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第1課 預言者としてのエレミヤの召し
第1課 預言者としてのエレミヤの召し
旧約聖書のどの預言者よりも、私たちはエレミヤの人生について知っています。エレミヤ書の伝記的情報は、預言者としての彼の働きをよりよく理解するうえで役立ちます。彼は歴史に大きな影響を及ぼしていたので、イエスの在世当時でさえ、預言者として尊敬されていました。
その一方で、人間的な基準から判断すると、この預言者の働きはほんのわずかな成功しか収めませんでした。数十年にわたる熱心な警告と嘆願にもかかわらず、大部分の人が、彼の与えた主からのメッセージに耳を傾けなかったからです。
しかし人々の反対にもかかわらず、彼は揺るぎませんでした。彼は自分の力ではなく、主の力によって、「城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁」(エレ1:18、新改訳)として立ちました。エレミヤの人生における運命は、いろいろな意味で不幸なものでした。彼の召しは、苦しみ、悲しみ、拒絶、そして投獄さえも彼にもたらしました。しかもなお悪いことに、これらの厄介事の多くは、彼がまさに助けようとし、正しい方向を指し示そうとしていた人々からもたらされました。このように、エレミヤは彼自身の体験で、数百年後にイエス御自身が同じ土地で直面なさることを前もって示したのでした。
預言者たち
預言者たちは、神の律法の断固たる擁護者として召され、契約と十戒の立場を堅持しました(エレ11:2~6)。ミカ3:8は、預言者の働きの一つを要約しています。それは、「ヤコブにそのとがを示し、イスラエルにその罪を示すこと」(口語訳)でした。そして言うまでもなく、罪という概念は、律法から離れては意味を成しません(ロマ7:7参照)。
神の裁きは不可避ではありませんが、人々が悪の道から立ち帰らなければ、それは下されます(イザ1:19、エレ7:5~7、エゼ18:23参照)。しかし、変わることは容易ではありません。特に、人々が悪事を働くことに慣れてしまっている場合はそうです。かつてはゾッとさせられた悪事に人が慣れてしまうのを見たことのない人がいるでしょうか。預言者たちのメッセージは人々に、彼らの悪事がいかに悪いものであり、それから離れない結果がどのようなものであるかを理解させることでした。そして言うまでもなく、そのメッセージは預言者自身のものではなく、主から与えられたものでした。
預言者たちは、神の言葉がどのように自分たちに告げられたのか、自分たちがどのようにそれを聞いたのかを語りません。神が直接彼らに語られたこともあったでしょうし、聖霊が夢や幻、おそらくは「静かにささやく声」(王上19:12)によって彼らに接触されたこともあったでしょう。どのような形でメッセージを受けたにせよ、預言者たちには、神の御旨を一般の民に伝えるだけでなく、必要とあれば、王や皇帝や将軍たちの前でもそれを伝えるという使命がありました。
この務めには大きな責任が伴いました。もし彼らが真実を語るなら、権力者たちは彼らを殺すかもしれません。しかし、もし彼らが真実を突きつけなければ、神の裁きが自分たちにも下されます。預言者になるというのは重大な召しであり、私たちが聖書からわかる限りにおいて、この召しを受けた者たちは、それを真剣に受け止めました。
私たちは、彼らがそうしてくれたことをうれしく思います。なぜなら、彼らのメッセージが聖書に収められ、私たちに受け継がれてきたからです。その意味で、彼らの言葉は今日でもなお語り続けています。そして、エレミヤの時代と同様、今でも問われていることは同じです。つまり、私たちが耳を傾けるかどうかです。
エレミヤの家庭背景
問1
列王記上1章と2:26を読んでください。アビアタルが故郷のアナトトへ追放されることに至った背景は、どのようなものでしたか。
王位を強固にしたソロモンは、王位継承を巡るアドニヤとの確執の中で、アビアタルを祭司職から外し、彼を(エルサレムの北東5キロほどの所にあったと思われる)故郷のアナトトに追い返しました。エレミヤの父親であるヒルキヤは、このアナトトに住む祭司一族の一員でした。エレミヤの一家はアビアタルの末裔かもしれない、と推測する者もいます。いずれにしても、私たちはエレミヤ1:1から、この預言者が高貴な血筋であったことがわかります。それゆえ、わたしたちはここで、預言者の歴史を通してずっと、主があらゆる種類の人(羊飼い、ラビ、漁師、祭司など)を預言者の働きに召してこられたことがわかります。
「エレミヤはレビ族の祭司の1人であったので、幼少の時から聖職のために訓練を受けていた。そうした幸福な準備の期間に、彼は生まれた時から『万国の預言者』として立てられていたことを夢想だにしなかった。そして神の召しが与えられた時に、彼は自分の無価値さに圧倒された。彼は叫んだ、『ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません』(エレミヤ1:5、6)」(『希望への光』540、541ページ、『国と指導者』下巻29ページ)。
祭司は、国民の道徳的、霊的指導者でなければなりませんでした。彼らには、国民の霊的生活のほとんどあらゆる面に影響を及ぼす重要な役割が与えられてきたからです。この務めに忠実な者もいれば、私たちが想像もできないような方法でこの務めを悪用したり、冒したりする者もいました。じきにエレミヤ書の中で読むことになりますが、エレミヤはこのような不忠実な祭司たち、つまり託された責任や召しに値しないことがわかった祭司たちを非難するための強烈な言葉を持っていました。
預言者としてのエレミヤの召し
問2
エレミヤ1:1~5を読んでください。エレミヤの召しについて、この箇所はどのようなことを述べていますか。
旧約聖書のほかの預言者(や新約聖書のパウロ[ガラ1:1、ロマ1:1参照])と同様、エレミヤは、だれが自分を召したのかということに関して曖昧ではありません。この箇所で、というよりもエレミヤ書全体においてエレミヤが明確であったのは、彼が語っているのは彼に臨んだ「主の言葉」である、という点です。強烈な反対や骨折り、苦しみ、試練にもかかわらず、彼が前進するのを可能にさせたのは、間違いなく、この強い確信でした。
エレミヤが召されたのはヨシヤ王の治世の第13年、つまり紀元前626年か627年に遡ります。この預言者が生まれた正確な年や、彼が働きを始めた正確な年齢はわかりません。しかし、これから見ていくように、彼は心の中で、与えられたこの務めをするのに自分は若すぎる、子どもだ、と思いました。
問3
エレミヤ1:4、5を読んでください。これらの言葉から、エレミヤはどのような確信と慰めを得たでしょうか。
神は、エレミヤが生まれる前から彼を預言者として選び、この役割のために聖別されました。「わたしはあなたを聖別し(た)」という言葉は、さまざまなものの中で特に「神聖化される」「聖くなる」「聖化する」ことを意味する動詞に由来します。この動詞には聖なる宗教的な意味が明らかに含まれており、聖所の奉仕にも結びついています。実際、「聖所」に相当する言葉は、同じ語根の言葉に由来します。それに含まれる概念は、何かが、またはだれかが「聖なる目的のために区別される」というものです。これこそが、エレミヤの誕生前から、神が彼のために計画されたことです。先の聖句は、先在説や予定説を教えているのではありません。そうではなく、神の予知を教えています。
気乗りしない預言者たち
この務めのために神によって選ばれていたのだ、と主が請け合ったにもかかわらず、この若者は怖がり、乗り気ではありませんでした。おそらく、当時のひどい霊的状態や、やらねばならないことがわかっていたので、エレミヤはこの働きを望まなかったのでしょう。
問4
エレミヤ1:6とイザヤ6:5、出エジプト記4:10~15を比較してください。これらの出来事には、どのような共通点がありますか。
理由がどうであれ、これらの人たちはみな、[与えられた]務めを果たせないと感じました。おそらく、預言者の働きにとってそれが必要条件だったのでしょう。つまり、こういう極めて重要な務めをするには、自分は無力で、無価値だという感覚です。「創造主の代弁者だって!?」と、少なくとも最初に彼らがひるんだのも無理はありません。
召しを受けたあとのエレミヤの最初の返事にも注目してください。彼はモーセと同じように、自分はうまく話せません、とすぐに答えています。イザヤも返事の中で、彼の口や唇に言及しています。いずれの場合にも、彼らの召しがどのような内容であろうと、話すことや伝えることが伴うであろうことを、3人は知っていたのです。彼らはやがて神からメッセージを受け取り、それを人々に伝える責任を負うことになります。ホームページを作ったり、メールを送ったりできる今日と違い、彼らはたいてい顔と顔を合わせて伝えなければならなかったでしょう。敵意を抱く指導者や乱暴な人々の前に立って、叱責や警告の厳しい言葉を言わなければならない状況を想像してみてください。間もなく預言者になるこれらの人たちが気乗りしなかったのも、無理はありません。
問5
エレミヤ1:7~10を読んでください。エレミヤに対する神の返事は、どのようなものでしたか。神が私たちを召してさせようとしておられることが何であれ、この返事の中には、私たちのための何らかの希望と約束が、なぜ含まれているのですか。
アーモンドの枝
預言者は神の証人であり、彼の仕事は自分自身のためでなく、神のためだけに語ることです。エレミヤは国家の問題に対する解決方法を見いだすためや、民を従わせる偉大な人物やカリスマ的指導者になるために召されたのではありません。エレミヤが持っていた唯一の使命は、神の言葉を民とその指導者たちに伝えることでした。ここで重視されるのは、人間や人間の能力ではありません。神の主権と力だけが重視されるのです。預言者は人々を主に振り向かせなければなりませんでした。主のうちにのみ、彼らのあらゆる問題の解決があったからです。言うまでもなく、そのことは今日の私たちにとっても何ら変わりません。
問6
エレミヤの最初の幻は、何に関するものでしたか(エレ1:11~19)。
たいていの聖書は、11節のヘブライ語の表現を「アーモンドの枝」と訳しています。しかしこのような訳では、ここでのヘブライ語の言葉遊びを見逃すことになります。「アーモンド」と訳されている言葉は、主が御自分の言葉を成し遂げようと「見張っている」とおっしゃっている12節に登場する「見張る」という動詞と同じ語根なのです。
エレミヤ書全体の中心的メッセージは11節と12節に見いだせる、と言うことができます。神の言葉は成し遂げられるでしょう。いつの日かすべての人が、神のおっしゃったとおりに物事が起きるのを目にします。神は恵みと赦しを提供してこられましたが、だれであれ無理に従わせたり、いやしたりはなさいません。もし神の民が神の言葉に応答しないなら、イスラエルに対する神の言葉がエレミヤ書の中で成就したように、神の裁きと罰の言葉は確実に成し遂げられるのです。
おわかりのように、ここにおける神の言葉は、単に人々のためのものではありませんでした。主は直接エレミヤ本人に語りかけ、彼が直面するであろう反対に備えるように警告しておられたのです。どんなことが起きようとも、エレミヤは、「わたしがあなたと共にい(る)」という神からの確証を得ることができました。これから見ていくように、彼はその確証を必要とするようになります。私たちもみな、それを必要としているのではないでしょうか。
問7
マタイ28:20を読んでください。この聖句の中に、現代に生きる私たちのためのどんな確証を見いだすことができますか。
さらなる研究
マルティン・ルターはエレミヤ書の注釈の導入部分で、この預言者について次のように記しています。「エレミヤは、嘆かわしい困難な時代を生きた悲しみの預言者だった。そのうえ、彼の預言者としての奉仕は、怒りっぽく頑迷な人々との闘いであったため、極めて難しかった。一見したところ、彼はあまり成功を収めなかったように見える。なぜなら彼は、敵がますます邪悪になっていくのを体験したからである。彼らはこの預言者を何度も殺そうとした。圧力をかけ、何度かむちで打った。しかし、彼は生き延びて、祖国が荒廃し、同胞が捕囚の身となるのを自分の目で見るのである」
「エレミヤは40年の間、真理と義の証人として国民の前に立たなければならなかった。彼は未曽有の背教の時代にあって、その生活と品性において、唯一の真の神の礼拝を実証しなければならなかった。恐るべきエルサレムの包囲の時に、彼は主の代弁者とならなければならなかった。
彼はダビデの家の没落と、ソロモンが建てた美しい神殿の破壊とを預言しなければならなかった。そして彼は、恐れず発言して投獄された時にも、なお、地位の高い人々の罪に対して、はっきり語らなければならなかった。彼は人々から軽べつされ、憎まれ、拒否されて、ついには、切迫した破滅について彼自身の預言が文字通り成就するのを見、運命の都の破壊に伴った悲哀と不幸とを共に味わわなければならなかった」(『希望への光』541ページ、『国と指導者』下巻30ページ)。
第2課 内外における危機
第2課 内外における危機
もし堕罪以降の人間の状態をあらわす言葉を一つ選ぶとしたら、それは「危機」でしょう。そして、その危機の程度は、私たちをそこから抜け出させるのに必要とされたもの、つまり十字架におけるイエスの死によって理解されうるのです。この危機は極めて深刻であるに違いありません。それを解決するために必要とされた過激な手段に目を向けてください。
聖書全巻を通じて、多くの物語は何らかの危機を背景にして生まれました。エレミヤが活躍した時代の状況も何ら変わりません。
神の民は、内外からの多くの問題に直面していました。不幸なことに、外国勢力からひどい軍事的脅威を受けていたにもかかわらず、最大の危機はさまざまな形で内側からもたらされました。「内側」というのは、堕落した指導者や祭司たちを意味するだけではありません。それだけでも十分にひどいですが、「内側」は、罪と背教によって心がかたくなになり、堕落しているために、神が送られた警告、彼らを災害から救いえた警告に耳を傾けることを拒絶した人々をも意味しました。
罪はそれだけで十分にひどいものですが、あなたが罪から離れるのを拒むとき、まさにそれが危機なのです!
歴史概観
荒れ野を長年さまよったあと、イスラエルの人々は遂に約束の地に入りましたが、問題が生じるのにさほど時を要しませんでした。まもなく「主を知ら(ない)」(士師2:10)新しい世代があらわれました。そして、この民の歴史全体を通じてさまざまな形で影響を及ぼす一つの霊的な危機が始まりました。実際のところ、それはキリスト教会にも影響を与えてきた問題です。
士師記2:1~15を読んでください。11節に、「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行……った」とあります。各世代は、次から次へと神から一歩ずつ遠ざかり、行ってはならない、と神から言われたことをまさに行うようになっていたのです。自分たちの罪のゆえに、彼らは次から次へと危機に直面しましたが、そのときでさえ、神は彼らをお見捨てになりませんでした。神は士師を遣わし、差し迫った災難から彼らを救われました(士師2:16)。
士師の時代のあと、この民は、比較的平和で繁栄した時期に入りました。それは、100年ほど続いた「統一王国時代」と呼ばれてきた時代のこと、サウル、ダビデ、ソロモンによる統治下でのことでした。ダビデとそれに続くソロモンの下で、この民は地域大国になったのです。
しかし、「良い」時代は長く続きませんでした。ソロモンの死後(紀元前931年頃)、国は二つ(北のイスラエルと南のユダ)に分裂しました。その責めのほとんどは、すばらしい知恵にもかかわらず多くの過ちを犯したソロモンの誤った統治に負わせることができるでしょう。「部族の人々は以前の王の圧政下において、苛酷な取り扱いに苦しんだ。ソロモンが背信した時の濫費は、人々に重税を課し、彼らから多くの労役を要求するに至らせた」(『希望への光』427ページ、『国と指導者』上巻62ページ)。神の選民にとって、状況はもはや同じではありませんでした。行ってはならない、と神から警告されていたあらゆることを彼らは行い、それゆえに悲しむべき結果を刈り取ったのです。
二つの王国
国が分裂してから、事態は悪化の一途をたどりました。北王国では、ヤロブアム王が霊的に恐ろしい選択をいくつか行い、それは悪しき影響を長年にわたって及ぼしました。
問1
列王記上12:26~31を読んでください。差し迫った状況がいかに私たちの分別を失わせるかということについて、この箇所はどのようなことを教えていますか。
王が偶像礼拝を導入したことで、国は破滅的な方向へ導かれました。「ヤラベアムの治世に始まった背信は、ますます著しくなって、ついにイスラエル王国を全く滅亡させるに至った」(『希望への光』433ページ、『国と指導者』上巻79ページ)。紀元前722年、アッシリアの王シャルマナサルがこの国に引導を渡し、その住人たちを彼の帝国のさまざまな場所へ追放しました(王下17:1~7参照)。この捕囚は避けられませんでした。こうしてしばらくの間、イスラエルは歴史から消え去りました。
南王国の事態は、少なくともその頃までは、それほどひどくありませんでした。しかし、こちらも万事順調とは言いがたく、主は北王国と同様に、南王国の民を北王国が直面した災難から逃れさせようとなさいました。ただし、今回の災難はバビロンの脅威によるものでした。残念なことに、わずかな例外を除けば、ユダ王国でも、国をさらなる背教へ導く王が続きました(代下33:9、10、21~23、王下24:8、9、18、19)。
ひどい指導者たちにもかかわらず、エレミヤ書を含む聖書の預言書の多くは、国の中枢部にまで巣食っていた罪と背教から御自分の民を立ち帰らせようとして、神が彼らに遣わされた預言者たちの言葉です。主は、御自分の民が悪の道を離れ、その罪によって必ずもたらされる災難を免れることができるよう、彼らに多くの時間と機会を与えることなくして、彼らを諦めようとはなさいませんでした。
二つの悪
若いエレミヤが預言者の働きを始めたのは、このような背景においてでした。「主の言葉」がエレミヤに臨み、彼はそれを民に語りました。彼らがその言葉に耳を傾けるなら、このままだと避けられないであろう破滅を免れるという希望をいだきながら……。
問2
エレミヤ2:1~28を読んで、次の問いに答えてください。
①民が忠実であったとき、神は彼らにどのような約束をなさいましたか(2、3節参照)。
②祭司、指導者、預言者のある者たちは、どのような罪深いことをしていましたか(8節参照)。
③人々は自分の真の霊的状態に関して、いかにひどい勘違いをしていましたか(23、24節参照)。
この国は、ヒゼキヤ王やヨシヤ王の指導の下、霊的改革を何度か体験していましたが、人々は昔の状態に戻り、一層悪い背教に陥りました。エレミヤはここでも現状について不明瞭な言葉で語っていません。
特に興味深いのは、エレミヤ2:13の彼の言葉です。民は二つの悪を行いました。彼らは生ける水の源である主を捨て、その結果として、壊れた(当然、水をまったく溜められない)水溜を自分で掘りました。言い換えれば、主を捨てたことで、彼らはすべてを失いました。13節の言葉は、イエスがヨハネ4:10で言われた言葉を踏まえると、さらに意義深くなります。
バビロンの脅威
エレミヤの働きを方向づけた政治的出来事の背景は、ある程度、歴史の闇の中に埋もれてしまっています。つまり、多くの詳細は不明です。しかし、起こったことの概要を知るのに必要な情報は、(考古学的な発見の助けを得て)聖書の中に十二分にあります。人間的観点からすれば、こういった国々の領土や権力や覇権の争いをだれかが制御しているようには思えないでしょうが、聖書は異なることを教えています。
エレミヤ27:6を読んでください。エレミヤの働きの初期、弱小王国ユダは、バビロン、エジプト、衰退しつつあったアッシリアの間の軍事衝突の中に、いつの間にか巻き込まれていました。紀元前7世紀末のアッシリア帝国の衰退に伴い、エジプトがこの地域における権力と支配を取り戻そうとしました。しかし、紀元前605年のカルケミシュの戦いでエジプトは粉砕され、バビロンが新しい世界勢力になりました。
この新しい勢力はユダを属国にしました。ユダの王ヨヤキム(エホヤキム)は、国を安定させるためにバビロンの王に忠誠を誓わざるをえませんでした。しかし、ユダの多くの者はそうすることを望まず、神が意図しておられなかったにもかかわらず、バビロンと戦い、バビロンから逃れたいと思いました。ところが神は、ユダを背教のゆえに罰する器としてバビロンを用いておられたのです。
問3
エレミヤ25:8~12を読んでください。ユダの民に対するエレミヤのメッセージは、どのようなものでしたか。
エレミヤは民に向かって、彼らの罪のゆえに起こるであろうことを何度も警告しましたが、政治的、宗教的指導者の多くは、彼らが信じたいこと—主が彼らを救ってくださるということ—を信じて、その警告に従うことを拒否しました。そもそも、彼らは神から特別に召された民ではなかったのでしょうか。
偽りの誓いをする
エレミヤ5:1で、「エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう」と、主は人々におっしゃっています。この言葉は二つの物語を思い起こさせます。一つは、紀元前4世紀の古代ギリシアの哲学者ディオゲネスに関する話で、伝説によれば、彼は、自分は正直者を探しているのだ、と言いながら昼間に市場を歩き回っていたそうです。もう一つは、私たちが実話だと知っているもので、神がアブラハムに、もし50人の(すぐに減らされて10人の)正しい者を見いだすことができるなら[ソドムの]町を滅ぼさない、と語られた話です。
しかし、エレミヤを通して語られた主の言葉の要点は、いかに背教と罪が御自分の民の間にはびこってしまったかを明らかにすることでした。正義を行い、真実を求める者は1人もいなかったのでしょうか。
エレミヤ5:2、3を読んでください。状況がいかに悪化しているかを示すようなことがここで述べられています(レビ19:12参照)。この二節は、エレミヤ書全体にあらわれている一つの点を問題にしています。国がひどく堕落していたにもかかわらず、民の多くは、自分たちが依然として主に忠実に従っていると思っていたのです!彼らは主の名前を口にしていましたが、神が命じられたように「真実と公平と正義をもって」(エレ4:2)ではなく、「偽って」そうしていました。彼らは神からの警告に耳を傾けていませんでしたが、彼らと神との間にはまったく問題がないかのように生活し、宗教的しきたりを続けていました。実際には、神と彼らの間はほとんどまったく正しくはなかったのでした。
彼らの欺きの深さは、エレミヤ7:4の中に見られます。人々は、「主の神殿、主の神殿、主の神殿」という言葉の中に、偽りの慰めを得ていたのでしょう。あたかも、神殿がそこにあることが、何もかもうまくいくことを保証するのに必要なすべてであるかのように……。危機の中にあると知るだけでも大変ですが、危機の中にあるのにそれを知らないとき、状況は一層深刻です。
さらなる研究
「あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない」(申12:8)。「あなたの神、主の御声に聞き従い、わたしが今日命じるすべての戒めを守り、あなたの神、主が正しいと見なされることを行いなさい」(同13:19[口語訳3:18])。「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師17:6、21:25)。
これらの聖句には、極めて重要な対比がなされています。とりわけ、多くの人が外部の権威によってなすべきことを命じられたり、何が正しく、何が間違っているかを指摘されたりすることに反感を抱く現代において、それは重要です。しかし、ここには二つの世界観のはっきりした違いがあります。一つの世界観では、人々は「自分が正しいと見なすこと」をし、もう一つの世界観では、人々は「あなたの神、主が正しいと見なされること」をするのです。前者の問題点は、歴史においてしばしば、ある人の目には「正しい」と見えることが、神の目で見ると、間違っていることです。それゆえ、私たちはすべてを、自分の良心さえも、神の御言葉に服従させる必要があります。
第3課 ユダの最後の5人の王
第3課 ユダの最後の5人の王
ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーは、政治的破壊活動のかどで1800年代にシベリアの収容所で4年間を過ごしました。のちに彼はこの体験を記したとき、囚人仲間の中には彼らの犯したひどい行為に対する後悔の念をまったく抱いていない者たちがいたと述べています。「数年の間、この人たちの中に後悔の様子は—彼らの犯罪に対するわずかな落胆や思い悩みの形跡さえ—まったくうかがえなかった。彼らの大多数は、自分がまったく正しいと内心思っていたのである」(ジョゼフ・フランク『ドストエフスキー—試練の歳月(1850~1859)』95ページ、英文)。
ドストエフスキーは、エレミヤが預言者として働いていた頃のユダを治めた5人の王(ヨシヤ王は除く)について語っていたのかもしれません。彼らの行動が、エレミヤを通じて神から警告された災難をもたらしていると、ますます明らかになったにもかかわらず、相次いで、これらの王は自分の行動をまったく後悔していないかのようでした。
イスラエルに王を与えることは、神の意図ではありませんでした。今回の研究が終わるまでに、私たちはその理由をさらによく理解できるでしょう。また、哀れなエレミヤが、ほとんど報われなかった彼の働きの間に受けた厳しい圧力についても理解できるでしょう。
ヨシヤ王の治世下
ヨシヤは南王国を治めた第16代の王(在位:紀元前640~609年)でした。彼は、ユダにおける最も邪悪な2人の王であった父親(アモン)と祖父(マナセ)の下での半世紀以上に及ぶ道徳的、霊的衰退のあと、8歳で王になりました。ヨシヤの統治は31年間続きました。しかし彼は、父親や祖父とは違い、彼の足を引っ張る状況にもかかわらず、「主の目にかなう正しいことを行い」(王下22:2)ました。
「ヨシヤは悪王の子として生まれ、父の足跡に従うような誘惑に取り囲まれ、正しい道を歩むように彼を励ます助言者もいなかったにもかかわらず、イスラエルの神に忠誠をつくしたのである。彼は過去の時代の過ちから警告を受けて、彼の父や先祖たちが陥ったような罪の低い水準や堕落に陥らずに、正しいことを行うことを選んだ。彼は『右にも左にも曲らなかった』。彼は信任の地位を占める者として、イスラエルの王たちの指導のために与えられた教えに従う決心をした。そして神は、彼が服従したので、彼を尊い器として用いることがおできになったのである」(『希望への光』533ページ、『国と指導者』下巻3~4ページ)。
問1
歴代誌下34章を読んでください。ヨシヤの改革は、どのようなもので構成されていましたか。なぜそれらが、団体として、あるいは個人として、霊的改革の中核を成すのでしょうか。
ヨシヤの改革は、二つの要素で構成されていました。第一は、偶像礼拝を感じさせるものはすべて可能な限り捨て去ること。つまり彼は、国民の間に生じていた悪しき習慣を取り除くために働きました。
しかし、それは第一歩にすぎませんでした。悪しき、間違った習慣がなくなれば、自動的に良いものがあとに続くわけではありません。第二に、朗読された契約の書を聞いたあと、ヨシヤは主の前で、「主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されている契約の言葉を実行することを誓った」(歴代誌下34:31)のです。
ヨアハズとヨヤキム:もう一つの堕落
(シャルムとも呼ばれる)ヨアハズは23歳のときに父親[ヨシヤ]から王位を継承しましたが、彼の治世は3か月間しか続きませんでした。エジプトの政治にとってヨアハズが好ましくなかったので、ファラオが彼を兄弟とすげ替えました。ヨアハズはエジプトへ連れて行かれ、そこで死にました(代下36:4、王下23:31~34参照)。
ヨアハズのあとを継いだ王はヨヤキムで、紀元前609年から598年まで治めました。彼はヨシアの息子でした。ネブカドネツァル王がエルサレムを占領したとき、ヨヤキムは神殿の祭具類と一緒にバビロンに連れて行かれました。エレミヤは民に、彼らの新しい王はこの国を間違った方向に導いていた、と再び警告しました。
問2
エレミヤ22:1~19を読んでください。ヨヤキムがこのような厳しい叱責を主から招いたのは、どのような問題があったからですか。
エレミヤを通して、主はこの強欲で堕落した王に厳しい言葉を述べられました。ヨヤキムは、エジプトに貢ぐために重税を課した抑圧的で欲深いユダの王でした(王下23:35参照)。さらに悪いことに、彼は強制労働を用いて豪華な自分の宮殿を建設させました。それは、労働に対して人々に支払うことをはっきり命じているモーセ五書—「あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない」(レビ19:13)—に逆らってのことでした。父親のヨシヤと違い、ヨヤキムも異教の儀式がユダの中に再び蔓延するのを許しました。
エレミヤ22:16は力強い聖句です。父親のヨシヤと堕落したヨヤキムを比較して、主は彼に言われました。「彼[ヨシヤ]は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き/そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ/わたしを知ることではないか」。言い換えれば、神が本当にわかるのは、困っている人たちをいかに扱うかによってであり、私たちが進んでお返しのできない人たちを助けるときなのです。聖書全体を通じて見られるように、貧しい人や無力な人に対する主の気遣いと、自力で困難を乗り越えられない人々を助けるという私たちの義務が、ここにも見られます。
ユダの王ヨヤキンの短い治世
ユダの第19代の王になったのはヨヤキムの息子ヨヤキンで、彼がダビデの王座に君臨したのはわずか3か月半でした。紀元前598年、ネブカドネツァルは軍隊をエルサレムに引き連れて来て、18歳の王と彼の母親や妃たち、また多くの王族を捕らえました。紀元前561年、捕囚となって37年目に、ネブカドネツァルの後継者であるエビル・メロダクによって、ヨヤキンは情けをかけられます。彼はバビロンの王と一緒に食事をする権利を認められ、王にふさわしい服を着ることができるようになりました(王下25:27~30、エレ52:31~34参照)。バビロンでヨヤキンと彼の息子たちは一緒でしたが、彼らはダビデの王座を諦めなければならないだろうと、エレミヤの預言は告げました。
問3
エレミヤ29:1~4を読んでください。これは、ヨヤキン[エコンヤ]王と彼の家族や臣下がエルサレムから捕囚となって連れ去られたあと、エレミヤを通して主が語られた言葉です。このような悲劇のさなかにあっても、神の愛と憐みはいかにあらわれていますか。
聖書の中で最も有名な聖句の一つがこれです—「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。未来と希望を与えるものである」(エレ29:11)。言うまでもなく、私たちはここでの背景を知っています。バビロンの征服者によって自分たちの生活が完全に奪われるのを見たユダの捕囚民に、神がエレミヤを通じて語られたという背景です。彼らの状況がいかに悪く思えようと、主は、御自分が彼らを今もなお愛し、彼らの幸福だけを考えていることを彼らに知ってほしいと願われたのでした。恐ろしい状況を考慮すれば、間違いなく、彼らは希望にあふれたこの言葉を歓迎したに違いありません。このように、恐ろしい警告と脅威ばかりの中にあっても、彼らには「未来と希望」の約束が依然として与えられていました。とりわけそのようなときに、こういった確証を持つこととは、彼らにとってどれほど重要だったことでしょう!
終わりの終わりに
問4
歴代誌下36:11~14を読んでください。ユダ王国が最終的に滅亡する前の最後の王に関して、これらの聖句は何と述べていますか。背教のどのような霊的原則が、ここで明らかにされているでしょうか。
(マタンヤとも呼ばれる)ゼデキヤは21歳で王位を継ぎましたが、それは傀儡君主としてネブカドネツァルによって据えられてのことでした。残念ながら、これらの聖句(王下36:11~14)に記されているように、彼は先の王たちに起こったことから多くの教訓を得ていませんでした。そしてその結果、これまでにも増して大きな破滅をこの国にもたらしました。
歴代誌下36:14は、非常に深刻なことを述べています。それは、いろいろな意味で彼らの背教の核心に触れる点です。ゼデキヤの治世下でなされたあらゆる悪行のリストの中で、ユダは「諸国の民のあらゆる忌むべき行い」に倣っていたと書かれています。
エジプトを出てから数百年、諸国の民を照らす光や灯台となるべき契約の民としてさらに数百年が経っていました。しかし、彼らは支配的な文化に依然として魅せられ、あまりに隣国の文化的、宗教的環境に魅せられたために、異教の「あらゆる忌むべき行い」を実行していました。そこには私たちのための教訓があるでしょうか。
エレミヤ38:14~18を読んでください。主はこれまでに何度となく、ユダがバビロンの支配に従わなければならないこと、この占領は彼らの悪行に対する罰であることを明らかにしておられました。しかし、ゼデキヤは聞く耳を持たず、ネブカドネツァルに対抗する軍事同盟を結びました。ユダはエジプトの軍事的勝利にすっかり希望を託していました。しかし紀元前597年、ネブカドネツァルはファラオの軍隊を破り、この敗北がエルサレムとこの国の運命を永遠に決めました。悔い改め、改革し、復興する機会がたくさんあったにもかかわらず、ユダは拒みました。
暗黒の時代
問5
神のメッセージを拒んだあと、ユダとエルサレムはどうなりましたか(エレ39:8、9)。
彼らに起こるであろうと神が警告しておられたことは、すべてそのとおりに起こりました。彼らが警告を信じたくないとどれほど思っても、それが起こったあとには信じざるをえませんでした。同様な体験をしたことのない人や集団があるでしょうか。私たちは主から、「これこれをしてはならない。さもないとこれこれが起きるだろう」と警告されているのに、お構いなしにそれをやってしまい、案の定、警告されたことが起こります。
問6
エレミヤ23:3~8の中には、どのようなメッセージがありますか。そこにいた民に、どのような希望が与えられましたか。
人間的観点からすれば、すべてが失われたように思えました。国は廃墟と化し、神殿は破壊され、指導者たちは捕囚となって連れ去られ、エルサレムの町はがれきの山となりました。ほかの多くの国々がこれまで消え去ってきたように、ユダヤ人の国も民も、そのとき歴史から消え去るはずでした。
しかし、主は異なる計画を持っておられ、先の聖句(や多くのほかの聖句)において彼らに希望を与えられました。すべてが失われることはなく、残った人々が故郷に戻り、彼らによって約束は成就するという希望です。つまり、破滅と破壊の警告ばかりの中で、預言者たちはこの民に唯一の希望をも与えました。
「ユダ王国の終局を画した破壊と死の暗黒の時代に、もし神の使者たちの預言的言葉の励ましがなかったならば、どんなに勇気のある人をも失望させたことであろう。主は、エルサレムにおけるエレミヤ、バビロンの宮廷におけるダニエル、ケバル川のほとりのエゼキエルなどによって、いつくしみ深くも神の永遠の計画を明らかにし、神は、モーセの書に記された約束を、神の民に喜んで成就してくださるという確証をお与えになった。神は、神に忠実な者のためになすと言われたことは、必ず実行なさるのである。それは、『神の変ることのない生ける御言』である(Iペテロ1:23)」(『希望への光』561ページ、『国と指導者』下巻80ページ)。
さらなる研究
「ユダの背信の末期において、預言者たちの勧告は、いかにも効果がないように思われた。そしてカルデヤの軍勢が最終的に第3回目のエルサレム包囲を行った時に、すべての者は希望を失ってしまった。エレミヤは全滅を預言した。そしてついに彼が投獄されたのは、彼が降伏を叫んでやまなかったからである。しかし神は、なお都にいた忠実な残りの者を、どうすることもできない絶望の中に放置されたのではなかった。エレミヤが彼の言葉を軽べつした人々によって厳しく監視されていた時にもなお、天の神は喜んでゆるし救おうとしておられることについての新しい啓示が彼に与えられた。それは、当時から今日に至るまでの神の教会に対して、つきない慰めの泉となったのである」(『希望への光』562ページ、『国と指導者』下巻82ページ)。
「天の神は喜んでゆるし救おうとしておられる」という言葉に目を向けてください。赦し、救うために「天の神(が)喜んで」おられることは、いろいろな方法で私たちに示されてきました。それらについて考えてみてください。突き詰めれば、私たちにこの「喜び(意欲)」を教えるのは、キリストの十字架だけです。私たちには救済計画を明らかにしている神の御言葉があります。すばらしい賜物である「預言の霊」も与えられています。ほかにどのような方法で、「天の神は喜んでゆるし救おうとしておられる」ことが私たちに示されてきたでしょうか。
第4課 叱責と懲罰
第4課 叱責と懲罰
「かつてあったことは、これからもあり/かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレト1:9)。
太陽の下には新しいものが一つもないでしょうか。このことは、神の預言者たちの人生と働きに関して、特に当てはまります。彼らは警告や叱責の言葉を、もっと分別を持っているべきであった人々に伝えるために、しばしば召されました。預言者たちは召しに忠実であろうとしましたが、たいていの場合、彼らは激しい反対に遭い、懲罰を受けることさえありました。しかも、率先して預言者の言葉に耳を傾けるべきだった霊的指導者たちから、しばしばそうされたのです。イエスが次のようにおっしゃったのも無理からぬことです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う」(マタ23:29、30)。
私たちは今回から、その働きが叱責と懲罰だけで成り立っていたように思えるエレミヤの試練に目を向け始めます。彼は叱責を与え、指導者たちは彼に懲罰を与えたのです。
二つの道
創世記の最初の章から黙示録の最後の章に至るまで、聖書は私たちの生き方に関して二つの選択肢しか与えていません。すなわち、心から主に従うか、それとも従わないかです。イエスは多くの人を戸惑わせる言葉をおっしゃいました。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(ルカ11:23)。これは、肉眼で見えるものや、常識が私たちに告げることよりも大きな霊的現実についての強烈で、明瞭な発言です。それは最も基本的なレベルでの大争闘を話題にしていました。しかしある意味において、イエスは何か新しいことや極端なことを言っておられるのではありません。常にこうでした。
問1
エレミヤ17:5~10を読んでください。特にキリストとサタンとの大争闘を踏まえるとき、私たちはどんな重要な霊的原則をここに見いだすことができますか。
これらの言葉は、おそらくユダの他国との政治的つながりを反映しています。主は彼らに、唯一の助けは主にのみあり、政治的あるいは軍事的力にあるのではないことを理解してほしいと望まれました。彼らはその点をのちに学びますが、それはあまりにも遅すぎました。主はほかの人を用いて私たちを助けることがおできになりますが、詰まるところ、私たちは主だけを信頼しなければなりません。私たちは他者の動機を正確に知ることはできませんが、私たちに対する神の動機なら常に知ることができるからです。
正当な理由があって、エレミヤ17:9は人間の心の欺瞞性を警告しています。ヘブライ語の聖句は、心は「あらゆるもの」より欺瞞的である、と述べています。罪の恐ろしい肉体的影響は悪いものですが、倫理的、霊的影響ほどではありません。問題なのは、私たちの心がすでに欺瞞的であるために、自分の心が実際にどれほど悪いかを私たちが十分にわからないということです。エレミヤは間もなく、人間の意図がいかに悪くなりうるかを自ら目にすることになりました。
ユダの罪
確かに、エレミヤの任務は一筋縄ではいきそうにありませんでした。ある人たちは、人々の罪を指摘することに屈折した喜びを見いだすかもしれませんが、たいていの人は、とりわけ彼らの言葉が引き起こす反応のゆえに、非常に不愉快な仕事だと思うでしょう。叱責の言葉を聞いて悔い改め、改心する人もいるかもしれませんが、とりわけその叱責が辛辣で強烈なときは、たいていそうはなりません。そして実際に、すべての預言者と同様、エレミヤの言葉はまさに辛辣で強烈だったのです!
問2
エレミヤ17:1~4を読んでください。エレミヤが民に与えた警告には、どのようなものがありましたか。
罪が心に刻み込まれるという比喩は、特に強烈です。それは堕落の深刻さをあらわしています。単にペンでそこに書かれているのではなく、道具を用いて「刻み込まれて」います。この比喩は、ユダの先祖たちに対する主の言葉を思い出すとき、一層強烈なものとなります。「あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである」(申30:10、詩編40:9[口語訳40:8]、エレ31:33と比較)。彼らは心から神を愛し、神の律法に従わなければならなかったのに、今や、彼らの罪—律法に背くこと(Iヨハ3:4)—が彼らの心に刻み込まれています。
「神の律法の保管者であると主張している者は、自分たちが外面的に戒めを尊重しているからといって、神の正義が行われる時に彼らが守られると考えてはならない。また、誰1人として、悪に対する譴責を拒んだり、また、神のしもべたちが、陣営の中から悪行を清めるのに、あまりにも熱心すぎると非難してはならない。罪を憎まれる神は、神の律法を守ると主張する人々が、すべての悪から離れるように呼びかけておられる」(『希望への光』544ページ、『国と指導者』下巻37ページ)。
エレミヤへの警告
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(ヨハ3:19)。
エレミヤの悲劇は、彼に反対したのが、彼を通して神が救おうとしておられた人たちであったことです。主は、必ずやって来る大惨事から彼らを救いたいと願われました。しかし問題は、耳を傾けるべきことに彼らがしばしば耳を傾けないことでした。なぜなら、それが彼らの罪深く、堕落した欲望に逆らうものであったからです。
エレミヤ11:18~23を読んでください。古代イスラエルでは、主の名によって偽りの預言をした者たちは殺される可能性がありましたが、ここでの場合、エレミヤが偽りを語っているとアナトトの人々が考えたとは指摘されていません。そうではなく、彼らはただエレミヤを黙らせたかったようです。彼らは、エレミヤが語らねばならなかったことを聞きたくなかったのです。先の聖句は、アナトトの人々がエレミヤをどのように殺そうとしていたのかを記していませんが、ある学者たちは、彼らが毒殺を検討していたのかもしれないと考えてきました。
すでに触れたように、アナトトはエレミヤの出身地であり、町の人々は、彼を殺したいと思うほどに彼のメッセージを拒絶していました。しかしこれは、「残った人々」を除くすべての同胞による、はるかに大規模な拒絶の始まりにすぎませんでした。
言うまでもなく、「屠り場に引かれて行く(小羊)」という比喩を含む先の聖句は、イエスの犠牲を思い起こさせます。ある意味で、エレミヤはキリストを予表していましたが、それは(いけにえの動物のような)予型としてではなく、彼がイエスのように、助けようとしている人々から激しく反対されたことにおいてでした。エレミヤの人生におけるこのような状況は、公生涯の初期にイエスも体験されたこと(ルカ4:14~30)を思い出させます。
嘆きの言葉
エレミヤ書の最初の数章において、主は御自分の僕に、預言者としての彼の働きが一筋縄ではいかないと警告しておられました。エレミヤは召されたときに、ユダの王や高官、祭司や民が「あなたに戦いを挑む」(エレ1:19)と告げられました。エレミヤは、主が彼を支えられ、彼の敵は「勝つことはできない」(同)と言われましたが、間違いなく、同胞のほとんどが彼に戦いを挑むだろうという警告は、喜ばしい知らせではありませんでした。エレミヤはそのことの半分もまだわかっておらず、試練が襲ってきたとき、当然のことながら怒り、傷つきました。
問3
エレミヤ12:1~4において、エレミヤは彼自身の状況について述べていますが、この預言者が格闘している普遍的な問題は何ですか。エレミヤを傷つけた人々に対する彼の態度は、どのようなものですか。
[新国際版英訳聖書の]エレミヤ12:1には、旧約聖書の律法用語が詰まっています。「正しい」「裁き」「正義」に相当するヘブライ語は、いずれも法が関係する場で用いられるものです。この預言者は、彼が直面していることにとても腹を立てており、主に向かって訴訟を起こそうとしています(申25:1参照)。言うまでもなく、彼の不満はよくある不満です。悪い者たちが栄えているように見える一方で、神の御旨をひたすら行おうとしているエレミヤが、なぜこのような試練に遭うのか、ということです。
私たちはエレミヤの人間らしさも見ることができます。エレミヤは、彼に悪事を働いた者たちを罰してほしいと望んでいます。彼はここで神学者として語っているのではありません。恵みを必要とする1人の罪深い人間—ヨブや神に忠実だった多くの人と同様に、なぜこのようなことが自分の身に起こるのかを理解できない人間—として語っています。神の真理を反抗的な人々に告げるために召された神の僕エレミヤは、なぜ自分の出身地の裏切りの策略にさらされなければならないのでしょうか。エレミヤは主を信頼していましたが、なぜこのような事態が生じているのか、本当に理解できませんでした。
絶望的な状況
エレミヤ14:1~10を読んでください。干ばつが全土を襲い、どこの町も村も苦しみました。裕福な者も貧しい者も、ともに苦しみました。野生の動物たちでさえ、水不足を耐えていたのです。貴族たちは、召し使いたちが水を見つけて帰ることを期待しながら、町の城門で待ちましたが、どこの泉も干上がっていました。水がありません。水がなければ、命を保つことはできません。彼らの悲惨な状況は、日に日にひどくなっていきました。人々は喪服を身にまとい、伏し目がちに歩き、やがて突然ひざまずくと、絶望的な祈りを叫びました。
このような自然災害のときには、断食をし、特別な献げ物を神にささげるため、エルサレムの神殿に詣でるのが習慣でした(ヨエ1:13、14、2:15~17)。エレミヤは人々の熱意を目にしましたが、彼らが求めているのは主でなく、水だけであることを、彼はよくわかっていたのです。そのことはこの預言者をさらに悲しませました。エレミヤは、水のためではなく、神の憐れみと御臨在を求めて祈ってもいました。
エレミヤは、これがこれからやって来る試練の始まりにすぎないことも理解していました。神は民の心をご覧になり、もし干ばつを終わらせたなら、悔い改めも消え去ることを知っておられました。人々は現状を変えるために、エルサレムに詣で、祈り、断食し、荒布を身にまとい、献げ物をささげるなど、あらゆることをしました。しかし、彼らは一つのことを忘れていました。真の改心、真の悔い改めです。彼らは問題の結果を取り除くことだけに目を向け、問題そのもの、つまり彼らの罪と不従順には目を向けていませんでした。
エレミヤ14:11~16を読んでください。「我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください」(エレ14:7)と、エレミヤが執り成しの祈りの偉大な手本を先に示していたのに、神は彼に、「この民のために祈(っ)てはならない」とおっしゃいました。私たちは「絶えず祈りなさい」(Iテサ5:17)と言われていますが、ここでの場合、一部始終をご存じの神は、これらの人々がいかに堕落し、罪深いかということだけをエレミヤに示しておられます。言うまでもなく、神は人々の心をわかっておられますし、未来を知っておられます。しかし、私たちにはわかりません。それゆえ、敵のためにさえ祈りなさい、という新約聖書の勧告は、ここでもその効力を失うことは一切ありません。
さらなる研究
エレミヤは、私たちもみな思い悩む疑問、つまり、悪というものをいかに理解したらよいのかという疑問に悩んでいました。しかしそれは、不合理なものや「無意味」とみなされるものに意味を見いだそうとするようなことなのかもしれません。この点に関して、エレン・G・ホワイトは次のように書いています。「罪の存在を理由づけようとして罪の起源を説明することは、不可能である。……罪は侵入者であって、その存在については理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる。もし罪の言いわけがあったり、その存在の原因を示すことができたら、それはもはや罪ではなくなる」(『希望への光』1836ページ、『各時代の大争闘』下巻228ページ)。「罪」という言葉を「悪」に置き換えても、この文章は意味をなします。「悪の存在を理由づけようとして悪の起源を説明することは、不可能である。……悪は侵入者であって、その存在については理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる。もし悪の言いわけがあったり、その存在の原因を示すことができたら、それはもはや悪ではなくなる」
悲劇が襲うとき、私たちは、人々が次のように言うのを耳にしたり、あるいは自ら口にしたりします。「こんなことは理解できない。道理にかなわないじゃないか」。そうなのです。私たちはそのことを理解できない、それは理解不能だという、もっともな理由があります。もし私たちがそれを理解でき、それが道理にかない、それが何らかの論理的、合理的計画に当てはまるのであれば、それは悪ではないでしょうし、悲劇でもないでしょう。なぜなら、それは合理的な目的を持っているからです。罪と同様、悪というものがしばしば説明されえないということを覚えることは、なんと重要でしょうか。しかし、私たちにはキリストの十字架という現実があります。罪に起因する悪は説明できないにしても、十字架が神の愛と慈しみを私たちに示しています。
第5課 エレミヤを襲うさらなる災い
第5課 エレミヤを襲うさらなる災い
短期間でも主に従った者なら、だれもが一つのことを学びます。それは、イエスの信者であることや、彼の御旨を行おうと努めることで、安楽な生活が保証されるわけではない、ということです。詰まるところ、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(Ⅱテモ3:12)と言われているとおりです。エレミヤが学んでいたのは、まさにこの真理でした。
しかしその一方で、試練の際に私たちの信仰が与えてくれる、より幅広い理解に基づいて、私たちは苦しみのさなかにあって自分自身を落ち着かせることができます。言い換えれば、不公平で不当な苦しみや試練が襲ってくるとき(そして確かに、苦しみや試練の多くは不公平で不当なものですが)、私たちは、主を知らない人々がしばしば抱く無意味感や無目的感を抱えたまま、放っておかれたりしないということです。現在がどんなに悲惨であっても、私たちは全体像の幾分かでも、神が与えられる究極の希望を知ることができ、その知識(と希望)によって力を得ることができます。エレミヤはある程度このような事情を知っていましたが、時折それを忘れ、自分の苦悩にだけ目を向けているように思えます。
神を恐れない祭司や預言者たち
私たちとユダ王国との隔たりは、年代的には2000年以上、そして文化的、社会的にはおそらくもっと大きいので、私たちがエレミヤの時代に起こっていたことをすべて理解するのは困難です。聖書を読むとき、とりわけ神が民に向かって発せられた厳しい警告や威嚇を読むとき、多くの人は、神が厳しく、意地悪で、懲罰的なお方としてそこに描かれていると考えます。しかしそれは、聖書をただ表面的に読んだことに基づく誤解です。そうではなく、旧約聖書が明らかにしているのは、新約聖書も明らかにしていること—つまり、神は人間を愛し、救いたいと願っておられるが、人間の選択を強制なさらないということ—です。私たちが悪いことをしたいと思えば、たとえ神が嘆願されたとしても、私たちは自由にできます。私たちは結果だけでなく、その悪事に関して私たちが前もって警告されたということを忘れてはなりません。
問1
主が解決しようとしておられたユダの悪事には、どのようなものがありましたか(エレ23:14、15、5:26~31)。
ここで繰り返し述べられている悪事は、神の民が陥ったことのほんの一例にすぎません。祭司も預言者も「神を恐れない」というのは、祭司が神の代表者であるべきであり、預言者が神の代弁者であるべきことを考えると、信じがたいほどの皮肉です。しかしこれは、エレミヤが立ち向かった問題の序の口にすぎません。
ここで述べられている悪事には、さまざまな種類があります。霊的指導者たちの背教も含まれており、彼らはほかの人も悪事をするように導くので、「だれひとり悪から離れられ」(エレ23:14)ません。迫りくる裁きについて主が警告なさったときでさえ、偽預言者たちは人々に、そのようなものは来ない、と語りました。同時に、彼らは神から遠く離れてしまっていたので、みなし子の面倒を見ることや貧しい者を守ることに関する訓戒(同5:28)を忘れていました。あらゆる面で、この国の民は主から離れていました。それゆえ、聖書の大半は(少なくとも旧約聖書の預言書は)、わがままな御自分の民を呼び戻そうとしておられる主を記録しています。つまり、このような悪事やそれ以上の悪事にもかかわらず、主は彼らを喜んで赦し、いやし、回復しようとさえしておられました。しかし、彼らが拒むのであれば、ほかに何ができたでしょうか。
足かせにつながれたエレミヤ
預言者の働きは、常に神のメッセージを伝えることであって、どれだけの人がそれを受け入れ、どれだけの人が拒絶したかを数えることではありませんでした。ほとんどの場合、預言者が説教しているときに、彼らが説いていることを受け入れる人の数はわずかです。例えば、ノアの時代にどれだけの人が生きていたのかはわかりませんが、箱舟に乗り込んだのが少数であったことを考えるなら、大半の人は受け入れなかったのだと推測して間違いないでしょう。聖書に記された歴史の全体を通じて、このようなことが繰り返されているようです。
エレミヤ20:1~6を読んでください。ここで起きていることをよりよく理解するには、エレミヤが預言した言葉、このような高官とのトラブルに彼を陥らせた言葉を読むことがいちばんです。エレミヤ19章の中に預言の一部が書かれています。神は「災いをこのところにもたら(し)」(エレ19:3)、人々が剣によって倒れ、鳥や獣によってその死体が食われるようにし(同7節)、さらに、ユダの人々が互いの肉を食い合うようにするであろう(同9節)と言われます。
こんな預言のとおりになりたいと思う人はいなかったでしょうが、指導者の1人として、パシュフルは特に怒りました。ほとんどの人と同様に、彼の最初の反応はメッセージを拒絶することでした。一体、だれがこのように恐ろしいことを信じたいと思うでしょうか。しかしパシュフルは、それだけでなく、自分の地位を利用して使者を罰するという過ちを犯しました。彼は掟に従ってエレミヤを鞭打ちにし(申25:1~3)、足かせにつないだのです。エレミヤは翌日釈放されましたが、彼はこのつらく屈辱的な体験によって預言を伝え続けることをやめませんでした。今度は、ユダに対してだけでなく、具体的にパシュフルとその家族に向けても預言を伝えました。間もなく、パシュフルと彼の家族の運命は、彼らが捕らわれの鎖につながれるのを見る者たちへの恐ろしい見せしめとなります。エレミヤ書において、バビロンが流刑地であると最初に述べられているのは、この箇所です(各章も、また一つの章の中の各セクションでさえ、年代順に並べられていません)。
骨の中の
パシュフルと民に対するエレミヤの厳しい言葉は、1日中足かせにつながれたことに怒ってエレミヤが発した言葉、彼自身の言葉ではありませんでした。それは、民のために彼に授けられた主の言葉でした。
しかし、そのあとに来る言葉は、霊感の下に書かれたエレミヤ自身の本心です。これは、彼が今遭遇し、嘆いているような状況をどうしても嫌ってしまう人間の心からの叫びです。
エレミヤ20:7、8を読んでください。一読すると、エレミヤの言葉は神を冒しているかのように思えます。しかし、そもそも主が彼に、激しい反対に遭うだろうと警告しておられたのに、なぜ彼は、主が彼を惑わされたと言うのだろうかと、だれもが疑問に思うでしょう。主の警告にもかかわらず、「わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。……わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません」と、彼は不平を口にしています。
問2
その一方で、エレミヤ20:9で彼が言っていることには、どんな重要な意味がありますか。
エレミヤは説くことを放棄し、やめたいと思ったのですが、神の言葉はあたかも彼の心の中の火、骨の中の火のようでした。自分の召しを知り、個人的な苦しみにもかかわらず、どんなことがあってもその召しに従おうとしている者の、なんと効果的な比喩でしょう(同様の思想は、アモ3:8、Iコリ9:16にも見られます)。
私たちはこれらの聖句の中に、エレミヤが直面している苦しみを見ます。彼の内外で荒れ狂う大争闘を目にすることができます。彼は、貧しい人々を悪しき者たちから救われた神をほめたたえたかと思えば、(明日の研究で見るように)次には自分が生まれた日を呪っています。
「呪われよ、わたしの生まれたは」
聖書の最も厳しい批評家たちでさえ、聖書が人間の欠点や弱さを隠していない、という重要な一点は認めざるをえないでしょう。欠点も罪もない子なる神を除けば、聖書の中に詳しくその生きざまを記されている登場人物で、弱さや過ちをさらすことなく済んだ人はほとんどいません。先に述べたとおり、これらの預言者たちが仕えた神は完全ですが、神に仕えた預言者たちは完全ではありませんでした。私たちと同様、彼らは信仰によって与えられるキリストの義を必要とする罪人でした(ロマ3:22参照)。ノアからペトロまで、そしてその間のあらゆる人間も、罪によって傷ついた者であり、彼らの唯一の希望は、エレン・G・ホワイトが記しているように、主の前に行って、次のように言うことでした。「自分には救いを要求できるような功績や徳は何もありません。しかし、私は神のみまえに世の罪を取り除く傷なき神の小羊の、すべてを贖う血を提示します。これは私のただ一つの申し立てです。イエスの御名によって私は御父に近づくことができます。神の耳、神の心は私の最も弱々しい嘆願に対して開かれており、神は私の最も深い必要を満たしてくださいます」(『信仰と行い』125、126ページ)。
エレミヤ20:14~18を読んでください。個人的な状況に対するエレミヤの心の状態について、この箇所は物語っています。言うまでもなく、ここでのエレミヤの言葉は、彼よりさらに悪い状況にあったヨブの言葉を思い起こさせます(ヨブ3章参照)。エレミヤには、自分が神の御旨を行っているという確信、主がともにおられるという確信がありましたが、この時点において、現状の苦しみが彼を消耗させていました。真理に対する彼の知的理解がどのようなものであれ、今はただ、悲しみによってその理解が曇らされていました。
時折、ふと気づくと、多くの人が同じような状況の中にいます。頭では神のあらゆる約束を知っているかもしれませんが、このような約束を払いのけてしまう悲しみや苦しみに打ちのめされ、目の前の苦悩にすべての意識を集中させることがあります。それは無理もない反応でしょう。正しい反応だという意味ではありませんが、理解はできます。私たちがここでも目にするのはエレミヤの人間らしさであり、それは私たちみんなの人間らしさと同じです。
預言者に対抗する計略
問3
エレミヤ18:1~10を読んでください。預言の解釈に関して、どんな重要な原則がここにありますか。
問4
上記の聖句の中に、どんな重要な霊的原則がありますか。
あらゆる悪事にもかかわらず、依然として主は悔い改めの機会を喜んで民に与えるおつもりでした。それゆえ、私たちはここでも、神の恵みを受け取ろうとする者たちに与えられる恵みを目にします。彼らがこれまでにしてきたことにもかかわらず、この期に及んでもなお、彼らには立ち帰る時間がありました。
これらの聖句からも、多くの預言が条件付きであることがわかります。神が、何かをするであろうとおっしゃるとき、その何かはしばしば罰を伴います。しかし、もし民が悔い改めるなら、神はすると言われたことをなさいません。神がすると言われたことは、条件付きであり、民の反応の仕方次第です。なぜ神は言われたとおりになさらないのでしょうか。もし民が悔い改めて悪の道から立ち帰ったとしても、それでもなお罰を与えると、神は警告なさいません。そのような場合には、神は罰をお与えになりません。これらの聖句の中で、はっきりそう述べておられます。
問5
エレミヤ18:18~23を読んでください。民は、エレミヤに対して行いたいと思っていることに、どのような根拠があると信じていましたか。エレミヤの極めて人間的な反応はどのようなものでしたか。
エレミヤを攻撃する者たちが、「祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われ……ない」(エレ18:18)ようにしたいと言って彼を糾弾したのですから、彼はものすごく苛立ったに違いありません。人の心というのは、なんと自己欺瞞に陥りやすいものでしょう!
さらなる研究
エレミヤ18:11~17において、主は御自分の民に、彼らがしていることをやめなさい、と言っておられます。11節には、「お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ」と書かれており、12節で主は、民が彼の警告や嘆願を聞かず、「かたくなな悪い心のままにふるまい」続けるだろうことをすでに知っている、と基本的に言っておられます。そのうえで、彼らの不服従のゆえになそうとしておられることを語られます。ここは、私たちの自由選択をまったく侵害することなく、何を私たちが自由に選択するかを神がすでに知っておられることを示している、聖書中の多くの箇所の一つです。詰まるところ、もし主に従う自由を民が持っていなかったら、なぜ主は悪の道から立ち帰るようにと彼らに嘆願されたのでしょうか。さらにまた、もし民が従う自由を持っていなかったら、なぜ主は不服従のゆえに彼らに罰をお与えになるのでしょうか。明らかなのは、民が選択を行う前でさえ、彼らの自由選択がどうなるのかを、主がはっきり知っておられたということです。この重要な真理は、例えば申命記31:16~21にも見られます。イスラエルの子らが約束の地に入る前でさえ、主はモーセに、彼らが「他の神々に向かい、これに仕え……るであろう」(申31:20)とおっしゃっています。私たちの選択に対する神の予知が、私たちがそのような選択をする自由を侵害しないというさらなる証拠がここにあります。
第6課 象徴的な行動
第6課 象徴的な行動
聖書を学ぶ者ならだれもが、聖書には象徴(概念や考えをそれ以外のものであらわしたもの)があふれていることを知っています。例えば、地上の聖所の奉仕は、その全体が救済計画の象徴的な預言でした。「ユダヤ制度の意義は、まだ一般に十分に理解されていない。その儀式や象徴の中に意味深い真理が予表されていた。その神秘を開くかぎが、福音である。贖罪の計画を知ることによって、その真理を理解することができる」(『希望への光』1235ページ、『キリストの実物教訓』111ページ)。地上の聖所の象徴的な意味や預言書(例えば、ダニエル2章、7章、8章や黙示録)の象徴、あるいはさまざまなほかの方法によって、主は真理を伝えるために象徴を用いてこられました。一方、イエス御自身は深い真理を説明するために、たとえ話や実物教訓とともに象徴を使われました。
エレミヤ書も象徴や比喩に富んでいます。私たちは今回、このような象徴のいくつかに目を向け、それらが何であるのか、何を意味するのか、それらからどんな教訓を得るべきか、といったことを研究します。
象徴の中の真理
聖書は極めて象徴に富んでいます。あらゆる種類の象徴にあふれていて、たいていの場合、それらはそのもの自身よりずっと重要な真理をあらわしています。
問1
創世記4:3~7を読んでください。彼らの二つの献げ物は何を象徴していますか。
私たちは聖書のごく初めにおいて、独力で天国に上ろうとする試み(カインの献げ物)と、救いは恵みによってのみ、十字架につけられた救い主の功績によってのみ私たちに与えられるという認識(アベルの献げ物)との違いを目にすることができます。
問2
民数記21:4~9を読んでください。旗竿の先に掲げられた青銅の蛇が象徴していたものは、何でしたか(ヨハ12:32も参照)。
「イスラエルの人々は、上げられたへびを見ることによって救われた。こうしてながめたことは、信仰を意味していた。彼らは神の言葉を信じ、神が彼らの回復のためにお備えになった方法に信頼したから、生きたのである」(『希望への光』223ページ、『人類のあけぼの』下巻34ページ)。
旧約聖書全体を通じて、地上の聖所の奉仕は、救済計画を最も詳しく象徴的にあらわすものとしての役割を果たしました。イスラエルの人々があらゆる儀式の意味をどれくらい理解していたのかは、数千年にわたって問われ続けてきましたが、間違いなく、多くの人があらゆる真理の中でも最も重要な真理、すなわち身代わりの贖罪(彼らの罪が赦されるには、身代わりの者が死ななければならないという考え[Iコリ5:7])を理解していたでしょう。
実際のところ、私たちは聖所の奉仕を通して、イエスの死の象徴だけでなく、天における大祭司としての彼の働きの象徴、再臨前審判の象徴、終末時代における罪の最終的な処分の象徴などを与えられてきました。
陶工の粘土
問3
次の聖句やそこに含まれる象徴から、どんな重要な真理が得られますか。①エレミヤ18:1~10、②イザヤ29:16、③イザヤ45:9、④イザヤ64:7(口語訳64:8)、⑤ローマ9:18~21、(創2:7参照)。
エレミヤは絶えず拒絶と迫害に直面したために、きっと投げ出したいと思ったのです。そのような民のために骨を折り、戦う価値があるのでしょうか。折に触れて彼は、「価値などない!」と確かに感じていました。
しかし、彼は陶工の手を見たときに、主が人間という粘土を用いていかに働かれるのかというたとえ、つまり象徴を、間違いなく教えられました。陶工と粘土のたとえの中にどのような真理がほかに見いだされようと、これは神の究極的な主権を教えています。すなわち、エレミヤの目からは状況がいかに絶望的に見えたとしても、陶工と粘土の象徴は彼に、民が下す誤った決定、意図的ですらある誤った決定にもかかわらず、究極的には主がこの世を支配しておられることを示しました。主は力と権威の絶対的な源であり、現状がどうであれ、最終的に主が勝利されます。
エレミヤから何世紀もあとに、パウロはこの旧約聖書のたとえをローマ9章の中で取り上げ、基本的にそれがエレミヤに教えようとしたのと同じ教訓を教えるために用いています。実際のところ、パウロはローマ9:21においてエレミヤ18:6に直接言及しているのかもしれません。人間の自由意志と自由選択の現実や、頻繁に生じるその自由意志を悪用した悲惨な結果にもかかわらず、私たちは最終的に、愛情深く、自己犠牲的な神の絶対的な主権に望みを置けるのだ、と安んじることができます。その神の愛は、十字架で明らかにされました。悪は勝利しません。神と神の愛が勝利します。なんという希望を私たちは持っていることでしょう!
民の退廃
「それは彼らがわたしを捨て、このところを異教の地とし、そこで彼らも彼らの先祖もユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、このところを無実の人の血で満たしたからである」(エレ19:4)。
この聖句の中に、ユダを襲った悪事の例がいくつか挙げられています。主を捨てること、「他の神々」に香をたくこと、無実の人の血を流すことに加えて、彼らは「このところを異教の地」にもしました。ここでのヘブライ語の動詞は、「異質なものにすること」「奇妙なものにすること」、あるいは「汚すこと」を意味します。「このところ」が神殿なのか、エルサレムなのか、この聖句には記されていません。しかし重要な点は、この国が主にとって聖く、特別なものに(出19:5、6参照)、つまり周囲の国々とは異なる、独特なものになるべきであったということです。しかし、そのようにはなりませんでした。彼らは、自分たちをこの世に対する証人としたであろう特性や独自性を失いました。彼らはみんなと同じようになってしまいました。
「また彼らはバアルのために高き所を築き、火をもって自分の子どもたちを焼き、燔祭としてバアルにささげた。これはわたしの命じたことではなく、定めたことでもなく、また思いもしなかったことである」(エレ19:5、口語訳)。
古代世界では人身御供という概念は知られていましたが、それは、その習慣をイスラエルの人々に禁じておられた主が忌み嫌われるものでした(申18:10)。「思いもしなかった」と訳されている句は、ヘブライ語だと「心に思い浮かびもしなかった」とも読めます。これは、そのような習慣が神の御意志とはいかにかけ離れた異質なものであるかを示す慣用的な表現でした。もし罪によって鈍感になった、堕落した存在である私たちがそれを忌まわしいと思うのであれば、私たちの聖なる神にとってそれがどのようなものであったのか、想像してみてください!
それにもかかわらず、長い時間をかけて、堕落と文化の力が神の民を圧倒し、彼らはこの恐ろしい儀式に落ち込んでしまいました。私たちが支配的な文化によってどれほど容易に目をくらまされ、もし主につながり、主の御言葉と調和しているなら決して容認しないし、それどころか恐ろしいと思うような習慣(ヘブ5:14参照)に同意したり、参加さえしてしまうことについて、それは大切な教訓でしょう。
壺を砕く
昨日触れたように、民は深刻な背教に陥っていました。彼らはメッセージを受け取っていませんでした。そこで神はエレミヤを用いて、理想的には、彼らを差し迫った危機に気づかせるのに役立つ効果的な象徴的行為をさせました。
エレミヤ19章を読んでください。エレミヤは陶工の家に再び行かねばなりませんでした。しかし今回、主はエレミヤに、彼が行おうとしていることをしっかり見てもらうための証人を必ず連れて行くことを望まれました。その証人は、ユダの長老や祭司たちでした(エレ19:1)。彼らは指導者として、国に起こることに責任があったので、エレミヤが象徴的行為の力を通して伝えようとしていたメッセージを受け取る必要がありました。エレミヤが壺を砕くことになっていた「陶片の門」(同19:2)は、陶工たちが働いていた場所の近くで、門のすぐ外は、彼らが壊れた壺のかけらを捨てる場所だったのかもしれません。それゆえ、この象徴的行為はさらに効果的なものになりました。
砕かれた陶器の壺は、何の役に立つでしょうか。壺にひびが入っただけなら、当初の目的ではないにしても、何かの役に立つかもしれません。しかし、エレミヤは単に壺にひびを入れようとしていたのではありません。そうではなく、壺を砕いて、基本的に役に立たなくしようとしていました。その行為を見、あとに続いた言葉を聞くまでの間に、人々がその警告を理解できなかったとは思えません。もちろん、警告を理解することとそれに基づいて行動することとは、まったく別の話です。
さらに恐ろしいのは、その行為の明らかな最終的結果です。だれが砕かれた壺を修復できるでしょうか。主はこの民に未来への希望をお与えになりましたが、差し当たって彼らが方向転換をしなければ、ユダの国民は、彼らも子孫も破滅します。彼らが嫌悪すべきことや罪深い行為によって汚してきたすべての場所は、じきに彼らの死体によって汚れるでしょう。彼らの堕落の深さは、その堕落が自らの頭上に招いた罰の厳しさによって、最もよく理解されうるのかもしれません。
麻の帯
問4
エレミヤ13:1~11を読んでください。エレミヤが行うように命じられた象徴的行為は、どのようなものでしたか。それが教えようとしていたのは、どんな重要な教訓でしたか。
この象徴的行為は、これまで解釈者たちに解釈上の難しさをもたらしてきました。なぜなら、ユーフラテス川(これはユダヤ人の一般的な解釈であって、唯一の解釈ではありません)はエルサレムから何百キロも離れていたからです。エズラはそこへ行くのに、片道だけでも4か月かかっています(エズ7:9)。このメッセージをよりよく理解させるために、神はエレミヤに2往復させました。それゆえ学者たちの中には、地理的にほかの場所のことだろうと主張する者たちもいます。その一方で、エレミヤが旅をしなければならなかった長い距離は、イスラエルの子らがどれほど遠くへ連れ去られるのかを彼に示すのに役立ったであろうと主張する者たちもいます。さらに、それほどの長旅から戻る経験をしたので、エレミヤは70年の捕囚から戻った喜びを理解することができました。
いずれにせよ、召しがあったときには汚れておらず、腐ってもいなかったこの帯は、イスラエルの家とユダの家の双方を象徴しています。その帯を締めているのは、神御自身です。このことは何よりも、神御自身がどれほど密接に御自分の民と結びついておられるのかを示しています。聖書注解者の中には、この帯が祭司の衣服と同じ布である麻によってできているという事実に大きな意味を見る者たちもいます(レビ16:4)。詰まるところ、ユダは祭司の国になるはずだったからです(出19:6)。
帯が腐ったように、この民の傲慢も砕かれました。帯が男の腰にしっかり巻きついているように、この民はかつて主にしっかり巻き(すがり)つき、主の称賛と栄光の源でした。しかし、彼らは周辺の文化と接触することによって汚れ、そこなわれてしまいました。
問5
エレミヤ13:11を読み、申命記4:5~8と対比してください。これらの聖句はともに、この国に起こったことをどのように示していますか。これらの聖句は私たちにもどんなことを教えていますか。
さらなる研究
陶工と粘土のたとえは、とりわけローマ9章で明らかなように、私たちが神の行為をいかに理解しようとするのか、という重要な疑問を提起します。実際のところ、言うまでもなく、私たちはしばしば理解できません。それは意外なことではないのではありませんか。イザヤ55:8を読んでください。私たち人間は、何事であれ知っていることに極めて限りがあり、ましてや神の道はわかりません。
人間の知識の限界というこの点は、「自己言及の問題」と呼ばれてきたものによって明らかにされます。次の文を見てください。「セビリアの理髪師は、自分でひげを剃らないすべての人のひげを剃る」。では、セビリアの理髪師は自分でひげを剃りますか。もしも彼が自分のひげを剃るとすると、「自分でひげを剃らないすべての人のひげを剃る」という論理から、彼は自分のひげを剃ることができません。しかし、もしも彼が自分でひげを剃らないとすると、「自分でひげを剃らないすべての人のひげを剃る」という同じ論理から、彼は自分自身でひげを剃る必要があります。その答えは、論理の限界を示す説明しがたい矛盾を生み出します。それゆえ、もし「セビリアの理髪師がだれのひげを剃るのか」といったこの世界の出来事についての議論でさえこれほど混乱するのであれば、この世界に関わられる神の行動の性質や程度といった深遠なことについては、難解な問題がどれほど多いことでしょう。
「どうして罪というものが起こったのか、なぜ罪があるのかということは、多くの人々の心を苦しめる問題である。人々は、悪の働き、その恐るべき結果である不幸と悲しみを見て、いったいなぜ限りない知恵と力と愛であられる神の主権の下にこうしたすべてのことが存在するのかと疑問をいだく。人間の説明できない神秘がここにある。人々は、半信半疑でいるために、神のみ言葉の中にはっきりあらわされていて救いに不可欠な真理を、悟ることができないのである」(『希望への光』1835ページ、『各時代の大争闘』下巻227ページ)。
第7課 危機は続く
第7課 危機は続く
神の僕の苦労と試練は続きます。実際のところ、エレミヤ書の大半が扱っているのは、愛と憂慮のゆえに主が民に伝えようとなさっていた言葉を彼らに聞いてもらおうとして、この預言者が直面した難題と葛藤です。
もし民がエレミヤの言葉に耳を傾け、この預言者の警告を受け入れたなら、どのようになっていたか、想像してみてください。もし彼らが耳を傾けていたなら—民も王も指導者も、神の前に身を低くしていたなら—、悲惨な危機は訪れなかったでしょう。悔い改めの機会は彼らの前にありました。彼らが多くの罪や悪事を犯したあとでさえ、贖いと救いへの扉は閉まっていませんでした。扉は開かれていたのに、単に彼らが中へ入るのを拒んだのです。
ここでも、私たちが彼らの心のかたくなさにあきれることは実に簡単です。しかし、「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」(Iコリ10:11)。私たちにはこのような前例があります。私たちはそこから何を学ぶのでしょうか。
誇る者には……
エレミヤ9章において、エレミヤの哀歌が始まります。避けがたい大惨事が祖国と同胞を襲うとわかったからです。神はエルサレムに裁きを言い渡されたのであり、神が何かを言われるからには、それを実行なさいます。彼らが直面することは予期せぬことでもなければ、単に時折起こる悲惨で説明しがたいことの一つでもありませんでした。そうではなく、彼らが直面することは神の直接的な裁きになります。そして、このような認識がエレミヤに悲しみをもたらしました。しかし彼の悲しみは、神が感じられたに違いない痛みをわずかに反映したものにすぎませんでした。
文脈は異なりますが、次の引用文はこの神の痛みという考え方をうまく捉えています。「十字架は、罪が初めてあらわれたときから神の心に生じた苦痛を、われわれの鈍い感覚に示すものである。人が正しいことから離れるたびに、残酷な行いをするたびに、人性が神の理想に到達できないたびに、神は悲しまれるのである。イスラエルが、神から離れた当然の結果として、敵に征服され、残虐と死という災難がふりかかったとき、『主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった』『彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、……いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた』と言われている」(『教育』311、312ページ)。
問1
エレミヤ9章(エレミヤの哀歌)を読んでください。特に22、23節(口語訳23、24節)に目を向けてください。これらの言葉は、今日の私たちにもなぜ大いに関係しているのでしょうか。
死に関して、私たちはみな「城壁のない町」のようだと言われてきました。知恵、力、富は、それぞれ役割を持っていますが、これらに頼ることは、とりわけ大惨事のさなかや死が迫るときには、無駄であり、無意味です。破滅に関する警告の中で、本当に重要なものが人々に告げられています。それは、慈しみ、正義、恵みの業といったものを可能な限り自力で知り、理解することです。私たちの肉体も含めて、この世のあらゆるもの、人間に関するあらゆるものが役に立たなくなるとき、私たちにそれだけで希望と慰めを与えるものがほかに何かあるでしょうか。
造られた物か造り主か
すでに触れたように、神の民は、異教信仰、偶像礼拝、偽りの教えに染まった周囲の諸国民とは異なるものとなるために召し出されました。それゆえ、モーセ五書の中の多くの警告は、近隣諸国民の習慣に従うことをとりわけ禁じています。それどころかイスラエルの人々は、創造主にして贖い主である主に関する真理をこの世にあかしする者とならねばなりませんでした。しかし残念なことに、旧約聖書の歴史の大半は、彼らがまさに警告されていた習慣に、いかにしばしば誘い込まれたのかという物語です。
エレミヤ10:1~15を読んでください。神が御自分の民にここで言っておられるのと同じ警告が、今日の私たちの時代、文化、背景の中で与えられたとしたら、それはどのように記されたでしょうか。
エレミヤは人々に、彼らがすでに知っているべきであったことを語っています。このような異教の神々は、人間が作ったもの、悪魔的にゆがめられた人々の空想の産物にすぎません。これは、パウロが何世紀もあとに次のような人々について書いたときに意味したことの典型的な例です。「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」(ロマ1:25)。
この聖句の中で、パウロがいかに造られた物と造り主とを対比しているかに注目してください。これと同じ対比が、真の神と違ってこれらの「神々」の無力さや弱さについて述べている先のエレミヤ書の聖句(10:1~5)の中にもあります。エレミヤはこれらの聖句を通じて、何もできないこういった物を信頼することがいかに愚かしく、馬鹿げているかを人々に示そうとしています。この世界を創造しただけでなく、御力によって支えておられる創造主なる神とは、まったく対照的です(ヘブ1:3参照)。
これらの聖句がいかに古かろうと、そのメッセージは今日的な意味を持ち続けています。私たちは人間が造った像に頭を下げたり、それを拝んだりしたいとは思わないかもしれません。私たちの多くは「天に現れるしるし」を恐れたり、不安に思ったりしないかもしれません。しかし、私たちは今もなお、裁きの日にユダを救えなかったこれらの偶像のように私たちを救うことのできない物を信頼してしまいやすいものです。
悔い改めへの呼びかけ
エレミヤ26:1~6を読んでください。ここでのメッセージは、聖書全体、つまり旧約聖書と新約聖書を通じてのメッセージと同じでした。それは、悔い改めへの呼びかけ、罪から離れて神が与えてくださる救いを見いだすようにとの呼びかけです。
問2
次の聖句のメッセージは何ですか(代下6:37~39、エゼ14:6、マタ3:2、ルカ24:47、使徒17:30)。
「ユダの住民はみな無価値な人々であったが、神は、彼らをお見捨てにならなかった。彼らによって、神のみ名が異邦の人々の間で高められなければならなかった。神の属性が何であるかを全く知らないでいる多くの人々が、なお、神の品性の栄光を見なければならなかった。神が、神のしもべたちである預言者たちを送って、『あなたがたはおのおの今その悪の道と悪い行いを捨てなさい』と言わせられたのは、神の恵み深いみこころを明らかにするためであった(エレミヤ25:5)。神はイザヤを通して言われた。『わが名のために、わたしは怒りをおそくする。わが誉のために、わたしはこれをおさえて、あなたを断ち滅ぼすことをしない』。『わたしは自分のために、自分のためにこれを行う。どうしてわが名を汚させることができよう。わたしはわが栄光をほかの者に与えることをしない』(イザヤ48:9、11)」(『希望への光』509ページ、『国と指導者』上巻281ページ)。
旧約聖書においても、新約聖書においても、結局のところ、私たちに対する神のメッセージは変わりません。すなわち、私たちは罪人であり、悪事を働き、罰を受けるに値するということです。しかし神は、キリストの十字架、イエスの贖いの死によって、私たちのだれもが救われる道を開きました。私たちは自分の罪深さを自覚し、私たちの無価値さにもかかわらず無償で与えられるキリストの功績を信仰によって求め、自分の罪を悔いる必要があります。そして言うまでもなく、真の悔い改めには、神の恵みによって罪を私たちの生活から取り除くことも必要です。
死刑の求刑
私たちの視点から振り返れば、人々の心のかたくなさは理解しがたいものです。きのうの研究で見たように、エレミヤのメッセージは、いかに強烈なものであったとしても、まだ希望にあふれていました。もし彼らが悔い改めるなら、神は彼らに下る(契約による約束と呪いに基づいた)恐ろしい罰を食い止めるでしょう。彼らがなすべきことをなし、神に服従し、その服従がもたらす祝福を受けさえすれば、万事うまく行きます。神は、赦し、いやし、回復なさるでしょう。イエスの犠牲によって最終的にもたらされる福音の賜物は、彼らの罪をすべて赦し、彼らを回復するのに十分です。なんという希望のメッセージ、約束のメッセージ、救いのメッセージでしょう!
問3
エレミヤとこのメッセージに対する反応は、どのようなものでしたか(エレ26:10、11参照)。
イスラエルでは、法的に招集された法廷だけが死刑判決を下すことができ、裁判員の過半数の票がある場合にのみ、死刑判決は認められました。祭司や預言者たちは、手厳しい非難でエレミヤを起訴しました。彼に抵抗する人々は、彼を政治犯や反逆者として告訴したいと思いました。
問4
エレミヤの返事はどのようなものでしたか(エレ26:13~15)。
エレミヤはまったく引き下がりませんでした。死の脅威を前に、きっといくらかは恐れていたでしょうが、それでもなおこの預言者は、主から与えられたメッセージを一言も和らげませんでした。その主は彼に、「ひと言も減らしてはならない」(エレ26:2)と最初にわざわざ警告なさっておられました。そういうわけで、私たちがここに見るのは、時折泣き言を言い、文句を言い、生まれた日を呪っていたエレミヤとは対照的に、確信をもって堅く立っている神の人です。
死を免れたエレミヤ
昨日見たように、どんな恐れや感情があったにしろ、エレミヤは、判決がもたらしうる死の可能性を十分に認識しつつも堅く立ちました。エレミヤ26:15において、彼は高官たちや人々に、もし彼らが彼を殺せば、無実の者の血を流した罰を受けるであろう、と極めてはっきり警告しています。エレミヤは、彼に対する容疑に関して無罪であることを知っていました。
エレミヤ26:16~24を読んでください。霊的指導者であったはずの祭司や預言者たちが、エレミヤを弁護するために前へ進み出た一介の「長老」や「普通の人々」から叱責され、異議を申し立てられなければならなかったというのは、実に興味深いところです。彼らは、エレミヤより1世紀前のイスラエルに生きていたミカに関して覚えていたことを持ち出しました。当時の王はミカを傷つけることなく、彼の助言に耳を傾け、すべての民が悔い改め、少なくともしばらくの間、惨事は回避されました。今やエレミヤの時代にあって、指導者たちよりも賢明なこれらの人たちが、神の預言者を処刑することで大きな過ちを起こすことからこの国を救いたいと思いました。
無罪放免は、告発されたことについてエレミヤが有罪でないことを際立たせました。しかし、祭司や預言者たちの憎しみは、一層強まりました。怒りと復讐したいという気持ちが彼らのうちに湧き上がり、彼らは別の機会に激しい怒りでエレミヤを攻撃することになります。彼の解放は一時的な安らぎを意味したにすぎませんでした。彼は完全に危険を脱したわけではありませんでした。
私たちがここに見るのは、歴史から教訓を学ぶ人もいれば、同じ歴史を知っていても、同様の教訓を学ぶことを拒否する人たちがいるという実例です。私たちは何世紀もあとに同じようなことを目にします。イエスの弟子たちの扱いに関して、ファリサイ人のガマリエルがほかの指導者たちを戒めた一件においてです。
問5
使徒言行録5:33~42を読んでください。ここに書かれていることとエレミヤの身に起きたこととの間には、どのような類似点がありますか。さらに重要なことに、私たちは歴史や先人たちの過ちから、どのような教訓を学ぶことができるでしょうか。
さらなる研究
「『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました』(Iヨハ3:16)。罪がどれほど、神の創造物に損傷を与え、また、その創造の業を感謝し正しく読み取るための人間の能力に損傷を与えたとしても、私たちは間違いなく、自然界や人間関係や被造物自体の驚異の中に神の愛を見ることができる。しかし、十字架において覆いははぎ取られ、この世界に、可能な限り赤裸々で鮮明な愛の啓示が与えられた。その愛は、あまりにも大きかったので、エレン・ホワイトは『父・子・聖霊なる神の隔離』と呼ぶほどであった」(『SDA聖書注解』第7巻924ページ、英文)。
「父・子・聖霊なる神の隔離」とは何でしょうか。私たちに対する神の愛はあまりにも大きかったので、永遠の昔から互いに愛し合っておられた父・子・聖霊なる神は、私たちを贖うためにこの「隔離」を耐え忍ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)という言葉は、その「隔離」の、つまり私たちを救うために失うものの最も明瞭で効果的な表現です。ここにおいてもまた、私たちの罪のゆえに主が耐え忍ばれた痛みと苦しみを見ることができます。
ですから、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(Iヨハ4:19)。言うまでもなく、堕落した人間である私たちは、そのような愛を見習ってまねているだけであり、その愛さえも、しばしば私たち自身の身勝手さや罪深い欲望によってゆがめられています。神の愛は私たちの愛をはるかに超えており、私たちは、油の浮いた泥の水溜まりが空を映すように神の愛を反映します。
第8課 ヨシヤの改革
第8課 ヨシヤの改革
親は、自分の(とりわけ、成長して自分たちの手を離れた)子どもが自らを傷つけるであろう選択をするのを見ることがいかにつらいかを知っています。もちろん、このような心痛は親と子にだけ当てはまるものではありません。友人や親戚が、彼らにとって有害だとあなたにはわかっていた選択をするのを見たことがありませんか。これが自由意志を持つことの不幸な側面です。自由意志、特に道徳的な自由意志は、私たちが誤った選択をする自由を持っていなければ、何の意味もありません。正しいことしか選択できない「自由」な存在は、真の意味で自由でもなければ、真に道徳的でもありません。
それゆえ聖書の大半は、誤った選択をすることについて御自分の民に警告しておられる神の物語です。エレミヤ書の大半も同様のことに関してであり、自由意志と自由な選択を尊重される神から御自分が選ばれた民への訴えです。
残念なことに、物語の大部分は良いものではありませんが、今回、私たちはかすかな望みを目にする機会があるでしょう。というのは、自由意志を用いて、「主の目にかなう正しい」ことをした数少ない王たちを見るからです。
マナセとアモンの治世
物事をあるがままに見ることに関して、私たちは自分が客観的であると思いたがります。しかし、人間である私たちはどうしようもなく主観的です。私たちはこの世界をありのままに見るのではなく、むしろ自分たちのあるがままに見ています。しかも私たちは罪深く、堕落しているので、それが周囲の世界に対する私たちの感じ方や解釈に影響を及ぼします。例えば、ユダのマナセ王(在位:紀元前686~643年頃)のような人物を、とりわけ彼のひどい背教の初期を、ほかにどうやって説明できるでしょうか。ユダにはびこらせた恐ろしい忌むべきことを、いかに彼が心の中で正当化したかは、私たちの想像を絶しています。
歴代誌下33章を読んでください。マナセ王がどれほど堕落していたかということについて、この物語は述べています。さらに重要なことに、この物語は、赦したいという神のお気持ちについて、私たちに教えています。
疑いもなく、鉤で捕らえられ、青銅の足枷につながれてバビロンへ引かれて行ったことは、1人の男に人生を考え直させました。歴代誌下33章は、マナセが心から自分の生き方を悔い、王位に復したとき、彼がかつて与えてしまったダメージを回復しようとした、とはっきり記しています。しかし残念なことに、そのダメージは彼が想像していた以上に大きなものでした。
「しかし、この悔い改めは著しいものであったにもかかわらず、長年にわたる偶像礼拝の腐敗的影響から国家を救うには時すでに遅すぎたのである。多くの者はつまずき倒れ、2度と立ち上がらなかったのである」(『希望への光』532ページ、『国と指導者』下巻3ページ)。しかもさらに不幸なことに、マナセの背教によってひどく影響を受けた者たちの中に、彼の息子アモンがいました。父親の死後、アモンは王位に就き、「父マナセが行ったように主の目に悪とされることを行い、父マナセが造ったすべての彫像にいけにえをささげ、それに仕えた」(代下33:22)のです。父親と違って、アモンは自分の生き方を悔いることがありませんでした。
新しい王
かつて、ある説教者がこう言いました。「よく考えてから祈り求めなさい。それは手に入るかもしれないのだから……」。イスラエルは周辺諸国と同じように、王を祈り求め、待望しました。彼らは求めたものを手に入れましたが、士師の時代以降、イスラエル人の歴史の大半は、それらの王が王位に就いていかに身を持ち崩し、その結果、民もまたいかに堕落したかという物語でした。
それにもかかわらず、例えばヨシヤ王のような例外は常にあるもので、彼は紀元前639年に王位に就き、608年まで治めました。
問1
この新しい王が王位に就いた背景は、どのようなものでしたか(代下33:25参照)。
民主主義とは民による統治のこととされています。しかし、ヨシヤの場合に機能したように、民主主義が機能しているとは、一般的には考えられていませんでした。それにもかかわらず、民は自分たちの意志を表明し、それを実行しました。この若い王は、政府の最高レベルにおいてさえ、ひどい混乱と背教と暴力があったときに即位しました。現状を見て、この国の多くの忠実な者たちは、昔のイスラエルに与えられた神の約束が果たされるのだろうか、と疑問に思っていました。「人間的見地からするならば、選民に対する神のみこころはほとんど達成が不可能のように思われた」(『希望への光』533ページ、『国と指導者』下巻4ページ)。
これらの忠実な者たちの心配は、ハバクク1:2~4の中に表現されています。残念なことに、悪行、暴力、争い、無法状態といった問題に対する回答は、北から、神が御自分のわがままな民に裁きを下すために用いられるバビロンから与えられます。これまでずっと見てきたように、そのようになる必要はありませんでした。しかし、悔い改めを拒否したために、彼らは自分たちの罪が身に招いた罰を受けました。
王位に就いたヨシヤ
問2
「ヨシヤは八歳で王となり、三十一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をエディダといい、ボツカト出身のアダヤの娘であった。彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった」(王下22:1、2)。彼が王位に就いた背景について考えるとき、これらの聖句に関して注目すべきことは何ですか。
聖書はこの注目すべき青年について何も説明していません。状況を考えるなら、彼は先の王である父親のように堕落し、邪悪になっても仕方ありませんでした。ところが、そうなりませんでした。何らかの理由で、彼は異なる道を選び、それは(結局のところ限定的でしたが)良い影響を民に与えました。
列王記下22章は、神殿に関してヨシヤが行ったことを記しています。ソロモンによる神殿の奉献からヨシヤの改革(紀元前622年)までの間に、何世紀も過ぎ去っていました。王たちは神殿をまったく管理してきませんでした。時間は、かつて美しかったその建物を浸食していました。この若い王は、長年放置してきたために、神殿がもはや礼拝にふさわしくないと思ったのです。
問3
ヨシヤは、神殿がこれほど荒れ果てているのを知って、どうしましたか(王下22:3~7)。
今日的に言うなら、王は財務大臣を大祭司のところへ派遣し、神殿を改修する計画を立て、それに必要な物資や労働者を監督するように求めました。彼らは委託されたお金の支出報告をする必要がありませんでした。彼らが忠実に役割を果たしていたからです。理由はともかく、ヨシヤは彼らに対する信頼をあらわし、記録が示す限り、その信頼は応えられました。
律法の書
イスラエルの人々の礼拝の中心であった聖所の改修は重要でしたが、必要とされていたのは、建物の改修だけではありませんでした。極めて美しく精巧な構造物は、主の力と偉大さを礼拝者に感じさせるように設計されていましたが、民の間に敬虔さを呼び起こすには十分ではありませんでした。歴史は、どこかの美しい教会で1分前には「礼拝していた」のに、1分後には残虐な行為をしているような人々の悲しい物語であふれています。ひょっとすると、その行為は美しい建物の中で学んだことによって引き起こされたのかもしれないのです。
問4
神殿の改修をしている最中に、どのようなことが起きましたか。そのことに対するヨシヤの反応は、なぜとても重要なのですか(王下22:8~11)。
律法の書が見つかりました。一部なのか、それとも全部なのか、聖書は記していません。たぶん、神殿のどこかの壁の中に埋められていたものが見つかったのでしょう。
列王記下22:12~20を読んでください。フルダは、エレミヤがすでに何回も預言していたのと同じメッセージを伝えました。神に背を向けた人々は自分の行為によってすでに自分自身の墓穴を掘っており、彼らはその結果を刈り取ろうとしていました。ヨシヤはその災いを見ることなく、安らかに亡くなるのです。
「主はホルダによって、エルサレムの滅亡は避けることができないことという言葉をヨシヤに送られた。人々が今神の前にへりくだったとしても、彼らは刑罰を避けることはできないのであった。彼らの感覚は邪悪な行為のためにあまりにも長く麻痺していたので、もし刑罰が彼らに下らないならば、すぐにまたもとと同じ罪深い行いにもどるのであった。
女預言者は言った。『あなたがたをわたしにつかわした人に言いなさい。主はこう言われます、見よ、わたしはユダの王が読んだあの書物のすべての言葉にしたがって、災いをこの所と、ここに住んでいる民に下そうとしている。彼らがわたしを捨てて他の神々に香をたき、自分たちの手で作ったもろもろの物をもって、わたしを怒らせたからである。それゆえ、わたしはこの所にむかって怒りの火を発する。これは消えることがないであろう』(列王紀下22:15~17)」(『希望への光』538、539ページ、『国と指導者』下巻23、24ページ)。
ヨシヤの改革
運命をあらかじめ宣告されたにもかかわらず、ヨシヤは「主の目にかなう正しいこと」をしようと、なおも固く心に決めていました。おそらく大惨事は避けられないでしょう。「しかし主は天の神の刑罰を宣言なさったが、悔い改めと改革の機会を取り去られたのではなかった。そしてヨシヤはここに、神が憐れみをもって刑罰を和らげようとしておられることを認めて、決定的改革を起こそうと全力をつくす決心をした」(『希望への光』539ページ、『国と指導者』下巻24ページ)。
問5
列王記下23:1~28を読んでください。忠実な王が堕落した民にもたらそうとした改革の中心的な部分は、何でしたか。
ヨシヤはすべての人をエルサレムに集め、神との契約を結び直しました。最近見つかった律法の書が読まれ、彼らはイスラエルの神に従う誓いを立てました。
王はこの働きを自分だけで実行するのでなく、必要なことを行うよう、霊的責任を持つ者たちに依頼しました。例えば、何世紀にもわたって、さまざまな物(イスラエルに異国の礼拝を広めた偶像や象徴など)が神殿の中に集められていました。ときとして、それらは講和条件の一部であり、この国に押しつけられたものでした。王たちは敵国との平和を維持するために、降伏のしるしとしてそれらを展示してきたのです。しかし理由がどうであれ、それらは本来そこにあるべきものではなかったので、ヨシヤは、それらを運び出して破壊するよう、彼らに命じました。
また、ヨシヤの改革の間、過越祭はかつての習わしのように親族世帯の中だけで祝うのではなく、今や民全体でそれを共に祝いました。民に対するその象徴的なメッセージは、古い時代が過去のものとなり、今や新しい時代に入ったというものでした。彼らはその新しい時代に入って、彼らをエジプトから導き出し、約束どおりにこの部族のために故郷を与え、日々の生活の中で一緒におられる真の神に仕えることを誓いました。
さらなる研究
今回の研究で述べたように、イスラエルに生じた堕落の深さは、ヨシヤが取り組まなければならなかった改革の内容の中に見られます。しかし、この民はいかにしてこれほど堕落してしまったのでしょうか。ある意味で、その答えは簡単です。人間性がそれほど堕落しているからです。人間性がどれほど堕落しているかは、1960年代にイェール大学で行われた有名な実験[ミルグラム実験]によって明らかにされました。
参加者は新聞広告によって任意に集められ、別室にいる、椅子に縛られた人に電気ショックを与えなければならない、と告げられました。ショックを与えるスイッチには、「わずかなショック」から「危険:激しいショック」まで、いろいろな表示が書かれており、さらにはもっと不吉な「XXX」と記されたスイッチも含まれていました。参加者たちは、この実験を指揮している科学者の命令に従ってショックを与えるように言われました。彼らはそうしながら、別室にいる人たちの悲鳴や、「やめてくれ!」という声を聞くのです。実際には、別室の人たちはふりをしているだけで、彼らはまったくショックを受けていませんでした。
この研究の要点は、これら「普通の」参加者たちが、命令されたという理由だけで、見知らぬ人にどれくらいまで苦痛を与えるのかを見ることでした。結果は恐ろしいものでした。多くの参加者が心配し、動揺し、怒りさえしましたが、なんと65パーセントもの人が、別室の人を本当に痛めつけていると信じつつも最強の「ショック」を与えたのです。この実験を行った科学者は、次のように書いています。「普通の人々が、淡々と自分の仕事をこなし、際立った敵意を自分たちに抱くこともなく、極めて破壊的な一連の行為において代行者になれるのである」。歴史を通じて、また今日においてさえ、どれほど多くの「普通の」人たちがひどいことをしてきたことでしょうか。多すぎるほどの人が、確かにそうしてきたのです。なぜでしょうか。クリスチャンはその答えを知っています。単純明快に、私たちが罪人だからです。
第9課 エレミヤのくびき
第9課 エレミヤのくびき
すでに触れたように、神の預言者たちは言葉を通してだけでなく、実物教訓を通しても宣べ伝えました。ときとして、彼らはメッセージのままに生きなければなりませんでした。それは、要点を伝えるためのもう一つの方法でした。
そういうわけでエレミヤは、彼が伝えなければならない言葉のままに生きるよう、再び召されました。まず、彼は木製のくびきを首にはめなければなりませんでした。「主はわたしにこう言われる。軛の横木と綱を作って、あなたの首にはめよ」(エレ27:2)。最良の環境下であったとしても、それは厄介な務めだったに違いありません。ここでの場合はさらに大変でした。なぜなら、偽預言者がエレミヤの言ったことに異議を申し立てたからです。今回、私たちは、人々の心を捉えようとして争う真理と誤謬をはっきり見ることができます。また、恵みのメッセージがいかに偽りのメッセージになりうるかも見ます。
エレミヤはまた、ほかの人たちが嘆き悲しんでいるときに嘆き悲しんだり、ほかの人たちが喜んでいるときに喜んだりすることを禁じられました。この場合における要点は、人々の罪のゆえにやって来ることを彼らに気づかせ、それによって悔い改めて服従させ、彼らの罪深い行為の痛ましい結果を軽減することでした。
孤独な人生
間違いなく、エレミヤの人生における定めは容易なものではありませんでした(彼も真っ先にそうだと認めるでしょう!)。しかし状況は、私たちが想像した以上にずっと厳しかったのです。
問1
エレミヤ16:1~13を読んでください。エレミヤに対する主のメッセージは、ここではどのようなものでしたか(ホセ1:1~3と比較)。
ホセアは、霊的淫行のゆえに主とイスラエルの関係がいかに腐敗してしまったのかを示すために、売春婦と結婚しなければなりませんでした。そのホセアとは対照的に、エレミヤは結婚も子どもを持つことも自制しなければなりませんでした。これは、当時としては文化的にもかなり珍しく、極端なことでした。イスラエルでは、家庭を持つことがすべての青年にとって非常に重要だったからです。配偶者同士の愛情と交わりに加えて、家名を継ぐことも重要でした。なぜ神は、エレミヤが家庭を持つことを禁じられたのでしょうか。それは彼の人生を用いて、家族が引き裂かれ、別離の苦痛が生き残った者たちの重荷になるときがいかに悲惨であるかということの実物教訓にするためでした。エレミヤに家庭生活がなかったことは、同時代の同胞に対する継続的な警告であり、教訓でした。
エレミヤの孤独な定めは、ほかの領域にも及びました。彼は弔いの家に入ることを禁じられました。これは、悔い改めとリバイバルを求める主の呼びかけを嫌う民の態度を象徴するのです。嘆きの時に加えて、彼は喜びや祝いの祭りにも加わってはなりませんでした。これは、バビロニア人が民のあらゆる喜びを終わらせる時が来ることの象徴でした。
このように、嘆きであれ、喜びであれ、エレミヤは人間同士の絆を築くことを否定されます。彼の人生とその悲しみは、実物教訓となるはずのものでした。それらから民が学びさえすればよかったのですが……。
エレミヤのくびき
問2
エレミヤ27:1~18を読んでください。このメッセージは、それを聞いた多くの者にとって、なぜ裏切りに思えたのでしょうか。
エレミヤが彼の身につけたくびきは、この民が味わうであろう屈辱の、紛れもないしるしでした。それは、私たちが軍事占領と呼ぶものです(申28:48と王上12:4では、くびきが抑圧の表現として登場しています)。エレミヤは、バビロンの侵略が意味することを肉体的に体験しなければなりませんでした。エレミヤが彼の腕と肩にはめた木製のくびきは、長さが1.5メートルほど、厚さが8センチほどありました。彼のメッセージの要点は、もしどこかの国がバビロンに反抗するなら、主は、あたかもその国が御自分に反抗したかのようにみなし、反抗的な人々はその結果として苦しむだろうというものです。
原文の聖句にはいくらか曖昧さがありますが、エレミヤは自分自身のためだけにくびきを作らなければならなかったのではないようです。それは、すでにエルサレムにやって来ていて、(主の「してはならない」という警告にもかかわらず)ネブカドネツァルに対抗する陰謀を企んでいた異国の使者たちのためでもあったようです。外国からの侵略者には戦おうというのが自然な反応であり、彼らが望んでいたのもそうすることでした。ですから間違いなく、エレミヤの言葉はまったく歓迎されませんでした。
問3
エレミヤ27:5のメッセージに関して、特に重要なのは何ですか(ダニ4:25も参照)。
聖書全体(旧新両約聖書)を通じてわかるように、ここでもまた、創造主なる主が地球全体の統治者です。混乱と大惨事のように思えること(異教の国による侵略と支配)の中においても、神の力と権威は明らかであり、このことはすべての忠実な残りの者たちにとって希望の源です。
預言者たちの戦い
悪い知らせは嫌なものです。しばしば私たちはそれを聞きたくないと思ったり、合理的に説明したいと思ったりします。それは、ここユダにおけるエレミヤと彼が身につけたくびき、つまり民に対する紛れもない警告のメッセージにも当てはまります。「エレミヤが降伏のくびきを彼の首にかけて神のみこころを知らせた時に、諸国から会議に集まった人々の驚きは、たいへんなものであった」(『希望への光』554ページ、『国と指導者』下巻61ページ)。
エレミヤ28:1~9を読んでください。あなたがユダの民の1人で、その場に立っていて、このことが起こっている様子をすべて見ているとしましょう。あなたはだれを信じますか。だれを信じたいと思うでしょうか。
エレミヤは神の名において声をあげ、ハナンヤもまた神の名において語りました。しかし、だれが神の代弁をしていたでしょうか。両者が代弁していることはありえません!今日の私たちには、その答えが明らかです。エレミヤは8節と9節で、「過去の預言者たちは私と同じように、裁きと破滅のメッセージを説いてきた」と説得力のある指摘をしていますが、当時の人にとっては、私たちよりもその答えを知ることがずっと難しかったのかもしれません。
「エレミヤは祭司たちと人々の前で、主が定められた期間の間、バビロンの王に降伏するように熱心に嘆願した。彼は、彼と同じような譴責と警告の言葉を語ったホセア、ハバクク、ゼパニヤなどの預言をユダの人々に引用した。彼はまた、罪を悔い改めないことに対する刑罰の預言の成就として起こった出来事を引用した。過去において、神の刑罰は神の使者が示したとおりに、神の計画の正確な成就として、悔い改めない人々の上に下ったのである」(『希望への光』554ページ、『国と指導者』下巻62ページ)。
要するに、今日の私たちが聖なる歴史から教訓を得なければならないように、エレミヤは当時の民に同じことをさせようとしていました。つまり、「過去から学べ。そうすれば、あなたがたの祖先が犯した同じ誤りを犯すことはない」ということです。彼らがエレミヤの言葉に耳を傾けることがこれまで難しかったのであれば、今や彼に反論するハナンヤの「働き」によって、エレミヤの働きはさらに難しくなろうとしていました。
鉄のくびき
2人の預言者の間の戦いは、単に言葉による戦いではなく、行動による戦いでもありました。神の命令に従って、エレミヤは木製のくびきを首にはめており、それは、彼が民に伝えていたメッセージの明らかな象徴でした。
問4
ハナンヤの行為の象徴的意味は何でしたか(エレ28:1~11)。
例えば、イエスがいちじくの木を呪われたあと(マコ11:13、19~21)、その言葉を聞き、起こったことを知っている人が、イエスの預言に異議を唱えるだけのために、その同じ場所に新しいいちじくの木を植え替えたとしましょう。まさにこれが、エレミヤと、彼の首にはめられたくびきが象徴する預言に対してハナンヤがしたことでした。それは、エレミヤが言ったことを公然と無視する行為でした。
エレミヤの反応にも注目してください。くびきが壊された直後に彼が言ったことを、聖書は記録していません。彼はただ背を向けて立ち去りました。もし物語がここで終わっているなら、エレミヤは負けて逃げ出したと見えたことでしょう。
エレミヤ28:12~14を読んでください。エレミヤの返事は、「お前が私にこれをしたので、私はお前にそれをする」といったような復讐のメッセージではありませんでした。そうではなく、その返事は主から与えられたもう一つの明瞭なメッセージで、先のものよりも一層強いものでした。ハナンヤは木製のくびきを壊せたかもしれませんが、鉄のくびきを壊せる人がいるでしょうか。ある意味で、神が彼らにおっしゃったのは、彼らはそのかたくなさと服従への拒否によって状況を悪化させているだけだ、ということです。もし木製のくびきが嫌だと思うのなら、鉄のくびきをはめてみよ、ということです。
偽りを信じる
「ハナニヤよ、聞きなさい。主があなたをつかわされたのではない。あなたはこの民に偽りを信じさせた」(エレ28:15、口語訳)。
だれが正しいのか、エレミヤかハナンヤか、ということに対する答えは、すぐに与えられました。エレミヤ28:16、17に偽預言者の最期が記されています。それは、本物の預言者がそうなると言っていたとおりでした。
ハナンヤは死にましたが、彼が民に与えたダメージは依然として残っていました。ある意味で、彼の働きは、彼がいなくなってからなされたのでした。彼は民に「偽りを信じさせた」からです。ここで用いられているヘブライ語の動詞は、「信じる」という動詞の使役形です。肉体的に強制してという意味ではなく、欺くことによって、ハナンヤは民に偽りを信じさせました。主が彼を遣わされていないのに、彼は主の名において語り、そのことはユダにおいて強い影響力がありました。加えて、ハナンヤの「恵み」「解放」「贖い」のメッセージは、バビロンが与えていた大きな脅威を思えば、確かに民が聞きたいものだったのです。しかしそれは、主が彼にお与えになっていない偽りの「福音」、偽りの救済メッセージでした。そのようなわけで、エレミヤの言葉と彼がもたらした贖いのメッセージを聞かねばならなかったときに、人々は代わりにハナンヤの言葉に耳を傾けました。そして、そうすることは彼らの苦悩を深めるばかりでした。
Ⅱテモテ4:3、4とⅡテサロニケ2:10~12を読んでください。これらの聖句には、エレミヤ28:15と共通点があります。
状況は今日も変わっていません。私たちは大争闘の中にいます。この世の何十億もの人の心を得ようとする戦いです。サタンは、できるだけ多くの人に「偽りを信じさせ」ようと熱心に働いており、その偽りはさまざまな外見や形であらわれます。しかし、それは常に偽りです。詰まるところ、イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハ14:6)と言われたのですから、ほとんどあらゆることがサタンの偽りになりえます。しかしそれらには、イエスの中にあるような真理が含まれていません。
さらなる研究
すでに触れたように、人々は悪い知らせではなく、良い知らせを信じたがります。例えば、人々はエレミヤのメッセージではなく、ハナンヤのメッセージを信じたがりました。今日でも同じようなことが起きています。例えば、多くの人が、私たちの世界は時間をかけて良くなっていく一方だ、といまだに主張します。しかし、テリー・イーグルトンのような無神論者でさえ、そのような考えが極めて滑稽だと思っているのです。「もしいまなお敬虔な信仰を集めている神話や誰もが疑わないような迷信というものがあるとすれば、それは、ほんのわずかの障害さえとりのぞけば、わたしたちみな[原文ママ]、よりよい世界にいたる途上にあるのだと思い込んでいるリベラルな合理主義信仰にほかなるまい。この拙劣な楽観論は、中産階級の星が中天に登りつめる途上にあったリベラリズムの英雄時代の名残である。今日、それが踵を接しているシニシズム、懐疑論、ニヒリズムこそ、栄誉あるこの系譜の多くのなれの果ての姿なのだ」(『宗教とは何か』青土社95ページ)。
生活のいくつかの側面は良くなりましたが、この世界それ自体は、特に長い目で見ると、希望や慰めをほとんど与えてくれません。もし私たちが何らかの希望を持たねばならないとしたら、その希望は地上のものではなく、天上のものの中に、自然のものではなく、超自然なものの中になければなりません。そして言うまでもなく、それが福音にほかなりません。私たちの世界と私たちの生活への神の超自然的な介入です。それがなければ、ハナンヤたちと彼らの偽り以上の何が私たちにあるのでしょうか。
第10課 エルサレムの破壊
第10課 エルサレムの破壊
「わずか数年のうちに、バビロンの王は、悔い改めないユダに対して神の怒りの器として用いられるのであった。エルサレムは幾度となく、ネブカデネザルの軍勢に包囲、攻略、侵入されるのであった。初めのうち数は少なかったが、後には幾千、幾万の人々が、次々にシナルの国に捕らえられて行って、強制的にそこに移住させられた。エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤなど、これらのユダの王はみな、バビロン王に従属するのであるが、みな次々と反逆するのであった。反乱を起こした国家には、ますます厳しい懲罰が加えられて、ついには全国が荒廃に帰し、エルサレムは荒れ果てて焼き払われ、ソロモンが建てた神殿も破壊されて、ユダの国は滅び、二度とふたたび、地の諸国の間に以前の地位を占めることはなくなるのである」(『希望への光』546ページ、『国と指導者』下巻43、44ページ)。
これまで見てきたように、またこれから見るように、このようなことのどれ一つとして、預言者たち(とりわけエレミヤ)による多くの警告と訴えなくして彼らに降りかかったものはありませんでした。彼らが服従を拒んだことでもたらされたのは、破滅だけでした。彼らの過ちから私たちが学べますように!
タンムズ神のために泣く
エレミヤは折に触れてとても孤独に感じたかもしれませんが、彼は独りではありませんでした。神は同時代人であるエゼキエルをバビロンの捕囚民の中に立てておられました。捕囚民を慰め、警告するだけでなく、この長く厳しい歳月の間に主がエレミヤを通して語ってこられたことを確認するためです。エゼキエルは自分の働きを通して、バビロンからの早期帰還という誤った予言を信じる愚かしさを捕囚民に警告しなければなりませんでした。彼はまた、さまざまな象徴とメッセージによって、最終的にエルサレムに降りかかる壊滅的な包囲攻撃を予告しなければならなかったのです。その包囲攻撃は、人々が悔い改め、罪と背教から離れなかったために起ころうとしていました。
エゼキエル8章を読んでください。モーセや預言者たちの書いた物が、頻繁かつ明瞭に、偶像礼拝や他の神々を拝むことを警告していたにもかかわらず、これらの聖句は、まさにそのことが神殿の聖なる区域においてさえ行われていた、と述べています。「タンムズ神のために泣(く)」とは、タンムズというメソポタミアの神に対する嘆きの儀式のことです。歴代誌下に、「祭司長たちのすべても民と共に諸国の民のあらゆる忌むべき行いに倣って罪に罪を重ね、主が聖別されたエルサレムの神殿を汚した」(代下36:14)と書かれているのも不思議ではありません。
エゼキエル8:12を注意深く読んでください。「自分の偶像の部屋」という訳は、若干曖昧としています[英訳聖書の「偶像」に相当する語は‘imagery’で、「像、心象」の意味]。それは、長老たちが自分の偶像を保管した部屋という意味かもしれませんし、彼らの想像の部屋、つまり心を意味しているのかもしれません。いずれにしても、指導者である長老たちはひどく堕落していたので、主は自分たちのしていることをご覧にならない、主は自分たちを捨てられた、と言っています。別の言い方をすれば、「主はこういったことを気にかけておられない。こういったことは重要でない」ということです。まさに神の神殿の聖なる区域で、この人たちは最も忌まわしい偶像礼拝にふけり、神の御言葉によって具体的に禁じられていたあらゆることをしていました。さらに悪いことに、彼らは心の中で自分たちの行為を正当化していました。パウロは、造り主でなく造られた物を拝む者たちについて述べていましたが(ロマ1:22~25参照)、彼がそのときに意味していたことを、私たちはここに改めて見ます。
ゼデキヤ王の不幸な治世
ゼデキヤは(名前の意味は「ヤハウェの義」)、紀元前586年にバビロンによって破壊される前のユダの最後の王です。当初、彼はエレミヤの言葉を進んで聞き入れ、バビロンに服従したかのようでした。しかし、その態度は長く続きませんでした。
問1
エレミヤ37:1~10を読んでください。ゼデキヤ王に対するエレミヤの警告は、どのようなものでしたか。
臣下から、おそらくは貴族たちから圧力を受けて、ゼデキヤはエレミヤの警告を無視し、バビロンの脅威を食い止めることを願ってエジプトと軍事同盟を結びました(エゼ17:15~18参照)。しかし、ゼデキヤが十分に警告されていたように、結局、救いはエジプトから得られませんでした。
エレミヤ38:1~6を読んでください。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(マコ6:4)と、イエスが言われたとおりです。かわいそうなエレミヤは、再び同胞の怒りを買いました。しかし彼は、民のほかの者たちと同様、自分は警告されていなかったとは言えませんでした。ただし彼の場合、その警告は、もし彼が忠実であり続ければ直面するだろう試練に関するものであり、彼は忠実であり続けたのです!
エレミヤにとって、それはさぞつらいことでもあったでしょう。なぜなら、民の士気をくじいていると彼は非難されたからです。詰まるところ、人々が外部からの敵と対峙し、その敵に戦いを挑みたいと思っていたときに、エレミヤは長年にわたって、それは勝ち目のない戦であり、彼らは勝てないし、主さえもが彼らに対抗しておられる、と言い回ってきたのでした。人々が彼を黙らせたいと思ったのもうなずけます。罪によってかたくなになった彼らには、語りかける主の声が聞こえませんでした。実際のところ、彼らはそれを敵の声だと思いました。
エルサレムの陥落
エルサレムに対する本格的な包囲攻撃は、紀元前588年1月に始まり、586年の夏まで続きました。エレミヤの預言の言葉が成就するまでに、エルサレムは2年以上持ちこたえましたが、バビロン軍はその城壁を突破し、町を破壊しました。城壁の内側では飢えがひどかったため、守る兵士たちは力をすっかり失っていて、もはや抵抗できませんでした。ゼデキヤ王は家族と一緒に逃げますが、それは無駄でした。彼は捕らえられ、ネブカドネツァル王のもとへ連れて行かれ、息子たちを自分の目の前で処刑されました。このことのさらに詳しい内容は、エレミヤ39:1~10に記されています。
問2
エレミヤ40:1~6を読んでください。ネブザルアダンがエレミヤに語った言葉の重要性は何でしょうか。
この異教徒の親衛隊長がエレミヤの同胞たちより状況をずっとよく理解していたというのは、なんと興味深いことでしょう!明らかに、バビロニア人たちはエレミヤと彼の働きついて何がしかのことを知っており、彼らはゼデキヤなどを扱うのとは異なる仕方でエレミヤを扱っています(エレ39:11、12参照)。この異教徒の指導者は、エルサレムが陥落したのは彼らの神々がユダの神よりも優れていたからではなく、人々の罪に対して主が罰を下されたからだ、と言いました。聖書はその理由を記していません。理由がどうであれ、これは、このような無益な災難のさなかにあっても、主が御自分について何かを異教徒たちに示しておられたことの驚くべき証拠です。
エレミヤはどのような選択—捕囚たちと一緒にバビロンへ行くか、それとも残された者たちと一緒にとどまるかの選択—をするのでしょうか。彼ら全員の状況を考慮すれば、将来に対するいずれの見通しもあまり魅力的ではなかったでしょう。確かに、いずれのグループの霊的必要も大きかったでしょうし、エレミヤはどこへ行ったとしても働くことができました。エレミヤはこの地に残ったグループと、つまり、手に入るあらゆる励ましと助けを間違いなく必要とするようになる貧しい人々と一緒にとどまることにしました(エレ40:6、7参照)。
心を尽くして
問3
「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」(エレ29:13、新改訳)。この約束に関して、あなたはどのような体験をしましたか。「心を尽くして」というのは、どういう意味でしょうか。
主は初めから終わりまで、すべてを知っておられます。偽預言者たちの言葉が本当であってほしいと願いながら、エルサレムの人々が依然としてバビロン人たちと戦っていたときでさえ、主はエレミヤを用いて未来について語り、すでにバビロンにいる人々や最終的にバビロンへ行くことになる人々に話しかけられました。そして、彼が語った言葉のなんとすばらしいこと!
問4
エレミヤ29:1~14を読んでください。これらの聖句の中に、神の愛と憐れみはいかにあらわされていますか。
真の恵みのメッセージがここにありました。それは、捕囚は短期間(わずか2年)で終わるだろうと語った預言者たちから聞かされた偽りの「恵み」のメッセージとは異なるものでした。そのようなことは神の御計画ではなく、起こらないことでした。そうではなく、彼らは、モーセの明らかな教えに基づいて、少なくとも今はこれが自分たちの運命なのだ、と受け入れなければなりませんでした。しかしモーセが言ったとおりに、もし彼らが悔い改めるなら、この土地に戻されるでしょう。
問5
申命記30:1~4を読んでください。これらの聖句は、エレミヤが人々に語ったことをいかに反映していますか(申4:29も参照)。
年
エレミヤの預言は、捕囚たちの考え方に二つの影響を与えるはずでした。一つは、彼らが偽預言者たちの言っていたことを信じないこと。もう一つは、彼らが意気消沈しないことです。エレミヤは捕囚となっている同胞に、バビロンのために祈ってほしい、と求めました。この要求は、国を追われた彼らを驚かせたかもしれません。エレミヤが捕囚たちに求めていることは、イスラエルのこれまでの歴史の中で前例がありませんでした。神の選民である彼らにバビロン人がしたようなことをした敵のために祈るというのは、まったく前代未聞でした。エレミヤは、神殿とエルサレムについての彼らの理解をすっかり打ち砕きました。彼らは異教の国にあって祈ることができ、永遠なる神は彼らの祈りを聞いてくださるのです。
エレミヤがエレミヤ29:7で言っていること—彼らの「受け入れ国」の繁栄は彼らの繁栄を意味する—にも注目してください。この地において、外国人であり、よそ者であった彼らは、この国の状況が概して悪くなれば、特に攻撃を受けやすかったのです。歴史を通じて、ある国が困難な状況に直面したときに不寛容が特にひどくなるという嘆かわしい実例を私たちは見てきました。このようなとき、人々は非難の対象にできるいけにえを探し、少数民族や外国人がしばしば格好の標的になります。それが悲しい現実です。
エレミヤ29:10において、すばらしい希望が捕囚民に与えられています(エレ25:11、12、代下36:21、ダニ9:2も参照)。主が、起こるであろう、と言われたことは、すべて起こってきました。それゆえ彼らには、主がこの預言(エレ29:10)をも成就されることを信じるのに十分な根拠がありました。なぜ彼らの捕囚期間がぴったり70年なのかはわかりませんが、それは土地に対する安息という考え(レビ25:4、26:34、43参照)と明らかにつながっています。この預言に関してとても重要な点は、もし捕囚たちがそれを信仰と服従をもって受け入れたなら、大いなる希望と、神の完全な主権に対する確信が彼らに与えられたであろうということです。目に見える状況や降りかかった災難のひどさにもかかわらず、彼らは、すべてが失われたのではないこと、主が彼らを見放されたのではないことを知ることができました。彼らは依然として契約の民であり、主は彼らやイスラエルの国との関係を絶っておられませんでした。そこでは、進んで条件を満たそうとするすべての人に、贖いが提供されました。
さらなる研究
「私たちには、単純な福音を複雑にする危険が常にあります。多くの人々には、何か独創的なもので世を驚かせ、霊的陶酔の状態になって、現在の状態とは違った経験に入りたいという強い希望があります。現在の経験を変えることは確かに必要です。それは現代の真理の神聖さが十分に理解されていないからです。必要なのは心の変化です。それは、個人的に神の祝福とみ力を求め、神の恵みによって私たちの品性が改変されるよう、熱心に祈ることによってのみ得られるのです。これが今日必要な変化です。この経験に到達するためには、私たちはたゆまず力を働かせ、心からの熱心をあらわす必要があります。真に心から『救われるために何をなすべきか』と問わねばなりません。天国に行くには、どんな段階を取るべきかを知っていなければならないのです」(『セレクテッド・メッセージ1』251ページ)。
第11課 契約
第11課 契約
聖書は「契約」という言葉を複数形で記していますが(ロマ9:4、ガラ4:24)、基本的な契約は一つしかありません。それは、信仰によって求める罪人に神が救いを与えられるという恵みの契約です。複数形の「契約」という考え方は、さまざまな時代や状況の中にいる人々の必要に応えるため、神が本質的な契約による約束をさまざまな形で言い換えてこられたことから生じています。
しかし、アダムの契約(創3:15)であれ、アブラハムの契約(出20:2、ガラ3:6~9)であれ、シナイの契約(出20:2)であれ、ダビデの契約(エゼ37:24~27)であれ、新しい契約(エレ31:31~33)であれ、その考え方は同じです。神が与えてくださる救いは、身に余る不相応な賜物であり、この賜物に対する人間の応答(ある意味で、人間がこの取引で果たすべきこと)は、誠実と服従です。
新しい契約という言葉は、捕囚からのイスラエルの帰還と神が彼らにお与えになる祝福との関連で、エレミヤ書の中に初めて出てきます。災難や困難のさなかにあっても、主は御自分のわがままな民に希望と回復を与えようとしておられるのです。
全人類との神の契約
私たちは、今日の世界がどれほど悪いかを知っています。言い換えれば、私たちはこの世の中にあらゆる悪を見ますが、神は依然として私たちに我慢しておられるのです。それゆえ、主が全世界を洪水で滅ぼされるには、状況がものすごく悪かったに違いないと、想像せざるをえません。「神は、生活の規準として、律法を人々にお与えになったが、人々は、律法を犯し、そのためにありとあらゆる罪が生じた。人々は公然と、しかも大胆に悪を行った。正義は地にふみにじられ、圧迫される者の叫び声は天に達した」(『希望への光』47ページ、『人類のあけぼの』上巻89ページ)。
創世記9:1~17を読んでください。神と人類との間で、契約が結ばれました。それは被造物に対する神の恵みを反映しています。
神がノアに表明された契約は、聖書の契約の中で最も普遍的なものです。それは全人類に関係しており、動物や自然も含まれていました(創9:12)。しかも、この契約は一方的な取り決めでした。主は、この契約を結ぶ相手に要求や条件を何も課されなかったのです。単純に、神はこの世界を二度と水によって滅ぼすことはなさらない。それだけです。ほかの契約と違い、この契約にはまったく条件が付けられていません。
そして神は、目に見えるしるしで、つまり地球が洪水によって二度と滅ぼされないというこの約束を象徴する虹というしるしで、御自分の契約に印を押されました。ですから、私たちが虹を見るたびに、その場所で虹を見ているという単なる事実が、この大昔の契約を裏づけています(そもそも、もし人類が世界的な洪水によって一掃されていたなら、私たちはここで虹を見ていないでしょう!)。この地上で絶え間なく続く罪や悪の中にあって、時折私たちは、全世界に対する神の恵みのしるしである虹の美しさによって祝福されます。なぜなら、ただそれが美しいという理由からだけでなく、それが神からのメッセージ(この悲惨な惑星に対する神の愛のメッセージ)でもあることを知っているという理由によって、私たちはそれを見上げ、希望を得ることができるからです。
アブラハムとの契約
問1
創世記12:1~3、15:1~5、17:1~14を読んでください。これらの聖句は、神がアブラハムと結ばれた契約を通してなさろうとしておられたことについて、どのようなことを教えていますか。
アブラハムの恵みの契約は、救済史の全過程において基本となるものです。それゆえパウロは、この契約がイエス御自身において成就されたとき、これを用いて救済計画を説明しました。
問2
ガラテヤ3:6~9、15~18を読んでください。アブラハムと結ばれた契約を、パウロはいかにイエスや信仰による救いと結びつけていますか。
アブラハムの大勢の子孫ではなく、特定の1人、つまりイエスを指している「その子孫」(ガラ3:16)を通して、神はこの世界全体を祝福なさいます。イエスを信じる信仰によってアブラハムの子孫となるすべての者は、アブラハムの神が自分たちの神でもあることに気づきます。当時でさえ、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」(同3:6、口語訳)のです。アブラハムは、十字架のあの強盗と同じく、行いによって救われたのではありません。救いをもたらすのは常に、そして唯一、神の救済の恵みだけです。アブラハムは、彼が果たすべき契約による約束の分担を果たし、その忠実さは、救いの約束を握りしめた彼の信仰を明らかにしました。彼の行いが彼を義としたのではなく、その行いは、彼がすでに義とされていたことを示していました。それがこの契約の核心であり、信仰生活においてそれがいかにあらわされるかの中心です(ロマ4:1~3参照)。
シナイでの契約
問3
その契約はシナイ山において、イスラエルと神との間で、どのように結ばれましたか(出24章参照)。
モーセと何十人かの指導者たちがシナイ山に登りました。その指導者たちの中には、祭司を代表するアロンと彼の2人の息子たち、そして民を代表する70人の長老が含まれていました。モーセに同行した人たちは遠く離れた所で止まらなければならず、神の出現される場所に登ることを許されたのはモーセだけでした。
その後、モーセは戻って来て、契約を民全体と一緒に確認しました。神がお語りになったことをモーセが宣言すると、民はそれに、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」(出24:3)という言葉で応じました。
言うまでもなく、聖書に記された歴史が示し、私たち自身の体験がしばしば証明しているように、服従します、と口で言うことは容易です。しかし、約束したことを実行できるようにする神の力を用いるために、私たちが信仰を働かせ、服従することは、まったく別物なのです。
ヘブライ4:2を読んでください。この聖句はイスラエルの失敗について説明しています。信仰によってのみ、信仰によって与えられる約束をつかみ取ることによってのみ、私たちは忠実であることができます。その忠実さは、神の律法に対する忠誠によってあらわされるものです。律法に忠実であることは、私たちの時代においてと同様、モーセの時代においても永遠に続く契約に反していませんでした。律法や契約に関する一般的な誤解は、たいていパウロの書簡が原因で、それは、彼が書いていた状況、つまりユダヤ教徒化しようとする相手に対処していたという状況を考慮に入れないことから生じています。彼らは、律法とそれに従うことを信仰の中心にしたいと願っていました。それに対してパウロは、キリストと彼の義を中心的要素にしたいと思いました。
新しい契約(その1)
問4
エレミヤ31:31~34を読んでください。これらの聖句は、当時の状況においてと同時に、今日の私たちの状況において、どのような意味がありますか。
エレミヤは、民がまだ直面していなかった最大の危機のさなかにこれらの言葉を語りました。その危機とは、迫りくるバビロンの侵略であり、その侵略がなされたとき、彼らはほぼ確実に絶滅の危機に瀕しました。しかし、ほかの箇所においてと同様ここでもまた、主は彼らに希望をお与えになりました。これですべてが終わってしまうわけではなく、彼らには主の前で繁栄するチャンスがもう一度与えられるという約束です。
そういうわけで、聖書の中に見いだされる「新しい契約」の約束は、バビロン捕囚からのイスラエルの最終的帰還と、その帰還に際して神が彼らにお与えになる祝福とに関係しています。シナイで結ばれた契約を破ったことが彼らに捕囚をもたらしたように(エレ31:32)、この契約を結び直すことによって、彼らと、彼らの未来に対する希望とは保たれます。シナイの契約と同様、新しい契約も関係的なものであり、そこには同じ律法、つまり十戒が含まれます。ただし、今回は石の板にではなく、それがずっと続くように民の心に記されます。
「石の板に刻まれたのと同じ律法が、聖霊によって心の板に書かれるのである。自分自身の義を確立させようと努力するかわりに、われわれは、キリストの義を受け入れる。キリストの血がわれわれの罪を贖うのである。キリストの服従が、われわれに代わって受け入れられる。こうして、聖霊によって新しくされた心は、『御霊の実』を結ぶのである。キリストの恵みによって、われわれは心に書かれた神の律法に従って生きるのである。キリストのみ霊を持っているから、彼が歩かれたように歩くのである」(『希望への光』190ページ、『人類のあけぼの』上巻442、443ページ)。
新しい契約の下で、彼らの罪は赦され、彼らは自ら主を知り、彼らのうちに働かれる聖霊の力によって神の律法に従います。古い契約は影であり、象徴であり、新しい契約が実体でした。そして、救いは常に信仰—「御霊の実」を明らかにする信仰—によりました。
新しい契約(その2)
新しい契約に関するエレミヤの預言には、二つの意味が含まれていました。この預言は第一に、イスラエルが神に立ち帰り、神が彼らを祖国へ連れ戻されることに言及し、第二に、その死によって契約を批准し、人類と神との関係を変えられるメシアなるイエスの働きに言及しています。私たちが救済計画の全貌を知ることができるのは新しい契約においてであり、救済計画はそれ以前、影と予型において示されていたにすぎませんでした(ヘブ10:1)。
問5
ルカ22:20とIコリント11:24~26を読んでください。これらの聖句は、エレミヤの預言といかにつながっていますか。
旧約聖書においては、キリストの裂かれた体と流された血は、いけにえとなった過越の小羊によって表されていました。新約聖書においては、ぶどうジュースが、十字架で流されたイエスの血を象徴するものとして表されました。イエスの働きは、新約聖書とともに始まったのではありません。それは旧約聖書をも含んでおり、私たちは聖餐式において、イエスが救済史を通してずっとなさってこられたことを結びつけるつながりを見ることができます。
つまりパンとジュースは、救済史の最も短い要約です。それらは象徴にすぎませんが、私たちはこの象徴を通して、神が私たちのためになさった信じがたい働きを理解するのです。
聖餐式はキリストの死だけでなく、キリストの再臨をも指し示しています。再臨がなければ、キリストの死はほとんど無意味です。詰まるところ、私たちが墓から復活するときである再臨がないのなら(Iテサ4:16、Iコリ15:12~18)、キリストの初臨は何の役に立つでしょうか。イエスは、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マタイ26:29)とおっしゃったときに、このつながりを明らかになさいました。疑いの余地なく、キリストの初臨が分かちがたく再臨と結びつけられています。初臨はその最終的成就を再臨の中にのみ見るのです。
さらなる研究
すでに触れたように、虹は地球を二度と水によって滅ぼさないという神の契約上の約束のしるしであると、聖書は教えています。確かに科学のおかげで、現代の私たちは、日光が水滴の中で屈折して反射し、光をさまざまな角度に分散させるときに虹が生じることを知っています。光は雨粒の内部に一点から入り、その粒の背面の別の点で反射し、私たちが目にする色を作りながら、粒の別の点から出て行きます。詩人のジョン・キーツは、科学が「虹をばらばらにしてしまう」ことを恐れました。しかし、たとえ私たちが、光子の内部やクォークの暗部に至るまで虹に関してあらゆることを解析し、測定し、予想し、数値化できたとしても、そのことは、この契約による約束のしるしを生み出すために神が用いられた自然の法則を私たちがよりよく理解できるということ以外に、何を証明するのでしょうか。科学はいつの日か、虹がいかにして作られるのかを(小数点以下25桁に至るまで)すべて説明できるようになるかもしれませんが、虹がなぜ作られるのかを説明することは決してできません。
しかし、私たちはなぜかを知っています。日光と霧が互いに正しい関係にあるとき、霧は光を屈折と反射によってさまざまな角度に分散させ、それがいくつもの電磁波の周波帯を生み出し、私たちの目に届くと虹のイメージを私たちの心に刻むように、神が私たちの世界を創造されたからです。そして、神がそうされたのは(科学が決して説明できないその「理由」は)、地球を二度と水で滅ぼさないという契約による約束を私たちに思い出させるためです。
第12課 エジプトへ戻る
第12課 エジプトへ戻る
今回の研究は、預言者エレミヤの物語の結末へと私たちを導きます。しかしそれは、「そして、みんなずっと幸せに暮らしました」というような結末ではありません。ある意味において、今回の研究やエレミヤ書の大部分を要約すれば、「私たちがここに見るのは、恵みの限界の実例だ」ということになるのかもしれません。つまり、恵みは、それを断固として受け取らない者たちを救いはしない、ということです。主が彼らにどれだけ語りかけ、救い、守り、贖い、平安、繁栄を提供しようと、少数の忠実な残りの者たちを除いて、彼らはみな神の申し出を軽んじ、はねつけました。
そして、エレミヤはどうなったのでしょうか。彼の人生と働きは、人間的な観点からすれば、どう見ても無益でした!この「悲しみの預言者」には、嘆かざるをえないことがたくさんありました。彼が警告したあらゆることが起こったあとでさえ、人々は依然として自分たちの罪や異教信仰や反逆から離れず、この預言者に面と向かってあからさまに逆らい、彼らに対する主の言葉をあざけりました。
私たち自身はいかに注意する必要があるでしょうか。恵みは、それを受けるに値しない者に与えられるから恵みです。しかし、恵みがだれかに押しつけられることはありません。私たちはそれを進んで受け取る必要があります。
政治的混乱
バビロンによってエルサレムが破壊され、完全に敗北したことで、すべての人が教訓を学んだのだろうと、私たちは考えるでしょう。残念ながら、すべての人が教訓を学んだわけではなく、ドラマはまだ終わっていませんでした。
問1
エレミヤ40:7~16を読んでください。人々に与えられたのは、どのようなメッセージでしたか。11節で用いられている「残留者」という言葉の重要性は、何でしょうか。
平和のメッセージとその後の繁栄(エレ40:12参照)にもかかわらず、すべての人が現状に満足していたのではありませんでした。
エレミヤ書41章を読んでください。「残留者」たちは、ここで新たな問題に直面します。暗殺の理由は説明されていません。しかし、「王族の一人で、王の高官」(エレ41:1)であった者によって暗殺が実行されたという事実は、これらのエリート主義者たちが、この選民[ユダの人々]はバビロンの支配に従う必要があるという考えを依然として受け入れていなかったことを示唆しています。この人たちは、ゲダルヤがバビロンの王によって監督の地位に就けられていたので(エレ40:5参照)、彼を裏切り者の操り人形(民に対して不忠であり、それゆえに臣下ともども取り除かれなければならない者)とみなしていたのかもしれません。
この章を読み進めるにつれ、この残留者たちが今や新たな脅威に直面したことがわかります。その新たな脅威とは、バビロニア人に対する恐怖でした。彼らは起こったことの詳細をたぶん知らぬまま、ゲダルヤとバビロンの兵士たちの死(エレ41:3参照)に対する復讐をしようとしました。
神の導きを求めて
エレミヤ42章を読んでください。ここには、ユダの人々にとってのみならず、祈りによって主の導きを求めるあらゆる人にとっても、力強いメッセージがあります。バビロン人を恐れて、人々はエレミヤを捜し出し、神の導きを祈り求めてほしい、と彼に頼みました。彼らは、エレミヤが本当に神の預言者であり、彼が主の名において語ることは実際に起こると、すでにわかっていたに違いありません。
彼らはまた、神から求められること、命じられることは何でもします、と誓いました。それゆえ、私たちは先に読んだとおり、教訓を学んだように思える人々を見ます。その人々は、神の御旨が何であるかを知るだけでなく、もっと大切な、それ(神の御旨)に従おうと望んでいました。「良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います」(エレ42:6)という言葉は、力強い信仰の告白でした。しかしあとから見れば、その告白は遅すぎたくらいでした。
エレミヤの先のメッセージとの類似点に注目してください。「外国の勢力に頼ってはならない。主を信頼せよ。そうすれば、主はあなたがたを繁栄させ、しかるべき時が来たら、あなたがたを解放する。救いは主以外のだれからも、どこからももたらされない。外国勢力はこれまでもあなたがたを助けなかったし、今回も助けることはない!」
神が彼らに警告しなければならないのは、彼らの心の傾向をご存じだからです。神は、彼らが保護を求めてエジプトへ戻ろうと考えていることを知っておられます。それゆえ、主は彼らに、そうしてはならない、という非常に明瞭で具体的な命令をお与えになりました。そのような道を選べば、彼らは滅びるでしょう。
またしても対照的な選択、私たちのだれもが直面しなければならない選択—イエスに対する信仰と服従によって命と平安を得るか、それとも信仰と服従の欠如によって悲惨と死を得るか、という選択—です。どれほど状況が異なろうと、結局のところ、問題は私たち全員にとって同じです。これらのユダの人々と違って、私たちに与えられる警告は必ずしもこんなに具体的で明瞭ではありません。が、私たちにも同様の警告が与えられてきました。
エジプトへ戻る
もしあなたが先を読んでいないなら、エレミヤ42章にワクワクすることでしょう。この民はどうするのでしょうか。彼らは、服従によって明らかにされる信仰に到達して、ユダにとどまるのでしょうか。それとも、はっきりと「主がこう言われる」ということに従わないで、過去にした同じ過ちを犯すのでしょうか。彼らがエジプトに戻ったなら、彼らを待ち受けていることについて、42章の最後の数節で主がはっきりと警告しているにもかかわらず、彼らがしたいと思うことをするのでしょうか。
エレミヤ43:1~7を読んでください。神の御言葉が私たちの意図や願いと一致しないとき、私たちは、その言葉が神からのものであることを疑う傾向があります。同様に、ユダの人々や指導者たちはエレミヤに疑いを抱きました。明らかに、ユダにおいて状況は変わっていたのに、人々の頭の中も心の中も同じままでした。彼らは預言者エレミヤを攻撃することによって、自分たちの誓いを反故にしました。しかし、人々は老いたエレミヤを直接攻撃したいと思いませんでした。そこで彼らは、エレミヤの友人であり、時折書記の働きをしたバルクを非難し、彼が預言者を彼らに敵対させたのだと主張して、怒りの矛先を彼に向けました。
人々がエレミヤに言ったことと、彼らの祖先がモーセに言ったこととの間には類似点があります(出エジプト記16:3、民数記16:13)。人間性というものは、問題を常にだれかほかの人のせいにし、望むところを実行するためにいつも言い訳を求めています。それゆえ、バルクはどういうわけか非難されました。すべての同胞がバビロン人の手によって殺されるか、あるいは捕囚として連れ去られることを、彼が望んでいると言われました。エレミヤ43:1~7は、なぜ人々が、そのようになることをバルクが望んでいると考えたのか、理由を述べていません。それは、イスラエルの子らがエジプトを去ったあと、彼らが荒れ野で死ぬことをモーセが望んでいると考えた理由を聖書が説明していないのと同様です。感情や熱情のとりこになっている人々は、健全な思考能力を失うことがあります。ですから、私たちが感情や熱情を主に従わせ続けることは、なんと大切でしょう!
エジプトへ逃れる
問2
エレミヤ43:8~13を読んでください。主はエレミヤを通して、何と言われましたか。
タフパンヘスは、エジプト北東の国境沿いにあった重要な要塞の町で、そこには多くのユダヤ人居留者がいました。
ここでもまた、主はエレミヤに、預言を象徴的に行動で示すことを望まれました。言葉には力があります。しかし、ときとしてその要点は、言葉が実生活の中でなされ、私たちの目の前で行動によって示されるときに、一層強く伝わるものです。
どれほど厳密に、エレミヤがファラオの宮殿の入り口に石を埋めなければならなかったのかはわかりません。しかし、要点ははっきりしています。強力なファラオでさえ、主にはかなわないということ、そして主は御自分の言葉を言われたとおりに実行なさるということです。エジプトへ行けば保護と安全が得られると考えた避難民たちは、先に見たように、エジプトに出動してもらえば保護と安全が得られると思った者たちと同様に間違っていました(エレ37:7、8)。エジプトの神々は、役に立たない、ゆがんだ想像の産物でした。その神々は、悲惨にも人々に真理を知らせないようにし続けた異教の嫌悪すべき偶像でした。ユダの人々は、私たちと同様、唯一にして真の保護と安全は主に従うことの中にあることを知っておくべきでした。
「自己否定が私たちの宗教の一部になるとき、私たちは神の御旨を理解し、それを実行するようになるだろう。なぜなら、目に塗る薬が私たちの目に塗られ、神の律法のうちにすばらしいものを見るからである。私たちは従順の道を安全への唯一の道だと思うだろう。神は、御自分の民が真理の光を理解している割合に応じて責任を負わせられる。主の律法の要求は、公正で妥当である。そして、キリストの恵みによって私たちがその要求を満たすことを、神は期待しておられる」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1890年2月25日号、英文)。
公然とした反逆
問3
エレミヤ44:1~10を読んでください。エジプトでユダの人々は何をしていましたか。
エジプトにおいてエレミヤは、彼や同胞たちがユダに住んでいたときと同じ問題に直面しなければなりませんでした。そのときは指導者たちに話さなければなりませんでしたが、今回は普通の人々に話さなければなりませんでした。彼らはこの惨状をもたらした同じ罪のいくつかを、エジプトでも最初から犯していました。
エレミヤが立ち向かったとき、彼らは驚くべき返事を彼にしました(エレ44:15~19)。彼らの心のかたくなさと欺きとは、驚くほどです。要するに、彼らはエレミヤの顔をまともに見て、彼が「主の名」によって語ったことと彼自身とを拒絶したのでした。
根拠は単純でした。初めの頃、ヨシヤの改革がなされる前、つまり彼らが異教の神々を礼拝することに深くはまり込み、「天の女王」に香をたき、ぶどう酒を注いでささげていた頃、物事はうまくいっていた、というのが根拠でした。彼らは物質的には恵まれており、平和に暮らしていました。しかし、災難が襲ったのは、ヨシヤの改革の直後でした(いずれにせよ、その改革は遅すぎ、中途半端でした)。それゆえ、なぜエレミヤの言葉と彼のあらゆる警告に耳を傾けなければならないのかと、彼らは考えました。
エレミヤの返事は、次のようなものでした(エレ44:20~30)。「いいや、あなたがたはわかっていない。このような惨事があなたがたを襲ったのは、あなたがたがこういったことをしたからにほかならない。さらに悪いことに、変わることをあなたがたが頑固に拒むので、さらなる惨事がやって来る。あなたがたがエジプトで得られると思った安全は、あなたがたが拝む異教の神々と同様、欺きでありうそだ。最終的に、あなたがたは真実を知るが、それでは遅すぎる」
さらなる研究
聖書全体と同様、私たちはエレミヤ書全体を通じて善悪の問題を突きつけられています。そして、私たちクリスチャンは善と悪を知っています。なぜなら、神はさまざまな形でこれら二つの言葉を定義しておられるからです(例えば、ロマ7:7、ミカ6:8、ヨシュ24:15、マタ22:37~39、申12:8参照)。しかし、もしあなたが神を信じていなかったら、どうでしょうか。どうやってあなたは善と悪を区別することができるのでしょうか。無神論者の作家サム・ハリスが示唆を与えています。彼は『道徳的な風景』という本の中で、善悪は科学によってのみ理解されうるし、理解されなければならないと論じています。つまり、強い核戦力と弱い核戦力の違いを科学が私たちに教えてきたのと同じように、是と非、善と悪を区別できるように科学が私たちを助けるべきだと言います。彼は、いつの日か科学が人間の悪をいやすかもしれないとまで推測しています。
「もしわれわれが人間の悪の治療方法を見いだしたとしたら、どんなことになるか、考えてみよう。仮定上の話として、脳の中における関連する変化を安価に、痛みもなく、安全にすべて起こせると想像しよう。精神病質の治療薬は、ビタミンDのように直接食料に入れることができる。今や、悪は、栄養不足のようなものにすぎないのである」(『道徳的な風景』109ページ、英文)。しかし、たいていの科学者は、たとえ彼らが神を信じていなくても、科学がこういった問題を解決できると信じることに抵抗があるでしょう。ですが、もしあなたが神を信じていないなら、こういったことの解決をどこに見いだせるのでしょうか。
第13課 エレミヤ書からの教訓
第13課 エレミヤ書からの教訓
私たちのエレミヤ書の研究もいよいよ最後です。それは一つの冒険であり、多くの感情やエネルギーがこの預言者の物語の中で費やされてきました。
あらゆる預言者と同様、エレミヤはこの書を世間から孤立して書いたのではありません。彼のメッセージは主からのものであり、それは特定の時代と場所、そして特定の状況下にいた人々に対するものでした。
しかし、彼の状況がいかに私たちの状況や、エレミヤ書をこれまで読んできたさまざまな時代の人々の状況と根本的に違ったとしても、そこにあらわされている重要な原則は、あらゆる時代の神の民にとって同じです。
例えば、次のようなことです。神に忠実であり、神の戒めに従うこと。人々を誤った満足感に浸らせてしまう空虚で冷めた儀式とは対照的なものとしての真の宗教、心の宗教。たとえ聞きたくない内容であっても、叱責の言葉に進んで耳を傾けようとすること。真のリバイバルと改革。肉の腕に頼るのではなく、主と主の約束に頼ること……など。
数え上げればきりがありません。今回は、御自分の民に対する神の愛のこのような啓示から学ぶことのできる多くの教訓のうちのいくつかに目を向けてみましょう。
エレミヤの主
セブンスデー・アドベンチストは、大争闘の中心に一つの重要な問題が存在していることを理解しています。それは、神の御品性はどのようなものか、という疑問です。神は実際にどのようなお方なのでしょうか。神は、サタンが信じさせようとしているような独裁的暴君なのでしょうか。それとも、私たちの最善だけを願っておられる、愛情深く、思いやりのある父親なのでしょうか。このような疑問は、宇宙全体の中でも最も重要な問いかけです。詰まるところ、もし神が親切で、愛情深く、自己犠牲的なお方ではなく、意地悪で、独裁的で、残忍なお方であるなら、私たちの状況はどのようになるでしょうか。そんな神を持つよりは、神が存在しないほうが、私たちはずっと幸せでしょう。
それゆえ、この疑問はとても重要です。幸いなことに、私たちは答えを持っており、それはキリストの十字架に最もよくあらわされています。
「広大な空間に、数えきれないほどの諸世界を、その力によって創造し、支えておられるお方、神の愛するみ子、天の大君、ケルビムや輝くセラピムが喜んであがめるお方、そのお方が、堕落した人類を救うために身を卑しくされたことは、決して忘れられることがない。また彼が、罪の苦痛と恥とを負われ、天父からはそのみ顔を隠されて、ついには失われた世界の苦悩がその心臓を破裂させて、カルバリーの十字架上でその命を絶たれたことは、決して忘れられることがない。諸世界の創造者、すべての運命の決定者が、人類に対する愛から、ご自分の栄光を捨てて、ご自分を卑しくされたことは、いつまでも宇宙の驚嘆と称賛の的となる」(『希望への光』1917ページ、『各時代の大争闘』下巻433、434ページ)。
エレミヤ書の中に、神の御性質や御品性は、さまざまな形であらわされています(エレミヤ2:13、5:22、11:22、31:3、3:7)。それらの聖句は、神の御性質や御品性を私たちに示すために、この書の中で用いられている多くのたとえや表現の中の一部にすぎません。神は命の源、力強い創造主、裁き主、私たちを愛し、罪を悔いて破滅に至る道から立ち帰るようにと何度も私たちに呼びかけくださるお方です。
儀式と罪
「組織化された宗教と神との終わりなき意気阻喪する闘争の記録文書、それが聖書として知られているものだ」(テリー・イーグルトン『宗教とは何か』青土社22ページ)。
この指摘は正しくありません。聖書の宗教、神が人類にお与えになった宗教は、常に「組織化された宗教」だからです。
その一方で、神がエレミヤ書において、寒々しく命のない、しかし極めて組織化された儀式から人々を離れさせようとしておられたことは、疑いの余地がありません。そのような儀式が人々の信仰を支配するようになり、彼らは、それを行うことで自分たちの罪が覆れると信じていたからです。
先に述べたように(けれども、繰り返す価値のあることなのですが)、エレミヤの格闘の大部分は、指導者や祭司たち、さらには、自分たちが神に選ばれた者、アブラハムの子ら、契約の民であるがゆえに、主と良好な関係にあると信じていた人たちとの格闘でした。なんと悲しい欺瞞でしょうか。そして、アブラハムの子孫(ガラ3:29)である私たちも、同様の欺瞞を注意する必要があります。
問1
エレミヤ書の次の聖句のメッセージは、何ですか(エレ6:20、7:1~10)。最も重要なことに、私たちはここでの原則を、主との歩みの中に、いかに適用することができますか。
エレミヤ7:9、10を読んでください。もしだれかが、「安価な恵み」と呼ばれてきたものにぴったりの状況を見つけたいと思ったことがあるなら、この用語はまさにここに当てはまります。人々はこのような罪深いことをいろいろしたうえで、神殿へ戻って来て真の神を「礼拝」し、彼らの罪の赦しを求めるのです。神はだまされません。このような人たちは生き方を変えなければ、とりわけ彼らの間にいる弱い者たちの扱い方を変えなければ、厳しく裁かれることになります。先のような罪を続けられるように、契約の条件を顧みず、自分たちは神の赦しを求めることができ、やりたいことをやれるのだという思い込み—なんという欺瞞の下に彼らはいることでしょう!
心の宗教
「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(ロマ14:12)。
エレミヤ書の大半は、民全体に向けられています。再三再四、エレミヤは集団としてのイスラエルとユダを神の「すぐれたぶどうの木」(エレ2:21、口語訳)、主の「愛する者」(同11:15、12:7)、神の「嗣業」(同12:7~9)、神の「ぶどう畑」(同12:10)、神の「群れ」(同13:17)などと呼んで、彼らについて語りました。間違いなく、私たちはエレミヤ書の中で、この民に対する神の呼びかけの集団的性質を感じ取ることができます。
もちろん、そのことは、教会が集団として繰り返し理解されている新約聖書においても同じです(エフェ1:22、3:10、5:27参照)。
しかし、救いは個人の問題であって、集団の問題ではありません。私たちは一括扱いで救われるのではありません。新約聖書の教会と同様、ユダ王国は個人によって構成されていました。そして、本当に重要な問題が持ち上がるのは、この個人のレベルにおいてです。有名な申命記6:5(「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」)は、民全体に対して語られてはいるものの、二人称単数形で書かれています。つまり、神は一人ひとりに個人的に語りかけておられます。最終的に、私たちは一人ひとり、自分のことについて神に申し述べることになるでしょう。同じことがエレミヤ書の中にも見られます。
問2
次の聖句は、主との個人的な歩みの重要性について、どのようなことを述べていますか。エレミヤ17:7、10、29:13、9:22、23[口語訳9:23、24]。
旧約聖書も新約聖書も神の教会の集団的性質について語っていますが、真の信仰は個々の人の問題です。日々、主に屈服し、信仰と服従によって歩む選択を個人的にすることです。
偶像のたそがれ
問3
民が犯した大きな罪の一つで、エレミヤが常に対処しなければならなかったものは、何でしたか(エレ10:1~15)。
聖書のこの箇所で興味深いのは、これらの偶像がいかに空しく、役に立たず、愚かしいかを示したエレミヤの示し方だけではありません。生きておられる神と偶像との対比の仕方も興味深い点です。こういった偶像は、力がなく、役に立たず、空しく、偽りです。天と地を創造された主とは、なんと対照的でしょう!これらの偶像はいずれ消え去りますが、主は永遠に存在なさいます。ですから、私たちはだれを礼拝し、だれに人生をささげるべきでしょうか。弱く、偽りで、空しく、力のないものに対してでしょうか。それとも、宇宙を創造し、維持する偉大な力を持っておられる主に対してでしょうか。言うまでもなく、その答えは明らかです。
しかし、その答えがいかに明らかであろうと、私たちも偶像礼拝に陥る危険性の中にいるというのが実情です。今日、私たちは、エレミヤの時代の人々が拝んだような類の偶像を拝んではいないかもしれませんが、私たちの現代生活は偽りの神々であふれています。私たちが神よりも愛するものなら何でもこうした現代の偶像になりえます。私たちが「礼拝する」(礼拝とは、必ずしも歌ったり、祈ったりすることを意味するのではありません)ものは何であれ、私たちの神となり、私たちは偶像礼拝の罪を犯していることになります。
言うまでもなく、私たちは、こういったものがどれも礼拝に値しないことを頭ではわかっています。この世が私たちに提供するもの、私たちが偶像に仕立て上げるものは、最終的にどれ一つとして私たちの魂を満足させえないこと、救いえないことを、私たちは知っています。しかし、もし私たちが注意を怠り、イエスが私たちのためになさったことや、なぜそうされたのかという理由を忘れてしまうなら、私たちは現代的な形態の偶像礼拝(エレミヤが激しく非難した偶像礼拝)に簡単に飲み込まれるでしょう。
残りの者たち
「ユダの背信の末期において、預言者たちの勧告は、いかにも効果がないように思われた。そしてカルデヤの軍勢が最終的に第3回目のエルサレム包囲を行った時に、すべての者は希望を失ってしまった。エレミヤは全滅を預言した。そしてついに彼が投獄されたのは、彼が降伏を叫んでやまなかったからである。しかし神は、なお都にいた忠実な残りの者たちを、どうすることもできない絶望の中に放置されたのではなかった。エレミヤが彼の言葉を軽べつした人々によって厳しく監視されていた時にもなお、天の神は喜んでゆるし救おうとしておられることについての新しい啓示が彼に与えられた。それは、当時から今日に至るまでの神の教会に対して、つきない慰めの泉となったのである」(『希望への光』562ページ、『国と指導者』下巻82ページ)。
はびこる背教と悪しき運命の中にさえ、神は、少ないながらも、忠実な民を常に持っておられました。多くの預言書と同様、エレミヤ書においても、強調点の多くは背教と不誠実に置かれています。なぜなら、主はそれらから御自分の民を救い出したいと願われたからです。しかしそれにもかかわらず、聖書に記された歴史全体を通じて、主は忠実な残りの者たちを持っておられました。言うまでもなく、このことは終末時代に至るまでずっと続くでしょう(黙12:17参照)。
エレミヤ23:1~8に残りの者たちの概念が表現されています。長きにわたって、学者たちは5~7節の中にメシア預言を、つまり神の忠実な民の救済の預言を見てきました。バビロン捕囚のあと、残りの者たちが帰還したのは事実ですが、それは輝かしい帰還ではありませんでした。しかし神の御旨は、ダビデの血筋、いつの日か統治なさる王であるところの「正しい若枝」を通して成就します。
この預言は、イエスの初臨において部分的に成就し(マタ1:1、21:7~9、ヨハ12:13参照)、再臨において完全に成就します。そのとき、神の忠実な民、神の真の残りの者たちはみな、平和と安全の中に永遠に住むことになります。そして、出エジプトによって最初に象徴された救済は、最終的で、完全で、永遠の救済になります。
さらなる研究
何年も前のこと、W・D・フレイジーというアドベンチストの牧師が、「勝者と敗者」という説教をしました。彼はその中で、聖書のさまざまな登場人物の人生を概観し、彼らの働きや伝道に目を向け、その1人ひとりについて「彼は勝者だったのでしょうか。それとも、敗者だったのでしょうか」と問いました。
例えば、フレイジー牧師は、荒れ野で孤独な人生を送ったバプテスマのヨハネに目を向けました。ヨハネにはわずかな弟子がいましたが、決して多くならず、あとからやって来たイエスの弟子たちのようでもありませんでした。そして言うまでもなく、ヨハネは最後の日々をじめじめとした牢獄で過ごし、ときとして疑念に悩み、結局、首を切り落とされてしまいました(マタ14章)。こういったことをすべて語ったあと、フレイジー牧師は尋ねました。「ヨハネは勝者だったのでしょうか。それとも、敗者だったのでしょうか」と。
預言者エレミヤはどうでしょうか。彼の人生はどれほど成功したでしょうか。彼は大いに苦しみ、そのことについて泣き言を言い、悲しむこともためらいませんでした。ほとんど例外なく、祭司も、預言者も、王も、大衆も、彼が言ったことを好まなかったばかりか、それに激しく腹を立てました。彼は、同胞に対する裏切り者だとみなされさえしました。そして最終的に、人々がエレミヤの言葉を拒絶したため、彼が人生を費やして警告した破壊と破滅はやって来ました。彼らはエレミヤを殺そうとして、泥の溜まった穴に彼を投げ入れました。しかし、彼は生き延びて、エルサレムの町や神殿が破壊され、同胞が捕囚として連れ去られるのを目撃したのです。このように、人間的な観点からすると、エレミヤの人生は順調とは言い難いものでした。見方によっては、彼はかなり悲惨な人生を送ったとも言えるでしょう。