御霊は勝利する
たとえ克服できそうにない問題があったとしても、神の御霊はあらゆる障害をのりこえ、地上における神のみわざを完成してくださいます。私たちのいのちは聖霊の力によって、神が永遠にお住みになるにふさわしい宮となります。
御霊の臨在による義
ゼカリヤ書3章には、二人の中心人物がいます。中心となる人間はヨシュアであり、中心となる神は擁護者イエスです。テーマはキリストの義です。ゼカリヤ書4章の中心となる人間はゼルバベルであり、中心となる神は第三位の神である聖霊です。聖霊はゼルバベルに対して、行動し、建設し、障害に打ち勝つ力をお与えになります。
キリストの義は十分
ゼカリヤ書3章と4章とのあいだには、もうひとつの関係がみられます。キリストの義がヨシュアと彼の代表する民にとって欠かすことのできないものであったように、聖霊はゼルバベルと彼の代表する民にとって不可欠のものでした。燭台に流れ込む聖なる油は、ゼルバベルに力を与える聖霊を象徴しています。同じ働きが各時代の神の民のためになされてきました。
キリストの義を保つためには、日ごとにイエスと共に歩む必要があります。「義なる者たちはたえず義に従う。なぜなら、内住されるキリストが義、また真理であるからである」(エレン・G・ホワイト「サインズ・オブ・ザ・タイムズ記事』第4巻208ページ)。ゼカリヤ書3章に強調された、継続的な義の経験は、聖霊がたえず私たちの心に、また私たちを通して人々に流れているか否かにかかっています。私たちは人間の力によってでなく神の御霊によって、キリストの義の衣を着つづけるのです(ゼカリヤ書4:6)。
この幻の与えられた理由
エルサレムの神殿再建工事は、イスラエルの敵による反対によって中断していました。主はゼカリヤを通して、神殿とその儀式の再興のために努力していたゼルバベルと彼の民を励まされました。神殿の再建工事は、各人の心を主の内住される清い宮とする働きと同様に最終的には聖霊によって達成されます。私たちが信仰によって主に協力するとき、聖霊は人間の力ではなすことのできないことをしてくださいます。
2本のオリブの木(ゼカリヤ書4章3節、11節〜14節)
質問1 ゼカリヤは七つに枝分かれした燭台の両側に何を見ましたか。それにはどんな意味がありますか。ゼカリヤ書4:3
上に油を入れる器のついた、七つに枝分かれした黄金の燭台の幻を、ゼカリヤは示されました。燭台の両側には、オリブの木が一本ずつあって、それぞれの金の管から油が器に注がれていました。その油は燭台の七つのランプに注がれ、光が輝いていました。
この幻には、四つの重要な象徴が描かれています。それらは、オリブの木、油、七枝の燭台、それに光です。
質問2 ゼカリヤの二つの質問に答えて、御使いはオリブの木の意味をどのように説明しましたか。ゼカリヤ書4:11~14
御使いは、「ふたりの油そそがれた者」がだれであるかを明らかにしていません。彼はただ、ふたりの者が「油」、したがって光のみなもとであるとしか言っていません。ふたりの油そそがれた者たちは、彼らの仕える「全地の主」から教えを受けています(ゼカリヤ書4:14)。したがって、「油」の最終的なみなもとは主ご自身です。
神のみまえの聖なる者たち
「そのように、神のみ前に立つ聖なる者から、神のご用に献身した人間という器に、聖霊が注がれるのである。これら二人の油そそがれた者の役目は、天からの恵みを神の民に与えることである。この恵みだけが神のみことばを、足のともしび、また、道の光とすることができる。『万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである』(ゼカリヤ書4:6)」(『キリストの実物教訓』386ページ)。
「彼ら〔ふたりの油そそがれた者〕が神のみまえに立つのは、私たちのために祝福を受けるためである。オリブの木が自らを金の管に注ぎ出すように、天の使者たちは自らが神から受けたものをすべて伝えようとしている。全天の宝が私たちによって要求され、受け入れられるのを待っている。その祝福を受ける私たちは、こんどはそれを分け与えるべきである。このようにして、聖なるともしび皿が補給を受け、教会が世に光を照らすものとなるのである」(『牧師へのあかし』510ページ)。
質問3 黙示録の「2本のオリブの木」にはどんな意味がありますか。オリブの木についてのヨハネの幻はゼカリヤのそれとどんな関係がありますか。黙示録11:3、4
黙示録においては、2本のオリブの木と二つの燭台は「わたしのふたりの証人」を象徴しています。これらの象徴はゼカリヤ書4章のそれといくぶん異なります。しかし、そこには明らかな関係があります。黙示録11章を研究すると、神の「ふたりの証人」が旧約と新約の預言者によって書かれた神のみことばであることがわかります。神のみことばは「荒布を着て」、法王権至上期の42か月、つまり1260年間(538~1798年)、預言しました。神のみことばはその敵を滅ぼし(黙示録11:5)、天を閉じる力を持ち、災害を生じさせ(6節)、最後には主ご自身の力によって勝利します(12節)。
「詩篇記者は、『あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です』と言った(詩篇119:105)。二人の証人というのは、旧約と新約の聖書を表わしている。両方とも、神の律法の起源とその永続性に関する重要な証言である。両者はまた、救いの計画の証人でもある」(『各時代の大争闘』上巻341ページ)。
「2本のオリブの木」、つまり「ふたりの油そそがれた者」は喜んで受け入れる者たちに神のみことばを分け与える
「説教をする者たちはみな、聴衆のなかに天からの御使いたちがいることを知るべきである。これらの御使いたちが真理という金の油を、みことばを教える者の心に注ぎ出すときに、その真理の適用は厳粛で重要なものとなる。……自分の知識をすべて使ったとしても、また自分の道徳的力を使い切ったとしても、何も達成できないことがある。それは、天の使者たちからの金の油を受けていないからである」(『牧師へのあかし』338ページ)。
質問4 七つの燭台についてのヨハネの幻のなかではだれがオリブの木の地位を占めていますか。黙示録1:13、18
キリストは、「ふたりの油そそがれた者」が神の民に与える祝福のみなもとです。彼は生けるみことばであって(ヨハネ1:1~3、黙示録19:13)、その光と力はみまえに立つ聖なる者たちによって分け与えられます。彼は「死んだことはあるが……生きている者」です(黙示録1:18)。死に対する彼の力は、すべての信じる魂にいのちを与えます。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう」(テモテ第Ⅱ・2:11)。
油(ゼカリヤ書4章6節、12節)
質問5 ゼカリヤの幻における油はどんな働きをしましたか。それは何を表していますか。ゼカリヤ書4:2、6、10、12
ゼカリヤ書4章の中心的な象徴は油です。また、中心的なメッセージは6節に含まれています。油は聖霊を象徴しています。油の最終的なみなもとは「全地の主」です(ゼカリヤ書4:14)。神はキリストの求めに応じて聖霊の特別な賜物を与えてくださいます(ヨハネ14:16~18、16:7~14) 。
絶えることのない供給
「ゼカリヤ書4章を読み、研究しなさい。2本のオリブの木は金の管を通して金の器に金の油を注ぎ出す。聖所のともしび皿はそれによって満たされる。金の油は聖霊を表す。神の牧師たちは油を教会に分け与えるためにたえず満たされなければならない。」(『牧師へのあかし』188ページ)。
「私たちがいま生きている時代は、求める者にとって、聖霊の時代とならなければならない。聖霊の祝福を求めなさい。今は、もっと献身すべきときである。暗黒のうちにある人々にキリストをあらわすという、困難だが幸福で輝かしい働きが私たちにゆだねられている。私たちはこの時代のための特別な真理を宣べ伝えるように求められている。そのためには、聖霊の注ぎが必要である。私たちはそのために祈るべきである。主は私たちに、主に求めるように期待される。私たちは真心から求めていない」(『牧師へのあかし』511、512ページ)。
質問6 油が燭台の7 本の枝に流れているゼカリヤの幻は聖霊についてのヨハネの言葉を理解するうえでどんな助けになりますか。黙示録1:4、3:1、4:5
七つの聖霊があるわけではありません。「その御座の前にある七つの霊」というヨハネの言葉(黙示録1:4)は、ゼカリヤ書の象徴を借りたものです。聖所の燭台の油は、七つの方向に向けられていました。これは、聖霊が全世界の神の民のために完全な働きをされることを示していました。ゼカリヤもヨハネも、聖霊の完全で永遠の守りについて述べています。燭台の7本の枝の油は、「あまねく全地を行き来する主の目」を表しています(ゼカリヤ書4:10)。同じように、小羊の七つの目は「全世界につかわされた、神の七つの霊」を表しています(黙示録5:6)。
質問7 愚かな5人のおとめによって表される人々が滅びるのはなぜですか。マタイ25:3、4、8
真理についての知識だけでは不十分
「たとえのなかで、10人のおとめは、みな、花婿を迎えに出た。だれもがあかりと油の器をもっていた。しばらくの間は、彼らの間になんの相違も見られなかった。キリスト再臨直前の教会もその通りである。すべての者が聖書の知識を持っている。すべての者がキリストの再臨の近づいたことを聞き、確信をもって彼の出現を待つのである。しかし、たとえにあったように、現在も同じである。待つ時間が長びいて信仰が試みられる。そして、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がしたとき、準備のできていない者が多い。彼らは、あかりと共に、器の中に油を持っていない。彼らは、聖霊に欠けているのである。
神の聖霊がないならば、どんなにみことばの知識があっても役に立たない。聖霊を伴わない真理の理論は、魂を生かすことも、心を清めることもできない」(『キリストの実物教訓』386、387ページ)。
燭台(ゼカリヤ書4章2節、9節、10節)
質問8 ゼカリヤの見た、7 本の枝を持つ燭台はだれを表していますか。ゼカリヤ書4:2、6~10
燭台の象徴は古代の幕屋からきています。聖所の燭台あるいは燈台(へブル語でメノラー)は、七つに枝分かれしており、それぞれの上にともしび皿がついていました。ゼカリヤは幻を通してこの聖所を見たのでした。
この幻のなかの燭台あるいは燈台は、特別な意味ではゼルバベルを、また一般的な意味では彼が代表する神の民を象徴していました。主はゼカリヤを通して、こう言われたのです。「ゼルバベルよ、あなたとあなたの民は人間的な力によって神殿を再建することはできない。あなたがわたしとの霊的関係に入り、あなたのために働くわたしに信頼するときに、あなたはその働きを完成させることができる。あなたの働きを完成するための光と力を与えてくれる聖霊の金の油を、あなたは持たなければならない」。
質問9 ソロモンの神殿の聖所には、燭台がいくつありましたか。歴代志下4:7、20
ソロモンの神殿の象徴は荒野の幕屋のそれとは多少、異なっていましたが、意味は同じでした。燭台あるいは燈台は、神の栄光を反映すべき神の民を表していました(イザヤ書58:8、10)。そこから輝き出る光は、神の民を通して世に反映される主の光を表していました(詩篇4:6、18:28)。
質問10 ヨハネの見た七つの燭台あるいは燈台は、何を表していますか。黙示録1:12、20
ゼカリヤの幻とヨハネの幻とのあいだには、密接な対応関係が見られます。どちらの場合も、神の民は地上に神のみこころをなす恵みをキリストと聖霊に求めるように教えられています。ゼルバベルと彼の民は、霊感を受けて神殿再建を完成させました。同じように今日の神の民は、たえず聖霊に満たされることによって全世界に福音を宣べ伝える力を受け、信仰によって前進するように励まされています。そのとき、私たちの望みが実現します(マタイ24:13、14 参照)。
光と生命のみなもと、キリスト
「キリストは金の燭台の間を歩いているように述べられている。これはキリストと教会の関係を象徴したものである。……もし燭台が単に人間にゆだねられるなら、ゆらめく炎は衰えて消えてしまうであろう。しかしキリストは主の家の真の見張りであり、宮廷の真の番人である。キリストの絶えざる守りと恵みによる支えは、いのちと光の源である」(『患難から栄光へ』下巻290、291ページ)。
光(ゼカリヤ書4章2節)
質問11 ゼカリヤとヨハネの見た、ともしび皿から輝き出る光は第1に何を表していますか。ヨハネ1:4、9、8:12
人類の唯一の光
「キリストから輝きでる光のほかには、堕落した人類を照らす光は、過去にもなかったし、またこれからも決してないのです。……人類はそれ自身のうちに光をもっていません。キリストから離れるならば、わたしたちは火がともっていない灯心のようであり、太陽に顔をそむけた月のようです。したがって暗い世界にただ一筋の光を与えることもできません。しかし、わたしたちが義の太陽に向かい、キリストと接触する時、神の臨在の輝きによって全心が燃やされるのです」(『思いわずらってはいけません』51ページ)。
質問12 ゼカリヤとヨハネの見た光は第2に何を表しますか。マタイ5:14、使徒行伝13:47
天のかすかな表れ
「どの時代においても、『彼ら・・…・のうちにいますキリストの霊」は、神の真の子らをその時代の人々の光としました(ペテロ第Ⅰ・1:11)。……同じように、キリストの弟子たちは天へ向かう途上で光を掲げる者として置かれています。神について誤った考えをもち、暗黒に閉ざされている世界に、彼らを通して父なる神のあわれみといつくしみがあらわされるのです。……心に燃える神の愛、生活にあらわれるキリストのような調和は、世の人々が天のすばらしさを知るように与えられた天のかすかな表れにほかなりません」(『思いわずらってはいけません』53ページ)。
まとめ
主は私たちをご自身の霊、光、愛、力で満たそうと望んでおられます。私たちのランプの芯はそろえられているでしょうか。私たちは自己を空にし、聖霊で満たされるのを待っているでしょうか。私たちが神に従い、その弱さを神の力に結びつけるとき、神は私たちを通して大いなることをしてくださいます。
*本記事は、フィリップ・G・サマーン(英:Philip G. Samaan)著、安息日学校ガイド1989年4期『勝利の幻 ゼカリヤ書』 からの抜粋です。