キリストによる回復
私たちはこのシリーズで、救い主がご自分の民を救い、回復される方法について学んできました。ゼカリヤ書14章は、救い主が善悪の大争闘を終結し、最終的な回復をもたらされる光景を描写しています。この章は千年期直後におけるキリストの第三降臨に私たちの心を向けさせています。
主の大いなる日に関係するいくつかの出来事について学ぶときに、私たちは主イエスと自分自身との関係を注意深く吟味する必要があります。私たちは毎日、イエスから力を受けているでしょうか。尊い残りの民として、イエスによって精錬していただいているでしょうか。神によって計画され、建てられた新エルサレムの市民となる準備をしているでしょうか。
注意深く預言を解釈する
ゼカリヤ書14章を研究するときには、注意する必要があります。まちがった結論や不十分な解釈を避けなければなりません。「セブンスデー・アドベンチストは、一般的に言って、旧約聖書の預言者を通して与えられた約束と預言が本来は字義的イスラエルに適用されるものであって、神への服従と忠誠を条件として彼らに成就するはずであったと信じている。しかし、聖書の記録によれば、彼らは神に従わず、神に反逆したのであった。したがって、昔のイスラエルを通して世のためになそうと計画されたことを、神は現代の地上のご自分の教会を通して最終的に成就されるのである。初め字義的イスラエルに与えられた約束の多くは、世の終わりにおいて神の残りの民に成就する」(『SDA聖書注解』第4巻25、26ページ)。
神が字義的イスラエルの経験において成就するように意図されたゼカリヤ書14章のすべての部分が、世の終わりに起こるわけではありません。新エルサレムの状況は明らかに、神がもともとイスラエルに意図されたエルサレムの状況とは異なります。しかし、二次的適用ながら、罪の世からの霊的イスラエルのあがないは確実な預言と言えます。
主の日(ゼカリヤ書14章1節、4節、9節)
質問1 聖書には、「主の日」という言葉がしばしば出てきます。どんなことがこの日に起こりますか。イザヤ書13:6、9、ヨエル書1:15、2:1、ペテロ第Ⅱ・3:7~10
聖書記者が用いている「主の日」という言葉あるいはそれに類似した表現は、神が悪人に対するさばきを執行し、ご自分の民を束縛と破滅から救うためにこの世界の出来事に介入される時を意味しています。局地的、歴史的な主の日は、神がご自分の民を懲らしめ、ご自分に引きもどすために彼らにさばきを注がれる時をさします。終末的な意味での主の日は、神が諸国民を打ち破り、悪人を罰し、忠実な者たちを最終的にあがなわれる時をさしています。
新約聖書の主の日は、義人が死からよみがえり(ヨハネ6:39)、地が火できよめられ、神の永遠の王国が確立されるキリスト再臨の時をさしています(ペテロ第Ⅱ・3:7~14)。
ゼカリヤ書の最後の数章によく出てくる重要な表現は「その日には」という言葉です。12~14章は明らかに、終わりの時代の諸事件について述べています。
主はエルサレムの力、また守り(ゼカリヤ書12章5節〜9節、14章3節)
質問2 神の民が攻撃されても失望する必要がないのはなぜですか。ゼカリヤ書12:5、6、8、9、14:3
古代イスラエルの真の力はいつでも神のうちにありました。彼らが神に信頼し、神のみこころに従うときに、神は彼らのために戦われるのでした(歴代志下20:15参照)。
成就を待つ約束
「勝利についてのこれらの約束は、ユダの残りの民のうちに成就するはずだった。彼らは捕囚から帰還後、神の目的に完全に協力するように期待されていた。このように神に従う国民は無敵である」(『SDA聖書注解』第4巻1112ページ)。
「選民であるイスラエルによって、神が世界のためになそうとご計画になったことを、神はついに今日の地上の教会によって達成なさるのである。……主のお働きを自分たちの働きとする真の代表者を、主がこの地上に持っておられなかった時はなかった。こうした神のための証人たちは、霊的イスラエルの中に数えられる。そして、主なる神が古代の人々に約束されたすべての契約が、彼らに成就するのである」(『国と指導者』下巻314ページ)。
精錬された残りの民(ゼカリヤ書13章8節、9節)
精錬され、純化された残りの民は、主の日に勝利の王キリストと会い、彼と共に永遠に生きます。
質問3 主はどのようにして、ご自分の民を再臨に備えて清められますか。ゼカリヤ書3:2、13:9
「残れる者」とは、厳しい試練や災害を「生き延びた」者たち、また迫害や背信のなかにあって神に忠実に従った者たちのことです。ゼカリヤ書3:2の「火の中から取り出した燃えさし」という言葉は、ほかの枝が燃えて灰になったことを暗示しています。この枝だけが残り、神によって確実な滅びから取り出されたのです。ゼカリヤ書8:6、11、12、9:7には、神の民の残りの者たちのことが記されています。ゼカリヤ書の最後の部分も残りの民に言及しています。「三分の一」、「残りの民」、「残った者」がそれです(ゼカリヤ害13:8、9、14:2、16)。
キリストに従うことは容易なことではない
それは全的な献身を要求します。患難と試練はキリストの弟子となるうえで欠かせないものです。火は不要な物を燃やし、金や銀から不純物を取り除きます。金や銀のように精錬され、イエスとの一致によって強められている残りの者たちだけが、再臨のときイエスにお会いすることができます。
質問4 ゼカリヤ書13:8、9の「三分の二」、「三分の一」という表現は何を意味しますか。
「ゼカリヤはここで、もしイスラエルが神の計画と目的に協力していたなら起こっていたであろう出来事によって、状況を予想している。……全員ではないにしても、多くの人々が救い主を受け入れていたことであろう。救い主の死は大いなる悩みの時、つまり彼を拒む者たちの断たれる時と彼に従う者たちの清めの時(9節)とをもたらしていたことであろう。ここに述べられている割合(三分の二は断たれ、三分の一は残る)は、文字通りの意味にとる必要はない。しかし、のちの時代と同様、そのときも、大半の人々が神の提供された救いを拒むのであった(マタイ22:14)」(『SDA聖書注解』第4巻1115ページ)。
質問5 イエスはご自分に従う者たちの運命について何と予告されましたか。マルコ13:9~13、ルカ21:12、ヨハネ15:20(テモテ第Ⅱ・3:12比較)
「神は、神の民が試練に会うのを許される。それは、彼らが神に誠実を尽くし、服従することによって、彼ら自身が霊的に豊かになるためである。さらに、彼らの模範によって、他の人々に奨励を与えるためである。……われわれの信仰を最もきびしく鍛え、神は、あたかもわれわれを見捨てられたのかと思わせるような試練そのものが、実は、われわれがすべての重荷を主のみもとにおろして、それに代えて彼がお与えになる平和を味わうことができるように、われわれをキリストのそば近くに導くべきである。
神は、常に神の民を悩みの炉の中で試みてこられた。クリスチャン品性という純金から不純物が取り除かれるのは、炉の火の中においてである」(『人類のあけぼの』上巻127、128ページ)。
彼の足がオリブ山の上に立つ(ゼカリヤ書14章2節~11節)
質問6 ゼカリヤ書14章はどのように解釈すべきでしょうか。ユダヤ人が現在のイスラエル国家の建設後、パレスチナに帰還したことは、この預言の成就にあたるでしょうか。
「ゼカリヤ書14章はメシヤの再臨についての出来事を、もし捕囚から帰還したイスラエル人が神に従っていたならどうなっていたかという観点から描写している。……イスラエル人は何度もその高尚な特権に背を向け、ついにはメシヤを拒んだので(使徒行伝3:13 ~15)、神も彼らに背を向けられた。神は今、キリスト教会を通してその目的を達成しておられる。……ゼカリヤ書14:4、5は、神が敵対する国々を滅ぼすために介入されるときに地上に起こる激しい物理的変化を描いている。この詳細な光景は、もしエルサレムが永遠に立っていたならどうなっていたかという観点から描写されている(『国と指導者』上巻21、169ページ、『各時代の希望』下巻12、13ページ参照……)。ある出来事は、千年期の終わりに新エルサレムが降下するときに成就する。しかし、すべての出来事がそのときに起こるのではない(『各時代の大争闘』下巻447、448ページ参照)」(『SDA聖書注解』第4巻1116、1117ページ)。
「現代におけるユダヤ人のパレスチナ帰還、また近代イスラエル国家の建設は、現在であれ将来であれ、そのような回復を示唆するものではない。今後、ユダヤ人が一国民として何をしようとも、それは彼らに対して与えられた先の約束とは無関係である。キリストを十字架につけることによって、彼らは神の選民としてのその特別な地位を永遠に失ったのである。ユダヤ人の、先祖の家郷、つまり新しいイスラエル国家への復帰はある意味で聖書の預言と関係があるかもしれないといった考えは、……正当な聖書の根拠にもとづくものではない」(『SDA聖書注解』第4巻33ページ)。
質問7 ゼカリヤ書14:2における諸国民のエルサレム攻撃から、14:3における主のエルサレム介入へと、場面が急に変わっていますが、これはどのように説明したらよいのでしょうか。ミカ書4:8~13比較
反逆的なエルサレムの中にも、忠実な残りの民がいます。キリストの民を自認する人たちはみな、忠実な残りの民かどうかがわかるまでためされるということです。
二つの動き
「二つの軍隊が激しく戦っているのを、私は幻の中で見た。一方の軍隊はこの世の印をつけた旗によって導かれ、他方の軍隊はインマヌエルの君の血に染まった旗によって導かれていた。主の軍隊から人々が次々と敵軍に加わり、また敵の軍隊から人々が次々に戒めを守る神の民に加わるにつれて、軍旗が次々にほこりだらけの道に残された」(『教会へのあかし』第8巻41ページ)。
質問8 イエスはだれと共にオリブ山に立たれますか。オリブ山はどうなりますか。ゼカリヤ書14:4、5、ユダ14、15(ハバクク書3:6、ミカ書1:3、4比較)
ゼカリヤ書14:4は千年期の終わりに天から降下する新エルサレムについて述べています(黙示録21:2、3、10)。聖徒、あるいは「聖者」がキリストに同伴します(ゼカリヤ書14:5)。「聖徒」という言葉は、字義的には「聖なる者たち」を意味するヘブル語から来ています。この言葉は旧約聖書において、人間と天使の両方について用いられています(申命記33:2、3、詩篇30:4参照)。千年期の終わりに、キリストは聖なる御使いたち、また再臨において天に入った各時代のあがなわれた者たちに伴われて地上に来られます(ヨハネ14:1~3参照)。
キリストの臨在によって清められた場所
「イエスは、昇天の場所として、在世中そのご臨在によって幾度もきよいところとされた場所をえらばれた。このような栄光を受けることになったのは、ダビデの都のあった場所シオンの山でもなければ、神殿のあった場所モリヤの山でもなかった。……この山から、イエスは天へのぼろうとしておられた。ふたたびイエスがこられるとき、その足はこの山のいただきをふまれるであろう」(『各時代の希望』下巻379、380 ページ)。(『各時代の大争闘』下巻446、447ページ参照)。
質問9 オリブ山上への主の降下が千年期後の第三降臨であるのはどこからわかりますか。
以下の点について考えてください。
・イエスは御使いたちだけでなく、第1の復活においてよみがえった聖徒たち、および死を経験しないで天国に移された者たちとも共に地上に来られます。これら二種類の聖徒たちは、イエスと共に天国で1000年間、過ごしたのです(ゼカリヤ書14:4、5を黙示録20:4、5、テサロニケ第Ⅰ・4:16~18と比較)。
・地上は千年期のあいだ荒れ果てた状態ですが、千年期後に新しくされます(ゼカリヤ書14:6~8、黙示録21:23、22:5参照)。
・生ける水がエルサレムから流れ出ます(ゼカリヤ書14:8、黙示録22:1参照)。
・エルサレムは安らかにいこい、もはやのろいはなくなります(ゼカリヤ書14:11、21、黙示録21:27、22:3、15参照)。
・主は全地の王となられます(ゼカリヤ書14:9、黙示録21:3 ~5参照)。
新しい地(ゼカリヤ書14章12節~21節)
質問10 主はエルサレムを攻撃する諸国民を、またその指導者であるサタンをどうされますか。これはいつ起こりますか。ゼカリヤ書14:12、黙示録20:7~10
「それから、千年の終わりに、イエスは天使たちとすべての聖徒たちをつれて聖なる都をはなれる。そして、イエスが彼らとともに地上に下って来られる間に、悪人たちがよみがえらされる」(『初代文集』122ページ)。
「最も強力な戦士であるサタンは自ら先頭の軍を率い、悪天使たちもこの最後の戦いに勢力を集中する。王侯や将軍がサタンにつづき、群衆は大軍団となって従い、各軍団にはそれぞれ指揮官が任命されている。密集した部隊は、軍隊らしく秩序整然として、破壊されてでこぼこになっている地上を神の都に向かって進軍する。イエスのご命令によって新エルサレムの門は閉じられ、サタンの大軍は都を包囲して、突撃の態勢をとる」(『各時代の大争闘』下巻449 ページ)。
「きよめの火によって、悪人たちは根も枝もついに滅ぼされた。サタンが根であり、サタンに従う者たちが枝である」(同460ページ)。
質問11 地上が清められたのちの新エルサレムはどのようになりますか。ゼカリヤ書14:16、20、黙示録21:27、22:3、4
質問12 仮庵の祭りにはどんな意味がありましたか。ゼカリヤ書14:16、レビ記23 : 34、39、40
「仮庵の祭りは、ただ単に記念であるだけでなく、象徴でもあった。それは、荒野の旅をふり返っていただけでなくて、収穫の祭りと同様に、大いなる日の最後の収穫を予表していた。収穫の主は、そのとき、刈り入れ人をつかわして、毒麦をたばねて火に焼き、麦は倉に収める。……しかし、主に贖われた者が、天のカナンに無事集められ……るときに、彼らは、言葉で言い表せない喜びを味わい、栄光に満たされるのである。……人類のためのキリストの贖罪の働きはそのときに終わるし、彼らの罪は、永久に消し去られるのである」(『人類のあけぼの』下巻184、185ページ)。
まとめ
神はその愛とあわれみの心から、終末時代に生きている私たちが聖なる都に入るために知っておかなければならないことを啓示しておられます。私たちは今、神の嘆願に耳を傾け、天国に入るために神に清めていただく必要があります。
*本記事は、フィリップ・G・サマーン(英:Philip G. Samaan)著、安息日学校ガイド1989年4期『勝利の幻 ゼカリヤ書』 からの抜粋です。