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この記事について
*本記事は、ドナルド・H・トマス著、安息日学校ガイド1993年3期『テモテ第Ⅰ、テトス 指導者と信徒への手紙』 からの抜粋です。
第1課 テモテとテトスの世界
第1課 テモテとテトスの世界 〜気づかいはパウロの特徴〜
教会や個人(テモテ、テトス、ピレモンなど)に対するパウロの手紙には、自分自身の交わりの必要ばかりでなく、キリストのからだ、つまり教会に対する深い関心があらわされています。パウロの手紙はどれも、当時の状況に対応するために書かれました。人間の性質や必要は基本的に今も昔も同じです。したがって、これらの手紙は現代の私たちにとっても重要な意味を持つのです。
これらの手紙が書かれたときの歴史的、文化的背景を知ることは、手紙の内容を理解するうえできわめて重要です。当時の状況、登場人物、問題について学ぶとき、キリストの教えが1世紀のクリスチャンと同様、私たちにとっても重要なものであることがわかります。
『テモテへの第Ⅰの手紙』および『テトスへの手紙』の著者(Ⅰテモ1:1、テト1:1 )
質問1 だれがパウロに著者となる権威を与えましたか。Ⅰテモ1:1、テト1:1(ガラ1:1比較)
パウロはイエス・キリストの忠実な使者として、神からゆだねられた使命を教会に伝えました(Ⅰコリ11:23参照)。パウロの信任状は最高位のもの、すなわち「神……の任命による」ものでした(Ⅰテモ1:1)。
質問2 だれがパウロを使徒にしましたか。ガラ1:1、11、12、Ⅱコリ12:1~7、11~13
キリストから使命をもってつかわされた者はだれでも、広い意味でクリスチャンの使徒です。バルナバ、エパフロデト、アポロ、シルワノ、テモテはそれぞれ「使徒」と呼ばれています(使徒14:14、Ⅰコリ4:6、9、ピリ2:25、Ⅰテサ1:1、2:6参照)。しかし、新約聖書においては一般的に、使徒といえば十二弟子とパウロをさします。キリストと交わった12人、それにパウロは、キリストから直接みことばを受けました(Ⅰコリ15:5、8参照)。使徒とはこの意味で、教会と世界のためにキリストから特別な啓示を受けた人のことでした。
質問3 パウロは父なる神とみ子について「わたしたちの救主」と言っていますが、これにはどんな意味がありますか。
救主なる神 —— Ⅰテモ1:1、2:3、4:10
救主なるキリスト —— エベ5:23、ビリ3:20、Ⅱテモ1:10
失われた人類を救う働きは父なる神、御子、聖霊の働きです。「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」(Ⅱコリ5:19)。キリストが「ご自身を傷なき者として神にささげられた」のは、「永遠の聖霊によって」でした(ヘブ9:14)。「ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」(テト3:5)。私たちの心に一緒に住んでくださるのは、ひとりの神(父なる神、御子、聖霊)です(ヨハ14:23参照)。
信仰によるパウロの子、テモテ(テモテへの手紙一 1章2節)
質問4 パウロはいつ、どこで、テモテと知り合いましたか。使徒16:1~3
「ルステラで悔い改めて、パウロの苦難を目撃した人々の中に、ひとり、のちにキリストのためにすぐれた働き人となった者がいた。それはテモテという名の青年だった。パウロが町からひきずり出されたとき、この年若い弟子は、見たところ生命のとだえたようなパウロのからだのそばに立って、傷ついて血まみれのパウロが、キリストのために苦難を受けることを許されたといって、さんびを口にしながら起きあがるのを見た人々のひとりだった」(『患難から栄光へ』上巻198、 199ページ)。
質問5 パウロはどんな親しみをこめた言葉をもってテモテに呼びかけていますか。Ⅰテモ1:2(Ⅱテモ1:2比較)
テモテはパウロの第1次伝道旅行のときにキリスト教に改宗しました(47年ごろ)。それ以来、パウロはテモテを信仰による自分の子供とみなしました(Ⅰコリ4:17、Ⅰテモ1:2、Ⅱテモ1:2)。テモテの母はユダヤ人でしたが、父はギリシア人でした(使徒16:1)。ユダヤ人の偏見もあって、パウロはテモテに割礼を受けさせました(3節)。テモテはパウロの第2次伝道旅行に同行しています(使徒16~18章)。パウロは第3次伝道旅行の際に3年間、エペソに滞在していたとき、コリントで起きていた争いを解決するためにテモテをそこに派遣しました(Ⅰコリ4:17)。のちに、パウロとテモテはマケドニヤ(使徒19:21、22)とコリント(ロマ16:21)に行っています。テモテは第3次伝道旅行の終わりにパウロについてエルサレムを訪問しています(使徒20:4、21:17)。61~63年ごろにパウロが初めて投獄されたとき、テモテはローマにいました(ピリ1:1、2:19~23、コロ1:1参照)。ローマにおける第1回目と第2回目の投獄のあいだに、パウロはテモテに1回目の手紙を書き(64年ごろ)、エペソの教会の牧師としてとどまるように求めています。
信じる者たちへの豊かな恵み(Ⅰテモ1:2)
質問6 パウロはテモテにどんな特別な祝福を願っていますか。Ⅰテモ1:2
「恵みとは、神の子らの心に働く神の不相応な祝福であり、平安とは、キリストによって神と和解しているというその子らの意識である。恵みは源泉であり、平安はその源泉から出る流れである(ロマ5:1比較)」(ウイリアム・ヘンドリクセン『新約聖書注解一牧会書簡解説』54ページ)。平安は罪に定められることがないことを意味します(ロマ5:1、8:1)。キリストの恵みが心の中で救いの力となっているからです(Ⅰコリ1:4~7、Ⅱコリ9:8、14参照)。私たちは悩みの中にあっても天の平安を持つことができます(詩119:165)。
質問7 次の聖句にはあわれみの情がどのように表現されていますか。それはとくにどんなことを意味しますか。ルカ10:33、37(ロマ9:23、11:31、イザ54:7比較)
あわれみという言葉はパウロのあいさつとしてはテモテ第Ⅰ・1:2とテモテ第Ⅱ・1:2にしか出てきません。パウロはこの言葉をテモテに対する祝福として付け加えたのでしょう。なぜなら、彼は若いテモテがエペソで数々の困難に直面していることを知っていたからです。エペソの住民は大部分、豊穣の女神、アルテミスに帰依していました。
「恵みとあわれみを一般的に区別するなら、恵みはゆるすことであり、あわれみは同情することである。恵みは罪人に対する神の愛であり、あわれみはみじめな者や哀れむべき者に対する神の愛である。恵みは身分と関係があり、あわれみは状態と関係がある。この区別はかなり正しいと言えるが、あわれみという言葉の本来の意味はもっと広い場合がある。それは苦悩の中にある者たちに実際に注がれる同情ばかりでなく、『深い悲しみの中にある』場合であれ、もっと一般的に『助けを必要としている』場合であれ、神の被造物、とくに神の民に与えられる根本的な慈愛をもさしている」(ヘンドリクセン『牧会書簡解説』55ページ)。
エペソの教会(テモテへの手紙一 1章3節)
質問8 パウロがテモテに牧師としてエペソにとどまるように勧めたのはなぜですか(Ⅰテモ1 :3)。キリスト教が初めてエベソの町に伝えられたのはどんな方法によってでしたか。使徒18:18~21
パウロは第3次伝道旅行の初期にふたたびエペソを訪問しました(使徒19:1)。彼はここに約3年滞在して、福音を宣く伝えたり教えたりしました。反対に会ったにもかかわらず、伝道は大きな成果をおさめました(使徒19章参照)。
質問9 第3次伝道旅行を終えてエルサレムに帰るに際して、パウロはエベソの長老たちにどんな注意と勧告を与えましたか。使徒20:28~31
「パウロは将来を展望して、教会には、外部と内部の両方から敵の攻撃が襲ってくるのを見、震えおののいた。彼は、厳粛で熱誠のこもった口調で、兄弟たちが目を覚まして、彼らの神聖な義務を守るように命じた」(『患難から栄光へ』下巻80ページ)。
パウロはローマにおける第1回目の投獄のあいだにエペソの教会に手紙を書きました。彼はその中で、救いの福音を受け入れることによって与えられる信者の一致について記しています。
第1回目の投獄ののちに、パウロは『テモテヘの第Ⅰの手紙』を書き、その中でテモテにエペソにとどまるように求めました。彼は教会の組織と管理に関して、また偽りの教えへの対応に関して、神から受けた指示を伝えました。教会が敵意に満ちた世界にあって存続し、その使命を達成するためには、健全な教えが熱心な愛と一つに結び合わされなければなりません。
エペソの教会は黙示録の中で、1世紀におけるキリスト教会の経験についての型としてヨハネに示されています(黙示2:1~7)。パウロによって築かれ、テモテと、のちにヨハネによって育てられたエペソの教会も、やがて初めの愛を失ってしまいます。しかし、勝利を得る者にはいのちの木の実を食べる特権が与えられるのです。
執筆時のパウロの状況(テモテへの手紙一 1章3節)
質問10 ローマにおける第1回目の投獄から解放されたとき、パウロはどんな状態にありましたか(使徒28:30、31)。多くの旅行に示されているパウロの熱心さから、あなたはどんなことを学ぶことができますか。
パウロはローマから釈放されたのち、紀元63年から66年にかけて次のような伝道旅行を行ったと考えられています。
パウロは釈放され、テモテをピリピにつかわし、自分が釈放されたことを伝えます(ピリ2:19~23)。
パウロは小アジア方面に旅行し、テトスをクレテ島に残します(使徒2:11、テト1:5)。
パウロは計画していた通り、エペソからコロサイまで行き(ピレ22——コロ4:9比較)、それからエペソに戻ります。
ピリピから来たテモテがエペソでパウロに加わります。パウロはエペソを去るに当たって、テモテにエペソに残って信者のために働くように頼みます(Ⅰテモ1:3、4)。
パウロはマケドニヤに行きます(ピリ2:24、Ⅰテモ1:3)。彼はすぐにエペソに戻りたいと望みながらも、それが遅れるのではないかと思っていました(Ⅰテモ3:14、15)。パウロはマケドニヤ(あるいはピリピ)から『テモテヘの第Ⅰの手紙』と『テトスヘの手紙』を書きます。
パウロはニコポリ(エピルスの)に行き、そこでテトスと共に冬を過ごします(テト3:12)。それからたぶん、テトスをつれてスペインに旅行します(ロマ15:24)。彼はスペインから小アジアに行き、エペソの南にあるミレトにトロピモを残します(Ⅱテモ4:20)。
パウロはトロアスでカルポを訪ね、彼の家に上着を置いてきます(Ⅱテモ4:13)。それからローマに行き、そこで再び逮捕されます(彼が逮捕されたのがトロアスか、コリントか、ローマか、あるいはほかの場所かは明らかではありません)。(ヘンドリクセン『牧会書簡解説』39、40ページより)
「パウロは試練と不安を耐え抜いたが、そのために体力が次第にそこなわれていた。年令から来る種々の疾患がふりかかってきた。……働く時間が短くなるにつれて、彼の努力はますます熱心なものとなった。彼の熱意には限界がないように見えた。断固たる目的を持ち、敏速に行動し、強い信仰を抱いて、彼は多くの土地を教会から教会へと旅し、信者たちが……福音に固くとどまることができるように、力のかぎりあらゆる手段をつくして、信徒たちの手を強めることに努力した」(『患難から栄光へ』下巻183ページ)。
まとめ
テモテとテトスに対する使徒パウロの手紙は1900年以上も前に書かれました。それ以来、キリスト教は世界的な宗教の一つになりました。しかしながら、各地域にある教会は共同の礼拝、交わり、宣教の基本的な組織です。パウロが教会組織教会指導者の役割、教会員の相互的、対社会的な関係について書いた目的を理解するためには、当時の地理的、時代的背景について知ることが必要です。これら二つの牧会書簡に記されている勧告は、現代の私たちにとっても非常に重要な意味を持ちます。
第2課 健全な教えを教える
第2課 健全な教えを教える
パウロがこの手紙を書いたのは、テモテに神の使命を再確認させるためでした。テモテの使命は困難な時期にエペソの教会を指導することでした(Ⅰテモ1:3)。当時、教会は「違った教」を説く教師たちの攻撃にさらされていました。この異端がパウロにテモテヘの最初の手紙を書かせる直接的な動機となりました。エペソの教会を悩ませていたこの異端はどのような性質のものだったのでしょうか。テモテ第Ⅰ・1:4にいくつか手がかりが与えられています。
イエス・キリストの栄光の福音が、この困難な状況におけるテモテの働きの主題となるのでした。彼は失望する必要がありませんでした。なぜなら、その使命と希望が主イエス・キリストから来ていたからです(Ⅰテモ1:1参照)。彼は教会内の反対勢力と対決しなければなりませんでした。これらの者たちは偽りの教えによってクリスチャンの一致と神の律法への服従を失わせようとしていました。
エペソにおけるテモテの働き(テモテへの手紙一 1章3節)
質問1 パウロ自身は北のマケドニヤに行く一方で、テモテをエぺソに残したのはなぜですか。Ⅰテモ1:3
神のための私たちの働きは聖なる命令です。私たちの奉仕は、神のために働くことが義務であり、また特権であることの理解にかかっています(Ⅱコリ5:14参照)。パウロは、天の限りない恵みとあわれみと平安が与えられているという確証をもってテモテを励ましています。彼はテモテに、自分自身の困難で挑戦に満ちた働きも神の力によって支えられてきたと言っています(Ⅰテモ1:12)。
質問2 教会員の中に「違った教を説く」人たちがいるのはなぜですか(Ⅰテモ1:3) 。Ⅱテモ4:3、テト1:1 1
にせ教師の中には熱心だが間違っている人たちがいます。ある人たちは聖書の中のひとつの真理を過度に強調することによって狂信におちいっています。主イエス・キリストを見失うとき、私たちは利己的で古い人間性に支配されるようになります。霊的な働きを装って、偽りに満ちたサタンの破壊的な教えが、まず自称「教師」の中に、次に誠実だが欺かれている教会員の中に徐々に入り込んできます。クリスチャンはみな、いつでも聖霊の導きと守りを必要としています(ヨハ16:13参照)。
聖書学者の中には、エペソのにせ教師たちが教会長老から出ていたと考えている人たちがいます。「使徒行伝20:17~35に記されているように、エペソの長老たちに対するパウロの告別の説教は、『容赦なく群れを荒す』『狂暴なおおかみ』が『あなたがた自身の中からも』出てくるであろうと、はっきり予言している(29、30節)。にせ教師がたぶん長老の中から出てくるということは、テモテヘの第Ⅰの手紙の中のいくつかの事実からも裏づけられる。(1)彼らは自らを長老の責任(5:17、3:2)である「律法の教師」(1:7)とみなしていた。(2)パウロが二人の名をあげ、除名している(1:19、20)。……(3)この手紙が繰り返し長老について述べている」(ゴードン・D・フィー『テモテ第Ⅰ・Ⅱ、テトス』5、6ページ)。
真理を説く(テモテへの手紙一 1章3節)
質問3 パウロはどんな強い言葉を用いて、テモテににせ教師に対処するように指示していますか。テモテに与えられた指示はどのようなものでしたか。Ⅰテモ1:3、4
「命じなさい」という言葉は、「命令する、指示する、教える、指導する」という意味を持つギリシア語から来ています。それには、上官からの厳格な命令を伝えるという意味があります。王からの命令によって動くクリスチャン兵士として、テモテはこれらの命令を教会員に伝えるのでした。
「祝福に満ちた神の栄光の福音」はパウロにゆだねられました(Ⅰテモ1:11)。「主はこう言われる」から少しでもそれることは、のろわるべきことです(ガラ1:8、9)。神によって啓示されたこの福音には、二つの重要な要素が含まれています。(1)キリストが歴史において成就されたこと(Ⅰコリ15:1~4)(2)キリストが信じる者の心の中に成就してくださること(ガラ2:2、16、20、3:1~3、ロマ3:21~31、6:18、8:9、10)。パウロの福音は「真理の言葉」「あなたがたの救の福音」でした(エペ1:13)。それはイエス・キリストについての真理であり、罪人を変える彼の働きについての真理です。テモテはエペソ教会のにせ教師たちに偽りを教えるのをやめさせなければなりませんでした。
歴史は繰り返されている
「サタンは、世界に近づいている全体的な破滅に、神の残りの民を巻き込もうと望んでいる。キリストの再臨が近づくにつれて、彼らを敗北させようとするサタンの努力は、更に強力に、決定的になる。長く守られてきた教えについての信仰をぐらつかせるような、何か新しい光、新しい啓示を持っていると公言する男性や女性が現れる。彼らの教義は神のみ言葉のテストには耐えられないが、それでも人びとは欺かれるのである。
偽りの報告が伝えられると、ある人びとは、このわなに掛かる。……このような精神は、神からのメッセージに対する、あからさまな反抗によって表されるとは限らないが、根深い不信仰がいろいろな形で表現される。語られるすべての偽りが、この不信仰を養い、強める。そしてこの方法によって多くの魂が間違った方向に進むようにあやつられるのである」(『教会への勧告』下巻427ページ)。
エペソ人の異端(テモテへの手紙一 1章4節)
質問4 作り話や系図にとらわれることの危険について、パウロは何と言っていますか。Ⅰテモ1:4、6:4
エペソで教えられていた「作り話やはてしない系図」とはどのようなものだったのでしょうか。
1.この偽りの教えについて知る十分な手がかりは与えられていません。J・N・D・ケリーはテモテ第Ⅰ・1:4について次のように述べています。「これらの言葉は異端の性質を明らかにしてくれるように見えるが、その解釈はきわめて不明瞭である」(『牧会書簡解説』44ページ)。そうだとしても不思議ではありません。なぜなら、パウロの目的は誤りを宣伝することではなく、福音を宣べ伝えることだったからです。
2.エぺソやクレテで教えられていた作り話はユダヤ人によるものと考えられます(テト1:14)。それには律法についての論争が含まれていました(Ⅰテモ1:7、テト3:9)。「これらの作り話や系図は、族長の系図を中心として旧約聖書を寓意的あるいは伝説的に解釈することと関係があったと思われる」(ケリー、44ページ)。
ラビの書いたものには、旧約聖書を空想的に、神話的に書き直したものが数多く含まれていました。「昔から、ラビは旧約聖書に見つけ出した『ヒント』をもとにして、『作り話をする』(それも際限のないものを)ことで知られている。彼らは一連の系図(たとえば創世記、歴代志上、エズラ記、ネヘミヤ記など)から一つの名前を取り出して、奇抜な物語を作るのが常であった。聖書に基づいたかに見える際限のない誇張が会堂における定期的プログラムの一部になっていて、のちにタルムードのハガダーに収められたのである」(ウイリアム・ヘンドリクセン『新約聖書注解一牧会書簡解説』58、59ページ)。
3.また、エベソの教会が初期のグノーシス主義と闘っていたとも考えられます。ギリシア人は至高の神が物質と接触したという思想を嫌いました。そこでグノーシス主義者たちは、一連の霊的存在物が神から出てきて(「はてしない系図」)、その中の最も下位の者がこの世界を創造したと教えました。
真理は人を啓発する(テモテへの手紙一 1章4節、5節)
質問5 空想的な問題や理論の代わりに、クリスチャンはどんな教えを宣べ伝えるべきですか。Ⅰテモ1:4
この聖句の後半は次のようにも訳すことができます。「神によって求められている信仰にもとづいた管理よりも議論をもたらすだけである」。この「管理」という言葉には、「秩序」「計画」「訓練」という意味があります。真の福音の教えは神の計画に従って生きる忠実な管理者を生み出します。にせ教師の生み出す問題や思想は聞く者の信仰を強めることがありません。「健全な教」(Ⅰテモ1: 10)は人の信仰を強めます。キリストの教えは「空論」(6節)ではなく、むしろ「信心にかなう」ものです(Ⅰテモ6: 3)。
質問6 にせ教師に対するテモテの命令にはどんな目的がありましたか。Ⅰテモ1:3、5
「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている」(5節)。この命令は、テモテがエペソの教会のある者たちに与えようとしていた命令、つまり違った教えを説いてはならないという命令と同じものでした(3節)。
「清い心……から出てくる愛」愛は分裂させるどころか啓発するものです(Ⅰコリ13: 4~7)。命の泉は心から流れ出ます(箴4:23)。「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」(マタ5:8)。
「正しい良心」ケリーは良心を、「自己の行動の道徳性についての内的認識」と定義しています(「牧会書簡解説」47ページ)。(ロマ2:15、9:1参照)この認識は聖霊またはサタンの影響を受けることがあります。それを決めるのは私たち自身です。
「偽りのない信仰」偽りの教えは分裂、偽善そのほか多くの問題を引き起こしていました。「キリスト教思想家の大きな特徴は真実にある。彼は真理を発見する願望において真実であり、またそれを伝達する願望において真実である」(ウイリアム・バークレー『テモテ、テトス、ピレモンヘの手紙』34ページ)。
律法の目的(テモテへの手紙一 1章6節~11節)
質問7 これらのにせ教師たちは二つの根本的な過ちを犯していました。それは何ですか。Ⅰテモ1:7
パウロはガラテヤのクリスチャンに対して、正しい福音に立ち返るように強く勧めています(ガラ1:6~9)。
サタンは「多くの自称クリスチャンたちに、キリストを尊ぶという口実の下に、道徳律を軽視させ、その戒めを犯しても罰はないと教えさせるのである。神のしもべは、信仰を曲解するこれらの人々に、しっかりした断固たる態度で立ち向かい、真理のことばによって、恐れることなく彼らの誤りを暴露しなければならない」(『患難から栄光へ』下巻71ページ)。
質問8 あなたは律法の正しい役割を隣人にどのように説明しますか。Ⅰテモ1:8~11
律法を無益な議論の根拠として用いることは律法の正しい用い方ではありません。律法は罪人を死に定める一方で(ロマ3:20、6:23、7:7)、罪人を罪責からの唯一の救い主であるキリストに向けます(ガラ3:24)。
「律法は正しい人のために定められた」のではありません(Ⅰテモ1:9)。なぜでしょうか。クリスチャンはもはや律法を必要としないのでしょうか。クリスチャンは「不法な者」「法に服さない者」ではないからでしょうか。神の律法の目的は、信者であれ未信者であれ、人の心に罪を指摘することであり、罪人をキリストに向けることです。もし心がキリストによって支配されているなら、その人は聖霊に満たされています。彼は罪を犯すことがなく(Ⅰヨハ3:3~9)、悪しき者の害を受けることもありません(Ⅰヨハ5:18)。したがって、彼は律法によって罪に定められることがありません(ロマ8:1)。律法はなおも義の標準ですが、キリストの完全な模範は標準としての律法を越えており、キリストの臨在は律法の断罪を取り除くのです。「すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」(ロマ8:3、4)。
まとめ
エペソの教会指導者たちは、パウロが啓示によって与えられ、テモテに伝えたのと同じ教えを伝えるべきでした。彼らの中には、福音に反するユダヤ思想やギリシア思想の影響を受けていた者たちがいました。誤りは真理によって、またクリスチャンの一貫したあかしによって示されなければなりませんでした。神の不変の律法は正しい光の中で示されるべきでした。偽りの教えの「空論」から、より高い霊的生活へと高められることによって、エペソの信者たちはキリストの力によって神の恵みを体験すべきでした。
第3課 福音の宣布と擁護
第3課 福音の宣布と擁護
コーフマン判事は、アメリカ合衆国に対する反逆罪で死刑の判決を受けた旧ソ連のスパイ、ローゼンバーグ夫妻の裁判において裁判長を務めた人です。裁判の最終弁論の中で、ローゼンバーグ側の弁護人が言いました。「裁判長、私の依頼人が求めているのは正義です」。
これに対して、コーフマン判事は答えました。「当法廷はあなたの求めている正義を与えた。あなたが本当に求めているのは、あわれみである。しかし、当法廷にはそれを与える権限はない」。
ここに地上の法廷と神の法廷との違いがあります。もし使徒パウロや私たちが天の法廷によって正義だけを与えられるとしたら、私たちは永遠の死を宣告されることでしょう。しかし、十字架上のキリストの犠牲のゆえに、私たちはあわれみを受けることができます。
罪人に与えられている神のすばらしい恵みが、今回の課の研究のテーマです。パウロは自分がどのようにして神のみわざのために選ばれたのかを思い起こしています。人間的に見れば、パウロはキリスト教の働きにふさわしくありませんでした。しかし、キリストはその限りないあわれみのうちにパウロを召し、働きにふさわしい者としてくださったのでした。
キリストの救いの恵み(テモテへの手紙一 1章12節)
福音を宣く伝えることは限りない特権であると感じたことが、「パウロの伝道の原動力となり、テモテヘの第Ⅰの手紙などに権威を与えるものとなった。……すべての牧師は、神の栄光をあらわす大いなる働きが自分にゆだねられているという、この基本的な自覚を持つべきである」(『SDA聖書注解』第7巻289ページ)。
質問1 イエスはパウロの生活と働きの中でどんな役割を果たされましたか。Ⅰテモ1:12
使徒パウロは自分自身をイエス・キリストの救いの恵みについての「最も重要な証拠」と考えていました。自分自身の救いについてのパウロのあかしの言葉(使徒9:1~22、22:1~21、26:9~18)を読むとき、私たちも十字架につけられ復活されたキリストの豊かな恵みと救いの力にあずかっているのだという思いを強くします。
ウイリアム・バークレーによれば、パウロは4つのことをキリストに感謝しています。
1、彼はキリストが自分を選んでくださったことを感謝しています。
2、彼はイエスが最大の迫害者であった自分を信頼してくださったことを感謝しています。
3、彼はイエスが、たとえ名誉を受けるためではなく仕えるためであっても、自分を任命してくださったことを感謝しています。
4、彼はイエスが自分を強くしてくださったことを感謝しています。
キリストはご自分の使命を達成するのに必要な力を与えないままに私たちを任命されることは決してありません(『テモテ、テトス、ピレモンへの手紙』41〜43ページにもとづく)。
質問2 イエスによって「召される」とはどういうことですか(ヨハ1:43——ヨハ20:21、22比較)。イエスはどのようにしてご自分の弟子たちを働きにふさわしい者とされましたか(マタ10:1、5、使徒1:8、2:4)。
「人が従事し得る仕事の内で最も大きく、また最も貴いものは、罪人を神の小羊に導くことであり、真の教役者は神の目的を成就することにおいて神と共に働くものであります。神は教役者に、行って教え、キリストを宣べ伝えよ、 神の恩恵、恵みおよびあわれみを知らぬ民を教訓せよと言われます」(『福音宣伝者』10、11ページ、一部改訳)。
神をそしる者から信じる者へ(テモテへの手紙一 1章13節)
質問3 イエス・キリストと出会う前のパウロはどんな行動をしていましたか。Ⅰテモ1:13、使徒9:1、2、22:4、26:9~11
パウロは自分の人生を振り返っていますが、それは自分の不名誉な過去を誇るためではなく、むしろ熱烈な十字架の敵をも完全に救ってくださる神の力をたたえるためでした。彼は三つの決定的な表現を用いて、イエスとクリスチャンに対する自分の過去の態度を描写しています。(1)彼は「神をそしる者」でした。(2)彼は「迫害する者」でした。(3)彼は「不遜な者」でした。
旧約時代においては、神を汚すことは死刑に値することでした(レビ24:10~23、マタ26:65、66参照)。イエスがパウロをゆるしてくださったばかりでなく、自分が熱心に根絶しようとしていた福音の使徒としてくださったゆえに、パウロの感謝と賛美は言葉では言い表せないものでした。自分のゆるされた過去を思い出すことによって、パウロは(1)高慢におちいることから守られました。(2)いつでも感謝の念を持つことができました。(3)伝道の熱意がわいてきました。(4)自分の過去を悲しんでいる人々を力付けることができました。
「サタンよりも力あるおかたが殉教したステパノに代わってサウロ〔パウロ〕を選び、イエスの御名を宣べ伝え、そのために苦しみ、イエスの血による救いの喜ばしい知らせをあまねく伝えようとされた」(『パウロ略伝』20ぺージ)。
質問4 パウロがあわれみを受けたのはどんな理由からでしたか。Ⅰテモ1:13
パウロがキリストに従う者たちを迫害した熱心さは無知から来ていました。旧約の聖所の儀式においては、故意の、計画的な、公然たる反逆罪はゆるされませんでした(民数記15:30参照)。しかし、気づいていながら犯した罪と同様、無知のために、あるいは不注意
のために犯した罪に対しては、ゆるしが与えられました(レビ4:2~4、13~15、22~31、5:1~6、 15~17、 6:1~6参照)。彼はユダヤ人的な背景において語っているように思われます(ヘブ10:26~31比較)。
イエスがパウロにご自身を啓示されたとき、パウロの不信仰はイエスの豊かな恵みのゆえに消え去りました。
恵み、信仰、愛(テモテへの手紙一 1章14節)
質問5 パウロは自分に対するイエスの恵みについて何と言っていますか。Ⅰ テモ1 : 1 4( Ⅰ コリ1 : 4 ~7 比較)
パウロの過去の生き方に関係なく(Ⅰテモ1 : 13)、イエスは彼をゆるし、救ってくださいました。パウロの時代よりも何世紀も前に、神はモーセにご自分の聖なる品性を啓示されました(出エ34:6)。堕落した人類に対する神のみわざには、いつでもあわれみと恵みがあらわされています(Ⅱテモ1:9参照)。救い主はすべての人の罪を負われるので(Ⅰヨハ2:2)、救いの恵みはすべての人に提供されています。しかし、救われるのはそれを自発的に受け入れる者だけです(ロマ5:17)。
質問6 私たちの行いは救いの中でどんな役割を果たしますか。テト3:5(ロマ3:20、 11 :6、エペ2:8~10、Ⅱテモ3:17)
パウロの手紙における「律法のわざ」とは、袖の恵みを得るためになされるわざのことです。そのようなわざは人を救うものではありません。人を罪から救うのはキリストの恵みだけです。「信仰のわざ」が不可欠なのは、それが私たちを救うからではなく、むしろ私たちが神の救いの恵みを受け入れていることの証明となるからです。もし信仰のわざ(神の律法に従うことを含む)が欠けているなら、それは恵みによって救われていないことの証拠です。ヤコブは、「わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」と言っています(ヤコ2:18)。私たちが自分の行いによってさばかれるのはこのためです(マタ16:27、Ⅱコリ5:10、黙示22:12)。
「あなたのわざは神の前におけるあなたの地位や立場と何ら関係がないなどと考えてはならない。さばきにおいては、何をなしたか、あるいは何をなさなかったかによって宣告が下されるのである(マタ25:34~40)」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻381ぺージ)。
質問7 パウロが経験したこの豊かな救いの恵みには、どんな二つの特性がともなっていましたか。Ⅰテモ1:14
パウロとイエス・キリストの関係は信仰によって結ばれていました。神の恵みがパウロに与えられ、キリストの愛がパウロの生活にあらわされていました。
罪人のかしらに対するあわれみ(テモテへの手紙一 1章15節~17節)
質問8 パウロは自分自身を他の人と比べてどのように評価していますか。Ⅰテモ1:15
自分自身を罪人のかしらとみなすことによって、パウロは自らに注目を引きつけようとしていたのではありません。彼自身を自分よりも価値のある人々と比較することによって、彼はイエスが罪人を「いつも〔完全に、十分に、全的に〕」救うためにこの世に来られたという事実をとくに強調していたのでした(ヘブ7:25)。イエスは、自分自身を最も望みのない者とみなしていたパウロを救うことができました。彼はすべての人を救うことができます(ヨハ3:16 参照)。彼はあなたも救うことができます。
「心から回心したクリスチャンは、初めてキリストに意志をささげたときに経験した無力感を決して忘れない。日ごとに神の力を心にいただかないなら、生活の中にクリスチャン品性の恵みをあらわすことができないということを、彼は知っている」(「S DA聖書注解」第7巻290ページ)。
「わたしたちが、イエスに近づき、主の品性の純潔さを明らかに認めれば認めるほど、罪がどれほどはなはだしく恐ろしいものであるかをさとり、自己を称揚する気持ちにはなれなくなる。清い者として神に認められるほどの人は、自分の善良さを誇ったりはしない」(『キリストの実物教訓』140ページ)。
質問9 神のあわれみを受けた理由として、パウロはどんなことをあげていますか。Ⅰテモ1:16
パウロは、イエスの豊かな救いの恵みによって罪人がどのように変えられるかということの見本となりました。彼の生涯はイエスの継続的なあわれみと忍耐の証拠でした。パウロはすべての罪人の「型」、またすべての罪人を変える力を持った神の恵みの生き証人でした。
それゆえに、パウロの唇からは自然に賛美があふれ出たのでした。「世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように」(Ⅰテモ1:17)。パウロばかりでなく、神によってあがなわれた者はみな、私たちを救ってくださった唯一の神に栄光と賛美をささげるのです(黙示4:10、11、7:9~12参照)。
テモテへのパウロの命令(テモテへの手紙一 1章18節〜20節)
質問10 パウロがテモテにこれらの指示を与えたのはなぜですか。それらがテモテの必要にかなっていたのはなぜですか。Ⅰテモ1:18
「パウロがここで言っている預言とは、たぶんテモテの任命において語られたもので、伝道における将来の献身と成功に関するものであったと思われる(使徒16:2参照)。これらの言葉はまた、違った教えを説いている者たちを戒めるというテモテヘの『命令」……が教会の預言者たちを通して神によって承認されたものであることを示唆している」(「SDA聖書注解」第7巻291ページ)。
質問1 1 テモテはどんな二つの重要な霊的特性を守るべきでしたか。Ⅰテモ1:18
信仰を表明するだけでは十分ではありません。私たちはその信仰の通りに生きなければなりません。その人の生き方が福音の原則に調和していなければ、いくらキリストを説いたとしても無益です。クリスチャンのあかしは単なる言葉による表現ではありません。それはキリストの力を示す生き方です。
質問12 だれが信仰の「破船」に会ったと言われていますか。パウロはどんな行動をとりましたか。Ⅰテモ1 :19、20
ヒメナオとアレキサンデルは自分たちの「正しい良心」とキリスト教信仰の原則とを捨てました。ヒメナオはテモテ第Ⅱ・2: 17に出てくる人物、またアレキサンデルはテモテ第Ⅱ・4:14に出てくる銅細工人であると思われます(使徒19:33、34比較)。
「このふたりをサタンの手に渡したのである」(20節)という言葉は、コリント第Ⅰ:5~3との関連において理解する必要があります。パウロはこれらの聖句の中で、重大で公然たる罪を犯した者を罰するようにコリントの教会に強く勧めています。
「これらの者たちは福音の信仰から離れたばかりでなく、パウロに与えられたすばらしい啓示をサタンの力のせいにすることによって恵みの御霊を軽んじたのであった。彼らは真理を拒むことによって、真理に対する憎しみに満たされ、真理の忠実な擁護者たちを滅ぼそうとしたのである」(『SDA聖書注解』第7巻912ページ、エレン・G・ホワイト注)。
まとめ
パウロは今回の課、自分自身のこれまでの歩みについて赤裸々に語っています。それは、私たちがどんな見込みのない者をも変える福音の力を理解するようになるためでした。彼はキリストのゆるし、あわれみ、忍耐に心から感謝しています。パウロが大胆にもテモテに信仰をかたく保ち、キリストの忠実な兵士となるように命令することができたのは、彼自身の救いに対する確信と信仰のゆえでした。
第4課 祈り、慎み、関係
第4課 祈り、慎み、関係
19世紀の有名なイギリスの説教者、チャールズ・H・スポルジョンは、メトロポリタン教会堂で聴衆を魅了しました。あるとき、彼は訪問者たちに教会を案内していました。一通り礼拝堂を案内したあとで、彼は言いました。「では、次に暖房装置をお見せしましょう」。驚いたことに、そこには祈祷会で祈りをささげている400人の信者の姿がありました。
キリストは終わりの時代のご自分の教会のなまぬるい状態を悲しんでおられます。「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」(黙示3:15)。この霊的曼性病をいやすためには、各教会がメトロポリタン教会堂のような暖房装置を持つことです。定期的に心を一つにして祈ることによって、教会の霊的生命が活性化されるはずです。冷たい、あるいはなまぬるい人間関係が相互の尊敬と愛に満ちたクリスチャンの関係へと変えられます。形式主義、流行、狭い職人気質は、聖霊の霊感に満ちた温かさと主イエス・キリストの再生の愛の前に消え去ることでしょう。
教会における執り成しの祈り(テモテへの手紙一 2章 1節、2節)
質問1 エベソの教会でどんな祈りをささげるように、パウロはテモテに強く勧めていますか。Ⅰ テモ2 : 1 、2 ( Ⅰ ペテ2 : 1 7 、ロマ1 3:1比較)
めったに会わない人や知らない人のための祈りは、その人たちの役に立つでしょうか。卑しく、力のないクリスチャンが「王たちと上に立っているすべての人々」のために祈ることには、どんな祝福があるのでしょうか( Ⅰ テモ2 : 1 ) 。確かに私たちの祈りは自分自身の生き方に影響を与えます。主が私たちに人のために祈るように求められるのは、私たちに神と正しい関係に入るように望んでおられるからです。上に立つ人々との正しい関係は神と正しい関係にあるときに自然にもたらされるものです。
しかし、私たちが他人のために祈るのは自分自身の祝福のためでしょうか。王や上に立つ人々は私たちの祈りによって益を受けるのでしょうか。主は私たちが祈る前から彼らのために働いておられるのではないでしょうか。では、私たちが彼らのために祈るように教えられているのはなぜなのでしょうか。私たちの祈りが神を変えるのでしょうか。もちろん、そうではありません(マラ3:6、ヘブ13:8参照)。
神がご自分の民を選ばれたのは、彼らを救いの計画における協力者とするためでした。たとえ聖霊が福音を知る機会のない失われた人々のために働かれるにしても(ロマ2:11~16)、イエスは私たちに対して全世界に出て行って福音を宣く伝えよと命令されるのです(マタ28 : 19、20)。未信者に対する私たちの働きは、神の祝福によって、そのままでは滅びるしかない多くの魂を救いに導きます。同じように、私たちの祈りも大きな力を発揮します。宣教師は祝福され、支配者は罪を悟り、失われた者たちは私たちの祈りによってキリストに導かれます(『各時代の大争闘』下巻269、270ページ参照)。
質問2 神の介入によって支配者の布告が撤回された実例を聖書の中から学んでください。
ダニ2 : 17~23、46~48
ダニ3 : 20、24、25
ダニ10 : 2、13、14
使徒12 : 1~14
すべての人のあがない(テモテへの手紙一 2章3̅7節)
質問3 パウロはすべての人のために祈る理由としてどんなことをあげていますか。Ⅰテモ2:3、4
この「すべての人」(4節)には未信者も含まれています。私たちは自分や教会に好意的な人々ばかりでなく、敵のためにも祈るべきです。
2世紀の教会におけるグノーシス派の教師たちは、まだ十分には形成されていなかったが1世紀の教会に広く普及していた種々の思想を説いていました。この教えによれば、すべての人が神の特別な生命の光を与えられているわけではなく、完全な救いにあずかることができるのは一部の人だけでした。もしこれがエペソの教会に見られた偽りの教えの一つであったとすれば、テモテに対するパウロの勧告はそれに対する有効な答えだったことになります。救いはすべての人に平等に提供されています。ですから、私たちはすべての人のために祈るべきです(「教会へのあかし」第7巻14、15ページ参照)。すべての人が神の愛について、また神との一致の必要性について自覚するのです(ヨハ1 2 : 3 2 、1 6 : 8 ~1 1比較)。
質問4 パウロが強調している全人類のためのキリストの重要な二つの働きは何ですか。Ⅰテモ2:5、6
1世紀に始まったグノーシス主義の異端は、神と人間とのあいだには多くの介在物があると教えていました。一方、パウロは、仲保者はただひとり、すなわちすべての人の罪のために死んでくださったイエスだけであると強調しています。「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」( Ⅰ ヨハ2 : 1、2)。
パウロの言葉の重要性は時代を越えたものです。今日に至るまで多くのクリスチャンが、天国にあっていつまでも生きている「聖人」たちの執り成しを信じています。パウロは、神だけが不死であって(Ⅰテモ6 : 16)、キリストだけがカルバリーで獲得した功績を取りつぐことができると教えました。
今日、ある人たちは、神によって救いに定められた者たちだけがキリストの救いの恵みを受けることができると教えています。しかし、聖書によれば、キリストはすべての人の罪を負われたゆえに、「すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられ」ます(Ⅰテモ2 : 4)。もし望むならば、彼らはみな救いにあずかることができるのです。なぜなら、イエスは「すべての人のために死を味わわれ」たからです(ヘブ2:9)。
祈りによる一致(テモテへの手紙一 2章8節)
質問5 祈りはどんな精神をもってなされるべきですか。Ⅰテモ2:8
パウロは先に、信者は「すべての人」のために祈るべきであると言っています(1節)。明らかに、これは女性を含みます。私たちが祈るように求められている「すべての人」とは、主が救われるように望んでおられる人々のことです(4節)。神は性別にかかわりなくすべての人間を救おうとしておられます。しかし、パウロは8節において男性に特別な勧告を、続く9~11節において女性に特別な勧告を与えています。8節の「男」というギリシア語は、女に対する男を意味するとも考えられます。
8節の「どんな場所でも」という言葉は、公の礼拝が行われるどんな場所でもという意味であると、ある人々は考えます。さらに注解者の中にはもう一歩踏み込んで、男だけが公の礼拝で祈るべきであると主張する人々がいます。しかし、この聖句にはそのようなことは言われていません。言われているのはただ、男は他人の前で祈る場合には一定の態度をとるべきであるということだけです。
「怒ったり争ったりしないで」という言葉は、他人がそこにいることを意味します。たぶんエペソのクリスチャンのあいだには、家庭や教会における霊的指導者としての男性の役割をめぐって何らかの論争があったのだと思います。そのため、男性が祈りを指導するときに怒りや争いが生じたのでしょう。
質問6 「きよい手をあげて」(Ⅰテモ2 : 8)という表現は何を意味しますか。
きよい手は心の状態と関係があります。きよい心はキリストの救いにあずかっているクリスチャンに欠かすことのできない特徴です(Ⅰペテ1 : 2、ヘブ1 2 : 1 4参照) 。パウロは、祈るときには手をあげなければならないと言っているのではありません。礼拝する者の心の霊的状態が問題とされているのです。
パウロの勧告の意味は、男性が祈るときにはいつでも心を完全に神にささげ、霊的指導者としての役割に関して争ってはならないということのようです。
慎みのない服装は礼拝の雰囲気をそこなう(テモテへの手紙一 2章9節、10節)
質問7 女性のあるべき態度や振る舞いについて何と言われていますか。Ⅰテモ2:9
テモテ第Ⅰ・2 : 1~7 は、クリスチャンがすべての人のために祈るべきであることを強調しています。キリストがすべての人のために死に、彼の愛に応答する人たちのために天で執り成しておられるからです。8節は男性に対して、「怒ったり争ったりしないで」きよい精神をもって祈るように教えています。明らかにエペソ教会の祈りの行為が論争のテーマになっていました。9節の初めの言葉は「同じように」あるいは「同様に」を意味します。「同じように」女性も祈るべきでしたが、同時に慎みのある服装を心がけるべきでした。
この聖句は、一部の女性が間違った態度やふさわしくない服装のままで教会の霊的活動に携わっていたことをほのめかしています。グノーシス派の教師たちの中には、ある女性はすぐれた霊的能力を持っており、教会に特別な知識を授けることができると教える者たちがいました。このような行為が教会の霊性と活動にどのような影響をもたらすか想像してみてください。
質問8 クリスチャンの女性はどのような服装を心がけるべきですか。その理由は何ですか。Ⅰ テモ2 : 9、1 0(Ⅰペテ3 : 1~4比較)
ランドルフ・O・イエガーは9節を次のように言い換えています。「女性は上品で趣味のよい、慎み深い服装を心がけ、派手な流行の髪形をしたり、金や真珠をつけたり、高価な衣服を身につけたりしてはいけない」(『ルネッサンス新約聖書』第15巻361ページ)。「聖書には地味な衣服を着るように教えられていて、『女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって』とある(テモテ第Ⅰ・2 : 9)。ここには華美な服装や、けばけばしい色彩、ぜいたくな装飾が禁じられている。神のみ言葉の中に命じられているよろしきにかなった服装とは、他人の注意をひき、感嘆してもらうために、くふうをこらすことをしないものである」(「ミニストリー・
オブ・ヒーリング」264ページ)。
パウロはみすぼらしい身なりを勧めているのではありません。また、魅力的な服装を禁じているのでもありません。テモテ第Ⅰ・2:8が祈りを指導する女性にも等しくあてはまるように、9節は不適当な身なりで祈りを指導する男性にも等しくあてはまります。
特殊な問題に対する勧告(テモテへの手紙一 2章11節、12節)
質問9 パウロはエベソのクリスチャン女性に対してどんな学びの態度を勧めていますか。Ⅰテモ2:11
「静かにしていて」と訳されているギリシア語は、「静かな態度で」という意味です。同じ言葉が2節でも用いられています。クリスチャンは「安らかで静かな一生を……過ごす」ことができるように祈るべきでした。それは静かに生活することを意味してはいませんでした。それは、エペソの女性の中には騒々しい、妨害的な態度で礼拝を妨げる者たちがいたことを意味しています。
「万事につけ従順に」(11節)は、「あらゆる従順さをもって」とも訳すことができます(改訂標準訳)。パウロの用いている「万事」(「考えられるあらゆる点において」)という言葉の中には、「家々〔家の教会〕を遊び歩くことをおぼえ、……口にしてはならないことを言う」若いやもめたちの行動が含まれていました(5:13)。
質問10 エベソの教会でいく人かの女たちが指導的な役割を果たしていたことに反対する理由として、パウロはどんなことをあげていますか。Ⅰテモ2:12~15
「わたしは許さない」(12節)という表現は、パウロの勧告がエペソ教会の特殊な状況に対処するためのものであったことを示しています。過去の信心深い女性の中には、人々を教え、また神から定められて指導的な立場に立った人たちがいました。たとえば、デボラ(士師4:4)、ホルダ(歴代下34:22)、伝道者ピリポの娘たち(使徒21 : 9)、それにプリスキラ(使徒18 : 26、ロマ16 : 3)がそうです。
しかし、エペソの教会で男の上に立って教えていた女たちは、十分な知識がないために誤った指導によって迷わされた人たちでした。英語欽定訳で「権力を奪い」と訳されているギリシア語動詞は、不相応な権力の行使、つまり「権力を振り回す」(アーント、ギングリッチ)ことを意味しています。そのような女は「静かにして」いるべきでした〔同じギリシア語が2節では「安らか」と、11節では「静か」と訳されています〕。彼女たちは貢献することを禁じられていたのではなく、もつとすなおで協力的であるように求められていたのです。
エペソ教会における問題は、女性が教会において教えたり、正当な指導的役割を果たしたりする権利を持つか否かということではなく、むしろ一部の論争好きな女たちが男の権力を奪っていたということのようです。
まとめ
キリストは私たちにすべての人のために祈るように望んでおられます。彼はすべての人のために死なれたのです。神はすべての男女に特別な役割を与えておられます。しかし、一方が他方にまさるとは言っておられません。
第5課 教会の指導者
第5課 教会の指導者
パウロは町から町へと旅行し、その行く先々の教会で長老を任命しました(使徒14:23)。長老とはどんな人だったのでしょうか。その資格と責任は何だったのでしょうか。テモテ第Ⅰ・3章には監督という言葉が用いられています。新約聖書では、この言葉が長老と同じ意味に用いられています。1世紀においては、監督や長老は教会の牧師でした。彼はのちの監督のような教会指導者ではありませんでした。
ここにはまた、執事のことが書かれています。執事とは、牧師が福音の宣教に専念できるように教会の働きを助ける人のことでした(使徒6:1~6参照)。
1世紀にパウロによって記された教会指導者のための資格は、今日の教会にもあてはまるものです。
伝道の働き(テモテへの手紙一 3章1節)
質問1 監督と長老が同じ意味で用いられている例をあげてください。
長老 使徒20 : 17、Ⅰテモ5 : 17、19、テト1 : 5
監督 使徒2:28 、Ⅰテモ3:2 、テト1:7
パウロの時代においては、監督も長老も会衆を霊的に指導する按手礼を受けた牧師でした。のちに、監督は長老を監督する者となりました。長老会の会長が次第に権力をのばし、ついには実質的に教会の支配者となったのでした。このような教会指導者は聖書に基礎を持つものではありません(マル10 : 42~45参照)。
質問2 教会の霊的指導者になりたいと望むことに関して、パウロは何と言っていますか。Ⅰテモ3:1
「ここに信頼できる言葉がある—もしだれかが監督になることを切望するなら、彼は気高い仕事を望むことになる」(Ⅰテモ3: 1、新国際訳)。伝道の働きに入りたいという望みが主イエス・キリストの召しから出たものであるなら、それは気高い望みです。この働きは単なる仕事ではなく神による召命です。
「汚れた霊に対して力を持ち、病人をいやすことのできた使徒たちは、単に自分の知恵によって神の代弁者となる聖なる働きに人を立てたわけではなかった。彼らは聖霊の顕現についての確かな証拠を待ち望んだ。……神は繰り返し、神から召されたという確かな証拠なしに伝道の働きにつくべきではないと教えておられる。主はご自分の群れに対する責任をそれにふさわしくない人々にゆだねられることはない。神に召される人たちは、試験され証明された豊かな経験を持った人たち、正しい判断力を持った人たち、柔和な精神をもって罪を責める
人たち、群れを養う方法を理解している人たちである」(『教会へのあかし」第1巻208、209ページ)。
監督(長老)の資格(テモテへの手紙一 3章17節)
質問3 按手礼を受けた牧師が持つべき積極的な特徴は何ですか。Ⅰテモ3:1~7(テト1:6~9、使徒20 : 28、35、Ⅰペテ5 : 1~3比較)
長老職に求められる重要な資格の一つは、「非難のない」こと(Ⅰテモ3 :2)、つまり「非難されるところがない」ことでした。以下にあげられている道徳的要件は長老に対して、私的また公的生活においてキリストご自身の尊い血によってあがなわれたキリストの教会を汚すことのないように求めています(エペ5 : 25~27参照)。
質問4 「ひとりの妻の夫であり」とはどういう意味ですか。Ⅰ テモ3:2、12、テト1:6
この言葉はさまざまな意味に説明されています。(1)すべての牧師は結婚していなければならない。(2)重婚(一夫多妻)は人を長老に不適格とする。(3)離婚した者は長老になれない。(4)配偶者を失った長老は再婚できない。
(1)の説明は受け入れることができません。なぜなら、パウロ自身、結婚していませんでしたし(Ⅰコリ7 : 8、9)、テモテもたぶんそうだったからです。(2)の点について、ゴードン・D・フィーは次のように述べています。「一夫多妻は異教社会ではまれな特徴だったので、そのような禁止はあまり意味を持たなかったであろう。さらに、それは〔テモテ第Ⅰ〕5 : 9で用いられているやもめについての同じ言葉と一致しないように思われる」(『テモテ第Ⅰ・Ⅱ、テトス』43ページ)。
(3)に関して言えば、離婚において罪のない方の者が牧師になれないという聖書的な根拠はありません(マタ5:31、32参照)。(4)に関しては、配偶者の死後における再婚は神に受け入れられるもので(ロマ7:1、2)、若いやもめはそうするように勧められています(Ⅰテモ5 : 1 4) 。
「したがって、この聖句(Ⅰテモ3: 2)は次のことを意味する。つまり、監督や長老〔執事〕は疑う余地のない徳性を持った人であって、ただ一人の自分の妻に対して心から真実かつ忠実でなければならない。彼は結婚している者として、異教徒のようにほかの女と不道徳な関係に入ることはない」(ウイリアム・ヘンドリクセン『新約聖書注解一牧会書簡解説』121ページ)。
監督も執事も節制の人(テモテへの手紙一 3章2節、3節、8節)
質問5 パウロはアルコール飲料の危険性に関して監督や執事に何と警告していますか(Ⅰテモ3 : 2、3、8 ) 。彼がテモテに「少量のぶどう酒」を飲むように勧めたのはなぜですか(Ⅰテモ5 : 23)。
「慎み深く」(Ⅰテモ3 : 2)という語はギリシア語のネファリオスという語から訳されています。これに対応する動詞はネフォです。サムエル・バキオキはその著『聖書におけるぶどう酒』の中で、これらの語が完全禁酒をさすという確かな証拠をあげています。「この動詞の第1の意味に関して、ギリシア語辞典のあいだに注目すべき一致がある。リデルとスコットはネフォの第1の意味として『酔っていないこと、酒を飲まないこと』をあげている。ランペはその『教父学ギリシア語辞典』の中で、『節制する、酒を飲まないjをあげている。……ランペはネファリオスの第1の意味として『酒のない、禁酒の』をあげている」(198、199ページ)。バキオキはこれと
同じか類似した意味をあげているギリシア語辞典をほかにいくつか引用しています—「酒を飲んでいない」「禁酒する者」「酒を飲まない者」。
「酒を好まず」(Ⅰテモ3 : 3)、「大酒飲みでない」(改訂標準訳)という言葉はメ・パロイノンというギリシア語から訳されています。バキオキによれば、これは完全禁酒を意味します。「パウロが言っていることは、監督は禁酒するだけでなく、酒が飲まれる場所も避けるべきであるということである」(「聖書におけるぶどう酒』207ページ)。
「酒を好まず」という言葉は、監督に与えられたこの勧告(Ⅰテモ3:2、3)あるいは聖書のほかのところで与えられている完全禁酒に関する命令を和らげるものではありません(レビ10:8~10、箴言20:1、23:31、32参照)。多く飲むことを禁じられているものは、少なく飲めば許されるというものではありません(『聖書におけるぶどう酒」248、249ページ参照)。
パウロがテモテに少量のぶどう酒を用いるように勧めたのはテモテの病気のためでした(Ⅰテモ5:23)。バキオキは確信をもって次のように述べています(242~255ページ)。(1)パウロは楽しみのためでなく薬としてぶどう酒を飲むようにテモテに勧めた。(2)この聖句をもっと正確に訳すと次のようになる。「これからは水ばかりを飲まないで、あなたのたびたび起こる病気のゆえに、胃のために少量のぶどう酒と共に用いなさい」。(3)昔は、未発酵のぶどう酒(「甘いぶどう酒」)が薬として用いられていた証拠がある。「パウロは……未発酵のぶどうジュースのことを言っていた。彼は主の禁じておられるものをテモテに飲むようには勧めなかった」(エレン. G・ホワイト『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1899年9月6日、6ページ)。(4)この勧告はテモテが絶対禁酒家であったことを意味している。
家庭の霊的指導者(テモテへの手紙一 3章4節、5節、12節、13節)
質問6 長老や執事がよく整った家庭を持つべきことに関して、パウロはどんな理由をあげていますか。Ⅰテモ3:4、5、12、13
長老、執事、女執事の家庭生活は、教会における霊的指導者としてのその適性を示すものです。教会の指導的な立場に立つ人を選ぶ場合には、細心の注意を払う必要があります(Ⅰテモ3 : 7、10、5 : 22参照)。不適格で、ふさわしくない人は教会内に問題を起こすばかりでなく、教会の対外関係をも妨げることになります。そのようなことにならないためにも、長老は落ちついた、円熟した信者の中から選ぶべきです(Ⅰテモ3 : 6)。
パウロは霊的指導者に与えられた二つの責任を強調しています。
1.彼は自分の家庭のことを正しく管理・処理し、それらに心からの関心を示すべきです。「現在あらわされているよりもはるかに大きな愛と礼儀が私たちの家族に必要である。私たちの奉仕する兄弟たちが日ごとにキリストの精神を受けるとき、彼らは真に思いやりのある者となり、柔和であわれみ深いことを弱さとみなすことがなくなる。なぜなら、これがキリストの福音の原則の一つであるからである」(『牧師へのあかし』156ページ)。
2.彼は愛と厳しさをもって自分の子供を主の道に従って教育すべきです(『アドベンチスト・ホーム』397、398ページ)。
質問7 教会指導者は家庭と教会においてどんな精神をあらわすべきですか。Ⅰぺテ5:2、3、創世18:18、19
エリは自分の子供たちを主の道に従って教育することに失敗しました(サム上2:12~17、22~25、27~34参照)。多くの親は訓練を愛と相いれないものと考えています。そこから生まれる寛大さは、家庭破壊、反抗、非行、犯罪などの悲しむべき結果をもたらします。賢明な教会指導者は、厳格で横暴な態度ではなく、愛にみちた訓練とキリストのような模範の力とによって、自分の家族にクリスチャンの美徳を教え、守らせます。
執事の資格(テモテへの手紙一 3章8節〜13節)
執事の務めは実際的な重要性を持っています。監督や長老は教会の霊的指導者であり、行政者ですが、執事はおもに教会と教会員の物理的必要を担当する補助者です。
ウイリアム・バークレーによれば、キリスト教会はこの奉仕と援助というすぐれた考えをユダヤ人の会堂から受け継ぎました。(1)ユダヤ人の会堂では金曜日ごとに、正式に定められた二人の人が各家庭を回り、貧しい人々のための献金や献品を集めて歩きました。(2)貧しい人々は1週間分の食糧を与えられました。(3)キリスト教会はこの援助の考えを受け継ぎましたが、明らかにそれは執事の責任でした(ウイリアム・バークレー『テモテ、テトス、ピレモンヘの手紙』参照)。
質問8 執事が最初に任命されたのはいつ、どんな状況においてでしたか。彼らの適性はどんな標準によって決められましたか。使徒6:1~6
質問9 テモテ第Ⅰ・3 : 8~1 3にあげられた執事の資格を長老のそれ(2~7節)と比較してください。どんな共通点と相違点がありますか。
テモテヘの第Ⅰの手紙あるいはテトスヘの手紙には、とくに女執事のことは書かれていません。しかし、新約聖書の教会には女性の執事も確かにいました(ロマ16:1参照)。テモテ第Ⅰ・3 : 11の文脈から考えると、そこで言われている「女たち」とは女執事のことのようです。男(執事)と同様彼女たちも「謹厳で、他人をそしらず、自nええらを制し〔酒を飲まず〕、すべてのことに忠実」であるべきでした。執事の妻は女執事として奉仕したと考える人たちもいます。
新約聖書には、自らの時間と能力をささげて教会のために愛に満ちた無我の奉仕をしたクリスチャン女性のことが記されています。
キリストにあっては男も女も、ユダヤ人もギリシア人もないと、聖書は教えています(ガラ3:28)。テモテに与えられた標準は教会のために働くすべての男女に適用されます。
まとめ
テモテヘの第Ⅰの手紙第3章は、教会で責任ある地位を占めている人々のための広範囲にわたる基準について教えています。監督(長老)と執事の資格が、個人生活、家庭生活、社会生活に及ぶまで具体的に明記されています。それはキリストの受肉と働きをたたえる賛美をもって終わっています。
第6課 信心深い牧師、信徒
第6課 信心深い牧師、信徒
新約聖書は初代教会について次のことをあかししています。(1)キリスト教がユダヤ人や異邦人のうちに広まるにつれて直面した妨害や反対、(2)異教世界におけるキリストのための勝利、(3)異教の風習、礼拝、習慣が教会にもたらした脅威(4)政治と宗教の世界における反対勢力についての神の啓示。
パウロはエペソの長老たちに対して、にせ教師が教会に入ってくると警告していました(使徒20:28~31参照)。彼はテモテ第Ⅰ・4章において背信の広まりについて警告し、キリストと聖書の教えに従うように訴えています。続く数世紀のあいだ、キリスト教会は背信と異端と迫害に直面しました。
背信についての預言(テモテへの手紙一 4章1節)
この背信についての預言が個人的な推測ではないと、パウロは確言しています。この啓示は聖霊の霊感によるものでした(Ⅱペテ1:20、 21参照)。
質問1 将来における真の信仰からの逸脱はどれほど深刻なものとなりますか。Ⅰテモ4:1
真の信仰からの逸脱は最終的な背信に至るまで続くと、パウロは警告しています。キリストとサタンとの大争闘が終わるまで、中世の背信は繰り返され、ついにはサタンが公然と神の地位と権威に挑戦するまでになります(Ⅱテサ2:3、4、8~10参照)。サタンは最後の偽りの行為としてキリストの姿を装います。
「まもなく、超自然的な恐ろしい光景が、奇跡を働く悪鬼たちの力のしるしとして天に現われるであろう。悪霊たちは地の王たちのところと全世界とに出て行って、彼らを欺瞞の中に閉じ込め、天の統治に対するサタンの最後の闘争に加わるようにかり立てる。これらの手先によって、為政者も国民も一様に欺かれる。自分はキリストであると称する者たちが現われ、世の贖い主のものである称号と礼拝とを要求する。彼らは不思議ないやしの奇跡を行ない、聖書のあかしとは相反する啓示を天から受けたと公言する」(『各時代の大争闘』下巻398ページ)。
質問2 キリストとその真理に反対する張本人はだれですか。どうすればそれに抵抗できますか。エペ6:11~13
「世の終わりが近づくにつれて、偽りが真理と混ざり合うので、聖霊に導かれている者たちだけが真理と虚偽とを識別することができるであろう。……主のみ言葉によって導かれている者たちは偽りと真理とを、罪と義とをはっきりと見抜く」(『SDA聖書注解』第7巻907ページ、エレン・G・ホワイト注)。
悪霊とその教え(テモテへの手紙一 4章1節~4節)
質問3 キリストの教会の信者が偽りの教えと生き方を説くようになるのはどうしてですか。Ⅰテモ4:1、2
信仰から離れた者たちは「悪霊の教」を持ち出してきます(Ⅰテモ4:1)。彼らの言うことは行うことと一致していません。焼き印を押された良心とは、故意に真理を無視し、それに背き続けたために鈍くなってしまった良心のことです。信仰から離れる者は道徳的にも教理的にも誤りを犯しています。彼の信仰が代わる前に、その生き方がキリストから離れていきます。彼は罪深い生活を正当化するために偽りの教理を受け入れます。
質問4 にせ教師たちはキリスト教の生活様式から逸脱したどんな生き方を奨励しますか。Ⅰテモ4:3、4
これらのにせ教師たちは、1)結婚を禁じ、(2)ある種の食物を断つように命じることによって、ユダヤ・キリスト教の教えを東洋の禁欲主義と結びつけていました。あるグノーシス主義者たちは、物質が悪であるゆえに、人生の物的な面と関係のある食物と結婚は避けるべきであると教えました。のちの修道院制度はこれと同じ考えにもとづいています。パウロはほかのところで、結婚を神から与えられた制度として高く評価しています(Ⅰコリ7 : 1~4、ヘブ13 : 4参照)。
「パウロはここで教会に浸透していた禁欲主義的な影響と傾向とに言及している。礼典的、儀式的な理由から、これらの禁欲主義者たちは、ある種の食物〔ブロマトン、「食物」—英語欽定訳では「肉」と訳されている〕を完全に断つことが霊的に望ましいことであると考えていた。パウロのこの警告の中には、特定の宗教的な日にある種の食物を断つことも含まれているかもしれない」(『SDA聖書注解』第7巻303ページ)。
パウロは、すべての造られた物が食物に適していると言っているのではなく、むしろ神が人間に食物として与えられたすべての物が食物に適していると言っているのです。この点に関する基本的な原則はコリント第Ⅰ・6 : 1 9、2 0に述べられています。
信心深い牧師と信徒(テモテへの手紙一 4章6節、7節)
質問5 結婚と食物に関する真理を説くことはテモテの働きにどんな結果をもたらしましたか。Ⅰテモ4:6
これらの偽善者たちの偽りの教えに効果的に対応することによって、テモテ自身、「養われ」るのでした。人は「パンだけで生きるものではなく」(マタ4:4)、信仰と教えという神の永遠に真実な言葉によって生きるのです(Ⅰテモ4 : 6)。
質問6 テモテは非聖書的で推測にもとづく思想にどのように対処するように教えられていますか。Ⅰテモ4:7
「キリスト教の教えについての最高の弁護は一般に見られる「作り話」をたえず攻撃することにではなく、むしろ首尾一貫したクリスチャンの生き方にある。……さらに言うならば、この真のクリスチャン経験の基礎にある真理をはっきりと、積極的に提示することは、空想的な思想を攻撃することよりも効果的である」(SDA聖書注解」第7巻305ページ)。
「神の牧師たちは評判のよい人たちであって、ひとたび導いた求道者を注意深く扱うことができなければならない。自分たちの提示する教えに恥辱ではなく栄光をもたらすことのできる有能な人々が大いに必要とされている。預言や実際的な主題について適切な説明ができるように、牧師を試験して、彼らが現代の真理を十分に理解しているかどうか知らなければならない。もし聖書の主題をはっきりと教えることができないようなら、彼らはもっと聞き、学ぶ必要がある。聖書の真理をほかの人々に教えるために、彼らは熱心に、祈りをもって聖書を学び、それに精通しなければならない。急いで伝道の働きにつく前に、これらすべてのことが注意深く、祈りのうちに考慮されるべきである」(「教会へのあかし」第4巻407ページ)。
質問7 信心はどのようにして得られますか。Ⅰテモ4:7、6:1 1
信心はキリストを追い求め、祈りをもってみ言葉を吸収することによって得られます。信心とは敬虔な生き方であり、キリストに対する心からの献身です。それはキリストのみこころを行うことにおいて示されます。
信心はからだの訓練にまさる(テモテへの手紙一 4章8節〜11節)
質問8 パウロは霊的に重要なことがらとからだの訓練との関係について何と教えていますか。Ⅰテモ4:8、9
ウイリアム・バークレーは、パウロがからだの訓練を正しく評価すべきであると考えた理由について次のような見方をしています。(1)当時の世界、とくにギリシアにおいては、競技場は同性愛で知られていました。体育は16歳から18歳の青年たちの教育において主要な位置を占めていました。(2)からだの訓練は良いことですが、不完全で二次的なものです。「信心における訓練は、人間の身体、心、精神のすべてを発達させ、その結果は時間のみならず永遠にまで及ぶ。クリスチャンは体育の競技者ではなく、神の競技者である」(ウイリアム・バークレー『テモテ、テトス、ピレモンヘの手紙』97 ページ)。
霊的、知的成長に役立つなら、からだの訓練は価値を持ちます。真の教育の目的は肉体的、知的、霊的能力の円満な発達にあります。これらの能力の一つだけを強調するなら、品性の調和が失われます。
「良く発達した、品行方正な男女を育てるためには、道徳的、知的、肉体的に調和のとれた修練が必要である」(「キリスト教教育の原理」42ページ)。
質問9 神に対する熱心で自己否定的な奉仕はどこから生まれますか。Ⅰテモ4 : 10
この聖句のギリシア語に暗示されているように、忠実な福音伝道者は疲れるまでに熱心に働きます。彼はまたキリストのゆえに非難されます。テモテのように悪の勢力と戦うことが、信心において成長し、忠実な伝道者となるうえで必要なことであると、パウロは暗に教えています。
キリストのための勇敢で忠実なあかしは、すべての真の信者(10節)のための生ける神の確かな救いについての信頼と確信から生まれます。救いはすべての人に提供されていますが、それを体験するのは救い主を信じる者たちだけです(ヨハ3 : 16~18、 36参照)。
言葉において成長する(テモテへの手紙一 4章12節~16節)
これはテモテヘの第1の手紙の最も重要な部分の一つです。ここに記されている勧告は、パウロによって書かれて以来、キリスト教の牧師に対する標準とされてきました(『牧師へのあかし」194、292、404ページ参照)。
質問10 若さゆえに人に軽んじられないために、テモテはどうすべきでしたか。 Ⅰテモ4 : 12
エペソ教会の長老はみなテモテよりもずっと年上だったことでしょう。テモテは生まれつき内気で、無口だったのかもしれません。神が共にいてくださるという確信がなかったなら、彼は自分の使命感に圧倒されていたかもしれません。
テモテの模範は彼の信任に対する有効なあかしとなるのでした。彼は次の点において模範となるべきでした。(1)言葉、つまり話、会話(2)行状、ギリシア語では「生き方」、(3)愛、つまり神と人に対する愛、(4)信仰、テモテは信仰的な環境の中で育ちました(Ⅱテモ1 : 5)、(5)純潔、彼はエペソに広がっていた不道徳に対抗しなければなりませんでした。また、純潔な思いをもって女性と接し(Ⅰテモ5 : 2)、心と思いとからだを清く保たなければなりませんでした。
質問1 1 テモテは自分自身の霊性と働きを強化するためにどんな積極的な方法をとる必要がありましたか。Ⅰテモ4:13~16
テモテの霊的成長がすべての人に明らかになることが、パウロの勧告の裏にある目的でした(15節)。テモテは、「聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに」励まなければなりませんでした(13節)。
テモテはまた、「長老の按手を受けた時、預言によって……与えられて内に持っている恵みの賜物」を忘れてはなりませんでした(14節)。彼はこの点においていくらか怠慢になっていたのでしょう。「わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい」(Ⅱテモ1:6)。このパウロの勧告に従うことによって、テモテとその教えを聞く者たちはキリストの救いの恵みにあずかるようになるのでした(Ⅰテモ4 : 16)。
まとめ
純粋な福音の信仰から離れることが、初代キリスト教会にとっての絶えざる脅威となっていました。回心した者たちが以前の誤った信仰を捨てて、神のみ言葉の真理を受け入れるときに初めて、彼らは悪しき者の偽りから守られるのでした。パウロはテモテに対して、真理から離れて教会を危うくすることのないように警告しています。健全な教え、模範的な生活、熱心な聖書の学びはどれも、今日でも必要とされています。
第7課 教会内の老人とやもめ
第7課 教会内の老人とやもめ
海を見下ろす断崖の上に建てられた一軒家に、ひとりの年老いたクリスチャンのやもめが住んでいました。彼女はしばしば海岸に流れ着いた漁船の残骸を目にしていました。おぼれている船員の絶望的な叫びを聞いたこともあります。ある嵐の夜、彼女は突然、一つの考えを思いつきました。家の窓辺にランプを置いて、漁船に危険な海岸があることを知らせようとしたので
す。彼女はのちに多くの漁師たちから、ランプの光のおかげで難破しないですんだという話を聞きました。その後、何年ものあいだ、危険から助かった多くの漁師たちから、そのすばらしい思いつきのゆえに感謝されたということです。
今日も、教会のやもめ、男やもめ、未婚の親、離婚した人、独身者は不注意な人々を敗北や悲しみや失望の浅瀬から助け出すことができます。すべての人が主の働きにおいてなすべき役割を持っています。
青年牧師と老人(テモテへの手紙一 5章1節、2節)
質問1 テモテは懲戒を必要としている老人に対してどのように敬意を示すべきでしたか。また、どんな精神をもって若者を戒めるべきでしたか。Ⅰテモ5:1(ガラ6:1比較)
人をしかることは決して容易ではありません。それゆえに、この厳粛な責任をおろそかにしている人たちがいます。このような怠慢は誤った道から救われていたかもしれない魂を永遠に滅ぼすことになりかねません。思慮なく、無分別になされた非難は、怒り、拒絶、あるいは恨みを引き起こすかもしれません。パウロはテモテに、子供が誤りを犯している父親に嘆願するように年上の人に「話してあげなさい」と言っています。テモテは若者を自分の家族の一員である兄弟のように扱うべきでした。
「老齢になれば自動的に矯正が不要になるものではない。しかし、若者が年上の人を叱責する場合には、心からの尊敬と謙そんの精神をもってしなければならない。……若い教会員も彼〔若い指導者〕の優越感ではなく友情を感じとらなければならない」(『SDA聖書注解』第7巻309ページ)。
「真理の原則をのべ伝えるものは、すべて、天からの愛の油を受ける必要がある。どんな場合であっても、譴責のことばは、愛をもって語らなければならない。そうするならば、わたしたちのことばは、人を怒らせたりしないで、改革をうながすことができる。キリストは、聖霊によってわたしたちに、活力と能力を供給してくださる。これがキリストのお働きなのである」(『キリストの実物教訓』312 ページ)。
「あかしの害」が誼責について何と教えているか調べてみましょう。
『教会へのあかし』第3巻359ページ……「證責はつらい務めですが、神はその務めを忠実に果たす者を祝福してくださいます」。
『キリストの実物教訓』312ページ……「愛をもって語りなさい」。
『教会へのあかし』第1巻164ページ……「愛の精神を欠いた譴責は誤りです」。
『思いわずらってはいけません』168、169ページ……「非難や叱責の態度によっては、人を改心させることはできません」。
『教会へのあかし』第2巻53ページ……「事の成り行きは大部分、どのような精神をもって譴責を与えるかによって決まります」。
『教会へのあかし』第3巻93ページ……「あわれみに満ちた優しさを示すべきです。厳格さ、冷酷さを避けなければなりません」。
教会の男女関係(テモテへの手紙一 5章2節)
質問2 テモテは教会の年輩の女性と若い女性に対してどんな態度をとるべきでしたか(Ⅰテモ5 : 2)。父と母の扱いに関して、イスラエルにどんな永続的な命令が与えられていますか(出工20 : 12)。
テモテは教会の若い女性を姉妹とみなすべきでした。心からの敬意をともなったクリスチャンの愛は、きよい思想、言葉、行為となってあらわされます。年輩の女性には母親のように、若い女性には姉妹のように接することによって、テモテはクリスチャンの高潔さを守ることになるのでした。教会指導者が魂の敵の仕掛けた道徳的なわなにおちいることほど、福音の働きの神聖さと効力を失わせるものはありません。「真に純潔な思いをもって」行動することが、あらゆる人間関係と行為の原則です(Ⅰテモ5 : 2)。ピリピ人に対するパウロの勧告は教会の男女関係にもあてはまるものです(ピリ4:8参照)。
質問3 ヨセフが不道徳の罪を犯す誘惑にさらされたときの経験について読んでください。彼を守ってくれたものは何でしたか(創世39:7~12)。若い牧師テモテはどんな方法によって、福音の働きの高い道徳的標準を例証すべきでしたか。Ⅰテモ4:12(5:22比較)
「真理を教えていると主張する者が若い女性や既婚の女性と親しく交わり、彼女たちの体に親しく手を置き、あるいは親しい様子でよく彼女たちと語り合っているなら、彼に注意しなさい。真理のきよい原則は彼の魂に働いていない。そのような人たちはキリストの共労者ではない。彼らはキリストのうちにおらず、キリストも彼らのうちに住んでおられない。神によってその働きを受け入れていただくためには、彼らは完全な回心を必要とする」(『伝道j 680ページ)。
教会のやもめ(テモテへの手紙一 5章4節)
現代は、国や市民団体が老人、弱者、貧困者のめんどうを見てくれる時代ですが、私たち自身も新約聖書に示されたクリスチャンの役割に目を向ける必要があります。恵まれない人たちに対する国の援助はありがたいものですが、私たちにもクリスチャンとしての務めがあります。
年輩のやもめは今日の多くの教会でかなりの数を占めています。それにはいくつかの理由があります。
1. 女性は男性よりも長生きする傾向にあります。
2.ある国々においては、女性が教会員の過半数を占めています。
3.社会奉仕の精神から、女性は教会の福祉活動の担い手です。
4.ある文化的環境のもとでは、年輩の女性、とくにやもめは自立が困難になっています。
質問4 やもめを助けるために、教会によってどんな永続的な計画が立てられましたか。使徒6:1~6
「初代教会においては、パレスチナのユダヤ人が大半を占めていたので、言葉や習慣の違いから、悪意がないにしても、貧しいギリシア人たちは援助を受けられなかったのかもしれない」(『SDA聖書注解』第6巻188ページ)。
質問5 やもめの世話をすることに関して、聖書はどんな勧告を与えていますか。
出エ22 : 22
申命14:29
イザ1 : 17
Ⅰテモ5 : 3
やもめの世話(テモテへの手紙一 5章4節~8節)
質問6 教会のやもめを養う第一の責任はだれに負わされていますか。 Ⅰテモ5 : 4、8
困っているやもめを世話する義務はまず第一にその家族、つまり子供たちにあります。それができないときは、ほかの親族にあります。これが「あなたの父と母を敬え」という聖書の命令に従うことです(出エ20:12—マタ15:4~6参照)。老齢の貧しい家族を支えることは「家で孝養をつく」すこと、また「清く汚れのない信心」のしるしです(Ⅰテモ5 : 4、ヤコ1 : 27)。できるにもかかわらず、困っている自分の家族を養わないのは信仰を捨てることです(Ⅰテモ5 : 8)。
質問7 もしそのやもめに自分を世話してくれる親族がいない場合には、だれが助けるべきですか。Ⅰテモ5:3、5
教会は「真にたよりのないやもめ」を援助すべきです(3、5節)。これらの人々は「ひとり暮し」であって(5節)、日夜、神に支えと守りを求めています。彼女たちは主のほかに頼るべき者がないかもしれません。教会はこのような人々の祈りが答えられるよう助けることができます。
「やもめ、孤児、障害者、その他いろいろな状態で苦しんでいる人々が神の教会と密接なクリスチャン関係に置かれていることは、神のみ摂理であるということを知った。それは神の民をためして、彼らの本当の品性を向上させるためである。神の天使たちは、われわれの同情と愛と私心のない慈善を必要としているこれらの人々を、われわれがどう扱うか見守っている」)『クリスチャンの奉仕』275、276ページ)。
質問8 この援助を受けるにふさわしくないのはどんな人たちですか。Ⅰテモ5:6
他人の寛大さを悪用する人たちがいます。そのことを見極めた上で援助を与えなければなりません。古いことわざにもあるように、人々に魚を与えれば、彼らは明日も空腹のままです。しかし、魚の取り方を教えるなら、彼らは食物に事欠きません(『思いわずらってはいけません』93、94ページ参照)。
二種類のやもめ(テモテへの手紙一 5章9節~16節)
直接的であろうと間接的であろうと、この部分全体(Ⅰテモ5 : 1~24)を見れば、やもめにもいくつかの区分があったことがわかります。(1)自分の親族によって支えられているやもめ。(2)ひとり暮らしのゆえに教会の援助を受けるべきやもめ。彼女たちには生きている親族がいないか、いたとしてもその親族には援助する意思・能力がない。(3)教会の援助を受ける資格のないやもめ。これらの者たちは気ままで、おしゃべり好きで、でしゃばり屋で、節度なく再婚したい気持ちを示す。
質問9 パウロはどんな基準によって、教会の援助を受けるにふさわしいやもめを決めるように勧めていますか。Ⅰテモ5:9、10
「登録さる」(9節)と訳されているギリシア語は、直訳すれば「名簿に載せる」となります。このことは明らかに、エペソの教会には教会から援助を受ける資格のあるやもめの名簿があったことを示しています。このような援助を受ける資格は当時の文化的背景の中で決定されたはずです。
教会の援助を求めることができたのは、60歳以上のやもめで、自分の夫に忠実であった者、子供をよく養育し、人々に奉仕した者だけでした。しかしこのことは、教会が60歳に満たないひとり暮らしのやもめや、60歳を越えていても模範的な生活をしていなかった人たちの必要を全く無視していたことを意味するものではありません。登録されたやもめは永続的な援助を受ける資格を備えた特別な人たちでした。彼女たちは明らかに自活できない人たちでした。しかし、与えられた物的援助を注意深く用いるだけの信頼できる品性の持ち主でした。さらに、彼女たちは教会のために働き続ける意思のある人たちでした。
若いやもめ(Ⅰテモ5:11~15)が永続的な援助から除外されたのは、エペソでは彼女たちが節度なく再婚の希望を表す傾向があり、またいざこざを起こす傾向があったからです。パウロは彼女たちに再婚するように勧めています。しかし、教会がひとり暮らしの、助け手のない者たちの必要までも無視すべきであるとは言っていません。
まとめ
テモテ第Ⅰ・5章は教会と教会指導者に人間関係についての指針を与えています。私たちの人間関係は非難されるところのないもの、道徳的汚れのないもの、サタンのようなずる賢さのないものでなければなりません。
教会員の中にかなりの数のやもめがいたことは明らかです。真に教会の援助を必要としている人たちと自分の親族に助けを求めるべき人たちとを区別する助けとして、パウロは従うべき基準を定めたのです。時代が変わろうとも、基本的な原則はこれからも変わることがありません。
第8課 教会指導者に対する態度
第8課 教会指導者に対する態度
「牧師は自分で生徒を集め、教える。薬も医療器具もないのに治療する。彼はあるときには弁護士であり、民生委員であり、編集者であり、哲学者であり、芸人である。彼はまたセールスマンであり、公的活動の看板であり、また学者ということになっている。彼は病人を見舞い、結婚式を行い、死者を埋葬し、悲しむ者を慰め、罪を犯す者を戒め、自分の義務を怠っていると批判されるときにも優しさを忘れない。
彼はさまざまな計画を立て、委員を指名し、教会員同士の人間関係の調整にかなりの時間を割き、合い間に説教を用意し、たまたまほかに用事のない人々にそれを語る。そして月曜日には、『週に1日しか働かなくてもいいなんて、結構なお仕事ですね』と陽気に語りかける人たちに対して、ほほえみをもって答える」。
いくぶん誇張されているとはいえ、この話は、たいていの教会員が自分の牧師の苦労について認識がないことを教えています。今回の課は、私たちがどのような態度をもって牧師に接するべきかについて学びます。
忠実な長老を敬う(テモテへの手紙一 5章17節、18節)
質問1 忠実な霊的指導者の働きはどのように評価されるべきですか。 Ⅰテモ5:1 7、Ⅰテサ5:12、13
上手に治める霊的指導者は独裁者として「君臨」するようなことはありません(ルカ22:25、26)。テモテ第Ⅰ・5:17で「指導をしている」と訳されているギリシア語動詞には、「管理する」「行動する」という意味があります。良い指導をし、「宣教と教」とのために貢献している長老は「二倍の尊敬」を受けるにふさわしい人です。これは、給料を二倍にしなさいということではありません。むしろ、忠実に福音を宣く伝え、会衆の必要のために奉仕しているゆえに彼らに特別な尊敬を払いなさいということです。
質問2 聖書の教えを宣く伝えることにはどんな価値がありますか。Ⅰテモ4:13、Ⅱテモ3:14~17、使徒8:35~39
教理とは「教え」のことです。聖書のすべての教えは霊的成長のために有益です(Ⅱテモ3:16)。キリストとみ言葉の教えを宣べ伝える人は尊敬を受けるにふさわしい人です(Ⅰテモ5:17)。しかし、教理を忘れては正しい教えはありえません。
質問3 パウロはどんな聖書の原則を引用して、忠実な長老が福音の収穫による報酬にあずかるべきであると言っていますか。Ⅰテモ5:1 8、Ⅰコリ9:7~14(民数18:21比較)
霊的指導者の最大の報酬は、彼らの民の心にキリストと指導者に対する愛が生まれることです。パウロがテモテ第Ⅰ・5:18とコリント第Ⅰ・9:9において、申命記25:4を例話として用いていることに注目してください。テモテヘの手紙においては長老に与えられる名誉のことが、またコリント人への手紙においては伝道の経済的支えである十分の一のことが説明されています。牧師は名誉だけでは生きられません。自分と家族を養わなければなりません。信者が忠実に十分の一をお返しするときに初めて、キリストが教会にゆだねられた福音を全世界に宣べ伝えることができます。
過ちを犯した長老の扱い(テモテへの手紙一 5章19節~21節)
質問4 長老に対する訴訟にはどんな手段を講じる必要がありましたか(Ⅰテモ5:19)。パウロの勧告はイエスの勧告をどのように反映していますか(マタ18:15~17)。
霊的指導者は不純な動機を持った人たちから非難されることがあります。自分の罪を叱責された教会員は牧師や教会長老の悪口を言うことによって仕返しをしようとするかもしれません。ある者は霊的指導者の無分別な行動を批判して困らせることによって、自分自身の欲望を満たそうとするかもしれません。「ふたりか三人の証人」による証拠がある場合のみ、受け入れることができます(申命19:15比較)。
質問5 公然たる罪はどのように扱うべきでしたか。それは教会にどんな益をもたらしますか。Ⅰテモ5:20
前後関係から言えば、この勧告は長老の罪に対するものです。しかし、それは同時に教会員の公然たる罪にもあてはまります。教会員の懲戒については)新約聖書のあちこちで教えられています(マタ18:15~18、Ⅱテサ3:6~15、Ⅱテモ2:24~26参照)。
うわさ、うそ、有害なおしゃべりなどは、しばしば人を批判し、誤解し、傷つけることになります。名誉はすぐに傷つくもので、回復はなかなか困難です。抑制のきかない、清められていない舌は破壊的な力をもった火のようなもので、恐ろしい結果を引き起こします(ヤコ3:5、6)。
質問6 テモテはどんな一貫した原則によって教会指導者を懲戒すべきでしたか。Ⅰテモ5:21
テモテが教会指導者の罪を扱う方法は神と天使の目にも明らかでした。教会の罪を扱う場合は、公平でなければなりません。個人的な友情や否定的な人間関係によって、罪の調査や処理の方法に公正さが失われるということはよくあることです。
長老の任命に関する注意(テモテへの手紙一 5章22節)
質問7 ふさわしい教会長老が選ばれるように、パウロはテモテにどんな厳粛な勧告を与えていますか。Ⅰテモ5:22
「職務に任命する前に、当事者の資格を十分に調査しなければならない。これは、パウロがテモテ第Ⅰ・3:2、7、10で述べていることと一致する。事前によく調査しないで任命することは、そのような長老がのちに犯すかもしれない過ちに対してテモテを共同責任者とするものである」(ウィリアム・ヘンドリクセン『テモテ第Ⅰ・Ⅱ、テトス』185ページ)。
『教会指針』(1992年版、57、58ページ)には、教会役員の指名に関して次のような重要な勧告が与えられています。(1)役員にすることを急いではならない。(2)一致に反対する者は役員としてふさわしくない。(3)協力することを拒む人たちを選ぶことは安全ではない。
「多くの場所で、資格もないのにせきたてられて教会長老という責任ある地位に立たされた人たちを見る。彼らは自分自身を正しく律していない。その影響力は良くない。指導者の欠陥のある品性のために、教会には問題の絶えることがない。あまりにも急に、これらの人たちの上に手が置かれている」(『教会へのあかし』第4巻406、407ページ)。
教会指導者を選ぶときの基準について復習してください。Ⅰテモ3:1~7、テト1:5~9
質問8 もし長老の罪を認めることを拒むなら、それはテモテ自身にどんな結果をもたらすことになりましたか。Ⅰテモ5:22
もし教会の罪を処理することを拒むなら、テモテは罪に加わる者とみなされるのでした。長老の罪を黙認することによって、彼は同じ罪にあずかる者となるのでした。「ほかの人の罪に加わ」るということは(22節)、共犯者とみなされるということです。個人的に潔白であるためには、教会指導者の任命と彼らの罪に関する神の勧告に従う必要がありました。
テモテの健康に関する勧告(テモテへの手紙一 5章23節)
質問9 パウロはテモテの胄病などの病気に関してどんな助言を与えていますか。Ⅰテモ5:23(第5課を復習)
「教会の雑務や行政に関する諸問題に忙殺される中にあって、パウロは時間を見つけてテモテに健康に関する優しい助言を与えている。・・・・・・
ここにクリスチャンが決して忘れてはならない重要な真理がある。私たちはからだを軽く見てはいけない。なぜなら、霊的無感覚や弱さはしばしば肉体の疲れや不注意から来るからである。・・・・・・肉体的にふさわしい状態にないならば、私たちはキリストの働きを十分に果たすことができない」(ウィリアム・バークレー『テモテ、テトス、ピレモンヘの手紙』119ページ)。
パウロは教会指導者(とすべてのクリスチャン)にアルコール飲料の使用を認めているのでしょうか。もしパウロが発酵したぶどう酒の使用を勧めていたとすれば、彼は人を酔わせる飲み物について警告している聖書と矛盾したことを教えていることになります。医師は副作用を持つ薬を処方することがありますが、それは効果の方が副作用よりも重要だからです。
「キリストご自身、発酵した飲料の使用を禁止しておられる。『あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため……である』〔レビ10:9~11〕。……
発酵した酒は人間の感覚を混乱させ、理性をゆがめる。人間が十分な自尊心をもって厳しく節制しないなら、神のみ名が汚される。発酵したぶどう酒は自然の産物ではない。主は決してそれを造られなかったし、その生産にかかわりがない。パウロはテモテに、胃のため、またたびたびの病気を和らげるために少量のぶどう酒を用いるように言っているが、それは未発酵のぶどうジュースのことを言っているのである。主が禁じられたものを、パウロがテモテに勧めたのではない。……
クリスチャンを自認する者たちの中には、アルコール飲料を飲むことは自由であって、それはキリストのみこころにかなうことであると主張する者たちがいる。しかし、キリストは彼らの言うような模範を示してはおられない」(エレン・G・ホワイト『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1899年9月6日)。
指導者の働きと永遠の結果(テモテへの手紙一 5章24節、25節)
質問1 0 あなたはテモテ第Ⅰ・5:2 4、2 5 を、それぞれの関係においてどのように理解しますか。
ランドルフ・O・イエガーは24節を次のように訳しています。「ある人たちの罪はさばきを受ける前から明らかですが、別の人たちの罪はあとで明らかになります」。彼はさらに次のように解釈しています。「ここで言われていることは、神は罪を全体的、すなわち誤ることのない認識をもってごらんになるが、人間は表面的、部分的にしか見ないということである。社会はある人たちが罪人であることを知っている。彼らの罪は公然としていて、凶悪なので、彼らがさばきに直面していることはすでにだれの目にも明らかである。ほかの人たちは、先の人たちと同じくらい罪深いが、きわめて巧妙なので、その罪深い行為は神にしかわからない。ある人たちはその罪を社会から隠すことはできても、それを全地のさばき主から隠すことはできない(ヨハ5:22)。
このことから24節とそれに続く節との関係が明らかになる。隠された現在の罪がさばきのときに必ず明らかにされるように、隠れた現在の良いわざもキリストのさばきの座において必ず明らかにされるのである(25節)。したがって、罪人が自分の罪を社会から隠そうとしても無益であるように、クリスチャンもその良いわざを宣伝・誇示する必要はない。パリサイ人は自分たちの義を大いに見せびらかした。……反対に、わざわざ宣伝係を雇わなかったクリスチャンにとっては、キリストのための自分たちの努力が永遠に見落とされ、報いられることがないのではないかと恐れる必要はない(ヘブ6:10、11)」(『ルネッサンス新約聖書』第15巻443ページ)。
テモテ第Ⅰ・5:24はいのちの書に手が加えられる再臨前審判をさしているかもしれません(ダニ7:9~14、12:1、黙示3:5参照)。エレン・ホワイトは次のように記しています。「もしあなたの名前が子羊のいのちの害に記されているなら、何も問題はない。あなたの過ちと罪が前もってさばかれ、取り除かれるために、いつでもあなたの欠点を告白し、捨てるように心がけなさい」(『教会へのあかし』第5巻331ページ)。
まとめ
教会に欠かすことのできない長老を選ぶことは、テモテに与えられた厳粛な責任でした。教会指導者は教会から正当な援助を受けるべきです。教会指導者の任命は性急になされるべきではありません。聖書の指針に十分、注意を払うべきです。単なるうわさだけで、霊的指導者に対する非難を受け入れてはなりません。最終的なさばき主である私たちの主は罪を罰し、忠実な奉仕に報いてくださいます。
第9課 奴隷とにせ教師に対する働き
第9課 奴隷とにせ教師に対する働き
テモテヘの第Ⅰの手紙の最後の章は、微妙な人間関係の指針となるいくつかの原則について教えています。奴隷制度は1世紀の世界においてはありふれたものでした。キリスト教は主従関係をどのように変えるのでしょうか。教会はにせ教師にどのように対応すべきでしょうか。キリスト教は富に心を奪われている人々に何を教えているのでしょうか。私たちは世俗的な習慣や文化の影響力にどのように対抗すべきでしょうか。
「改革は、キリストの御霊が人間の状況の中にゆっくり浸透することによってなされなければならない。ものごとは人間の時期においてではなく、神の時期において起こらなければならない」(ウィリアム・バークレー『テモテ、テトス、ピレモンヘの手紙』122ページ)。
クリスチャン奴隷の務め(テモテへの手紙一 6章1節、2節)
質問1 奴隷はどんな動機から主人を敬うべきでしたか。Ⅰテモ6:1、2
パウロの時代には、ローマ帝国全体で約6000万の奴隷がいたと推定されています。これらの恵まれない人たちの中にも、キリスト教に改宗する者が数多く見られました。もし彼らのうちに不満が広がるようなことがあれば、それは特権を持った主人たちにとって大きな脅威になるのでした。キリスト教は人間の平等を教えていたので、疑いの目で見られる可能性が十分にありました。しかし、それはまた非暴力の宗教であって、政治的、社会的制度の変革をめざすものではありませんでした。キリスト教は、すべての人間が十字架の前では同じ価値を持った兄弟であると教えていました。
クリスチャンの奴隷は忠実に、誠実に仕えるべきでした。彼らは力によって奴隷制度を廃止しようとする社会活動家ではありませんでした。彼は自らのおかれた社会的状況の中で、キリストのなさるように行動すべきでした(Ⅰコリ7:20~24参照)。
奴隷制度のあるところではどこでも、パウロの勧告は有効です。それはまたクリスチャンの従業員にもあてはまります。彼らはキリストの精神をもって働き、忠実に、喜んでその義務を果たすべきです。それは、「神の御名と教とが、そしりを受けないため」です(Ⅰテモ6:1)。
質問2 クリスチャンは不正な搾取に対してどのような態度をとるべきですか。マタ5:38~45(エペ6:5~9、コロ3:22~25比較)。
キリストは人間のつくり出した不平等をお受け入れにはなりませんが(ガラ3:28)、もし教会が奴隷を励まして主人に反逆させていたなら、内乱と無秩序状態が起きていたことでしょう。キリスト教は完全に信用を失っていたはずです。「既成の社会制度を独断的に、あるいは急にくつがえすことは使徒パウロの仕事で.はなかつた。これを試みようとすれば、福音の成功が阻まれるであろう。しかし彼は、奴隷制度の根本にある原則、しかも、それが実行されれば奴隷制度全体を揺るがせること必然であろうと思われる原則を教えた」(『患難から栄光へ』下巻152ページ)。
にせ教師とそのしるし(テモテへの手紙一 6章3節~5節)
にせ教師は教会を脅かすものです。彼らは健全な教えを受け入れないので、教会は深刻な問題に直面することになります(Ⅱテモ4:3、4参照)。
テモテ第Ⅰ・6:3は、エペソには霊感によるパウロの勧告と全く反対のことを教えていた者たちがいたことを暗示しています。彼らはクリスチャン奴隷に対して、主人に誤った態度をとるように教えていました。彼らはまた、ほかの点においても神の勧告に従っていませんでした。
質問3 パウロはだれの言葉をクリスチャンの行動と生活の標準とするように勧めていますか。Ⅰテモ6:3(ガラ1:7~12、ビリ2:2~5比較)
パウロは、『わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉』について語っています(Ⅰテモ6:3)。パウロの時代において、書かれたかたちの福音が、どの程度行きわたっていたかは明らかではありません。おそらく使徒たちは聖霊の助けによって(ヨハ14:26)、イエスが地上で働いておられたときに語られた言葉を諸教会に口頭で伝えていったものと思われます。
主イエスの教えられた教えは、ユダヤの律法学者のそれとは全く対照的なものでした。イエスは山上の説教の中で、動機が行為そのものよりも大切であると教えておられます。キリストに対する心からの信頼が神の律法を守る動機となるときにのみ、行為は神の義の標準と一致したものとなります(ロマ8:3、4参照)。
マタイ5~7章を読み、イエスの教えが生活のどんな点にまで及んでいるかを復習してください。
質問4 にせ教師を見分ける方法は何ですか。Ⅰテモ6:4、5
(1)彼らは高慢である。(2)真の知識がない。(3)争い、非難疑いのもとである議論と論争に夢中になる。(4)知性が腐っているので、その議論には真理がない。(5)巧妙な方法によって自分の利益を求める。これとは対照的に、キリストの真のしもべはキリストのために喜んで犠牲を払います。
クリスチャンと富(テモテへの手紙一 6章6節~11節)
質問5 真の利得はどんな二つの要素からなっていますか。Ⅰテモ6:6~8、ピリ4:11
真の満足は物質的な富にではなく、キリストとの交わりからくる信心にこそあります。
「パウロはここで、人間が持つことのできる最も価値のある財産を明らかにしている。男も女も心の平安と落ちつきを求めて世界中を捜しまわっている。数え切れないほどのお金が毎年、心の満足のために娯楽、旅行、酒、快楽のために費されている。しかし、その目的を果たすことができない。なぜなら、人間にはなお良心があり、自らの永遠の運命という問題に直面しなければならないからである。しかしながら、神の賜物は永遠のいのちだけではない。それはまた心の平和、つまり変わりやすい人生にあって愛の神に信頼することからくる平安をもたらす」(『SDA聖書注解』第7巻317ページ)。
質問6 富んでいる人たちはどんな危険にさらされていますか。Ⅰテモ6:9、10(申命8:13、14、マル4:19、マタ19:23~26比較)
「富むことを願い求める者は、誘惑……に陥る」(Ⅰテモ6:9)。危険なのは富そのものではなく、むしろ富に心を奪われ、富を利用して自分の目的を達しようとすることです。
パウロの霊感による勧告はエペソの教会に与えられていますが、実際にはテモテに与えられたものでした。
「このようにして、パウロは、伝道者が主の働きのために何一つ保留することなく、献身する必要のあることを強調した。神に全く献身した伝道者は、彼の聖なる召しに完全に献身することを妨げる事業には従事しないようにする。彼は、地上の栄誉や富を得ようとしているのではない。彼の唯一の目的は、人類に永遠の生命の富を与えるために、ご自身を犠牲にされた救い主のことを人々に告げることである」(『患難から栄光へ』下巻47ページ)。
質問7 富の代わりに、テモテはどんな六つの霊的価値を求めるべきでしたか(Ⅰテモ6:11)。物欲は私たちの信仰にどんな影響を及ぼしますか。パウロの勧めている六つの価値はどうしたら手に入れることができますか。
信仰の戦い(テモテへの手紙一 6章12節)
質問8 信仰の戦いをりつばに戦いぬいて」とはどんな意味ですか。Ⅰテモ6:12、エペ6:10~18
霊的勝利をめざすテモテに対して、パウロはこれまでの神の導きを思い起こすように勧めています。多くの主のしもべたちが富、名誉、快楽というこの世の誘惑に負けてしまったことを、パウロはよく知っていました(Ⅱテモ4:10参照)。
クリスチャンはキリストに信頼することによって、信仰の戦いをりっぱに戦いぬきます。その結果、彼は矛盾のない信仰生活を送り、真理を効果的に伝えることができるようになります。
「ああ、生きた活動的な信仰がほしいものである。われわれにはそれが必要である。われわれはそれを得なければならない。さもなければわれわれは試練の日に勇気を失って倒れてしまうだろう。その時われわれの道をおおう暗黒にわれわれは失望したり、落胆してはならない。それは、神がゆたかな祝福を与えるために来られるときの神の栄光をおおうベールなのである。われわれは過去の自分の経験によってこれを知るべきである。神がご自分の民と争われる日のその経験が慰めと希望のもとになる」(『教会への勧告』下巻403、404ページ)。
質問9 クリスチャンのさまざまな武具に注目してください(エペ6:13~17)。それぞれの武具に対応する霊的武具とは何ですか。
パウロのあげている六つの武具のうちの五つまでが、敵の矢から身を守るためのものです。剣は兵士の装備を完成させるもので、防御にも攻撃にも使うことのできる唯一の武器です。みことぱについての完全な知識がないなら、クリスチャンは魂の敵の前に無力です。敵の捕虜になっている人々を助け出すことはできません。
テモテへの命令(テモテへの手紙一 6章13節〜16節)
テモテヘの第Ⅰの手紙は、テモテに対する有益で父親のような勧告をもって結ばれています。それは有益な勧告以上のもので、命令のかたちをとっています。パウロはとくに二つのことを命じています。(1)テモテは模範的な生活を送るべきである。(2)富んでいる人たちは貧しい人たちに惜しみなく施すべきである。「こうして……未来に備えてよい土台を自分のために築き上げる」のです(Ⅰテモ6:19) 。
質問1 0 神の臨在をつねに意識することはクリスチャンにとってどんな意味を持ちますか。Ⅰテモ6:13
テモテは神のみまえに生きていることを覚えるべきでした。彼は「見ておられる主のみまえで、またその品性によってキリスト教の価値を判断する多くの「証人」(12節)の前で、「信仰の戦いをりっぱに戦い」ぬくべきであった(12節参照)」(「SDA聖書注解」第7巻319、320ページ)。
質問11 テモテはこの命令をいつまで、またどれほど注意深く守るべきでしたか。Ⅰテモ6:14
ある人はこの「戒め」がテモテのバプテスマの誓約を指すと言い、別の人はこの手紙の中のパウロの勧告をさすと言います。『SDA聖書注解』には次のように書かれています。「結局のところ、パウロの命令は神の生き方のもつ最高の価値についてのクリスチャンのあかしをさしている」(第7巻320ページ)。
質問1 2 キリストの再臨を待望しつつ模範的な生活を送るテモテに対し、パウロはキリストのどんなすぐれた特徴を心にとめるように勧めていますか。Ⅰテモ6:15、16
罪深い人間は罪のゆえに神を見ることができなくなりましたが、福音は信じるすべての者たちに、心の清い者たちがキリストによっていつの日か神を見、永遠に生きるようになるという約束を与えています(マタ5:8、Ⅰヨハ3:2参照)。
質問13 テモテ第Ⅰ・6:16は人間の死後の状態についてどんなことを教えていますか。救われた者たちに対してどんな大いなる変化が約束されていますか。それはいつ実現しますか。Ⅰコリ15:51
まとめ
パウロはテモテヘの第Ⅰの手紙を結ぶにあたって、いつものように実際的で時宣にかなった勧告を与えています。それは非常に現実的な問題についての勧告です。キリスト教は実際的な宗教であって、人生のあらゆる問題についての指針を与えてくれます。初期のクリスチャンの中にはかなりの数の奴隷がいました。彼らは社会的に厳しい状況に置かれていましたが、その行動はキリストの力をあかしするものでなければなりませんでした。パウロはまた教会の富める者たち、にせ教師、そして最後にテモテに対して勧告を与えています。テモテは福音の純粋さとその卓越性とをあかしすべきでした。
第10課 教会の組織
第10課 教会の組織 〜『テトスヘの手紙』序言〜
テトスは回心した異教徒でした。彼は、紀元49年ごろ、パウロにともなってアンテオケからエルサレム会議に出席しました(ガラ2:1~3)。パウロの第3次伝道旅行の際テトスはパウロの代理としてエペソからコリントにつかわされました(Ⅱコリ2:13、7:6、13、8:6、23)。パウロはローマにおける第1回目の投獄のあとで、テトスをクレテに残したまま(テト1:5)、
エペソとマケドニヤに旅行しました(Ⅰテモ1:3)。彼はマケドニヤから、エペソにいたテモテに第1の手紙を、またクレテにいたテトスにも手紙を書き送りました。パウロはテトスにアドリヤ海に面したアカヤのニコポリに来るように求めています(テト3:12)。パウロの第2回目の投獄のときには、テトスはローマでパウロと共にいました。パウロはそこからテトスを、アドリヤ海の東岸、ギリシアの北、現在のユーゴスラビアの一部であるダルマテヤ(Ⅱテモ4:10)に送りました。
パウロの権威(テトスへの手紙1章1節)
五旬節(使徒2:11)のときエルサレムにいたクレテ人は、福音をクレテ島に紹介していたかもしれません。さらに、パウロの最後の伝道旅行の際、クレテに福音を伝えていたとも考えられます(『SDA聖書注解』第6巻107ページ)。
質問1 パウロはどんな意義ぶかい言葉によって自分自身をテトスに紹介していますか。テト1:1
「僕」という言葉は使命に対するイエスの完全な服従と献身を例示しています(ピリ2:7、8参照)。クリスチャンの働きに関する基本的理念は、自発的な奉仕と服従です(マタ20:25~28参照)。しかし、次のことも忘れてはなりません。(1)福音は人を搾取するものではありません。(2)福音は人の個性を奪うものではなく、むしろ高めるものです。(3)私たちの献身と奉仕は、人間の力では得ることのできない自由に対する深い感謝と恩義の念から生じた、自発的なものでなければなりません(ロマ6:23参照)。
「栄誉の前に謙遜がある。人の前で高い地位を占めさせるために、天は、バプテスマのヨハネのように、神の前に低い地位を占めている働き人をお選びになる。最も子供のような弟子が、神のための働きにおいて最も有能な者である。天使たちは、自分がえらくなろうとする者とではなく、魂を救おうとする者と協力することができる」(『クリスチャンの奉仕』360ページ)。
質問2 イエス・キリストの使徒というパウロの言葉にはどんな深い意味がありますか。テト1:1、ガラ1:1
「個人的にパウロを使徒職に任命されたイエス・キリストの権威(コロ1:11、12参照)は、永遠の神の最高の権威である。パウロの権威は至高者からのものであり、その信任状はダマスコヘの道において彼に与えられたものである(使徒9:15、22:14、15、26:16、17、コロ1:1)」(『SDA聖書注解』第7巻358ページ)。パウロの神からの信任状は、クレテ島における福音の大使としてのテトスの使命と権威に、疑う余地のない正当性を与えるものです。
パウロの働きの目標(テトスへの手紙1章1節~3節)
質問3 パウロがイエス・キリストのしもべ、また使徒であったのはどんな目的のためでしたか。1:1
ランドルフ・O・イエガーはこの聖句を次のように訳しています。「神に選ばれた者たちの信仰を強め、また信心にかなう真理についての理解を深めさせるための神のしもべでありまたイエス・キリストの使徒であるパウロ」(『ルネッサンス新約聖書』)。パウロの生涯における燃えるような願望は魂をキリストに勝ち取ることであり、その霊的生命を養うことでした。福音を受け入れた者たちが永遠の生命を受けるか否かは、彼らが最後まで耐え忍ぶか否かにかかって
いることをパウロは知っていました(マタ24:13参照)。彼は「神に選ばれた者たちの信仰とその真理についての知識とを深める」ために努力しました(テト1:1、改訂標準訳)。
「選ばれた者たち」とは、イエス・キリストを救い主また主として信じると、神が予見された人たちのことです(ロマ8:29、30、Ⅰペテ1:2参照)。
「信心にかなう真理の知識」とは、単なる頭だけの知識ではありません。それはイエス・キリストに対する信仰によって生きるという経験にもとづいた知識です(ロマ10:8~10比較)。
質問4 パウロの教えているクリスチャンの望みとは、どれほど広範囲で確実なものですか。テト1:2、3(Ⅱテモ1:9比較)
すべての信者に与えられている永遠のいのちの希望は、神の約束にもとづくものです。この約束は天地創造に先だつ永遠の昔に、すなわち神が、人類の堕落と神の恵みの受容を予見されたときになされました(ロマ5:17参照)。
イエスを信じ、心に聖霊を受け入れる者たちにとっては、今が永遠のいのちの始まりとなります(ヨハ3:36、Ⅰヨハ5:11~14参照)。「キリストの真の品性を見、キリストを心に受け入れる者は、永遠のいのちを持つ。キリストがわれわれのうちに住まれるのは、みたまを通してであり、神のみたまが信仰によって心に受け入れられるときに、それは永遠のいのちの始まりである」(『各時代の希望』中巻136ページ)。
父なる神とキリストは共に救い主と呼ばれており、この両者から恵みと平安が来ます(テト1:3、4)。「神ご自身がキリストと共に十字架につけられた。なぜなら、キリストは父なる神と一つであられたからである」(『SDA聖書注解』第5巻1108ページ、エレン・G・ホワイト注)。
テトスをクレテに残した理由(テトスへの手紙1章5節)
質問5 パウロがテトスをクレテに残してきたのはどんな理由からでしたか。テト1:5
「このような状況のもとでパウロの残していった助手の務めは、ことのほか厳しく、困難なものであっただろう。パウロが引き上げてしまえば、人々の霊的熱意も必ずや冷えてしまうことであろう。そのためにも教師か助手がとどまって、働きを続ける必要があった。彼は回心したばかりの人々の信仰を育成するだけでなく、外に働きかけて、近隣の村々や町々に伝道する必要があった」(A・E・グールド『あまり知られていない聖書の小書』135ページ)。
明らかに、パウロがクレテを離れたときには、クリスチャンは「町々」に散在していて、まだ組織化されていませんでした(5節)。
質問6 パウロがテトスにクレテに残るように頼んだのはどんな目的のためでしたか。
テト1:3
テト1:5
テト1:10、11
質問7 クレテにおいては福音がどれほど広く伝えられていましたか。テト1:5
A・E・グールドは次のように述べています。「キリスト教信仰に回心してバプテスマを受けてから数週間あるいは数か月のうちに、新しい回心者はしばらく前の自分と全く同じ者たちにキリストの御名と力をあかしするようになるのであった。これはたぶん私たちにとっては驚くべき戦略に思えるであろうが、心理学的にはきわめて健全なことなのである。新しく発見した自分の信仰を、すぐに言葉と行動に移す人の方が、その行為そのものによって信仰を強められ、成長する」(『あまり知られていない聖書の小書』135、136ページ)。
指導者の資格(テトスへの手紙1章6節〜9節)
教会指導者を選任することに関してテトスに与えられた教えは、テモテがエペソで与えられたそれと非常によく似ています(Ⅰテモ3章参照)。それぞれの教えの中に見られる対照的な特徴つまり教会指導者が求めるべき積極的な特性と避けるべき消極的な特性に注目してください。
質問8 長老や監督が持つべき積極的な特性の中にはどのようなものがありますか。テト1:6~9
「教役者の家庭には、実践的宗教に対し、有力なる説教となるべき一致がなければなりません。教役者は、その妻と心を合わせ、家庭における義務を忠実に果たし、指導、訓戒に努めるならば、教会の働きに対しさらに成功者となり、かつ家庭以外における神の事業を遂行する上に、ますますふさわしいものとなります。かくて地上の家族は、すなわち天の家族となり、その感化を遠くに及ぼし、善をなす一勢力となります」(『福音宣伝者』307ページ、一部改訳)。
質問9 長老の避けるべき特性をあげてください(テト1:7)。そのような特性は教会指導者の働きにどんな影響を及ぼしますか。
にせ教師を沈黙させる(テトスへの手紙1章9節~16節)
質問1 0 神のみ言葉を効果的に教える教会指導者はどんな二つの目的を達成することができますか。テト1:9
誤りを論破する最良の方法は、積極的で確信を与えるようなやり方で真理を提示することです。にせ教師を攻撃することは論争と分裂をもたらすことになりかねません。H・M・S ・リチャーズ(父)は次のように助言しています。「人前で話すときには、これこれでないと言わないで、これこれであると言いなさい」。
質問11 教会はこれらのにせ教師をどのように扱うべきですか。テト1:10~13
これらのにせ教師たちは、(1)家族全員の信仰を破滅させ、(2)無法で、反逆的で、(3)むなしいことを語り、(4)人をだまし、(5)疑わしい動機から、「恥ずべき利のために」教え(11節)、(6)霊的に堕落していました(15節——Ⅰテモ4:2比較)。
これらのにせ教師とは対照的に、クリスチャンは「自らの告白する信仰についてのすぐれた宣伝者でなければならない。彼らは口だけでなく、毎日の生活によって福音を推賞しなければならない」(A・E・グールド『あまり知られていない聖書の小書』137ページ)。
質問12 テトス1:14~16に記されたパウロの議論のもとになっている問題は何でした。
健全な教えに反対する「反対者」たち、あるいはにせ教師たちは、使徒たちにつきまとい、福音が伝えられるあらゆる場所に来ていたようです。これら真理の反対者たちはユダヤの律法主義神秘主義人間の考え出した教えなどをごちゃ混ぜにしたものを信奉し、宣伝していました。
「割礼のある者」(10節)とは「ユダヤ人の作り話」を宣伝していた律法主義的ユダヤ人クリスチャンのことです。明らかに、ユダヤ的な思想とギリシア的な思想とが結合して、信者を健全な救いの福音から引き離していました(Ⅰテモ1:3~7比較)。
まとめ
パウロがクレテ島にテトスを残したのは、長老を任命することによって彼自身のし残してきた働きを完成させるためでした。長老はその模範的な生活とあかしを通して真理を擁護し、福音に反対する者たちの妨害的な偽りの教えを沈黙させるのでした。真理の言葉は敵対する誤りに対する最も効果的な対抗手段でした。
第11課 クリスチャンの品性
第11課 クリスチャンの品性
クリスチャンの行動も健全な教えの一部です(テト2:1)。神がお受け入れになる態度や行動は聖潔と密接に結びついています。私たちは生まれつき聖であるわけではありません。聖潔(聖化)は聖霊によって私たちに与えられるキリストの賜物です(Ⅰペテ1:1、2、Ⅱテサ2:13)。聖化はキリストのような生き方にあらわされます。
へブル人への手紙には、「自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」と書かれています(12:14)。聖潔は義です」(『思いわずらってはいけません』23ページ参照)。イエスが山上の説教(マタ5章)の中で定義された義(聖潔)は、神に受け入れられる行為においてあらわされる純粋な心の態度です。パウロは、キリストが死なれたのは「律法の義が私たちにおいて満たされるためである」と教えています(ロマ8:4、英語欽定訳)。人のうちに住まれるキリストはその人の義また聖です。それは聖霊によって導かれたきよい思い、言葉行為となってあらわされます。
クリスチャンの品性——年長者(テトスへの手紙2章2節)
質問1 教会の年長者の生き方にはどんな特徴が見られるべきですか。テト2:2
自制、節制 第5課でも指摘したように、ネファリオスというギリシア語は「酒を飲んでいない、節制する」を意味しています。キリストを知るようになったクレテの年長者たちは、それ以前に身につけた習慣を改める必要がありました。飲酒にふけることは、キリストにある新しい生き方とは全く相いれないことでした。聖書は全面的な禁酒を命じています。
謹厳 ギリシア語では「尊敬・名誉に値する、高尚な、品位のある、まじめな」を意味します。年長者は年長であるゆえに尊敬に値する人物でなければなりませんでした。謹厳は幸福で喜びのある生活を否定するものではありません。むしろ、それは真の喜びを与え、より深い積極的な人間関係を体験させてくれるものです。
慎み深く ギリシア語では「分別のある、思慮深い、自制心のある」を意味します。この聖句をテモテ第Ⅱ・1:7と比較してください。パウロはテモテ第Ⅱ・1:7において、クリスチャンには人生の危機や困難に対処する知的、感情的能力が神から与えられていると言っています。
質問2 クリスチャンの年長者はどんな「三つの面において健全」であるべきでしたか。テト2:2
「信仰において健全であるということは、年長者が信仰を働かせ続けるということ、また通常の教会生活(Ⅰテモ2:2比較)やその熱心な働きと危機において信仰と信頼を持ち続けるということである」(ロナルド・A・ワード『テモテⅠ、 Ⅰ、テトス』251ページ)。
愛において健全であることは、年が進み、肉体的に衰えることによってときには批判的になりがちな年長者にとって絶対に必要なことです。
忍耐 ギリシア語では「がまん、堅忍、不動、不抜」を意味します。これは終わりの時代の神の民に見られる重要な特徴の一つです(黙示14:12参照)。一生にわたる忍耐は純粋な品性と希望を生み出します(ロマ5:3、4参照)。
クリスチャンの品性——年長の婦人(テトスへの手紙2章3節~5節)
質問3 年長の婦人はどんなクリスチャンの美徳を身につけるように勧められていますか。テト2:3、4
女性は家庭で、職場で、社会で、教会で重要な位置を占めています。まさに、「揺りかごを揺する手は世界を治める手」です。母親ほど自分の子供たちの品性に大きな影響を与える者はほかにはいないでしょう。若い母親は子供たちの最初の教師です。クリスチャンの父親は家族の祭司であるべきですが、母親は神の特性を子供の品性に織り込む特権を与えられています。
年長の婦人はその円熟した品性、健全な判断力、人生についての深い理解のゆえに、教会において重要な役割を果たすことができます。
テトスは年長の婦人たちに悪意に満ちた中傷に加わることのないように教えなければなりませんでした。この勧告を若いやもめに与えられたパウロの勧告と比較してください(Ⅰテモ5:14、15)。
『アドベンチスト・ホーム』263~272ページの「母親の感化」と「母親の仕事についての誤った考え」を読みましょう。
質問4 年長の婦人たちは若い人たちに対してどんな教える責任を負っていますか。テト2:4、5
「女性の美徳が世代から世代へ最もよく伝えられるのは、修養と信心についての教訓をよく学んだ感情的に円熟した女性たちによってである。教えと模範によってクリスチャン女性の責任を正しく教えられることなく、若い女性が妻と母親の義務を負うことは悲劇である」(『SDA聖書注解』第7巻364ページ)。
クリスチャンの品性——若い男女(テト2:4~6)
質問5 若いクリスチャン女性はどんな美徳を養うべきですか。テト2:4、5
初代教会時代のギリシア世界では、慎み深い若い女性がひとりで家の外に出ることはめったにありませんでした。事実、男性の家族と一緒にいることさえまれでした。
バークレーはパウロの主張を解説して次のように述べています。「もし古代教会の女性たちが何世紀にもわたって自分たちに負わされてきたすべての束縛を突然断ち切っていたなら、教会は不信を買い、キリスト教が女性を堕落させたと非難されるだけであっただろう。ここに描かれている生活は窮屈で制限されたものに思えるが、時代の背景に照らして読む必要がある」。
たとえそうであっても、この勧告は時代を超えたものです。バークレーは次のようにつけ加えています。「この世で家庭を築くほど重要な仕事責任、特権がほかにないということは明白な事実である。……事実、家庭ほど真に宗教的な生活を送ることのできる場所はどこにもない」(『テモテ、テトス、ピレモンヘの手紙』250ぺージ)。
「自分の夫に従順である」(テト2:5)という表現は、「自分の夫に服従する」とも訳すこともできます(改訂標準訳)。テモテ第Ⅱ・3:6、7に言及されている問題に照らして考えるなら、この勧告は全くふさわしいものです。夫が自分の役割に従ったからといって、彼が妻に劣るものではないのと全く同様に、妻が自分の妻としての役割に従ったからといって、彼女が夫に劣ることにはなりません。
質問6 テトスは若い男性に何と勧めるように言われていますか。テト2:6
年長の女性が若い女性の模範となるべきであったように、テトスは若い男性に模範となる行動を示すべきでした(7節)。自分自身も若かったので、テトスは善のための力強い影響力となることができました。「神の言がそしりを受けないように」(5節)、若い男たちは「慎み深く」あるべきでした(6節)。
クリスチャンの品性——教師(テトスへの手紙2章7節、8節)
質問7 テトスはどんな点において模範となるべきでしたか。テト2:7、8
「良いわざの模範」 クリスチャンの長老、牧師、教師はいつでも人々の模範でなければなりません。彼らは指導者にはなっても、決して独裁者になってはなりません(マル10:42~45参照)。牧者としての彼らの最大の関心は、羊の群れの霊的福祉にあります。彼らは決して無理強いしたり、強制したりすべきではありません。真の羊飼いについて、イエスは言われます。「羊はその声を知っているので、彼について行くのである。ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る」(ヨハ10:4、5)。キリストがにせの羊飼いたちを責められたのは、彼らが羊を見捨てて狂暴なおおかみのなすがままにしたからです(ヨハ10:12)。
「人を教える場合には、清廉と謹厳とをもってし」 テトスには威厳が必要でした。クリスチャンの威厳は尊大さやよそよそしさではありません。それは礼儀正しいこと、思いやりがあること、冷静であることです。テトスのクリスチャンとしての模範に重点がおかれています。
「非難のない健全な言葉」 「彼は健全な教えを語らなければならない。クリスチャンの教師や説教者は自分自身の思想ではなく福音の真理を宣べ伝えるように心がけなければならない。彼はどうしても枝葉の問題に時間を浪費しがちである——『神よ、私に調和の感覚を与えてください』と祈るのも当然である。信仰の中心的なことがらは彼を一生のあいだ持ちこたえさせてくれるものである。自分自身の思想や一部の人々の利益のための宣伝者となるとき、彼は神のみ言葉の有力な説教者、教師ではなくなる」(ウィリアム・バークレー『テモテ、テトス、ピレモンヘの手紙』253ページ)。
質問8 テトスに対するこの勧告の重要性はどこにありますか。テト2:8後半
聖書の真理に反対する者たちは、教えそのものに問題点を見つけることが困難と見ると、説教者の品性を攻撃してくることがあります。厳格なクリスチャンの誠実さから少しでも逸脱するなら、彼らはそれをとらえて教えそのものの信用を失わせようとします。
クリスチャンの品性——労働者(テトスへの手紙2章9節、10節)
このパウロの勧告はギリシア語にあるように「奴隷」にだけあてはまるのではなく、クリスチャンの使用人全員にあてはまるものです。ここに述べられている原則は今日のすべての人にあてはまります。
質問9 使用人はどんな精神をもって働くべきでしたか。テト2:9、10
パウロはクリスチャンの使用人に対して、自分の信仰をあかしし、それによって「わたしたちの救主なる神の教を飾る」ように望んでいます(テト2: 10)。彼はクリスチャンの使用人に必要な品性の特徴をいくつかあげています。
服従 彼らは使用者の要求に喜んで従い、働くべきです。しかし、人間の使用者に服従するあまり、神に対する最高の服従を無にしてはなりません。「真理に従う」(Ⅰペテ1:22)ことは上司の命令を拒むことを意味する場合もあります。しかし私たちには、神がご自身を尊ぶ者たちを尊んでくださるという確信があります(ダニ3:16~18、6:10参照)。この原則に従って、私たちは安息日を除く(出エ20:8~11)ほかの平日には忠実に働かなければなりません。
従順 これは使用者に「口答え」しない(9節、新改訳)、仕事のやり方に反対しないということです。クリスチャンは求められれば意見を述べますが、使用者の手から主導権を奪うようなことはしません。
真心から正直 「盗みをせず」とは、「私用に供しない、横領しない」ということです。クリスチャンの使用人は決して自分のものでないものを取りません。彼は決して資金を横領したり、備品や製品を無断で使用したりしません。また、勤務中に自分の仕事をすることによって時間を盗むこともしません。
忠実 クリスチャンの使用人は自分の雇用者に忠実です。彼は「どこまでも心をこめた真実を示すように」心がけます(10節)。彼は自分の上司や製品を批判することがありません。彼は自分の立場を利用して利益を得たり、仕事の上での秘密情報を用いて自分の経済的、職業的利益を求めたりすることがありません。
まとめ
クリスチャンの品性形成ということがクレテ島の教会に対するパウロの関心の大部分を占めていました。テトスにゆだねられた真理の言葉(健全な教え)の最終的な目的は、罪人を聖徒に変えることにありました。年齢にかかわりなく、すべての教会員はキリストの福音を身をもって実践し、あかしすべきです。家庭、教会、職場において福音を実践することは、にせ教師の見せかけの教えや異教の偏見に対する効果的な対抗手段となります。
第12課 信心深い生活
第12課 信心深い生活
パウロはクリスチャンのための霊的な力、また動機づけとなる力を明らかにすることによって、テトスヘの手紙第2章を結んでいます。11節には、信仰生活のための力として神の恵みがあげられています。信仰生活の動機づけとなるのは物質的な豊かさではなく、神の愛、またイエスの再臨に対する大いなる希望です。罪からあがなわれた者たちにとって最も重要なのは、イエスに似る者となるということです。
パウロはピリピの信者に対して自分の希望を次のように述べています。「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリ3:9)。クリスチャンの最も強い、心からの望みは、「キリストとその復活の力」とを知ることです(ピリ3:10)。自分自身の力によってではなく、内住するキリストの力によって模範的な生活を送ることが、キリストの個人的な招きに対するクリスチャンの応答です。
神の恵みの現れ(テトスへの手紙2章11節)
質問1 神はいつ、ご自身についての最高の啓示を人類に与えられましたか(ガラ4:4——ダニ9:25比較)。この啓示はどんな深遠な、奇跡的な方法によってなされましたか。マタ1:21、23(ヨハ1:14比較)
「われわれの小さな世界は、宇宙の教科書である。神のすばらしい恵みの目的、すなわちあがないの愛の奥義は、『御使いたちも、うかがい見たいと願っている』テーマであって、それは永遠にわたって彼らの研究となるであろう(ペテロ第Ⅰ・1:12)。あがなわれた者も、堕落しなかった者も、キリストの十字架に彼らの科学と彼らの歌をみいだすであろう」(『各時代の希望』上巻2ページ)。
質問2 キリストの受肉はどんな永遠の恩恵を人類にもたらしましたか。テト2:11
神の恵みとは、何ら功績がなくても、ただキリストの犠牲によって、失われた人間に与えられる神の限りないあわれみと愛のことです。キリストは「めぐみとまこととに満ちてい」て(ヨハ1:14)、その満ち満ちた豊かさをもって私たちを満たしてくださいます(16 節)。神の恵みの賜物であるキリストにおいて、全人類の罪のための代価が支払われました(ロマ5:15、18、Ⅰヨハ2:2)。しかし、喜んで「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たち」だけが、「ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配する」のです(ロマ5:17)。
神の恵みとは、私たちのためになされたキリストの客観的な働きにおいて現された神の好意であり、また私たちのうちになされるキリストの変化をもたらし、力を与える働きにおいて表される神の好意のことです(使徒4:33、ロマ12:6、Ⅰコリ1:4~7、15:10、Ⅱコリ9:8、14、Ⅱペテ3:18参照)。
「人間は、キリストの功績によって、創造主との調和を回復することができるのである。彼の心は、神の恵みによって新しくされなければならない。彼は、上からの新しい生命を受けなければならない。この変化が新生であって、これがなければ『神の国を見ることはできない』とイエスは言われるのである」(『各時代の大争闘』下巻194、195ページ)。「人間の努力があらゆる知恵と力の源泉である神の恵みと結びつくときに、彼が成し遂げることのできる高く壮大な業績は、人間の想像力を超えている」(『教会へのあかし』第4巻446ページ)。(エペ2:8~10参照)
神の恵みによって信心深い生活を送る(テトスへの手紙2章12節)
質問3 信仰によって神の恵みの賜物を受ける者たちはどんな生活を送りますか。テト2:12
キリストがあらゆる罪を拒否されたように、私たちも彼の恵みによってあらゆる罪を拒むことができます。キリストが勝利されたように、私たちも勝利することができます(黙示3:21)。彼の「恵みと平安」とが私たちに「豊かに加わる」とき、私たちは「神聖な力」によって「信心」とクリスチャンの徳を与えられます(Ⅱペテ1:2、3)。この恵みにあずかるとき、私たちは「世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となる」のです(4節)。この恵みと力は聖霊によって私たちに授けられます。心に与えられる「恵みの御霊(ヘブ10:29)はキリストの臨在であって、パウロのあげている美徳を私たちにもたらしてくれます。
質問4 クリスチャンが身をもって世に示すべき三つの美徳にはどんな意味がありますか。テト2:12
慎み深く この言葉は思慮、知恵、自制を意味します。恵みに満ちたクリスチャンは人生の諸問題を処理する知恵を持っています。彼らは「すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ」るので、神のみこころに従ううえで必要な霊の賜物に欠けることがありません(Ⅰコリ1:4~7)。
正しく 義は純粋、聖潔、神のみこころとの一致です。義とされた信者は自発的な「義の僕」です(ロマ6:18)。神の律法が聖霊によって彼らの心に刻まれているので、彼らの心は義とされ、正しい行動に導かれます(ロマ8:9、10、10:6~10参照)。こうして、彼らは現世と来世に対して備えができるのです(マタ25:46参照)。
信心深くギリシア語では敬虔を意味します。それは良心的な生き方において現される全的な献身です。
「神の働きに従事する者たちの努力が成功するためには、彼らは神だけがお与えになる恵みと能力を受けなければならない。『求めなさい、そうすれば、与えられるであろう』(ヨハ16:24)は約束である。とするなら、魂が新しい生命によって活気づけられるように、時間をかけて求め、心を聖霊の導きにゆだねようではないか」(『教会へのあかし』第7巻251ページ)。
神の恵みによる導き(テトスへの手紙2章13節)
質問5 神の恵みはクリスチャンをどんな出来事に導いてくれますか。テト2:13
恵みによって救われた信者は主の再臨を待ち望みつつ生活します。救いの恵みについての啓示は道徳的暗黒を追い払い、再生した罪人の道を照らし、救いの最終的な目標を示します。パウロはコリントの信者の目を救いの恵みの輝かしい最終的な目的に向けさせ、次のように言っています。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」(Ⅰコリ15:22)。彼が言及していたのは、聖徒たちがイエスの栄光に満ちた再臨において経験する終わりなき生命のことでした。これが「祝福に満ちた望み」です。クリスチャンはこの望みの成就することを心から期待し、忍耐づよく待ち望んでいます。
「キリスト再臨の望みは2000年近くにわたってキリスト教信仰の重要な動機であり、人生のあらゆる有為転変の中にあって信者の精神を活気づけ、不動の勇気を与えてきた。この世の人生で経験する失望、幻滅、あるいは悲しみといった暗い出来事は、再臨に対するクリスチャンの望みによって大いに償われてきた」(『SDA聖書注解』第7巻366ページ)。
質問6 地上および天国におけるキリストの働きの目的は何ですか。ヨハ14:1~3、黙示21:3
イエスは旧約聖書においてインマヌエル、つまり「神われらと共にいます」と呼ばれています(イザ7:14、マタ1:23参照)。イエスが弟子たちのもとを去って天父のもとに帰られたとき、御使いたちはイエスの約束を繰り返して次のように言いました。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒1:11)。聖書によれば、イエスはご自分の犠牲のゆえに恵みによって救われた者たちとの再会を望んでおられます。失われた人類を救うためのあがないとしてご自身のいのちをささげる直前の執り成しの祈りの中で、イエスはご自分の弟子たちが共に天国にいるようにしてくださいと天父に祈っておられます(ヨハ17:24参照)。
独特なキリストの民(テトスへの手紙2章14節、15節)
質問7 「わたしたちのためにご自身をささげられた」とき、キリストはどこまで徹底的になさいましたか(テト2:14)。ヘブ2:16~18、4:15、ピリ2:6~8
「キリストはわがままな被造物のための自発的な犠牲として『ご自身をささげられた』。……イエス・キリストにおいて、神は聖なる父の愛を啓示された。……キリストの賜物は反逆した者たちに対する神の愛のすばらしさについてのあらゆる疑いを取り除く」(『SDA聖書注解』第7巻367ページ)。
「キリストはヤコブの見たはしご、すなわち足が地面について、てっぺんが天の門、栄光の門口に達しているはしごである。もしこのはしごがたった一段でも地についていなかったら、われわれは減ぴてしまったのである。だがキリストは、われわれがいまいるところで、われわれにとどいてくださる。主は、われわれの性質をおとりになって勝利されたが、それは、われわれがキリストの性質をとることによって勝利するためである」(『各時代の希望』中巻21ページ)。
質問8 イエスは私たちを何から、またどんな大いなる目的のためにあがない出してくださいましたか。テト2:1 4(Ⅰペテ2:2 4、ヨハ10:10比較)
十字架上のキリストの苦しみは、私たちを「すべての不法から」あがない出すための身代金でした。私たちがあらゆる罪からあがなわれるのはこの世においてでしょうか。それとも再臨においてでしょうか。聖書の答えは明白です。「あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」(Ⅰペテl:15)。
「私たちはキリストにお会いする備えをしている。彼は聖なる天使たちの従者に伴われて、忠実で正しい者たちに仕上げの不死を与えるために天の雲にのってお現れになる。彼が来られるときに、私たちの罪を清め些私たちの品性の欠点を取り除き、あるいは気質や傾向の弱点をいやして下さるのではない。そのようなことが私たちのためになされるのであれば、その働きはすべて再臨以前に完了しているであろう」(『教会へのあかし』第2巻355ページ)。
質問9 神の民はイエスの再臨前に霊的にどれほどきよくならなければなりませんか。エペ4:13、5:25~27
キリストご自身の民(テトスへの手紙2章14節、15節)
テトス2:14の後半部分は次のように訳すことができます。「彼ご自身のものである民を彼ご自身のために聖別する」。私たちは五つの理由でキリストご自身の民です。(1)キリストは十字架の上で身代金を払うことによって私たちを罪の生活からあがない出してくださった(Ⅰペテ1:18、19)。(2)私たちがキリストのゆるしを求めるとき、彼は私たちの不義をきよめてくださる(Ⅰヨハ1:9、ミカ7:19)。(3)キリストの提供を受け入れるとき、彼は聖霊によって私たちの心に生きてくださる(ヨハ14:18~23)。(4)私たちはキリストの与えてくださる力(恵み)によって、自分自身の力では勝つことのできない罪に勝利することができる(ユダ24、Ⅰヨハ5:4)。(5)キリストは私たちを通して働き、神の品性を世にあかしし、人々が神をあがめるように導いてくださる(ピリ2:13、Ⅰペテ4:11)。
質問11 イエスは教会の使命をどのように定義なさいましたか。ルカ24:47、48、マル16:15
「われわれ自身の家族の中には、同情にかわき、生命のパンに飢えた魂がいるかもしれない。キリストのために教育すべき子供たちがいるかもしれない。われわれ自身の門口に異邦人がいる。一番近くにある働きを忠実にしよう。……
しかし、全世界に出て行けとの命令をみすごしてはならない(マルコ16:15参照)。われわれの目をかなたの国々に向けるようにと訴えられている。キリストはへだての壁すなわち国籍というへだての偏見を打破し、全人類家族への愛を教えておられる。主は、人間の利己心が定めたせまい社会から人々を高められる。主は、地域的な境界線と人間のつくった社会的な差別を廃止される。キリストは隣人と他人、友人と敵の区別をされない。困っている魂をみな兄弟とみなし、世界を働き場とみなすようにと、主は教えておられる」(『各時代の希望』下巻369、370ページ)。
まとめ
クリスチャンは神の特別な民です。それは彼ら自身の長所や功績のためではありません。創造主ご自身が彼らをすべての罪からあがなうために身代金を払ってくださいました。イエスは私たちを罪の力から救い、私たちを彼の特別な使者に任命されます。私たちは自分の生き方によって、イエスの地上生涯に立派にあらわされていた神の品性を身をもってあらわすべきです。献身したクリスチャンの目標は、イエスがご自分の民を迎えに来られるときに「祝福に満ちた望み」にあずかることです。
第13課 新生は再生
第13課 新生は再生 〜パウロ、テトスに対する勧告を締めくくる〜
テトスヘの手紙の最後の章において、パウロは模範的な生活の重要性をふたたび強調しています。この世の権威者との関係において、クリスチャンは責められるところがないだけでなく、「いつでも良いわざをする用意」ができていなくてはなりません(テト3:1)。
習慣的な罪のうちに生きていたときは、私たちは自分の欲望や他人との絶えざる争いによって支配されていました。、それから聖霊の内なる救いの働きによって新生と再生が訪れました。。神の教えにかなった生き方をする力は、聖霊によって私たちに授けられるキリストの救いの恵みによって与えられます。キリストによる救いは私たちを地上において立派な市民とするばかりでなく、「永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者」としてくれます(7節)。
テトス3章には、恵みによる救いが良いわざを生み出すという聖書の教えが非常にはっきりと提示されています。
クリスチャンの市民(テトスへの手紙3章1節~3節)
質問1 クリスチャンはどんな重要な市民の義務を果たすべきですか。テト3:1、2 (Ⅰぺテ2:13~16、ロマ13:1~3比較)
「ここにクリスチャンの公の義務が述べられている。それはクレテの人々にとってはとくに適切な助言である。クレテ人は乱暴でけんか好きで、あらゆる権威に逆らうことで有名であった。ギリシアの歴史家ポリュビオスは、彼らが絶えず『反乱、殺人、血なまぐさい戦い』を引き起こしていたと言っている」(ウィリアム・バークレー『テモテ、テトス、ピレモンヘの手紙』258ページ)。
新たにクリスチャンになった人々はみな公の権威に対する責任について学ぶ必要があります。私たちはまたクリスチャンとして、どんな状況においても聖書の原則に従わなければなりません。これには、自分の住んでいる社会を良くすること、法律や秩序に対する責任者を支持することも含まれます。社会的な活動から孤立することは必然的に、教会と社会とのあいだに壁を築くことを意味します。
質問2 パウロはキリストを知らない人たちの特性について何と言っていますか。テト3:3
生まれながらの俗人の態度・生き方と生まれ変わったクリスチャンのそれとのあいだには、はっきりした違いがあります。前者は罪の奴隷なので、その生活は「肉の働き」によって支配されています。これらの働きはその行為者を永遠のいのちから閉め出します(ロマ6:23、ガラ5: 21、黙示21:8)。対照的に、「御霊の実」がクリスチャンの生活の特徴となります(ガラ5:22、23)。それは「キリスト・イエスにある」ことの実体験です(ロマ8:1)。聖霊は彼を導いて「神の子」としてくださいます(ロマ8:14)。神の家族に加わるという特権は決して人間的な努力や善行によるのではなく、神のみこころと力に服従することによってもたらされるのです(ヨハ1:13)。
新生によって救われる(テトスへの手紙3章4節~6節)
質問3 福音はどんな救いの方法を排除していますか。テト3:4、5(ロマ3:20、ガラ2:16比較)
無条件の終身刑を宣告された人は自分の善行によって自由を勝ち取ることができません。同じように、永遠の死を宣告された罪人も決して自分の善行によって永遠のいのちを勝ち取ることができません。人間の努力はつねに罪の代価を支払うには不十分なのです。このことは、十戒がもはやクリスチャンを拘束しないという意味ではありません。神の律法は神の民が守るべき義の標準です(ロマ3:31、7:7、8:3、4、ヤコ2:10~12、Ⅰヨハ2:4、黙示12:17参照)。しかし、律法に従うことが私たちを永遠の死から解放するのではありません(ロマ6:23)。信仰によってキリストの死を受け入れることによってのみ、罪人は死の宣告から解放されます(ロマ8:1)。そのとき律法は彼らの心に刻まれ、彼らは生活の標準として喜んで律法に従うようになります(ロマ10:6~10)。
質問4 神はどんな方法を用いて私たちを罪と永遠の死から救ってくださいますか。テト3:5、6
「わたしたちの救主イエス・キリスト」という言葉に注目してください(6節)。福音における最も重要な真理は、キリストが私たちの罪のために死に、天の保守者となるためによみがえられたということです(Ⅰコリ15:1~4)。キリストの救いはその犠牲のゆえに新生の経験を含みます。「再生」と訳された言葉は「新生」を意味します(新改訳参照)。すなわち、「聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた」(5、6節)。
「人の心は、新しく生まれることにより、神の律法と一致するとともに、神と調和するようになる。この大きな変化が罪人の中に起きたとき、彼は、死から生命へ、罪から聖潔へ、違犯と反逆から服従と忠誠へと移ったのである。神から離反していた古い生活は終わった。和解の生活、信仰と愛の新しい生活が始まった。こうして、『律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされる』のである(ローマ8:4)」(『各時代の大争闘』下巻195、196ページ)。
義認によって救われる(テトスへの手紙3章7節)
質問5 パウロはどんな言葉を「救われ」(テト3:5)と同じ意味に用いていますか。救われることの直接的な結果は何ですか。テト3:7
この聖句のギリシア語は次のように訳すことができます。「キリストの恵みによって義とされることによって」。これを、「キリストの恵みによって義とされるために」と訳すのは正しくありません。「義とされ」(7節)という言葉は「救われ」(6節)と同じ意味で用いられています。パウロは次のように言っているのです。「私たちは救われた……義とされることによって……」。言い換えるなら、義認は救いであるということです(ロマ3:24、ガラ3: 11~14比較)。
私たちはどのようにして救われたのでしょうか(テト3:5)。「再生の洗いを受け、聖霊により新たにされ」ることによってです。しかし、神の救いの行為は神の義認の行為です。したがって、私たちは霊的再生と聖霊による新生によって義とされたのです。イエスはニコデモに救われる方法を語られました(ヨハ3:1~16)。パウロはいくぶん異なった表現によって同じ教えを繰り返しています。
質問6 義認が新生と同じであることに関して、聖書はほかに何と述べていますか。ガラ2:16、19、20、3:1~3、6~9、14、ロマ6:6、7
義とされること(ガラ2:16)は、神に生きるために律法に死ぬことです(19節)。キリストが私たちのうちに住むことのできるように、キリストと共に十字架につけられることです(20節)。義認は御霊による新たな始まりです(ガラ3:1~3)。それは、アブラハムが信じたように神を信じることです。それは、「アブラハムの受けた祝福が……〔私たちに〕及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるため」です(ガラ3:14)。
「古き人」(ロマ6:6)の死は新生の経験です。エレン・ホワイトは回心していないある人物に対して次のように語っています。「あなたは真の回心がどのようなものであるかを知らない。古い人があなたのうちに死んでいない」(『教会へのあかし』第2巻323ページ)。ローマ6:7を文字通りに訳すと、「死んだ者は罪から義とされているからである」となります。罪に対して死んだ者は新しく生まれて、つまり義とされています。
義認に含まれるもの
質問7 神の義認のわざにはどんな二つの法的な行為が含まれますか。(1)使徒13:38、39、ロマ4:6~8、(2)ロマ4:3、23~25
義認は罪のゆるし ゆるしには法的な面と経験的な面が含まれます。キリストが私たちの罪をゆるされるとき、私たちの罪責は法的に撤廃されます。なぜなら、キリストが十字架の上で私たちの罪のために罰せられたからです(Ⅰヨハ2:2、4:10参照)。さらに、神が私たちの罪をゆるされるとき、私たちの過去の罪責が取り除かれるだけでなく、私たちの心も聖霊によって変えられます。
「神の許しは、罪の宣告からわたしたちを解放する法的行為であるばかりではありません。……心を変えるものは、あふれでる贖罪(しょくざい)的愛です」(『思いわずらってはいけません』150ページ)。
義認はゆるしであるゆえに、それは心の変化を含みます。
義認はまた信じる罪人のものとされたキリストの完全な義を含む 「キリストの義は人の失敗に代わるものとして受け入れられ、神は悔い改めて信じる魂を受け入れ、ゆるし、義とし、彼をあたかも義であるかのように扱い、そして御子を愛するように愛してくださる。このようにして信仰が義と認められるのである」(「セレクテッド・メッセージズ』第1巻367ページ)。
このように、神が私たちを義とされるとき、三つのことがなされます。(1)神は私たちの罪をゆるしてくださいます。(2)神はキリストの完全な義を私たちのものと認めてくださいます。(3)神は私たちに新生の経験を与えてくださいます。
宗教改革者の義認についての理解 ルターはその著書のいたるところで義認を新生と同一視しています。「義認とは実際のところ、一種の新たな再生のことである。ヨハネも言っているように、それは神の御名を信じ、神から生まれることである〔ヨハ1:12、13、Ⅰヨハ5:1〕。したがって、パウロはバプテスマのことを『再生の洗いを受けること、新たにされること』〔テト3:5〕と呼び、キリストご自身、『だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』〔ヨハ3:3〕と言われるのである。……私たちは、同じ御霊によって義なる者、神によって新たにされた者、神の被造物の初穂と呼ばれている。神はみ言葉によって御旨のままに私たちを生み出して下さったのである」(「信仰と法律」1535年、『ルター著作集』第34巻113ページ)。
同じように、カルバンも義認を聖霊の内住によるキリストとの「神秘的結合」と考えていました(『キリスト教綱要』Ⅲ、Ⅺ、9~10参照)。カルバンは、神の義が義認において信者に与えられると教えました(『ローマ人への手紙解説』ロマ3章についての解説参照)。
テトスに対する最後の勧告(テトスへの手紙3章8節~14節)
質問8 テトスがキリストの救いと義認のわざを信者に確信させることはなぜ重要でしたか。テト3:8、14
私たちのためのキリストの働きの目的は、私たちの心をつくり変え、私たちがキリストのみこころにかなった生き方ができるようにすることにありました。キリストが生き、死なれたのは、「律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるため」でした(ロマ8:4)。
新生は義認の中に含まれるものですが、その直接的な結果は心と行動がきよめられることのうちにあらわされます(ロマ6:1 7〜22参照)。新生の経験によって日ごとに義とされることがなければ、私たちは良いわざをなす力がありません。テトスに対するパウロの勧告は良いわざの重要性を強調しています。クレテ人はあらゆる悪から遠ざかるべきでした。どのようにしてでしょうか。新生がその力を与えてくれるのでした(Ⅰコリ6:9~11参照)。
質問9 争いを引き起こすような無益な論争を好む人に対してはどんな態度をとるべきですか。テト3:10
パウロはふたたび、キリストのために働く人たちがおちいりやすいわなについてテトスに警告しています。9節には無益で危険な四つの問題があげられています。(1)おろかな議論、(2)系図、(3)争い、(4)律法についての論争。
これをテモテに対するパウロの勧告と比較してみましょう。
Ⅰテモ1:4 福音の働きに携わる者はそのような問題に「気をとられ」てはなりません。無益な論争に心を奪われることは何の益にもなりません。それは人々の信仰を分裂させるだけです。
Ⅰテモ6:4 非聖書的なことがらを教える人たちは高慢心からそうしているのであり、本当に重要な真理について無知です。
Ⅱテモ2:22、23 テモテは論争の代わりに義と信仰と愛と平和を求めるべきでした。
まとめ
テトスヘの手紙の、この最後の章において、パウロはクレテのクリスチャンに市民として守るべき務めについて教えています。キリストは彼によって神のもとにくるすべての人々を救い、彼らに模範的な生活を送る力をお与えになります。