【詩篇解説】失望から栄光へ#4 〜死からいのちへ〜

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希望ある者と希望なき者

イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪人は今日の世界に住む二種類の人々、つまり希望のある人々と希望のない人々を代表しています。

「イエスといっしょに十字架につけられた男たちはふたりとも、最初イエスをののしっていた。ひとりは、苦しみのあまりますます絶望的な反抗を示すばかりであった。しかしもうひとりの仲間はそうではなかった。この男は常習犯ではなかった。……

聖霊は彼の心を照らし、すこしずつ証拠の鎖がつながる。……死にかけている無力な魂が、瀕死の救い主に身をまかせると、彼の声には苦悩の中に望みがまじる。『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』と、彼は叫ぶ(ルカ23:42)。

すぐに応答があった。その調子はやわらかく、音楽のようで、そのことばは愛とあわれみと力に満ちていた。きょう、よく言っておくが、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(『各時代の希望』下巻267、268、270ページ)。

この悔い改めた犯罪人の経験は今回の課の研究を例示するものであって、すべての人にパラダイスにおけるキリストとの交わりを約束するものです。

絶望(詩篇88篇1節〜9節)

質問1 この詩篇の絶望にみちた調子はどんな苦悩から来ていますか。

作者は重病をわずらっていたばかりでなく、自分を慰めてくれる友からも見離されていました。さらに悪いことに、彼は罪の重荷を負い、祈りに対する応答を見ることができませんでした。8節には、人を隔離させるハンセン病が暗示されています。あるいは、そのような疑いがあったのかもしれません。

質問2 同じような苦しみを味わった新約聖書中の人物について考えてください。マル2:1〜12(マタ9:2〜8、ルカ5:18〜26比較)

「あのハンセン病人と同じように、この中風患者の回復の望みはすっかり失われていた。彼の病気は罪の生活の結果であって、その後悔のために苦しみは一層ひどかった。……

中風の男はまったく無力であった。そしてどこからも助けを受ける見込みがないことを知って、彼は絶望に沈んでいた。その時彼はイエスのすばらしいみわざについて聞いた。彼は自分と同じに罪深くて無力なほかの人たちがいやされたことを聞いた。ハンセン病人たちさえきよめられたということだった。そこでこうした話を伝えた友人たちは、イエスのところへつれて行ってもらえたら自分もまたいやされるかもしれないと信じるように、彼をはげました。……純潔な医者であられるイエスは自分がみ前に出ることをおゆるしにならないだろうと、彼は恐れた。

しかし彼が熱望したのは肉体的な回復よりもむしろ罪の重荷からの解放だった。もしイエスにお会いすることができて、罪のゆるしと天とのやわらぎの保証が与えられるなら、神のみこころにしたがって死のうが生きようが満足だった」(『各時代の希望』上巻336、337ページ)。

内省的なイギリスの詩人、ウィリアム・クーパーは多くの苦しみに会いました。あるとき、親しい友人のメアリー・アンウィン夫人が重病にかかったとき、彼は、「みかみと共なる歩みもがな」という賛美歌を作りました(聖歌288番)。クーパーは自分の罪を憎みました。「あなたを悲しませ、私の心からあなたを追い出した罪を、私は憎む」。彼はキリストの力によって、大事にしていた偶像を捨てようとしました。

迫りくる死(詩篇88篇10節〜18節)

質問3 詩篇作者は回復といやしの手がかりとして何を実行していますか。詩88:1、2、9、13

祈り続ける者は決して失望することがありません。彼は「朝ごとに」あるいは「日ごとに」祈るだけではなく、「昼に夜に」祈ります。

質問4 作者は生きる望みとしてどんな理由をあげていますか。詩88:10〜12(イザ38:17〜19比較)

詩篇作者は地獄のふちまで来て、その恐ろしい底をのぞきましたが、死の瀬戸際で、神によって生きる望みを見出しました。

神の積極的な応答の例

「ヒゼキヤ王は、その栄えた治世の最中に、突然致命的な病気にかかった。『死にかかっていた』彼の病気は、人間の力ではどうすることもできないものであった。預言者イザヤが彼の前にあらわれて、『主はこう仰せられます、あなたの家を整えておきなさい。あなたは死にます。生きながらえることはできません』と言ったときに、彼の最後の望みの綱は絶たれたように思われたのである(イザヤ書38:1)。

なおる見込みは全くないと思われた。しかし、王はこれまで彼の『避け所また力』、『悩める時のいと近き助けであ』られたお方に祈ることができたのである(詩篇46:1)。……

死にかかっている王は、神に忠実に仕えた。そして、主が最高の支配者であられるということについて、人々の確信を強めたのである。彼はダビデのように、今嘆願することができたのである。

『わたしの祈をみ前にいたらせ、

わたしの叫びに耳を傾けてください。

わたしの魂は悩みに満ち、

わたしのいのちは陰府に近づきます』(詩篇 88:2、3)。……

その『いつくしみは絶えることがな』いお方が、彼の祈りを聞かれた(哀歌3:22)」

『国と指導者』上巻303、304ページ

告白(詩篇130篇1節〜3節)

質問5 罪なきおかたに嘆願するとき、罪人はどんなジレンマにおちいりますか。詩130:3

この苦悩の叫びはだれもが経験するものです。それは、おぼれる人、流砂にはまった人がもがけばもがくほど深みに沈んでいくのに似ています。罪人はだれかの助けを必要とします。しかし、彼を救うことができるのは罪を嫌われるおかただけです。

奉仕するために救われる

「くしきめぐみ」(賛美歌第二編167番)の作者であるジョン・ニュートン(1725〜1807)は、奴隷船の船長でしたが、やがて不法な奴隷商人として自らも奴隷にひとしい境遇に堕落していきます。彼の良心は決して晴れることがありませんでした。「白人の墓場」と言われていた西アフリカにおいて悪性の熱病からいやされたとき、彼はトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』という本を読みます。そして、1748年に恐ろしい暴風雨から助けられたのちに、彼はキリストに生涯をささげたのでした。絶望のふちからの彼の叫びは詩篇作者の叫びとよく似ています。

質問6 ダビデはどのようにして罪の本当の性質を認めましたか。詩51:4(サム下12:13、24:10比較)

「ダビデは、外的に最大の勝利を収めていたときに、最大の危機に陥り、最も屈辱的敗北を喫しきったのである」(『人類のあけぼの』下巻413ページ)。バテシバとの姦淫のあとで、彼は神に祈っています。「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」(詩51:4)。

ダビデはバテシバに対して、その両親に対して、その祖父アヒトペルに対して、またウリヤとヨアブに対して罪を犯しました。しかし、彼の最大の罪は創造主に対するものでした。

「他人に対して犯した悪事は、すべて害を受けた者から神へとさかのぼるのである。ダビデは、ウリャとバテシバの両方に恐ろしい罪を犯したことを痛感した。しかし、神に対する罪は、それより無限に大きかったのである」(『人類のあけぼの』下巻420ページ)。

ダビデの悔い改めは深く、真剣なものでした。彼は神のゆるしを受けましたが、その不義の傷跡と結果は残りました。イエスが来られるとき、彼は神の完全なゆるしにあずかります。

ゆるし(詩篇130篇4節、86篇)

質問7 ダビデの告白後どれほどたってから、主は彼をゆるされましたか。サム下12:13、詩51:17

「砕けた悔いた心」をもって、自発的に自分の罪を認めたとき、ダビデは直ちに神のあわれみと慈愛の豊かな賜物を受けました。パリサイ人と取税人のたとえ(ルカ18:9〜14)の中で、取税人は良心のとがめを感じ、へりくだった心で、あわれみを求める短い祈りをささげています。反対に、パリサイ人は「ひとりで」長い祈りをささげ、その中で自分の義を強調し、自分が取税人のような不正で罪深い者でないことを誇っています(ロマ10:3参照)。

取税人は家に着く前に神の目に義とされました。なぜなら、彼は「神に義とされて自分の家に帰った」と書かれているからです(ルカ18:14)。

質問8 神のゆるしは罪人の心にどんな反応をもたらしますか。詩130:4、5、86:5〜7、10、12〜15

詩篇130:4の恐れとは、罪のない神が寛大なゆるしを与えられるという理解からくる畏敬の念を表しています。父なる神が御子を死ぬためにお与えになったのは、御子を信じる者がみな罪の刑罰をのがれ、永遠のいのちを受けつぐためでした。「われをも救いしくしき恵み、まよいし身もいま、たちかえりぬ」(賛美歌第2編167番)。

恵みによって救われる

ジョン・ニュートンはかつての罪深い生活とそれからの救いを決して忘れませんでした。彼は臨終に際して次のように語りました。「私の記憶はほとんど消えかけている。しかし、二つのことだけは忘れない。私が大いなる罪人であること、そしてイエス・キリストが大いなる救い主であるということである」。彼の葬られている教会には、自作の碑文が掲げられています。それにはこう書かれています。「かつて不信仰者、放とう者、アフリカの奴隷の奉仕者であった牧師、ジョン・ニュートン。われらの主、救い主イエス・キリストの豊かなあわれみにより保護され、生き返らされ、ゆるされ、長年にわたり撲滅しようとしてきた信仰を説く者とされた」。

預言者イザヤは、罪をゆるし、きよめられる神の力はその栄光のあらわれであると言っています(イザ42:7、8、48:10、11)。恵み深く、あわれみ深く、悔い改めて立ち返る罪人を豊かにゆるしてくださいます(イザ55:7)。

あがない(詩篇130篇5節〜8節)

質問9 あがないと希望とのあいだには、どんな密接な関係がありますか。詩130:5〜8(ロマ8:23、24比較)

あがないは、キリストが私たちを買いもどし、ご自分の養子としてくださったという意味において過去の出来事です。それはまた、いま罪からの救いにあずかっているという点において現在の出来事です。しかし、キリストがまだ来られないという意味において、それは将来の出来事です。この再臨に対する期待こそ、クリスチャンにとって「祝福に満ちた望み」です(テト2:13、14)。

質問10 「夜回りが暁を待つ」とはどういう意味ですか。詩130:5、6

重要なのは夜回りがだれをさすかということではなく、むしろ彼らの希望に満ちた態度のほうです。詩篇作者の頭の中には、城壁の上で寝ずの番をしながら、東の空が明るくなって勤務から解放されるのを待っている見張り番の姿があったかもしれません。あるいはまた、夜、神殿で主に仕えるレビ人が夜明けを待っている姿を思い浮かべていたのかもしれません。

質問11 主を待つとはどういう意味ですか。詩130:5、6、37:7

詩篇130:6にはヘブル詩の特徴である並行法が用いられています。それによると、待つことは待ち望むことと関係があります。詩篇37:7にその意味が説明されています。「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め」。詩篇によく出てくるように、主を待つことは主を「待ち望む」ことと同じ意味です(詩25:3、5、21、27:14参照)。

私たちは行動する前にまず神の導きとみことばの勧告を求める必要があります。私たちの生き方は神のみこころに一致したものでなければなりません。主イエス・キリストの自発的なしもべとして(ロマ6:17、18参照)、私たちは救いの日の夜明けを心から待ち望んでいるでしょうか。

まとめ

人間は罪のゆえに死に定められています。しかし、ありがたいことに、のがれの道が備えられています。もし私たちが罪を悔い改めて告白するなら、キリストは私たちをゆるし、造り変えてくださいます。キリストは私たちに永遠のいのちという確かな望みを与え、ご自分の聖霊を送って私たちのうちに住まわせてくださいます。

*本記事は、C・レイモンド・ホームズ(英:C. Raymond Holmes)著、安息日学校ガイド1992年2期『詩篇73-150篇 失望から栄光へ』 からの抜粋です。

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