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この記事について
*本記事は、安息日学校ガイド1994年2期『エレミヤ書、哀歌 神の計画と私たちの役割』からの抜粋です。
第1課 神の計画と私たちの役割
第1課 神の計画と私たちの役割
私たちはしばしば、神がご自分の教会の直面している問題に気づいておられないのではないかと疑います。神が決して不意打ちに会うことがないということをどんな特性から確信することができるのでしょうか。神はどのようにしてご自分の教会を来るべき危機に備えられるのでしょうか。
マルチン・ルターは30代の初めに16世紀の宗教改革に着手しました。ジャン・カルヴァンは24歳の時に宗教改革に参加し、27歳の時に『キリスト教綱要』の初版を書きました。18世紀には、ジョージ・ホイットフィールドが20代初めの若さで大群衆に向かって戸外で説教し始めました。19世紀には、エレン・ホワイトが17歳で最初の幻を与えられました。神は危機の時代にあってしばしば青年を奉仕のために召されます。聖書の中の有名な人物として、サムエルとヨシヤの二人をあげることができます。
このシリーズは、預言者エレミヤの働きと書き物について学びますが、彼が預言者に任命されたのはまだ20歳の時だと考えられています。当時のユダ王国は霊的に無気力で、その罪によって致命的な痛手を受けていました。手のつけようのない偶像崇拝が霊的生命の動脈をふさいでいました。預言者エレミヤの涙に満ちた訴えは滅びゆくユダの霊的力を再び目ざめさせることができるでしょうか。
エレミヤとその時代(エレミヤ書1章1節、2節)
エレミヤの働き(前627~570頃)は彼よりも前のゼパニヤ、ハバクク、女預言者ホルダ(列王下22:14)、それに後のダニエル(前603~535)、エゼキエル(前593~570頃)の働きと重複しています。
質問1
エレミヤのどんな生い立ちが、彼が神の預言者として慟<うえで役に立ちましたか。エレ1:1、2
アナトテはヨシュアによって祭司の居住地として定められた13の町の一つで、エルサレムの北東、約5キロの所にありました。エレミヤの父ヒルキヤは同名の大祭司ヒルキヤの下で仕えた祭司でした。エレミヤはアロンの子孫また「レビ族の祭司の一人であったので、幼少の時から聖職のための訓練を受けていた」(『国と指導者』下巻29ページ)。
神はイエスの生誕地として騒々しい町々を避けてベッレヘムを選ばれましたが、同じように寒村アナトテの貧しい村人、エレミヤを選ばれました。
ユダの最後の王たち(エレ1:2、3)
ヨシヤ……前640~609、マナセ(前696~641)の子
エホアハズ……前609、ヨシヤの子(列王下23:30)
エホヤキム……前609~598、ヨシヤの子(列王下23:34)
エホヤキン……前598~597、エホヤキムの子(列王下24:6)
ゼデキヤ……前597~586、ヨシヤの子、エホヤキンのおじ(列王下24:17)
エレミヤの働きはヨシヤ王の第13年(前627/626)に始まりましたので、彼の書き物はユダ王国の最後の40年間における霊的、道徳的衰退について描いています。当時、近東においては三つの非ユダヤ国家、つまりアッシリア、エジプト、新典のバビロニア帝国が覇権を争っていました。アッシリアは首都ニネベのバビロニアによる滅亡(前612)と共に崩壊しました。高慢なエジプトもバビロンに屈服しました。エレミヤはバビロンとエジプトの政治的、軍事的争いの犠牲となったヨシヤの悲劇的な死を悼みました(列王下35:20~25)。ヨシヤが死ぬと、ユダ王国はその国家的独立を失い、まずエジプトに、次いでバビロンに支配されました。
召しと任命(エレミヤ書1章4節、5節)
質問2
エレミヤの慟きに関する神の計画はいつ立てられましたか。この事実はのちにエレミヤの働きをどのように力づけますか。エレ1:4、5
クリスチャンは往々にして、教会が直面している困難な問題を取り除いて下さるように神に祈りがちです。しかし、神の計画はその困難に対処する霊的力を持った男女を備えることにあります。神は不思議な方法をもって、ふさわしい時に大切な働きを担う人々を備えて下さいます。
「すべての者は、天の永遠の計画の中に自分の占めるべき場所があるのである。だれでも、魂を救うために、キリストと協力して働かなければならない。天の住居の中に、わたしたちの場所が確実に用意されているのと同じように、わたしたちがこの地上で神のために働くべき場所が、定められているのである」(『キリストの実物教訓』301ページ)。
エレミヤは使命を受け入れるのをためらいましたが、主は彼にその迷いを克服するだけの保証を与えられました(エレ1:6~10)。「神の側に立ってエホバの言葉を宣べ伝えるうえで欠かすことのできない条件は、神がご自分で定められたすべての人に必要な力を与えて下さることを意識することである。主よ、私はどのように話したらよいのかわかりません―わたしが伝えることをそのまま語りなさい。主よ、私は子供にすぎません—わたしはあなたと共にいる。これらの言葉が私たちの魂に語られたものであることを悟るとき、私たちは自分自身の力にではなく、神の力に信頼して前進するようになる」(G·キヤンベル・モーガン『エレミヤ書預言研究』28ページ)。
質問3
エレミヤは王や民に予想される反応にどのように対処すべきでしたか。エレ1:10、17~19
ヨシヤの治世のこの時点においては、エレミヤは自分のメッセージがもたらす恐るべき反対を全く予想することができませんでした。しかし、彼はのちにはダビデ王朝の没落と神殿の破壊を預言し、自国がバビロンに服従するように求めます。その結果、彼は反逆罪で訴えられ、中傷とあざけりを受け、殺されそうになります。しかし、約束は確実でしたー「わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」(エレI:I9)。
二つの幻(エレミヤ書1章11節~16節)
質問4
幻の中にどんな木が出てきますか。この象徴は何を教えていましたか。エレ1:11、12
若い預言者の前に二つの光景が映し出されました。神はこれらの幻によってユダに起こる出来事とその理由を示そうとしておられました。
ヘブル語で「あめんどう」を意味する言葉は「目をさます」「用心する」を意味します。なぜなら、あめんどうの木は春になると最初に花を咲かす木だからです。あめんどうはユダに対する神のさばきを象徴していました。「あなたは何を見るか」。「目ざめ(見張)の枝を見ます」。「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして目ざめて(見張って)いるのだ」。神はユダの状態に無知あるいは無関いではありませんでした。預言者エレミヤを通して与えられた神の言葉は必ず成就するのでした。
質問5
二番目の幻の中で、さし迫ったユダの減びがどれほど如実に描写されていますか。それはどのようにして起こりましたか。エレ1:13~16
その大なべは南に傾き(北から離れて改訂標準訳)、煮えたぎった中身が今にも激しくユダの上にこぼれようとしています。バビロンはエルサレムの東にありましたが、両者の間に砂漠があったので、バビロンの軍隊は北の国境からフェニキアとパレスチナに進軍するしかありませんでした(エゼ26:7、エレ4:6参照)。エレミヤはこの幻の中に、神がご自分の反逆的な民のために計画しておられる厳しい懲罰を見ました。
エレミヤが召しを受けたのはヨシヤ王の第13年(前627/626)でした。それからほぼ40年後の紀元前586年7月19日、に預言されていたさばきが成就しました(エレ39:I~3参照)。バビロンのつかさたちは敗れたユダの首都の門に座りました。ユダはその恩恵期間を無視したために、「主の言葉」が成就しました。預言者エレミヤは「切迫した破滅について彼自身の預言が文字通り成就するのを見、運命の都の破壊に伴った悲哀と不幸とを共に味わわなければならなかった」(『国と指導者』下巻30ページ)。
リバイバルと改革(歴代下34章1節~7節)
質問6
ヨシヤは20歳の時(王としての12年目)にどんな改革に着手しましたか(歴代下34:1~7)。ユダと同様、イスラエルの町々においても、ヨシヤはどのようにして預言を成就していきましたか。列王上13:1~3、列王下23:15~20
悪王マナセは悔い改め、改革しようとしました(歴代下33:18~20)。しかし、半世紀に及ぶ彼の統治、はなはだしい偶像崇拝の奨励、それに息子アモンの悪政のために、ユダは霊的に破綻していました。マナセの孫ヨシヤはわずか8歳で王位につきますが、初めのうちは何人かの助言者の指導の下で統治しました。
エレミヤはその翌年、ヨシヤに加わりました(エレ1:2)。二人の若者はホルダ、ハバクク、ゼパニヤと共に、ユダの霊的生命を回復するために働きました。神はユダの滅亡を食い止めようと望まれましたが、それは民の選択にかかっていました。
質問7
六年後の、失われた聖書(律法の書)の発見は王の改革にどんな影響を与えましたか(列王下22:8~11、23:1~3)。ヨシヤはどのようにして偶像崇拝を廃止しようとしましたか。列王下23:4~14
聖書(モーセの書き物)が改革の基礎となりました。神は再び民の心を彼らの契約関係に向けさせられました。エレミヤはほかのどの預言者よりも、主に対する再献身の必要性を強調しました。しかし、ヨシヤの死と息子エホヤキムの悪政のために、改革者たちの努力がすべて水泡に帰してしまいます。主は後にエレミヤに対して、ヨシヤの訴えに対する民の応答が不十分であることを明らかにしておられます(エレ3:10)。
「ヨシヤのもとで行われた改革は、国土から偶像の祭壇を除き去ったけれども、多くの人々の心は改変されなかった。芽生えて多くの収穫をもたらす希望を与えた真理の種は、いばらにふさがれてしまった。もう一度このような背信が起これば、致命的になるのであった。そして主は、国民を目覚めさせ、その危険を自覚させようとされた」(『国と指導者』下巻32ページ)。
生ける泉とこわれた水ため(エレミヤ書2章1節~3章5節)
エレミヤの最初の公のメッセージはヨシヤの治世に与えられました(エレ2:1~3:5)。それによって、主はご自分に対するユダの初めの愛を再び燃えあがらせようとされました(エレ2:2)。
質問8
神がユダの民になされた問いかけをあなた自身の言葉で表現して下さい。エレ2:4、5
「ここに、神の民の忠誠と神ご自身の不忠誠という高度の議論を展開される驚くべき神の姿が描かれている—あなたがたを真に愛しているわたしから離れたとすれば、それなりの理由があるはずである。その理由はわたしにあるというのか。……それは絶えざる忠誠を求める傷ついた愛の挑戦であった」(G・キヤンベル・モーガン『エレミヤ書預言研究』34、35ページ)。
質問9
主がユダの背信に驚かれたのはなぜですか(エレ2:9~11)。彼らは偶像崇拝によってどんな二つの悪を行いましたか。エレ2:1~13
クプロの島々はイスラエルの西の国民、地方を表します。アラビア砂漠にあるケダルはイスラエルの東の国民を象徴しています。西から東に至るまで諸国民を捜してみよ、わたしの民以上の背信はどこにも見当たらないであろう、と神は言われます。
「このような大教師イエスと、天来の教育の機会を前にしながら、イエスから離れた教育を求めることは—すなわち、知恵である神を離れて賢くなろうとしたり、真理を拒みながら真実であろうとしたり、光の源であるおかたからはなれて、照明を求めたり、生命である神をはなれて生存しようとしたり、生ける水の泉であるおかたからはなれて、水のたまらないこわれたおけを作ろうとしてみたり—すべてこうしたことは、愚かというよりももっと悪いことである」(『教育』84ページ)。
花嫁にとって結婚衣装は大切なものです。しかし、衣装が花婿よりも大事だとすれば、それは驚くべきことです。ところが、ユダは祝福の与え主である神(契約の夫)を故意に無視していながら、神の祝福(衣装)だけは大事にしていました(エレ2:32参照)。
まとめ
それはユダの危機でした。半世紀に及ぶはなはだしい偶像崇拝、虐待、利己主義、不正義が国民の霊的生命をむしばんでいました。主は彼らの霊性をよみがえらせる指導者を立てることによってこの危機に対処されます。ヨシヤ王とエレミヤはこの目的のために立てられました。エレミヤは40年にわたって忠実にユダに助言しました。
第2課 預言者の旅路
第2課 預言者の旅路
クリスチャンの人生はどんな点で旅に似ていますか。人生が「学ぶこと」であると同時に「忘れること」であるのはなぜですか。クリスチャンの信仰はどのようにして成長しますか。
ジョンの霊的旅路は炭坑から始まりました。希望のないままに、17歳の炭坑夫は来る日も来る日も採掘現場で働きました。毎晩、ポーカーとタバコと酒で退屈さを紛らせました。そんなある夜のこと、彼らはビリー・サンデーの天幕集会に出席しました。
サンデーは次のように勧めました。「友よ、旅に出た者は一つの目的しか考えない—目的地に着くことだ。楽しみが過ぎ去り、 悲しみと嘆きがそれに代わるとき、何を目的とするだろうか」。
その晩、 ジヨン・L ・シューラーはイエス・キリストに生涯をささげました。シャベルを聖書に持ち換えたとき、長くてほれのおれる霊的巡礼が始まりました。彼はやがて傑出したアドベンチストの伝道者となりました。
クリスチャンはみな旅の途上にあります。エレミヤも例外ではありませんでした。彼の闘いは私たちの闘いと似ています。各人の経験は人によって異なりますが、同じ神が私たちを導いておられます。
預言者としての準備(エレミヤ書1章1節、15章10節)
質問1
エレミヤはアナトテの家庭でどんな霊的訓練を受けたと考えられますか。エレ1:1
エレミヤが召されたのが20歳頃だとすれば、彼はマナセの治世の終わり頃に生まれたことになります。自分の信仰を危うくする祭司が多かった中で(エレ2:8、 5:30、 31) 、エレミヤの両親は明らかに信仰を守り通しました。彼が何度も神の教え(トーラー、「律法」)に言及していることからも、家庭で聖書を教え込まれていたことがわかります。後年のイエスのように、エレミヤは神殿から4キロほどの所に住んでいたので、神殿にやってきた不注意な群衆とは対照的に、彼は儀式の深い意味について考えたに違いありません(エレ7:8~11)。
「神は若いエレミヤをごらんになって、彼が信頼にこたえ、大きな反対に遭っても正義のために立つ者であることを認められた。彼は幼少時代に忠実であった。そして今、彼は十字架のよき兵士として、困難に耐えなければならないのであった」(『国と指導者』下巻29ページ)。
質問2
若いエレミヤが結婚を禁じられたのはなぜですか。エレ16:1―4
結婚と子供はいつでもイスラエルの社会で重要な意味を持っていました(詩127 : 4、 5)。独身を強いられることは、同情心に富むエレミヤから優しい妻を迎え、自分も哀れみ深い夫になる機会を奪うものでしたが、悔い改めない国民に来るべき包囲攻撃の恐ろしさについて譽告することになりました(エレ19:9、エゼ5: 10)。
エレミヤが監禁中に土地を買ったという事実は、彼に何らかの収入源があったことを示しています(エレ32:6~15)。十分の一制度はヨシヤの死後、機能していませんでした。しかしながら、祭司とレビ人は定められた町の周辺に土地を所有していました(ヨシ2 1 : l ~ 3 ) 。困った時にはこれが彼らの支えになりました(ネヘ13:10参照)。エレミヤはたぶん相続した家族の土地からいくらかの収入を得ていたと思われます。
敏感な預言者(エレミヤ書14章7節―9節)
質問3
エレミヤはどんな意味深い言葉をもって自分自身を背信の民と同一視していますか。エレ14:7―9
カウンセラーは相手に同情はしても、感情的に超然としているように訓練されます。これは感じやすい人にとっては非常にむずかしいことです。ユダの恩恵期間は終わっていましたが(エレ7: 16、14:11、 12) 、エレミヤは自分の民のために熱心に執り成しました。モーセやダニエルのように、彼は「われわれの罪」「われわれの背信」「あなたに向かって罪を犯しました」と言うことによって、自分自身を民と同一視しています。
質問4
バビロンによるユダの滅亡について考えたとき、 エレミヤはどんな思いになりましたか。エレ4:19―22
へブル人は腸(はらわた、19節)を感情の中心と考えました。「はらわたが煮え返る」といったところでしょうか。エレミヤの生命はユダの生命と一体でした。ユダの失敗はエレミヤの失敗でした。エレミヤはユダの直面していた苦悩を自分の体で感じ取っていました。
質問5
エレミヤが「涙の預言者」と呼ばれることがあるのはなぜですか(エレ9:1、13:17、哀2:11)。それから650年後、キリストは頑迷なユダヤ人に対して何と言われましたか。ルカ19:41~44
「ユダヤ国民は、限りない愛の神の訴えをあざける各時代の人々を象徴していた。キリストがエルサレムについて泣かれた時の涙は、すべての時代の罪のためであった。神の聖霊の譴責と警告をこばむ者は、イスラエルに宣告された刑罰のうちに、自分自身の罪の宣告を読むことができる。……キリストの愛をあざける者よ、主はきょうあなたに語られる。……キリストはあなたのために涙を流しておられるのに、あなたは自分自身のために流す涙がない。……神の恵みの一つ一つの証拠 天来の光の一すじ一すじは、魂をとかして従わせるか、絶望的な頑迷さを一層固くするかのどちらかである」(『各時代の希望』下巻25、27ページ)。
苦しむ預言者(エレミヤ書11章18節―23節)
イエスがエルサレムのために嘆かれたとき、エレミヤの経験のことを思い出しておられたかもしれません(マタ23:37)。
ヨシヤのもとでの幸福な年月もやがて、絶えざるあざけりと生命の危険に取って代わられようとしていました。エホヤキムとゼデキヤの治世になると、投獄と虐待に会います。
質問6
だれが疑いを知らぬエレミヤの生命を奪おうと企てましたか。それに対してエレミヤはどうしましたか。エレ11:18~23、12:6
エレミヤが同国人から受けた虐待は、イエスがそれから数世紀後に受けられた虐待と非常によく似ています。イエスと同様、エレミヤはほふり場にひかれていく小羊にたとえられています(イザ53:7、8、黙示5:6参照)。のちのイエスと同じく、エレミヤは
「預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである」ことを悟I)ました(ルカ4:24)。
質問7
宮のつかさの一人がエレミヤの警告の言葉を聞いてどうしましたか。エレ20:1―6
むち打ちは40回を越えてはならないことになっていました(申命25:2、3)。足かせにつながれると体は曲がり、筋肉が締めつけられて苦痛をもたらしました。祭司は愚かにも、むちによって預言者を沈黙させることができると考えました。エレミヤは聖霊に促されて、この頑迷なつかさに特別なさばきを宣告しました。
質問8
祭司、にせ預言者たちは神殿と町に逆らう預言のゆえにエレミヤを死刑に処すべきであると主張しますが、エレミヤはこれにどう応答しましたか。つかさたちがエレミヤを助けたのはなぜですか。エレ26:8―19,24
神はしばらく前に、預言者ウリヤが殉教の死を遂げるのを許しておられます(エレ26:20~23)。「天が人に与えることのできるすべての賜物の中で、キリストと共にその苦難にあずかることは、最も重い信任であり、最高の栄誉である」(『各時代の希望』-k巻282ページ)。エレミヤの最後の投獄はエルサレムの最後の包囲攻撃の時に起こりました。つかさたちが彼をどのように扱ったか、まただれが彼を救い出したかに注目してください(エレ38: l~13、 39 : 15~18参照)。
質問する預言者(エレミヤ書20章14節―18節)
エレミヤは疑いと失望に陥り、何とかしてその苦しい経験を自分の召命と調和させようと努めました。叱責と約束についての神のメッセージに対する激しい反対と虐待のゆえに意気消沈し、自分自身の存在意義さえ疑いました。
質問9
エレミヤはどんな言葉によって自分の苦悩を表現していますか。エレ20:14~18(15:10比較)
「落胆はどんなに英雄的な信仰をも動揺させ、どんなに堅固な意志をもぐらつかせるのである。しかし神は理解し、なおあわれみ、愛されるのである。神は心の動機と目的とをお読みになる。万事が暗澹(あんたん)としているときに、忍耐強く待ち信頼することは、神の働きの指導者たちが学ばなければならない教訓である。神は逆境の中にある彼らをお見捨てにならない。自分の無価値なことを知って全く神に寄り頼む魂ほど、一見無力に見えるが、真にこれほどに打ち勝つことができないものはほかにないのである」(『国と指導者』上巻143ページ)。
質問10
自分の預言したさばきがすぐに起こらなかったので、エレミヤは神に何とたずねましたか(エレ12:1~4)。神の不思議な応答にはどんな意味がありましたか(5節)。
質問11
神は自分を欺いておられるのではないかと、 エレミヤが思ったのはなぜですか( エレ15:15―18、20:7―9比較) 。神はどのようにしてエレミヤの迷いを解かれましたか。エレ15:19―21
「あなたはわたしにとって、水がなくて人を欺く谷川のようになられるのですか」(エレ15 : 18)。エレミヤが言っているのは、冬には水が豊かだが、夏になるとかれてしまうパレスチナ地方のワジかれだに(個谷)のことです。彼は神を信頼してもよいのかどうか尋ねています。神は議論を避け、もし信頼するならエレミヤを助けるであろうと約束されます。
最後に、預言者エレミヤは完全に神のみこころに服従します。「主よ、わたしをいやしてください、そうすれば、わたしはいえます。わたしをお救いください、そうすれば、わたしは救われます。あなたはわたしのほめたたえる者だからです」(エレ17 : 14)。
記録する預言者( エレミヤ書3 6章1節 ~ 3節 )
質問12
神がエレミヤに自分の語った言葉を巻物に薑き記すように命じられたのはなぜですか。エレ36:1―3
ある預言者、たとえばエリヤやエリシャといった人たちは何も言葉を書き残していません。しかし、神はエレミヤの言葉を書き残すことによってその影響力を広めようとされました。エレミヤが預言者の務めに召されてからすでに22年が経過しており、多くの人々は彼の語った言葉を忘れていたことでしょう。要約した記録があれば大きな効果をもたらすはずです。
「このようにして、彼らは改めて自らの不義を悟り、悔い改める機会を得た。このことから、神がご自分の民を苦しめることを喜ばれるのでなく、むしろわがままな子をあわれむ父親以上の愛をもって、さまようご自分の民を信仰に立ち返らせようとしておられることがわかる」(『教会へのあかし』第4巻177ページ)。
質問13
エレミヤはどのようにしてその巻物を作成しましたか。エレ36:4,27,18
エレミヤも、後のパウロも有能な著者でしたが、二人とも書記を使っています。バルクはエレミヤが預言者として働いた全期間、彼を助けました。彼は民と、後にはつかさたちの前で巻物を読み、それが自分の言葉でなくエレミヤの言葉であると語りました(エレ36:5~19)。
質問14
王は神の書き記された言葉に対してどんな態度をとりましたか(エレ36:20~26)。神はご自分の恵みに対するこのあからさまな挑戦にどのように応答されましたか( 2 7 ~ 3 2 節) 。このことの後、エレミヤはバルクに何と言いましたか。エレ45:1~5
王は書かれた神のみ言葉を切り取って燃やしましたが、このような大胆不敵な行為はほかには記されていません。それは神に対する人間の反逆のひどさを示しています。人間は神のみ言葉を拒み、あるいは焼き捨てることができるかもしれませんが、そのメッセージを沈黙させたり、その預言の成就を妨害することはできません(イザ40:6~8参照)。それから6年もたたないうちに王は死に、その遺体は動物の死骸のように門の外に捨てられました(エレ22 : 18、 19、 36 : 30)。
まとめ
エレミヤ書の自伝的な部分を見ると、エレミヤが自分の仕える神を理解するのに苦しんでいたことがわかります。彼の人生航路は苦難と疑いの連続でしたが、神の恵みによって信仰に成長しました。人生のさまざまな経験を通して主に信頼することを学ぶときに、私たちも霊的に成熟した者となることができます。
第3課 ほかに神はない
第3課 ほかに神はない
偶像崇拝とは何でしょうか。人間はなぜ偶像崇拝に心をひかれるのでしょうか。偶像崇拝が隣人に対する罪となるのはなぜでしょうか。
リタ・タイソンは生きた奇跡のような人です。23時間のうちに2回も心臓移植を受けたからです。最初の移植から2時間もしないうちに、リタのからだは新しい心臓を拒絶しました。さいわい別の心臓が緊急にほかの病院から提供されました。人体から摘出された心臓は4時間以上たっと役に立たなくなります。すばやい輸送と外科技術のおかげで、第2の心臓は提供されてから3時間20分後にはうまく血液を送り始めました。リタは毎日、神に感謝しています。
創造主は多くの人にすばらしい医療技術を授けておられますが、いやすことのできない罪深い人類の心を取り換えることができるのは神だけです。ユダの民は偶像崇拝に陥っていました。彼らは公然たる背信の末期状態にありましたが、偉大なる医師の治療をかたくなに拒みました。私たちは彼らの道に歩んではなりません。主は、「わたしは新しい心をあなたがたに与える」と約束しておられます(エゼ36:26)。
その理由(エレミヤ書16章10節~13節)
イスラエルはエジプトに寄留していた時からつねに異教の偶像と「浮気」をしていました(エゼ20:6~8)。そこで神は北王国に言われました。「エフライムは偶像に結びつらなった。そのなすにまかせよ」(ホセ4:17)。同じ危機がその頃、ユダにも訪れていました。
質問1
エレミヤがユダに下ろうとしているさばきを宣告した時、人々は何と尋ねましたか。彼らの偶像崇拝は神から啓示された宗教にどんな影響を与えましたか。エレ16:10~13
「現代と同様、エレミヤの時代における重大な信仰の問題は無神論ではなく、偶像崇拝であった。エレミヤの時代における誘惑はバビロンの神々の魅力であった。これに相当する現代の誘惑は軍国主義、民族主義、自然主義、消費主義、科学技術であろう。現代の偶像崇拝の形態は結局のところ自主性、つまり自分の思いのままに生きるということである」(ワルター・ブルッゲマン『抜き、滅ぽすということ』97、101ページ)。
質問2
偶像崇拝はどんな形態であれ神の前に重大な罪であるのはなぜですか。出エ20:1~6
どんな形であっても偶像崇拝は創造主をその正当な権威の座から降ろすことになります。それは神を拒絶するまではいかなくても、神を無視することであり、神の愛のみこころの表現である律法を破ることです。偶像崇拝は人間を中心に置くことです。偽りの神々や偶像は人間そのものの延長にすぎません。それが洗練されると人本主義になり、神を不要のものと考えるようになります。自分自身が礼拝の対象となります。
「人間は、主以外のなにものをも第一に愛して奉仕することを禁じられている。神に対するわれわれの愛を減少させたり、神にささげるべき奉仕をさまたげるようなものを心にいだくときに、われわれはそれを自分の神としているのである」(『人類のあけぼの』上巻356ページ)。
黙示録14:6、7は終末の世の偶像崇拝者に対する神の特別なメッセージです。
家庭の宗教(エレミヤ書7章18節~20節)
上げ潮が浜辺に押し寄せてくるように、偶像崇拝がユダに押し寄せてきました。エレミヤの記録を見れば、国民が偶像崇拝にいかに熱心であったかがわかります(エレ2:28、11:13)。
質問3
親はどのようにして子供たちまでも日々の偶像崇拝に参加させていましたか。エレ7:18~20
「天后(てんこう)」は一般にアッシリアとバビロンの女神、イシュタルと考えられ、ヘブル人にはアシトレトとして、またカナン人にはアシタロテとして知られていました。それは性愛、豊穣、戦いの女神として崇拝されていました。その礼拝儀式には不道徳で堕落的な行為が含まれていました。
質問4
この時期、ユダにはどんな恐ろしい習慣が広まっていましたか。エレ7:31~34、19:5、32:35(詩106:37、38比較)
偶像崇拝は結局のところ、それに帰依する者たちの品位を落とし、堕落させるものです。親が子供を殺して感情のない偶像に犠牲としてささげていたとは、考えただけでもぞっとします。しかし、幼児虐待などに見られるように、現代人もこれに劣らず残忍です。
質問5
神は家庭の宗教としてつねにどんな理想を掲げておられますか。申命6:6、7、詩78:5~7(マタ19:14、ヨハ21:15比較)
多くの国々では、生計を立てるために両親とも家の外で働く必要があります。このことはつまり、自分の小さい子供を他人の手に預けることを意味します。そうしなければならないクリスチャンの両親は、子供たちが最も感受性の農かな時期に自分たちの信仰を伝える方法を工夫すべきです。
「あなたがたが神の力によって親としての責任をとりあげ子供たちを神の望みたもう者にするために努力の手を決してゆるめず、自分の責任の地位を離れないと固く決心するとき、神は満足をもってあなたがたをごらんになる」(『アドベンチスト・ホーム』223ページ)。
むなしいものに頼る(エレミヤ書10章1節~16節)
自分を超越したお方(創造主)を礼拝することを忘れるとき、私たちは必然的に自分以下のもの(被造物、ロマ1:25)を礼拝することになります。しかし、自分の心から真の神を追い出しても私たちの「神」に対する必要感がなくなるわけではありません。そこで自分自身の神をつくり出そうとします。
質問6
異教の偶像崇拝に従った結果、ユダヤ人の心にどんな変化が生じましたか(エレ10:1、2、5)。偶像には善も悪もなす力がないのはなぜですか。エレ10:3~5、8、9、14、15(イザ44:9~20、使徒17:24、27~29比較)
自然の力や来世は生命そのものに強い影響力を及ぼすと考える人々が必ずいます。これらの力と協力することによって現世の、また死後の生活は物質的に、霊的に豊かなものになると、彼らは信じています。こうして、富める者も貧しい者も、教養のある者もない者もみな、さまざまな偶像崇拝、オカルト、心霊術、神秘主義にひかれていくのです。
預言者たちは人間の作った物を通して自然の力を崇拝することの愚かさについて教えています。彼らは偶像崇拝の背後にサタンのカが働いていることを認めています(詩106:36~38、Iコリ10:20、2l)。
質問7
エレミヤは真の神を偽りの神々と比較して何と断言していますか。エレ10:10、エレ10:12、16
イスラエルの神はまことの神であって、信頼し、頼ることのできるお方です。生きた神であって、信頼する者たちにとっては肉体的、霊的生命の源です。永遠の主であって、その目的を達成するために地上の諸国を支配されます。万軍の主として、広範囲に及ぶ天使の働きを指揮しておられます。神はまた万物の造り主です。
現代の人本主義者たちも古代の偶像崇拝者たちと変わりありません。彼らはむなしいものに頼り、聖書の神である創造主を離れて真の安全と平和を追い求めています。
自分自身のために(エレミヤ書5章1節~5節)
質問8
エレミヤにユダの根深い堕落を示すために、神はどんな約束をされましたか(エレ5:1~3)。エルサレムの一般市民の中に真に正しい人を見つけることのできなかったエレミヤは、次にだれの所に行きますか。その結果はどうでしたか。エレ5:4~6
聖書の教えは、神に対する最高の愛と人に対する公平な愛という二つの要素からなり立っています(マタ22:36~40–『福祉伝道』48ページ比較)。神に対する私たちの愛が偶像崇拝によって追い出されるとき、隣人に対する愛もまた追い出されます。
アブラハムはさばき主なる神に、「10人のために」ソドムを滅ぼさないで下さいと嘆願しました(創世18:22~33)。ところが、主はエレミヤに対して、もし隣人と公平に、また真理に従って生活している者がひとりでもいたなら、ユダの恩恵期間を延長すると約束されました。貧しい人々の中にも偉い人々の中にも、そのような人はひとりも見当たりませんでした。
質問9
どんな罪がユダの国中に広がっていましたか。エレ5:23~29、6:6、7、13、7:5~10
人間関係について規定した十戒の後半の6条を公然と犯すことは、前半の4条を犯すことの直接的な結果でした。そのため偶像崇拝が国中に広がりました。国民は利己心のために貧しい人々の権利を無視し、不幸な人々を心にとめなくなっていました。神の律法の二つの部分は互いに不可分の関係にあります。信者同士の兄弟愛(横の関係)は神の弟子であること(縦の関係)の証拠であると、イエスは言われました(ヨハ13:34、35)。
「人に対する愛は、神の愛がこの地上にあらわされたものである。栄光の王キリストがわれわれと一つになられたのは、この愛を植えつけ、われわれを一つの家族の子らにするためであった。『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』とのキリストの別れのことばが成就されるとき、またキリストが世の人々を愛されたようにわれわれも彼らを愛するとき、その時われわれにとってキリストの使命は達成されるのである(ヨハネ15:12)。われわれは天国にふさわしい者となる。なぜならわれわれの心のうちには天国があるからである」(『各時代の希望』下巻114ページ)。
いやされない傷(エレミヤ書9章1節~8節、30章12節、13節)
質問10
神はユダの霊的状態を何にたとえて描写しておられますか(エレ30:12、13)。エレミヤが民を離れて「荒野の掘っ立て小屋」(リビングバイブル)に住みたいと願ったのはなぜですか。エレ9:1~8
病気は一般的に、早期に診断されれば完全に治りますが、そのまま放っておくと致命的になります。預言者たちは長いあいだユダに警告してきました。しかし、最後の数十年を前に、ユダの霊的心臓病は回復不能のように思われました。
「ユダの民がいやされなかったのは有効な治療法がなかったためではなく、大医師イエスのもとに来ることを拒んだためであった。恐らく民は自らの必要に無感覚になっていたのであろう。恐らく民の高慢さがいやしを受け入れさせなかったのであろう。……恐らく彼らは病を愛するようになっていたのであろう。いずれにしても、彼らはいやし主に目を向けて生きようとはしなかった」(『SDA聖書注解』第4巻394ページ)。
人間社会はお互いの信頼関係の上に成り立っています。ところがユダにおいては、道徳機構そのものが回復できないところまで乱れていました。人々は互いに奪い合っていました。あらゆる階層の人々に貪欲と詐欺と利己心が行きわたっていました。
質問11
ユダの恐るべき霊的状態がどんな二つのたとえによって示されていますか。エレ17:1、9、10
ヘブル語からすれば、彫刻者の鉄箪につけられた鋭い石は恐らくダイヤモンドではなく、金剛砂や火打石、あるいはこれと同じ程度の硬さを持った石と思われます。神の律法が民の心に記される代わりに(詩37:31、イザ5I:7)、彼らの罪がそこに刻まれていました。これが偶像崇拝を追い求めることの悲しむべき結果でした。今日も同じです。「はなはだしく悪に染まっている」の文字通りの意味は「いやすことができない」です。肉の心はそれ自体ではいやしの力を持っていません。
「たとえそれがどんな小さい悪癖、どんな欲望であっても、いつまでも心の中でもてあそんでいれば、終りには福音のすべての力を無にしてしまいます。魂は罪にふけるごとに、神をきらう心が強くなります」(『キリストヘの道』40ページ)。
まとめ
偶像崇拝は十戒の最初の4条を犯すことであり、信者の心から神への愛と忠誠を捨てることです。それは神のみこころと同胞に対する正当な義務を軽んじる態度につながります。エレミヤの時代のユダヤ人社会における道徳的堕落は、国民が神の権威を否定したことが原因でした。このような道徳的堕落は、人間が創造主から独立しようとするときに必ず起こるものです。
第4課 結婚の誓い
第4課 結婚の誓い
契約を守ることは社会の安定にとってどれほど重要でしょうか。霊的領域において神が私たちの約束を重要視されるのはなぜでしょうか。
「兄弟、私の仲間のために聖書を1冊いただけませんか」。部屋の後方でその信徒の説教を聴いていた人たちの中から、一人の女性が歩み出て、おどおどした様子で言いました。
彼女は聖書を手に入れて手書きの写しを作るために、1万キロも旅をしてきたのでした。その信徒は喜んで、驚いている女性の手に10冊の聖書を渡しました。彼女のほほに喜びの涙が流れました。
苦難と迫害の中にある人たちにとって、神のみ言葉はこの上なく貴重なものです。彼らは神との契約を生命よりも尊びます。
これとは対照的に、昔のユダの民は創造主との関係を軽視しました。彼らは故意に契約を破棄し、約束を破りました。ユダの行為はその霊的な夫である神に対しては、「私はもうあなたを愛していない。自分の好きなようにさせてくれ」と言っているようなものでした。
破られた約束(エレミヤ書22章8節、9節)
アダムが神に背いたことによって、創造主が人類家族と結ばれた関係が絶たれました。このような罪の状況の中にあって、神は恵みの契約という方法を用いて同じ愛の関係を回復して下さいます。聖書の契約は神と信者との献身的な関係です(結婚関係のような)。それはまた人間を創造主との完全な一致に回復することです。
質問1
イスラエルの神がなぜエルサレムの減亡を許されたのかと尋ねるとき、異邦人にどんな説明が与えられますか。エレ22:8
聖書の契約には三つの基本的な条項が含まれています。
(1)神の誓いによって確認された契約の約束(エペ2:12、ガラ3:16、17、ヘブ6:13、17)
(2)契約の義務—十戒の道徳律に示された神のみ旨に従うこと(申命4:13)、
(3)義務や条件を満たすための契約の手段、すなわちキリストによる救いの計画(イザ42:I、6、7、ヘブ8:10~12)。
質問2
イスラエルはいつ神との契約関係に入りましたか。この契約はすでにだれに対して結ばれていましたか(出エ19:4~6、24:3~8、創世17:1、2、7、8)。ユダが完全に異教の偶像崇拝に陥ったとき、この特別な契約関係はどうなりましたか。エレ1:16、22:9
アブラハムの子孫であるイスラエルの民はすでに、神によってエジプトから導き出されたときに神との契約関係に入っていました。シナイにおいて、神は組織された国民としてのイスラエルと契約を更新されました。「わたしは……あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう」(レビ26:12)。イスラエルは自発的にこれに同意しました。
悔い改めなかった3000人の人々はシナイにおける背信に影響を与えました(出エ32:28)。しかし、契約を結んでから900年たった今、ユダの契約違反と道徳的堕落はずっと深刻でした(エレ3:3、6:15)。しかし、契約関係を破棄する代わりに、忍耐に富む神は捕囚の経験によって契約の民を訓練しようとしておられました。
従って生きる(エレミヤ書11章1節~11節)
協定や契約には、それに署名する者に与えられる特権が記されていますが、同時に規定を破るときに与えられる罰則も明記されています。神がシナイでイスラエルと結ばれた契約には、(従った場合に与えられる)祝福と(従わなかった場合に与えられる)のろい・さばきが明記されていました。ヨシヤを行動に促したのは神の契約に見られるこの特徴でした(列王下22:8~13、申命28章参照)。
発見された「書」が申命記の巻物であると言う聖書学者もいれば、ヨセフスのように、それがモーセの五書全体の写しであると考える人たちもいます。
質問3
ユダに対する神の目的は何でしたか。彼らを減ぼすことでしたがそれとも彼らを契約に従わせることでしたか(エレ11:1~5)。エレミヤは神の勧告をどうしようとしましたか。エレ11:6、8
「エレミヤは繰り返し、国民の注意を申命記に与えられている勧告に向けた。彼は他のどの預言者よりもモーセの律法の教えを強調し、これらがどのように国家とすべての人の心に最高の霊的祝福をもたらすかを示した。『あなたがたば…••いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ』」(『国と指導者』下巻32、33ページ)。
質問4
エレミヤは悔い改めと契約への再献身を訴え続けました(エレ7:3、26:13)。しかし、神は最後にユダの応答に関してエレミヤに何と告げられましたか(エレ11:9~12)。(マル1:5、ルカ13:3~5におけるイエスの訴えに注目してください)
「現代は多くの者が自らの言葉を軽んじる時代である。……契約は破棄され、協定は破られ、誓いは忘れられている。背信は普通で、無責任はほとんどどこにでも見られる。キリストご自身、再臨の日に地上に信仰が見られるであろうかと言われた」(M・L・アンドリアセン『聖所の儀式』121ページ)。
放浪する妻(エレミヤ書2章2節、3章1節、20節)
質問5
神は契約関係をどんな美しいたとえによって描写しておられますか。エレ2:2(エゼ16:8、IIコリ11:2比較)
主は「契約を守」られる「真実の神」であって(申命7:9)、ご自分の民にも「契約を守る」ように望まれます。昔のイスラエル人にとって、また現代の私たちにとって、契約関係は結婚関係と同じく契約による一致です。実際のところ、神は次のように言っておられるのです。「わたしはあなたの夫となり、あなたはわたしの花嫁となる。わたしは霊的、肉体的にあなたのすべての必要を満たす」。信者はこれに対して答えます。「あなたは私を救ってくださった。それゆえ、私はあなたを愛し、真心からあなたに仕えます」。このように、神は契約関係において人類と救いの関係を確立されます。
質問6
ユダが偶像崇拝にかかわり、ついにはそれを受け入れてしまったとき、神はその行為をどのようにみなされましたか。エレ3:1、20、2:20、11:15
「多くの恋人—ユダは神との厳粛な契約関係に入っていたので、他の神々を追い求める行為は霊的姦淫とみなされた。ユダは単に不信仰の罪だけでなく、絶えず繰り返し多くの神々を追い求めるという罪を犯した」(『SDA聖書注解』第4巻365ページ)。
質問7
新約聖書によれば、契約関係に背く罪はどれほど重大でしたか。ヤコ4:4~6
「罪とは天の恋人である神を裏切ることである。それは個人的な関係から発生する。それは私たちに対する神の愛を追い払うことである。それは不貞行為である。それは自分に頼って自分を神とする絶望的で、不合理で、自滅的で、不自然で、向こう見ずな態度である」(デービッド・デイ『エレミヤ書』33ページ)。
幸福な結婚生活を送るためには時間と努力が必要です。私たちのキリストとの関係は結婚生活とどこが似ているでしょうか。神との「結婚生活」がうまくいくようにするためにはどんなことが必要ですか。
神の約束—条件つきか無条件か(エレミヤ書18章7節~10節)
エレミヤと背信したユダは神学的に考えが食い違っていました。ユダの人々は、契約の成就が信仰によるイスラエルの服従を条件としているというエレミヤの主張を受け入れませんでした。
質問8
ヒゼキヤ王の時代に、神はエルサレムとユダをアッシリアの軍隊から守ることに関してどんな約束を与えられましたか。イザ37:33~36(列王下18:1~7比較)
ユダの民は、神殿が神のものなので、神は神殿とご自分の民を守られると主張しました(エレ7:4参照、マタ23:38、24:1、2比較)。
「神殿とその儀式に頼ってもなんの役にも立たない。儀式や礼典は罪をあがなうことはできない。神の選民であるといっても、長く続いた罪の当然の結果から彼らを救うのは、ただ心と実際の生活における改革だけなのである。……
神の律法の保管者であると主張している者は、自分たちが外面的に戒めを尊重しているからといって、神の正義が行われるときに彼らが守られると考えてはならない。……罪を憎まれる神は、神の律法を守ると主張する人々が、すべての悪から離れるように呼びかけておられる。悔い改めと心からの服従を怠ることは、昔のイスラエルの人々に下ったのと同様の恐るべき結果を、今日の男や女の上にもたらすのである」(『国と指導者』下巻35、37、38ページ)。
質問9
神の約束の成就か、あるいは神ののろいとさばきの宣告かを決定するのはどんな明らかな原則ですか。エレ18:7~10
神の祝福が約束であるのと同じくらい、神ののろいもまた約束です。神の祝福は神のみ言葉に信頼する人たちに救いをもたらします。神のみ言葉を受け入れると言う一方で、自分自身に信頼する人たちは、祝福と同じくらい確実にのろいを受けます。神がそのみ言葉を成就されるという事実は無条件であって、変わりません。しかし、神のみ言葉がどの方向に成就するかは条件つきであって、信仰によって従うか否か、によって決まります。ユダがエレミヤの時代に、またその後の捕囚によって学んだのはこのことでした。
契約の更新(エレミヤ書31章31節~34節、ヘブライ人への手紙8章6節~13節)
道徳的に破綻したユダヤ人は外国に追放の身となります。しかし、主は彼らにメシヤの出現とそれに続く支配とを待ち望むように励まされました(エレ29:10~14、23:5、6)。
質問10
来るべきメシヤに対する信仰のゆえに、主は彼らとどんな契約を結ぶと約束されましたか(エレ31:31~34)。この「新しい契約」はどんな点において「新しい」と言えますか。
神の新しい契約の約束には本質的に新しいものは何もありません(エレ31:33、34)。契約の当事者は同じく神とイスラエルです。十戒も同じであって、神はいつでも心にそれを書き記そうとされました(イザ51:7、詩37:3I)。(罪祭の実体であるキリストが来ようとしておられたので)罪のゆるしをもたらす恵みはいつでも聖所の儀式を通して与えられていました(ヘブ9:1)。
この契約の「新しい」ところはその焦点にありました。「古い」契約において、イスラエル人は「自分たちの心のはなはだしい罪深さ」を、また「キリストの助けがなくては神の律法を守ることができないこと」を悟ることができませんでした(『人類のあけぼの』上巻440~442ページ参照)。彼らは自分自身の力で神のみこころに従うことができるという誤った考えに基づいてこの契約に入ったのです(出エ19:8、24:3、4)。しかし、新しい契約はキリストによる救いについての神の約束という、「さらにまさった約束に基いて立てられ」ています(ヘブ8:6)。「私たちの罪をゆるし、ご自分の律法を私たちの心に書き記すことによって、イエスはその成就についての『保証』(ヘブ7:22)となられた」(アーノルド・Vワーレンカンフ『救いは主から来る」89ページ)。
質問11
契約更新についてのエレミヤの預言はいつ成就しましたか。マタ26:26~30可Iコリ11:25
メシヤはイスラエル民族と契約を更新することがおできになりませんでした。彼らがイエスを受け入れようとしなかったからです
(ヨハI:11)。ユダヤ人は捕囚後に異教の偶像崇拝を捨てますが、キリストがピラトの前で裁判を受けられた朝、その契約を立てられたイエスご自身を拒んでしまいました(ヨハ19:15)。キリストは聖餐式を制定することによって、イスラエルのわずかな「残された者たち」、つまり弟子たちと契約を更新されました。このようにして、彼はエレミヤによって預言されていたように、新しい、つまり更新された契約の仲保者となられたのです(ヘブ8:6~13)。
まとめ
聖書の宗教は神と信者との愛の契約によって成り立っています。結婚関係が夫と妻を義務によって結びつけるように、神との関係も両者の間に忠誠を要求します。ユダのように神との契約を破棄することは霊的姦淫の罪を犯すことです。しかし、恵みの契約に従って生きる者たちは創造主との救いの関係を楽しむことができます。
第5課 祈りの預言者
第5課 祈りの預言者
神が私たちのすべてを知っておられるとすれば、なぜ祈る必要があるのでしょうか。他者のための祈りが神に受け入れられるのはなぜでしょうか。
国家は暗号を用いて自らの大使館、軍隊、その他の団体に指令を送ることによって、国の秘密を守ろうとします。国はまた暗号解読者を雇って、他の国が電波で流す暗号文を解読しようとします。
神は人類に対するメッセージを聖書の中で暗号化して与えておられます。聖書の「福音」は多くの人に隠されていますが(Iコリ2:14)、神が故意にそうしておられるのではありません(ヨハ7:17)。神のみ言葉を開く鍵は信仰を持ってささげる真心からの祈りです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタ7:7)。
「祈りは、全能の神の無限の資材が蓄えられてある天の倉を開く信仰の手に握られた鍵であります。それにもかかわらず、神の子らは、なぜ祈りをおろそかにするのでしょう」(『キリストヘの道』129ページ)。
祈ることを教えてください(エレミヤ書3章22節~25節)
声を出そうが出すまいが、公であれ個人的であれ、祈りは信者と神との会話です。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれることがありますが、それに劣らず「祈りの預言者」でもあります。
質問1
エレミヤが働きを始めるにあたって、神は彼に何と言われましたか(エレ3:12~14)。罪人はどのようにして主に近づきますか。主は悔い改めたユダヤ人たちに何と祈るように教えられましたか。エレ3:22~25
エレミヤ書3:12~14の宣言は(紀元前722年以来、捕囚になっていた)北の諸部族に対するものですが、ユダに対する神の勧告もこれとほほ同じものでした。主はご自分の愛と保護に立ち返る方法を易しい言葉で要約しておられますーあなたの罪を認めて、わたしに立ち返れ。
「主の祈り」はイエスが与えて下さった模範です(「だから、あなたがたはこう祈りなさい」マタ6:9)。親が子供に祈りを教えるように、主はエレミヤを通してご自分の民に祈りを教えられました。
「キリストに行くことは厳しい精神的努力や苦痛を要求するものではない。それはただ、神がみ言葉の中で明示しておられる救いの条件を受け入れることである。……神の恵みにあずかるためには何か良いわざをしなければならないとか、キリストに行く前に自分自身をもっと良くしなければならないとか考えないで、ただ謙虚な心をもって行きなさい。……神の約束に頼って、次のように言いなさい。『主よ、私の罪をお赦しください。私はあなたの助けを必要としています。それが与えられなければ、私は滅びます。私は今、信じます』」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻333、334ページ)。
質問2
もし民が神から与えられた悔い改めの祈りをささげるなら、神は彼らをどうすると約束しておられますか。エレ4:1、2
その祈りがいかに短く、またぎこちないものであっても、神は心から悔い改めてゆるしを求める者たちをつねに喜んで受け入れ、ゆるしてくださいます(ルカ6:37、18:13、14)。イエスはまた私たちに語るべき言葉を教えてくださいます。それは子供のような単純な言葉かもしれませんが、どんな賢者も完全には理解できない深遠な言葉です。
イスラエルの望み(エレミヤ書14章7節~9節)
ユダがひどい日照りに襲われたときに、エレミヤは執り成しの祈りをささげています(エレ14:1~6)。この自然の災害は契約に背いたのろい・さばきの結果でした(エレ3:I~3、申命28:15、22~24)。
質問3
エレミヤは自分自身を民と同一視して、公に何を告白していますか。彼の要求は何でしたか。エレ14:7
エレミヤの告白は完全かつ率直で、自分を正当化するところが全くありません。彼は個人的に「われわれ」の罪と背信を認めています。それらの罪は神に対してなされたもので、数も多く、彼らの罪深さを公に証言しています。「あなたの名のために、事をなしてください」とは、神ご自身の品性のために「行動」(現代訳)してくださいという意味です。神の御名(品性)には、あわれみ、恵み、忍耐、ゆるしという特質が含まれています(出エ34:5~7)。エレミヤはその嘆願の中でこれらの特質にふれ、神に罪をゆるしてくださるように求めています。
質問4
エレミヤはどんな名称を用いて神に呼びかけていますか。それはどんな意味を持ちますか。彼が四つの比喩を用いているのはなぜですか。最後の嘆願が特に神のみ心に訴えるものがあったのはなぜですか。エレ14:8、9
聖書記者の中で神を「イスラエルの望み」と呼びかけているのはエレミヤだけです(エレ17:13参照)。唯一の真の神がおられなければ、ユダは滅びる運命にありました。エレミヤはユダのために執り成し、神が「悩みの時」にいつでもイスラエルの「救主」であられたと言っています(エレ14:8)。彼は明らかに、神が何度もご自分の民を試練や災害から救い出してくださったことを思い出していたことでしょう。過去におけるこれらの救いは明らかにイスラエルに対する神の強い愛を示していました。それなのに、なぜあなたは異邦人のように、あるいは旅人のように、あるいは人を救いえない勇士のように振る舞い、あなたの民の窮状を見過ごされるのか、と祈りの預言者は主張します。胸の張り裂けるような訴えです—われらの唯一の望みである主よ、われらにつけられたあなたの御名はわれらがあなたのものであることを示しています。あなた自身の民を見捨てないでください。
民のために祈るエレミヤ(エレミヤ書14章19節~22節)
エレミヤ書14章に記された二つの祈りは、共に日照りの時にささげられたものと考えられています。これらの祈りには自分の民に対するエレミヤの関心と彼らの救いのための熱心な執り成しの気持ちが込められています。
質問5
悲嘆にくれた預言者はどんな挑戦的で、苦痛に満ちた質問をしていますか(エレ14:19)。彼はここでもどれほど率直な告白をしていますか。エレ14:20
エレミヤも初期の使徒たちと同じくその時代の子でした。彼もまた、神がユダと神殿と都をバビロンの手に渡されるということを信じることができませんでした。神は本当にユダを拒絶されるのでしょうか。
エレミヤは他の何人かの預言者たちと同じく、様々なときに霊的な必要を感じている人々のために熱心に祈りました。これらの預言者とその祈りを思い出してください(創世18:23~32、出エ32:30~32、サム上7:7~12、ダニ9:3~19参照、またヨハネ17:6~26にある弟子たちと私たちのためのイエスの祈りに注目してください)。
質問6
エレミヤは神の品性、御座、契約に関する三つの短い嘆願をもってその祈りを結んでいます。彼はどんな論法を用いていますか(エレ14:21)。これに対する神の応答はどれほど辛らつですか(エレ15:1、6、7)。これを、記録されていない先の祈りに対する神の応答と比較してください。エレ7:16、11:14、14:11
エレミヤにとって真の神の名誉が傷つけられようとしていました。神はその愛のゆえにイスラエルをご自分の特別な民として選び(申命7:7、8)、彼らの神として厳粛な契約に入られました(申命7:9)。こうして、神は彼らの王となられました。異教の軍隊によって彼らが滅ぱされることは、神がその愛において移り気で、その支配において無力で、その契約に対して不忠実であるという印象を与えることになるのでした。
エレミヤは罪に凝り固まったユダの状態を十分に理解していませんでした。ユダはもはやヤーウェを愛さず、その王権を尊ばず、神を他国にあかししていませんでした。主が「あわれむことには飽きた」のはそのためでした(エレ15:6)。
エレミヤの経験は、聖霊の導きに従うと思われる人たちだけのために祈ることに関して何を教えていますか。
祈りの要素(エレミヤ書29章11節~13節)
エレミヤの個人的な祈りに例示されている祈りの要素に目を向けることによって、私たちはより豊かな祈りの生活のための知恵を学ぶことができます。
質問7
エレミヤはどんな態度をもって神に近づいていますか。エレ12:1、4:10、20:7
神は信じる者の友です(ヤコ2:23)。エレミヤはつねに神を尊んでいますが、その祈りは形式的ではありません。彼は自由に彼と語り、疑問について尋ね、時にはユダのために執り成しています。彼は神との絶えざる交わりの中で生きたように思われます(Iテサ5:17、ピリ4:6、7参照)。
質問8
神に祈りを聞いてほしいと望むなら私たちの側にどんな心構えが必要ですか。エレ29:11~13
「私どもは全身をささげて神に従わねばなりません。さもなければ、私どもを神のみかたちに回復する変化は起らないのであります。私どもは、生れながら神に遠ざかっています。……神は私どもをいやし、解放しようと望んでおいでになります。けれどもこれには全き改革、つまり私どもの性質を全く新しくしなければなりませんから、私どもはおのれを全く神にささげなければなりません」(『キリストヘの道』53、54ページ)。
質問9
エレミヤは効果的な祈りに欠かすことのできない信仰を何にたとえていますか。エレ17:5~8(ヘブ11:6比較)
旧約聖書において信仰はしばしば信頼と呼ばれています。キリストは唯一の救いの源です(使徒4:12)。キリストに対する信仰だけが永遠のいのちの源に至る道です。神を信じることによって、私たちは自分の罪を告白し(エレ3:13)、自分の力では自分自身を変えることができないことを認めることができます(エレ13:23、2:22)。
当惑の中で祈る(エレミヤ書32章16節~25節)
祈るにふさわしくない時や場所はありません。神に祈るにふさわしくない問題もありません。自分の悩みや問題を神の前に持ち出したためにエレミヤが神から拒絶されたということも全くありません。
質問10
アナトテにある親戚の土地を買うように神から命じられた時、エレミヤが当惑したのはなぜですか(エレ32:16~25)。バビロニア人の包囲攻撃を受けている時にさえ、神はこのことによってユダにどんな確信を与えようとされましたか。エレ32:42~44
神はすべての祈りに耳を傾けてくださいます。心さえ神に向けられているなら、祈る場所や姿勢はたいした問題ではありません。初期のクリスチャンはユダヤ人の神殿で祈りました(使徒3:1)。神はまた、水ぶねのそばのらくだのかたわらに立つエリエゼルの祈りを聞かれました。ネヘミヤはペルシヤの王と王妃の前に立って祈りました。ヨブは灰の中に座って祈りました。イエスはオリーブ園で永遠にかかわる問題と格闘されました。
質問11
エレミヤは捕囚という困難な境遇にある人々に、だれのために祈るように求めましたか。エレ29:4~7(Iテモ2:1~4比較)
「心をわずらわすことはなんでも神に申し上げましょう。神は諸世界をささえ、全宇宙のすべてを支配したもうのですから、神にとって大き過ぎてささえきれぬというものはないのであります。私どもの平和にかかわることであったならばどんなことでも、小さすぎてお気づきにならないということはありません。私どものどんなに暗い経験も、暗すぎてお読みになれないということはありません。またどんなに難問題でも、神には解釈できないということはありません。神の子らのいと小さき者にふりかかる災も、心を悩ます不安も喜びの声も、くちびるからほとばしる莫剣な祈りも、天の父はことごとく注意し、深い関心を払いたもうのであります」(『キリストヘの道』138ページ)。
預言者としての長期に及ぶエレミヤの働きの中で最後に記されている行為の一つは、他の人々のために祈ることでした(エレ42:1~4)。彼に祈りを求めてきたのは誠意のない非情な軍勢の長たちでしたが、彼らはエレミヤが祈りの人であって、日ごとに神と交わっていることを認めていました。
まとめ
「そもそも祈祷は、魂の呼吸であり、霊的能力の秘訣であります」(『福音宣伝者』英文254ページ)。エレミヤの個人的な祈りと書き物は、すべての信者が持つことのできる真の祈りの生活
について深い洞察を与えてくれます。神は預言者に対するように、私たちに直接的な啓示をお与えになることはありません。しかし、私たちは聖霊の助けによって聖書に与えられている神のメッセージを受け入れることができます。
第6課 神の実物教訓
第6課 神の実物教訓
権威、律法、服従といった言葉がしばしば否定的に受けとられるのはなぜでしょうか。人間の意志を神の権威に従わせることがむずかしいのはなぜでしょうか。
毎年、11月頃になると、黒とオレンジ色のまだら模様をした1億羽のオオカバマダラチョウの大群が、カナダ南東部とアメリカ北東部から4000キロも離れたメキシコ南西部の山々に向けて移住を開始します。科学者たちは、熱気流に乗って地上から900メートルのところを飛ぶチョウの群れを追跡しました。このか弱い、一見無力に見えるチョウたちは誤ることなくその冬の繁殖地を見つけます。3、4世代後には、彼らは北に向けて旅をします。私たちが本能と呼ぶ、その「航空術」は遺伝によるものです。このような自然界の法則に対する一致を見るときに、私たちは改めて創造主の知恵と力に驚かされます。神の法則に故意に背いているのは人間だけです。
神はエレミヤに様々な実物教訓を用いるように命令されました。あるものは自然界から、またあるものは人間の日常生活から取られています。その目的は神の民に、彼らの祝福のために定められた律法を守らせることにありました。
戦場にはせ入る馬(エレミヤ書8章4節~12節)
質問1
神はどんな易しいたとえを用いてご自分の民を悔い改めに導こうとされましたか。ユダは自らの道徳的逸脱に対してどんな態度を取りましたか。エレ8:4~6
主はこれらの聖句の中で、ユダの執ような罪の不条理さを生き生きとしたたとえで示すことによって、彼らと論じ合おうとしておられます。
質問2
神は3番目の例話としてどんな現象を用いておられますか。それはどんな勧告を含んでいますか。エレ8:7
ある種の鳥の移住行動を支配する神のおきては人間の行動を支配する神のおきてと比較されます。
自然科学によれば、この宇宙は物理的法則に従って動いています。ある種の鳥たちが驚くべき行動をすることができるのは、その追伝コードに刻まれた移住本能のおかげです。北極から10度以内の所で生まれたキョクアジサシは生後6週間すると、越冬のために1万8000キロも離れた南極に移住し、夏になると、また北極にある元の営巣地に帰ります。
私たち人間は物理的法則と同時に道徳的法則のもとで生きています。頑迷な罪人である私たちは生まれつきの状態では神のみこころに従うことができません(ロマ8:6~8)。イスラエルは契約による神の花嫁であって、エジプトにおける隷属状態から解放され、注意深く神のみこころを教えられてきました。彼らの問題は知識が欠けていたことではなく、信じ難いほどに信仰が欠けていたことでした。
質問3
神の確かなみ言葉を捨てるとき、人間の知恵はどうなりますか。エレ8:8、9(申命4:5~9比較)
「被造物の最高作品である人間だけに、神は律法の聖なる要求を識別する意識と、聖であって、正しく、かつ善なる律法を愛する心とを与えられた。迅速で完全な服従が人間に求められている。しかし、神は人間に服従を強制されない。人間は自由な道徳的行為者である」(『セレクテッド・メッセージズ』英文第1巻216ページ)。
レカブ人の忠誠(エレミヤ書35章1節~19節)
神は遊牧の民、レカブ人を通して服従についての実物教訓を与えようとされました(レカブ人の歴史については、歴代上2:55、士師I:16、民数10:29、列王下10:15~28、エレ35:11参照)。
質問4
エレミヤがレカブ人を宮の一室に招いたのはなぜでしたか(エレ35:1~5)。レカブ人がエレミヤの勧めを拒んだのはなぜですか(エレ35:6~10)。神はこの実例によって何を教えようとされましたか。エレ35:12~17
飲酒がもたらすさまざまな病気や、町に住むことからくる問題を目の当たりにして、ヨナダブは息子たちに酒を断ち、遊牧生活を送るように命じました。レカブ人は200年以上にわたって先祖の命令を忠実に守ってきました。不思議なことですが、人間は時として神の戒めよりも人の戒めにより忠実です。
「もし子孫を不節制の害から守るために、最良かつ最も効果的な手段を取った善良で賢明な父親の命令が厳格に守られねばならないとすれば、人間よりも聖である神の権威はさらに聰ばれるべきである」(『教会へのあかし』第4巻175、176ページ)。
信仰による義の本質は神のみ言葉に真心から信頼することにあります。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ロマ10:17)。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタ4:4)。義人は信仰によって生き(ロマ5:l)、信仰は神のみ言葉によって始まります。したがって、義は神のみ言葉から来ます。
アブラハムは神のみ言葉を信じ、その信仰が彼の義と認められました(創世15:6)。彼は神の約束に従って行動し、「神はその約束されたことを、また成就することができると確信」しました(ロマ4:21)。今日、神は私たちにみ言葉の民となるように求めておられます。ユダが天の父に対する信仰を捨てたのと対照的に、レカブ人はこの世の父〔ヨナダブ〕に忠実に従いました。そのように、私たちも天の父に忠実に従うべきです。なぜなら、私たちは「神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける」からです(黙示14:12)。
砕かれたびん(エレミヤ書19章1節~15節)
質問5
ユダの陥落から20年後エレミヤは長老と祭司の前でどんな強力なたとえを実演して見せましたか。エレ19:1~10
このたとえの背景がその意味をさらに強いものにしています。一行は「瀬戸かけの門」と呼ばれる東門を通って外に出ましたが、そこは壊れた陶器を捨てる場所だったようです。ヨシヤ王によって廃止されていたにもかかわらず(列王下23:10)、ユダは明らかにベンヒンノムの谷を人身御供の場所、犯罪人を埋葬する場所としてなおも用いていました。
質問6
このたとえは何を教えるためのものでしたか。エレ19:10~13
3節におけるエレミヤの宣言は、「燃える火に油を注ぐようなものであった。……たぶん、そこに立っていた者たちのうちには、火で焼かれた自分の子供の臨終の叫びを思い出した者もいたであろう。エレミヤが彼らを連れ出したその場所は罪なき子らの血で染まっていた。彼らは現行犯で有罪とされ、自ら犯した罪の現場に引き出された。……
みんなの者に見えるようにびんを高く掲げてから、エレミヤはそれを瀬戸かけの門にぶつけて砕いた。むなしく砕ける音に続いて、彼の声が上がった〔11節引用〕。彼ら〔ユダ〕は犯罪人を埋葬する場所を受け入れるであろう。まさにその通りである。しかし、それは彼らの独善を厳しく責めるものであった」(ジョン・ゲスト「コミュニケーターズ・コメンタリー』第17巻151、152ページ)。
ユダは乾燥して壊れやすい粘土の器のようになっていました。順応性のある粘土と異なり(エレ18:1~6)’偉大な工芸家である神はもはやこの粘土をお用いになることができませんでした(エレ19:10、II)。神は彼らにご自分の義を世界に宣べ伝える器となるように意図しておられました。それなのに、彼らは自らの器を世のあらゆる罪悪で満たしました。
砕かれたびんのたとえは、捕囚後に成就する回復の約束を無効にするものではありませんでした。砕かれて地面に散乱している瀬戸かけはユダの運命の日を「大声でふれて」いました。粘土の器が修復できないように、ユダの霊的生命を回復する機会はもう残っていませんでした。
亜麻布の帯(エレミヤ書13章1節~11節)
質問7
神はエレミヤに何を買って、身に着けるように言われましたか(エレ13:1、2)。それは何を表していましたか(11節)。とくに帯が選ばれたのはなぜですか。エレミヤはそれをどこに隠し、あとで取ってきましたか。エレ13:3~7
モーセは言いました。「われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか」(申命4:7)。雲と火の柱は荒野のイスラエルを導き(出エ13:21、22)、神は幕屋にお住みになりました(25:8)。ユダはこれらを通して神の求めておられる親しい交わりについて学ぶ必要がありました。
ユーフラテス川はシリア・パレスチナとメソポタミヤの境界でした。そこまで行くには、最も近い所でも560キロありました。2往復すれば、2240キロです。ユーフラテスという言葉は、ユダがユーフラテス川のほとりにあるバビロンに連れて行かれることを暗示していました。
質問8
そこなわれた帯は何について教えていましたか。エレ13:8~11
過度の自己愛である高慢は人間の罪の根源であって、これらのたとえはこの高慢という隠された罪について教えていました。鳥はその移住本能に逆らうことがありませんが、人間の高慢は聖霊の導きに逆らおうとします。高慢な心は神の意思よりも自分の欲望を満たそうとします。明らかな滅びに直面しても、かたくなに自分の意思を貫き通そうとします。神との関係を受け入れますが、それは神の賜物を受けるためであって、神の権威に従うためではありません。商慢な心は神の負わせられるくびきを受け入れません。
「たいてい、ほとんど絶望的で、いやしがたい罪は、自分の見解に対する誇り、自負心である。これは、すべての成長のじゃまになる。人が品性に欠陥を持っていて、しかもこれを認めることができない場合、自己満足が心にしみ込んでいて、自分の短所が見えない場合に、どうして清められることができるだろう」(『教会への勧告』上巻187ページ)。
木のくびき(エレミヤ書27章1節~15節)
この実物教訓が実演された時には、1万人のユダヤ人がすでに捕囚となっていました。真の神の名においてネブカデネザルに忠誠を誓ったゼデキヤが、ユダを統治していました(歴代下36:13)。
質問9
エレミヤ書27:2にはどんなたとえが演じられていますか。それはイスラエルの隣国に何を伝えることを目的としていましたか。エレ27:3~11
エレミヤは自分のために一つのくびきを作り、また主君に贈るためのくびきを各使者に一つずつ作りました。しかし、エレミヤ自身は使者たちの前でしか自分のくびきを負わなかったかもしれません。外国の使者たちは一致してバビロンに反逆することについて討議しました。
これらの聖句には神のあわれみとためらいが示されています。エレミヤはユダの捕囚を予告しました。従う国民は自分の母国にそのまま残ることができるというのが、その約束でした。
質問10
バビロンの主権に従い、国を完全な滅びから救うように、エレミヤはだれに嘆願しましたか。エレ27:12~15
「あわれみ深い神が、反逆する民に課せられる最も軽い罰は、バビロンの支配に服することであった。そしてもし彼らが、この服役の命令に逆らうならば、彼らは神の厳しい懲罰をあますところなく受けなければならないのであった。エレミヤが降伏のくびきを彼の首にかけて神のみこころを知らせたときに、諸国から会議に集まった人々の驚きは、たいへんなものであった。エレミヤは、断固とした反対に遭っても、降伏についての彼の所信をまげなかった」(『国と指導者』下巻61ページ)。
服従することは神のみこころであり、また健全な政策でした。エルサレムと神殿は言うに及ばず、数千人の生命が危険にさらされていました。神のみこころと国民の安全を忘れたゼデキヤとつかさたちの頑迷な高慢は、偽りの愛国いから出たものでした。彼らはその頑迷さのゆえに不安定なユダヤ国家の崩壊を招いたのでした。
まとめ
抽象的な論理は理解を困難にしますが、例話や具体的な事物を用いるなら、その意図を正しく伝えることができます。イエスがよくたとえによって御国の原則を教えられたのはそのためです。神がエレミヤに命じて視覚教材によってご自分のメッセージをユダに伝えようとされたのもそのためです。この視覚教材の中には、移住する鳥、レカブ人、粘土のびん、亜麻布の帯、木のくびきがありました。そのどれもが特定のことを強調していましたが、同時に何らかの点で人間に共通の問題、つまり高慢について教えていました。もし私たちが喜んでキリストの主権に従うなら、神は私たちのうちに謙虚で率直な心を植えつけてくださいます。それによって、私たちは喜んで神のみこころを行うようになります。
第7課 新たな出発
第7課 新たな出発
失敗は決して喜ばしいことではありません。しかし、私たちの失敗は成功の踏み台になる場合があります。霊的な世界においてはとくにそうです。
子供たちから「ウィリーおじさん」と呼ばれていたウィリー・デービスは、ジョージア州のある小学校の心優しい用務員でした。子供たちとその先生は彼のいのちでした。その「ウィリーおじさん」が最近、亡くなりました。
デービスは読み書きができませんでしたが、恵まれない子供たちに新たな出発をさせてやりたいと思っていました。彼は1学年の恵まれない子供たちを自分の生命保険金の受取人に指定しました。
「ウィリーおじさん」の夢を実現するために、その遺産の一部が備品を購入するためにすでに用いられ始めています。
これらの恵まれない、幼い子供たちに対するウィリー・デービスの思いやりは、反逆的なユダに対する神の大いなる関心をよく表しています。これらの子供たちとは異なり、ユダは初めからあらゆる点で恵まれていました。しかし、彼らは偶像崇拝を求めたために背信に陥りました。彼らは一時期、捕囚になりますが、それでも神は彼らに新たな出発をさせようと望まれました。
もう一つの器(エレミヤ書18章1節~12節)
質問1
主はご自分のゆるしと再創造の力を学ばせるためにエレミヤをどこにつかわされましたか。主はどんな挑戦的な質問をユダにされましたか。エレ18:1~6
使徒パウロは、「わたしたちは、彼〔サタン〕の策略を知らないわけではない」と言っています(IIコリ2:11)。敵の計画は私たちに罪を犯させ、罪悪感で押しつぶし、神の救いの恵みが無力であると信じさせることにあります。
ろくろに向かって仕事をしている陶器師の実物教訓は、国家的な改革がまだ可能であったエホヤキムの治世の初期に与えられたと思われます(エレ36:1~3参照)。陶器師が作ろうとした最初の器は失敗でした。しかし、彼は柔らかい粘土をもういちどこねて、新しい作品を作り上げました。
質問2
陶器師のたとえは被造物に対する神の主権を強調しています。陶器師がこのたとえの中で器を作り直しているのはなぜでしょうか。そこにどんな重要な原則が例示されていますか(エレ18:7~10)。ユダは神の警告と勧告に対して何と応答しましたか。エレ18:11、12
神は個人の選択権を侵害されません。神はご自分の民をゆるし、彼らに新たな出発をさせようとしておられました。しかし、その選択は彼らにゆだねられていました。彼らが悔い改めるなら、主はユダを再興し、彼らが拒むなら、主はユダを滅ぼされるのでした。神の契約の約束とさばきは神の勧告に対する人間の応答にかかっています。
エレミヤ書18:8、9において、ユダの選択に対する神の応答が「思いかえす」という言葉で表現されています。しかし、神の悔いは人間の悔いとは異なります。「人間の悔いは心の変化を言うのである。神の悔いは環境と関係の変化を意味する」(『人類のあけぼの』下巻300ページ)。
残念ながら、ユダの民の応答は絶望の叫びではなく、反抗の叫びでした。彼らはあからさまな軽べつをもって、新たな出発を促す恵み深い神の申し出を拒みました。私たちは彼らの足跡に従う必要はありません。悔い改めた罪人として、私たちは偉大な陶器師である神の御手のうちにとどまり、みこころのままに役に立つ器に造り変えていただくことができます。
対応するたとえ(ルカによる福音書15章11節〜24節)
エレミヤの時代から600年後、イエスは放とう息子のたとえを語られました。その教えは陶器師の実物教訓と似ています。どちらのたとえも、かつては神の愛を喜んでいたのに、利己心という「遠い国」に出て行ってしまった人々に語りかけています。それらは共に悔い改めた罪人に新たな機会を与えようとする神の愛の深さを表しています。
質問3
イエスはこのたとえの中で、父親の息子に対する計画に背く次男の姿をどのように描写しておられますか。ルカ15:11~16
この若者は家庭生活に束縛されるのがいやになりました。彼は幸福に関して自分なりの考えを持っていました。彼は父親の財産を望んでも、その権威に従うことを嫌いました。自分を幸福にしてくれる権威を捨てて、自分を滅びに導く権威の奴隷になりました。
「外観がどんなものであろうと、自己を中心にしている人の生活は、浪費である。だれでも神を離れて生きようとするならば、自分の財産を浪費するのである。すなわち貴重な年月を浪費し、思いと心と魂の力を浪費し、自分を永遠の破産者にしようとしている」(『キリストの実物教訓』l81ページ)。
質問4
放とう息子を正気に返らせたものは何ですか。彼はどうしようと決心しましたか(ルカ15:17~20)。父親は悔い改めた息子をどのように迎えましたか(ルカ15:20~24)。このことは陶器師の経験とどこが似ていますか。エレ18:4~6
「哀れな罪人が立ち返り、自分の罪を捨てようと望むとき、主は彼が海い改めをもってみもとに来るのを厳しく引き止められるようなことがあるだろうか。そのようなことは絶対にない。……天の父なる神についてそのような考えを抱くことほど、あなた自身の魂を傷つけることはない。神についてのそのような観念は私たちの霊的生命に絶望感を与え、神を求め、神に仕えようとするあらゆる努力を妨害するものである。私たちは神を、宣告を下そうと待ち構えている裁判官のように考えてはならない。神は罪を嫌われる。しかし、神は罪人に対する愛のゆえにキリストにおいてご自身をささげられた。それは、望む者がすべて救われて、栄光の王国で永遠の祝福にあずかるためである」(『教会へのあかし』第5巻633ページ)。
ペテロのゆるし(ルカによる福音書22章61節、62節)
陶器師の経験(エレ18:I~12)も放とう息子の物語(ルカ15:11~24)も、たとえでした。それらが描いているのは神の計画であって、神の実際の行為ではありません。しかしながら、聖書には私たち自身のように神によって造り変えられた多くの人々のことが記されています。
質問5
ペテロの失敗はどんな欠点によるものでしたか。彼は何を最も必要としていましたか。ルカ22:31~34
質問6
ルカ22:54~60を読んでください。キリストはペテロの臆病な態度にどのように応答されましたか。ペテロはそれにどう応答しましたか。彼が悲しみのあまり自殺しなかったのはなぜですか(61、62節)。キリストはどのようにしてペテロを再出発させられましたか(ヨハ21:15~22)。まもなくペテロのうちにどんな変化が起こりますか。使徒4:13
ペテロの霊的状態が危機を迎えようとしていました。彼の失敗の原因として、(1)自分自身を高く評価していたこと(マタ26:33、35)、(2)不規則な祈りの生活(マタ26:40、41)、(3)自己犠牲の十字架を拒んだこと(マタ16:21~24)、(4)自分自身を過信していたことが考えられます。他人のことのように聞こえるでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身のことかもしれません。
「ペテロを救った同じあわれみが、試練におちいったすべての魂にさし伸べられている。人に罪を犯させ、そのまま、絶望と恐怖の中に放任して、ゆるしを求めることを恐れさせるのは、サタンの特別の策略である。しかし神は、『わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ』といっておられるのであるから、何を恐れることがあろうか(イザヤ書27:5)。
キリストは、ご自分のさかれた体を提供して、神の嗣業を買いもどされた。……〔ヘブ7:25引用〕。キリストは、彼の清い生涯、服従の生活、カルバリーの十字架の死とによって、失われた人類のためにとりなしをされた。そして、今わたしたちの救いの君は、単なる嘆願者としてではなくて、戦いに打ち勝った勝利者として、わたしたちのために、とりなしをなさるのである」(『キリストの実物教訓』136ページ)。
第一のものを第一にする(エレミヤ書7章1節~7節)
質問7
徹底的な変化のために、エレミヤはまず何を求めましたか。この割礼は何を意味していましたか。エレ4:3、4
いつまでも古い生き方や経験に固執しているなら、新しい霊的出発は不可能です(エペ4:22参照)。キリストを信じる者にとって、これは重要な「第1歩」です。
エレミヤの説教の基礎となっていたのは「律法の書」と言われるモーセの五書、とくに申命記でした。モーセによれば、霊的な割礼には神に対するかたくなで強情な態度を捨て(申命10:16)、その代わりに神と神のみこころに対する真心からの献身を養う(申命30:6)ことが求められました。
質問8
のちに神殿の前で説教したときにも、エレミヤは徹底的な改革を求める神の要求をどのように繰り返しましたか。エレ7:1~7
異教の偶像崇拝がまことの神の礼拝に取って代わっていましたが、形式的な神殿礼拝だけは続いていました。しかし、態度と生活が徹底的に変化しないかぎり、ユダに新たな出発は起こらないのでした。
「流れが清くなるには、心の泉がきよめられなければならない。……クリスチャンの生活は古いものを修正したり改良したりすることではなくて、性質が生れ変ることである。自我と罪に対する死があり、まったく新しいいのちがある。この変化は聖霊の効果的な働きによってのみ行われる」(『各時代の希望』上巻201、202ページ)。
質問9
いろいろな所で教えられている新生の経験(エゼ36:26、27、ヨハ3:1~17)が、新たな出発に欠かせないのはなぜですか。エレ13:23
信仰生活を喜びの経験でなく苦しみの経験と感じる理由の一つは、心の中で罪と偶像を大事にしながらキリストに従おうとしているからです(マタ6:24、『青年への使命』112ページ参照)。
将来に目を向ける(エレミヤ書24章1節~10節)
ユダは陶器師と粘土の実物教訓に示されていた新たな出発についての申し出を拒みました(エレ18:12)。しかし、神は捕囚という訓練を通してご自分の民に新たな出発をさせたいと望んでおられました。
質問10
紀元前597年の捕囚からしばらくして、エレミヤにどんな不思議な幻が与えられましたか(エレ24:1~3)。だれが捕囚となっていましたか。列王下24:10~16
二つのかごに盛られたいちじくはバビロンとユダに分割されたユダヤ人社会を表していました。
質問11
捕囚民は神の怒りにあい、残った人々は守られたのだと、私たちは考えるかもしれません。しかし、神はだれを「良いいちじく」とみなしておられますか(エレ24:5)。彼らに対する神の計画は何でしたか。6、7節
バビロン捕囚は容易にユダヤ教と真の信仰を根絶やしにしていたはずです。バビロンのユダヤ人は大部分、背信していましたが、彼らとその子孫には国家再建の可能性が残されていました。エレミヤの書き物を通して(ダニ9:2)、またとくにエゼキエルの働きを通して(エゼ2、3)、神は長い捕囚のあいだ真理の光をともし続けられました。残りの者たちは神の恵み(新しい心)を受け入れ、その契約関係を更新するのでした(エレ24:7、エゼ36:24~28)。神は彼らを再びパレスチナに住まわせられるのでした。
質問12
神はエレミヤに対してバビロンにいるユダヤ人に手紙によってどんな勧告を与えるように告げられましたか(エレ29:1~10)。神が彼らに建て、植え、めとり、家族を育てるように望まれたのはなぜですか。神はどんな霊的訴えをされましたか。11~14節
神の摂理は私たちには不可解に思われます。終わりに思われるものがしばしば新たな出発点となります。精錬者なる神の用心深い監視のもとで、戦争と追放という厳しい試練が銀(エレ24:5~7)からカス(8~10節)を取り除き、新たな出発を可能にさせつつありました。
まとめ
粘土の器を造り直そうとしている陶器師のたとえ、放とう息子についてのイエスのたとえ、キリストを拒んだあとで立ち直ったペテロ―これらはみな一つの重要な教訓、すなわち失敗や背信は必ずしも有意義な人生の終わりではないことを教えています。
「やり直しのきく国」があります。真の悔い改めをもって神のみもとに来る者たちを完全に救うことはキリストの栄光です。
第8課 安息日の神聖さ
第8課 安息日の神聖さ
エレミヤ書はしばしば十戒に言及しています。とりわけ安息日の神聖さが強調されています。安息日を守ることが信者の神との契約関係にとって重要なのはなぜでしょうか。
上手な泳ぎには一定の休息期間があります。腕のかき、足のけりも大切ですが、それ以上に、もし腕と足を定期的に休ませなければ、泳ぎ手はすぐに疲れてしまいます。同じように、私たちの霊性、知性、からだも定期的な休みを必要とします。さもないと、私たちの能力は失われてしまいます。
このように、神は日ごとの休みと同様に、週ごとの休みも計画されました。安息日はエデンで与えられました。安息日を正しく守ることは創造主をたえず覚えさせ、偶像崇拝に陥ることを予防し、神との救いの関係を強めてくれます。ユダヤ人によって曲げられ、多くのキリスト教会によって他の日に変えられてしまったとはいえ、安息日はなお霊とまこととをもって神を礼拝する者たちにとって祝福となり続けます。
労働時間—聖なる時間(エレミヤ書17章19節~27節)
質問1
イエスと同じく(ルカ6:1~9)エレミヤも真の安息日改革者でした。エレミヤは門から門をめぐり、王と民に何と訴えましたか(エレ17:19~22)。もしユダが安息日を霊的な喜びと賛美の日として忠実に守るなら、どんな祝福を受けると、神は約束されましたか。エレ17:24~26
ユダは万物の創造者である真の神を礼拝すると告白していたので(エレ10:10、12)、安息日は重要な礼拝の日でした。エレミヤは安息日の守り方に関して特別なメッセージを与えられました。
肉体的なものであれ知的なものであれ、労働は個人の幸福に欠かせないものです。しかし、人間はまた霊的な必要を持った存在です(Iテサ5:23)。神はエデンにおいて、ご自分との特別な交わりの時として週の7日目を聖別されました。しかし、ユダは金銭的な利得のために自らの霊的生命を犠牲にする道を選びました。
「安息日を守ることの中には大きな祝福が含まれているのであって、神は、安息日が、われわれにとって喜びの日であるように望んでおられる。……われわれの天の父は、安息日を守ることによって、人類の間に、彼ご自身に関する知識を保存したいと望んでおられるのである。彼は、安息日がわれわれの思いを、真実な生ける神である彼に向け、彼を知ることによって、われわれが生命と平安を得るように願っておられる」(『教会への勧告』上巻85ページ)。
質問2
イスラエルの歴史において、どんな罪が繰り返されてきましたか。アモス書8:4~7(前8世紀)をネヘミヤ記13:15~18(前5世紀)と比較してください。霊的健康を損なうこの罪への衝動を打ち消してくれるものは何ですか。マタ6:24~33、Iテモ6:6~10
悲しいことですが、聖日に神を礼拝することをしぶることは、一般的によく見られる罪です。多くの人々は安息日に世的な利益を求めています。聖日を単なる休日、自己中心的な楽しみを追求する日にしている人々もいます。これらはみな、神との満たされた関係をクリスチャンから奪うものです。真の満足、信頼、心の平安を犠牲にすることは必然的に霊的な破たんをもたらします。
創造者のしるし(出エジプト記31章16節、17節)
質問3
神は安息日を何と呼んでおられますか。それはどんな重要な出来事と関連づけられていますか。出エ31:16、17
「わたしがあなたがたの先祖に命じたように安息日を聖別して守りなさい」(エレ17:22)。この「先祖」という言葉は人々の心をモーセの書に向けさせました。
7日目安息日の順守は人を区別する役目をします。それは古代イスラエルを異教の隣国と区別しました。そして今日も、神の十戒のすべてを守る人々を、それらを否定するかその一部しか認めない人々と区別し続けます。
質問4
7日目安息日の順守はいつ、どのようにして定められましたか。創世2:1~3
「『創造の記念としての安息日の重要さは、われわれがなぜ神を礼拝すべきであるかという真の理由を常に考えさせるところにある』。すなわち、神は創造主であって、われわれは神に造られたものだからである。『それゆえに、安息日は、礼拝の根底そのものである』。……神がわれわれの創造主であるという事実が、神を礼拝する理由として存続するかぎり、安息日は、そのしるし、また記念として、存続するのである」(『各時代の大争闘』下巻156、157ページ)。
質問5
万物を創造し、7日目安息日を制定されたのは三位一体の神の、特にどなたですか(ヨハ1:1~3、10、ヘブ1:1~3、コロ1:3、16、17、ルカ6:5)。安息日はだれのために制定されましたか。マル2:27
神の存在に関しては三つの基本的な立場しかありません。第1は一神論(唯一の神がいる)、第2は無神論(神はいない)、第3は汎神論(神はすべての物の中にいる)です。大部分の人々はこれまで何らかの形の汎神論を信じてきました。現代の多くの世俗的人本主義者は「ニュー・エイジ」汎神論を受け入れています。また、現代の世界には多くの無神論者がいます。
安息日順守者は、人格を備えた神、聖書の永遠の神を信じています。この神は6日で世界を創造し、私の人生に計画と目的を持っておられます。
聖別者のしるし(出エジプト記31章13節、14節)
質問6
ここで学んでいる出エジプト記の聖句の中で、モーセは安息日をまずあがないと、次に創造と結びつけています。彼は初めに安息日を何と呼んでいますか。出エ31:13、14
安息日と結婚はエデンで始まりました。罪の侵入以後、安息日は新しい意味を持つようになりました。それは救いの象徴となったのです(出エ31:13)。
イスラエルが神によって直接、統治される神権政体であった頃、安息日を汚すことを含め、道徳律の重大な侵犯は死をもって罰せられました(民数15:32~36)。
「聖別する」あるいは「神聖視する」という動詞表現の基本的な意味は、「分離する」あるいは「聖なる目的のために分ける」ということです。罪人がその人生を神の権威にゆだねるとき、主は彼を罪の生活から分離されます。イスラエル人は完全に神に属する「聖なる」民となるべきでした(レビ19:2参照)。神とイスラエルの契約関係は罪のゆるしと共に改革の力を与えました。聖書によれば、罪は純潔でないこと、神聖でないことです(詩51:2、10参照)。安息日は純潔、神聖、罪からのきよめのしるしです。
「神が創造主であることのしるしとして、この世界に与えられた安息日は、また彼が聖別する神であるとのしるしでもある。万物を創造された力は、人を彼ご自身に似せて再創造する力である。安息日を清く守る人々にとって、それは清めのしるしである。真の清めは神との調和であり、彼と同じ品性になることである」(『教会への勧告』上巻86、87ページ)。
質問7
安息日の真理はどんな意味において、周辺諸国に対するイスラエルの伝道活動の一部となるはずでしたか。イザ56:6、7
クリスチャンの安息日順守者は、キリストにある霊的安息を見いだしたことを証します。私たちはキリストの功績に信頼することによってわざによる義から解放され、無償で彼の義を与えられます
(ヘブ4:1~11)。安息日順守はキリストを信じる信仰による救いのしるしです。それはまた、私たちの信仰が聖日にキリストと交わることによって強められる手段です。安息日の休みと礼拝はキリストにある霊的休みを深めてくれます。
安全のしるし(出エジプト記31章16節)
十戒の一部である安息日の規定は、神と神の民との契約の中で重要な位置を占めています。
質問8
創造とあがないのしるしに加えて、神は安息日をどんな真理と結びつけておられますか。出エ31:16
「割礼の契約」(使徒7:8)は、実はアブラハムに対する契約の「しるし」でした(創世17:11)。安息日の「永遠の契約」はシナイにおける契約のしるしでした。神はこの契約が永遠の契約の更新となるように意図されました(創世17:7、9、19を出エ19:5、詩105:8~10と比較)。割礼は「肉」のしるしであり、安息日の真の順守は心のしるしでした。割礼は一時的な儀式でしたが、十戒に含まれる安息日は永遠のものでした。
「イスラエル人に対するように、安息日は、われわれに対して『永遠の契約として』与えられた。神の聖日を尊ぶ人々にとって、安息日は、神が彼らを、彼の選民として認めておられるという、しるしである。それは、神が彼の契約を、彼らに対して守られるという保証である。神の統治権のしるしを受け入れる者はすべて、自分を神聖な永遠の契約下に置く。その人は服従という黄金の鎖に自分を結び付けるが、その鎖の一つ一つの輪が約束なのである」(『教会への勧告』上巻87ページ)。
質問9
神の永遠の契約はすべて、どんな思想がその中心にありますか。創世17:7、8(アブラハムに対する契約)、レビ26:9、12、エレ11:3、4(シナイ山における契約)、エレ31:33(新しい契約)
妻に対する忠実な夫の約束と同じく、ご自分の民に対する神の約束は安全を意味します。「わたしはあなたがたの神となる」。神は信じる者の保護者、供給者、支持者、慰安者です。神のすべての富が契約関係にある信者の幸福のために約束されています。安息日を守ることは神の子らの心を定期的に、愛とあわれみに満ちた天の父に向けさせてくれます。
「安息日は神と神の民とを結ぶ黄金の留めがねである」(『教会へのあかし』第6巻351ページ)。
解放のしるし(申命記5章12節~15節)
神はイスラエルを世界に対するご自分の証人としてお選びになりましたが、そのとき彼らに聖書(ロマ3:1、2)と救いに関するすべての真理(ロマ9:4、5)をおゆだねになりました。イスラエル国民の経験は古代の安息日にもう一つの意味を付加しました。
質問10
イスラエルが安息日を守ることには、ほかにどんな理由がありましたか。申命5:12~15
「エジプトびとはイスラエルの人々をきびしく使い、つらい務をもってその生活を苦しめた」(出エ1:13、14)。奴隷状態からの奇跡的な救出は決して忘れてはならない救いでした(出エ6:6、7)。肉体的、霊的休息の記念としての安息日は必然的に、この目覚ましい救出の記念となるのでした。
「安息日は、私たちが天の父なる神をより深く知る幸いな特権を与えられている日である」(『SDA聖書注解』第1巻972ページ)。
質問11
イスラエルは安息日のためにどんな備えをするように教えられていましたか。出エ16:4~30(ルカ23:54~56比較)
イスラエル人は「備え」の日(金曜日)によってすべての必要を整え、安息日を礼拝と瞑想と交わりのために用いることができました。備えの原則は今も有効です。
「安息日の準備は、金曜日に完成するようにしなさい。すべての衣服が準備され、料理も全部終わるように取り計らいなさい。靴はみがき、おふろはすませなさい。そうすることは可能である。それを習慣にすれば、できるのである。安息日は衣服の修繕をしたり、食物の煮たきをしたり、快楽を求めたり、あるいは、その他どんな世的な事のためにも使ってはならない。日没前に、すべて世俗的な仕事はやめ、通俗の読み物は見えない所に片付けてしまいなさい。両親よ、あなたがたのすることとその目的を、子供たちに説明し、安息日を戒めに従って守るための準備に彼らを参加させなさい」(『教会への勧告』上巻90ページ)。
まとめ
ユダは偶像崇拝に陥ったため、もはや神の安息日を守る必要性を認めませんでした。神は安息日順守が区別のためのしるしとなるように意図されました。安息日を守る者たちはそれによって創造者、救い主、保護者としての神に彼らの愛と忠誠を示すのでした。安息日はキリストと教会のきずなを強め、肉体的、霊的必要を感じている人々のために働く特別な時です。
第9課 神の訓練
第9課 神の訓練
神のさばきのわざはいつでも救済的な目的を持っています訓練を必要としている人にとっても、また罪ある人々によって苦しむ無実の人にとっても。なぜそうなのでしょうか。
ビル・ベンダルは良い子でした。隣人や友人たちは、若いビルが「非行少年グループ」と共に盗んだ車を運転していて逮捕されたと聞いても、とても信じられませんでした。彼らは盗んだ車を売らずに、ただ乗り回して遊んでいただけでした。
裁判の席で何人かの隣人たちがビルの証人となりましたが、彼を助けることはできませんでした。法廷は彼を長期間、感化院に送りました。ビルはそこで自分の過去を反省し、将来は別の生き方をしようと決心しました。訓練は彼の人生を変えたのです。
裁判官がビルに求めたことを、神はユダの市民ひとりひとりに求められました。それは生き方を変えるということでした。彼らは70年という長い期間、パレスチナの故郷に帰ることができませんでした。訓練は厳しいものでしたが、その効果はありました。偶像崇拝の酔いからさめたユダの民は新たな出発をすることができました。神は心から悔い改めてやり直そうとする罪人を喜んでおゆるしになられます。これ以上に神がお喜びになることはありません。
70年(エレミヤ書25章1節~14節)
神の訓練は愛の心から出たわざであって、圧制者のそれではありません(箴3:11、12参照)。
質問1
20年以上もユダのために慟いた後に、エレミヤらの預言者たちが見たものは何でしたか(エレ25:1~7)。ついにどんな宣告が下されましたか。エレ25:8~14
「エレミヤはエホヤキムの治世の初めから、彼の愛する国を破壊から救い、人々を捕囚から救おうと望むことができなくなった。しかし国家が全滅の危機にひんしている時に、彼は黙っていることは許されなかった。彼は神に忠誠をつくした人々が善事を続けるように励まし、もしできることならば、罪人が悪から離れるように勧めなければならなかった」(『国と指導者』下巻34ページ)。
70年の捕囚はふつう、紀元前605年におけるユダヤ人の第1回バビロン捕囚をもって始まると考えられています(エホヤキムの第3年、ネブカデネザルの即位年 ダニI:I~4)。
神のあわれみによって、ユダに対するさばきは段階的に下っています。これは、悔い改めがなお可能であることを示していました。ユダヤ人の2回目のバビロン捕囚は紀元前597年に起こりました。最後の捕囚は紀元前586年のことで、このときエルサレムと神殿が破壊されています。70年の期間は、ペルシヤのクロス王がユダヤ人のパレスチナヘの帰還を承認した時をもって終了しました。この布告は紀元前537年に公布され、同536年におけるユダヤ人の事実上の帰還をもって施行されました。したがって、70年の期間は紀元前605年から同536年ということになります(それぞれの年を含めて数える)。
質問2
捕囚民はこの期間、何をするように勧められましたか(エレ29:4~7、10)。彼らはユダの地をどのようにみなすべきでしたか(歴代下36:21―レビ26:33~35、25:1~7比較)。エレミヤの預言は後年のダニエルにどんな影響を与えましたか。ダニ9:2~20
イエスは罪のうちにある者たちをどのように扱うように教えられましたか(マタ]8:15~35参照)。神がご自分の民を扱われる方法は私たちのお互いに対する態度とどのように比較されますか。神がご自分の方法に従うように望まれるのはなぜですか。
家庭の訓練は一時的な場合もあれば長期に及ぶ場合もあります。ユダにとって後者の方がより効果的だったのはなぜですか。
怒りの杯(エレミヤ書25章15節~29節)
質問3
国々の民に飲ませられる怒りの杯は何を象徴していましたか。エレ25:15、16(イザ51:17、22、黙示14:10、16:19比較)
神の「怒り」は、私たち人間がよく罪深い衝動や感情の結果として経験する利己的な怒りとは異なります。神の怒りはあらゆる種類の悪に対する聖なる神の反応です。
質問4
特にどの国々が自らの罪のためにさばきを受けることになっていましたか。最大の責任はだれにありましたか。その理由は何でしたか。エレ25:17~29
ここに列挙されている中東のおもな国々はユダヤ人と血縁関係にあった民か、いわゆる「肥沃な半月地域」に住んでいた民です。さばきはユダヤ人から始まりました。彼らが神の要求を最もよく理解していたからです(Iペテ4:17参照)。2番目にあげられているエジプトはユダの政治的同盟国でした(エレ37:5、7)。バビロンの征服のための戦いはこれらの国民をその罪のために罰するために許されたものでしたが、バビロン自身もその罪のためにさばきを受けるのでした(エレ25:26、50章、51章)。
質問5
ユダと異邦の国々は強制的にさばきの杯を飲まされました。自発的に飲んだのではありません(エレ25:15、17、28)。イエスはご自分に与えられたさばきの杯をどうされましたか。マタ26:39(IIコリ5:21、ガラ3:13比較)
ユダとその周辺諸国に下ったさばきは矯正的なものでした。キリストに下ったさばきはあがないでした。彼は私たちの罪のためのあがないをされたのでした。「正義の剣はさやから抜かれ、不義に対する神の怒りが神のひとり子、人の身代わりであるイエス・キリストに注がれた。……人の身代わりであり保証であるキリストに応報的な正義を加えられた力は、同時に罪深い世に下っていたはずの恐るべき怒りの下で苦しまれるキリストを支え、力づけた力でもあった。キリストは神の律法の違反者たちに代わって死のうとしておられた」(『SDA聖書注解』第5巻1103ページ、エレン・G・ホワイ卜注)。
二重の焦点(黙示録19章11節~2I節)
神のさばきについての旧約聖書の描写はしばしば、実際の出来事よりも厳しい言葉で表現されています。このことは、局地的、部分的な神の怒りはもちろんのこと、同時に諸国民に対する最終的な将来のさばきをも預言者に示されていたことを暗示しています。この意味において、これらの聖句は二重の焦点を持っています。
質問6
主はバビロンの攻撃を受けて壊減するユダと諸国民の軍隊をどのように描写しておられますか(エレ25:28~33)。この預言はどのように完全に成就しますか(黙示19:11~21―イザ11:4、IIテサ2:8比較)。エレミヤ書4:19、20、23~31は終末の時においてどのように成就しますか。黙示20:1~3
ここに描写されているような破壊がバビロンによる征服において全く起きていないことから、ある人たちはエレミヤが詩的誇張を用いたのではないかと言います。恐らく、彼は局地的なバビロンのさばきを越えて、反逆したこの地球の最終的な滅びを見せられたのでしょう。「主の日」を描写するにあたって、預言者エレミヤは二重の焦点を用いています。「預言者エレミヤは、神の大いなる日を待ち望んでこう宣言している。『わたしは地を見たが、それは形がなく、またむなしかった』」(『各時代の大争闘』下巻442ページ)。これは千年期をさしています。
質問7
神の行為はすべて目的を持っています。過去のさばきは今日の私たちに何を教えてくれますか。IIペテ2:6、9、10、ユダ5~7
「恵みの申し出を軽んじる人は、天の帳簿に負債として記入された大きな数字を考えてみるがよい。そこには、国家、家族、個人の不信の記録がある。神は、それらの記録が続くかぎり、忍耐して、悔い改めをうながし、許しをお与えになる。しかし、記録が満ちるときがくる。そのとき、魂の決定は下され、人間は、自分の選択によって自分の運命を決定する。こうして、刑罰執行の合い図がくだされる」(『人類のあけぼの』上巻174ページ)。
諸国民に対する託宣(エレミヤ書46章1節~6節)
エレミヤ書の3箇所に、ユダの周辺異教諸国に対する託宣が与えられています。その一つ(エレ25:15~28)には、彼らが神のさばきの杯を飲むことが、もう一つ(エレ46~51章)には、そのうちの10の国々に関する広範囲に及ぶ預言が、そしてゼデキヤの治世に与えられた最後の託宣には、これらの国々のいくつかがバビロンのくびきに屈することが記されています(エレ27:2~11)。
質問8
特別な託宣が与えられている10の国々の名前をあげてください。エレ46:1、2、47:1、48:1、49:1、7、23、28、34、50:1
イスラエル人はこれらの国々のうちの四つ、すなわちモアブ人、アンモン人(ロトの子孫)、エドム人(エサウの子孫)、ケダル人
(イシマエルの子孫、創世25:13)と血縁関係にありました。ところが、これらの国々は周辺の異教信仰を受け入れ、独自の偶像崇拝を生み出しました。それらのうちのある国々はイスラエルを悩ます敵となり、ある国々はイスラエルの宗教に悪い影響を及ぼしました。
質問9
これらの国々のうちの三つが滅びたことの原因としてどんな罪があげられていますか(エレ48:29、42、49:7、15、16、50:29)。オバデヤはエドムに関してどんな託宣を与えられていますか(オバ1~4)。エレミヤと同時代の預言者エゼキエルも、諸国民に対する預言を与えられています。ユダの周辺諸国はほかにどんな罪を犯していましたか。25:1~3、6、8、12
ユダの罪深い反逆の原因は高慢にありました。それはほかの異教諸国にも行きわたり、彼らに対するサタンの支配を反映していました(イザ14:13、エゼ28:2、6、9参照)。
バビロンの支配によって頂点に達したパレスチナの危機は、ユダの近隣諸国において最悪の状態になります。誇り(アンモン)、侮り(モアブ)、復瞥(エドム)があらわになります。彼らはゼデキヤ王に使者をつかわしますが(エレ27:2、3)、ねたみとしっとがその巧みな言葉の裏に隠されていました。
主の日(ゼファニヤ書1章12節~18節)
エレミヤと彼の同時代の預言者たちは、二種類の象徴、つまり神の怒りの杯を飲むことと主の日とによって、ユダに対する刑罰を描写しています。
質問10
エレミヤの先輩であるゼパニヤはどんな衝撃的な言葉を用いて、バビロンによる征服がユダにもたらすさばきを描写していますか(ゼパ1:14~18)。「主の日」はユダに住む人々をどんなニつのグループに分けましたか。ゼパ1:12、2:1~3
私たちは自分の好きなように自分の「日」を定めることができます。預言者の言う「主の日」とは、神が介入される日のことです。神は悪人にさばきを執行し、ご自分の忠実な民を救われます。
ユダに対する「主の日」は段階的に訪れました。最初の2回の捕囚は「良いいちじく」(エレ24:5、ダニ1:1~6)を悪いいちじくから分けました。神は前者をもってユダを再建しようとされました。
「滓(おり)」(ゼパ1:12)とは、ぶどう酒のかす・沈殿物のことであって、罪に執着し、罪を捨てようとしない人々をさしています。
質問11
預言書に記された局地的な主の日はすべて、どんな大いなる出来事を予示していましたか。Iテサ5:1~10、IIペテ3:3~5、10~13
最終的な主の日はキリストの再臨によって始まります。人々の予想に反して、主は地上の諸事件を完全に支配されます。主の日とは瞬間的な時間だけでなく、キリストの再臨から地球の再創造までの期間をもさしています。神の「日」は、最後の審判における調査と執行がなされる千年期を含みます(黙示20:4、Iコリ6:2、3、黙示20:11~15)。
神のあわれみが続いている今日こそ、私たちが主を求める「日」です(ゼパ2:3)。「牧師と信徒は、人を救わない福音の真理が滅びるということを覚えなければならない。日ごとにあわれみの招きを拒む魂は、最も緊急の訴えを耳にしても魂を感動させる感情を覚えなくなる」(『教会へのあかし』第5巻134ページ)。
まとめ
神は900年近くにわたって、イスラエルが神の恵みを世界に伝える民となるように訓練してこられました。成功した時期もありましたが、全般的には墜落の傾向にありました。彼らが異教の偶像崇拝に従ったからでした。最後の手段として、主は70年の間、彼らを捕囚の身とされました。ラオデキヤの私たちは古代ユダの経験からどんなことを学ぶことができるでしょうか。
第10課 平和の預言者たち
第10課 平和の預言者たち
すべての人は神の法廷で申し開きをしなければなりません。神がご自分の民の指導者の責任を問われるのはなぜですか。
アメリカ南部に住むハクトウワシは絶滅の危機に直面しています。1988年における公式の調査によれば、509組が確認されています。ワシは毎年、l回に2個しか卵を産まず、ひながかえる率も平均すると年に1個です。
ハクトウワシの繁殖を人工的に助けるために、科学者たちはフロリダの巣から卵を移し、それをふ化・成長させ、ほかの地域の荒野に返します。産卵期の初期に卵を移せば、親鳥はもう2個の卵を産みます。
南部ハクトウワシと同じく、頑迷なユダも「絶滅」の危機に直面していました。バビロン捕囚の時期に、神はパレスチナに帰り、メシヤヘの道を備えさせる新しいイスラエルを育てようとされました。しかし、偽りの祭司と預言者が神の救いの計画を妨害しました。彼らは絶えずエレミヤに逆らい、神の民のための長期計画に反対するようにユダを教えました。
忘れられた過去(エレミヤ書2章5節~8節)
エレミヤは長い間、背信した指導者たちによって悩まされました。祭司、預言者、それに王や裁判官といった民の指導者たちは、ほとんど神のみこころを無視していました。これらの階層は堕落していて、自分の利益だけを追求していました。
質問1
ユダの指導者たちはいつから主に背き始めましたか。エレ2:5~8
神はユダの健忘性を責められました。彼らは自分たちの祖先がエジプトの奴隷と荒野の放浪から神によって奇跡的に救われたことを忘れていました。また、神が彼らの国家的、個人的幸福のために与えておられた賢明で正しい律法に従うことを忘れていました。その結果、公の制度は崩壊し、宗教的礼拝は堕落して無意味な形式となりました。なぜなら、祭司たちがもはや主を「知る」ことがなくなっていたからです。民の指導者たちも神の正義と導きを忘れ、預言者の言葉もバアルの宗教によって感化されていました。このように、指導者自身が民にとってつまずきの石となっていたのです(イザ3:12比較)。
「私たちの過去の歴史を回顧し、現在の状態に至るまでのあらゆる歩みを振り返るときに、私は、神をほめたたえよ、と言うことができる。主のなされたわざを見るときに、私は指導者としてのキリストに対する驚きと確信に満たされる。私たちの過去の歴史における主の導きの方法とその教えを忘れないかぎり、私たちは将来に対して恐れることは何もない」(『ライフ・スケッチ』196ページ)。
質問2
ユダヤ人指導者たちの犯した大きな罪は何でしたか。エレ8:9、10(エペ5:5比較)
「殺人、姦淫、盗み、中傷であれ、これらの罪の根源にあるいかなる罪であれ、道徳律の違反はすべてその原因をたどれば、貪欲を中心とする何らかの罪によって誘発・喚起されたものであることがわかる」(ジョン・バー『十戒の研究』163ページ)。
偽りの治療者(エレミヤ書6章13節、14節)
祭司とレビ人は宗教的な指示を与え、国民の礼拝を指導する役割を与えられていましたが、預言者は指導者と信徒に悔い改めを促し、神のさばきについて警告しました。
質問3
背信したユダが減亡に向かおうとしていたとき、偽りの預言者たちはどんな言葉を伝えましたか。エレ6:13、14、8:11
預言者であると主張する者がみな真の預言者であるわけではありません。当然ながら、ユダの民が望んだものはバビロンとの平和であって、戦争や捕囚ではありませんでした。偽りの預言者たちは民の歓心を買うことによって事態を悪化させました。しかし、主は言われました。「彼らはわたしの民の傷を、あたかも重傷ではないかのように手当てしている」(エレ8:11·新国際訳)。偶像崇拝、物質主義、利己心がユダを悪性の背信に導いていました。悔い改めと改革によってのみ、ユダはもとの状態に回復されるのでした。
質問4
エゼキエルは偽りの預言者たちが説いていた平安と繁栄のメッセージを何にたとえていますか(エゼ13:10~16)。こうした偽りの約束は民の心にどんな影響を与えましたか。エゼ13:22
「塀」は民の平和に対する願望を象徴していました。偽りの預言者たちは偽りの平和という「水しっくい」をこの塀に塗りました。頑迷な民は次のように言ったことでしょう。「もし戦いの終わりが近いのなら、私たちの生活はエレミヤが言うほど悪くはないはずである。これらの預言者たちは陰気な警告をもう150年も語っているのだ」。偽りの預言者たちの「平和」の説教はなおも彼らに罪を犯し続けさせました。
「神の計画は、罪人を喜ばせたり、へつらったりするために使者を送りになることではない。神は清められていない人々に現世的安心感を抱かせる平和の言葉をお語りにならない。神はそのかわりに、悪を行う者の良心に重荷を負わせ、認罪の鋭い矢で彼の魂をつきさされるのである。奉仕の天使たちは、彼に恐るべき神の刑罰をし、必要感を深め、『わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』という苦悶の叫びをあげさせるのである」(『国と指導者』下巻54、55ページ)。
神の委任によらず(エレミヤ書14章13節~16節)
「平和の預言者」たちは神からの委任を受けていませんでした。彼らは当時の政治情勢を誤って解釈しました。
質問5
にせ預言者たちが自分の警告を無視しているというエレミヤの報告に、主はどのように答えられましたか。彼らの預言はどこから出たものでしたか。エレ14:13~16
「主の啓示されたみこころとみ言葉に対する絶対的な忠誠と服従は、真の預言者と偽りの預言者とを区別する最終的な基準である。偽りの預言者たちは霊性が不足していたためにご自分の民に対する神の扱いを正しく理解することができなかった。それゆえに、彼らの宣言は間違っていた。イスラエル人の契約的伝統が条件的性格のものであることを理解しなかったためである。したがって、彼らは当時の政治的状況を完全に読み誤った」(R・K・ハリソン『エレミヤ書と哀歌』122、123ページ)。
質問6
にせ預言者たちはほかにどんな理由から平安を宣言い悪人の罪を是認しましたか(エレ23:14~17)。神はこれら偽りの指導者たちをどれほど知っておられましたか。エゼ23:21~26
イエスと使徒ペテロも終末時代のにせ預言者について警告しています(マタ24:24、IIペテ2:I~3)。これらにせ牧者の働きはいつでも同じ結果をもたらします。すなわち、彼らは罪人を真にいやすどころか、神の民の一致を妨げ、主のみ言葉を曲げるのです(エレ23:36)。は、世界に近づいている全体的な破減に、神の残りの民巻き込もうと望んでいる。キリストの再臨が近づくにつれて、彼らを敗北させようとするサタンの努力は、更に強力に、決定的になる。古い目標に対する信仰をぐらつかせる傾向をもった、何か新しい光、新しい啓示を持っていると公言する男性や女性が現れる。彼らの教義は神のみ言葉のテストには耐えられないが、それでも人々は欺かれるのである」(『教会への勧告』下巻427ページ)。
反逆を説く(エレミヤ書28章1節~17節)
エレミヤは4人のにせ預言者の名をあげています。それらは、ハナニヤ、アハブ、ゼデキヤ、シマヤでした。ハナニヤはエルサレムに住んでいましたが、ほかの3人はエゼキエルと共に捕囚になっていました。彼らは平和に対する偽りの希望を語りましたが、それ以上に重大だったのは、エレミヤとエゼキエルに与えられた神のメッセージを拒むことによって民に悪い影響を与えたことでした。
質問7
ハナニヤは主の宮の祭司と民の前でどのようにエレミヤに挑戦しましたか(エレ28:1~4)。エレミヤは何と答えましたか(5~9節)。ハナニヤは自分の預言をどのように強調しましたか(10、11節)。神はどんな方法によってエレミヤの預言の真実性を証明されましたか。これほど厳しい方法をとられたのはなぜですか。エレ28:16、17(1節比較)
先の預言者たちも自分の預言と同じくユダとその周辺諸国に臨む破滅を宣言したと、エレミヤは答えました。エレミヤとハナニヤのどちらが神からつかわされた預言者であるかを知るためには、どちらの預言が成就するかを見定める必要がありました。
ハナニヤの驚くべき預言と行為は混乱をひき起こしました。彼はエレミヤを疑い、悔い改めを求める神の訴えを退けました。しかし、速やかなハナニヤの死は指導者と民に反逆の重大さについて考えさせる結果となりました。
質問8
バビロンで捕囚となっていたにせ預言者シマヤは、祭司あての手紙の中でエレミヤを激しく非難しました。彼は祭司たちにエレミヤをどうするように望みましたか(エレ29:24~29)。シマヤはどのように罰せられましたか。エレ29:30~32
神を代表する指導者たちが神に背くように民を教えることによってその信頼を裏切ることは重大な罪です。ユダの状況はひどいものでした。バビロンにいた二人のにせ預言者、アハブとゼデキヤは主の名によって捕囚民の不満をかきたてようとしたので、ネブカデネザルによって焼き殺されます。自らは公然と罪を犯していながら、彼らは主の名によって偽りを語りました(エレ29:20~23)。
真の羊飼い(エレミヤ書23章5節、6節、33章15節、16節)
質問9
エレミヤは真の牧者として、にせ預言者たちが神からつかわされたものではないということをどのように指導者と民に悟らせようとしましたか。エレ27:12~22
もし王が主の命令に従っていたなら、祭司、預言者、民も主に従っていたことでしょう。しかし、王が積極的に従ったとは書かれていません。
もし祭司たちがバビロンのくびきを負うようにという、ユダに対する神の命令を受け入れていたなら、彼らは王を自分たちの側に引きつけるだけの力を持っていたことでしょう。神殿と都は破壊を免れていたことでしょう。しかし、ここでもエレミヤの勧告は受け入れられませんでした。
「偽りの信仰は人の生活や品性にきよい影響力を及ぼすことはない。虚偽は真理ではないし、それを反復あるいは信じることによって真理になることもない。どんな誠実さも虚偽を信じることによりもたらされる影響力からその人を守ることはない。誠実さがなければ真の宗教もないが、偽りの宗教における誠実さも決して人を救うことはない。私は誤った道に従うことにおいて完全に誠実であることができるが、それによって誤った道が正しい道になることはないし、私を目指す地点に導くこともない」(『セレクテッド・メッセージズ』第2巻56ページ)。
質問10
神はどんな霊的牧者によって残りの者たちを導かれますか(エレ23:3、4)。神の牧者は偽りの牧者・預言者の慟きに対抗して何をされますか。エレ23:5、6
ユダの民に与えられたこれらの預言の成就は、彼らが悔い改めるか否かにかかっていました。しかし、捕囚後の彼らは主の義と知恵に信頼しませんでした。「正しい枝」とは、「エッサイの株から一つの芽が出」(イザ11:I)と言われている主イエス・キリストのことです。ユダがもとの木の株だけの状態になっていたとき、キリストが人類の罪のために死に、彼らを罪から義に導くために来られました(Iペテ2:21~25参照)。キリストが聖霊によって信者の心を満たされるとき、彼の義が信者の心を支配し、彼らは世にキリストの品性のすばらしさをあらわします(エペ3:14~19、IコリI:30参照)。
まとめ
指導者の背信は、たとえ1、2度であってもつねに教会を荒廃させるものです。ユダが滅亡した原因の大部分は指導者の道徳的墜落にありました。現在と将来の惑わしについての警告はキリストに従う者たちに対して、キリストとの密接な一致を保つように教えています。キリストの義と知恵は私たちを過ちと背信から守ってくれます。
第11課 尊い約束
第11課 尊い約束
ある人が次のように勧告しています。「神が約束を実現してくださるまで、その約束にすがりなさい。神は必ずご自分の約束を成就してくださいます」。神の約束に絶対的に信頼することがクリスチャンの生活の重要な一部分であるのはなぜでしょうか。
「フランシス!」。ジャックは笑いながら弟フランシスを抱きしめました。それから、ジャックはかばんを開き、家族に贈り物を配り始めました。彼は20年前、家を飛び出し、海軍に入っていました。フランシスは兄の居場所を知りませんでした。その兄が今、帰ってきたのです。二人は和解しました。すばらしい約束に満ちた新しい生活が始まったのです。何と幸せな帰宅でしょう。
主もまたご自分の民のために帰国を計画しておられました。捕囚となっていたイスラエルとユダの子孫たちは一つの民としてパレスチナに戻ってくるはずでした。待ち望まれていたメシヤが来られ、神はイスラエルと契約を更新されるはずでした。それは不可能な夢のように思われましたが、神にはできないことがありません。これらの尊い約束は避けられないバビロン捕囚という暗い影の中にあって慰めに満ちた希望の光でした。
第2の出エジプト(エレミヤ書31章1節~14節)
質問1
主は出エジプトを何と比較しておられますか。エレ23:7、8
イスラエルはかつてヨセフの保護のもとで自由な民としてエジプトに下って行きました。彼らは不当にも奴隷とされますが、奇跡的に解放されます。しかし、紀元前8、7、6世紀にアッシリアとバビロンに征服されると、イスラエルとユダの王国は滅び、国民は祖国を追放されて捕囚となります。政治的に、ユダヤ人国家は消滅してしまったのです。ペルシヤの偉大な三人の王(クロス大王、ダリヨス1世、アルタシヤスタl世)が神の摂理によってユダヤ人を捕囚から解放し、さらにはその国家としての地位、神殿、都までも回復してくれると、いったいだれが想像することができたでしょうか。
質問2
これらの解放運動のうちに神のどんな特性が示されていますか。神は何と約束しておられますか。エレ31:1~4
エジプトからの出国、バビロンからの出国において、神はご自分の民に愛と恵みをあらわされました。罪人であり背信者である私たちは、神に対する第1歩が全く私たちにゆだねられていると考えるかもしれません。しかし、実際には、聖霊が私たちを神に向かわしめてくださるのです(ヨハ6:44参照)。「魂のうちに目覚めた、神に帰ろうとする願望はすべて、さまよう者を父なる神の愛のふところに誘い、導き、引きつけられる聖霊の優しい訴えにほかならない」(『教会へのあかし』第5巻632、633ページ)。
質問3
約束されたバビロンからの出国において、人々はどんな態度をとると主は予告されましたか。神は彼らのために何をすると約束されましたか。エレ31:7~14
ある意味で、神の恵みを受け入れる罪人はみな、二重の解放を経験するのです。第一に、彼らは罪によって支配される奴隷状態から解放されます(ロマ6:l7、18)。第二に、彼らは栄光に満ちたキリストの再臨においてこの世から永遠の王国へ入ります。これらの経験は大いなる喜びを与えてくれます(ルカ15:7、10、黙示7:9、10)。
ヤコブとラケル
エレミヤ書30、31章は「慰めの小書」と呼ばれることがあります。それらが将来における回復について記しているからです(30:1~3)。これらの章において、ヤコブとその妻ラケルがユダの滅亡と回復の象徴として言及されています。
質問4
減亡が何によって象徴されていますか。この征服と捕囚の期間は何と呼ばれていますか。どんな約束が与えられていますか。エレ30:4~9
エレミヤは先に、外国の軍隊によるイスラエルの突然の滅びを妊婦の産みの苦しみにたとえています(エレ4:31、6:24、13:21)。ここに出産の経験における二つの要素、つまりその突発性と耐えがたい激痛が強調されています(Iテサ5:3比較)。ユダの経験する恐るべき苦悩を強調するために、主は妊婦の苦痛を「男」、つまりユダの擬人化された「ヤコブ」に転移させておられます。直接的な意味において、「ヤコブの悩みの時」とは紀元前6世紀におけるユダの滅びと捕囚をさしています。しかし、「彼はそれから救い出される」と約束されています(エレ30:7)。この歴史的時点におけるヤコブの産みの苦しみと苦悩は新しい国家、つまりバビロン捕囚から解放されて神の計画と目的を遂行する新しいイスラエルの誕生を暗示していました。
質問5
ラケルはどんな意味でバビロン捕囚の苦しみの擬人化と言えますか。主は悲しんでいるご自分の民にどんな慰めに満ちた約束を与えておられますか。エレ31:15~17
捕囚民はエルサレムの北、約8キロのところにあるベニヤミンの地、ラマに集められ、そこからバビロンに引かれて行きました(エレ40:1)。彼らの嘆きはベニヤミンを産んで死んだラケルの苦しみにたとえられています(創世35:16~20参照)。彼女は鎖につながれて引かれて行く「子ら」のために嘆くユダの擬人化になっています。しかしここでも、彼らが再び帰って来るという約束が与えられています(エレ31:17)。
神にはできないことがない(エレミヤ書32章26節、27節)
戦場におけるバビロン軍の勝利について聞かされるにつけ、捕囚民の心はかたくなな抵抗からみじめな失望へと大きく揺れ動いたことでしょう。
質問6
ユダヤ人が国家として消減することがないということを、神はどのように約束されましたか。神が彼らを征服されるままにされたのはなぜですか(エレ30:10、11、46:28)。このような矯正が必要だったのはなぜですか。エレ32:28~35
神はユダからご自分の祝福と保護を取り除き、バビロンの戦いによって彼らを訓練されましたが、バビロン自身もその悪行の責任をとることになるのでした。神はこの異教国にご自分の真理を知らせようとされましたが(エレ51:9)、バビロンがこれを拒み、最終的なさばきを受けることを予見されました(エレ50、51章)。ユダは悪の升目を満たしていなかったので、なお望みがありました。神はあわれみのうちに罪深いユダを完全に滅ぼすようなことはされませんでした。残りの民が捕囚という訓練に耐え、再び神によって植えられるのでした(エレ32:41)。
質問7
エレミヤが迷いのうちに主に尋ねたとき、主はどんなすばらしい約束を繰り返されましたか。エレ32:26、27、37~44
エレミヤは先に、「あなた〔主〕のできないことは、ひとつもありません」と祈っています(エレ32:17)。主もその応答の中でこの基本的な真理を預言者に次のように繰り返しておられます。「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか」(27節)。布陣した兵士たちが叫び、異国の軍隊が城壁を攻撃しているとき、監視の庭では簡単な商取引が成立していました(6~15節)。地所が買い取られ、買収証書が保存されました。これは、いつの日にかユダが再定住するようになるという涸出された約束でした。悔い改めたユダの前には、捕囚をこえて輝かしい将来が約束されていました。神はご自分の目的を成就する力に欠けることがありません。「信ずる者には、どんな事でもできる」(マル9:23)。
—つの国家(エレミヤ書31章8節、9節)
レハベアムが王位についてしばらくすると、10部族が分離してヤラベアム1世のもとで別の王国を建設します。2部族だけがダビデ王朝のもとにとどまり、ユダ王国となります。これら「兄弟」国家(イスラエルとユダ)は200年以上にわたり、時には互いに戦いながら存続します。紀元前722年に、アッシリアがイスラエルを征服し、その国民を追放します。バビロンがユダを征服し、その民を追放する前に、神は二つの国を一つの国に統一すると約束されました。
質問8
神はユダとイスラエルに対してどんな計画を持っておられましたか(エレ30:1~3)。神はどんな具体的な言葉をもって再定住の過程を描写しておられますか。エレ31:27、28
エレミヤの初期の託宣の一つが北メソポタミヤにいるイスラエル人の捕囚民にあてられています(エレ3:12~14)。悔い改めを求める一方で、神は彼らの回復を約束しておられます。ユダとイスラエルの家は「北の地から出て」、彼らの故郷に「共に来る」のでした(18節)。
ある意味で、キリスト教会もまたイスラエルとユダのように「バビロン」捕囚の中にあります(黙示l4:8参照)。この世は私たちの故郷ではありません。私たちはイエスの再臨と「万物更新の時」を待っています(使徒3:21)。多くの国民に分裂しているとはいえ(黙示14:6)、私たちは今、キリスト・イエスにあって「一つ」となることを学ぶことができます(ヨハ17:20~23)。
質問9
主はどのような「傷」をいやしてくださいますか(エレ31:8、9、30:17)。神は廃虚となったエルサレムの都に関してどんな約束を与えておられますか。エレ30:18
どちらの王国も極度の偶像崇拝と背信によって深く傷ついていました。バビロンでは、聖霊の導きに応答し、涙をもって悔い改める者たちがいます。シオンは自らを忌み嫌うようになります(エゼ20:43)。神のゆるしの恵みは悔い改めた者にいやしを与え、神の力は国を回復します(ゼカ3:1―4参照)。そして、分裂していた部族は真の和解を経験します。
予告されたメシヤの出現(エレミヤ書33章15節)
アブラハムの子孫はアブラハムに対する約束(創世22:18)の成就であるメシヤの来臨を長く待望してきました。エレミヤ、エゼキエル、ダニエルは、ユダヤ人のバビロン捕囚からの解放に関連してメシヤの来臨を明らかにしています。ダニエルはその正確な年代を特定しています(ダニ9:24、25)。
質問10
エレミヤはメシヤのダビデ王朝との関連について何と述べていますか(エレ23:5、33:15―ルカ1:30~33比較)。メシヤの名にはどんな深い意味がありますか。エレ23:6
神は預言者エゼキエルを通して、メシヤがその王国を確立するまではダビデの王位につく者がいないと言われました(エゼ21:26、27)。どちらの預言者も聖霊に動かされて、メシヤの来臨がユダヤ人のアッシリア、バビロン捕囚からの帰還後のある時点で実現すると宣言しています。
質問11
メシヤはだれにたとえられて、ご自分の民の牧者として描かれていますか。エゼ34:23、24、エレ30:8、9(ヨハ10:11、14比較)
羊飼いダビデは、大いなるダビデの子、また民の牧者であるメシヤを予示していました(イザ40:10、11)。
メシヤの来臨は永遠の契約を更新するものとなるのでした(第4課参照)。キリストの犠牲は神がご自分の民に与えられたすべての約束を保証するものです(エレ31:31~34、ロマ]s:8参照)。
質問12
神はエレミヤを通してユダヤ人に与えられた回復についての尊い約束をどのように保証されましたか(エレ31:35~37、33:19~22)。このことは、たとえ神の民が神を拒んだとしても神の約束が不変であることを意味しますか。エレ18:7~10
私たちは当時の多くのユダヤ人たちのように神の約束を誤解してはなりません。神の約束はすべてその民の服従を条件としています。条件は契約に明示されています—神の律法は心に記されるのです。この変革の恵みを進んで体験する者たちは創造主のみこころに従うようになります。そのような人々にとって、神の約束は確実です(『各時代の希望』上巻107、108ページ参照)。
まとめ
クリスチャンとしての私たちの信仰は神の約束にもとづいたものでなければなりません。神の約束の成就を見ることによって、神がほかの約束も成就してくださるという私たちの信仰は強められます。ユダに与えられた回復と明るい将来についての約束は、長い捕囚生活の中にあってユダヤ人につねに新しい希望を与え続けました。同じように、再臨についてのキリストの約束は現代のイスラエルに希望を与えてくれます。福音を世に伝えることによって、私たちの希望は燃え続けます。キリストは私たちの確かな望みです。キリストだけが世の希望です。
第12課 エルサレム包囲攻撃
第12課 エルサレム包囲攻撃
神の民が心から悔い改めないうちに、もし神がバビロンの侵入を中止しておられたなら、ユダの霊性はどうなっていたでしょうか。
そのオートバイ乗りがエンジンの音をとどろかせて高速道路に入ったときには、すでに夕暮れになっていました。1日の仕事も終わり、彼は心地よい風の中を走っていました。考えごとをしていたのでしょうか、前方に車が渋滞しているのに気づきません。1台の車が彼の車線に割り込むのに気づいて、プレーキを踏みますが、間に合わず、彼のバイクは車の後部バンパーに激突しました。彼はハンドルを飛び越えて地面に激しくたたきっけられました。片脚骨折、全身打撲の重傷を負いましたが、一命だけはとりとめました。これは起こるべくして起きた事故なのでしょうか。それとも予防できた事故なのでしょうか。
ユダの指導者と民も自らの誤った態度と行動にとらわれていたために、近づきつつある災いを見通すことができませんでした。バビロンによる捕囚は事故ではありませんでした。彼らのはなはだしい偶像崇拝と利己主義が滅びを招いたのです。バビロンによる捕囚は真の信仰を守るための神の最後の手段でした。
主に尋ねる(エレミヤ書21章1節~10節)
紀元前588年1月15日に、バビロニア軍はエルサレムを包囲します。それから30か月後の586年7月19日に、エルサレムは陥落します(エレ39:I、2、52:4~7)。それから1か月後に、神殿、宮殿、町が焼かれ、城壁が破壊されます(エレ52:12~14)。今週の研究で学ぶ諸事件はこの2年半の期間に起こりました。
質問1
敵の軍隊が包囲攻撃を始めようとしたとき、王は正式の代表を通してエレミヤにどんな要求をしましたか(エレ21:1、2)。エレミヤは王にどんな回答を送りましたか。エレ21:3~7
ヨシヤの三男であるゼデキヤ王は優柔不断で、道徳的に弱い人物でした。その上、反逆的なつかさたちによって牛耳られていました(エレ38:5)。エルサレムがアッシリアに攻撃されたときのイザヤの執り成しのように(イザ37)、彼はエレミヤの執り成しによってエルサレムが滅びから救われるように望みました。しかし、このときのヒゼキヤと王室が霊的リバイバルを求めたのに対して、ゼデキヤとそのつかさたちは民を偶像崇拝と背信に導いていました。
バビロニア軍の侵入は、神ご自身がユダと戦っておられるようなものでした。何千人もの人々が戦闘と飢えと疫病で死にます。多くの人たちは生き延びるために人肉を食べます(エレ19:8、9、エゼ5:10比較)。
質問2
エレミヤは民にどのような行動をとるように勧めましたか。エレ21:8~10
エレミヤは今、かたくなな王室を避けて、直接、民に語りかけます(エレ21:3を21:8と比較)。各自は「命の道」か「死の道」かを選ぶことができました。主の約束を信じてバビロニア軍に降伏する者たちは生き延び、信じない者たちは滅びるのでした。神の道を選ぶことは預言の言葉に対する信仰と自発的に多数派を捨てる勇気とを要求しました。こうして多くの者たちが霊感の勧告に従いました(エレ39:9、52:15)。エレミヤは反逆者とみなされましたが、神はご自分の民を救うことだけを求められました。
弱い道徳心(エレミヤ書34章1節~21節)
質問3
エレミヤはゼデキヤ王の将来についてどんな託宣を与えましたか(エレ34:1~7)。神のさばきを変えることができないと悟ると、王とつかさたちはどんなことを誓いますか。エレ34:8~10
バビロニア軍はエルサレムのほかに要塞の町アゼカとラキシ(エルサレムの南西24キロと56キロ)だけを残して、ユダ全土を組織的に征服しました。しかし、神は弱い王にあわれみを施されました。彼の王国は滅び、民は捕囚になる運命にありましたが、王自身は手厚く葬られることになります。
モーセの律法によれば、ヘプル人の奴隷は6年間の労役の後に解放されることになっていました(出エ21:2、申命15:12~14)。しかし、そのような規定はずっと無視されたままになっていました。王とつかさたちは恐怖心にかられて、すべてのヘブル人の奴隷を解放することによって神の好意にあずかろうとしました。
質問4
バビロニア軍が不意に包囲を解き、侵攻してきたエジプト軍に対抗するために南に退却したとき(エレ37:5、11、34:21、22)、奴隷を所有していた者たちはどんな行動に出ましたか(エレ34:11)。神は彼らの弱い道徳心をどのようにみなされましたか。エレ34:12~21
「侵略者が城門に追っていたとき、ゼデキヤとその民は恐怖心から神の怒りを和らげるためならどんなことでも進んでする約束をした。……恐怖心が奴隷を解放するという彼らの性急な契約の唯一の動機となっていた。それも完全な悔い改めの始まりとしては有用かもしれないが、次には罪そのものを心から憎むという深い思いにまで到達する必要がある。道徳的悪に対する嫌悪をともなわない、刑罰に対する恐怖心は表面的な結果を生み出すだけである。真の悔い改めは罪の刑罰を逃れることではなく、罪から離れることである。単に利己的な恐怖心に訴えることによってでなく、良心に働きかけることによって人を悔い改めに導くことの重要性がここにある」(W・F・アデニー「説教学」『プルピット・コメンタリー』第26巻88ページ)。
エレミヤの捕縛(エレミヤ書37章1節~21節)
包囲が解かれると、また希望が戻ってきました。ユダの同盟国であるエジプトが援軍を送ってきたのです。王は再びたずねます。「われわれのために、われわれの神、主に祈ってください」(エレ37:3)。王はカルデヤ人が永久にエルサレムから撤退するように執り成しを望んだのでした。
質問5
エレミヤは王に何と答えましたか。彼はエルサレムの減亡が確かであることをどのように強調しましたか。エレ37:6~10
「バビロンがエルサレムを征服することは神のみこころであった。したがって、もしカルデヤ人の軍隊が離散して負傷者だけになったとしても、エルサレムはやはり屈服するのであった。ユダヤ人は、神に忠実である限りは敵の大軍に強いことを知った。神に逆らうときには、立場が逆転し、最も弱い敵によっても打ち負かされることを学ぶのであった」(W•F・アデニー「説教学」『プルピット・コメンタリー』第26巻123ページ)。
質問6
アナトテの故郷に帰ろうとしたエレミヤはだれによって捕えられましたか(エレ37:11~13)。つかさたちはエレミヤに対する偽りの告発に対してどんな態度をとりましたか(14~16節)。エレミヤは再び王に何と詰問しましたか(17~19節)。彼はどんな好意を求めましたか(20、21節)。(エレ32:1~5比較)
今回のエレミヤの投獄は1年ほど続きました。彼は初め地下の独房に入れられていたと思われます。
ハナニヤの平和についての偽りの預言に対して、エレミヤは次のような提案をしていました。「平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ」(エレ28:9)。しかし、これらの預言者は今、どこにいるというのでしょうか。王は真実を語ったエレミヤをなぜ投獄したのでしょうか。エレミヤは地下牢に戻さないように懇顧したので、ゼデキヤは彼を監視の庭に移し、日々の食物を与えるように命じました。飢餓はすでに滅びる運命にあったエルサレムの住民を苦しめ始めていました。
最後の訴え(エレミヤ書38章1節~28節)
質問7
つかさたちの目には、エレミヤは反逆者でした。彼らはついに言いなりになる王にどんな要求をしましたか(エレ38:1~6)。エレミヤはどのようにして助けられましたか。7~13節
ゼデキヤも一時、有能な支配者に見えたこともあったかもしれません。しかし、彼は神のさばきよりも、つかさたちの怒りを恐れました。つかさたちは絶望と怒りのあまりエレミヤに八つ当たりしました。悔い改めなければユダは滅びると、エレミヤが何年も警告していたからです。彼らはエレミヤの警告を反逆とみなしました。罪のないキリストも同じように反逆罪で訴えられました(ルカ23:2)。
質問8
王が改めて「主からの言葉」を求めたとき、エレミヤは何と勧告しましたか(エレ38:14~18)。王が勧告に従おうとしなかったのはなぜですか(19節)。王は自分自身と家族と町を恐るべき運命から救うためにどんな選択を迫られましたか。20~23節
ゼデキヤにとって、これはエレミヤとの最後の会見でした。条件は恐ろしいものでした。国家、包囲された首都、それに自分自身の決定さえつかさたちに支配されている王よりも、牢獄の中にいる預言者の方が明らかに自由でした。
「ある者たちは品性に強固さがない。彼らは石狂の固まりのように思いどおりの形になる。彼らは一定の形、一貰性を持たないので、世の中において実際的な役に立たない。この弱さ、優柔不断、無能を克服しなければならない。真のクリスチャンの品性には、逆境によって変形・屈服することのない不屈の精神がある。私たちは道徳的な気骨、すなわちへつらうこと、買収されること、恐れることのない正直さを持つ必要がある」(『教会へのあかし』第5巻297ページ)。
質問9
つかさたちに対するゼデキヤの過度の恐れはどんなところに再び示されていますか(エレ38:24~27)。あなたもエレミヤのように王の要求に従っていたと思いますか。
エルサレムの陥落(エレミヤ書39章1節~7節)
紀元前586年7月19日に、エルサレムの城壁が破れました。カルデヤ人は「中の門」に本部を設置し、そこから町の征服を指揮しました。飢餓が住民を衰弱させていました(エレ39:2、3、52:6)。
質問10
ゼデキヤと残りの兵士たちはどのようにして逃亡しようとしましたか。王は盲目にされる前に何を見させられましたか。エレ39:4~7、52:7~11、24~27
逃亡者たちはエリコの近くからヨルダン川を渡ってモアブやアンモンの地に脱出しようと図ったようです。ゼデキヤと国の指導者たちは、パレスチナ遠征軍本部、シリヤのリブラにいるネブカデネザルのもとへ、北に約240キロを鎖につながれて引かれて行きました。
「囚人は槍の穂先で眼球をえぐられることによって盲目にされるのがふつうであった。視力を失うときの拷問に耐えることに加えて、ゼデキヤは終生忘れることのできない精神的苦痛として、盲目にされる前に息子たちの処刑という恐るべき光景を見させられた」(『SDA聖書注解』第4巻538ページ)。
質問11
敵による1か月に及ぶ略奪の後に、どんな恐るべき破壊がなされましたか(エレ52:12~14)。神殿の庭にあった青銅の海と二本の柱はどうされましたか。17~23節
「神のみこころが明らかに示された義人たちがまだエルサレムに残っていたが、その中のある人々は、十誡の戒めが書かれた石の板を納めた聖なる箱が、乱暴な人々の手に入らないようにしようと決意した。彼らはそれを決行した。彼らは嘆き悲しみつつ、箱をほら穴の中に隠したのである。箱はイスラエルとユダの人々の罪のゆえに、彼らから隠されて、再び彼らにもどることはないのであった。その箱は今なお隠されている。それはそこに隠されて以来、人手に触れたことはないのである」(『国と指導者』下巻70ページ)。ユダヤ人の言い伝えによれば、幕屋と箱と香壇をほら穴に隠したのはエレミヤでした(旧約続編・IIマカバイ2:4~7)。
まとめ
ユダの「最期」は実にあっけないものでした。30か月後に、包囲された町は火で焼かれます。王とつかさたちの宮殿と神殿は略奪され、焼かれます。城壁は破壊され、剣とききんと疫病の中で生き残った者たちは鎖につながれて、異国に捕囚となって送られていきます。これらの生存者の中に、のちにバビロンとペルシヤ政府を動かし、神のみわざを遂行したダニエルがいました。こうして部分的にせよ、神は地上に真の信仰を保たれました。
第13課 「あなたの真実は大きい」
第13課 「あなたの真実は大きい」『哀歌』序言
終末時代の最終的な諸事件に直面する私たちにとって、神の真実が重要な真理であるのはなぜでしょうか。
哀歌は紀元前586年におけるエルサレムと神殿の包囲攻撃およびその破壊について語っているので、それはこれらの出来事のすぐ後に書かれたものと考えられています。ヘブル語本文にはエレミヤが著者であるとは書かれていませんが、伝統的に、ユダヤ人とクリスチャンはエレミヤがその著者であると信じています(『国と指導者』下巻77~79ページ参照)。
哀歌の各章はヘブル語の特殊な文学的手法を用いて、その内容を読者に伝えようとしています。各章は22節(部)からなる一つの完全な詩を形成しています。最初の4章は一種の沓冠(くつかむり)体になっていて、各節はヘブル語アルファベットで始まっています。第3章は22部の中に66節をもって書かれています。各部は3行連句を含んでいて、各節が同じヘブル語アルファベット(AAA、BBB、CCC、…)で始まっています。このように、エルサレムの滅亡を感覚に訴えるように嘆くことによって、エレミヤは生き残った者たちの心を神への信頼に導こうとしたのです。哀歌は、終末の諸事件に直面する私たちに対して神との交わりを大切にするように教えています。
やもめの状態(哀歌1章)
哀歌の最初の4章はヘブル詩の悲歌(挽歌、哀悼歌)として書かれた別々の詩です。最後の章は祈りです。これらの詩はユダの滅亡とエルサレムおよび神殿の荒廃を悲しむ国民の嘆きを表しています。「しかし、それらのメッセージには希望がないわけではない。荒廃の光景を貫いて、主がゆるし、ご自分の民の苦しみを和らげてくださるという一条の期待が流れている」(『SDA聖書注解』第4巻544ページ)。
質問1
エルサレムとユダはどんなたとえによって描写されていますか。だれがその愛人また友人でしたか。哀1:1~7
やもめになることは女性にとって厳しい運命です。聖書の時代においては特にそうでした。たいていのやもめは貧しかったので、生活するのが大変でした。エルサレムはやもめにたとえられています。エルサレムの貧しさを強調するためではなく、その荒廃と征服された民のみじめさ、またかつては親友であった国々による拒絶を強調するためでした。
エレミヤの第1の挽歌には次のことがらが強調されています。
哀1:8、9……エルサレムがやもめになった真の理由。
哀l:10、11……国民の宗教生活の中心とその経済的繁栄の消滅。
哀1:12~20……ユダの罪がその苦しみの原因。
哀1:21、22……ユダの敵がその残虐さのゆえに罰せられるように祈るエレミヤ。
エルサレム減亡後のユダの経験は、恩恵期間終了後の神の民の経験を予示していました。イスラエルの生存者たちがそうであったように、信者は二つのグループに分けられます。(1)印を押された、神に忠実な者たち(黙示7:1~3、14:l~5)。(2)獣の刻印を受けた者たち(黙示13:16、17~9:4比較)。神はパレスチナや捕囚の地におけるご自分の残りの者たちを守られましたが、同じように終わりの時代の印を押されたご自分の民も守り、支えてくださいます。たとえ地上の人間の助けを失ったとしても、神の民は霊的、肉体的な敵から自分たちを守ってくださる主に信頼します。
見捨てられた不信仰者たち(哀歌2章)
質問2
第2の挽歌の中で、だれがユダを攻撃したと言われていますか。哀2:1~9
第1の詩は悲しみの中にあるやもめのようにユダの荒廃について語っていますが、第2の詩はユダのとりでを攻撃する敵意に満ちた戦士としての神を描写しています。「主は敵のようになって、イスラエルを滅ぼし」(哀2:5)。主はイスラエルの民、つかさたち、軍勢をことごとく滅ぼされました(2~4節)。主はその神殿を見捨て、荒廃させられたので、その儀式と礼典は止みました(6、7節)。主はまたエルサレムの城壁を破壊されました(8、9節)。
これはよく誤解されるヘブルの思想の好例です。神はいつでも最終的な権威とみなされているために、実際にはただ干渉するのをやめるだけなのに、何かをするようにみなされることがあります。ユダは主との契約を破りました。それゆえ、主はその祝福と保護を取り下げられたのです。
エレミヤの嘆きは続きます。
哀2:10~13……長老、おとめ、乳のみ子を持つ母たちが飢えて死にます。
哀2:14~22……民がにせ預言者たちの教えと預言を信じたので、「主はその計画されたことを行」われました(7節)。国家的な背信は国家的な滅びにつながります。
今日、神の愛と律法を拒否する者たちもユダの受けたのと同じさばきを受けることに留意する必要があります(黙示15:5~8、16:l~2I)。
「その時サタンは、地の住民を大いなる最後の悩みに投げ入れる。神の天使たちが人間の激情の激しい風を迎えるのをやめると、争いの諸要素がことごとく解き放たれる。全世界は、昔のエルサレムを襲ったもの〔紀元70年〕よりもっと恐ろしい破滅に巻き込まれる」(『各時代の大争闘』下巻386ページ)。
「なんの準備もせずに、最後の恐るべき争闘に当面するこれらの自称キリスト者たちは、絶望して、激しい苦悶の叫びをあげて彼らの罪を告白する。そして悪人たちは、彼らの苦悩をながめて勝ち誇るのである。このような告白は、エサウやユダの告白と同じ性質のものである。これをなすものは、罪そのものではなくて、罪の結果を悲しむのである」(『各時代の大争闘』下巻394ページ)。
悔い改める者に対する神の不変の愛(哀歌3章)
第3の挽歌の中で、エレミヤは自分自身をユダになぞらえています。彼の民の苦しみは彼自身の苦しみです(哀3:I~20)。神は正しく、その罪深い民は矯正される必要がありますが、この詩はただ神のあわれみと救いだけを強調しています。
質問3
神の不変性が罪人の希望の基礎であるのはなぜですか。哀3:21~24(ヤコ1:17比較)
創造主は決して気まぐれなお方ではありません。さもないと、人間は道徳的混乱に陥ってしまいます。放とう息子が家に帰る決心をしたのは、自分に対する父親の愛が決して変わらないことを知っていたからです(ルカ15:11~32)。ユダとすべての悔い改めた罪人の望みは、神がその原則に忠実であるという根本的な真理のうちにあります。たとえ人間の罪と不義の荒波が神に打ち寄せようとも、神に信頼する者たちに対する神のあわれみは決して浸食されることがありません。
質問4
ユダを長期にわたってバビロンのくびきのもとに置かれた神の目的は何でしたか。哀3:25~30
「神のみことばを受けいれる者には、困難や試練がないというわけではない。しかし、苦難に臨んでも、真のクリスチャンは、動揺したり、疑惑をいだいたり、失望したりはしないのである。たとえ、事態がどのように発展するかをはっきりと見ることができず、神の摂理の目的を悟ることができないとしても、確信を投げすててはならない。そのようなときには、主の情深いあわれみを思い起こして、わたしたちの思いわずらいを主にゆだね、忍耐して、主の救いを待たなければならない。
戦いを経ることによって、霊的命は強められるのである。試練に耐えることによって、品性は堅固になり、霊の結ぶ美しい徳が養われる。信仰、柔和、愛といった美しい完全な実は、暴風と暗黒の中で最もよく成熟するものなのである」(『キリストの実物教訓』38、39ページ)。
質問5
エレミヤは苦しみの中にある捕囚民にどんな励ましに満ちた約束を与えていますか(哀3:31~33)。苦しみの中にあっても(45~54節)どうするように勧めていますか(40~44節)。主はご自分の民の敵にどのように報いられますか。哀3:55~66
苦難の後の救い(哀歌4章)
エレミヤの第4の詩に強調されていることがらに注意してみましょう。
哀4:1~12……飢え、人食い、エルサレムの最終的な滅亡。哀4:13~16……偽りの宗教指導者たちに対する報い。
哀4:17~20……外からのすべての助けが断たれます。
哀4:21、22……神の民の悔い改めない敵は罰せられるが、悔い改める者たちは捕囚から解放されます。
ユダは敵の前で辱められました(哀4:1~12)。彼らはかつて自分たちを神の聖なる民、また周囲の異教徒のような卑金属とは異なり、神の品性を反映する純金、宝石とみなしていました。しかし、彼らは背信によって神の品性を汚しました。敵は彼らの偽りを見抜き、彼らが価値のない粘土のつぼにすぎないことを知りました。中にはダニエル、エゼキエル、また彼らの仲間のように光を輝かし、異教徒にまことの神をあかしした者たちもいましたが、大多数の者たちの経験はカルデヤ帝国の道徳的暗黒の中にかすんでしまいました。
質問6
主は終末時代のご自分の民を世の最大の患難の中からどのようにして救出しようと計画しておられますか。ダニ12:1~3、マタ24:15~22、黙示18:4、19:7、8
大いなる悩みの時における保護
「神の民は苦難を免れるわけではない。彼らは迫害と苦しみに会い、窮乏に耐え、食物の不足に苦しむのであるが、滅びるままにほうっておかれたりはしない。エリヤを養われた神は、ご自分の献身的な子供たちをひとりも見捨てられない。彼らの頭の毛までも数えられるおかたが、彼らを保護し、ききんの時にあって満ち足らせられる。悪人たちが飢えと疫病のために死んでいくときに、天使は義人を守り、その必要を満たすのである。もし人々の目が開かれて、天の幻を見ることができたならば、カ強い天使の一団が、キリストの忍耐の言葉を守る者たちの回りに駐屯しているのを見るであろう。天使たちは、優しい同情の念をもって、彼らの苦悩を見つめ、彼らの祈りを聞くのである」(『各時代の大争闘』下巻404~406ページ)。
神への全的信頼(哀歌5章)
質問7
ユダヤ人の苦しみはエルサレムの陥落をもって終わったわけではありません。バビロンによる征服後、彼らはどんな事態に直面しましたか。哀5:1~18
質問8
エレミヤは自分の民のためのどんな熱心な祈りをもって第5の挽歌を結んでいますか。哀5:1、19~21
神は永遠であり(哀5:19)、その品性の基礎である義の原則も永遠です。あらゆる人間による虐待の象徴であるバビロンは倒れます。あらゆる悪の背後にあるサタンを初め、神に敵対する勢力もすべてそうなります。永遠の神は善と悪の大争闘に決着をつけられます。
神はご自分の民を見捨てられません。背信したユダの回心を求めるエレミヤの祈りは神に向けられています。神の恵みは人の心を変えることができます(エゼ36:26~28参照)。
「神だけがさまよう者をご自身のもとに帰すことがおできになる。ご自分の律法の権威によって、その福音の改変力によって、その聖霊の優しい影響力によって、神だけが心を改造し、歩みを変え、そして過ちを犯しはしたが、今は心から神の恵みとゆるしを求めている者たちの過去を新たにすることがおできになる」(J.R.トンプソン「さまざまな著者による説教」『プルピット・コメンタリー』第26巻89ページ)。
質問9
終わりの時代の人類がまもなく直面する大いなる悩みの時に備えるためにはどうしたらよいでしょうか。黙示3:2、5、11、12、18~2
「もしヤコブが、欺購によって長子の特権を得た罪をあらかじめ悔い改めていなかったならば、神は、彼の祈りを聞き、あわれみ深く彼の生命を保つことを、なさらなかったであろう。そのように、悩みの時においても、神の民は、恐怖と苦悩にさいなまれているとき、まだ告白していない罪を思い出すならば、彼らは圧倒されてしまうことであろう。絶望が彼らの信仰を断ち切り、彼らは神に救いを求める確信が持てなくなることであろう。……言いわけをしたり、隠したりして、それを告白せず、許されないまま、天の書に残しておく者は、みなサタンに負けてしまうのである」(『各時代の大争闘』下巻393、394ページ)。
まとめ
預言者アモス(前767~753)やミカ(前740~700)が早くから預言していた通り、エルサレムとユダはついに滅亡しました
(前586)。カルデヤ人の強力な軍隊はすべてのものを破壊し尽くしました。哀歌は多くのユダヤ人の心からの悲しみと悔い改めを表現しています。同じように、終末の大いなる悩みの時においても、心から悔い改めた信者は悔い改めない者たちを襲う災害を生きのびることができます。なぜでしょうか。主は彼らの受くべき分であり、彼らは主を待ち望むからです(哀3:24、25参照)。