レビ記と生活(1989年1期SSガイド本より)

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目次

この記事について

*本記事は、安息日学校ガイド1989年1期『レビ記と生活』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

第1課 救いの聖所

第1課 救いの聖所

救いは信仰によって与えられる

罪人を救う神の方法はどの時代においても同じです。救いは、神が私たちの罪の代価を支払うために備えてくださった救い主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられます。

神のみこころを知る

イエス・キリストの時代以前に生きていた人々は、どのようにして自分の人生に対する神のみこころを知ったのでしょうか。神はどのような方法によって、彼らの社会が神の理想よりもはるかに劣ったものであることを教えられたのでしょうか。神はどのようにして、彼らが救い主を必要とする罪人であることを悟らせられたのでしょうか。神はどのような方法を用いて、彼らに救い主のわざを理解させられたのでしょうか。これらの疑問に対する答えがレビ記に記されています。

現代の多くのクリスチャンにとって、レビ記は遠い昔からのカビのはえた遺物と見られています。しかし、そうではありません。たしかに、レビ記は古い書物です。しかし、古いものがすべて古臭い遺物というわけではありません。レビ記を研究することによって、キリスト教の福音に新しい理解が得られます。それは、イエス・キリストのうちにゆるしと救いがあるという新約聖書の教えを私たちに確信させ、また人生のさまざまな問題について、神のみこころを私たちに示してくれます。

レビ記は、新約聖書と関連させて研究するとき、私たちにとって非常に重要な意味があります。イエスと新約聖書の記者たちは、モーセが霊感を受けたレビ記の著者であると認めています(マタイ8:1~4参照一レビ記14章、ヘブル7:14比較)。新約聖書の記者たちはしばしば、レビ記の儀式や律法がキリストの働きを例示するものであると述べています。

主は十戒を要約されたとき、「第二」の戒めをレビ記から引用されました-「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:39-レビ記19:18比較)。ャコプはこの戒めを、「きわめて尊い律法」と呼んでいます(ヤコブ2:8)。

宗教上の信仰は旧約聖書においても新約聖書においても同じです。レビ記が書かれてから3000年以上経過した時代に生きている私たちは、新約聖書—とくにヘブル人への手紙―を学ぶことによって、レビ記における聖所を中心とした儀式の持つすばらしい意味を知ることができます。そうすることによって、聖書に教えられている宗教上の信仰が旧約聖書においても新約聖書においても本質的に同一であることがわかります。さらに私たちは、「十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた」救い主をよりはっきりと見ることができます(ペテロ第I 2:24)。

父祖たちの信仰(ヘブル11:4、7、ガラテヤ3:8、ヨハネ8:56)

創世記には、アダムからモーセまでの父祖たちの生涯が簡単に描写されています。名前しか記されていない人たちもいます。しかし、私たちは三人の父祖たちの経験を通して、彼ら自身の信仰とモーセ以前の時代の忠実な父祖たちの信仰について知ることができます。

質問1

アベルはどんな方法によって、神に対する彼の信仰を表明しましたか。ヘブル11:4

「アベルは、贖罪の大原則を理解した。彼は自分が罪人で、彼の魂と神との間の交わりを、罪とその刑罰である死とが妨げているのを知った。彼は、ほふられた犠牲、すなわち、犠牲にされた生命をたずさえてきて、彼が犯した律法の要求を認めた。彼は、流された血によって、来るべき犠牲、カルバリーの十字架上のキリストの死を見た。そして、彼は、そこでなされる贖罪を信じて、自分が義とされ、供え物か受け入れられた証拠が与えられた」(『人類のあけぼの』上巻68ページ)。

質問2

ノアは来るべき大洪水と、洪水後の人々に伝えられるどんな真理を当時の人々に宣べ伝えましたか。ペテロ第I1・2:5、ヘブル11:7

質問3

アブラハムはどんな経験によって、来るべき救い主の犠牲が身代わりの死であることを理解しましたか。創世記22:1~14

アブラハムは福音の意味を学びました。「神は、型と約束によって、『アブラハムに…·良い知らせを、予告したのである』(ガラテヤ3:8)。そしてアブラハムの信仰は、来臨される贖い主に集中された。……イサクのかわりにささげられた雄羊は、われわれの身代わりとして犠牲となられる神のみ子を代表していた。人間が神の律法を破って死ぬべき運命に陥ったとき、父なる神は、み子をながめて、罪人に『生きなさい。わたしは、身代わりを見つけた』と言われた。

神が、アブラハムにその子を殺すように命じられたのは、アプラハムの信仰をためすとともに、彼の心に福音を現実的に強く印象づけるためでもあった。あの恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の贖罪のために払われた無限の神の大犠牲を、アブラハムが自分の体験によって学ぶために神が許されたのである」(『人類のあけぼの』上巻160、161ページ)。

イスラエルの信仰(ヘブル人への手紙10章1節~4節)

神は御自身の計画を示されました。イスラエル人はシナイにおいて、神のもとに一つの国家として組織されました。しかし、彼らの宗教は父祖たちのそれとは異なった、別のものではありませんでした。それは、犠牲制度で示された古代の父祖たちの信仰の開花であり、自然に発展したものでした。

以下の二つの事実がこのことを裏づけています。

  • イスラエルはシナイで、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコプと契約を結ばれた同じ神と契約関係に入っています(創世記17:7、8、出エジプト記6:2~8、19:3~6参照)。イスラエルは、先祖たちが礼拝していた同じ神を礼拝しました。イスラエルの霊的遺産はノア、セツをへて、アダムにまでさかのぼることができます。
  • 父祖たちの礼拝での基本的な犠牲である燔祭は、イスラエルの聖所においても続けられていました(創世記8:20、ヨブ記l:5、42:8参照)。父祖たちの燔祭は、祭司がイスラエルのためにささげる中心的な朝夕の犠牲として維持されました(出エジプト記29:38~42参照)。中庭の祭壇の名は明らかにこの事実に由来しています。それは、「燔祭の祭壇」と呼ばれていました(出エジプト記30:28)。

幕屋の礼拝は神の目的を明示していました。イスラエルの幕屋(神殿)での聖所礼拝が初期の父祖たちの礼拝と結びついていたという事実は、神の啓示が明らかにされることの一つの例でした。イスラエルの聖所での新しい礼拝形式のうちに、神の目的がより完全なかたちで示されていました。

神の計画のなかで、神の民が神について、罪の問題について、神との和解の方法について、新しい、より深い理解が与えられる時期が来ていました。

質問4      

レビ記の礼典律はイスラエル人のためにどんな役割をはたしていましたか。それにはどんな限界がありましたか。ヘブル10:1~4

これらの聖句はレビ記全体を理解するための鍵を与えてくれます。つぎの点に注目してください。

 これらの聖句における「律法」とは、犠牲、祭り、その他の儀式制度についてのモーセの教えのことです。この律法はレビ記のなかで簡潔に記されています。

  • レビ記の律法は「きたるべき良いこと」を予示するためのものでした。
  • 神はレビ記の儀式そのものにいかなる救いの価値をもお与えになる意図はありませんでした。それらは単に、人々の関心を来るべきメシヤに向けさせ、また彼らの信仰を真の救い主に向けさせるための影、予型、指針としての役目を果たすものでした。
  • 「きたるべき良いこと」とは、悔い改めた罪人を清める、きたるべき救い主の完全な犠牲をさしています。それはまた、彼らのために神のみまえでなされるキリストの大祭司としての働きをも示しています。

各時代における神の幕屋

神がイスラエルの礼拝を発展させるためにまずお取りになった方法は、幕屋を建てさせることでした。ほぼ500年後のソロモンの治世において、この「一時的」な天幕はエルサレムの恒久的な神殿に変わります。イスラエルの栄光であったこの壮大な神殿も、紀元前586年にネブカデネザルによって破壊されました。のちに、バビロンから帰ったユダヤ人は第二の神殿を建てました。ヘロデ大王は紀元前20年にこの神殿の再建・装飾に取りかかりました。イエスの在世当時も、この工事は続いていました。それが完成したのは、ローマ軍による神殿破壊があった紀元70年の少し前でした。イスラエルの聖所の建物はいろいろと姿を変えましたが、モーセがレビ記に残した儀式には変化はありませんでした。

質問5

地上の聖所と天の聖所とのあいだには、どんな関係がありますか。出エジプト記25:8、9、40ヘブル8:5、9:24

「ひな型」と訳されたヘブル語は、立体の模型または建築計画、あるいはその両方を意味すると考えられます。この言葉はより高い実在、つまり天の聖所、天の神の住まいを示すものでしょうか。ヘブル人への手紙の著者は、このことを肯定しています。彼は出エジプト記25:40を引用して、地上の聖所が天にある「真の」聖所の「模型」・「比喩」であると述べています(ヘブル8:1、2参照)。

建築者である神

「その大きさと形、使用する材料、内部の造作に関する細かい指示を含めたその構造設計は、神ご自身がモーセにお与えになった。手で造られる幕屋は、『ほんとうのものの模型』

『天にあるもののひな型』(ヘブル9:23、24)―われわれの大いなる大祭司キリストが、ご自分の生命を犠牲となさった後で、罪人のために奉仕なさる天の神殿のひな型であった。神は、山でモーセの前に天の聖所の光景を示し、すべてのものを示された通りに造ることを命じられた」(『人類のあけぼの』上巻405、406ページ)。

質問6

神の救いの福音を示していたイスラエルの神殿、聖所、レビの儀式によって、神は最終的に何を教えようとされたのでしょうか。イザヤ書56:6、7

私たちの天の父なる神はすべての人類家族を愛しておられます。神はイスラエルに対して輝かしい理想を持っておられました。神はすべての民族に恵みを伝えるという一大計画のもとにイスラエルを御自分の代理者として選ばれました。神の神殿は「すべての民の祈の家」となるのでした(イザヤ書56:7)。神はレビ記の儀式と象徴によって、彼らに救いの計画を教え、個人的な救いをもたらそうと望まれたのでした。

クリスチャンの信仰(使徒行伝13章32節、33節、38節、39節)

質問7

レビ記の犠牲制度はどんな重大な出来事で成就しましたか。この事実は、使徒たちがイエスについての「良きおとずれ」を宣ベ伝えるうえでどんな力になりましたか。使徒行伝13:32、33、38、39(ヘブル10:4比較)

罪人を救う神の方法はどの時代においても同じです。犠牲制度(モーセ以前の時代には単純な形式であったが、モーセの時代に拡大された)は、父祖たちにもイスラエル人にも福音、つまり神の約束された救い主に対する信仰による救いを教えていました。新約時代以後)クリスチャンはキリストの出現という事実を喜んできました。救いの計画は長いあいだ、レビ記に記された儀式や象徴によって予示されてきました。この救いはイエス・キリストの汚れなき生涯、あがないの死、大祭司としての務めによって現実となりました。

質問8

クリスチャンの信仰は今日、どこに向けられるべきですか。罪人はとうするように求められていますか。ヘブル8:1、2、4:14~16

父祖およびイスラエル人は救い主の初臨を待ち望みました。クリスチャンはカルバリーを振り返り、キリストの再臨を待ち望みます。

しかし、新約聖書はまた私たちの目を天に向けさせてくれます。私たちは天の聖所におられる大祭司、生けるキリストに目を向けるべきです。

質問9

黙示録には、イエスが奉仕しておられる天の聖所がとのように描かれていますか。黙示録4:1、黙示録7:15、黙示録8:3、黙示録11:19  、黙示録15:5、8   

キリストの聖所での奉仕の重要性

「天の聖所は、人類のためのキリストのお働きの中心そのものである。それは、地上に生存するすべての者に関係している。それは、贖罪の計画を明らかにし、ゎれわれをまさに時の終わりへと至らせて、義と罪との戦いの最後の勝利を示してくれる……。

天の聖所における、人類のためのキリストのとりなしは、キリストの十字架上の死と同様に、救いの計画にとって欠くことのできないものである。キリストは、ご自分の死によって開始された働きを復活後、天において完成するために昇天されたのである。われわれは、信仰によって、『わたしたちのためにさきがけとなって、はいられた』幕の内に入らなければならない(ヘブル6:20)。そこには、カルバリーの十字架からの光が反映している。そこにおいて、われわれは、贖罪の奥義について、もっとはっきりした理解を持つことができる」(『各時代の大争闘』下巻222、223ページ)。

質問10

私たちはレビ記に示された聖所の象徴や型を、どんな原則によって解釈すべきですか。ヘブル9:9、8:4、5、10:1

比喩・影としての聖所

  • レビ記の聖所はいわば教材であって、「比喩」と定義されています。聖所の二つの部屋と儀式を説明したあとで、使徒はそれを「今の時代に対する比喩〔ギリシア語でパラボレ〕」と呼んでいます(ヘブル9:9、1~8節比較)。比喩はふつう、一つの真理をわかりやすく説明するための短い物語です。細かい事柄は、問顕点を明らかにするのに役立ちます。聖所は互いに関連のあるいくつかの真理を説明するための複雑な比喩です。私たちは最も強調されているものに目を向けるべきです。聖所の儀式の細かい点のいくつかは、全く霊的意味を持っていません。
  • レビ記の聖所、その祭司職、儀式はまた、天の聖所とその奉仕の「影」あるいは型と定義されています(ヘブル8:4~5、101参照)。型としての聖所は、預言と同じように、イエスのあがないの死と大祭司としての二段階の働きを概略的に予示しています。
  • 福音あるいは救いの計画は、レビ記の型によって描写され、予示されています(ヘブル4:1、2、8:1~6参照)。比喩、影、型としてのレビ記の聖所は、救いの計画についての真理を説明し、明示しています。また、救いの計画についての聖句は比喩・型としての聖所に対する私たちの理解を深めてくれます。

福音は鍵

「ユダヤ制度の意義は、まだ一般に十分に理解されていない。その儀式や象徴の中に意味深い真理が予表されていた。その神秘を開くかぎが、福音である」(『キリストの実物教訓』111ページ)。

まとめ

神はひとり、反逆は一つ、罪深い人類のための救いの計画は一つです。この救いは神の備えてくださった救い主を信じることによって与えられます。キリストの初臨以前に生きていた人々にとっては、犠牲の型がこの真理を予示していました。現在の私たちは、救い主の受肉、あがないの死、よみがえりを現実の出来事として振り返り、今、天の聖所においてなしておられるキリストの大祭司としての働きを信仰によってながめることができます。

第2課 罪のらい病からの清め

第2課 罪のらい病からの清め

キリストはいやし、清められる

聖書において、らい病は罪の象徴として用いられています。感覚をまひさせ、腐敗させるらい病の「流出」は、有害な原則の働きを示しています。清めの儀式はキリストのいやしの働きを示すもので、らい病患者はこれによって神と人との完全な交わりに復帰することができました。キリストの恵みだけが、私たちを罪という内面の汚れから清めるのです。

キリストは人間の必要を満たされる

現代の社会は罪を古くさい概念としてしりぞけ、人間の苦悩をほかの原因に帰しています。しかし、聖書はさまざまな予型を用いて人間の罪の恐ろしさ、罪の力に対する人間の無力さを強調しています

聖書は罪を不浄、汚染、内面的・浸透性の汚れ、堕落として描写しています。救いは清めによってもたらされます。レビ記にこの種の予型が用いられている証拠として、モーセが「不浄な・汚れた」(ターメー)およびそれに関連した語を140回以上、またその反対語である「清い・清浄な」(ターヘール)という語を70回以上、用いている事実をあげることができます。さらに、レビの制度は水と血によって清めがなされ、汚れが取り除かれる過程を明らかにしています。

レビ記第13章、第14章に記された皮膚病が何であったのかは明らかではありませんが、レビ記の律法はその中にらい病を含めています。したがって、今回の研究はそれにもとづいたものとなっています。罪の起源と同じく、らい病の原因も完全にはわかっていません。

罪と同様に、らい病は内側から静かに、知らないうちに作用し、感覚をまひさせ、内臓をおかし、ついには大事な血液を腐敗させてしまいます。

今回は、らい病のもたらす汚れについて考え、聖書に記された4人のらい病患者の物語について学びます。それから、清めの儀式に必要な要素について学び、聖霊の助けによってその意味について考えます。

この儀式的な清めはイエスを指し示しています。イエスは人間の絶望的な必要を満たす犠牲、清めの源泉、仲保の祭司です。彼は私たちのらい病(罪)をご自身に負われたゆえに、堕落した者たちを思いやり、彼らを清め、父なる神との交わりに回復することがおできになるのです。

罪による汚れ

らい病は人間性そのものの象徴なので、儀式的な清めも、単なる外面的な行いだけでなく、人間そのものに関係したものです。

質問1

らい病の不安におののいている人は何によって希望を与えられましたか。レビ記13:6、23、28、34

救いの計画の目的はいつでも、まず罪を制限することであり、つぎにそれを滅ばすことでした。

「私どもは、自分の力で一度沈んだ罪の淵からのがれることはできません。また、私どもの悪い心を変えることもできないのであります。『だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか、ひとりもない』(ヨブ記14:4)、『肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである』(ローマ8:7)とあります。教育、教養、意志の力、人間の努力などいずれも、それぞれ大切な役割をもってはいますが、心を新たにする能力は全くないのであります。もちろん、私どもの行動にただ外面的の正しさは与えるかも知れませんが、心を変えることもできなければ、生活の原泉をきよめることもできないのであります。天よりの新しい生命がその人の内部に働かなければ、人は罪よりきよめられることはできません。この力というのはキリストであります。キリストの恵みのみが人の力なき魂を生きかえらせて、これを神ときよきに導くことができるのであります」(『キリストへの道』15、16ページ)。

質問2

レビの制度においては、信じるイスラエル人がすべての汚れから清められるということは重要なことでした。神にとってそれはとれほと重大なことでしたか。レビ記15:31~35

儀式的な汚れから清められるためには、以前に罪のために定められていたのと同じささげ物をする必要がありました。罪祭と燔祭が罪と深刻な汚れのためにささげられました。このことは、儀式的な汚れが道徳的な罪の重大さと罪の汚れの恐ろしさを強調していたことを示しています。

らい病に関する律法は、罪人が病人であって、死ぬ運命にあることを教えています。当時のらい病は、ある意味で現代のエイズに似ています。

質問3

らい病の伝染を予防するために、どんな方法がとられましたか。アロンはこの病気の恐ろしさをとのように表現していますか。レビ記13:45、46、民数記12:9~12

「東洋で知られているすべての病気の中でらい病が一番恐れられていた。その病気は伝染してなおりにくいという特性がある上に、病人に恐ろしい結果を及ほすので、どんなに勇敢な人でも恐怖に満たされるのであった。ユダヤ人の間では、それは罪を犯した罰とみなされ、そのために『行羅』とか『神の指』などと呼ばれていた。この病気は根深くて、根絶することができず、致命的であるために、罪の象徴とみなされた。らい病人は、儀式の規則によって、けがれた者と宣告された。彼はすでに死んでしまった者のように、人々が住んでいるところからしめ出された。彼のさわったものはみなけがれた。空気も彼の呼吸によってけがれた。この病気の疑いのある者は、祭司にみてもらい、祭司が調べてみて病気かどうかを決定するのであった。もしらい病人であると宣告されたら、彼は家族から隔離され、イスラエルの会衆から絶たれ、同じようにこの病気にかかっている者とだけしかまじわれない運命に定められた。律法の要求は曲げることができなかった。王や役人たちでさえ例外ではなかった。この恐るべき病気に襲われた君主は、王位を捨てて、社会から逃げ出さねばならなかった。らい病人は友人や肉親から離れて、自分の病気ののろいを負わねばならない。彼は自分のわざわいを公表し、衣を裂き、警戒の声をあげて、不潔な自分の前から逃げるようにみんなに警告しなければならなかった。人々は、孤独な追放人が悲しい調子で『けがれた者、けがれた者』と叫ぶ声を、一つの合図として恐怖と嫌悪の念をもって聞いた」(『各時代の希望』上巻328、329ページ)。

質問4

以下の聖句を読み、彼らがなぜらい病になったのかを調べてみましょう。このことは今日の私たちにとってどんな意味がありますか。

出エジプト記4:1~7(モーセ)

民数記12:1~6、9、10(ミリアム)   

列王紀下5:20~27(ゲハジ)

歴代志下26:14~21(ウジャ)

ヘブル人はらい病を天からの「打撃」の結果と信じていました(レビ記14:34参照一一神は家にらい病を「生じさせる」とあります)。らい病人は「神にたたかれ」たのでした(イザヤ書53:4)。ユダヤ人はイザヤのこの預言によってメシヤを人間の性質を持った「ユダの家系のらい病人」と信じました。メシヤは神からつかわされた身代わりとして、人間の堕落した性質をとられるのでした。

質問5

 キリストはらい病人たちをいやされたあとで、彼らにどうするように言っておられますか。ルカ5:13、14、17:11~14、マタイ8:4

救い主はこの指示によって、モーセがレビ記の規定を書いたことを認められただけでなく、ご自身が15世紀も前にイスラエルに与えられた規定に従われました。救い主はさらに、それによってメシヤが来られたことを祭司たちに教えようとされたのでした。

清められた汚れ

汚れは、水、血、火という異なった三つのものによって象徴的に清められました。これらはみな、来るべきメシヤによって与えられる神の清めの恵みを指し示していました。

質問6

イザヤは幻を通してどんな経験をしましたか。それは彼にどんな影響を及ぼしましたか。燃える炭が口に触れるとは何を意味していますか。イザヤはとのようにして汚れから清められましたか。イザヤ書6:1~7(マタイ12:34比較)

キリストのすぐれた完全さは私たちの罪深い汚れをきわだたせるものです。「彼〔イザヤ〕が御使いたちの歌を聞いているうちに、……主の栄光、無限の力、すぐれた威光が彼の幻の前を通り過ぎ、その魂を印象づけた。神の品性を啓示するこの比類なき輝きの中でイザヤ自身の内面の汚れが強烈に示された。彼の言葉そのものが汚れたもののように思えた……。弱く、欠陥だらけの人間性が神の完全な生活・輝き・栄光と対比されたとき、彼は自らの無力さ、価値のなさを感じたのであった」(『SDA聖書注解』第4巻1140ページ、エレン・G・ホワイト注)。

「キリストを見る者たちはみな、このようになる。……クリスチャン経験において一歩進むごとに、われわれの悔い改めは深まる。われわれはキリストによる以外に満足はないことを知り、使徒パウロの告白をわれわれもするのである。『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことをわたしは知っている』。『わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである』(ローマ7:18、ガラテヤ6:14)」(『患難から栄光へ』下巻264、265ページ)。

質問7 

祭司がらい病の疑いのある者を調べ決定を下すということのうちにどんな重要な真理が示されていますか。レビ記第13章第14章を読んでください。次にそれらの聖句をヨハネ5:22、ペテ口第I 4:5と比較してください。

モーセは36回以上、らい病かどうかを調べて決定を下すことのできるのは祭司だけであると述べています。イエスは私たちの祭司であり、父なる神から「さばきのことはすべて」ゆだねられた唯一のおかたです(ヨハネ5:22、使徒行伝17:31)。その生活(「肉」)、行為(「衣服」)、家族(「家」)に「らい病」のきざしが見られる人々をさばく権威が与えられている人はイエス以外だれもいません。

質問8

清められたらい病人は聖所に近づくことができなかったので、律法は祭司に何をするよう要求していましたか。レビ記14:2、3

質問9

らい病人が清い者とされるときに、神は彼に何を求められましたか。それらは何を予表していましたか。レビ記14:4、5、10(マタイ10:29~31、詩篇51:7、ヨハネ1:29、36比較)

質問10

祭司がらい病人と「宿営の外に出て行く」行為は私たちの大祭司イエスについてどんなことを教えていますか。レビ記14:3(レビ記16:27、ヘブル13:11、12比較)

質問11

祭司が小鳥を殺して、その血を水に注ぐ行為は何を示していたと思いますか。レビ記14:7

イエスは犠牲でした

「殺した小鳥の血にひたし、それから喜ばしい生命に解き放たれる生きている小鳥のすばらしい象徴は、私たちにとってあがないの象徴である。それは死といのちの融合を示すものであり、あがないの主のゆるしの血の、よみがえりと生命への結合という隠れた宝を真理の探求者に示すものである。小鳥は流れ水の上で殺された。この流れ水はつねに流れ、つねに清める効力を持ったキリストの血の象徴であった。このキリストは世の初めからほふられた小羊であり、ユダとエルサレムのために開かれた泉であった。人々はこの泉で洗われ、すべての罪の汚れから清められるのであった。私たちもキリストのあがないの血に遠慮なくあずかるべきである。これは罪深い人間に与えられた最も尊い特権であり、最大の祝福である。それなのに、この大いなる賜物がほとんど活用されていない。流れは深く、広く、絶えることがない。聖潔を求めるすべての人か平安と安息、聖霊の生気に満ちた力、そしてキリストとの聖潔と幸福と平安に満ちた生活、尊い交わりにあずかることができる。そのとき初めて、私たちはヨハネと共に、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』と言うことができる」(『SDA聖書注解』第1巻1111ページ、エレン・G・ホワイト注)。

質問12

結局、私たち罪人を罪の汚れから清めるものは何ですか。ィエス・キリストを私たちの救い主また主として受け入れるとき、私たちのうちにどんな根本的な変化が起こりますか。コリント第II 5:17

変化は再創造を必要とする

「失われた罪人を『新しく、造られた者』に変えるためには、最初に生命を生み出したのと同じ創造力が必要である。……それは、通常の人間の経験とは全く別の、超自然的な働きである。この新しい性質は、一部の人たちが考えているように人が生まれつきもっている道徳的力の産物ではない」(『SDA聖書注解』第6巻868、869ページ)。

旧約聖書には、いやされたらい病人がレビ制度の清めの儀式に参加できたという例が一つも記されていません。福音書はそのような人々に対するキリストのあわれみを描写しています。キリストはモーセの教えに従って、いやされたらい病人がふたたび社会に復帰することができるように、彼らを祭司のもとに送り返しておられます(マタイ8:1~4参照)。

罪人は神の完全な品性を見るとき、罪が自分のうえにもたらした汚れも見ることになります。罪人は、自分のそばに立って、喜んで受け入れる者を清め、いやそうとしておられる完全なおかたイエスをながめるべきです。

まとめ

レビ記は、罪の性質を内面の汚れとして描いています。このことは私たちに、自分の大きな必要をより深く実感させてくれます。なぜなら、私たちは自分の汚れた状態から清いものを引き出すことができないからです。このことを理解するとき、私たちはキリストに導かれます。キリストの血だけが私たちの汚れを清め、内面から新しい心と新しいいのちを造り出してくれます。

第3課 犠牲とささげ物

第3課 犠牲とささげ物

キリストは私たちのすべて

燔祭、素祭、灌祭は、私たちの存在そのもの、また私たちの持ち物のすべてがキリストから来て、キリストのものであることを教えるためのものでした。

ささげ物はキリストのあがないを示している

レビ記にでてくる四つの重要なささげ物はキリストの苦難を示しています(詩篇40:6~8、ヘブル10:4~10参照)。それらは、キリストが罪人をあがなわれる方法を例示しています。それぞれ、次の三つの特徴を備えていました。(1)指定された献奉者、(2)決められたささげ物、(3)儀式を司る祭司。それらの中心はイエスでありました。献奉者としてのイエスは、完全な人としてその品性を私たちに示されます、ささげ物としてのイエスは、完全な身代わりとしてご自分のいのちを私たちに与えられます。祭司としてのイエスは、完全な神として私たちのためにご自分の勝利を主張されます。

今回は、燔祭(はんさい)、素祭(そさい)、酬恩祭(しゅうおんさい)について研究します。次回は、罪祭と愆祭(けんさい)について学びます。

レビ制度における清めは、血、水、火という三つの要素によってなされました。それらは互いにイエスを指し示していました。

血は罪を清める最高の要素でした(ヘブル9:22)。なぜなら、「肉の命」が血にあるからです(レビ記17:11)。血は犠牲の生命の象徴なので、最も貴重なものです。血は、すべてのものが、完璧にささげられたことを示しています。血は罪からの清めをもたらすキリストの犠牲を象徴していました。

水は痛みをともなうことなく表面的な汚れを清めるもので、キリストの裂かれた心臓から流れ出た「罪と汚れとを清める一つの泉」を示しています(ゼカリヤ書13:1、ヨハネ19:34、ヨハネ第I.5:5、6)。パウロはこの水を、再生をもたらす御霊によって心にそそがれる霊感の言葉にたとえています(エペソ5:26、テトス3:5)。

もう一つの要素である火は聖霊を象徴するもので、これ以上に汚れを消すのにふさわしいものはありません。イエスはご自分の火によって汚れを取り除かれます(マラキ占3:2、3、イザヤ書4:4)。神ご自身から下る祭壇の火(レビ記9:24)は、エデンでのアベルのささげ物、カルメルでのエリヤのささげ物の場合のように、ふさわしいものを受け入れられることのしるしでした。火、水、血は、聖所のささげ物を神に受け入れられるものとしました。なぜなら、それらかイエスの力を表していたからです。

全焼のささけ物—私の存在そのものはキリストのもの(レビ記1章1節~17節)

レビ記は全焼のささげ物についての記述で始まっています。これはイスラエルの犠牲のなかで最もひんぱんにささげられたものです。それはアベル、ノア、アブラハムなどの父祖たちによって、規則的にささげられました。それは、アダムとエバがエデンから追放されたときから、神が、シナイでご自分の民に救いの科学を教えられたときまでの2500年間にささげられてきた唯一のささげ物と思われます。

アブラハムの契約の犠牲と、イスラエルが年ごとにささげた過越の小羊は例外です。その他の犠牲によって教えられている原則の大部分は燔祭のなかに示されていました。

燔祭は人間に代わって死なれる救い主を表す一方で、礼拝者自身をも表していました。この儀式を通して、礼拝者は救いの大いなる真狸を学びました。礼拝者の罪は犠牲の上に置かれ、反対に、犠牲の潔白さが礼拝者のものとされました。

この儀式は礼拝者に対して、律法が不変であること、また罪の刑罰が死であることを思い起こさせました。「流され」、「注がれ」た身代わりの動物の血はそれをささげた者に対して、自分の罪が祭司によってゆるされ、あがなわれたことを確信させました。

全焼のいけにえを神にささげることは、神に完全に献身することを表していました。そのため、犠牲は祭壇の上で完全に焼かれました。礼拝者はその燔祭を通してこう宣言したのでした—「私の存在そのものはキリストのものである」と。

ささげ物 

燔祭と酬恩祭はともに「香ばしいかおり」のささげ物として描かれています(創世記8:21)。それは、満足させる香り、成就させる香りといった意味を暗示しています。

質問1 

次の聖句を読み、犠牲がなぜ神に対する「香ばしいかおり」なのかを調べてください。レビ記1:9、エゼキエル書20:40、41、コリント第11・2:15、エペソ5:2

神はご自分の民に対して、神に対する国民的献身のしるしとして、神の聖所で「継続的に」、「毎日」、朝夕の全焼の燔祭をささげるように求められました(出エジプト記29:38~42)。神はまた各人に対して、いつでも個人的なささげ物をするように求められました。

質問2

次の聖句を読み、そこに登場する5人の人物がなぜ燔祭をささげたかを調べてください。

ノア(創世記8:20~22)         

アブラハム(創世記22:1~14)

ヨブ(ヨブ記1:4、5)

ヨブの友人たち(ヨプ記42:7、8)    

ヒゼキヤ(歴代志下29:27、28)       

人間はつねに訓練を必要とします。自分の思い通りにまかせられるなら、私たちは神を忘れ、自分の時間、財産、力を自分自身のために使い尽くしてしまうでしょう。神はご自分の忠実な者たちがこの傾向に打ち勝つために、毎日の務めを始める前に、また終える前に、日ごとに燔祭をささげるように求められたのです。これらの犠牲はイスラエルの生命を守る二本の腕でした。幕屋から離れた所に住んでいた人々は、ダニエルがバビロンでしたように、聖所の方向に向かって祈りました(ダニエル書6:10)。

犠牲 

主は燔祭として6種類の犠牲を定めておられます(レビ記1:3、10、14、14:4)。

次の聖句を読み、そこに示された犠牲がキリストのどんな特性を示しているか考えてください。

雄牛(蔵言14:4、黙示録4:6、7)     

羊・小羊(イザヤ書53:6、7)

やぎ・子牛(ヘブル9:12、13)

山ばと(マタイ10:16)

家ばとのひな(ルカ2:24)

すずめ(マタイ10:29)

祭司犠牲は罪人と救い主を表していましたが、祭司は礼拝者のために仕え、助け、励ましておられるキリストを表していました。祭司は、人間が自分自身のためにできないことを人間に代わってしていました。彼は犠牲の「流された血」を取り、聖所で仕えることによって、それを「注がれた血」に変えました。

質問3

神は聖なる火を送って祭壇の上の犠牲を焼き尽くされましたがこのことは何を教えていましたか。レビ記9:24、創世記15:17(『人類のあけぼの』上巻424、425ページ参照)

燔祭はイスラエル人の存在そのものがキリストとその犠牲に依存していることを教えていました。燔祭をささげることは神に完全に献身することを表していました。

あなたはすべてを祭壇の上に置いているでしょうか。あなたは人生のすべてをキリストにゆだねているでしょうか。

素祭(そさい)と灌祭(かんさい)—私の持ち物はすべてキリストのもの(レビ記2章1節~16節)

素祭と灌祭は、「私の持ち物はすべてキリストのもの」という礼拝者の誓約を表現していました。「食物のささげ物」を意味するヘブル語の「ミンハー」は、食物一般をさす言葉です。「素祭」には肉は含まれていませんでした。それで現代の翻訳者は「穀物のささげ物」という言葉を用いています。これら植物性のささげ物には、オート麦、大麦、小麦、米などがありました。ぶどう汁とオリープ油、乳香と塩がこれに加えられることもありました。

素祭はキリストに対する礼拝者の感謝と献身の気持ちを表していました。祭司は各素祭(ミンハー)の一部を取って、祭壇の前に掲げ、それを主にささげました。それから、祭司は神のものとなったこの素祭の一部を祭壇に投げ、「香ばしいかおり」として焼きました。主は礼拝者のささげた持ち物の代わりにこの「記念」のしるしを受け入れ、素祭の残りを祭司と礼拝者のために返されました。

質問4

油は何を象徴していましたか。レビ記2:1、ゼカリヤ書3:1~6’マタイ25:4

油は聖霊の象徴です。聖霊は7つの金の燭台に燃料を供給し(『SDA聖書注解』第6巻1118ページ参照)、恵みを与え(『SDA聖書注解』第7巻966ページ参照)、実を結ばせ(『牧師へのあかし』511ページ参照)、5人の賢明なおとめを啓発し(『キリストの実物教訓』386、387ページ参照)、弟子たちにキリストの義を与えてくださいます(『牧師へのあかし』234ページ)。

質問5

素祭に加えられた塩は何を象徴していましたか。レビ記2:13、マルコ9:49、50

「救いの塩」は「救い主の義」です(『各時代の希望』中巻218ページ)。それは神の義の象徴です(『教会へのあかし』第3巻559ページ)。それは、地域社会における神の真の民の影響力を表しています(マタイ5:13)。食物を保存し、味をつけるためには、塩はその中にしみこまなければなりません。

質問6

灌祭にはどんなものがありましたか。レビ記23:13、18、民数記28:7、8

『ミシュナ』によれば、オリーブとぶどうの液だけが祭壇にささげられるものでした。

灌祭は決して飲むべきものではありませんでした。ぶどう液の一部はすでに祭壇の上で焼かれている犠牲の上に注ぎかけられました(出エジプト記29:40、レビ記23:13、18、民数記15:5、7、10、24)。

血が犠牲の本質である生命を表していたように(レビ記17:11)、ぶどう液はまことのぶどうの木の実の本質を表していました。それはキリストの血の象徴でした。

使徒パウロは、愛するテモテヘの手紙の中で、灌祭に言及しています。パウロはネロの前における裁判で死刑を宣告されていました。自分の死を予期した彼は、次のように言っています。「私はすでに喜んで自分自身を灌祭として注ぎ出している」(テモテ第II 4:6参照)。「ささげている」というギリシア語は、「灌祭をささげる」という意味です。その動詞の形にパウロの自発的な気持ちが表されています。

酬恩祭—私の喜びはすべてキリストのもの(レビ記3章1節―17節)

罪は人間の心に疎外と反逆、混乱と戦いを引き起こしました。この敵意は神、同胞、そして環境に向けられています。怒りはほとんど世界的に人間の心を支配しています。救いの計画は、キリストの死によって、この反逆した世界と神の政府とのあいだに調和を取り戻すことを目的としています。

神が酬恩祭の犠牲を定められたのは、カルバリーの十字架が争いを終結させるものであることを礼拝者に教えるためでした。四つの重要なささげ物のうちで酬恩祭だけが、宴会のための食物を提供しました。そこで、目に見えない主人である神が祭司、悔い改めた者と共に、「供え物の食物」にあずかられました。主が受け入れられた食物の一部は蒸発して、「香ばしいかおり」として天に昇りました。

罪のない犠牲の死によってのみ備えられるこの食事を通して、すべての参加者は新しい契約によって一つに結ばれました。キリストご自身の犠牲は、真の平和、永続的な幸福の基礎です。

質問7

酬恩祭の犠牲として三種類の犠牲が認められていました。以下の聖句を読み、それぞれの犠牲が予表するイエスの犠牲について考えてください。レビ記3:1 、レビ記3:6、レビ記3:12    

質問8

礼拝者が酬恩祭をささげる場合、どのような規定に従いましたか。レビ記3:1、2、6、8、12、13、7:28~30

血は神にささげられたものだったので、それは決して食べてはならないものでした(レビ記17:10~14)。一部を祭壇にふりかけたのち、祭壇に注がれました(レビ記7:14)。

流された血と注ぎかけられた血

悔い改めた者の手によって「流された血」と祭司の指によって「注ぎかけられた血」との相違に注目する必要があります。もし小羊の血をただ「流して」いただけなら、エジプトにおいて長子たちは生きのびていたでしょうか。

質問9

イエスがご自分の死後になさったどんな行為が、私たちの救いにとって重要な意味を持っていますか。コリント第I・15:12~18

イエスは死んで、よみがえり、昇天されたのち、ご自分の「流された血」(死)を天の聖所で父なる神にささげられました。彼が祭司としてその血を悔い改めた罪人の必要のために用いられたとき、それは「注ぎかけられた血」(執り成し)となりました(ヘブル9:11、12参照)。あがないの手続きが完了するためには、これら二つの過程が必要でした。「注ぎかけられた血」の重要な意味を決して忘れてはなりません。

質問10

主はどんな場合に酬恩祭をささげるように勧められましたか。レビ記7:12、13、22:21~25、7:16、18

酬恩祭は次の三つの場合にささげられました。(1)礼拝者が神のいつくしみと力に対して賛美をささげたいと望んだとき、(2)神の特別な賜物や祝福に対して感謝をささげたいと望んだとき、(3)主のために何かを断ったり、実行したりする誓約を果たしたとき(詩篇116:12~19参照)。この契約の食事にあずかることによって、神と祭司と礼拝者は交わりのきずなによって一つに結ばれました。この宴会は犠牲をほふることによってなされましたが、このことはその犠牲が予表しているメジャの死がすべての幸福の基礎であることを教えていました。

まとめ

燔祭、素祭、灌祭、酬恩祭は、自分自身と自分の才能・所有物が神のものであることを認めるしるしとして、またメシヤの死によって神と人とのあいだに完全な和解がなされたことに対する感謝の念の表現として、神にささげられました。これらの儀式を行うことによって、イスラエル人は神に対する献身を新たにしたのです。

第4課 罪のための犠牲

第4課 罪のための犠牲

予告され、記念されたキリストの犠牲

罪深く堕落的な汚れから人間の心を清めることができるのはイエス・キリストの血だけです。占代イスラエルの聖所の儀式で人々は動物の犠牲をささげましたが、それは彼らに来るべき救い主によってなされる働きの意味をより完全に理解させるためのものでした。古代の聖所におけるこの犠牲制度について学ぶとき、私たちはキリストの犠牲と天における働きをよりはっきりと理解することかできます。

犠牲の意味     

この宇宙は二つの大きな法則—物理的法則と道徳的法則—のもとで動いています。生命のない自然は物理的法則によって支配されていますが、神によって創造された知的生物は両方の法則に従っています。道徳律は天の住民と人間に対する創造主のみこころを示しています。それは創造主に対する最高の愛と同胞に対する公正な愛という二重の原則にもとづいています。神の道徳律は十戒というかたちで人間家族のために適応され、成文化されています。箇潔にして闘信砂、しかも権威を持った十戒は、創造主と同胞に対する人類の義務を規定しています(マタイ22:37~39、ローマ13:8~10参照)。

十戒の基礎となっている原則が破られたとき、この世に罪が入ってきました。その結果、人類は道徳的・霊的に堕落し、その肉体は次第に衰弱し、ついには死ぬ存在となりました(ヨハネ第I 3:4、ローマ5:12、8:6~8)。

聖所の儀式は私たちのためのキリストの働きの三つの面—犠牲、仲保、さばき—を強調していました。一般的に言って、聖所の三つの部分がこれら三つの働きに相当します。すなわち、犠牲は中庭で、執り成しは聖所で、そしてさばきは至聖所でなされました。聖所での犠牲と儀式は各時代の神の民に対して、神がどのようにして救いの計画を遂行されるかを教えています。

それぞれの犠牲は礼拝者に対して、罪の結果について、また来るべきあがない主によって与えられる永遠のいのちの賜物について思い起こさせるものでした。それらの犠牲はまた、礼拝者にとって、神を礼拝し、罪を告白し、献身と感謝を表すための目に見える媒体となりました。これらの犠牲はある意味で、祈りと同じように、礼拝者の信仰をあがない主に結びつけるものでした。

過失の罪(レビ記4章、5章、6章24節~30節)

罪はサタンの心の中で発生しました。罪の存在理由を追及することは罪に口実を与えることになり、罪の罪深さを否定することになります。私たちは罪の存在を認め、神の恵みによって罪の力と対決し、そして神がお与えになる力と方法によって罪に勝利しなければなりません。

罪祭は主イエス・キリストの犠牲と働きにおけるさまざまな側面を例示する実物教訓でした。この儀式の各場面で、イエスはご自身を罪人のための完全な犠牲としてささげられるおかたとして描写されています。彼はささげ物として、悔い改めた者の身代わりとなって死なれました。彼は祭司として、聖所でご自分の血を適用しておられます。彼はそれぞれの役割において、失われた者たちの救いのために、また罪の根絶のために働いておられます。神はイエスの死を表す罪祭を通して、失われた世界にイエスを身代わり・犠牲として、あがない主・仲保者として受け入れるように訴えておられます。

質問1

どんな四種類の罪人があげられていますか。彼らはそれぞれ、どんな罪祭をささげることになっていましたか。レビ記4:3、レビ記4:13、14、レビ記4:22、23、レビ記4:27

善と悪に対する影響力

「わたしたちの生活の中に、キリストの品性をあらわすことによって、わたしたちは、救霊の働きをキリストと共にするのである。わたしたちが、キリストと協力できるのは、わたしたちの生活に、キリストの品性をあらわすことによってのみである」(『キリストの実物教訓』316ページ)。

「人は神について知れば知るほど、宗教的影響力を持つようになる。……大きな光、尊い機会が与えられている者たちは、すべての人に働きをお与えになる神に対して責任を負う。彼らはこの聖なる信頼を決して裏切ることなく、世の光とならなければならない」(『牧師へのあかし』245ページ)。

質問2 

「過失の罪」とは何ですか。レビ記4:1、13、14、22、23、27、28、5:3

私たちは自分の思い、言葉、行為が罪である、とすぐに認めるとは限りません。罪を犯したあとで、自分のしたことが罪であったことを聖霊によって教えられることもあります。そのような光・自覚を受けるとき、私たちは自分の行為に対して責任があります。真にキリストに献身しているなら、ゆるしを求めるべきです。

質問3

自分の行為が神の前で罪であることを意識しないかぎり、その人にとって罪とはならないということをイエスはどのように教えられましたか。ヨハネ15:22、24

過失の罪とは故意でない罪、欠点、失敗のことです。それは私たちの弱くて罪深い人間性、鈍感な感受性から来ています。パウロはアテネの人々に対して、彼らの偶像礼拝が「無知の時代」の行為、つまり回心前の知らないで犯した罪であるが(使徒行伝17:30)、神は今、すべての人に悔い改めるように求めておられる、と言っています。クリスチャンは罪を犯すには及びません。弱いクリスチャンも真の悔い改めによって、ゆるしと回復にあずかることができます。神のみこころを知れば知るほど、より忠実に神のみこころに従うべきことがわかってきます。

弱い聖徒の望み          

「世にはキリストのゆるしの愛を知り、ほんとうに神の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にはあやまちが多いために、いったい自分の心が聖霊によって新たにされたかどうかと疑う人があります。こうした場合に、決して失望、幕値してはなりません。私どもは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いて、イエスの足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神に捨てられ、拒まれたのではありません。いいえ、キリストは神の右に座して私どものために執り成しをしていたまいます」(『キリストヘの道』80ページ)。

質問4

次の聖句を読み、聖書が罪をどのように定義づけているかを考えてください。ヨハネ第I 3:4、5:17、ローマ3:23、14:23、ヤコプ4:17

質問5

聖所の儀式で、どんな二つの行為が罪人によってなされましたか。レビ記4:4、15、24、29

質問6

より重大な過失の罪を犯した場合には、ほかにどんな行為が悔い改めた者によってなされましたか。レビ記5:14~16、民数記5:7、8

愆祭(けんさい)をささげることによって、故意の罪はもちろんのこと、偶然に、知らないで犯したより重大な罪のあがないがなされました。この場合、悔い改めた罪人は罪祭として雄羊をささげなければなりませんでした。愆祭(けんさい)をささげる手順は罪祭をささげる場合と同じでした(レビ記7:7)。愆祭(けんさい)に新しい要素が加わるのは、犯した罪を償うという神の要求を満たすためでした。

質問7

犯した罪を償うという原則について、イエスは何と教えておられますか。マタイ5:21~24(ルカ19:8比較)

「真の告白はつねに、はっきり自分の犯した罪そのものを言い表わすのであります。神にだけ告白すべきものもありましょう。または、だれか害をこうむった人々に告白しなければならないものもありましょう。いずれにせよ、告白はすべてはっきりとその要点にふれていて、犯した罪そのものを認めねばなりません」(『キリストへの道』45ページ)。

祭司の働きがなければ、罪人の必要は聖所で満たされることがありませんでした。祭司の働きは罪人にとって非常に重要なもので、それは救いの計画におけるキリストの役割を示していました。もし天の聖所におけるキリストの大祭司としての働きがなければ、すべての人の救いは絶望的です(ヨハネ第I 2:1、2、ヘブル7.25、8:1~3、9:24参照)。

質問8

キリストの天での執り成しの働きで重要な意味を持つどんな儀式が、祭司によってなされましたか。

レビ記4:5、6、ヘブル9:12

レビ記4:6、7、30、ヘブル9:11、12

レビ記6:24~26、29、30、10:16~18、9:11~15

レビ記4:8~10、31、17:6、コリント第II 2:15

レビ記4:11、12、21、ヘブル13:11~13

祭司は罪を聖所に移します。悔い改めた罪人が罪祭をほふったあとで、祭司は二種類の働きをします。

(1)仲間の祭司または全会衆のために罪祭をささげる場合には、儀式を行う祭司はその血の一部を聖所の垂幕の前に7たび注ぎ、また薫香の祭壇の角にも塗りました。

(2)つかさまたは一般人のために罪祭をささげる場合には、儀式を行う祭司はその血を中庭の燔祭の祭壇の角に塗りました。彼はそれから聖所の中庭で罪祭の肉の一部を食べました(レビ記6:26)。祭司はこの肉を食べることによって罪を負う者となりました(レビ記10:17)。悔い改めた者の罪を負うことによって、祭司は毎日、聖所で働きました。彼はまた主の前に薫香をたきました(出エジプト記30:7、8)。このようにして、悔い改めた者の罪は祭司によって負われ、象徴的に聖所に移されました。

「血が聖所の中にたずさえられない場合もあった。そのときには、モーセがアロンの子らに命じて、『これは……あなたがたが会衆の罪を負(う)ため、あなたがたに賜わった物である』(レビ記10:17)と言ったように、祭司がその肉を食べなければならなかった。これらの儀式は、共に、悔い改めた者から聖所へと罪が移されることを象徴したものであった」(『人類のあけぼの』上巻419ページ)。

告白、犠牲、あがない

罪祭の犠牲と血の注ぎによって、悔い改めた罪人はゆるされました。レビ記第4章には4回、儀式を行う祭司によってなされた「あがない」がゆるしをもたらすことが強調されています(レピ記4:20、26、31、35)。犠牲なくして祭司によるあがないはなく、祭司によるあがないなくしてゆるしはありえませんでした。告白、動物の犠牲、祭司による血の注ぎのゆえに、「あがない」あるいは罪からの清めは悔い改めた者にとって現実の出来事になりました。

聖所の儀式がさし示していたキリストの犠牲、罪人の告白、キリストの天における執り成しはすぺて、罪のゆるしのために欠かすことのできないものです(ヨハネ第I 1:9、ヘブル4:14~16、6:19、20、7:23~28、8: 1~6、10:19~23、『各時代の大争闘』下巻222、223ページ参照)。

象徴的に、悔い改めた者の罪のゆるしは聖所に記録されました。このゆるされた罪が聖所から取り除かれるためには、贖罪の日の儀式を待たなければなりませんでした。

故意に犯した罪(レビ記6章1節~7節)

神に対する反逆の心で犯した罪に対しては、犠牲はありませんでした(申命記17:2~6、民数記35:30、出エジプト記31:15、民数記15:30~36、ヘブル10:26~31参照)。しかし、神のみこころに対する意識的な反逆の心で犯したものでない故意の罪は、あがなうことができました。

レビ記第6章には、偽証、略奪、詐欺といった故意の罪が述べられています(2~7節)。悔い改めた罪人は愆祭(けんさい)として雄羊をささげるように教えられていました(6節)。愆祭(けんさい)は故意の罪のほかにも、より重大な過失の罪をもあがなうことができました(レビ記5:14、15―レビ記6:1~7、19:20~22、エズラ記10:19比較)。

質問9

ここにどんな新しい原則が述べられていますか。レビ記6:4、5(エゼキエル33:15比較)。そのほかに被害者が亡くなっていて、しかもその親戚が見つからない場合には、加害者はとうしなければなりませんでしたか。民数記5:5~8

愆祭(けんさい)はイスラエル人に償いの原則について教えていました。彼は被害者にすすんで償いをしなければなりませんでした。神に対する悔い改めと罪の告白は、被害を受けた同胞に対する告白と償いとなるのでした。クリスチャンは可能なかぎり、過去の過ちを正すためにあらゆる努力をします。

過ちを正す

「これはほとんどの場合、賠償すること、盗んだ物を返すこと、過ちを正すためにあらゆる努力をすることを含む。疑わしい商取引、価値を偽ること、利己的な動機を隠すこと、あからさまな不正行為は罪である。貧しい者の弱みにつけこんで厳しい要求をすること、貧しい者をしえたけて利益を得ることも罪である。法外な請求をすること、過度の利子をとること、賃金に見合う仕事をしないことも罪である。人の不幸を利用すること、相手の弱みにつけこんで実際の働き以上の報酬を請求することも罪である」(M.L・アンドレアセン『聖所の儀式』第2版167、168ページ)。

質問10

愆祭(けんさい)をささげる手順と罪祭をささげる手順とを比較してください。レビ記7:1~7

聖所での罪祭と愆祭(けんさい)は、私たちの罪に対するキリストのゆるしの方法を象徴していました。キリストは「わたしたちの罪のために……罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(コリント第Il 5:21、イザヤ書53:6、ペテロ第I 2:24、コリント第Il 9:15比較)。

キリストの犠牲のゆえに私たちは確信をもって恵みの座に近づき、ゆるしと霊的カを受けることができるのです(ヨハネ第I・1:9、ヘブル10:22参照)。祭司は象徴的に血を注ぎ、悔い改めた者の罪を負って聖所に移しましたが、私たちの天の大祭司としてイエス・キリストは今、型としてではなく、本物のとりなしをしておられます(ヘブル9:11~14、24、テモテ第I 2:5、ヨハネ第I 2:1)。キリストの犠牲、私たちの告白、そしてキリストの大祭司としての執り成しによって、私たちの罪はゆるされます。私たちは罪に定められることがありません(ローマ8:1、ミカ書7:19、ヨハネ第I 2:2、4:10、ヨハネ3:18、5:24参照)。イエスはカルバリーにおいて私たちの罪を負ってくださいました。このイエスを自分の罪祭として受け入れるとき、私たちはあらゆる罪の宣告から解放されます。

私たちのゆるされた罪の記録は、贖罪の日が示していた再臨前のさばきで最終的に除去されるまで、天の聖所に残ります(ダニエル書7:10、12:1、黙示録3:5、19:7、8参照)。すでにゆるされた罪の記録は贖罪の日に聖所から除去されました。これと全く同様に、すでにゆるされた人々は再臨前のさばきで最終的に、永遠に勝利します。再臨される主に会う備えは、私たちの罪祭であり大祭司である主イエス・キリストとの日ごとの関係を含みます。日ごとにキリストにゆるしを求め、彼の恵みによって絶えず罪から遠ざかるとき、私たちは霊的に清められ、最後のさばきに備えることができます。

まとめ

罪祭と愆祭(けんさい)において、罪のない犠牲のいのちが人間の罪の身代わりとしてささげられました。聖所の「注がれた血」によって、また祭司を通して、罪人の罪は聖所に移され、神の定められた時と方法によって処理されるのを待ちました。罪人が海い改め、罪を告白し、身代わりの死を受け入れたとき、彼はあわれみ深い神の栄光のために平和な生活を送ることができました。

第5課 法廷の友

第5課 法廷の友

私のための弁護人

堕落した人間が神の愛を理解し、罪人がそのさばき主と和解することができるように、神は祭司として仕える人を召されました。祭司には、罪のない生活とあがないの死によって世を神に和解させられた大いなる大祭司、仲保者イエスを代表する恵みが与えられていました。天の聖所におけるキリストの働きは、私たちが救いを求めて神に近づくことを可能としてくれます。

神への橋

イスラエルの聖所礼拝は族長の礼拝から発展したものでした。中央の聖所が建設されるにともなって、父親の祭司としての役割は変わりました。新たに公的な祭司制度が確立されることになります。あがないの計画についての新しい考えが象徴と儀式によって示されることになりました。

族長の宗教においてもイスラエル人の宗教においても、血を流すことはあがないとゆるしについて「語って」いました。しかし、和解のためのもう一つの面が祭司の役割において強調されていました。それは神と人とのあいだの仲保の働きということでした。

祭司職の必要性は罪の重大さについて、罪が神と人とにもたらした厳しい分裂について、そして創造主と被造物とのあいだの恐るべき断絶について明らかにしています。罪人は、「近づきがたい光の中に住」んでおられる聖なる神にどのようにして近づくことができるのでしょうか(テモテ第I 6:l)。

聖所の制度において、神と人とを隔てていた深淵は祭司によって象徴的に埋められました。祭司は神によって選ばれ、神と人とのあいだを取り持ちました。「わたしの祭司」として、彼らは人々に神を代表しました(出エジプト記28:3、新共同訳)。「イスラエルの人々のうちから」選ばれた者として、彼らはまた神に対して国民を代表しました(出エジプト記28:1)。イスラエルは祭司の働きを通して、悔い改めと賛美と礼拝によって聖なる神に近づき、神から全的に受け入れられることを確信することができました。イスラエルの祭司の務めは天の聖所におけるキリストの祭司としての働きを予表していました。

祭司の仲保(テモテ第1 2章5節、6節)

質問1

仲保者とは何ですか。彼にはどんな資格が必要ですか。仲たがいしているのはだれですか。仲保者がひとりしか任命されていないのはなぜですか。それはだれですか。祭司制度の仲保者は一般のそれととこが異なりますか。テモテ第1 2:5、6

「執り成す」という動詞は辞書によれば、「双方に同等の友として、とくに和解をもたらすために、二者のあいだに入ること」と定義されています。仲保者は仲たがいした二者のあいだを取り持ちます。地球上の生物は罪のもとで生きていますが、人が神と仲たがいしたのは神のせいではありません。

一般の仲保者はふつう、仲たがいした二者を説得して一定の同意に導くことによって、和解を引き出そうとします。しかし、神と人との仲を取り持つ仲保の働きはこれと異なります。天と地とを隔てている障壁は罪の反逆という状況であって、これは聖なる神と罪人が互いに歩み寄ることのできる問題ではありません。しかし、祭司制度の仲保者は犠牲の血を用いて、この罪の障壁を象徴的に取り除くことができました。このように、レビ人の祭司はキリストの祭司としての働きを予表していました。キリストはご自分の罪のない生活とあがないの死という功績によって、罪の障壁を取り除かれます。彼は神との和解を望むすべての悔い改めた罪人のために執り成してくださいます。

「われわれの先祖が罪を犯して以来、神と人間の間には直接の交わりはなかった。父なる神は、この世界をキリストの手におゆだねになった。そして、神は、キリストの仲保の働きによって、人間を救い、神の律法の権威と神聖さを擁護なさるのである。堕落した人間と天との交わりは、すべてキリストを通じて行なわれた」(『人類のあけぼの』上巻434ページ)。

質問2

神と人とのあいだに仲保者が必要なのは、どんな根本的理由のためですか。

人間の状態(ローマ5:6~10) 

神の状態(テモテ第I 6:16、詩篇71:19)

人間の必要(ヘブル7:25、ヨハネ第I 2:1)

愛は愛によって目覚める

「神を曲解したために、この地上は暗くなった。暗黒の影を照らし、世の人々を神に呼びもどすためには、サタンの欺隔的な力をうち破らねばならなかった。このことは、暴力によってなすことはできないのであった。暴力の行使は神の統治の原則に反する。神は愛の奉仕だけを望まれる。愛を命令することはできない。暴力や権威によって愛を手に入れることはできない。愛は愛によってのみめざめさせられる。神を知れば神を愛するようになる。神のご品性がサタンの品性と対照的に示されねばならない。この働きは全宇宙でただひとりのおかただけができた。神の愛の高さと深さとを知っておられるおかただけが、その愛を知らせることがおできになった。世の暗い夜に、義の太陽キリストが『翼には、いやす力をそなえて』昇らねばならない(マラキ書4:2)」(『各時代の希望』上巻4、5ページ)。

神はキリストによって救いの橋をかけてくださいました。キリストの完全な愛、完全な品性を通してのみ、私たちは父なる神に近づくことができます。そのような救いの橋を私にかけてくださったキリストの深い愛について考えたことがあるでしょうか。

祭司職への任命(レビ記8章、9章、21章、22章)

レビ記は犠牲に関連した祭司の務めについて記しています。それは聖なる務めのための祭司の資格について定め、アロンとその息子たちの祭司職への任命について述べています。まず初めに肉体的・霊的適性と、それらが今日の私たちに教えている意味について見てみましょう。

質問3

大祭司も一般の祭司も肉体的に完全で、傷のない者でなければなりませんでした。なぜですか。レビ記21:17~23

レビ記では、「神聖さ」と「完全さ」は密接な関係にあります。肉体的な欠点や不完全さは神に近づく祭司の神聖さを汚すものでした。そのような者は神を怒らせることになるのでした。聖所の制度全体は、一般的な意味で救いの計画を、また特別な意味で救い主の人格と働きを象徴する、いわば比喩的儀式であることを忘れてはなりません。したがって、来るべき救い主の完全さ・道徳的優越性を示している犠牲と祭司は欠陥のないものでなければなりません。

キリスト教の牧師は、祭司のように、儀式的・象徴的な役割を果たすわけではありませんが、その肉体的健全さ、体力、外観、幸福は働きの適性を大きく左右します。

質問4

祭司は、神が聖であられるゆえに、彼も聖でなければなりませんでした(レビ記21:8)。祭司は次の点においてどんな標準を満たしていなければなりませんでしたか。

品性(レビ記11:44、45)      

妻(レビ記21:7、13~15)     

子供(レビ記22:12、13、申命記6:6、7)    

食物(レビ記11:1~8)

居住地(民数記18:20、ヨシュア記21:1~3)

道徳性(レビ記21:4~7)

報酬(民数記18:21~24)       

習慣(マラキ書2:1~9)         

身体(レビ記21:17~23、22:4、5)

祭司に任命されるまでの手順をあげてください(レビ記8:1~13)。それらをキリストの召し、また私たちの召しと比較してください。

質問5

祭司職への神の召しと政治的工作によって祭司職を手に入れようとしたコラ、ダタン、アビラムの試みとのあいだにはどんな相違がありますか。民数記16:1、3、17、18

質問6

アロンとその4人の息子を洗い清め、彼らに祭司の服を着せたあとで、モーセは任職の雄羊の血と聖なる油とをとのように用いましたか。この特別な手順にはどんな意味がありましたか。レビ記8:22~24、30(出エジプト記29:19~21比較)

アロンとその息子たちの任職のために与えられた7日ののちに(レビ記8:33)、アロンは祭司と民のために罪祭と燔祭と酬恩祭をささげました(レビ記9:1~21)。

質問7

それからアロンはどうしましたか。アロンの祝福にはどんな意味がありましたか。レビ記9:22、民数記6:23~27

質問8

そのとき神は何をなさいましたか。これにはどんな意味がありましたか。レビ記9:24

主のもとから下った火は燔祭を焼き尽くし、聖所を清めました。それは、神がすべてを受け入れられたことを示していました。

祭司職に対する神の要求は罪について、キリストの使命について、私と神との関係について、どんなことを教えていますか。

キリストの祭司職(ヘブル人への手紙8章1節~5節、9章1節~7節)

ヘブル人への手紙は古い契約と新しい契約にふれ、それぞれに聖所がある、と述べています(ヘブル8:1~9:1)。地上の聖所(幕屋、またのちの神殿)は最初の、つまりシナイの契約に属し、天の聖所は新しい契約に属しました。

質問9

ヘブル人への手紙によれば、地上の聖所と天の聖所のあいだにはどんな関係がありましたか。ヘブル8:4、5、9:23、24

これらの聖所はある意味で、神の住まいと考えることができます。神の住まいである天の聖所と地上の聖所の関係がヘブル人への手紙にはっきりと述べられています。地上の聖所は、「天にあるもののひな型」また「ほんとうのものの模型」として描かれています(ヘブル9:23、24)。両者は、実物に対する模型、実体に対する影の関係にあります。地上の祭司は、「天にある聖所のひな型と影」に仕えました(ヘブル8:5)。

イスラエルは聖所を、天にある神の住まいに対応するものと考えました(列王紀上8:27、30、32比較)。ヨハネは、天にある「あかしの幕屋の聖所」を見たと証言しています(黙示録15:5)。この聖句は、天の聖所が天幕、あるいはフェニキヤの神殿のようなものである、と述べているのではありません。それは、地上の聖所が天の聖所を表しているという意味にすぎません。天の聖所は人間の理解力をはるかに越えたものです。そこで、神はモーセに理解できる建築用語を用いて聖所の建て方を指示されました。

「地上の聖所の比類のない壮麗さは、われわれのさきがけであられるキリストが神のみ座の前で仕えておられる天の宮の栄光を、人間の目に映すものであった。王の王の住居において、彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々(ダニエル書7:10参照)。輝く守護セラビムが、崇敬のうちに顔を覆うところの、永遠のみ座の栄光に輝く宮に比べるならば、人間の手で造られた建造物は、たとえどんなにりっぱであっても、その壮大さと栄光のかすかな反映にすぎない。しかし、そうはいっても、天の聖所に関する重大な真理と、人間の贖罪のために行なわれた偉大な働きとは、地上の聖所とその奉仕によって教えられたのであった」(『各時代の大争闘』下巻126、127ページ)。

質問10

地上の聖所における犠牲と祭司の務めには、どんな意味がありましたか。地上の聖所とそれを規定するレビ記の律法とが「影」と呼ばれているのはなぜですか。ヘブル8:4、5、10:1(ヘブル8:1、2比較)

犠牲と祭司の務めを含む犠牲制度全体を規定していたレビ記の律法は、「きたるべき良いことの影」と呼ばれています。「影」とは預言のようなものです。地上の聖所とその儀式は、来るべきメシヤの死と悔い改めた罪人のためのキリストの祭司としての務めを予表していました。このように、この予型と象徴の制度は、キリスト初臨前の人々に福音、つまり救いの計画についての大いなる真理を予示し、教えていました。

「キリストは宮の土台であり、いのちであった。宮の儀式は神のみ子の犠牲を象徴していた。祭司職は、キリストの仲保者としての性格と働きをあらわすために設けられていた。いけにえをささげる礼拝の制度全体は、世の人々をあがなわれる救い主の死を予表していた」(『各時代の希望』上巻192、193ページ)。

質問11

地上の聖所におけるどんな特別な儀式が天の聖所においてなされるキリストの働きを予表していましたか。ヘブル9:1~7

私たちの主の天における働きは、それを予表していたイスラエルの聖所について研究することによってだいたいわかります(ヘブル8:4、5)。レビ人の祭司は、日ごとの務めと年ごとの務めという二種類の働きに携わりました。これらの務めはそれぞれ、特有な儀式を持っていました。日ごとの務めは聖所で、年ごとの務めは至聖所でなされました。地上と天上での日ごとの務めは、ゆるし、和解、回復の働きであり、地上と天上での年ごとの務めは、さばきと擁護の働きと考えることができます。これらの明白な二つの区分のゆえに、セブンスデー・アドベンチストは、天でのキリストの祭司としての働きが二つの段階からなると信じています。第一の段階はキリストの昇天のとき始まり、第二の段階は、ダニエル書7~9章、黙示録14:6、7の預言に示されているように、1844年に始まりました。ゆるしが贖罪の日における祭司の執り成しによってなお可能であったように(レビ記16章)、キリストは1844年以後もなお罪の執り成しをしておられます。この執り成しは、再臨前のさばきが完了するときに終了します。

質問12

レビ記の祭司職と聖所によって救いを教えられた神は、いま私たちの信仰をどこに向けようとしておられますか。ヘブル4:14~16、8:1、2

まとめ

クリスチャンにとって、キリストの祭司としての執り成しの働きを理解することは重要なことです。なぜなら、それは十字架と同じくらい救いに欠かすことのできないものだからです。キリストのあがないの死と祭司としての働きとは、共に神の救いの計画の一部です。それらは献身したレビ人の祭司とその務めにおいて予表されていました。

第6課 最後のさばき

第6課 最後のさばき

最後のさばきがあなたの救いを決定する

贖罪の日が予表していた最後のさばきは、罪の問顕に決着をつけるものです。このさばきはサタンの不当な非難から神の品性を擁護し、清い世界の忠誠を証明します。それはまた真に悔い改めた者たちに永遠の救いを保証し、サタン、悪霊、そしてサタンに従った人間に滅びを宣告します。このように、最後のさばきは宇宙に道徳的調和を回復します。

贖罪の日は最後のさばきを予表していた

レビ記の聖所は聖書のなかで、比喩、さな也、影と定義されています。この独特の比喩・予型は福音の持つ三つの主要な真理を強調していました。それらは、(1)キリストの身代わりの、あがないの死、(2)キリストの祭司としての執り成し、(3)最後のさばき、です。

聖所の儀式と象徴は、イスラエルに福音を理解させることを目的としていました(ヘブル4:1、2)。さばきを含む救いの計画は、神に情報を与えるためのものではありません。神はすべてのことをご存知です。宇宙の住民に罪と義についての神の考え方を認めさせるために、救いの計画は立てられ、徐々に啓示されてきたのです。人間と同様、天の住民もこの問題に関心を抱いています(ペテロ第I 1:10~12、エペソ3:8~11参照)。終わりの時になると、地からあがなわれた者たちは声を合わせて歌うことでしょう。「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります」(黙示録15:3)。

レビ記16章と23章は私たちの心を、贖罪の日の儀式とその意義とに向けさせてくれます。これらの儀式は最後のさばきを予表していました。聖所における日ごとの儀式は個人の罪からのゆるしと清めを、また年ごとの儀式は民の最終的な清めと共に、聖所の清めを意味していました。

贖罪の日の儀式はカルバリーの十字架を示すものですが、同時にそれは個人の救いを越えて、罪の最終的な滅びを表していました。贖罪の日は、罪、罪人、サタン、悪霊が宇宙から最終的に根絶されることを象徴的に示していました。この意味で、それは最後のさばきを予表するものでした。

予型としての贖罪の日(レビ記16章1節~34節、23章26節~32節)

贖罪の日に関する規定(レビ記16章)は、レビ記の中間に位置しています。このことは、イスラエルの礼拝におけるこの年ごとの儀式の重要性を強調するものです。

贖罪の日はレビ記の中心・頂点

「贖罪の日がレビ記の中心にあることは、その文学的形式によっても明らかである。……レビ記16章はその犠牲制度のクライマックスである。この章はまたレビ記の文学的構成の中心であり頂点でもある。これら二つの要素は互いに調和し、相互に強調し合っている」(ウィリアム・H・シェイ「レビ記における文学的形式と神学的機能」『70週、レビ記、預言の性質』第3巻151ページ)。

質問1

年ごとの儀式は何と呼ばれましたか。それはいつでしたか。人々はこの日をどのように過こしましたか。レビ記23:27、28、32

質問2

「身を悩ます」という表現にはどんな意味が含まれていましたか。レビ記23:27、16:29(イザヤ書58:3、6、使徒行伝27:9比較)

今日、ヨム・キプールと呼ばれている贖罪の日は、聖所礼拝における最も厳粛な宗教日でした。それは断食の日でした。神の民は日常の仕事を休み、自分の心をさぐり、罪を告白し、神の前にへりくだりました。

質問3

この特別な贖罪の日は何のためにありましたか。レビ記16:15、16、20、21、30、33

贖罪の日になされる清めの儀式は、人々の霊的清めと同時に、聖所の清めを目的としていました。聖所は悔い改めた人々によって告白された一年間の罪によって汚れていました。

ゆるされた罪の清め

「レビ記16:16には、贖罪の日の儀式が『イスラエルの人々の汚れ』と『彼らのもろもろの罪』から聖所を清めることを目的としていたと書かれている。『罪』と『汚れ』は、レビ記の最初の15章で扱われている主要な問題である。罪は1~7章において、汚れは11~15章において扱われている。

贖罪の日の儀式は関係のある犠牲を扱ったこれらの章の絶頂であるが、その位置は両者との密接な関係を示している。この密接な関係は、贖罪の日が罪と汚れから聖所を清めるためのものであったことを暗示している。これらの罪と汚れはレビ記1~15章に示された方法によってゆるされ、一年を通じて聖所に移されたものであった」(ウィリアム・H・シェイ「レビ記における文学的形式と神学的機能」『70週、レビ記、預言の性質』第3巻152、153ページ)。

質問4

二頭のやきを使った贖罪の日の儀式を説明してください。くじで何を決めましたか。大祭司は主のやぎの血をとこに注きましたか。これは何を意味しましたか。身代わりのやぎ(アザゼル)は何を負いましたか。それはどこに連れて行かれましたか。二頭のやきはだれを象徴していましたか。レビ記16:7~9、15、16、18~22

主とサタン 

「一頭のやぎが人格的存在者である主のためのものであるなら〔レビ記16:8〕、もう一頭のやぎもまた人格的存在者のためのものでなければならない。しかも、それらは明らかに対照的なものであるから、アザゼルは主に対抗する者、すなわちサタンと考えるのが最も矛盾のない見方である」(『SDA聖書注解』第1巻775ページ)。

聖所の清め 

一年のあいだ、悔い改めたイスラエル人の告白された罪が聖所に移されました。象徴的に、ゆるされた罪の記録は聖所に保管され、罪人はゆるされました。罪人のささげる罪祭の血は、彼の心を来るべきあがない主の功績に向けさせました。彼はその罪過がゆるされ、神のあわれみにあずかることができました。

身代わりのやぎ(アザゼル)は最終的に罪の責任を負って、宿営から追放されました。この儀式は、罪の創始者であるサタンに最終的な責任を負わせることを予表していました。

質問5

贖罪の日に自分の罪を告白せず、罪深い生活を続け、悔い改めなかったイスラエル人はとうなりましたか。祭司であれ一般人であれ、真に悔い改めた者には何が与えられましたか。レビ記16:30、33、34

贖罪の日は、神の契約の民を自認する二種類のイスラエル人に焦点を合わせていました。ゆるされた罪の記録が聖所から取り除かれるとき、神は忠実なイスラエル人に多大な祝福を与えられました。彼らは霊的に清められました。しかし、悔い改めないイスラエル人は自分の罪の責任を負って、会衆から断たれました。

質問6

贖罪の日の儀式が完了したとき、聖所、信じる会衆、宿営はどんな状態になりましたか。レビ記16:30、33、34

予表された最後のさばき

宗教暦の第7月における贖罪の日は、日ごとの罪祭の血や肉によって悔い改めた罪人から聖所に象徴的に移された罪が取り除かれるときでした(レビ記16:15~22)。聖所、会衆、宿営は儀式的に清められました。この儀式は最後のさばきを予表していました。人類を救う神の計画のなかで、最後のさばきは最終的に罪を根絶するものです。悪魔とその罪の結果はすべて消し去られます。

贖罪の日はキリストの功績の最終的な適用を予表していました。その結果、罪は根絶され、全宇宙は神の統治に復帰します。最後のさばきは神の永遠の目的を成就するものです。「それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである」(エペソ1:10)。

すべての罪はサタンの責任

「サタンは、罪の創始者であり、神のみ子の死を招いたあらゆる罪の直接の扇動者であるから、正義は、サタンが最後の刑罰を受けることを要求する。人間を贖い、宇宙を罪からきよめるキリストのみわざは、天の聖所から罪を取り除いて、これらの罪をサタンの上に置き、サタンが最後の刑罰を負うことによって閉じられる。そのように、象徴的奉仕においても、一年間の務めは聖所のきよめと、アザゼルのやぎの頭の上に罪を言いあらわす告白をもって閉じられた」(『人顆のあけぼの』上巻423ページ)。

最後のさばきの調査段階(ダニエル書7章~9章、12章)

最後のさばきには三つの段階があります。ダニエル書の預言は、最後のさぱきにおける再臨前の、調査の段階を描写しています。黙示録の預言は、千年期における再調査の段階と、神が悪人に関する天の法廷の判決にもとづいて行動される執行の段階を描写しています。かしの木がどんぐりの中に包含されているように、最後のさばきの全容が予型としての贖罪の日に包含されていました。

質問7

国々の興亡ののちに、天でどんなことが起こると言われていますか。そののち、どんなことが起こりますか。ダニエル書7:9、10、13、14、21、22、26、27

ダニエル書7章は天における大いなるさばきの召集を、小さい角の活動する1260年間が終わるある時点の出来事として描いています。したがって、このさばきは1798年以後に始まることになります(ダニエル書7:25、黙示録12:6、14参照)。ダニエル書8:14、9:24~27の預言はこのさばきの開始を1844年に位置づけています。ダニエル書7:9、10、13、14はこの再臨前のさばきの始まりと終わりにとくに注意を促しています。天でのこのさばきの終わりに、キリストは勝利した聖徒たちが住む永遠の御国を受けられます(ダニエル書7:13、14)。この幻は、キリストが信じる民を迎えるために再臨される前に行われる最後のさばきの一面を描写しています。

質問8

この再臨前のさばきで、天使たちの前に何が開かれていますか。その目的は何ですか。ダニエル書7:10、12:1

再臨前のさばきでキリストは永遠の御国を受け、小さい角はさばかれます。神とサタンとのあいだのすべての争闘はこのとき終わります。神の完全な正義が立証されます。

本物と偽物が分けられるキリストの恵みを全く受け入れない公然たる悪人はこのさばきにおいてさばかれません。彼らの運命は明白です。問題は、だれが真の信者で、だれが偽りの信者であるかです。どちらもいのちの書にその名が記されています。福音の網には善人も悪人も入っています(マタイ13:24~30、22:10)。再臨前の調査審判は、本物と偽物をふるい分け、真の信者を天の法廷の前で再確認するために必要です。

これがキリストの第二の部屋における働きです(ダニエル書7:21、22、黙示録3:5、6:10、11、19:7、8比較)。真の信者のゆるされた罪の記録は、この再確認のさばきで除去されます。

調査の働き

「古代において、民の罪が、信仰によって罪祭の上におかれ、そしてその血によって、象徴的に地上の聖所に移されたように、新しい契約においては、悔い改めた者の罪は、信仰によってキリストの上におかれ、そして実際に天の聖所に移されるのである。そして、地上の聖所の型としての清めが、それを汚してきた罪を取り除くことによって成し遂げられたように、天の聖所の実際の清めも、そこに記録されている罪を取り除くことによって、すなわち消し去ることによって、成し遂げられねばならない。しかし、これを完成するためには、だれが罪の悔い改めとキリストを信じる信仰によって、贖いの恵みを受ける資格があるかを決定するために、記録の書の調査がなされねばならない。したがって、聖所の清めには、調査の働き、すなわち審判の働きが含まれるのである。この働きは、キリストがご自分の民を贖うために来られる前に行なわれねばならない。なぜなら、彼が来られる時には、彼はすべての者に、それぞれの行為に応じて報いを与えられるからである(黙示録22:12参照)」(『各時代の大争闘』下巻136、137ページ)。

最後のさばきにおける千年期の再調査段階(ヨハネの黙示録20章4節)

身代わりのやぎは荒野に放逐されました。これは、サタンがイエスの再臨後、1000年間(千年期)、この地上に束縛されることを象徴していました。あがなわれた者たちは天でキリストと共に支配します。

質問9

最後のさばきの千年期の段階において、だれがだれをさばきますか。このさばきの目的は何ですか。失われた者たちにもういちど機会が与えられますか。黙示録20:1~6、コリント第I 6:1~3

千年期におけるさばきは、なぜ人々が失われたのかを再調査するためのものです。これによってゆるしを受ける者はひとりもいません。恩恵期間はイエスの再臨前に閉じています。堕落天使の反逆や失われた人類の記録について調べるとき、多くの疑いが解けることでしょう。あがなわれた者たちは神の豊かなあわれみと神のみこころに対する人々のかたくなな反抗を認めることでしょう。彼らは神が公平なおかたであることを確信します。神は人類家族を救うために、また宇宙に調和を回復するために、あらゆる可能なことをされたのです。

天の法廷のさばき

「彼ら〔あがなわれた者たち〕はキリストと共に悪人を審き、その行為を法規の書すなわち聖書と照らし合わせ、それぞれがなしたわざに従って、すべての者に判決を下す。その時、悪人は、それぞれのわざに応じて、受けねばならない苦しみが定められる。そして、それが、死の書の彼らの名のところに記録される」(『各時代の大争闘』下巻444ページ)。

最後のさばきの執行段階(ヨハネの黙示録20章11節~15節)

質問10

最後のさばきの執行はいつ、とこでなされますか。このさばきにおいてどんなことがなされますか。黙示録20:11~15

質問11

救われている者たちには今、どんな報いが正式に与えられますか。キリストを信じる信仰は彼らの品性にどんな影響を与えていますか。かたくなな者たちには今、どんな宣告が正式に下されますか。マタイ25:31~46

歴史の教訓が明らかになる     

「長年にわたって争われてきた真理と誤謬のすべての問顛が、今明らかにされた。反逆の結果、すなわち神の律法を廃することの結果が、すべての知的被造物の目の前で明らかになった。神の統治と対照的なサタンの支配が行なわれた結果が、全宇宙の前に公開された。サタン自身の行為が、彼を罪に定めたのである。神の知恵と正義といつくしみとが、完全に擁護される。……罪の歴史は、神が創造されたすべての者の幸福が神の律法の存在と結びついていることを、永遠にわたってあかしする。大争闘のいっさいの事実が明らかになると、全宇宙は、忠誠な者も反逆者も、異同音に、『万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。』と言明する」(『各時代の大争闘』下巻457ページ)。

まとめ

イスラエルの聖所において年ごとになされた贖罪の日の儀式は、さばきと擁護の働きでした。それは、再臨前の、調査審判、千年期の審判、執行審判の出来事を予表していました。

第7課 あがないの暦

この記事のテーマ

慰めの時

主は十戒の道徳律および礼典律で、霊的記憶を新たにし、再献身するための聖なる時期を備えられました。型としての祭りとその年ごとの安息日はもはや守られなくなりましたが、第7日目安息日はクリスチャンに対して毎週、創造主とあがない主を思い起こさせるものです。

イスラエルのための特別な礼拝の時

主はシナイでイスラエルを一つの国家として組織されたとき、彼らに安息日をゆだねられたばかりでなく、過去における神の救いのわざを記憶にとどめさせるために、儀式制度における数々の宗教的な日を定められました。これらの儀式は来るべきメシヤによる神の最終的な救いを予表するものでした。

毎月の第1日に祝われる新月の祭り(民数記10:10、28:11)に加えて、主は過越の祭りと、それと共に行われる種入れぬパンの祭を定められました。その50日後には、ペンテコステの祭りが祝われました。過越の祭りはその年の「宗教」暦の始まりとなりました。これら三つの祭りが春の型となっていました。

春の祭り、あるいは年初めの祭りについて、エレン・ホワイトは次のように記しています。「こうした型は、そのできごとだけでなくて、その時に関しても成就した」(『各時代の大争闘』下巻106ページ)。秋、あるいは「終わり」の時期に祝われた祭りに関しても、次のように記されています。「これと同様に、再臨に関連した型も、象徴的奉仕のなかで指示されたその時期に成就しなければならない」(『各時代の大争闘』下巻106ページ)。

秋の型はその年の7月に来ました。7月1日に祝われたラッパの祭り(ロシュ・ハシャナー)は一般暦の始まりとなりました。重要な贖罪の日はこの10日後に当たっていました。同じ月の15日に始まり、8日間つづく仮庵の祭りは、年ごとの祭りのしめくくりでした。

年ごとの、あるいは儀式的な7回の安息日もまた、春および秋の祭りに関連して守られました。種入れぬパンの祭りの最初と最後の日、それにペンテコステの日は、春の儀式的安息日でした。また、ラッパの祭りの日、贖罪の日、それに仮庵の祭りの最初と最後の日が秋の型の儀式的安息日でした。

第7日目安息日(レビ記23章2節、3節)

質問1

儀式的な祭りとそれにともなう聖日を定める前に、主は第7日目安息日について改めて何と言われましたか。「聖会」とは何ですか。このことから、イスラエルの安息日順守についてどんなことがわかりますか。レビ記23:2、3(出エジプト記20:8~11、ルカ4:16比較)

質問2

週ことの安息日がイエスの死後さらに再臨にいたるまで重要な意味を持ち続けることについて、イエスは何と言われましたか。マタイ24:15~20

「安息日をつくられたおかたは、それを廃してご自分の十字架につけるようなことをされなかった。安息日はキリストの死によって無効とされなかった。キリストが十字架につけられてから40年のちにも、それは依然として聖なるものとみなされるのであった。弟子たちは逃げることが安息日に起こらないように、40年の間祈るのであった」(『各時代の希望』下巻95ページ)。

マタイ24:15~31はダニエル書8:13、9:27のすぐれた注解となっています。「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者」(マタイ24:15)とは、ダニエル書8章の「小さい角」の権力によってなされるわざです。それは紀元70年のローマ軍によるエルサレム絞羅だけをさすのではありません。それはまた、中世の教皇制ローマの働き、さらに終わりの時の「バビロン」をさしています(黙示録13、17、18章参照)。イエスが言及されたダニエル書8章の「小さい角」の権力は、キリスト再臨のときまで滅びることがありません(ダニエル書8:25を2:44、45と比較)。

したがって、イエスが弟子たちに「荒らす憎むべき者」から逃れるように言われたとき、彼は終わりの時を予表していた紀元68~70年の状況について言及しておられたのでした。1世紀のクリスチャンはその逃避が安息日にならないように祈るべきでしたが(マタイ24:20)。これは終わりの時代のクリスチャンについても言えます。安息日は、キリスト再臨直前の時代を含むすべての時代の神の民のために定められた休みの日です。

質問3

使徒たちの行為は、キリストの死後も安息日を守ることの重要性についてどんなことを教えていますか。使徒行伝13:42、44、16:13、18:4

春の型(レビ記23章4節~22節)

質問4

過越はいつ祝われましたか。その直後にどんな7日間の祭りが続きましたか。レビ記23:4~6

急いで食べた最初の過越(出エジプト記12:11)は、ある意味でイスラエル国家の誕生を示していました。その重要性のために、神はこの出来事のあった月を宗教暦の初めの月とされました(出エジプト記12:2)。

質問5

この特別な食事は何を記念するものでしたか。この最初の過越の小羊の血はどうされましたか。なぜですか。小羊の肉は何と共に食べられましたか。その食物は何を表していましたか。出エジプト記12:1~17、23、27

過越が意味していた肉体的な束縛からの解放は同時に、罪の束縛からの解放という虚的な意味を持っていました。主が過越の犠牲の血によってイスラエルの長子に肉体的な救いを提供されたのと全く同様に(出エジプト記12:27)、型としてのこの特別な小羊は来たるべき神の小羊キリストのによる霊的な救いを予表していました(ヨハネ1:29)。

質問6

霊感を受けた使徒パウロは、イスラエルのあがないの暦における過越と種入れぬパンの祭りの意味について、どんな霊的な解釈をしていますか。コリント第1 5:7、8

解放の祭り

「過越の祭りは記念の祭りであると共に、また、一象徴的な祭りでもあった。それはエジプトからの解放を指示していたばかりでなく、キリストがその民を罪の束縛から自由にして成就される、さらに驚くべき解放をも表示していた。……過越の小羊はほふられるだけでは十分ではなく、その血を柱に注がなければならなかった。そのように、キリストの血といさおしは魂にも適用されなければならない。われわれは、キリストが死なれたのは世のためばかりでなく、われわれ一人びとりのためであることを信じなければならない。われわれは、贖いの犠牲の功績を自分のものとしなければならない。

肉は、食べなければならなかった。われわれは、罪がゆるされるために、キリストを信じるというだけでは、まだ十分ではない。ゎれわれはみ言葉を通して、キリストから来る霊的な力と栄養とを、信仰によって絶えず受けていなければならない。キリストは言われた。『人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたの内に命はない』。……キリストに従う者は、彼の経験にあずかる者でなければならない。彼らは神の言葉を受け入れ、消化し、それが彼らの生活と行為を動機づける力となるようにしなければならない。……キリストの精神と働きが彼の弟子たちの精神となり、働きとなるべきである」(『人類のあけぼの』上巻318、319ページ)。

質問7

過越の食事の一部として食べたエンダイプのサラダ(「苦菜」)は、イスラエル人にまた私たちに何を教えていますか。出エジプト記12:8、民数記9:11、コリント第I 5:8

「小羊は苦菜と共に食べなければならなかったが、それはエジプトでの奴隷の苦しさを示していた〔出エジプト記1:14〕。そのようにわれわれがキリストを食べるとき、われわれは心のうちで自分の犯した罪の悔い改めをしていなければならない」(『人類のあけぼの』上巻319ページ)。

「安息日の翌日」は最初の儀式的安息日の翌日、つまり一週の種入れぬパンの祭りの第1日でした。

「過越の小羊をほふることは、キリストの死の型であった。……過越の祭りのときに主の前で揺り動かす初穂の束は、キリストの復活の典型であった。……キリストは、将来復活の時に神の倉に収められる贖われた人々の、永遠の収穫の初穂である」(『各時代の大争闘』下巻105、106ページ)。

イエスの初臨を示している預言的予型は驚くべき正確さをもって成就しましたが、これは彼が過越の小羊またメシヤであることの証拠でした。彼はニサンの月の第14日に死なれましたが、このことは必然的に、彼が揺祭・初穂の日によみがえられることを示していました。

質問8

救い主は「最後の」過越のとき契約の食事によって何を確立されましたか。マタイ26:17、18、26~30

質問9

ペンテコステの祭りは種入れぬパンの祭りとどんな関係にありましたか。レビ記23:15、16、出エジプト記34:22

ペンテコステは収穫の祭りで、一般的な意味では穀物の収穫の、また特別な意味では小麦の収穫の終わりを示していました。このように、大麦の揺祭・初穂をささげる種入れぬパンの祭りは、種を入れで焼いた小麦のパンの「揺祭」と関連がありました。これは小麦の収穫の終わりのペンテコステの祭りで、主に対する感謝のささげ物としてささげられました。

質問10

主はイスラエルのすべての健全な男子に対して、この1日の祭りに何をするように要求しておられましたか。出エジプト記23:14~17(使徒行伝2:1~3比較)

礼拝を第ーとする      

「幕屋から遠方のところに住んでいた者は、毎年、1か月以上も、年ごとの祭りに列席するために費やさなければならなかった。このような神への献身の例を見るとき、宗教的礼拝の重要性……を強く感じるべきである」(『人類のあけぼの』下巻184ページ)。

ペンテコステは1日だけの祭りでした。それにもかかわらず、イスラエルのすべての男子、また可能な者はだれでも、神の聖所に来て礼拝するように求められていました。

種入れぬパンの過越の祭りとは対照的に、ペンテコステは種を入れたパンの祭りでした。大麦の初穂の束がパレスチナでの最初の大麦の収穫を祝うためにニサンの月の16日に祭坦の前で「揺り動かされた」ように、種を入れた小麦のパン2個がすべての穀物の収穫を祝うために揺り動かされました。

質問11

もしペンテコステが「収穫」を象徴するものであるなら、紀元31年に起こったどんな出来事がイエスの働きを収穫し、キリスト教会の誕生をもたらしましたか。使徒行伝2:1~12、37~47

秋の型(レビ記23章23節~44節)

質問12

一般の暦はどんな祭りによって始まりましたか。この祭りはとのように祝われましたか。レビ記23:24、25

7番目の宗教月の新月はほかの11の新月と異なり、どんな労働をもしてはならない儀式的な安息日でした。しかし、それはほかの場合と同様に「聖会」であって、地域の礼拝所に出席しなければなりませんでした。

質問13

ラッパを吹き鳴らすことはすぐに続く贖罪の日とどんな関係にありましたか。レビ記23:27

律法学者はラッパの祭りと贖罪の日とのあいだの期間を「悔い改めの10日間」と呼んでいました。昔の神の民にとって、これらの日々は「さばき」に備える機会でした。このさばきはあがないの日に下されると信じられていました。

このラッパの音には、「贖罪の日が近づいた!注意せよ!ラッパの音に耳を傾けよ!」といった意味がありました。ウイリアム・ミラーらによって発せられた全世界的な特別なメッセージは、1844年に始まる再臨前のさばきに対して世の人々を備えさせるものでした。このメッセージはイエスの再臨に対する霊的備えの必要性を強調していました。終わりの時代には、福音のラッパが警告と訴えの「確かな」音を全世界に鳴り響かせ、彼らを天の聖所における贖罪の日に備えさせなければなりません。

質問14

農業年の最後の祭りはどのような名で呼ばれていましたか。この祭りは人々の心に何を強調していましたか。レビ記23:24、39~44、出エジプト記23:16、34:22

仮庵の祭りはその年のすべての穀物の収穫を喜びと平和をもって祝うものでした。イスラエルの最後の巡礼におけるこの一週のあいだ、神の民は荒野での放浪を記念して聖所やエルサレムの神殿のまわりに木の枝で造った仮小屋やテントの中で生活しました。この行為は地上での魂の最後の「収穫」と新エルサレムの父なる神の家にある「多くの住まい」で実現する喜ばしい帰郷を象徴していました(民数記29:12~29、申命記16:13~17、ネヘミヤ記8:14~18参照)。

喜びの理由

「イスラエルの人々は、神が彼らをあわれんでエジプトの奴隷から解放し、荒野を旅していたときも、情け深くお守りになったことを思い出して、仮庵の祭りのときに神を賛美した。彼らは、また、終わったばかりの贖罪の日の儀式によって、許され、受け入れられたことを自覚して喜んだ。しかし、主に贖われた者が、天のカナンに無事集められ、『被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている』のろいから永遠に解放されるときに、彼らは、言葉で言い表わせない喜びを味わい、栄光に満たされるのである(ローマ8:22)。人類のためのキリストの贖罪の働きはそのときに終わるし、彼らの罪は、永久に消し去られるのである」(『人類のあけぼの』下巻185ページ)。

まとめ

週ごとの安息日とレビ人の儀式における祭りは、イスラエルに神を覚えさせるためのものでした。年ごとの祭りは、カルバリーから再臨にいたるまでのキリストの働きを示していました。

第8課 清めと悪の勢力

第8課 清めと悪の勢力

超勢力の戦い

二つの超人的勢力がこの地上で激しい戦いを展開しています。一方は私たちの創造主で救い主である神の勢力であり、他方はサタンと堕落した天使たちの悪の勢力です。サタンはたえず信じる者たちを神への忠誠から引き離そうとしています。私たちは悪の勢力についての主の警告につねに心をとめるべきです。

クリスチャンを脅かすオカルト〔神秘主義〕

イスラエル人はたえずエジプト人、カナン人などの偶像崇拝による誘惑を受けてきました。紀元前6世紀にバビロン捕囚から帰るまでの彼らの歴史は、神に対する絶えざる反逆の歴史でした。彼らは異教の神々を礼拝しました。預言者エレミヤを通して、主は次のように嘆いておられます。

「天よ、この事を知って驚け、おののけ、いたく恐れよ……それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ」(エレミヤ書2:12、13)。

異教の神秘主義に対する関心はなくなったわけではありません。新しいかたちの神秘主義が今もキリスト教を脅かしています。セブンスデー・アドベンチストも例外ではありません。過去20年のあいだに、西洋のオカルトが東洋の神秘主義と結合し、現代社会に新たな神秘主義をもたらしています。東洋の神秘主義と西洋のオカルトにもとづいた理論や実践が現代人の生活のあらゆる面、たとえば科学、実業、健康、教育、心理学、宗教、政治、芸術、娯楽などに入り込んでいます。その根底には、非聖書的な世界観を持つ質卓籠畜があります。この汎神論はかつて、ミシガン州バトル・クリークにあった私たちの最初の医療施設の院長、J.H・ケロッグ博士の教えによってアドベンチスト教会に伝えられようとしたことがありました。現代のある学者は次のように述べています。

「人間に与えられている宗教的な選択は多くはない。私たちはいかなる神をも信じないで無神論者となるか、一つの神を信じて一神論者となるか、それともすべてのものが神であると信じて汎神論者となるかである。これら三つのうち、汎神論は歴史を通じて人間の最大の関心であった。……啓示された宗教がないなら、人間は自然宗教に引きつけられ、自然をすべてだと考え、自然を、そして人間を神格化する」(ロバート・J.L・バローズ「新時代におけるアメリカ人の宗教」『今日のキリスト教』1986年5月16日、17ページ)。

今日では、心霊術などの古くからある神秘学が、人間性を高めるといわれるさまざまな技術によって補われるようになってきています。さまざまなかたちの瞑想、全人的健康運動、それに各人のうちに隠されているといわれる「高度な能力」を目ざめさせる努力によって、人間は問縣を解決しようとしています。

今回は、神秘主義の本質について聖書から学び、またそれに対するクリスチャンの対応について考えます。

神に逆らう知的存在者(レビ記17章7節)

質問1

イスラエルはどんな礼拝について警告されていましたか。レビ記19:4、26:1、30

質問2

イスラエル人はだれを礼拝すべきでしたか。それはなぜでしたか。出エジプト記20:3~6、11

質問3

使徒パウロは唯一の真の神に対抗する悪の勢力について何と教えていますか。クリスチャンはこの勢力に対してどんな態度をとるべきですか。コリント第I・10:19~21

「偶像礼拝の本質、つまりそれがサタンおよび悪天使と交わるることであることを知っていたパウロは、クリスチャンに対して偶像礼拝を避けるように強く勧告している。クリスチャンはただキリストにのみ献身する者たちである。彼らは創造とあがないによってキリストのものであり、唯一の、真の神以外の者をあがめる礼拝を少しでも認めることはできない」(『SDA聖書注解』第6巻746、747ページ)。

質問4

悪霊の起源はどこにありますか。彼らは神とどんな関係にありますか。黙示録12:7~9’ペテロ第II・2:4(イザヤ書14.12~14、エゼキエル書28:13~18比較)

「目に見える世界と目に見えない世界との関係、神の天使の奉仕、そして悪霊の働きなどは、聖書の中にはっきりと示されており、人類歴史と不可分に織り混ざっている。一般に、悪霊の存在に関しては、信じない傾向が強まっており、他方、『救を受け継ぐべき人々に奉仕する』聖天使たちは、死者の霊であると考えている人が多い(ヘブル1:14)。しかし、聖書は、善天使と悪天使は両方とも存在することを教えているばかりでなく、これらは肉体を離れた死者の霊ではないという、疑うことのできない証拠を提示している。……悪霊たちは、最初、罪のないものとして創造され、その性質と力と栄光において、今神の使いをしている聖なる存在者たちと同等であった。しかし、罪のために堕落して、彼らは、神のみ名を汚し人間を破滅させるために団結しているのである。彼らはサタンの反逆に加担し、彼とともに天から追放され、各時代を通じて、彼と協力して神の権威に逆らって戦ってきた。聖書には、彼らの同盟と政府、種々の階級、その知性と陰険さ、人間の平和と幸福を破壊しようとする悪だくみのことが記されている」(『各時代の大争闘』下巻251、254ページ)。

質問5

アダムとエバを罪におとしいれることによって地球の支配権を手に入れたサタンは、現在、どんな地位を占めていますか。ヨハネ12:31、コリント第II 4:4

質問6

クリスチャンはどうしたら、惑わしに満ちた「悪魔の策略」を信じることから守られますか。エペソ6:10~18

現代の社会はサタンの偽りを受け入れやすくなっています。科学に慣れた人間の心は聖書から、また神の教えと権威から遠く離れてしまっています。同じように、人々はサタンと悪霊の存在を信じようとしません。現代物理学はエネルギーを基本的な実在とみなしているため、世の知識人のなかには、エネルギーを東洋の神秘主義によって教えられる汎神論と同一視する傾向が見られます。現代化学、オカルト、東洋の神秘主義が一つの世界的な信仰体系に統合されようとしています。

汎神論的な世界観は聖書の教えと相反するものです。(1)汎神論は人格的な創造者である神の存在を否定します。(2)それは、人類が罪を犯し、救い主イエス・キリストの罪なき生涯とあがないの死によってのみ救われるという聖書の教えを拒否します。(3)それは、死も最後のさばきもないと教えます。生命は霊魂再来によって向上・流動すると考えます。(4))病気の治癒などの物理現象は、人間のうちに隠された「高度の能力」、あるいは放射エネルギーによる、と考えます。

このような考えは人間の心をサタンの働きに対して盲目にします。サタンはあらゆる方法を用いて人間を滅ばし、神の恵みの福音から遠ざけようとしています。

「聖書に直接的な多数の証拠があるにもかかわらず、悪魔と悪天使たちの存在と働きを否定する人々ほど、悪霊の力に動かされる大きな危険の中にある人たちはいない。われわれが彼らの策略に無知であるかぎり、彼らは、われわれには想像もつかないほど優位にある。多くの者は、彼らの暗示に耳をかし、それでいて、自分自身の知恵の命じるところに従っていると考える。このために、サタンは、人々を欺き滅ばすために全力で働く。世の終末が近づくにつれて、サタンは存在しないという考えを至る所に広めるのである。自分と自分のやりかたとを隠すのが、サタンの手である」(『各時代の大苓砒』下巻257、258ページ)。

心霊術に対する警告(レビ記20章6節、27節)

質問7

神はご自分の民に対して、だれと相談することを禁じておられますか。レビ記19:31(イザヤ書8:19比較)

質問8

サウル王は亡くなった預言者サムエルと交信しようとしました(サムエル記上28:7~25参照)。エンドルの霊媒を通して、サムエルに似たものがサウルに語りかけました。神はこのときサウルと語っておられたのでしょうか(サムエル記上28:6、歴代志上10:13、14参照)。

「『口寄せ』の霊は、死者の霊ではなくて、サタンの使者、すなわち、悪天使である。……古代の偶像礼拝は、死者の礼拝と死者との交通を主張することから成り、聖書は、それを悪魔の礼拝であると言明している。……彼らは死者を礼拝していたが、実際は、悪霊を礼拝していたのである。

現代の心霊術は、これと同じ基礎に基づくもので、昔、神が堅く禁じられた魔術と悪霊の礼拝の形を新しくして復活したものに過ぎない」(『人類のあけぼの』下巻370、371ページ)。

聖書の神を信じないで、自分たちが善良で賢明な霊によって導かれ、教えられていると考えている人々は、だまされているのです。聖書の啓示によれば、そのような霊は神に対して、またすべての聖にして善なるものに対して戦いを挑む悪霊です。聖書の教えに従わないなら、現代人は(教養があろうとなかろうと)みな、オカルトと東洋の神秘主義の偽りに対して無防備です。彼らはしばしば、潜在的な起自然の能力が活動していると考えます。

質問9

イスラエルの神権体制において、レビ記の律法は悪の勢力の霊媒を務める者に対してどんな規定を定めていましたか。レビ記20:6、27

「心露術者の数は増えている。……神の民が守られるためには、聖書に精通し、死者の眠りについての私たちの信仰に固く立つしかない。サタンは巧妙な敵である。悪天使たちにとって、死んだ聖徒や罪人の姿をとり、人間の目に見させることはむずかしいことではない。終末が近づくにつれて、これらの現象はより籍慇になり、もっと驚くべきかたちをとって現われるようになるであろう」(『伝道』604ページ)。

魔術に対する警告(レビ記19章26節)

質問10

イスラエル人はカナン人のどんな行為に加わることを固く禁じられていましたか。レビ記19:26、申命記18:9~14

カナン人とバビロニヤ人はあらゆる種類のオカルトに深くかかわっていました。これらの言葉の正確な意味はわかりませんが、レビ記の律法があらゆる種類の占い、魔術、心霊術を禁じていたことだけは確かです。「占い」と訳されているヘブル語(レビ記19:26)には、「予言する」、「将来を予測する」、「隠された知識を発見する」といった意味があります。ネプカデネザルは矢筒、テラビム、動物の肝を用いて、どちらの国(ユダかァンモン人か)を先に攻めるべきかを「占い」ました(エゼキエル書21:21参照)。こうした行為は私たちにとっては不合理のように見えますが(実際にそうです)、これらのオカルトの背後に悪の勢力が働いていることを忘れてはなりません。

占いはさまざまな形式をとります。それは人間の持つ二つの基本的な欲求と結びついています。一つは、将来を知りたいという欲求であり、もう一つは、病気を知り、いやされたいという欲求です。心霊療法はオカルトの重要な部分を占めています。

質問11

イスラエルの北王国の支配者であったアハジヤ王が悪魔的な力によっていやしを求めたとき神はどのように彼を責められましたか。列王紀下1:2~4、16、17

現代のクリスチャンに対する警告

「今日、異教礼拝の神秘的儀式にかわって、秘密結社、降神術の集会、心霊術の霊媒などの薄暗さと不可解さとがある。神のみ言葉、または、聖霊による光を拒否する幾千という人々が、これらの霊媒の言うことを熱心に受けいれている。心霊術の信者たちは、古代の魔術を軽蔑して語るであろうが、大欺職者は、彼らが別の形の彼の策略に陥るのを、勝ち誇って喜ぶのである。……

ほとんどすべての種類の心霊術の主唱者たちは、いやしの力を持っていると主張する。彼らは、この能力を電気、磁気の力、いわゆる『共感治療』または、人間の心の中にある潜在力によるものであると言っている。このキリスト教時代にあってさえ、生きた神の力と資格をもった医師の技術に信頼せずに、こうした治療者のところに行く人が多くある。子供の病床で見守っている母親は、『もうわたしにはこれ以上何もできない。わたしの子供を治して下さる力を持った医師はないものだろうか』と叫ぶ。彼女は、千里眼的磁気治療者が驚くべきいやしを行っていると聞いて、彼女の愛する子供を彼にゆだねるのであるが、これは、正しく彼女のかたわらに立っているも同然のサタンにゆだねることである。多くの場合、子供の将来はサタンの力に支配されて、それからぬけ出ることは、ほとんど不可能になるのである」(『国と指導者』上巻178、179ページ、傍点付加)。

オカルトは今日、全人的健康運動と結びついています。人間は全体として、つまり肉体的、精神的、鴬的にいやされる必要があると考えることは正しいことです。しかし、一部の医療施設においては、科学的な医療行為がオカルトや東洋医術の心霊療法と並行して行われています。『ジャーナル・オブ・アメリカン・メディカル・アソシエーション』の1979年における報告によれば、アメリカにはそのような施設・診療所が500以上もあるそうです。それらは医師と心霊治療師によって管理・運営されています。このように、「古代」(つまり、オカルトと東洋医術)の治療法と現代の医学が提携するようになってきています。同じ年に、有名な、ジョンズ・ホプキンズ大学は「心霊療法」や、その他の「非伝統的療法」の講座をもうけています。

心霊療法、オカルト、汎神論

しばしば振り子などの物体を用いて病気を診断・治療する心霊療法は、長いあいだオカルトの重要な一部分を占めてきました。病気やストレスの治療法としてのオカルトや東洋医術は、聖書にもとづかない汎神論的世界観と結びついています。この事実はしばしば隠されてきました。クリスチャンもオカルトの治療法を借用・応用することができると考えることは危険です。オカルトをキリスト教に見せかけることはサタンの偽りと支配に対して道を開くことです。

セプンスデー・アドベンチストはその歴史の初期に、合理的な方法を用いて病気を予防・治療するように聖霊の導きを受けました。医師・看護婦・医療助手に科学治療法を教えるための医学施設が建てられました。神は定められた医療施設を通して働かれます。神の忠実な民が聖書の勧告に従うとき、神はまた彼らの祈りにこたえてくださいます(ヤコブ5:13、15参照)。

質問12

悪の勢力はほかにどんな方法で私たちに戦いをいどんできますか。唯一の防衛策は何ですか。マタイ24:24、テサロニケ第I1・2:8~12

まとめ

異教のオカルトに対するレビ記の警告は、今日のクリスチャンにとって現代の真理と言えるものです。サタンの手下どもは光の天使をよそおって(コリント第Ⅱ 11:13~15)、「新しい」かたちの古代の魔術をもって現代社会に戦いをいどんできます。キリストとキリストの言葉に従うときにのみ、神の民はサタンの虚偽と偽りの預言から守られます。

第9課 清めと健康

第9課 清めと健康

神のかたちを反映する

レビ記は聖潔と清めについて教えています。それらはクリスチャンの健康と幸福に関係があります。罪は人類家族を堕落させました。しかし、神は救いの計画によって悔い改めた罪人のうちに創造主のかたちを回復してくださいます。

聖なる神と調和する

レビ記の教えは今回の暗唱聖句に要約されています。「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(レビ記19:2)。同じような表現がレビ記のほかの箇所にも出てきます(レビ記11:44、45、20:26)。主は聖なるおかたです。「主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である」(申命記32:4)。「あなたがたを聖とする主、すなわち、わたしは聖なる者だからである」(レビ記21:8)。神は無限に清いおかたです。ですから、ご自分の民を罪から救い、罪のすべての結果から清めようと望んでおられます。聖書の宗教は神についての教理以上のものです。それは人間の生き方にかかわるものです。それは、私たちをあがなってくださった神のために、神のみことばの原則に従って生きることです。

「聖潔は忘我の境地ではない。それは意志を全く神に従わすことである。それは神のみ口から出る一つ一つのことばで生きることであり、天の父なる神のみこころをなすことである。光のうちにいるときと同様に、試練のときにも暗黒のときにも神により頼むことである。また、目で見て歩くのでなく、信仰によって歩むことである。それは少しも疑わずに確信をもって神に頼み、神の愛に安らぐことである」(「患難から栄光へ』上巻47ページ)。

神の民の肉体的な健康は、レビ記に描かれている清められた生き方の一面です。聖なる神は、ご自分の民も聖で、幸福な者となるように望んでおられます。聖書の宗教はいつでも神の民の健康と幸福を増進させるものです。神が古代イスラエルに与えられた宗教的教えは、彼らの精神的・肉体的健康に影響を及ぼしました。

清めと食物(レビ記3章17節)

ィスラエルがエジプトから出たとき、主は、彼らが主に従い、その戒めとおきてとを守るなら、彼らを肉体的に祝福すると約束されました。「わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」(出エジプト記15:26)。レビ記は健康問題を直接的には扱っていませんが(らい病をのぞく)、現代科学に照らして考えるとき、神から与えられた宗教的指針は民の全般的健康を増進させるうえで役立っています。

質問1

動物のどの部分を食べることが厳しく禁じられていましたか。レビ記3:17、7:23~26

犠牲の動物の脂肪と血は聖所の供え物として用いられました。ほとんどの犠牲において、脂肪は祭壇の上で焼かれました。血を注ぐことによってあがないがなされました。

主は脂肪と血を儀式のために聖別することによって、ご自分の民から病気の潜在的原因を取り除かれました。血液は生命に必要な栄養物をからだの細胞に運びますが、同時に体の中の老廃物も運びます。ということは、病原菌も血液を通して全身をまわっているということです。動物の血を禁じることはイスラエルにとって祝福となるのでした。動物の脂肪を禁じることもそうでした。脂肪は現代の文明国における心臓病や血管の病気の原因の一つになっています。

喫煙と血中コレステロールの増加は、アメリカとイギリスの40歳から69歳までの人々の死因の半分を占めています。血液中のコレステロールの値が高くなると、血管が徐々につまってきます。正常な血液の流れが防けられます。心臓に血液を送っている血管がつまると、心臓発作か起こります。食事と体内代謝は人の血中コレステロールを決める要素です。

現代の科学者によると、血管にコレステロールがたまるおもな原因は、動物の肉や乳製品に含まれる飽和脂肪であると言われています。神はイスラエル人の食物から動物の脂肪と血を除くことによって、ご自分の民を潜在的な病気の原因から守られたのでした。

質問2 

イスラエル人の食べることのできる魚と動物はどんな特徴を持ったものに限られていましたか。レビ記11:1~12

質問3 

食物としてふさわしくない鳥はどんな種類のものでしたか。レビ記11:13~23

質問4 

ほかにどんな生き物がとくに禁じられていましたか。レビ記11:29、30

質問5 

神は「清い」、「汚れた」という言葉によって何を意味されたのでしょうか。神はなぜ食物を規制されたのでしょうか。レビ記11:47、20:25、26

多くのクリスチャンは、「清浄」と「不浄」の区別はもはや意味を持たないと考えています。それは単なる儀式上の律法であって、ユダヤの儀式制度がその対型と出会ったときに機能を停止した、と彼らは主張します。

※対型一予型(実体を示す型)が示していた実体

質問6 

人類家族が創造されたとき最初に与えられた食物は何でしたか。彼らの堕落後、食物はとのように変わりましたか。創世記1:29、3:18

質問7 

神の次善の策としての清い動物の肉が初めて許されたのはいつでしたか。創世記9:3、4

清い動物と汚れた動物の区別がモーセから始まったものでないことは、創世記から明らかです。この区別はおそらく、堕落後、犠牲制度が制定されたときから始まったものと思われます。なぜなら、「清い」動物だけが犠牲として用いられているからです(創世記8.20)。洪水後、肉食が許されると、神は当然ながらそれを「清い」動物だけに限定されました。

科学的になぜ、ある動物が「清く」、ある動物が「汚れている」のかはわかりません。この区別はただ、ある種の肉が食物に適しており、ある種の肉が不適当であることを意味しているだけです。

「清い」肉を食べ、「汚れた」肉を食べないということは何かを予表していたわけではありません。それはノアに与えられた健康上の指針だったようです。同じ理由から、それは今日もなお価値を持つものです。

現在も生きている原則

「ある家族から招待され、食事の祈りをささげるように求められたときのアダム・クラーク博士の話が伝えられている。その日のおもなメニューは豚肉の料理だった。彼は次のような祈りをささげたと言われている。『神よ、もしあなたが古い契約のもとでのろわれたものを新しい契約のもとで祝福することがおできになるなら、どうぞこの食物を祝福してください』。清い動物と汚れた動物の区別はモーセから始まったものではない。それは洪水以前からあった。この区別が廃止されたと信じる理由は全くない。たとえ現在はその科学的理由がわからなくても、これも神のみこころの明白な表現の一つなのである」(フランク・L・マーシ『特殊創造説の研究』388ページ)。

質問8

クリスチャンは聖書のどんな原則によって、可能なかぎり良い食物をとるように教えられていますか。コリント第I  6:19、20、10:31

肉食の影響

「私たちは取るべき食物に関して厳密な指針を定めてはいない。しかし、果物、穀物、ナッツ類が豊かにある国々においては、肉食は神の民にとってふさわしい食物ではない。肉食は人の性質を動物的にし、すべての人に対して抱くべき愛と同情心を奪い、低い欲情に高い能力を支配させる傾向があることを、私は教えられた。肉食が過去に健康的であったとしても、今はもう安全ではない。がん、はれもの、肺疾患は大部分、肉食によって起きる。私たちは肉食を教会員となるためのテストとすべきではないが、肉食をする信者が他人に及ぼす影響については考慮すべきである。私たちは神の使者として人々に次のように言うのである。『だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである』」(『教会へのあかし』第9巻159ページ)。

清めと清潔(レビ記15章31節~33節)

レビ記15:31~33を見ると、神が儀式上の汚れの除去に厳格であられたことがわかります。汚れを重大視することは道徳的な罪の重大さを強調するためでした。多くの場合、儀式的な清めには、病気の流行を予防する効果がありました。

質問9

動物の死体や死人にふれた者はどうしなければなりませんでしたか。レビ記11:24、25、民数記19:14~16

質問10

他人の汚れによって汚れた者はどうしなければなりませんでしたか。レビ記15:5~12

病原菌や伝染病についての現代の知識からすれば、神の指導は十分に根拠のあるものでした。イスラエル人は宗教的な理由から自分のからだと衣服を洗い、「夕まで汚れ」ましたが、からだと衣服を洗うことは病気の流行を予防するうえで役に立ちました。

1847年には、世界で6人のうち1人が産科病棟で亡くなっていました。ウィーンのイグナツ・ゼメルバイス博士は、自分の病院の医師と医学生が24時間以内に死亡した婦人を解剖していることに気づきました。彼らは手を洗わないで、ひきつづき生きた女性の骨盤検査をしていました。その場合、患者は病気になり、死んでいきました。この年の4月には、57人の女性が彼の病棟で亡くなりました。このとき、ゼメルバイス博士は教師と学生に対して、患者を診察する前に必ず手を洗うことを義務づけました。その結果、6月には42人のうちの1人が、7月には84人のうちの1人が死亡しただけでした。恐ろしい伝染病が死者から生きている人に移っていたのでした。(S・I・マクミラン『これらの病の一つも』12~15ページ参照)。

質問11

祭司はどんな手順に従ってらい病などの皮膚病の疑いのあるイスラエル人を扱いましたか。レビ記13:4、5、21、26、45、46

伝染病の疑いのある人は「隔離」されました。これは一時的なものでしたが、らい病であることがはっきりしている人は自分の家庭と社会から永久に隔離されました。

質問12

イスラエルの男子の割礼は、神の契約への忠誠を示す外面的なしるしでした。それは生後何日目に施されましたか。レビ記12:3

小児科の医学研究誌『ホルト・ペディアトリックス』(1953年)によれば、生後2日から5日の幼児は出血に敏感です。これは、生後5日から7日までは、重要な血液凝固因子であるビタミンKが子供の腸管で十分に形成されないためと考えられています。正常な凝血に必要な第二の因子であるプロトロンビンが最高値に達するのは8日目においてです。したがって、医学的に言えば、生後8日目が割礼を施すうえで最良の日ということになります。(S・ I・マクミラン『これらの病の一つも』19~21ページ参照)。

神はご自分の民に健康の原則について教えられました。私は今日、この戒めに従うべきでしょうか。

清めと精神街生(レビ記19章11節~18節)

自己中心、怒り、復讐心といった否定的な感情は健康に有害です。しかし、親切、好意といった積極的な態度は幸福をもたらします。親切にふるまうということは、天の父なる神のようにふるまうということです。(マタイ5:45)。

レビ記19:11~18を読み、次の質問に答えてください。

ここに4つの戒めが記されています。

(1).11、12節、(2).13、14節、(3).15、16節、(4).17、18節。

  1. それぞれの戒めはどんな言葉によって結ばれていますか。それは何を意味しますか。それは今回の暗唱聖句(レビ記19:2)とどんな関係がありますか。
  2. それぞれの戒めはイスラエル人に、他人に対してどんな積極的で同惰にみちた態度をとるように教えていますか。

質問13

イエスはどんな目的のためにレビ記のこの部分を引用しておられますか(レビ記19:17、18)。使徒パウロもこの教えをとのように用いていますか。マタイ22:34~40、ローマ13:8~10

愛の原則

「十戒のはじめの四つは、『心をつくして主なるあなたの神を愛せよ』という一つの大きな戒めに要約される。あとの六つは、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というもう一つの戒めに含まれる。これらの戒めは二つとも、愛の原則の表現である。第二の戒めを破りながら第一の戒めを守ることはできないし、また第一の戒めを破りながら第二の戒めを守ることもできない。神が心の王座に正当な座を占められるときに、正当な場所かわれわれの隣人に与えられる。われわれは自分自身と同じように神を愛するようになる。こうして神を最高に愛するときにのみ、隣人を公平に愛することができるのである」(『各時代の希望』下巻57ページ)。

質問14

人々の利己心を弱め、同情と寛容の精神を増大するためにどんな農業に関する律法が与えられましたか。レビ記19:9、10、23:22、申命記24:19~22

質問15

貧しい人々に物や金を貸す場合、どうすることが禁止されていましたか。レビ記25:35~38

質問16

土壌を自然に回復するために、どんな民事上の規定がもうけられていましたか。また、人手に渡った土地をもとの所有者やその相続人に定期的に返還するために、どんな律法が定められていましたか。レピ記25:1~24

安息年は土地の休閑期でした。そこに自然に生じた産物は貧しい人々のものとなりました。50年ごとに訪れるヨベルの年は経済を平等化するためのものでした。この年には、以前に売買されたすべての土地がもとの所有者に返されました。神はこのようにして、ご自分の民に同情と無我の精神を教えようとされたのです。神と人とのために献身することは聖書の宗教の核心です。それは与える者を祝福します。彼は霊的、心理的、肉体的祝福を受けます。

「人は神と協力して、衰えた土地の地力を回復しなければならなかった。そのことは神の御名をたたえ、その栄光をあらわすことになるのであった。技能と熱意をもって自分の土地を管理するとき、それが豊かな恵みをもたらすように、彼らの心も神によって支配されるとき、それは神の品性を反映するものとなるのであった」(『SDA聖書注解』第1巻1112ページ、エレン・G・ホワイト注)。

まとめ

「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(レビ記19:2)。これは旧約聖書の核心です。それは新約聖書の核心でもあります。使徒ペテロもクリスチャンに対して同じことを教えています(ペテロ第I  1.16)。私たちは霊的にばかりでなく、肉体的・精神的にも神と一致しなければなりません。私たちは神の道徳的な律法ばかりでなく、神の肉体的な律法にも従うことによって、神をあがめるのです。どちらも私たちの幸福のためにあります。

第10課 清めと家庭

第10課 清めと家庭

救い主は私の必要を知っておられる

性的能力は結婚にとって神聖なものです。なぜなら、結婚は神が定めた結合だからです。性道徳についてのレビ記の教えは神の原則にもとづくものです。「健全」、「正常」ということは清めに不可欠なものです。それらは神の計画に従うことによって可能となります。したがって、救い主の本来の計画から性的に逸脱することは罪です。なぜなら、それは神の理想に混乱と破滅を生じさせるからです。救い主の計画に従って生きることは真の幸福をもたらします。

神の原則は私を守る

この世の価値観はたえず変動します。そこには絶対的で、不動の原則というものがありません。多くの人にとっての「原則」はその日を気ままに生きることです。彼らの目的は「一番」になることであり、「快楽」を求めることです。道徳の領域においてはとくにそうです。神の抑制する恵みがないなら、私たち人間は内面的な堕落におちいることでしょう。エジプトとカナンにおけるイスラエルがそうであったように、低級な道徳による堕落は現代のクリスチャンにとって脅威です。神は霊感を受けたレビ記の指針によって、周辺の堕落したカナン人の不道徳からご自分の民を守ろうとされました。神はイスラエルの道徳と霊的高潔さを守ろうとされました。

レビ記18章には7回、神の聖なる民はカナン人の不道徳な行いや習わしをまねることによって自らを汚してはならないと教えられています(3、24、26、27、29、30節参照)。主は6回、「わたしはあなたがたの神、主である」と再っておられます(2、4、5、6、21、30節参照)。これには、「聖にして、道徳的に純潔でありなさい。わたしが聖なる者であるからである」という含みがあります。

この言葉はその他にイスラエルにとって、また私たちにとって、重要な意味を持っていました。つまり、私たちのすべての行為は神の前で吟味されるということです。神の目は私たちに注がれています(詩篇139:1~12参照)。

レビ記の教えは結婚についての神の計画を理解することによってもっとはっきりわかってきます。今回はまず、創世記の研究から始めましょう。

神の創造された能力(創世記1章26節~28節)

質問1

人間は神と、また動物とどこが異なりますか。人間にはどんな能力が与えられていますか。この能力が正当な意味を持つのはどんな範囲においてですか。創世記1:26~28、2:22~24

人間は新しい、別個のものとして創造されました。彼らは性的存在として造られました。創造主は彼らに生殖の能力、つまり地を自分たちと同じ人間で満たす能力を与えられました。動物や下等生物は本能によって繁殆しますが、神は人間にその生殖能力を神の原則と理性に従わせ、人間の性的営みが結婚という愛の関係のなかでなされることを望んでおられます。

質問2 

人間の性的能力は生殖以外のどんな目的を持っていますか。箴言5:18~20(コリント第I  7:3~5比較)

夫婦愛の最初の表現として、アダムはその妻エバを「知った」と書かれています(創世記4:1)。このヘブル語は体験によって得られた親密な知識を強調しています。結婚制度は二人の人間の心と心、精神と精神、からだとからだ、意志と意志を一つに結びつける目的を持っています。それは二人の結合をより高尚にし、深く、決して切れることのない、助け合いの関係へと導いてくれます。使徒パウロは、ある人々にとっては独身でいるほうがより幸せであると言っています(コリント第I 7:32~40参照)。たとえそうであっても、「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない」(ヘブル13:4)のです。

高められた関係          

「結婚関係を、神のきよいいましめによって保護された神の聖なる制度の一つと見なす者は、理性の命令に従う。イエスはどんな階級の人にも独身を強制されなかった。イエスは結婚の神聖な関係をなくすためではなく、それを高め、本来の神聖さに回復するためにこられた。キリストは、きよらかな、無我の愛が支配する家族関係をよろこびをもってごらんになる」(『アドベンチスト・ホーム』124ページ)。

「神は、最初の結婚をとり結ばれた。だから、結婚式の制定者は、宇宙の創造主である。『結婚を重んずべきである』(ヘブル13:4)。それは、神が人間にお与えになった最初の賜物の一つであった。また、それは、堕落後、アダムが楽園の門から持って出た二つの制度のなかの一つである。婚姻関係に関する神の原則をわきまえ、それに従うときに、結婚は祝福である。それは、人類の純潔と幸福を守り、人間の社会的必要を満たし、肉体的、知的、道徳的性質を高める」(『人類のあけぼの』上巻21ページ)。

質問3

詩篇記者は天の理想を反映する、どんな家庭生活の光景を描写していますか。詩編128:1~6

人間の幸福は創造主のみこころに従うことからきます。信頼で結ばれた結婚は、聖書のなかで、神がご自分とご自分の民とのあいだに求められる関係を描写しています。神の計画と調和した結婚生活は地上に小天国をもたらします。

罪によってゆがめられた能力(レビ記18章、20章)

エジプトとカナンの民はその多神教の影響によって、創造主が人間のために制定された結婚の原則を広く破っていました。家庭の神聖さ、完全さはしばしば、異常で不自然な行為によってそこなわれていました。

質問4

神はイスラエルに対して、エジプト人やカナン人の不道徳な行為をまねることの危険性について何と警告されましたか。レビ記18:1~18、24~30、20:11、12、14、17、19~23

ハムラビ法典(紀元前1727年頃)とヒッタイト法(紀元前13世紀頃)はともに、近親相姦を禁止しています。しかし、モーセの規定(紀元前15世紀半ば)には、より広範囲の、徹底した指針が収められています。それは12の条文からなり、15の禁止行為(レビ記18:1~18、申命記22:30)、罰則(レビ記20章)、それにいくつかの呪い(申命記27:20、22、23)が盛り込まれています。血縁関係であれ、非血縁関係であれ、二親等以内の親戚との性交・結婚は禁じられていました。結婚を許される最も近い親戚は実のいとこでした。ほかの二つの法典と同じように、モーセの律法にもいくつかの省略がありました。慣習がそれらを補いました。イギリスの判例法と同じく、モーセの律法が定められたとき、その律法の原則・精神が同じような状況に対して適用されました。

質問5 

結婚の神聖さを犯すもう一つの不道徳は何でしたか。十戒のどの条頃が家庭をこの罪から守るために定められていますか。レビ記18:20、出エジプト記20:14、17

結婚における不誠実

「この戒め〔第7条〕は、両性のあいだのあらゆる不道徳な関係を禁じている。この違反行為は悪しき思いの結果であるから、それはまた精神的な汚れと情欲をいだいて相手を見ることを禁じている。姦通は夫の側あるいは妻の側の結婚関係に対する裏切りである。……姦通は最も厳粛な誓いを破ること、最も聖なる信頼を裏切ることである。それは人生のあらゆる関係のなかで最も神聖で拘束力のある関係を破ることである」(テイラー・バンチ『十戒』121、122ページ)。

質問6 

お金のためにからだを売ることについて、主は何と言っておられますか。レビ記19:29(レビ記21:9比較)

質問7 

主はさらに、どんな性的倒錯を厳しく禁じておられますか。レビ記18:22、23、20:13、15、16

神はこのように、ご自分の民に道徳的純潔に関する指針を与えておられます。私たちはこれらの指針のなかで、感情の誘惑に屈するとき、罪が聖なる肉体的能力をゆがめてしまうことを教えられます。そのような罪は神の聖潔さを汚すものです。それらは聖なる民に対する神の理想を砕き、彼らの人格・家庭・家族の健全さを破壊してしまいます。

「同性愛は旧約聖書のなかで一様に、『憎むべきこと』として非難されている。それに対する刑罰は死であった(レビ記20:13)。それは性的関係の自然な秩序を侵し、種の生殖よりも倒錯した欲望を満たした」(R K・ハリソン『レビ記』192ページ)。

これらの聖句を読むと、神が最高の思いと行為だけを受け人れられることがわかります。私の人生はこの高い標準に従っているでしょうか。もしそうでないなら、どこを改めるべきでしょうか。

聖霊に支配された能力(コリント第I 6章13節~20節)

旧約聖書と同じく新約聖書も、固体的能力が結婚関係にとって神聖なものであることを教えています。

質問8

人間のからだについての新約聖書のどんな考え方が、肉の罪に対するクリスチャンの抵抗力を強め、道徳的に清い生活を送る力を与えてくれますか。コリント第I 6:18~20

古代の聖所のように、創造とあがないによる神の聖なる民は聖霊によって、神の宮、神の住まいとなります。彼らは聖霊の臨在と支配によって、罪に抵抗し、神のみこころに調和した生活を送る力が与えられます。クリスチャンは神の計画に従ってその肉体的能力を用いることによって、創造主の栄光をあらわします。

自発的な僕

「『自分自身のものではない』。これは不品行の罪に対する6番目の論拠である。……人間は自分自身のものではない。彼には、自分の生まれ変わっていない肉体の欲望・刺激のままに自分の能力を用いる権利はない。彼は創造とあがないによって神のものである。彼は肉の欲を満たすためにではなく、神の御名の栄光のために、神の命じられるままに知的、肉体的、霊的に生きる義務を負っている。回心した人間は、じつにイエス・キリストの自発的な僕であって、……主人を喜ばすためにだけ生きる」(『SDA聖書注解』第6巻703ページ)。

質問9 

あらゆる不道徳は人間から何を奪いますか。コリント第I  6:9、10、15(ローマ1:26、27比較)

罪の支配が続くかぎり、肉欲は逸脱した、不道徳なかたちで現れます。現代の文明社会はほとんど道徳的な歯止めを持たなくなっています。現代は洪水前の時代、ソドムの時代とよく似ています。

しかしクリスチャンは、主と同じように同胞に接しなければなりません。イエスはゆるしの心をもって取税人、蕊謡者、遊女に近づき、神の理想とする純潔と平和に導こうとされました。イエスの恵みは救いの恵みでしたが、信者の罪を容認するものではありませんでした。彼はこう言われたのです。「神はあなたを愛しておられます。神はあなたの悔い改めを受け入れ、あなたをただでゆるしてくださいます。行きなさい。二度と罪を犯さないように」(ヨハネ8:11参照-ルカ7:47~50比較)。

同性愛者はしばしば、自分たちの性的習慣が自然なものであると主張します。彼らはクリスチャンに、同性愛が異性間の結婚と同じく正常な行為であることを認めさせようとします。

質問10

このような考え方に対して、主は何と言われますか。神はこ自分の計画に従わない子らの生き方を変えられますか。コリント第1 6:9、11(ガラテヤ5:16~25比較)

神がこのような厳しい言葉を語られるのは、ご自分の子らから真の幸福を奪うためではありません。罪深い習慣は人生を台無しにします。罪はいつでも破滅をもたらします。神は愛をもって次のように勧告しておられます。「悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ばす。……わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル書18:30、32)。

現代の多くの学者は、同性愛は習得された習慣であるといっています。確かに人は遺伝や事故によって正常な結婚生活を営むことができなくなる場合もあります。しかし、そのような障害であっても、不純な生活を送るための言い訳にはなりません。聖書は次のように述べています。「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」(コリント第I 6:11)。アルコール中毒者は、キリストの再臨のとき不滅のからだを受けるまでは、飲酒の傾向から解放されることがないかもしれません。しかし、神の恵みによって、彼は今、まじめに生きることができます。同性愛者もその根深い傾向から逃れることができないと感じるかもしれません。しかし、神の恵みによって、彼も道徳的にきよい生活を送ることができます。

質問11

近親相姦、姦通、同性愛、売春といった古代人の不自然な罪は、現代社会においても至るところに見られます。クリスチャンでさえ、それらの誘惑に屈することがあります。これらのことは私たちに何を教えていますか。ルカ17:27~30

罪から離れよ

「世界は、急速に威亡にひんしていた。間もなく、神の刑罰が下り罪と罪人とは焼き尽くされなければならない。……それは、罪人から断固として離れて、命がけで出て来ることであった。ノアのときも、ロトのときも同じであった。エルサレムの滅亡前の弟子たちも同じであった。そして、最後の時代にも同様である。人々の間にはびこっている罪悪から離れることを神の民に命じる神の警告の声が、ふたたび聞こえるのである」(『人類のあけぼの』上巻174、175ページ)。

質問12

イエスは性的存在として造られた人間に対する神の理想について何と言われましたか。人間は独身でも幸福で有用な人生を送ることができますか。マタイ19:3~6、コリント第I 7:6~9

イエスは一夫一婦制の結婚についての神の理想を再確認しておられます。性的能力は結婚にとって神聖なものであり、聖なる結婚関係においてのみ機能するように神によって定められています。この世に罪が入ってきたとき、人間関係は大きく変化しました。すべての人が結婚できるとは限りません。しかしこのことは決して、独身者に乱交を許すものではありません。性的欲求は神の恵みによって純化することができます。彼らは価値あるものに心を向けることによって、農かで生きがいのある人生を送ることができます。既婚者と同じく、クリスチャンの独身者は、内住する聖霊の導きのもとで生活する特権が与えられています。

質問13

在世中、イエスは結婚制度をどのように尊ばれましたか。ヨハネ2:1~11

「旧約聖書にも新約聖書にも、結婚関係はキリストとその民との間に存在するやさしく聖なる結合をあらわすのに用いられている。婚宴のよろこぴは、キリストがご自分の花嫁を天父の家につれてゆかれ、あがなわれた者とあがない主とが、小羊の婚宴の席にすわるその日のよろこびをキリストの心に思わせた。キリストはこう言われる、『花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる』。『あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、…   あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、…   主はあなたを喜ばれ』る。『彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる』(イザヤ書62:5、4、ゼパニヤ書3:17)」(『各時代の希望』上巻176ページ)。

まとめ

神の聖潔は結婚生活にも及ぶものです。「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない」(ヘブル13:4)。真の愛は、「不作法をしない」(コリント第I 13:5)。性的能力は神聖なものなので、それを誤って用いることは神のみ心を傷つけ、混乱、不幸、そして神のさばきを招きます。一方、神の計画に従うなら、クリスチャンの家庭は地上の小天国となります。

第11課 清めと献身

第11課 清めと献身

約束を守られる神      

神は必ず約束を守られます。同じように、神の聖なる民も誓約を守るように求められています。

神と人に対する聖なる誓い

社会の安定は人間相互の信頼にかかっていると言っても過言ではありません。人の言葉はその契約と同じくらい真実でなければなりません。約束は神聖なものであって、可能なかぎり完全に遂行すべきです。人間がお互いの約束に信頼できなくなれば、社会は混乱におちいります。

神は信頼できるおかた

同じことが霊的な世界においても言えます。神の約束が信頼できなくなると、人間はそのよりどころを失うことになります。神は預言者マラキを通して私たちに保証しておられます。「主なるわたしは変ることがない」(マラキ書3:6)。使徒ヤコプは、私たちの天の父なる神には「変化とか回転の影とかいうものはない」と述べています(ヤコブ1:17)。聖書はイエスについてあかししています。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル13:8)。私たちの神は信頼できるおかたです。

神を重視する聖書の宗教は契約というかたちを取っています。この契約は神と神の民とのあいだの関係です。それは神の約束、人間の服従の義務、そしてこの義務を遂行するための方法を含みます。今回はまず、契約においてイスラエルに与えられた神の約束について学びます。神の誓いという題のもとでレビ記26章について学びます。

神は人間を重視される

厳密に言えば、レビ記26章と27章はレビ記の文学的構成とは関係がありません。しかし、それらはレビ記全体を仕上げ、前半と後半を一つに結びつける役目を果たしています。1~16章は犠牲の儀式について、17~25章は清い生き方について教えています。レビ記26章はご自分の民に対する神の誓い(祝福とのろい)を、またレビ記27章は神に対するイスラエルの誓いを強調しています。誓いは創造主に対する聖なる約束であって、軽々しく扱うべきものではありません。クリスチャンはイスラエルの経験から学ぶことができます。

「人々に神の働きのための誓い・誓約の神聖さを認識させる必要がある。このような誓いは一般的に人間同士の約束手形ほど拘束力を持つとは考えられていない。しかし、神に対してなされた約束は果して聖なるものでなく、また拘束力を持つものでないのであろうか。それが専門用語を欠き、また法律によって強制されないということで、クリスチャンは自分の言葉で誓った義務を無視してもいいのであろうか。しかしいかなる証書・契約も神の働きのためになされた誓いほど拘束力を持たない」(『SDA聖書注解』第6巻1056ページ、エレン・G・ホワイト注)。

神の誓い—契約の約束とのろい(レビ記26章)

レビ記26章に記されてある契約の祝福とのろいはいくつかの点で、申命記28章に記されたそれと似ています。

質問1

神はレビ記26章で、ご自分の品性を反映するように要求されたイスラエルの民にどんな祝福を約束しておられますか。

質問2

イスラエルは神の肉体的・道徳的法則に従って生きることから来る祝福のほかに、どんな祝福を受けましたか。イザヤ書60:1~6(マタイ5:14~16比較)。

「神は、その民イスラエルを、ほまれとし、栄光としようと望まれた。あらゆる霊的な便宜が彼らに与えられた。彼らが神の代表者にふさわしい品性を形成するために役立つものは何であっても、さしひかえることなく神から与えられていた。神の律法に従順であることは、世界の諸国の前で彼らに驚嘆すべき繁栄を得させるものであった。すべての巧みなわざをなす知恵と技量を与えることのできる神は、いつまでも彼らの教師となり、神の律法に対する従順を通して彼らを高められるのであった。彼らは、もし従順であれば、他の諸国を襲った疫病から守られ、豊かな知性に恵まれるのであった。神の栄光と尊厳と大能は、彼らの繁栄の中にあらわされ、彼らは祭司と王の国となるのであった。神は彼らを、地上最大の国家とするためのあらゆる必要なものを提供しておられた」(『キリストの実物教訓』266ページ)。

質問3 

この契約の中最大の約束は何でしたか。それは何を予表していましたか。レビ記26:11~13(マタイ1:23、ヨハネ1:14、黙示録21:3比較)

質問4

もしイスラエルが神にそむき、神との契約を破るなら、どんなのろい・さばきが下ることになっていましたか。レビ記26章の次の聖句を調べてください。

第一ののろい(14~17節)

第二ののろい(18~20節)

第三ののろい(21、22節)

第四ののろい(23~26節)

第五ののろい(27~39節)

これらののろいは恐ろしいものです。しかし、それらは罰するためではなく救うために与えられます。神はご自分の民を悔い改めと告白に導こうとしておられました(レビ記26:40~43参照)。

イスラエルの子らは神に従えば祝福が約束され、逆えばのろいが下ることになっていました。このことは今日でも真実ですか。私自身が、また私の教会が祝福を受けるためにはどんなことが必要ですか。

人間の誓い一献身(レビ記27章1節~25節)

誓いは契約の必要条件ではありません。神は誓いを要求してはおられません。しかし、誓いがなされ、約束の言葉が語られたなら、その誓いを破ることは重大なことです。誓いはしはしば危機的状況のなかでなされます。もし神が私をこの病気からいやしてくださるなら、もし敵の手から救ってくださるなら、もし子供を授けてくださるなら、もし無事に家に帰してくださるなら—そのとき私は自分の生涯を、自分の財産を神にささげよう、といいます。一方、神の働きを支えるための訴えがなされるとき、聖霊の感化のもとで誓いがなされることもあります。彼らは神に対する感謝の心から、犠牲をささげる誓いをします。しかし、初めの確信が失われ、不安がよぎるとき、誓いを無視する誘惑に直面することになります。レビ記27章の規定は人間をこのような傾向から守るためのものです。

質問5 

どのようなものを神に誓う(ささげる)ことができましたか。

レビ記27:1~8、レビ記27:9~13、レビ記27:14~25

質問6

人々は幼い子供に関しても誓いを立てました。子供のいないハンナの場合はどうでしたか。彼女がサムエルの代わりにお金をささげなかったのはなぜですか。サムエル記上1:11、22、25~28

ハンナの誓いはその厳しい境遇から出たものでした。聖書の時代においては、子供のいない妻は、しばしばひどく軽べつされることがありました。ですから子供を持つことは悲願でした。ハンナは約束を忠実に守り、サムエルを聖所の主の務めのために、また一生涯、ナジル人としてささげました(サムエル記上1:11、民数記6:1~21参照)。ハンナの誓いの結果、祭司であり預言者であったその子サムエルの長期間の働きを通して、イスラエルに霊的リバイハルが起こりました。

ハンナはその誓いを果たした

「ハンナの祈りは、聞きとどけられた。彼女は、心から願い求めた賜物を受けたのである。彼女は子供を見て、サムエル(神に求めた)と名づけた。幼児が母親から離れられるほどになるやいやな、ハンナは、誓いを果たした。ハンナは、世の母親の持つ愛清の限りを尽くして、自分の子を愛した。日ごとにむすこの力が強くなり、子供らしい片言に耳を傾けるにつれて、彼女は、ますます深くサムエルを愛した。彼は、ハンナのひとり子であり、天からの特別の賜物であった。しかし、彼女は、サムエルを神にささげた宝として受けた。そして、神ご自身のものを与え主なる神に返さず、留めておこうとはしなかった」(『人類のあけぼの』下巻222ページ)。

質問7

旧約聖書には、自分の財産の一部または全部を神にささげる誓いをした人の例は記されていません。しかし、新約聖書には驚くべき一つの例が記されています。それはどんな例ですか。使徒行伝5:1~11

彼らは誓いを破った

「深い確信がその場にいたすべての者にやどり、直接に神のみ霊の感化を受けたアナニャとサッピラは、ある資産を売った収益を神にささげる誓いを立てていた。

後になってアナニャとサッピラは欲深い気持ちに負けて、聖霊を嘆かせた。ふたりは約束を後悔しはじめた。そしてキリストのみわざのために立派なことをしたいという顧いで心を燃やしてくれた、新鮮で尊い感動を失った。彼らは早まったことをしたと思った。だから自分たちの決心を考え直さなければならない」(『患難から栄光へ』上巻71、72ページ)。

質問8

もし誓うことが要求されていなかったのなら、誓いを破ることがなぜこれほど重大な問題とみなされたのでしょうか。

申命記23:21~23、伝道の書5:4~6

「現代は、自分の言葉を重要視せず、約束を尊重しない時代である。たとえこの世がそうであっても、これはキリストの名を持つ者たちがその約束を無視することの口実とはならない。にもかかわらず、いかに多くの誓約が守られず、約束が破られていることであろう。結婚の哲いは破られ、バプテスマの碧約は破られ、協定の誓いが破られている。契約は無視され、協定は破られ、誓約は忘れられている。信仰を捨てることは普通で、責任の回避は当たりまえである。キリストご自身、再臨のとき地上に信仰が見られるであろうかと言われた(ルカ18:8)」(M L・アンドレアセン『聖所の儀式』第2版121ページ)。

人間の誓い—十分の一(レビ記27章30節~33節)

レビ記27章で、神の定められた十分の一制度が習いの一部として論じられています。それはなぜ誓いのなかに入るのでしょうか。

質問9

十分の一はどのように説明されていますか。それはどんなことを意味しますか。この聖句は、あとで20%を払いさえすれば、主の十分の一を借りることができると教えていますか。レビ記27:30、31

聖なる民はこの世から分かたれ、神にささげられたものです。十分のーも全く同じです。それは私たちの収益から分かたれ、神にささげられるべきものです。それは神の目的のために聖別されたものです。

十分の一を差し控える

「もしあとで十分の一にその五分のーを加えてささけるなら、いま十分のーを差し控えることは合法的か否かという問題がある。この問題は聖句の誤解から来ている。五分のーを追加しなければならないのは十分の一を差し控える場合ではなかった。それは十分の一を現物で、つまり小麦、大麦などの産物でささげる場合の問縣であった。種として播くために小麦が必要で、そのために小麦の代わりにお金をささげなければならない場合があったであろう。このような状況において、彼は小麦の値を見積もり、それに五分の一を加えた額をささげることによって、十分の一をあがなうことができたのであった。十分の一を差し控えることかできると考えられていたのではなかった。……穀物と果実だけがあがなうことができた。家畜はあがなうことも交換することもできなかった」(『SDA聖書注解』第1巻818ページ)。

質問10

羊と牛の十分のーはどのように計算されましたか。レビ記27:32、33

神にささげられる十分の一

「この律法〔レビ記27:30〕はキリストを予表する儀式や犠牲のささげ物を廃止するものではなかった。神が地上にご自分の民を持たれるかぎり、彼らに対する神の要求は同じである。私たちのすべての収益の十分の一は主のものである。主はそれを宗教的な目的に用いるためにとっておかれた。それは聖なるものである。神の要求はいつの時代においても同じである。この義務を怠ったり、遅らせたりすることは神の不興をまねく。もしすべてのクリスチャンがその十分の一を忠実に神にささげるなら、神の金庫は一杯になるであろう」(『スチュワードシップに関する勘告』67ページ)。

質問11

イスラエルにおいて、十分のーはとのように用いられましたか。それはなぜでしたか。民数記18:20、21、26~28(ヘブル7:5比較)

私たちはイスラエル経済における「第一」の十分の一と「第二」の十分のーとを区別する必要があります、3年ごとにささげられる十分のーは、個人が自分の町のレビ人、他国人、未亡人、孤児に食事を提供するために用いられました(申命記14:28、29、26:12、13参照)。ある学者たちは、これはレビ人と祭司を支えるためにささげられた十分の一と同じもので、これが3年ごとにレビ人、他国人、未亡人、孤児のために用いられたのだと言います。しかし、このように考えるのは疑問です。レビ族はほかの部族のような嗣業を持っていませんでした。「第一」の十分の一だけが彼らの嗣業でした。したがって、時おり貧しい人々を助けるために用いられた十分の一は、いわば「第二」の十分のーと言うべきものでした(『SDA聖書注解』第1巻の、申命記14:29、26:12についての解説を参照)。

質問12

使徒パウロは、昔の祭司を支えた十分の一の原則が現代の福音の働きを支えるうえでも必要であることをどのように例証していますか。コリント第I 9:13、14

「神はモーセを通して、祭司とその助手がパレスチナの地に全く嗣業を持たず、そのすべての援助を宮から得るように教えておられた(民数記18:20~24、26:57、62、申命記18:1~8参照)。祭司とレビ人は土地などの財産を管理する責任を免れていたので、宮の大事な働きに献身することができた。彼らはこの世の欠乏を満たすことに心をわずらわす必要がなかった。神は会衆の十分の一と犠牲のささげ物によってその備えをされた」(『SDA聖書注解』第6巻730ページ)。

「今日、事態は大きく変わってきました。主の要求と主張が、いくらか関心を持たれたとしても、最後まで放置されたままになっている。しかし、私たちの働きは今、ユダヤ人が必要としたときより10倍、多くの資金を必要としている。

使徒たちに与えられた大宣教命令は、全世界に出ていって、福音を宣べ伝えることでした。現在はそれだけ働きが拡大し、現代のキリストの弟子たちに負わせられている責任が増したということである。もし律法が数千年前に十分の一とささげ物を要求していたとするなら、今日、それらはなおさら必要とされるのである」(『スチュワードシップに関する勧告』68ページ)。

まとめ

私たちの神は契約を守る神、すべての約束に忠実なおかたです。神に従う者たちもまた、頼りになる者、絶対に信頼できる者、神と同胞に対する約束を忠実に守る者となるように求められています。

第12課 神を敬う

第12課 神を敬う

神との関係は最も重要

神は私たちに神を敬い、礼拝するように求められますが、それは神が私たちの造り主であって、私たちがその存在を神に依存しているという事実にもとづいています。どのように神を敬い、どのように聖なる恐れと愛をもって神に仕えるべきかを理解することは、私たちの人生で最も重要なことです。

心をつくし、精神をつくし、思いをつくして

イエスは「律法全体と預言者」(マタイ22:40)の基礎となっている二つの原則についてお語りになりました。その第一の原則は申命記(6:5)から、また第二の原則はレビ記(19:18)から取られています。申命記には次のように書かれています。「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」。レビ記にはこれと同じ言葉はありませんが、そこにはやはり同じ原則が教えられています。

神と神に属する物を敬うことの大切さは、出エジプトのときに起こった二つの経験によってはっきりと教えられています。そのうちの一つは、アロンの息子で高い地位にあった祭司、ナダブとアビウの経験です。彼らは、神が十戒をお語りになったあとで、モーセ、アロン、それに70人の長老たちと共に、ンナイ山に登りました。彼らはそこで神の栄光を見、神の臨在の下で契約の食事をしました(出エジプト記24:1、8-11参照)。しかし、二人はのちに聖所での誤った行為のゆえに死ぬことになります。神は人々を平等に扱われます。

二つ目は雑婚によって生まれたイスラエル人の経験です。その人の名はわかりませんが、父親はエジプト人で、母親はイスラエル人でした。彼は争いの中で公然と主の御名をのろい、汚しました。神は彼を石で打ち殺すように命じられました。

神は愛のおかたであると同時に、聖なるおかたです。被造物は神のみまえで恐れと敵意をあらわすべきです。神は聖なるおかたなので、神に関連のあるものもすべて(安息日、教会、礼拝)は聖です。今回は、神と神に聖なる物を敬うべきことについて学びます。

聖なる務め(レビ記10章1節-11節)

レビ記には、前半と後半に一つずつ、歴史的な出来事が記録されています。最初の記録は、新たに献身した祭司の家族がその聖なる務めの第一日目に経験した悲劇です。

質問1

アロンの息子のナダブとアビウは、神の怒りを招くようなどんなことをしましたか。このさばきはなぜこれほど突然で、厳しいものでしたか。レビ記10:1、2

ナダブとアビウは、二人の兄弟およびアロンと共に、イスラエルで最高の霊的職務を担っていました。彼らは聖なる神とその民とのあいだの仲介者でした。彼らはイスラエルの前に模範的な神の民となるべき人物でした。しかし、彼らはカインと同様に神の教えにそむきました。彼らは、燔祭の祭壇の上の聖なる火からでなく、普通の火から取った炭火で香をたきました(レビ記16:12参照)。彼らはまた至聖所にも入ろうとしたようです(レビ記16:1、2参照)。

質問2 

モーセは神の代弁者として、これらの祭司に下った神のさばきをとのように説明していますか。このことは今日、聖なる務めに携わる者たちにどんなことを教えていますか。レビ記10:3

神の選民はもっとよく知るべき

「モーセの言葉をだいたい次のように言い換えることができる。『神により近い者は神の聖潔と栄光に関してより深い注意を払わなければならない』。この言葉の裏には、大祭司の息子はこのように尊大に振る舞うべきでないという意味が隠されている。……イスラエルで最大の指導者であったモーセは、神の命令からわずかにそれたために、その生涯の望みをかなえてもらえなかった(民数記20章)。『あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから」である(民数記20:12)」(G・J・ウェナム『レビ記』156ページ)。

「真理の教師として働く者たちのうちに、キリストの学校で重要な教訓を学ぶ必要のある者たちがいる。牧師たちは神の回心の力を体験していなければならない。そうでなければ、彼らはほかの働きを求めるべきである。もしキリストの使者たちが人々に真理を伝えることの厳粛さに気づいているなら、彼らはまじめで、思慮深い者、神と共に働く者となるであろう。もしキリストが弟子たちに与えられた使命の真の意味を理解しているなら、彼らは敬虔な心でみことばを開き、主の教えに耳を傾けるであろう。生ける者と死せる者とのあいだに立つとき、自分たちの手のわざに関して神に申し開きをしなければならないということを理解できるよう、彼らは天よりの知恵を求めるのである」(『牧師へのあかし』142ページ)。

質問3 

これら二人の祭司たちはどんな肉体的状態のもとで、不注意にも礼拝の務めに携わりましたか。レビ記10:8-11

ラビの伝承によれば、ナダブとアビウは酒に酔って冒とくの罪を犯しました。

「もしもナダブとアビウが、初めから酒をほしいだけ飲んで半ば泥酔状態になっていなければ、この致命的な罪を犯すことはなかったであろう。彼らは神の臨在のあらわれる聖所にはいる前には、細心の注意を払って、厳粛に準備することが必要であることを承知していた。だが、彼らは不節制によって、清い職務にたずさわる資格を失ってしまった。彼らの心は混乱し、道徳的感覚は鈍り、神聖なものと世俗のものとの区別ができなくなってしまった」(『人類のあけぼの』上巻427、428ページ)。

質問4 

自分の過ちのゆえに懲らしめや叱責を受ける人々にむやみに同情することは、かえって彼らにどんな害を与えますか。

「自分の罪の言い訳をしようとする罪人に対して、まちがった同情を示す者を、神は責められる。罪には道徳的な感覚を失わせる作用があり、そのために悪を行なう者は、その罪の大きさを自覚しない。そして、それを悟らせる聖霊の力がないので、彼は自分の罪に対してなかば盲目的な状態に陥っている。このような罪に陥っている者に、その危険を教えるのは、キリストのしもべたちの務めである。罪の本性と罪から生ずる結果に対して、罪人の目を盲目にさせて警告の効力を失わせる者は、そうすることが自分たちの愛の証拠であるとうぬばれがちである。しかし、実は、彼らは神の聖霊のわざに正面から対立して、これを妨げるために働いている。彼らは、罪人を欺いて、滅亡の断崖にいこわせている。彼らは、自分たちでその罪にあずかり、罪人が悔い改めないことの恐るべき責任を背負っている。このまちがった同情の結果、実に多くの人々が滅びに陥ってしまった」(『人類のあけぼの』上巻427ページ)。

霊的礼拝(レビ記20章1節〜5節、26章2節)

質問5 

イスラエルはカナンで、たえずどんな誘惑にさらされていましたか。現代のクリスチャンはとうでしょうか。レビ記18:21、20:1-5 (ヨハネ第I 5:21比較)

偶像礼拝はときには非常に残忍で堕落的な形態をとりましたが、イスラエルはシナイからバビロン捕囚の終了まで絶えず偶像礼拝の誘惑にさらされてきました。心の中の偶像礼拝(エゼキエル書14:3)はアダムの時代から今日まで、すべての信者の誘惑となっています。十戒の第1条はすべての信者にたえず献身と再確認を求めています。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記20:3)。

第ーとすべきもの

「永遠に自存し、創造されたおかたでなく、自らすべてのものの根源であって維持者であられる主だけが、最高の尊敬と礼拝をお受けになる資格がある。人間は、主以外のなにものをも第一に愛して奉仕することを禁じられている。神に対するわれわれの愛を減少させたり、神にささげるべき奉仕をさまたけるようなものを心にいだくときに、われわれはそれを自分の神としているのである」(『人類のあけぼの』上巻356ページ)。

質問6

偶像礼拝は繰り返し禁じられていますが、これに加えて、神は現代にもあてはまるどんな二つの命令を与えておられますか。レビ記26:1、2(19:30比較)

安息日は信者の心をたえず創造主なる神に向けさせるものです。今日の教会での福音の説教と同じく、聖所も信者の心をたえずあがない主なる神に向けさせてくれます。安息日を守らず、教会に出席しないでいると、次第に神を忘れるようになります。

質問7

主は出エジプト記31:13-17で、霊的イスラエル(教会)にとっても真理である安息日に関するどんな三つの重要な真理を強調しておられますか。

印としての安息日の戒め第4条の戒めである安息日の戒めは、十戒の最初の板をしめくくるものです。最初の4条は創造主に対する私たちの義務を規定しています。第4条は、いわば十戒を封印する働きをしています。それが十戒を与えた天地の創造主を指し示しているからです。

出エジプト記31章は安息日の三つの面を強調しています。安息日は次の事実のしるしです。(1)罪から清め、あがなう神の力。(2)創造する神の力。(3)神と神の民とのあいだの契約関係。罪人を清める(罪人を罪から離す)ためには、新しい生命を再創造する神の力が必要です(詩篇51:10、コリント第II 5:17参照)。

「安息日は創造と救済の力のしるしである。それは生命と知識の源として神をさし示している。それはまた世の初めに人に与えられていた栄光を思い出させ、このようにしてご自身のかたちにかたどってふたたびわれわれを創造される神のみこころをあかししている。安息日と家庭は同じようにエデンにおいて定められ、神の目的の中にあって切っても切れない密接なつながりを持っている。…… 神の愛によって、労働の必要は制限されている。安息日の上に神は慈愛のみ手を置かれている。神は、ご自身の日に、家族の者が神と交わり、自然と交わり、またお互いに交わる機会を保存されている」(『教育』296、297ページ)。

質問8 

イスラエルは聖所に対してどんな態度をとるべきでしたか。レビ記26:2。
私たちは教会でどのように振舞うべきですか(伝道の書5:1、2参照)。

「へりくだって、信じる魂にとって、地上の神の家は天の門である。キリストの代表者たちによって語られる賛美の歌、祈り、言葉は、人々を天の教会、つまり汚れた者の人ることのできないあの高い礼拝に備えさせるための、神の定められた方法である。……神の家を尊ぶ気持ちはほとんどなくなってしまっている。聖なる物や場所が見分けられなくなっている。聖なるもの、崇高なものが認識されていない。……輝かしい真理の光が与えられている私たちは神の家に対するヘブル人の敬虔さを学ぶためにも、神ご自身によってヘブル人に与えられた教えをしばしば読むべきである。……私たちはユダヤ人以上に、その礼拝において注意深く、敬虔でなければならない」(『教会へのあかし』第5巻491、492、495、496ページ)。

敬虔な言葉(レビ記24章10節〜16節、23節)

レビ記に記されているもう一つの出来事は、宿営で二人の男たちのあいだで起こった争いです。一人は純粋なイスラエル人で、もう一人は出エジプトのときイスラエルと運命を共にした「多くの入り混じった群衆」の一人でした(出エジプト記12:38)。この入り混じった群衆の中にはエジプト人だけでなく、イスラエル人と結婚したエジプト人もいたわけです。この男の場合は、父親がエジプト人で、母親がダン族のイスラエル人でした。

質問9

争いが頂点に達したとき、混血の男はどうしましたか。神からの直接的指示を求めることになったこの罪は、どれほど重大なものでしたか。レビ記24:10-12

質問10

神はどんな指示をお与えになりましたか。このさばきはなぜこれほど厳しいものだったのでしょうか。証人が被告人の頭に手を置いたのはなぜでしょうか。レビ記24:14-16、23、5:1

自分の両親に反逆して、彼らをのろった者の扱い方は、すでに明示されていました(出エジプト記21:17)。しかし、神の御名を冒記、のろうことによって神に背いた者に対する指示は与えられていませんでした。冒とくとは神を中傷し、侮る行為です。怒りから出た不適切な言葉は、その男の本性を表していました。このさばきは現代の、寛容な社会に生きている私たちにとっては厳しいように思われます。しかし、この男が罰せられることによって、ほかの人々は反逆と不従順におちいることを免れたのでした。

愛と正義は報復を求める

「このようなきびしい刑罰が、興奮のあまり口にした言葉に課せられるなら、果たして神は愛と正義の神であろうかという疑問をもつ人々もあろう。しかし、神に敵意をいだいて発した言葉は大罪であることを示すことは、愛も正義もともに要求するところである。最初の違反者に与えられた罰は、他の者に対して、神のみ名を敬わなければならないという警告であった。しかし、もしこの人の罪が罰せられずにすんだならば、他の者たちは、規律を乱し、そのために多くの人の命が犠牲にされたことであろう」(『人類のあけぼの』下巻4ページ)。

冒とくは第3条の戒めを犯す

「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」(出エジプト記20:7)。聖書では、「名」は人格、品性を表します。

質問11

神に従う者たちはとのように神の「名」を敬い、またそれを汚しますか。イエスの祈りに答えて、神の御名はどのように「あがめられ」ますか。マタイ6:9(テモテ第1 6:1)

主の御名をみだりに唱えることは言葉についてばかりでなく、生活全般についても言えます。クリスチャンは父と子と聖霊との「名によって」バプテスマを受けています(マタイ28:19参照)。したがって、私たちはその生き方によって聖なる神の御名をあがめ、また汚すのです。それは、両親が子供の行いによって「知られる」のと似ています。神の御名によって呼ばれること、神の家族の一員となることは特権です。それはまた軽々しく扱ってはならない重大な責任です。

「神はあなたがたを神の代表者として世におつかわしになる(ヤコプ2:7参照)。生活のあらゆる行ないのうちに、あなたがたは神のみ名をあらわすべきである。この願いは、神のご品性を持つことを要求する。生活と品性において神のいのちとご品性そのものをあらわさないならば、神のみ名をあがめることも、世に神をあらわすこともできない。このことは、キリストの恵みと義を受けることによってのみなされるのである」(『祝福の山』134ページ)。

質問12

不遜な人も回心して敬虔な生活を送ることができますか。テモテ第I・1:12-15

「神のみまえに出る者はみな、謙遜で敬虔な態度を身につけるべきである。私たちはイエスの御名によって確信をもってみまえに出ることができる。しかし、イエスが私たちと同じ地位にいるかのように、大胆にうぬほれをもって近づいてはならない。近づきがたい光の中に住んでおられる大いなる、全能の、聖なる神に対して、あたかも同等の、いやそれ以下の者に対して呼びかけるかのように呼びかける者たちがいる。この世の支配者の謁見室では考えられないような振る舞いを、神の家でする者たちがいる。セラピムもあがめ、御使いたちもそのみまえで顔をおおうおかたの前に、自分たちがいるということを、覚えるべきである。神は大いにあがめられるべきおかたである。神の臨在を本当に認める者たちはみな、神のみまえに謙虚にひれ伏す」(『今日のいのち』281ページ)。

まとめ

十戒の第1条から第4条までは、神に対する私たちの義務を規定しています。レビ記に記されてある数々の経験と勧告は、私たちの仕える神の聖潔と威厳について教えることによって、十戒のこの面を明らかにしています。安息日を楽しく守ることによって、また教会の礼拝に忠実に出席することによって、私たちは神を中心とした生活を送ることができます。神を私たちの生活の中心とするとき、私たちは敬虔に神に仕えることができます。

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