父なる神【アドベンチストの信仰#3】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

父なる神はすべてのものの創造者であって、すべて造られたものの源であるとともに、それらを保ち、支配されるお方である。父なる神は正しく聖なる方、あわれみと恵みに富み、怒ること遅く、変らない愛と真実に満ちあふれているお方である。み子と聖霊にみられる性質と力も、父なる神のものである。(信仰の大要3)

大いなるさばきの日が始まります。燃える火の車輪を持った炎の、み座が据えられ、日の老いたる者が座に着かれます。荘厳な姿をもって神はさばきを始められます。その臨在はさばきの場の多くの聴衆に畏怖の念を起させます。多くの証人たちは神の前に立ちます。さばきの用意は整いました。かずかずの書き物が開かれ、人々の生活の記録の調査が始まります(ダニエル7:9,10)。

全宇宙はこの瞬間を待ち望んでいます。父なる神は、すべての悪しき人々に対して正義を行われます。「ついに日の老いたる者がきて、いと高き者の聖徒のために審判をおこなった」(ダニエル7:22)。喜びにあふれた讃美と感謝が全天にこだまします。神の品性は栄光のなかにあり、神のすばらしい名は全宇宙に擁護されます。

目次

父なる神はどのような方か

父なる神はしばしば誤解されています。多くの人は、人類のためになされるキリストの宣教や個人の心に働かれる聖霊の役割については意識しているが、父なる神のわたしたちに対する関係についてはどうでしょうか。恵み深いみ子や聖霊と異なって、父なる神はわたしたちの世界からまったく離れた、不在地主か不動の第一原因のような存在でしょうか。

それとも父なる神は、ある者たちが考えるように、「旧約聖書の神」であって、「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:38、出エジプト21:24参照)という言葉に特徴づけられるような報復の神もしくは完全なわざを要求される過酷な神なのでしょうか。また、新約聖書に描かれているような、ほかの頰をも向け、2マイルを行くようにすすめられる(マタイ5:39-41)愛の神とは全く対照的な神なのでしょうか。

旧約聖書における父なる神

旧約聖書と新約聖書がその共通するあがないの計画とともに一致しているということは、神の民の救いのために新旧それぞれの聖書において語り行っておられる神が、同じ神であるという事実から明らかです。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」(ヘブル1:1,2)。旧約聖書は三位一体の神の位格の複数性を示唆してはいるが、それを区別はしていません。しかし新約聖書は、子なる神であるイエス・キリストが創造のみ業に直接たずさわられた方であり(ヨハネ1:1-3,14、コロサイ1:16)、イスラエルをエジプトの地から導き出された神であった(1コリント10:1-4、出エジプト3:14、ヨハネ8:58)ということを明らかにしています。新約聖書が、創造や出エジプトにおけるイエス・キリストの役割について語っていることは、旧約聖書でさえしばしば父なる神をみ子の働きをとおして描いているということを意味しています。「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ……られたのである」(2コリント5:19)。旧約聖書は父なる神を以下のような表現で描写しています。

あわれみの神

罪深い人間は神を見たことがありません(出エジプト33:20)。わたしたちは神の姿の写真を持っておりません。神は、その性質を、恵みに満ちたみわざによって示し、またモーセに語られた次のような言葉によって生き生きと提示されました。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」(出エジプト34:6,7、ヘブル10:26,27参照)。しかしあわれみは、むやみに許すことではありません。それは正義の原則によって導かれているものです。神のあわれみを拒否するものは、神の罰を刈り取ることになります。

シナイにおいて、神は、イスラエルの友となり、彼らとともにいたいという願いを表されました。神はモーセにこう言われました。「また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」(出エジプト25:8)。聖所は地上における神が住まわれるところであるゆえに、それは、イスラエルの宗教体験の焦点となりました。

契約の神

神は、民との関係を長く続くものとするために、ノアやアブラハムのような人々と厳粛な契約を結ばれました(創世記9:1-17、12:1-3,7、13:14-17、15:1,5,6、17:1-8、22:15-18、本書第7章参照)。これらの契約は、神の民の関心事に関心を寄せる人格的な愛の神を表しています。

神は、ノアに対しては、季節は定まったときにめぐり来るものであることを明らかにし(創世記8:22)、今後は世界的な洪水はない(創世記9:11)との確信を与え、アブラハムに対しては、子孫が無数に増えること(創世記15:5-7)と彼とその子孫が住むことのできる地(創世記15:18、17:8)とを約束されました。

あがないの神

出エジプトの神として、神は奴隷の国を自由へと奇跡的に導き出されました。この大いなるあがないのわざは、旧約聖書全体の背景となっており、わたしたちのあがない主であろうとする神の願いを示しています。神は、わたしたちから遠くはなれ、わたしたちに関心を寄せることのないような方ではありません。神はわたしたちの経験に深くかかわられる方です。

詩篇は特に神が愛をもって人間にかかわられる方であることを霊感によって描いております。「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」(詩篇8:3,4)。「わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです」(詩篇18:1,2)。「主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである」(詩篇22:24)。

避け所としての神

ダビデは、神を、そこにわたしたちが避け所を見いだすことができるような方として見ています。それはちょうど、無実の逃亡者をかくまうイスラエルの6つの逃れの町に象徴されています。詩篇に繰り返し出てくる「避け所」のテーマは、父なる神とキリストとを象徴しています。「それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである」(詩篇27:5)。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」(詩篇46:1)。「山々がエルサレムを囲んでいるように、主は今からとこしえにその民を囲まれる」(詩篇125:2)。

詩篇記者は神に対する渇望をこう言い表しています。「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う」(詩篇42:1,2)。ダビデは経験から次のように証ししています。「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない」(詩篇55:22)。「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」(詩篇62:8)。「あなたはあわれみと恵みに富み、怒りをおそくし、いつくしみと、まこととに豊かな神でいらせられます」(詩篇86:15)。

ゆるしの神

ダビデは姦淫と殺人の罪を犯した後、こう嘆願しています。「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください」

「わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください」(詩篇51:1,11)。ダビデは、神がすばらしくあわれみ深い方であるという確信によって慰められました。「天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである」(詩篇103:11-14)。

配慮の神

神は、「しえたげられる者のためにさばきをおこない、飢えた者に食物を与えられる。主は捕われ人を解き放たれる。主は盲人の目を開かれる。主はかがむ者を立たせられる。主は正しい者を愛される。主は寄留の他国人を守り、みなしごと、やもめとをささえられる」(詩篇146:7-9)。詩篇に描かれている神は何と大いなる方でしょうか。

真実な神

神が大いなる方であるにもかかわらず、イスラエルは多くの場合その神から離れ去ってしまいました(レビ26章、申命記28章)。神は、夫が妻を愛するように、イスラエルを愛する者として描かれています。ホセア書は、ひどい不真実と拒絶に直面する神の真実を痛切に描いています。神の絶えざるゆるしは、無条件の愛の品性を表しています。

神は、イスラエルがその道を修正するように、彼らの不真実によって引き起された惨禍に見舞われることをお許しになりはしましたが、なお彼らをご自身のあわれみによって受け入れられました。神はイスラエルに次のように確約されました。「わたしは地の果から、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った、『あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった』と。恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ41:9,10)。イスラエルの不真実にもかかわらず、神は優しくこう約束されました。「彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば……もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、そのときわたしはヤコブと……イサクと……アブラハムと結んだ契約を思い起……すであろう」(レビ26:40-42、エレミヤ3:12参照)。

神は、民に、人々をあがなわれるご自身の姿勢を思い起させます。「ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」(イザヤ44:21,22)。それゆえ神がこう言われるのも驚くに当たりません。「わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ」(イザヤ45:22)。

救いと報復の神

旧約聖書が報復の神として描いている神は、神の忠実な民が悪しき者たちによって滅ぼされるという文脈の中で見なければなりません。「主の日」というテーマをとおして、預言者たちは、神が終りのときに神の民のためにみわざを行われるということを明らかにしました。それは、神の民にとっては救いの日ですが、神の民の敵にとっては報復の日であり、彼らは滅ぼされます。「心おののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる』と」(イザヤ35:4)。

父としての神

イスラエルの民に対して、モーセは、彼らを救われた神を父として示しました。「主は……あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか」(申命記32:6)。神はイスラエルをあがなうことによって、イスラエルをご自身の子供とされました。イザヤは書いています。「主よ、あなたはわれわれの父です」(イザヤ64:8、同63:16参照)。マラキをとおして神は「わたしが……父である」(マラキ1:6)と言われました。マラキはいたるところで、神が父であることを神が創造主であることに関連づけています。「われわれの父は皆一つではないか。われわれを造った神は一つではないか」(マラキ2:10)。神はわたしたちを造りあがなってくださったゆえに、わたしたちの父なのです。なんというすばらしい真理でしょうか。

新約聖書における父なる神

旧約聖書の神は新約聖書の神と異なるものではありません。父なる神は、万物の本源としてまたすべての信じる者の父として、そして独特な意味においてイエス・キリストの父として啓示されています。

造られたものすべての父

パウロは父なる神をイエス・キリストとは区別してこう証ししています。「わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている」(1コリント8:6、ヘブル12:9、ヨハネ1:17参照)。彼はまたこうも証ししている。「わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る」(エペソ3:14,15)。

信じる者すべての父

新約聖書の時代には、父と子の霊的関係は、神とイスラエルの国との間にではなく、神と個々の信仰者の間にありました。イエスはこの関係のあるべき姿について述べておられますが(マタイ5:45、6:6-15)、それは信じる者がイエス・キリストを受け入れることによって成立するものです(ヨハネ1:12,13)。

キリストがなされたあがないによって、信じる者は神の子とされます。聖霊はこの関係の手助けをされます。キリストは、「律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授け[てくださった]。このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである」(ガラテヤ4:5,6、ローマ8:15,16参照)。

イエスは父を啓示される

子なる神であられるイエスは、神の自己啓示として人間の肉を取ってこの世にこられたとき(ヨハネ1:1,14)、父なる神がどのような方であるかについて最も深い見方を示されました。ヨハネは、「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18)と述べています。イエスは、「わたし[は]……天から下ってきた」(ヨハネ6:38)と言われ、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14:9)と言われました。すなわちイエスを知ることは、父なる神を知ることなのです。

ヘブル人への手紙は、この人格的な啓示の重要性を強調して次のように述べています。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であ……る」(ヘブル1:1-3)。

1 お与えになる神

イエスは父なる神を「お与えになる」神として啓示されました。わたしたちは、父なる神が、創造のときに、またベツレヘムやカルバリーにおいて与えられたことを知っています。

創造において、父とみ子は一緒に働かれました。神は、それがご自身のみ子の死にいたるということをご存じでありながら、わたしたちに命を与えてくださいました。

ベツレヘムでは、父なる神はみ子を与えることによってご自身をお与えになりました。み子が罪に汚れたわたしたちの惑星に来られたとき、父なる神はどれほどの痛みを経験されたことでしょうか。み子が、天使たちの愛と尊敬を罪人の憎しみと、また天の祝福を死への道と交換されるのをご覧になったとき、父なる神の思いはいかばかりであったことでしょうか。

しかし父なる神についてもっとも深い洞察を与えてくれたのは、カルバリーにおける十字架でありました。神であられる父は、み子の生涯と死においてみ子との断絶の苦しみを、いかなる人間よりも先鋭に体験されました。そして父はみ子と同じ程度にみ子と共に苦しまれました。それは父なる神についてのなんという証しでしょうか。十字架だけが父なる神についての真理を明らかにしているのです。

2 愛の神

イエスが好んで語られたテーマは、神の愛の優しさとその豊かさでした。イエスは言われました。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである」(マタイ5:44,45)。「そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」(ルカ6:35,36)。

腰をかがめ、裏切るものの足を洗われて、イエスは父の愛の本質をあらわされました(ヨハネ13:5,10-14)。キリストが、飢えたものに食物をやり(マルコ6:39-44、8:1-9)、耳の不自由な者をいやし(マルコ9:17-29)、口のきけないものに言葉を与え(マルコ7:32-37)、盲人の目を開き(マルコ8:22-26)、まひしている人を立たせ(ルカ5:18-26)、らい病人をいやし(ルカ5:12,13)、死んだ者をよみがえらせ(マルコ5:35-43、ヨハネ11:1-45)、罪人たちをゆるし(ヨハネ8:3-11)、悪霊を追い出される(マタイ15:22-28、17:14-21)とき、わたしたちはそこに、人々の中に入り、彼らにいのちをもたらし、彼らを自由にし、彼らに希望を与え、来たるべき回復された新しい地を指し示される父なる神を見ます。キリストは、父なる神のたぐいなき愛をあらわすことが、人々を悔い改めに導く鍵であることを知っておられました(ローマ2:4)。

キリストが話された3つのたとえ話(ルカ15章)は、失われた人間に対する神の愛の関心を描いています。失われた羊のたとえは、救いは神の主導権をとおして来るものであって、わたしたちの神探求のゆえではないことを教えています。羊飼いが羊を愛し、その1匹が失われるときに自らの命をかけるそれ以上に、神はすべての失われた人々に対し、ご自身の強い愛を示されています。

このたとえには宇宙的な意味もあります。すなわち失われた羊は、神の巨大な宇宙においてはほんの小さなかたまりにしかすぎないわたしたちの反逆した世界を表しています。わたしたちの惑星を本来のあるべき姿に戻すために、神がご自身のみ子という価の高い賜物を与えてくださったということは、神が、わたしたちの堕落した世界を、その他の被造物と同じように貴重なものであると見て下さっているということを示しています。

失われた銀貨のたとえは、神がわたしたち罪人にいかに大きな価値を置いておられるかということを強調しています。また放とう息子のたとえは、悔い改めた子供たちを喜んで家に迎え入れる父の大きな愛を示しています。もし悔改めた一人の罪人のために天に大きな喜びがある(ルカ15:7)のであれば、主の再臨のときに宇宙が経験する喜びは、想像を絶するものになることでしょう。

新約聖書は、み子の再臨のとき父なる神もそれに深くかかわられることを明らかにしています。再臨のとき、悪人たちは「山と岩とにむかって言った、『さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ』」(黙示録6:16)。イエスは言われました。「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来る」(マタイ16:27)。「あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者[父なる神]の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」(マタイ26:64)。

父なる神は心から再臨を待ち望んでおられます。そのとき、あがなわれた者たちは、最終的に彼らの永遠のすまいに入ります。そのとき、「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」(1ヨハネ4:9)ということが、むだではなかったことが明らかになります。計ることのできない無私の愛だけが、なぜ、わたしたちが敵であったにもかかわらず「神との和解を受けた」(ローマ5:10)のかを説明します。わたしたちは、このような愛を拒絶し、神をわたしたちの父として認めないでいることがどうしてできるでしょうか。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

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