前539年にペルシアのキュロス王がバビロンを攻め落とし、メド・ペルシア帝国を建設した時以来(ダニ5章参照)、バビロンの都は独自性を失いました。
アレキサンダー大王は、紀元前331年に、戦うことなくペルシア人の手からバビロンを奪い取りました。彼のバビロンを東方の首都にする夢は破れ、バビロンは数世紀のうちに衰退します。ローマ皇帝セウェルスは紀元前198年までに、バビロンが完全に荒廃しているのを見ます。このようにして、大いなる都バビロンは見捨てられ、その終焉を迎えます。
イザヤ13章に述べられているバビロンの滅亡によって、虐げられていたヤコブの子孫は、解放されます(イザ14:1~3)この神の民の解放は、紀元前539年のキュロス王によるバビロンの征服によって実現します。キュロス王は、バビロンの都を破壊はしませんでしたが、これがバビロンの終焉の始まりとなり、バビロンが神の民を脅かすことは二度とありませんでした。
イザヤ13章は、バビロンの没落を神の裁きとして表現しています。この都を奪う兵士たちは、神の代理人として戦います(イザ13:2~5)。裁きの時は「主の日」と呼ばれ(同6、9節)、主の怒りはあまりに激しく、星たち、太陽、月、天と大地にまで影響を与えます(同10、13節)。
士師記5章のデボラとバラクの歌が描く、天からの雨をもって地を震わす主と比較してください(士5:4)。士師記5:20、21は、やはり星などの自然界の事物を用いて、外敵との戦いを描写しています。
神の山から落ちた「君主」(イザヤ書14章)
バビロンの滅亡(イザ13章)は、神の民を解放へと導き(同14:1~3)、イザヤ14:4~23は、バビロンの王に対する比喩的な嘲りの歌を記しています(ミカ2:4、ハバ2:6)。ここに描かれている、陰府の国で新参者を出迎える光景(イザ14:9、10)、死んだ王が蛆や虫を寝床とする(同11節)は、明らかに字義通りのものではなく、詩的なものです。ここでは、尊大なバビロンの王が先の高慢な王たちと同様に辱めを受けることが、劇的な表現で語られているだけで、決して死者の状態について述べているのではありません。
問3
イザヤ14:12~14は、どんな意味でバビロンの王に当てはまりますか。
バビロンの王たちに謙遜な王はいませんでした。しかし、「いと高き者のようになろう」(イザ14:14)とうそぶく尊大な王もいませんでした。王たちは、神々と強い一体感を持っていましたが、神々に従属する存在でした。この事実は毎年、バビロニアの新年祭の第5日に象徴的に表現されました。この日、王は、マルドゥク神の像の前に出る時、王の記章をはずす行為によって王権が再認されました。
イザヤ14章、エゼキエル28章は、神をも恐れぬ尊大さについて記しています。そして、ここでその描写は、地上の王に対する描写を超え、より鋭い神の目線から、次のように語ります。「この誇り高い君主は神の園であるエデンいた。彼は油注がれ、翼を広げて覆う守護のケルブとして神の聖なる山にいた。創造された日から彼の中に罪が見いだされるまでは完全であったが、神によって投げ落とされ、遂に火で焼き尽くされるだろう」(エゼ28:12~18)。この修辞的な表現は、人間を指すにはあまりに比喩的です。しかし黙示録12:7~9は、天使たちと共に天から投げ落とされたこの力ある者を、「サタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(黙12:9)、エデンの園でエバをだました者(創3章)と呼んでいます。
サタンは、高慢な妄想を抱きました。「……『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは……神ではない」(エゼ28:2、口語訳)。サタンの死が、神でないことを証明するでしょう。キリストとは違って、サタンは火の池に投げ込まれて滅び(黙20:10)、二度と、宇宙を悩ますことはないのです。
天の門(イザヤ書13章、14章)
イザヤ14章には、「明けの明星」(英語欽定訳では「ルシファー」)、「曙の子」(イザ14:12)と呼ばれているサタンに対する嘲りが、バビロンの王に対する嘲りの中に含まれています。なぜなら、サタンは人間を通して働くからです。
問4
「バビロン」は、後にローマを指しますが(1ペト5:13)、黙示録では悪の勢力を指すのはなぜでしょうか(黙14:8、16:19、17:5、18:2、10、21)。
文字通りのバビロンと同様、ローマと黙示録の中の「バビロン」は、神の民を迫害する尊大で残忍な権力を意味します。黙示録17:6には、バビロンが「聖なる者たちの血に酔いしれている」とあります。彼らは、その名前の示す通り、神に反逆します。バビロンは、バビロニア語では“バブ・イリ”、つまり「神々の門」であって、これは神の領域への入り口を指します。創世記11章を見ると、人々は、人間の力で、神と同等の天の領域に昇ることができると考え、バベル(バビロン)の塔を建てたのでした。
ヤコブが天と地を結ぶ階段の夢から覚めた時、叫びました。「これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(創28:17)。「神の家」が「天の門」、つまり天の領域への入り口なのです。ヤコブはそこを「神の家」を意味する「ベテル」と名づけました。
ベテルの「天の門」とバビロンの「神々の門」は、天の領域への正反対の方法でした。ヤコブの階段は、元々天にあったものが、神によって〔地上の人間に〕示されました。しかし、バビロンの塔とピラミッド型の神殿は、人間によって、地上から天に向かって建てられたものでした。この正反対の方法は、救いに至る対照的な道を示しています。つまり、神の恵みによるのか、人間の行いによるのかです。すべての真の宗教は、ベテルが模範です。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」(エフェ2:8、9)。しかし、律法主義と「世俗的な」人道主義を含むすべての偽りの「宗教」は、高慢なバビロンを模範とするものです。この対照は、イエスの「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」に見られます(ルカ18:9~14)。
シオンの勝利(イザヤ書24章~27章)
イザヤ24~27章には、神の民の救いと敵の敗北が、世界的な規模で描写されています。
問5
イザヤが描く地上の荒廃(イザ24章)と、ヨハネが描くキリスト再臨に続く千年期に関連する出来事(黙20章)は、なぜ似ているのでしょうか。
イザヤ13、14章と同様、バビロン帝国に見られる数々の特徴は、後の諸権力に当てはまります。また、「バビロンの王」は、人間の支配者たちと、背後で操るサタンを表しています。したがって、バビロンは倒れたとのメッセージ(イザ21:9)は、後の時代にも繰り返されうるのです(黙14:8、18:2)。サタンが最終的に滅ぼされるのは、キリスト再臨の後です(同20:10)。バビロン帝国の滅亡は、「主の日」(イザ13:6、9)として成就しましたが、もう一つの「主の大いなる恐るべき日」(ヨエ3:4〔口語訳2:31〕、マラ3:23〔口語訳4:5〕、ゼファ1:7と比較)は、まだ成就していません。
黙示録は、それが実際に成就するのは、新エルサレムにおいてであると述べています(黙21:2)。
問6
神は、邪悪な者たちを本当に滅ぼされるのでしょうか。
イザヤ28:21には、神の滅ぼす働きが「未知の業」(聖書協会共同訳)と表現されています。それが神にとって「未知の業」であるのは、神が滅ぼすことを望まれないからですが、それでもなお、それは神の業、行いなのです。罪は、その中に自滅の種をはらんでいることは事実ですが(ヤコ1:15)、究極的に生と死を支配する力をお持ちになるのは神であり、最終的な滅びの時、場所、その有様を決定されるのも神なのです(黙20章)。ですから、神が罪の呪いに終止符を打たれるタイミングを、ただ因果応報、または自然のなりゆきにまかせるなどという消極的な方法をお選びになるということはあり得ないことです。
さらなる研究
「私たちが救いを受けるためには何か条件があるのでしょうか。私たちがキリストのもとに行くための条件はない。では、キリストのもとに行ったなら、何か条件があるだろうか。それは、生きた信仰によって、十字架につけられ、復活された救い主の血によるいさおしに、完全にすがりゆだねることである。そうすることで、私たちは、義の業を行うのである。しかし、神がこの世で罪人を呼び、お招きになる時、そこに条件はない。彼は、キリストの招きによって近づいたのであって、それは条件ではない。あなたは、神のもとに行くために応答したにすぎないのである。罪人が神のもとに行く時、彼はカルバリーの十字架に上げられたキリストを見る。その光景は神によって彼の心に焼き付けられる。その時彼は、それまでに想像したどんなものをも遥かに越えた愛に捕らえられる」(『原稿集』第6巻32ページ、英文)。
まとめ
イザヤは、アッシリアに続いて、バビロンがユダを征服するのを見ました。しかし彼は、人間を越えた力を持つ闇の世の主権者(エフェ6:12)が、神に敵対する人間を通して働き、大胆にも神を演じようとするのを見ます。にもかかわらず、主は敢然として打ち勝ち、苦しむ私たちの惑星に永遠の平和をもたらすのを見たのでした。
第7課 アッシリア人の敗北
第7課 アッシリア人の敗北
やせ衰えた男が、裸足で2人の息子と歩いています。別の家族は、やせた牛が引く荷車に荷物を積んで運んでいます。男が牛を引き、荷車の上には2人の女が座っています。荷車のない貧しい人たちは、荷物を肩に背負って歩いています。
至るところに兵士の姿があり、破城槌が城門を打ち砕いています。破城槌に乗った兵士たちは、城壁の上で町を守る兵士たちに向かって、矢を放っています。兵士の死体の山が、この戦いが独り勝ちにあることを物語っています。
その前方に目をやると、戦利品と捕虜を前に、1人の王が威厳をもって玉座に座っています。王の足元には、両手を上げて、あるいは跪いて命乞いをしている捕虜がいます。この場面の説明は、次のような言葉で始まっています。「玉座に座り、……ラキシュの町から奪った戦利品を品定めする世界の王、アッシリアの王、センナケリブ」(ジョン・マルコム・ラッセル『壁画』137、138ページ、1999年、英文)。
この壁画は、センナケリブの王宮の壁を飾っていたものですが、今は大英博物館にあって、なお神の民が置かれる苦境について物語っています。
付帯条件(イザヤ書36章1節)
問1
ユダにどんなことが起こりましたか(王下18:13、代下32:1、イザ36:1)。
背信のアハズ王が死に、信心深い息子のヒゼキヤが王位を継ぎますが、ヒゼキヤの継いだ王国は、完全な独立性を失っていました。シリアと北イスラエルの同盟軍に対抗するために、アッシリアの助けを買収したユダでしたが、その後もいわゆる「みかじめ料」として、アッシリアに貢ぎ物を納め続けることになります(代下28:16~21参照)。アッシリアのサルゴン2世が遠征中に死に、紀元前705年にセンナケリブが後を継ぐと、アッシリアは弱体化したかに見えました。アッシリアと聖書の記録によれば、ヒゼキヤはこれを反逆の好機と捉え(王下18:7参照)、アッシリアに対抗する弱小諸国を束ねる大胆な行動に出ます。
しかし、不幸にも、ヒゼキヤはアッシリアの回復力を見くびっていました。センナケリブは、紀元前701年に帝国内の反乱勢力を鎮圧すると、圧倒的な戦力をもってシリア・パレスチナに侵攻し、ユダを占領します。
問2
ヒゼキヤは、アッシリアとの戦いに備えて、どんな準備をしましたか(代下32:1~8)。
センナケリブが首都エルサレムを攻略しようとしていることを知ったヒゼキヤは、アッシリアとの戦いに備えて、完璧に準備を整えます。要塞を強化し、軍隊を補強し、エルサレムに安定した水道を確保しました(王下20:20、代下32:30参照)。
ヒゼキヤは軍事的、政治的に優れた指導者であったばかりでなく、霊的にも優れた指導者でした。危機的状況にあって、次のように民の士気を奮い立たせています。
「しかしユダの王は、敵に抵抗するために彼のなすべき分をつくす決意を固めた。そして人知と精力の限りをつくした上で彼は軍勢を集めて、彼らに勇気を出すように勧告したのである」(『希望への光』521ページ、『国と指導者』上巻316ページ)。
宣伝工作(イザヤ書36章2節~20節)
アッシリアの統治者たちは、残忍であるだけでなく、聡明でした。彼らの目的は、単に破壊することではなく、富と権力を手に入れることでした(イザ10:13、14)。そこで、センナケリブは、ラキシュを包囲する一方で、高官のラブ・シャケを送って、宣伝工作によってエルサレムを奪おうとします。
問3
ラブ・シャケは、どんな論拠を用いて、ユダの戦意をくじきましたか(イザ36:2~20、王下18:17~35、代下32:9~19参照)。
ラブ・シャケの言葉には、説得力がありました。彼は次のように言いました。
「エジプトは、弱く頼りにならない。ヒゼキヤ王が、ユダ中の主の高台と祭壇を取り除き、エルサレムの祭壇だけで礼拝するように言って主を怒らせたので、主に頼ることはできない。事実、主はアッシリアに味方し、センナケリブにユダを滅ぼすように言われたのだ。お前たちには、我々が二千頭の馬を与えたとしても、それだけの数の訓練された兵士もいまい。町を包囲され、餓死する前に降伏せよ。そうすれば、悪いようにはしない。ヒゼキヤには、お前たちを救うことができない。なぜなら、アッシリアに征服された他の国々の神々が彼らを救うことができなかったように、お前たちの神もお前たちを救うことはできないからだ」
問4
ラブ・シャケは、真実を語っていたでしょうか。
ラブ・シャケが語ったことの多くは事実でしたので、主張には説得力がありました。ユダの住民はみな、アッシリアに敗北した他の軍隊や町々がどうなったかを知っていました(北イスラエルの首都、サマリアを含む〔王下18:9、10〕)。人間的に見れば、エルサレムも同じ運命をたどると考えたはずです(イザ10:8~11と比較)。確かに、ヒゼキヤはエルサレムの神殿を礼拝の中心とするために、国中の祭壇を破壊しました(王下18:4、代下31:1)。しかし、この改革は、民の唯一の希望である主を怒らせたでしょうか。
揺り動かされるが、捨てられない(イザヤ書36章21節~37章20節)
問5
雄弁なラブ・シャケの説得は、ヒゼキヤとその家臣たちにどんな影響を与えましたか(王下18:37~19:4、イザ36:21~37:4)。
ヒゼキヤは心身を震わせ、嘆きの中で喪に服して神のもとに行き、へりくだって、彼の父がかつてその勧告を無視したイザヤに執り成しを求めます。
問6
神はどのように、ヒゼキヤを勇気づけられましたか(イザ37:5~7)。
神からのメッセージは短いものでしたが、十分なものでした(イザ37:5)。神は、ご自分の民の側におられました。イザヤは、センナケリブがうわさを聞いてユダに対する戦意をくじかれると告げます。そして、その預言は、すぐに実現することになります。
センナケリブは、一時的にひるみましたが、決してあきらめたわけではありませんでした。彼はヒゼキヤを脅迫して、次のように伝えます。「お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されることはない、と思ってはならない。……諸国の神々は彼らを救いえたであろうか」(イザ37:10、12、代下32:17参照)。
ヒゼキヤは、今度はまっすぐに神殿に行き、「ケルビムの上に座しておられる」万軍の主の前に、センナケリブの手紙を広げて祈ります(イザ37:14~16)。
問7
ヒゼキヤの祈りは、エルサレムの危機に際して、真に危機に瀕していたのは何だと述べていますか(イザ37:15~20)。
センナケリブは、ヒゼキヤの最強の砦である彼の神への信仰を攻撃したのでした。しかし、ヒゼキヤはこれに屈することなく、神にご自身を示してくださるように嘆願します。「……地上のすべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください」(イザ37:20)。
物語の続き(イザヤ書37章21節~38節)
年代記によれば、センナケリブは46の要塞都市を奪い、エルサレムを包囲し、ユダヤ人ヒゼキヤを、「かごの鳥のように、その王の住みかエルサレムに捕えた」と記録しています(ジェームズ・B・プリチャード編『旧約聖書に関する古代近東文書』288ページ、1969年、英文)。しかし彼は、自慢好きの途方もないうぬぼれ屋であったにもかかわらず、文書にも壁画にもエルサレム奪取の記録を残していません。人間的に考えて、アッシリアに逆らう者は生かしておかなかった冷酷非情な権力者センナケリブが、反逆を企てたヒゼキヤを見逃したとは考えられません。
聖書には記録されていませんが、なんらかの奇跡が起きたことは確かであり、学者たちも認めています。センナケリブがその「比類なき王宮」を彼の武勲であるラキシュ陥落の壁画で飾ったのは、明らかに彼の面目を保つためであったはずです。しかし、神の憐れみがなかったなら、この壁画には、ラキシュでなく、エルサレムの陥落が描かれていたことでしょう。その後に起きたことについて、センナケリブは沈黙していますが、聖書は語っています。
問8
この物語の続きは、どのように記されていますか(イザ37:21~38)。
ヒゼキヤの揺るがない信仰の祈りに答えて、神はユダに揺るがない安全保障のメッセージをお与えになります。それは、高慢なアッシリアの王に対して下った、燃える神の怒りでした(イザ37:23)。神は速やかに、エルサレムを守る約束を成就されます(王下19:35~37、代下32:21、22、イザ37:36~38)。
アッシリア軍の死者は、実に18万5千人に上りました。センナケリブは、撤退を余儀なくされ、自国で非業の死を遂げます(イザ37:7~38と比較)。
「ヘブル人の神は、高慢なアッスリヤ人を打ち負かしたのである。周囲の国々の目の前で、主の名誉が保たれた。エルサレムでは、人々の心は聖なる喜びに満たされた」(『希望への光』525ページ、『国と指導者』上巻327ページ)。
もし、センナケリブがエルサレムを征服していたなら、住民を国外に強制移住させ、ユダは北イスラエルと同じように、その独自性を失っていたでしょう。そうなれば、メシアが生まれるはずのユダヤ民族も消滅し、彼らの歴史はそこで終わっていたでしょう。しかし、神は希望の光を灯し続けてくださいました。
病と富(イザヤ書38章、39章)
イザヤ38章と39章(王下20章)の出来事は、神がヒゼキヤをセンナケリブから救出されたちょうどその頃に起きました。
「サタンはヒゼキヤの死とエルサレムの陥落を同時に引き起こす決意をした。それはヒゼキヤを取り除けば改革の働きは途絶え、エルサレムの陥落は確実なものになると考えたからであった」(『SDA聖書注解』第4巻240ページ、英文)。
問9
主は、ヒゼキヤの信仰を確かなものとするために、どんなしるしをお与えになりますか(王下20:8~10、イザ38:6~8)。
神がお与えになったしるしを、父アハズが拒んだことによって(イザ7章)、アッシリアとの関係は悪化の一途をたどります。ヒゼキヤは、主にしるしを求め(王下20:8)、神は、アハズがユダに招いた危機に対処する力をお与えになります。実際、アハズの日時計の影を後戻りさせることは、奇跡によってのみ可能なことでした。
バビロニア人は、天体の運行を研究し、それを正確に記録していました。ですから、彼らはこの太陽の不自然な動きに気づき、その意味について考えたはずです。メロダク・バルアダン王がこの時期に使節を遣わしたのは、偶然ではありません。彼らは、ヒゼキヤのいやしと奇跡的なしるしとの関係を知っていたはずです。
神がなぜこのような特別な奇跡を用いられたのか、現在の私たちにはわかります。後に、ベツレヘムの星によって東方の学者たちを導かれたように、神は太陽を後戻りさせることによって、バビロンの使者たちを導かれたのです。これは、彼らが真の神について知るための特別な機会になるのでした。バビロンの王メロダク・バルアダンは、アッシリアからの永続的な独立を勝ち取るために、統治期間のすべてを費やしました。王がヒゼキヤと接触したのは、強力な同盟国が必要だったからでした。王は、ヒゼキヤが求めれば太陽でさえ動くのであれば、アッシリアを動かすことなどたやすいことだろうと考えたのでしょう。
さらなる研究
「日時計の影を10度退かせることは、ただ神の直接の介入によってのみなし得ることであった。そして、ヒゼキヤはこれを、主が彼の祈りを聞かれたしるしとして求めたのであった。『そこで預言者イザヤが主に呼ばわると、アハズの日時計の上に進んだ日影を、10度退かせられた』(列王記下20:11)」(『希望への光』518ページ、『国と指導者』上巻305ページ)。
「遠国の王からのこれらの使者たちの訪問は、生ける神を賛美する機会をヒゼキヤに与えたのである。彼がすべての造られたものを支えておられる神について語ることは、何と容易なことであったことだろう。その神の恵みによって、全く絶望的であった彼自身の生命が助けられたのである。……
しかし、誇りと虚栄がヒゼキヤの心を捕らえた。そして彼は得意気に、強欲な人々の目の前に神がお与えになった、神の民の宝を開いて見せた。王は、『宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼキヤが彼らに見せない物は一つもなかった』(イザヤ39:2)。彼がこうしたのは、神に栄光を帰するためではなくて、外国の君たちの前で自分を高めるためであった」(『希望への光』519ページ、『国と指導者』上巻309ページ)。
まとめ
信心深い王の叫びに応えて、神はその民を救い、ご自身を示されました。地上の運命を支配されるイスラエルの全能の王は、主の民を滅ぼそうとする敵を滅ぼされるだけでなく、なんとかして主の民以外の「バビロン人」にも、主の民となるチャンスをお与えになります。
第8課 わが民を慰めよ
第8課 わが民を慰めよ
日本兵の横井庄一さんが、まだグアム島のジャングルに隠れていた1945年、第2次世界大戦は終わりました。米軍の飛行機からまかれたビラは平和の到来を宣言していましたが、横井さんはそれを敵のわなだと考えました。
「終戦から27年を経た1972年、漁師が魚を捕っている横井さんを発見しました。その時初めて、彼は終戦の知らせが真実であることを知ったのでした。他の日本国民がみな平和を享受していた数十年の間、横井さんだけが孤独と緊張の生活に耐えていたのでした」(ロイ・ゲイン『説教壇の招き』304ページ、1999年、英文)。
これより数十世紀も前に、神は預言者イザヤを通して、主の民の緊張と苦しみの時は本当に終わったのだと宣言されました。「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と」(イザ40:1、2)。
今週は、このことが何を意味するのかを考えます。
将来の慰め(イザヤ書40章1節、2節)
問1
イザヤ40:1、2で、神はその民を慰めておられます。彼らの刑罰の時は、ついに終わりました。それは、どんな刑罰でしたか。
神のユダに対する刑罰を代行した国はまず、神の憤りの杖であるアッシリア(イザ10章)です。神は、紀元前701年に、センナケリブの軍隊を滅ぼすことによって、アッシリアからユダを救われました(同37章)。次は、バビロンでした。バビロンは、ヒゼキヤがバビロンの王メロダク・バルアダンの使者にすべての富を見せたために、ユダの資財と住民を運び去りました(同39章)。さらに、イザヤが託宣を書き送ったその他の国々のうちの一つが用いられます(同14~23章)。
「アッシリア」または「アッシリア人」という言葉は、イザヤ7:17~38:6に43回出てきますが、それ以降は1回しか出てきません。イザヤ書の終わりの部分は、ユダのバビロン捕囚からの解放を預言しています(イザ43:14、47:1、48:14、20)。
イザヤ1~39章は、紀元前701年のアッシリア人からの解放までの諸事件を強調していますが、40章の初めでは、1世紀半先の紀元前539年のバビロンの終焉と、その後のユダヤ人の帰還の記事へと飛びます。
問2
バビロンからの帰還というテーマは、イザヤ書の前に出て来たどんなテーマと関連しているでしょうか。
イザヤ39章は、ヒゼキヤの子孫のある者たちがバビロンの捕囚となることを予告することによって、続く章へのつなぎとなっています(イザ39:6、7)。さらに、イザヤ13、14、21章の託宣は、バビロンの陥落と、それがもたらす神の民の解放を予告しています。「まことに、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び/彼らの土地に置いてくださる。……主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日が来る」(同14:1~3)。この聖句とイザヤ40:1、2にある、主の民の苦難が終わるという神の約束との密接な関係に注目してください。
臨在、み言葉、道備え(イザヤ書40章3節~8節)
問3
神の民は、どのようにして慰められますか(イザ40:1~8)。
バビロン捕囚から帰還後、神の民はシナイ山で受け取りながら、その後、背信によって拒んだもの、すなわち、神のご臨在とみ言葉を再び手にします。主のご臨在と永遠に揺らぐことのないみ言葉は、慰めと救いと希望をもたらします。
問4
主をお迎えする備えとして、何が必要でしょうか(イザ40:3~5)。
でこぼこの道を揺られてやって来るというのは、王にとって似つかわしい光景ではありません。その前に、道備えが必要です。「王の王」をお迎えするとなれば、なおさらです。エルサレムの東に連なる起伏に富んだ丘陵地帯をならして、文字通り平らなスーパーハイウェイを作るとすれば、これはたとえ、ダイナマイトやブルドーザーを使っても気の遠くなるような工事になるでしょう。それがおできになるのは、神だけです。「高低のある所を平らにする」(イザ42:16、口語訳)ことのできるお方だからです。しかし、神は移動のための道路を必要とされません。神には天使の翼を持つ空飛ぶ戦車があるからです(エゼ1、9~11章)。
新約聖書は、イザヤの預言を、バプテスマのヨハネの説教によって完成した霊的な道備えに適用しています(マタ3:3)。ヨハネのメッセージは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(同2節)であり、彼の施したバプテスマは「罪の赦しを得させるため」の「悔い改めのバプテスマ」(マコ1:4)でした。つまり、この道備えとは、神の赦しとご臨在の慰めにあずかるために喜んで罪から離れ、悔い改めることでした。
エレミヤ31:31~34には、神のために道備えをするという霊的な意味を理解するために、捕囚にあったユダに多くの時間をかけて伝えられたのと同じ霊的メッセージが述べられています。その中で主は、喜んで新しいスタートを切ろうとする人々に「新しい契約」を約束されました。その契約とは、主ご自身が彼らの心に主の律法を書き記され、主が彼らの神となるとの誓いでした。彼らは主を知り、主のご品性を知るのです。それは、主が彼らを赦してくださったからです。
宣教の始まり(イザヤ書40章9節~11節)
問5
イザヤ40:9~11には、どんな出来事が描かれていますか。
〔ヘブライ語では、〕イザヤ書の後のほうでエルサレムに良い知らせを伝える声は男性です(イザ41:27、52:7)が、イザヤ40:9で山の上から「見よ、あなたたちの神」と呼びかけて、へブライ人の中にもたらされる事実を伝える声は女性です。
新約聖書は、イザヤ40:3~5を、その民の間で肉体を取り、「主の臨在」となられたキリストのために道を備えたバプテスマのヨハネに当てはめています(ヨハ1:14)。
ヨハネより前にも、キリストの来臨の良き知らせについて語った者たちがいました。年老いたシメオンとアンナが最初であり、彼らは宮で仕えていた時に、幼な子イエスに会いました(ルカ2:25~38)。イザヤ書の「声」と同じように、彼らは男性と女性でした。シメオンは、メシアとして来られる「イスラエルの慰め」を待ち望んでいました(同25、26節)。
イザヤの預言の光に照らして見るとき、女預言者アンナが最初に、公の場である山の上にある宮でエルサレムの人々に主がおいでになったことを告げたのは、偶然の一致ではありません。「そのとき、〔彼女は〕近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々に幼子のことを話した」(ルカ2:38)。これこそが、キリストが救いをもたらすためにおいでになったとの福音の宣言、良い知らせであり、キリスト教宣教の始まりであったのです。そして、後にキリストは、もう1人の女性マグダラのマリアに、主の勝利の復活の最初の知らせをゆだねます(ヨハ20:17、18)。この知らせこそが、主の、惑星地球に対する福音使命の完結を確実なものにしたのでした。肉体は、草のようにはかないものです。しかし、肉体を取られた「神の言葉」は、永遠です(イザ40:6~8参照)。
憐れみ深い創造主(イザヤ書40章12節~31節)
問6
イザヤ40章は、神の憐れみと力というテーマをどのように展開していますか。
この章全体を通じて、神の憐れみと力が織り合わされ、一つに溶け合っていると言っても良いでしょう(表参照)。それは、神がその民を救うためには、憐れみと力の両方が必要だからです。神は救いたいのです。それは、主が憐れみのお方だからです。神は救うことができます。それは、主が力のお方だからです。
憐れみ(1~5節) 慰め、救うためにおいでになる主
力(3~8節) 栄光、永久不変と人間の弱さ
憐れみ(9~11節) 救いの良き知らせ、主の民の牧者
力(12~26節) 比類なき創造主
憐れみ(27~31節) 弱い者に力を与えられる創造主
問7
「お前たちは、神を誰に似せ……ようというのか」(イザ40:18)とのイザヤの問いかけに対する答えは何ですか。
ヨブと同様、イザヤもこれらの問いに対して、「だれもいない。だれを神に比べることができようか」とは答えずに、先に進みます。しかしイザヤは、自らの問いに対する答えとして、神を偶像のように見なした多くの古代の人々の行為を引き合いに出します(イザ40:19、20)。
そのようなばかげた考えに応えて、イザヤは続けます。偶像を神のように見なすことはもとより愚かなことですが、ここでイザヤは、彼の論点をはっきりさせるために、神の独自性について詳しく述べ、神が聖なる創造主であることに関して反論の余地のない議論を展開します(イザ40:21~26)。
問8
イザヤ40:27は、創造主についてのメッセージに対する人々の態度について、どのように述べていますか。私たちも同じ態度を取ることはないでしょうか。
偶像崇拝の問題点(イザヤ書40章19節、20節)
問9
イザヤ41:29を読んでください。あなたは、このイザヤの偶像についての描写をどのように理解しますか。なぜ、この描写はあらゆる偶像を正確に表していると言えるのでしょうか。
古代の偶像崇拝者たちは、像や象徴を通して、自分たちは力のある「神のような存在」を礼拝しているのだと信じていました。「ほかの神」に当たる偶像を礼拝することは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出20:3)との十戒の第1条を破ることです。しかし、単なる偶像でなく、金の子牛のように(同32:4、5)その偶像が真の神に代わるものとなるなら、主はそのような「神に似せた作り物」を退けられます。神をどのように描けば良いかを知る人間は、1人もいないからです(申4:15~19)。そして、何物も神の比類ない栄光と偉大さを表すことはできないからです。したがって、偶像の存在そのものが「ほかの神」となるのであり、それを礼拝することは十戒の第1条と第2条を破ることなのです。
問10
今日、教会はどんな偶像崇拝に直面しているでしょうか。それは、どのようにより巧妙な形に変わってきているでしょうか。
「多くのクリスチャンと名乗る者たちが、主をおいて他の神々に仕えている。私たちの創造主は、私たちの最高の献身と私たちの第一の忠誠をご要求になる。私たちの神への愛を弱めようとするもの、神のための奉仕を妨げようとするものは何であれ、私たちにとって偶像となるのである」(『SDA聖書注解』第2巻、1011、1012ページ、英文)。
古代の文書によって、当時から偶像崇拝は魅力的なものであったことがわかります。それが物質主義と結びついていて、偶像崇拝者たちは、彼らに豊穣と繁栄をもたらすことができると信じて、その力を崇めていたのです。それはいわば、私たちにも馴染みのある、「御利益」宗教でした。
主が再びおいでになる直前に、エリヤの最終的な和解のメッセージ(マラ3:19~24〔口語訳4章〕)である主の「道備え」をするために、わたしたちは創造主を礼拝するか、それとも何か他のものを礼拝するか(黙13、14章)という、エリヤの時代と同じ選択に迫られるでしょう。終わりの時には、それが何であれ、私たちが常に拝むものがはっきりするのです。
さらなる研究
参考資料として、『国と指導者』第26章「あなたがたの神を見よ」を読んでください。
「イザヤの時代には、神について誤った解釈がなされ、人類の霊的理解は暗かった。サタンは、長い間、創造主が、罪と苦しみと死の創始者であると人々に思わせてきた。こうして、サタンに欺かれた人々は、神をかたくなで、苛酷なお方であると考えた。彼らは、神を、罪を非難して宣告を下すために目を見張り、援助せずともよい正当な理由がある限り、罪人を快く受け入れないもののように考えた。天は、愛の律法に支配されているのであるが、大欺瞞者はそれを人類の幸福を束縛するもの、重苦しいくびきであると誤表し、人類は律法から解放されることを喜ぶべきであると言った。戒めは守り得ないもので、罪に対する罰は、独断的に与えられたものであると彼は言った」(『希望への光』507ページ、『国と指導者』上巻276ページ)。
まとめ
イザヤを通して神は、苦しむ者たちに慰めをお与えになりました。その苦難の時代は終わり、神は彼らのところに戻って来てくださるのでした。彼らは失望と困惑から解放され、彼らのためにいつでも創造の力を働かせる用意のある神に信頼することができるのでした。
第9課 仕えること、救うこと
第9課 仕えること、救うこと
「キリストが地上で生活された場所をおとずれ、キリストが歩まれた場所を歩き、キリストが好んでお教えになった湖のほとりや、キリストがたびたび目をとめられた丘や谷を眺めることができたら大きな特権だろうと思う人が多い。しかし、イエスの足跡を歩むために、ナザレやカペナウムやベタニヤに行く必要はない。病床のかたわらや、貧しいあばらやや、大都会の雑踏する横町や、人の心が慰めを必要としている場所ならどこにでも、イエスの足跡がみいだされる。イエスが地上におられた時にされた通りのことをすることによって、われわれはイエスの足跡を歩むのである」(『希望への光』1011ページ、『各時代の希望』下巻111ページ)。
イザヤは、同じように憐れみの使命を託された主の僕について、次のように語っています。「〔彼は〕傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく……見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために」(イザ42:3、7)。
今回は、この僕(しもべ)について考えます。彼はだれで、何を成し遂げるのでしょうか。
僕である民族(イザヤ書41章)
問1
イザヤ41:8で、神が「わたしの僕イスラエルよ」と語りかけ、42:1でイザヤが「わたしの僕」と紹介しているのは、だれのことでしょうか。
それは、イスラエル人の祖先である「イスラエル」つまり「ヤコブ」でしょうか。「イスラエル民族」でしょうか。それとも、新約聖書ではイエスと呼ばれている「メシア」あるいは「キリスト」を指すのでしょうか。
イザヤ41~53章を読むと、そこには二種類の「神の僕」が見えてきます。一つは、イザヤ41:8、44:1、2、21、45:4、48:20にあるように、「イスラエル」または「ヤコブ」と呼ばれている僕です。ここでは、神が目の前にいる「イスラエル」あるいは「ヤコブ」に呼びかけておられることから、この「ヤコブ」が彼の子孫である民族を表していることは明らかです。このことは、イザヤ48:20に、主の「僕ヤコブ」のための贖いが、バビロンを出る時に成就すると記されていることからも確かです。
もう一つは、イザヤ42:1、50:10、52:13、53:11のように、「神の僕」の名前が記されていない例です。イザヤ42:1に初めて出てくる時、この「僕」が直接だれを指すかは明らかにされません。しかし、後にイザヤがこの僕の人物像を詳しく描くにつれて、この僕が一個人を指すこと、すなわち、ヤコブ(イスラエル)の民を神のもとに回復させ(イザ49:5、6)、罪人のために犠牲となって死ぬ人物であることが明らかになります(同52:13~53:12、49:5、6参照)。この「僕」は、民族ではありません。このように、イザヤは明らかに二種類の「神の僕」について語っています。一つは集団(民族)であり、他方は一個人です。
問2
「僕である民族」の役割は、何でしょうか(イザ41:8~20)
イザヤ41:9、10と続く節に示されているように、イスラエルの基本的役割は、他の神々や偶像に信頼した諸国民のようにではなく、(アハズ王のようにでもなく、)彼らを救うことのできる真の神に信頼することです(イザ41:7、21~24、28、29)。
名前のない主の僕(イザヤ書42章1節~7節)
問3
神がお選びになり、その上に主の霊を置かれた「神の名前のない僕」の役割と品性は、どんなものでしょうか(イザ42:2~7)。下記の中から、ふさわしい答えを選んでください。
- 国々の裁きを導き出す
- 静かに、穏やかに、しかし確実にその目的を果たす
- 教師である
- 神とその民との間の契約となる
- 見えない目をいやし、囚人を解放することによって、光または希望を与える
- 上記のすべて
問4
この僕の役割と品性を、同じく主の霊が宿っていた「エッサイの根から出た若枝」と比べてみてください(イザ11章)。
イザヤ42章と同様、11章に登場するダビデの血を引く統治者は、神と調和して働き、神の知恵と知識を与えると同時に、裁きを行い、虐げられた人々を解放します。すでに学んだように、このエッサイの「若枝」と「根」は、メシアです。また、イザヤ42章の「僕」は、明らかにメシアであると言えます。
問5
新約聖書は、この裁きを導き出す僕(イザ42:1~7)をだれであると見なしていますか(マタ12:15~21)。
マタイ12章は、イザヤ42章からの引用であって、イエスの沈黙の宣教であるいやしの働き、神の愛するみ子、神のみ心に適う者がそれに当てはまります(イザ42:1、マタ3:16、17、17:5)。イエスの働きによって神とその民を結ぶ契約関係は回復されます(イザ42:6、ダニ9:27)。
イエスの十字架の死は、「新しい契約」(マタ26:28、英文新欽定訳)を批准し、「この世の支配者」の地位を奪い取ったよそ者であるサタンを追放することによって、この世のために正義を獲得しました(ヨハ12:31~33)。
ペルシアの「メシア」(イザヤ書44章26節~45章6節)
問6
イザヤ44:26~45:6には、どんなすばらしい預言が登場しますか。
イザヤの宣教期間は紀元前745年頃から685年頃まででした。イザヤは、東と北からの征服者について述べ(イザ41:2、3、25)、それがエルサレムの良い知らせとなることを暗示した後(同27節)、正確に名指しでキュロスの登場を予告し、彼が何をするかについても記しています(同44:28、45:1)。確かにキュロスはバビロンの北と東からやって来て、紀元前539年に征服しました。彼はユダヤ人をバビロン捕囚から解放するという行為を通して神に用いられました。そして、エルサレムの神殿再建を承認しました(エズ1章と比較)。
この預言を頭に置いて考えてみましょう。イザヤの死から146年後にバビロンは陥落したわけですから、1世紀半も後のことを預言したことになります。
キュロスの行動は、バビロニアの年代記、彼自らが記録した「キュロスの円柱」、そして聖書(代下36:22、23、エズ1章、ダニ5章、6:28、10:1)を含むさまざまな古代の資料によって十分に立証されているので、イザヤの預言の正確さには議論の余地はありません。
問7
神はなぜキュロスを「油を注がれた人」(イザ45:1)と呼んでいるのでしょうか。
この「油を注がれた」というヘブライ語に「メシア」という言葉も由来します。この言葉は他の場所では、油注がれた大祭司(レビ4:3、5、16)、油注がれたイスラエルの王(サム上16:6、24:6、10、サム下22:51)、ダビデの家系に属するふさわしい将来の王また解放者としてのメシア(詩2:2、ダニ9:25、26)などにも用いられています。
キュロスの成就によって、神は、神だけが将来を見通されることを示され、その独自の神性を証明されたのでした(イザ41:4、21~23、26~28、44:26)。主はキュロスについて「暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる/わたしは主、あなたの名を呼ぶ者/イスラエルの神である」と言われました(同45:3)。
将来への希望
イザヤがキュロスの登場を正確に、名前で預言したという事実は、神によって将来を予告する預言者を信じない人々を当惑させます。彼らは「預言者」に対抗するために、キュロスの時代に生きていた「第二のイザヤ」がイザヤ40~66章を書いたのだという説を認めます。こうしてイザヤ書は、伝統的に彼自身がたどったとされる運命(ヘブ11:37参照)と同じように「二つに分断」されることになります。
しかしながら、「第二のイザヤ」が存在したという歴史的な証拠は何もありません。もしそのような人物が実在したのなら、聖書がそのことに言及していないことは理解できません。なぜなら、イザヤ書のこの部分〔40~66章〕は非常に重要であり、その文学的技巧は驚くべきものだからです。最古の聖書写本とされる「クムランのイザヤ書簡」にも、39章と40章の間に、別々の著者によって書かれたことを暗示する切れ目は存在しません。
「どんな地上の権力でもなく、ただ真の神とメシアなる救い主に信頼しなさい」。これがイザヤ書に一貫して流れる基本的なメッセージです。学者たちが強調するように、イザヤ1~39章はアッシリア時代に焦点を当てていますが、40章以降ではバビロニア時代に焦点が移っています。しかし、すでに学んだように、イザヤ13、14、39章はバビロン捕囚をすでに予見しています。イザヤ1~39章では裁きが、そして40~66章では慰めが強調されているのは事実ですが、それ以前の章にも神の慰めと保証の記述はいくらでもあります。そしてイザヤ42:18~25、43:22~28、48:1~11など、それ以降の章でも、背信のユダ王国に対する神の裁きについて記されています。事実、イザヤの「将来の」慰めの預言は、同時に苦しみも暗示しています。
問8
その罪のために民が恐ろしい災いに遭っても、なお希望を捨てない人々がいます。彼らは神の約束にすがります。レビ記26:40~45を注意深く読んでください。あなたがバビロンによって国を失った残りの民であったなら、この聖句からどんな希望を見いだすことができますか。
苦難を味わう「僕」(イザ49:1~12)
問9
イザヤ49:1~12にある主の僕とはだれのことですか。
主の僕の描写は、僕をメシアとして描いているイザヤ42章の描写と多くの部分で重なります。新約聖書はこの僕の特徴を、初臨および再臨のイエス・キリストに当てはめています(マタ1:21、ヨハ8:12、9:5、17:1~5、黙1:16、2:16、19:15)。
問10
この僕がメシアなら、神はここでなぜ彼を「イスラエル」と呼んでおられるのでしょうか(イザ49:3)。
この課ですでに学んだように、神の僕としての「イスラエル」と「ヤコブ」は通常、民族を指します。しかしこの(「ヤコブ」と共に表記されていない)「イスラエル」は、明らかに民を神に回復させる、個人としての僕を指しています(イザ49:5参照)。この個人の僕は「イスラエル」という名にふさわしくない民族の理想的な体現者、代表者になりました(同48:1参照)。
問11
ここに新たにどんな要素が加わりますか(イザヤ49:4、7)。
ここに初めて、この僕の働きには困難が伴うことが暗示されます。彼は嘆きを口にします。「わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした」(イザ49:4)。この聖句はダニエル9:26の「油注がれた者は/不当に断たれ……荒廃は避けられない」にも呼応します。しかし彼は信仰にすがります。「しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である」(イザ49:4)。
イザヤ49:7は衝撃的です。この僕は「人に侮られ、国々に忌むべき者とされ/支配者らの僕とされ」ます。しかし主は彼に言われます。「王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て」
さらなる研究
参考資料として、『各時代の希望』第26章「カペナウムで」を読んでください。
「救霊の働きにおいては、大いなる機転と知恵が必要である。救い主は決して真理を押しつけることなく、つねに愛をもって真理を語られた。人々と交わるときにも、救い主は大いなる機転を働かせ、つねに親切で、思いやりに満ちておられた。決して粗野な振舞いをせず、不必要に厳しい言葉を語らず、敏感な魂に不必要な苦痛を与えられなかった。人間の弱さを非難されることもなかった。救い主は恐れることなく、偽善、不信、罪悪を責められたが、厳しい非難の言葉を語られるときにも、その声には涙があった。救い主は決して真理を無慈悲なものとして教えず、いつでも人々に対して深い優しさを示された。すべての魂が救い主の目には尊いものであった。ご自身は神の威厳を備えておられたが、神の家族の1人ひとりに対する優しい同情と思いやりに満ちておられた。救い主はすべての人のうちに救うべき魂をご覧になった」(『福音宣伝者』117ページ、英文)。
まとめ
「救う」ためには「救う者」が必要です。神の僕であるイスラエルの民は、2人の「救う者」によって救われます。1人はバビロン捕囚から解放するキュロスであり、もう1人は、現在もその啓示は進行中である、「メシア」であると考えられる名前のない「僕」です。この僕は公正な裁きを回復し、生き残る者たちの集まりを神のもとに連れ戻します。
第10課 「信じえないこと」を行う
第10課 信じ得ないことを行う
中国人のクリスチャン、ラフ・フックはアフリカの炭鉱で奴隷となっている同胞への同情心に心を動かされました。フックは同胞に福音の希望を伝えたいと考えましたが、どうすれば彼らに接触できるでしょうか。フックの考えた方法は、自分が5年間、奴隷となることでした。彼はデメララ(南米ガイアナ)に送られ、炭鉱の重労働をしながら仲間たちにイエスについて語ったのでした。
ラフ・フックが死ぬまでに200人もの人々が、イエスを救い主として受け入れ、絶望という鎖から解放されたのでした。
他者の幸福のためにこれほどの驚くべき自己犠牲があるでしょうか。何というすばらしい模範でしょうか。
「僕の身分に」なるという「信じえないこと」をすることによって(フィリ2:7)、イエスもまた手の届かないところにいる人々に、つまり、罪の底知れぬ深みに沈み、失われたあなたと私と全世界に救いの手を差し伸べてくださったのでした。
今回は、それが起こる数百年も前に預言された、この驚くべき出来事について学びます。
試験真理(イザヤ書50章4節~10節)
もしイザヤが単に情報だけを伝えようとしたのなら、すぐにメシアについてすべて詳しく説明したでしょう。しかし、読者を教え、納得させ、「主の僕」との出会いを経験させるために、イザヤは豊かな交響曲のように同じ主題を繰り返す手法を用いています。彼は、それぞれの部分が残りの情景との関係の中で理解されるよう、段階的に神のメッセージを展開していきます。イザヤは聴衆の魂というキャンバスに描く画家のようです。
問1
イザヤ50:4~10を要約してください。イエスがどのように描かれていますか。
イザヤ49:7には、神の僕は侮られ、忌むべき者とされ、「支配者らの僕」とされますが、「王たちは見て立ち上がり、君候はひれ伏す」とあります。さらに50章に入ると、疲れた人を励ます言葉をお持ちになる優しい教師が歩む谷はより深くなり(イザ50:4)、彼の正しさを擁護するためには暴力といういばらの道を抜けて行かねばならない(同6節)との描写が続きます。
現代の西洋文化の中に生きる私たちにとっては、暴力は悪いことに思えます。しかし、古代近東文化においては、名誉は個人にとっても、その個人が属する集団にとっても生死にかかわる問題でした。もしあなたがだれかを侮辱し、不当な扱いをしたなら、あなたには身を守る覚悟が必要でした。そこにもし半分の可能性でもあれば、被害者とその一族は間違いなく報復したからです。
イザヤ50章では、人々は主の僕を打ち、ひげを抜き、唾を吐きかけています。これらの行為が世界的、宇宙的な出来事であるのは、犠牲者が天の「王の王」の使者であるからです。事実、イザヤ9:5、6(口語訳6、7節)と11:1~16を、イザヤ書の他の「僕」に関する記述と比較するなら、この僕が天の王、力ある救い主であることがわかります。しかし、これほどの力と栄光を持っていながら、ある信じがたい理由のために、彼は自分を救わないのです。あまりの予想外な光景のために民衆は信じられませんでした。指導者たちは十字架上のイエスを嘲りました。
苦難の僕の詩(イザヤ書52章13節~53章12節)
「苦難の僕の詩(うた)」として知られるイザヤ52:13~53:12は、「福音の預言者」としてのイザヤの評判を確かなものにしています。驚くほど短い詩でありながら、その一つひとつの言葉を、罪のうちに沈み、失われた人類の救いを求めてやまない神の信じがたいみ心という深い思想が貫いています。
イザヤは、この書の初めから「メシア」という主題を次第に発展させることによって、読者をこの書の主題に備えさせています。まずメシアの地上生涯全体を概観したのちに、メシアの受胎と誕生から語り始め(イザ7:14)、彼が神聖なダビデの家系の生まれであることを紹介し(同9:5、6〔口語訳6、7節〕)、彼のイスラエル回復の働きと(同11:1~16)、彼の「沈黙の宣教」である不正と苦しみからの解放について詳しく述べます(同42:1~7)。それから、高く上げられる前の悲劇という対比を含むメシアの一大ドラマが展開します(同49:1~12、50:6~10)。ここで「苦難の僕の詩」は悲劇のどん底に達します。
問2
上の段落で示した各部分をもう一度読んで、この詩がメシアとしてのイエスについて語っていることを復習しましょう。その目的は、読者がイザヤ52、53章に進む備えなのか、それとも単にこれらの章を印象的にするためなのでしょうか。
イザヤ52:13~53:1は、極端な対比からなる予告の詩です。主の僕は栄え、高く上げられますが、その姿は人とは見えないほどに損なわれます。そのようなことをだれが信じることができるでしょうか。
イザヤ53:2、3は、主の僕の出生とその平凡な容姿から、彼の悲しみと彼に対する拒絶へと続く、その痛ましいへりくだりの描写で始まります。4~6節は、彼の苦しみは私たちが受けるべき罰であり、私たちをいやすためであったことを説明します。7~9節は、罪なき僕が墓に葬られる場面へと続きます。
イザヤ53:10~12では、52:13から始まる詩の冒頭に予告されている通り、主の僕は報いとして高く上げられ、人々の救いのための彼の犠牲は神のみ心であったとの洞察が付け加えられます。
この詩をフィリピ2:5~11のキリストの「V字回復」と比較してください。キリストは神の身分でありながら、自分を無にして、人間と同じになられました。彼はへりくだって、十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高め、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と認めるのです(イザ49:7と比較)。
だれが信じえようか(イザヤ書52書13節~53書12節)
イザヤ52:13で、神の僕ははるかに高く上げられます。ところが次の節では、何の予告もなく彼の姿は損なわれ、「人の子」の面影がなくなったと描写されます。新約聖書は、イエスの外見がそれほどに損なわれたのは、むち打ちといばらの冠、そして十字架刑のためであったことは確かですが、何よりも人類の罪を負われたためでした。罪は決して人間のあるべき姿ではありません。ですから、罪を負われた「人の子」は、人とは見えなかったのです。
これを、ヨブの物語と比べてください。彼は突然、偉大な富、名誉、そして権力を握る地位から転落し、一転、灰の中に座り、陶器のかけらではれ物をかきむしる惨めな人間になります(ヨブ1、2章)。そのあまりにもひどい変わり様に、友人たちでさえ初めは彼だとわからなかったほどです(ヨブ2:12)。問題は、なぜヨブが苦しむのか、なぜ神のメシアが苦しむのかです。2人とも苦しまねばならない理由はなく、罪がないのです。ではなぜ苦しむのでしょうか。
問3
今日の聖句をもう一度読み返し、罪のない者が罪人のために苦しむことについて述べている箇所を書き出してください。そこにどんな重要なメッセージがありますか。
イザヤ53:1の問いに注目してください。これらの問いは信じえないことを信じることを強調し(ヨハ12:37~41と比較)、そして続く物語を、腰を据えて聞くように告げます。しかしこの問いは嘆願を含みます。この文脈から、二つの問いを読むと、主の救いのみ腕の力(イザ52:10と比較)が、「聞いたこと」を信じる人たちに啓示されていることになります。あなたは神の救いのみ力を体験したいと思いますか。それなら、「聞いたこと」を信じてください。
罪に沈む者たち(イザヤ書53書3節~9節)
見たところ特に価値もない無防備な植物のように見くだされる存在(イザ53:2、3)。それがここに描かれた「苦難の僕」の姿です。イザヤはすぐに、この罪のない若者を通して私たちを底知れぬ深みの底へと連れて行きます。あらかじめ彼の背景を教えられていたとは言え、私たちはこの僕の運命を受け入れる心の備えはできてはいません。逆にイザヤは私たちに、私たちのために生まれた「みどりご」、いと高き平和の君に希望を抱くように勧めています。他の人々は彼をさげすむでしょう。しかし私たちは彼が本当はだれであるかを知っているのです。
さて、昨日の「なぜ苦しむのか」との問いに対する答えは、イザヤのいわば〔リトマス試験紙ならぬ〕「試験真理」(testingtruth)です。神の愛のゆえに、メシアは自ら苦難の道を選ぶのです。なぜでしょうか。イザヤはついに信じがたいこの真理を完成するために「最後の一筆」を入れます。彼は罪に沈む者たち、すなわち私たちを救うために自ら苦難の道を選ぶのです。
真理を理解しない人たちは、主の僕は「神の手にかかり、打たれた」(イザ53:4)と考えます。ヨブの友人たちが、ヨブの苦しみは彼の罪のためだと考えたように、またイエスの弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハ9:2)と主に尋ねたように、十字架上のイエスを見た人たちは最悪の罪を想定しました。モーセは「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」と言いました(申21:23、民25:4と比較)。
しかし、これらすべては神のみ心だったのです(イザ53:10)。なぜでしょうか。キリストが「わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださ」ったからです(ガラ3:13)。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(2コリ5:21)。
「私たちのために何という対価が支払われたことだろうか。十字架を見よ。そしてそこに上げられたお方を見よ。残忍な釘によって刺し貫かれたそのみ手を見よ。木に打ち付けられたそのみ足を見よ。キリストはわれわれの罪をその身に負われたが、その苦しみ、その痛みはあなたの贖いのためなのである」(『神の驚くべき恵み』172ページ、英文)
償いの献げ物(イザヤ書53書10節~12節)
問4
主の僕が「とがの供え物」となる(イザ53:10、口語訳)とはどういう意味でしょうか。
〔口語訳や〕ヘブライ語の「とがの供え物」は、他人に対する故意の過ち(レビ5:21、22、〔口語訳6:2、3〕)を償うための「賠償の献げ物」(同5:14~26〔口語訳5:14~6:7〕、7:1~7)を意味します。イザヤはこのような罪を問題にしているのです(イザ1~3章、10:1、2、58章)。罪を犯した人は、神から赦しを受けるための犠牲を献げる前に、まず奪った物を相手に返し、さらに賠償金を払わなければなりません(レビ5:23~26〔口語訳6:4~7〕、マタイ5:23、24と比較)。神に献げるべき物を不注意に他の目的に用いた場合には、賠償は神に対してしなければなりません(レビ5:16)。
これで、イザヤ40:2に、神がその捕囚の民を慰め、彼らの罪に対する十分な賠償が支払われたと述べている意味が理解できたはずです。
しかし、賠償に続いて犠牲を献げなければなりません。イザヤ53章はこの犠牲が、小羊の代わりに神の僕が、屠り場に引かれる小羊のように(イザ53:7)、道を誤った者たちのために(6節)犠牲となる姿に描かれています。
「命ある者の地から断たれ」(イザ53:8、ダニ9:26と比較)、私たちのための希望の炎を燃え上がらせる犠牲の供え物となって完全に焼き尽くされながらも、主の僕は、栄光のうちに天に上げられるために、入れば再び戻れないはずの国である死から戻り、その「子孫」を見ることができ、その命をながくすることができるのです(イザ53:10~12、口語訳)。
問5
次の聖句はイザヤ53章と同じ基本的なメッセージをどのように表現していますか。詩編32:1、2、ローマ5:8、ガラテヤ2:16、フィリピ3:9、ヘブライ2:9、1ペトロ2:24
さらなる研究
「キリストは十字架の上のご自身の体をもってわれわれの罪を負われた。……だれ1人、限りある存在である人間には償うことのできない罪があるなら、それはどんな罪だというのだろうか。神にしか消し去ることのできない呪いがあるなら、それはどんな呪いだというのだろうか。キリストの十字架は、罪の刑罰は死であることをすべての人に証言している。……その罪の中には、道徳的感覚を奪い、心に響く聖霊のみ声に対して彼らを頑なにさせる何か強い、魅惑的な力があるに違いない」(『われらの高き召し』44ページ、英文)。
「神の統治の律法は、神の独り子の死によって拡大されるためのものだった。キリストは世の罪の罪責を負われた。私たちの必要は神のみ子の受肉と死によってのみ満たされる。キリストが苦しまれたのは神性によって支えられていたからである。キリストが耐えられたのは不従順や罪の汚れが一つもなかったからである。このように刑罰の裁きを受けることによって、キリストは人のために勝利された。キリストは律法を高め、それを尊いものとされる一方で、人に永遠の命を保証された」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻302ページ、英文)。
まとめ
神の救世主の出生とその背景、そしてその生涯を語ることによって、イザヤは遂に、私たちに希望を与えるための至高の悲劇の幕を開けます。私たちを含めて失われた者たちに手を差し伸べ、救い、そしていやすために、神の僕は自ら、私たちの受けるべき苦しみと罰を負われたのでした。
第11課 行動する愛
第11課 行動する愛
ネブラスカ州リンカーンに住むユダヤ教徒である聖歌隊の独唱者夫妻が、卑猥な嫌がらせの電話に悩まされていました。それはアメリカの憎悪(ヘイト)グループであるクー・クラックス・クランのリーダーの1人からの電話であることがわかりました。相手がわかったので、彼を警察に突き出すこともできましたが、彼らはもっと過激な手段に訴えることにしました。犯人の足が不自由であることを知った夫妻は、鶏肉料理を持って、彼の家を訪ねたのです。思いもよらない出来事に、彼は腰を抜かすほど驚きました。こうして、夫妻の愛が彼の憎しみを溶かしました。夫妻が訪問を続けるうちに、いつしか彼らの間に友情が芽生え、彼はユダヤ教徒になりたいとさえ思うようになったのでした。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え……」(イザ58:6、7)。皮肉なことに、リンカーンに住む夫妻は、自分たちは食べず、飢えた「虐げる者」に自分たちのパンを分け与えることによって、彼を縛っていた不当な偏見の縄目から彼を解放したのでした。
今回は、預言者イザヤが描いているこの重要な霊的原則について、さらに学びます。
ただで買い求めよ(イザヤ書55章1節~7節)
問1
「さあ、かわいている者は/みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ」(イザ55:1、口語訳)。この聖句には、どんな矛盾が見られますか。
あなたは食べ物を持って、大都市の街角で、空腹の人やホームレスの人々に向かって、次のように呼びかけているとします。「さあ、お金のない人は来て、買って、食べてください」。しかし、お金がない人たちがどうして買えるでしょうか。
そこで、イザヤがしたように、この呼びかけに「来て、お金を出さずに、ただで……買い求めてください」(イザ55:1、口語訳)という言葉を付け加えると、その意味がはっきりします。イザヤは人々に、遠慮せずに赦しを受け入れるように訴えます(同7節)。しかし、「買い求めよ」という言葉は、神が人間の必要と求めに応えてお与えになるものは価値のあるものであり、それを受けるためには、(何かそれに見合うものとの)取引が求められることを強調しています。神は、その民との回復された契約関係を前提として、無償で人に赦しをお与えになりますが、それは神にとっては無償ではありません。神はこの赦しを、主の僕の悲惨な、血による代価をもって買われました。この赦しが私たちにとって無償であるために、神は驚異的とも言える代価を支払われたのです。
問2
私たちの救いの代価は、何ですか(1ペト1:18、19参照)。
問3
イザヤの救いの理解は、新約聖書のそれと比較して、どのように似ていますか(エフェ2:8、9)。
イザヤが描写している旧約聖書の福音のエッセンスは、新約聖書のそれと同じです。神がアダムとエバに救世主の到来を約束されて以来(創3:15)、救いへの道はたった一つです。私たちは、「恵みにより、信仰によって救われ」たのです(エフェ2:8)。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ロマ6:23)。だからこそ人々は、イエスと、イエスが彼らのために十字架で完成された救いについて知る必要があるのです。
高い思い、高い道(イザヤ書55章6節~13節)
問4
なぜ神は、その思いと道が私たちのそれを「天が地を高く超えているように」高く超えていると言われるのでしょうか(イザ55:8、9)。
神の創造された宇宙の最も単純な物でさえ、人間の知性では、その神秘の片鱗さえ測り知ることはできないとすれば、神の神秘という道の入り口に立った人間がその先を全く見通せないとしても、何ら不思議ではありません。神のこの無限の優越性を知るとき、私たちはただへりくだって、神の助けをいただくしかありません(イザ57:15参照)。
問5
イザヤ55:6~9を読んでください。神はどんな文脈の中で、ご自分の思いと道が人間の想像を超えて高いと言われたでしょうか。私たちにはなぜ、それらが想像できないのでしょうか。
宇宙のすべての偉大な神秘の中で最も大いなる神秘は、疑いなく救いの計画です。私たちは、この神秘の理解という道の初めの数歩を踏み出しているにすぎません(エフェ6:19参照)。宇宙の創造主が身をかがめて人性を身にまとわれ、骨折りと苦しみの生涯を送られたこと。そうすることによってのみ、私たちのために罪の犠牲として死ぬことがおできになったこと。そして、それらすべては、私たちを赦し、私たちに憐れみを示すためであったこと──これらは、神によって造られた者たちの心を、あらゆる時代を通じて永遠に捉えて放さない真理です。
「贖いという主題は、天使たちも垣間見たいと望む主題である。それは、永遠の時を超えて休みなく、贖われた者たちの学ぶ科学、そして歌う歌となるであろう。だとすれば、それはこの世にあっても、今から注意深く考察し、学ぶ価値のある主題ではないだろうか。……
この主題の学びに終わりはない。キリストの受肉、その贖いのための犠牲、執り成しの働きに関する研究は、時が続くかぎり勤勉な研究者の心を捉えてやまないだろう。永遠の年月を数えながら天をながめて彼は叫ぶだろう。『神の神秘のなんと偉大なことか』」(『私の今日のいのち』360ページ、英文)。
偽りの断食(イザ58章1節~8節)
問6
イザヤ58:3にある「断食」は、何を意味しているのでしょうか。
イザヤ58:3にある「断食」は、「贖罪日の断食」を意味します(レビ16:29、31、23:27~32)。それは、レビ記の語法と同じように、イザヤ58:3でも「苦行」という表現と合わせて出て来ることからも明らかです。苦行(口語訳では「身を悩ます」)とは、断食を含むさまざまな自己否定を意味していました(詩35:13、ダニ10:2、3、12と比較)。
イザヤ58章を「贖罪日」という背景を念頭に置いて読むと、「声をあげよ、角笛のように」(1節)という神のご命令も理解できます。「ショファール」と呼ばれたこの種の角笛は、贖罪日の10日前に、この日の記念、または合図として吹き鳴らされました(レビ23:24)。さらに、50年目の贖罪日にも、ヨベルの年の解放の始まりを宣言するために、角笛が吹き鳴らされました(レビ25:9、10、イザ27:13と比較)。
問7
イザヤ58:3~7を読んでください。主は、彼らの断食の誤りについて、どのように訴えておられますか。
イスラエルの民は、主が自分たちの「信仰深さ」を喜んでくださると期待したようですが、当然、彼らの断食は、その本来の意味とは全く裏腹のものでした。贖罪日に行われる自己否定の行為は、神に対する感謝と忠誠心を表すためでした。大祭司はこの日に、聖所を清めるために神のみ前に出るのであり、それはすでに赦されている罪から彼らを清めるためでした(レビ16章を4章と比較)。その行為は、裁きの日に彼らを救ってくださった神に対する感謝と謝恩のしるしとして行われるべきであり、彼らの「信心深さ」や「献身」を神に認めていただくためではないのです。結局のところ、神の聖所を汚していたのは、主の民のそのような罪だったのです。汚された聖所は、血をもって清められなければなりません。そして、その血は彼らがした行い〔罪〕のために流されるのでした。
真の断食(イザ58章1節~12節)
神の民に、主が彼らの王であることを思い起こさせる角笛が鳴って10日後、民の自己否定の行為によって、彼らの王なる神への忠誠が確認される、まさにその贖罪日の当日、預言者は角笛のような声をあげて、彼らの背きを宣言するのでした(イザ58:1)。
問8
イザヤ58:6~12にある真の自己否定の行為とは、何ですか。結局のところ、自分の食事を数回抜くことと、自分の時間とお金を使って近所のホームレスに食事を提供することとでは、どちらが難しいですか。二つの行為の背後にある原則は、何でしょうか。このような行為は、どのようにして真の宗教の一部となりますか。
だれでも宗教的にはなれます。だれでも決められた時間に、決められた形式に従って、決められた儀式を行うことさえできるかもしれません。しかし、主はそれ以上のことを求めておられます。イエスの生涯を考えてください。イエスは当時の宗教儀式に忠実でしたが、福音書記者はなぜ、イエスの儀式に対する忠実さではなく、貧しい人々のためのイエスの憐れみ、いやし、パンの奇跡、それを必要とする者たちへの赦しに、これほど多くの紙面を割いたのでしょうか。
主は、福音を世に伝える教会、福音を世に伝える民を求めておられます。人々をイエスにある真理に引きつけるものは何でしょうか。食べ物に関する律法に厳格に従うことでしょうか。それとも、空腹の人を喜んで助けることでしょうか。安息日を厳格に守ることでしょうか。それとも、自分の時間と労力を割いて困っている人々を助けることでしょうか。
問9
マタイ25:40とヤコブ1:27を読んでください。これらの聖句は、私たちに何を語っているでしょうか。
イザヤ58章で神は、恵まれない人々に仕える人には祝福があると言われます。それは、人々に仕えるとき、私たちの人生に超自然的な介入があるという約束でしょうか。それとも、利己心や貪欲を捨て、自分の利益をおいて他者に自分を与えることによって、自然に祝福を受けるということなのでしょうか。
私たちの時間(イザ58章13節、14節)
問10
ここでイザヤは、なぜ安息日について論じているのでしょうか。先の贖罪日と関係があるのでしょうか。
年ごとの贖罪日は、安息日でした。この特別な儀式的な安息日は、週ごとの安息日のように、どんな働きも禁じられていました(レビ23:27~32)。したがって、初期のアドベンチストも認めていたように、贖罪日における安息が夕暮れから夕暮れまで続くという規定(同32節)は、週ごとの安息日についても真実でなければならないことを私たちに告げています。同様に、イザヤ58:13、14は、基本的に儀式的な贖罪日としての安息日という文脈の中で書かれていますが、その内容は週ごとの安息日にも適用されます。
問11
イザヤ58:13を読んでください。安息日はなぜ、このような日として描写されているのでしょうか。どうしたら私たちもそのような安息日の経験に入ることができるでしょうか。
イザヤ58章は、自己否定、社会に奉仕する親切心、安息日という三つの主要な主題を扱っています。これらは互いに、どのように結びついているでしょうか。
第一に、三つとも、自分でなく神に心を向けること、神を第一にすること、そして私たちは神に依存する存在であることを認めることを含みます。第二に、人間はこれら三つすべてを通して、神がそうであられるように聖さを求めるのです(レビ19:2)。キリストは、おのれをむなしくして人間の姿になられ(フィリ2:8、口語訳)、自己犠牲の親切心〔愛〕を行動によって示し(ヨハ3:16)、そして創造週の終わりに、その働きを終えて安息日にお入りになったのです(創2:2、3、出20:11)。
さらなる研究
「克己がなければ、どんな人でも真の慈善を実行できない。ただ単純と克己と厳しい節約の生活によって、初めてキリストの代表者として示された働きを遂行できるのである。高慢や世的な野心を心から捨て、あらゆる働きの面で、キリストの生涯の中に示されている無我の原則が、実行されなければならない。わたしたちの家の壁や額や家具に『さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ』という文字が書かれ、たんすには神の書かれた『裸の時に着せ』という言葉が、読みとられなければならない。また、食堂では豊かな食物を載せた食卓に、『飢えた人にあなたのパンを裂き与え』と記されているのを見なければならない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング新装版』134、135ページ)。
まとめ
イザヤ55章と58章で、イザヤは、彼らの思いと道を捨て、神に立ち帰るように訴えます。神の彼らの幸福のための思いは、彼らの思いをはるかに超えて高いからです。神は、神が憐れみをもって赦されたように、赦された者も憐れみ深くあることをお求めになります。それは贖罪の日と安息日の精神とも調和するものです。なぜなら、神の赦しという賜物は、それが真実に受け入れられるなら、心をつくり変えるからです。
第12課 諸国民の願い
第12課 諸国民の願い
イザヤ59章、イザヤ59:15~21、イザヤ60:1、2、イザヤ61章、イザヤ61:2
「私たちはキリストの学校で学ばなければなりません。キリストの義のみが、私たちに恵みの契約の祝福に入る資格を与えるのです。私たちが長い間、それらの祝福を望み、手に入れようとしても受けることができないのは、私たちが、自分で何かそれらの祝福に価する行いをすることができると考えているからです。私たちは、イエスを生ける救い主として信じながらも、自分から目を離さないのです。自分の優れた資質や功績が私たちを救うと考えてはなりません。キリストの恵みこそが、私たちの唯一の救いの希望です。主は預言者を通して、次のように約束されます。『神に逆らうものはその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。』(イザ55:7)私たちは、主の約束をありのままに信じなければなりませんが、信仰でなく感覚に頼ってはなりません。私たちが完全に神に信頼し、罪を赦す救い主なるイエスの功績を頼みとするとき、私たちは、望むすべての助けを受けるでしょう」(『信仰と行い』36ページ、英文)。
今回は、預言者イザヤの書に示されたこの偉大な真理について、さらに学びます。
罪の結果(イザヤ書59章)
イザヤ58:3で、民は神に次のように尋ねています。「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか」
しかし、イザヤ59:1には、「わたしたちはなぜ救えない主の手に救いを求め、なぜ聞くことのできない主に叫ぶのか」といった別の疑問が暗示されています。これに対してイザヤは、神は救うことも、聞くこともおできになると答えます(イザ59:1)。神が救われず、聞かれないのは、全く別の問題なのです。
問1
イザヤ59:2は59:1の疑問にどのように答えていますか。
神はあえて、ご自分の民を「無視」することをお選びになります。そう神が望まれるからではなく、「むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て」ているからなのです(イザ59:2)。これは、神と人間の関係に及ぼす罪の結果を最も明確に述べた言葉の一つです。イザヤは、この人類歴史を貫く罪の問題について詳しく述べるために、残る59章をすべて費やします。罪は、私たちの神との関係を破壊し、その結果として、永遠の滅びへと導きます。なぜなら罪は、神を私たちから遠ざけるのではなく、私たちを神から遠ざけるからです。
問2
創世記3:8は、上記の原則について、どのような例を示していますか。
罪とは本来、神を拒むこと、神から離れて行くことです。罪の行為はそれ自体、神から離れて行くことであるだけでなく、その行為の結果がさらに罪人を主から離れさせるのです。罪が私たちを神から引き離すのであって、神が罪人を遠ざけられるのではありません(事実、聖書は初めから終わりまで、罪人を救おうとされる神の記録に他なりません)。罪が、私たちに神からの救いの申し出を拒ませるのです。このようなわけで、私たちの生活の中のどんな罪も大目に見ないことが、非常に重要なのです。
だれが赦されるのか(イザヤ書59章15節~21節)
イザヤ59章は、罪の問題を容赦なく描いていますが、幸いなことに、聖書は同時に贖いの希望も提示しています。
問3
ローマ3:21~24は、私たちがどのように救われるのかについて、何を語っていますか。この事実は、裁きにおいて、どんな希望を与えてくれますか。
多くの人は、裁きにおいて問題なのは、だれが罪を犯したかだと考えます。しかし、それは問題ではありません。なぜなら、すべての人が罪を犯したからです。むしろ、だれが赦されるのかが問題なのです。神は「イエスを信じる者」を義とされるから、正しいのです(ロマ3:26)。主の裁きの判断基準は、だれがイエスを信じる信仰によって赦しを受け入れたか、そしてそれを受け入れ続けているかです。
さて、私たちが行いによって裁かれることは真実ですが、それは行いが私たちを救うという意味ではありません。もしそうなら、信仰は無意味です(ロマ4:14)。行いは、私たちが真の意味で救われているのかどうかを現わすものなのです(ヤコ2:18)。
問4
なぜ行いは、今現在も、そして主の裁きにおいても、私たちを救うことができないのでしょうか(ロマ3:20、23参照)。
〔神の目には、キリストの死によって贖いが完成した以上、〕良い行いや律法への服従が人を贖うには遅すぎるのです。罪の世にある律法の目的は、救うことではなく、罪を示すことです。
〔良い行いとは〕「愛によって働く信仰」(ガラ5:6、口語訳)なのです。つまり、聖霊によって私たちの心に注がれる神の愛が、イエスにある生きた信仰となって、私たちを行動させるのです(ヤコ2:26参照)。
行いは、〔内にあるものが〕外に現れたにすぎません。救いの信仰が、人間を通して現れたものなのです。したがって、真のクリスチャン経験は、主に対する日ごとの献身の中に現れるものであり、律法に対する服従となって現れるものです。裁きにおいて、神は行いを、神のように〔人の〕信仰の思いを読むことのできない被造物〔人間〕のための証拠として、お用いになります。しかし、回心した人にとっては、キリストと聖霊によって人生に力が与えられた、回心後の行いだけが裁きに関わるのです。回心前の罪の生活は、小羊の血によってすでに洗い清められているからです(ロマ6章参照)。
普遍的な訴え(イザヤ書60章1節、2節)
問5
イザヤ60:1、2は、何について語っていますか。そこには、聖書を貫いて流れるどんな原則が見られますか。
イザヤ60:1、2には、捕囚の後にその民を救出される神のみ姿が、キリストによる究極的な救いの完成を指し示して輝く、神が闇の中から創造された光のイメージをもって描かれています。
問6
イザヤ60:3で、国々と王たちは、だれの光に向かって歩むのでしょうか。
3節の「あなた」は、ヘブライ語では女性単数形になっています(イザ60:1、2参照)。それは明らかに、前章の終わり近くに出てくる、女性として擬人化された「シオン」を指します(同59:20)。ですから、闇に覆われた地上の民は、シオンに向かうことになります。彼らは、彼女の上に輝き出る神の栄光の光に引き寄せられます(同60:2)。「シオンは、彼女のものである光の中に入るように、そして、同じ光に集まる諸国民を見張り、〔彼らが攻撃すれば〕反撃するように命じられる」(J・アレック・モウシャー『イザヤの預言:導入と解説』494ページ、英文)。〔この解説が示すように〕シオンはエルサレムを指しますが、エルサレムの物理的位置よりも、その民が強調されていることに注意してください。
問7
この預言は、アブラハムに対する神の契約の約束とどんな点で似ていますか(創12:2、3)。どちらも同じことを言ってはいないでしょうか。
神は、アブラハムとその子孫をお選びになるにあたって、普遍的な目的をお持ちでした。したがって、アブラハムとの神の契約は、最終的にはアブラハムを通して、全人類との契約となるのでした。
イザヤは、彼の民を彼らのいにしえからの普遍的な運命に引き戻そうとしました。真の神の代表者として、彼らは彼ら自身に対してだけでなく、世に対して責任を負っていたのです。彼らは、神を求める異邦人を受け入れるべきでした(イザ56:3~8参照)。それは、神の宮が「すべての民の祈りの家と呼ばれる」ためだからです(同7節)。
「主の恵みの年」(イザヤ書61章2節)
問8
イザヤ61:1で語っているのは、だれですか。
神の霊がこの油注がれた人の上にあるということは、彼は解放者の1人(amessiah)か、「救世主」(theMessiah)であることを意味します。彼は、「貧しい人に良い知らせを伝え……打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知」(イザ61:1)します。これは、だれについての描写でしょうか。イザヤ42:1~7と比較してください。そこには、「主の僕」が非常によく似た表現で描かれています。
イザヤ61:2は、「主の恵みの年」(口語訳)について語っています。ダビデの血を引く王、そして救い主として油注がれるメシアは、解放を宣言する時に、神の恵みの特別な年を宣言します。レビ記25:10と比較してください。神は、イスラエルの民に、聖なる50年目の年に解放を宣言するようにお命じになります。「それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」。それは、先祖の土地を奪われ、あるいは困難な時期を生き延びるために奴隷になった人たちが(レビ25:25~55)、再び自分の土地と自由を取り戻すことを意味します。なぜなら、ヨベルの年は、贖罪の日に角笛が吹き鳴らされることによって始まったからです(同9節)。このことについては、イザヤ58章に関連して、すでに触れた通りです。
イザヤ61:2の「主の恵みの年」(口語訳)も一種のヨベルの年ですが、レビ記25章に規定された単なる恵みの年ではありません。この「恵みの年」は、王なるメシアによって宣言され、その時、彼は解放と回復の働きを通して、自身を世に現わすのです。このことは、古代メソポタミアの王たちの中に、その治世の初めに負債の免除を宣言することによって、社会的親切心を示した者がいたのと似ています。メシアの働きは、レビ記25章の律法の範囲をはるかに超えたものです。彼は、「捕らわれ人には自由」を宣言するだけでなく、打ち砕かれた心を包み、嘆いている人々を慰め、彼らに回復をもたらします(イザ61:1~11)。さらに、「主の恵みの年」に加えて、彼は「神の報復の日」を宣言するのです(同2節、口語訳)。
「神の報復の日」(イザヤ書61章2節)
問9
イザヤ61章に描かれたメシアは、すべての良い知らせの中で、なぜ神の報復を宣言しているのでしょうか。この預言は、いつ成就しますか。
ナザレにおられた時、イエスはメシアとしてイザヤ61章を、「主の恵みの年」のところまでお読みになり(イザ61:2、ルカ4:19、いずれも口語訳)、そこでやめて、次のように言われました。「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4:21、口語訳)。つまり、イエスは意図的に、次に出て来る「神の報復の日」(イザ61:2、口語訳)という言葉をお読みにならなかったのです。捕らわれ人をサタンの暴虐から解放するために、メシアの良い知らせ、解放、そして慰めの働きはすでに始まっていましたが、報復の日はまだ来ていなかったのです。マタイ24章には(マコ13章、ルカ21章と比較)、イエスが弟子たちに、将来の天の裁きの到来を預言なさる場面が記されています。
実に、イザヤ61章の「神の報復の日」とは、「主の大いなる恐るべき日」(ヨエ3:4〔口語訳2:31〕、マラ3:23〔口語訳4:5〕)のことであり、その日にキリストは敵を打ち破り、虐げられた彼の残りの民に自由を与えることによって、惑星地球を不法から解放するために再びおいでになるのです(黙19章をダニ2:44、45と比較)。このように、キリストは「主の恵みの年」の始まりを宣言されましたが、再臨において、その恵みは頂点に達するのです。
問10
愛の神が報復を約束なさるという考えを、どのように調和させることができるでしょうか。報復は、愛の表明なのでしょうか。
イエスは、〔もし一方の頬を叩かれたなら、〕反対の頬を向けるように言われた(マタ5:39)一方で、正義には刑罰が伴うことも、非常に明確に宣言されています(同8:12)。パウロも、「悪をもって悪に報いることのないように」と教えていますが(1テサ5:15)、主が天から燃え盛る火の中を来られる時、「神を認めない者……に、報復」する、とも言っています(2テサ1:8、口語訳)。
〔人間との〕違いはもちろん、主のみが、無限の知恵と憐れみのうちに、完全かつ公正に正義と報復をもたらすことがおできになるという点です。
さらなる研究
参考資料として、『人類のあけぼの』第33章「シナイからカデシへ」、『各時代の希望』第24章「この人は大工の子ではないか」を読んでください。
「イエスは、ご自身についての預言の生きた解説者として、人々の前にお立ちになった。イエスはいま読まれたことばを説明するにあたって、メシヤはしいたげられる者を救う者、とりこを解放する者、苦しんでいる者をいやす者、盲人に視力を回復する者、世に真理の光をあらわす者であるとお語りになった。イエスの印象的な態度と、そのみことばのすばらしい意味とは、聴衆がこれまでかつて感じたことのなかった力をもって、彼らを感動させた。神の力の波があらゆる障壁をうちこわした。モーセのように、彼らは目に見えないお方を見た。彼らは、心が聖霊に動かされるままに、熱烈なアーメンと賛美とをもって主に答えた」(『希望への光』784、785ページ、『各時代の希望』上巻293ページ)。
「神の報復の日が来る。それは神の激しい怒りの日である。だれが主の再臨の日に立つことができるだろうか。人々は神の聖霊に対して心を頑なにした。しかし、良心という矢には歯が立たないものを、神の怒りの矢は刺し通すのである。神が罪人を裁くために立ち上がる日は近い。その日、偽りの牧者は神に背く者たちの盾となるだろうか。大勢の者たちと共に不服従の道に進んだ者は弁解できるだろうか。犯しやすい罪だから、とか、多くの者が犯すからという理由で、罪は帳消しにされるだろうか。不注意な者たちや無関心な者たちも、これらの問いについて考え、自らの立場を決めなければならない」(『信仰と行い』33ページ、英文)。
まとめ
神は、反逆者たちを取り去ることによって、そして人々を神から引き離してきた罪から離れる残りの者たちを回復することによって、不条理な社会を清められます。神のご臨在の祝福によって、諸国の民は神と神の民に引き寄せられ、一緒にメシアによって宣言され、もたらされる神の恵みの時を楽しむことができるのです。
第13課 惑星地球の再生
第13課 惑星地球の再生
天文学の本を読み終えた12歳の男の子が、ある日、急に学校に行きたくないと言い出しました。驚いた母親は、その子をかかりつけの医師のところに連れて行きました。医師は尋ねました。「ビリー、勉強もしたくない、学校にも行きたくないなんて、何があったんだい」
ビリーは答えました。「だってね、先生。この天文学の本には、いつか太陽は燃え尽きて、地球上の生命は消滅するって書いてあったんです。結局何もかも死んでなくなるんなら、何をしても意味ないと思うんです」
母親は、ヒステリックに叫びました。「そんなことあなたには関係ないでしょ!そんなことが理由だなんて信じられないわ!」
医師は、母親をなだめるようにして微笑みながら言いました。「でもね、ビリー。心配しなくてもいいと思うよ。太陽が燃え尽きる前に、私たちはみんなとっくに死んでしまっているんだからね」
幸いなことに、私たちの存在は、死をもって終わるのではありません。私たちには、新しくされた世界で生きる永遠の命が約束されているのですから。
新しい天と新しい地(イザヤ書65章17節~25節)
問1
イザヤ65:17~25を読んでください。主は、どんな再生を約束しておられますか。
神は、新しい創造を約束しておられます。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」(イザ65:17)。この驚くべき預言の中で、主は「エルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する」と約束しておられます(同18節)。その都では、もはや泣く声は聞こえません(同19節)。人々は100年以上も普通に生きて(同20節)、働くことを楽しみとし、子孫を喜びとします(同21~23節)。彼らが呼びかけるより先に、神はお答えになります(同24節)。
問2
これはすばらしい光景ですが、なぜ私たちの最終的な回復と最終的希望を描いていないことがわかりますか。
ここまでは、「約束の地」における穏やかな生活が描かれています。しかし、人々は、長生きはしますが、まだ死ぬのです。「新しい天」と「新しい地」が創造される時に私たちが期待する〔人間の〕性質の根本的な変化は、どこにあるのでしょうか。続く25節は、次のように述べます。「狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(イザ65:25)。
ライオンのような肉食動物が菜食料理教室に入っても、菜食になることはできないでしょう。それには、罪によって死が生まれる前のエデンのように、この世界が再創造によって理想的な状態に回復されることが求められます。
イザヤ65章で神は、「新しい天」と「新しい地」を創造されるある過程、一つの段階として、エルサレムの再創造の始まりの姿を示しておられるのです。イザヤ11章の、メシアが正義を携えておいでになる描写と比較してください(イザ11:1~5)。のちに、最終的に、神の全世界に及ぶ「聖なる山」に平和が訪れます。イザヤ65章に見られるのと似た、「狼は小羊と共に宿り……獅子も牛もひとしく干草を食らう」という描写が、11章でも用いられます(イザ11:6、7)。主の「聖なる山」は、エルサレムのシオンの山から始まりますが、それは、神が新しい世界においてご自分の贖われた民に約束しておられることの前ぶれ、しるしにすぎません。
神の「磁力」(イザヤ書66章1節~19節)
問3
イザヤ66:1~19を読んでください。イザヤの時代を念頭に置いて、彼がここで基本的に何を言おうとしているのか考えてみましょう。
神はここで、イザヤの筆を通して、この書全体に一貫して流れる〔悔い改めへの〕訴えと警告を繰り返しておられます。すなわち、神が霊の砕かれた人々、み言葉におののく人々を救い、回復されるということです(イザ66:2、5)。イザヤ40:1にもあるように、神は彼らを慰められますが(イザ66:13)、神に反逆する者たちを滅ぼされます。この反逆する者には、神に忠実な者たちを憎み、拒む者たちと同じように(同5節)、偽善的儀式に見られる神の拒まれる犠牲をも含みます(同3、4節をイザヤ1:10~15と比較)。さらに、かつてエルサレムの神殿で行われたような〔偶像崇拝や〕、異教の邪悪で忌まわしいことを行う者たちも含まれます(エゼ8:7~12、イザ66:17)。
問4
イザヤ66:3には、どんな霊的原則が示されていますか。現代の教会と礼拝にも同じような考えが入り込んでいないでしょうか。
問5
神はどのように、磁石のようにすべての国を引き寄せられますか(イザ66:18、19)。
神は敵を滅ぼした後で(イザ66:14~17)、磁石のように人々をエルサレムに集めるために、ご自分の栄光を現されます(同2:2~4と比較)。神は、彼らの間に、「一つのしるし」を置かれます。ここでは、それが具体的に何であるかは示されていませんが、イザヤによって前に言及されているしるしであることは明らかです。すなわち、神がその民に喜びと平和を与え、彼らの地を回復されるということです(同55:12、13)。神が滅亡ののちに、その民を回復することによって栄光を現されるとき、ちょうど洪水ののちに、ノアに「契約の虹」をお与えになったと同じように、それは神の回復された寵愛のしるしとなるのでした(創9:13~17)。
宣教師と礼拝指導者(イザヤ書66章19節~21節)
問6
生き残った者たちを諸国に遣わし、すべての兄弟を主への献げ物として連れて来るとは、どういう意味でしょうか(イザ66:19、20)。
神は、「彼らはわたしの栄光を国々に伝える」とあるように(イザ66:19)、主の破壊から生き残った者たちを、地の果てまで、神を知らない人々に遣わされます。これは、旧約聖書における最も明確な宣教声明の一つです。言い換えるなら、諸国の人々がヘブライ民族に引き寄せられるばかりでなく、彼らの中から他の民族に真の神を教えるために出て行く者があるということです。この思想は、新約聖書にも明確に示されています。捕囚からの帰還からキリストの時代までの間にも、ユダヤ人による布教活動はありましたが(マタ23:15)、初期のクリスチャンによる宣教は、急速、かつ広範囲に及ぶものでした(コロ1:23)。
ちょうど、イスラエル人が神殿で主に穀物を献げたように、宣教者たちは、「すべての兄弟を主への献げ物として……あらゆる国民の間から」主のもとに連れて行くのです(イザ66:20)。穀物の献げ物が、神への生きた贈り物であるように、主に連れて来られる回心者たちは、主にとって「生けるいけにえ」なのです(ロマ12:1と比較)。人々が神への献げ物の一つとなり得るという思想は、ずっと古く、「イスラエルの人々の奉納物として、レビ人を主の御前に差し出して主に仕える者とする」という、レビ人の奉献の記述があります(民8:11)。
問7
「わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる」(イザ66:21)との神の約束は、何を意味するのでしょうか。
21節の「彼ら」は、その前の節の「あらゆる国民」を指します。神は、これらの異邦人の中から、祭司やレビ人と共に礼拝指導者をお選びになるのです。これは、大変革です。神は先に、アロンの子孫だけに祭司として仕える権威を与え、そしてレビ族だけに祭司を助ける者とされました。異邦人は、字義通りのアロンの子孫やレビ人にはなれませんが、神は、かつてほとんどのユダヤ人にさえ許されなかった祭司職に就く者が異邦人の中から出ることを、是認されるのです。
信仰の共同体(イザヤ書66章21節)
イスラエル人には、「祭司の王国、聖なる国民」であって(出19:6)、彼らを代表して礼拝指導者となるために特別な祭司が聖別されていましたが、将来、異邦人の中からも礼拝指導者が立てられるのでした(イザ66:21)。
問8
この変化は、新たにされた信仰の共同体に、どんな影響をもたらすでしょうか(マタ28:19、使26:20、ガラ3:28、コロ3:11、1テモ3:16参照)。
神の「新しい世界秩序」においては、異邦人は神の民に加わるだけでなく、彼らが一体となった信仰の共同体においては「王の系統を引く祭司」となって、ユダヤ人と平等な〔神の〕協力者になるのです。したがって、ユダヤ人と異邦人を区別することは事実上、的はずれなものとなるでしょう。
問9
このイザヤの預言は、いつ成就しますか。
異邦人を伝道したパウロは、次のように宣言しています。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、……あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(ガラ3:28、29)。
したがって、約束による相続人になることと、高められた「王の系統を引く祭司」になることは、気取ったエリート主義のための付託ではなく、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」を宣言する〔霊的〕ユダヤ人に加わるための信任なのです(1ペト2:9をイザ66:19と比較)。
異邦人が高められるということは、ユダヤ人に、異邦人にも同じ報いを与える神は不公平な方だと不平を言う理由を与えはしません。それは異邦人にとっても、遅く雇われた労働者が早く雇われた労働者を見下すべきでないように、ユダヤ人の兄弟姉妹を軽視する理由にはなりません(マタ20:1~16)。ユダヤ人は、神の啓示のチャンネルとして、初めに「神の言葉をゆだねられた」のです(ロマ3:2)。パウロは、異邦人に次のように書いています。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたがたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません」(同11:17、18)。
あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続く(イザヤ書66章22節~24節)
イザヤ書の最もすばらしい約束の一つであるイザヤ66:22を注意深く読んでください。新しい天と新しい地で、私たちの子孫と私たちの名は永遠に続くのです。もはや消し去られることも、切り倒されることも、接ぎ木されることも、根こそぎにされることも、引き抜かれることもないのです。私たちには、新しくされた世界での永遠の命が約束されているのです。それは、罪も、死も、苦しみもない世界、新しい天と新しい地、私たちキリスト者信仰の最終的かつ完全な成就、キリストが私たちのために十字架で成し遂げてくださったことの完結を意味するのです。
問10
イザヤ66:23の新しい天と新しい地の描写の中に、なぜ「安息日ごと」と共に「新月ごと」という言葉があるのでしょうか。
イザヤ66:23に出てくる新月に関しては、いくつかの解釈があります。次の解釈は、その一つです。神は犠牲制度が存在する前に、安息日を創造されました(創2:2、3)。ということは、安息日は犠牲制度によって崇められはしても、安息日が犠牲制度に依存することはないのです。このように、安息日は回復の期間を通じて、新しい地までとぎれることなく続くのです。月ごとの新月は、毎月実を結ぶ命の木と関連して(黙22:2)、(週ごとの安息日のように休息の日であるとは限りませんが)新しい地では礼拝日になるのかもしれません。
いずれにせよ、イザヤ66:23における重要な点は、神の民は永遠にわたって主を礼拝するという事実です。
問11
イザヤはなぜ、救われた者たちが、滅ぼされた、神に背いた者たちの死体を見るというような悲観的な情景でこの書を閉じているのでしょうか(イザ66:24)
イザヤはこの当時の人々への警告として描いたこの生々しい情景の中に、バビロンによる破壊から生き延びた忠実な者たちと、滅ぼされる反逆者との対比を暗喩したのです。この情景は永遠の責め苦を意味しません。その目的を達するまでやむことのない滅びである「火」によって殺され、反逆者たちは死んでいます。その後、エルサレムの再創造が始まるのです。
イザヤの警告は、黙示録の書に預言された最後の裁きを指し示しています。すなわち、火の池での罪人、サタン、そして死の滅びがあり(黙20章)、そののち、「新しい天と新しい地」、聖なる「新エルサレム」が到来します。もはや涙も嘆きもないのです。「最初のものは過ぎ去った」からです(黙21:1~4をイザ65:17~19と比較)。地から贖われた者たちすべては、永遠の命を得て、新しい存在となるのです。
さらなる研究
参考資料として、『各時代の大争闘』第42章「大争闘の終結」を読んでください。
「永遠の年月が経過するにつれて、神とキリストについてますます豊かでますます輝かしい啓示がもたらされる。知識が進歩していくように、愛と尊敬と幸福も増していく。人々は神について学べば学ぶほど、ますます神のご品性に感嘆するようになる。イエスが彼らの前に、贖いの富と、サタンとの大争闘における驚くべき功績とをお示しになると、贖われた者たちの心はいっそう熱烈な献身の念に燃え立ち、いよいよ喜びに満たされて黄金の立琴をかき鳴らし、万の幾万倍、千の幾千倍の声が一つになり、賛美の一大コーラスとなって盛りあがる。
『また、わたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」』(黙示録5:13)。
大争闘は終わった。もはや罪はなく罪人もいない。全宇宙はきよくなった。調和と喜びのただ一つの脈拍が、広大な大宇宙に脈打つ。いっさいを創造されたお方から、いのちと光と喜びとが、無限に広がっている空間に流れ出る。最も微細な原子から最大の世界に至るまで、万物は、生物も無生物も、かげりのない美しさと完全な喜びをもって、神は愛であると告げる」(『希望への光』1930ページ、『各時代の大争闘』下巻467ページ)。
まとめ
イザヤは、圧倒的なスケールで救いの情景を描写します。神は、その信仰の共同体を清め、そして回復されるだけでなく、その境界をすべての国々に広げられます。最終的に、神の共同体の再創造は、惑星地球全体へと広がり、神のご臨在がその民を究極の慰めとなります。