子なる神【アドベンチストの信仰#4】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

子なる神は人間の肉の姿を取ってイエス・キリストとなられた。万物はみ子を通して創造された。また、み子を通して神のご性質が明らかにされ、人間の救いが全うされ、世界は裁かれる。永遠からまことの神であられたみ子は、救い主イエスとしてまことの人間になられた。み子は聖霊によってみごもられ、処女マリヤよりお生まれになった。み子は人間として生き、試みにあわれたが、神の義と愛を完全にあらわされた。奇跡によってみ子は神の力をあらわし、ご自身が神の約束の救い主であることを証明された。み子はわれわれの罪のために、われわれの身代りとなって苦しみを受け、自ら十字架にかかり、死者の中から復活し、われわれのために天の聖所で奉仕するために天に昇られた。み子はご自分の民を最終的に救い出し、すべてのものを回復するために、栄光のうちに再び来臨される。(信仰の大要4)

荒野は、毒へびのはびこる所となっていました。それは、なべの下をはいまわり、天幕のくいに巻きつき、子供たちの玩具のかげにひそみ、寝具の中で待ちぶせました。その毒牙は、体内深くさしこまれ、死の毒が注ぎ込まれました。

かつてはイスラエルの避け所であった荒野は、墓場となりました。幾百人の人々が瀕死の状態で横たわっていました。その状態を見ておののいた親たちは、急いでモーセの天幕に走り寄って助けを求めました。モーセは民のために祈りました。

神は、それにどう答えられたでしょうか。へびを造って高くかかげなさい。それを見上げる者はみな生きるであろう。これが神の答でした。「モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた」(民数記21:9)。

へびはいつもサタンの象徴として用いられ(創世記3章、黙示録12章)、罪を意味しました。イスラエルの民はサタンの手に落ちていました。神のいやしは、祭壇の上に小羊を見ることによってではなく、荒野にかかげられた青銅のへびを見上げることによってもたらされました。

へびは、キリストの象徴としては予想外のものでした。かみついたへびの模造品がさおの上に掛けられたように、イエスも「罪の肉の様で」(ローマ8:3)屈辱の十字架にお架けられにならなければなりませんでした(ヨハネ3:14,15)。イエスは罪となって、これまでに生きた者、これから生きる者のすべての罪をご自分の身に負われました。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)。望みのない人類は、キリストに頼ることによって生命を見いだすことができます。

イエスの受肉は、どのようにして人類に救いをもたらすことができたのでしょうか。それは、子なる神には、どのような結果をおよぼしたでしょうか。神は、どのようにして人間となられ、そのことはなぜ必要とされたのでしょうか。

目次

受肉――預言と成就

神がお与えになった知恵の勧告から迷い出た者たちを救おうとされる神の計画は、まぎれもなく神の愛を示しています(ヨハネ3:16、1ヨハネ4:9)。この計画において、神のみ子は、罪の犠牲となって人類に希望を与えるため、「天地が造られる前から、あらかじめ知られて」(1ペテロ1:20)おられました。神のみ子は、わたしたちを神のもとにつれかえり、悪魔のわざをうちくだいて、罪から解放して下さることになっていました(1ペテロ3:18、マタイ1:21、1ヨハネ3:8)。

罪は、アダムとエバを生命の源から切り離しました。その結果、二人は直ちに死ぬはずでしたが、天地が造られる前にたてられた計画(1ペテロ1:20,21)、すなわち「平和の一致」(ゼカリヤ6:13)に基づいて、子なる神が、かれらと神の正義との間に割って入り、その間隙(かんげき)を埋めて死をおさえられました。子なる神の恵みは、十字架以前でさえ罪人を生かし続けて、それに救いを保証しました。しかし、神のむすこむすめとしてわたしたちを完全に救うためには、子なる神は人となられなければなりませんでした。

アダムとエバが罪に陥ったのち、神は直ちに、へびと女の間、へびの子孫と女の子孫との間に超自然的な敵意をおくと約束して、二人に希望を与えられました。創世記3章15節の含蓄に富む陳述の中のへびとその子孫は、サタンとそれに従う者たちを示し、女とその子孫は神の民と救い主とを象徴します。この陳述は、善と悪の戦いが、神のみ子の勝利に終るという最初の保証となりました。

しかしながら、その勝利は苦痛にみちたものであるはずでした。「彼(救い主)はおまえ(サタン)のかしらを砕き、おまえ(サタン)は彼(救い主)のかかとを砕くであろう」(創世記3:15)。だれも、無傷でそこから出てくることはありえませんでした。

そのとき以来、人類は、約束の救い主をさがし求めました。旧約聖書は、その探求の跡を示しています。預言は、約束の救い主がおいでになるとき、この世はそれが間違いなく救い主であると知る証拠が与えられると告げました。

救いの預言的ドラマ

罪が入ったのち、神は、来るべき救い主の働きを示すため、動物を犠牲としてささげるように定められました(創世記4:4参照)。この象徴的な制度は、子なる神が罪を根絶する方法をドラマ化したものでした。

罪(神の律法を犯すこと)の結果、人類は死と対面することとなりました(創世記2:17、3:19、1ヨハネ3:4、ローマ6:23)。神の律法は、罪人の生命を要求しましたが、神は、「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得る」(ヨハネ3:16)ようにと、限りない愛をもってキリストをつかわされました。なんと驚くべきへりくだりの行為でしょう。永遠の子なる神が、みずから身代りとなって罪の刑罰を受けられるのです。子なる神は、こうしてわたしたちにゆるしを与え、神との和解を得させることとなりました。

イスラエルがエジプトを脱出したのち、神と神の民の契約の一部として、犠牲のささげものが幕屋でささげられました。モーセが天のひな型に従って作った聖所とそこでなされた奉仕とは、救いの計画を分かりやすくするために設けられたものでした(出エジプト25:8,9,40、ヘブル8:1-5)。

悔改めた罪人は、ゆるしを得るために傷のない犠牲の動物をつれてきました。それは、罪のない救い主を示しました。罪人は、無垢な動物の上に手をおいて、自分の罪を告白しました(レビ1:3,4)。このことは、罪が罪人から罪のないいけにえの上に移されることを意味しました。

「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」(ヘブル9:22)。罪人が動物を殺したのは、そのためでした。それは、罪がいかに恐ろしいものであるかを示しました。それは、希望を表明するものとしては悲しい方法でしたが、しかし、罪人が信仰を表明するただ一つの方法でした。

祭司の働き(レビ4-7章)がすむと、罪人はいけにえの動物によって象徴された(レビ4:26,31,35参照)来たるべきあがない主の身代りの死を信じることによって罪のゆるしをうけました。新約聖書は、神の子イエス・キリストを、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と認めました。キリストは、「きずも、しみもない小羊のような」(1ペテロ1:19)尊い血によって、罪の最終的な刑罰から人類をあがない出されました。

救い主に関する預言

神は、救い主―メシヤ(油注がれた者)が、アブラハムの血統から出ると約束されました。「地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(創世記22:18、同12:3参照)。

イザヤは、救い主が男子としてお生まれになり、神であられると同時に人でもあられると預言しました。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」(イザヤ9:6)。このあがない主は、ダビデの位にのぼって、永遠に続く平和の支配を樹立されることになっていました(イザヤ9:7)。ベツレヘムは、その誕生の地となるはずでした(ミカ5:2)。

この神であられ人であられる方の誕生は、超自然的なものであるはずでした。新約聖書は、イザヤ書7章14節を引用して、次のように述べています。「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である」(マタイ1:23)。

以下の聖句は、救い主の働きについて述べています。「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ」(イザヤ61:1,2、ルカ4:18,19参照)。

信じられないことですが、メシヤは、拒否されることになっていました。また、「かわいた土から出る根」として受けとめられるはずでした。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。…侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。…われわれも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:2-4)。

親しい友が、銀30(ゼカリヤ11:12)でメシヤを裏切るはずでした(詩篇41:9)。メシヤは、試みられている間、つばを吐きかけられ、打たれるはずでした(イザヤ50:6)。メシヤを死刑に処した者たちは、その着ていた衣服をくじで分けるはずでした(詩篇22:18)。メシヤの骨は1本も折られることなく(詩篇34:20)、その脇腹は槍でつきさされるはずでした(ゼカリヤ12:10)。苦難にさらされている間、メシヤは無抵抗をとおされるはずでした。「毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」(イザヤ53:7)。

罪のない救い主は、罪人のために、激しい苦しみを味わわれるはずでした。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。…彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。…主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。…彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだ」(イザヤ53:4-8)。

預言の成就としての救い主

これらの預言を成就させた者は、イエス・キリストのほかにいません。聖書は、イエスの系図をアブラハムのところまでさかのぼって、イエスをアブラハムの子と呼んでいます(マタイ1:1)。また、パウロは、アブラハムとその子孫とに与えられた約束が、キリストにおいて成就したと述べていまず(ガラテヤ3:16)。メシヤであることを示す「ダビデの子」という称号は、イエス・キリストに対して広く用いられました(マタイ21:9)。イエス・キリストは、ダビデの位を占めることになっていた約束のメシヤとみなされました(使徒2:29,30)。

イエスの誕生は、奇跡的でした。処女マリヤは、「聖霊によって身重にな」(マタイ1:18-23)りました。マリヤが、預言された誕生の地ベツレヘムに移ったのは、ローマの勅令によるものでした(ルカ2:4-7)。

イエスの名の一つインマヌエル、すなわち「神われらと共にいます」は、イエスの神人両性を映しており、神が人類と一体となられたことを示しました(マタイ1:23)。通常用いられたイエスという名は、イエスが果された救いの働きに焦点をあてたものでした。「その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタイ1:21)。

イエスは、ご自分の働きをイザヤ書61章1,2節に預言されたメシヤのそれと同一視され、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4:17-21)と言われました。

イエスは、大きな影響を人々にお与えになりましたが、そのメッセージはおおむね拒否されました(ヨハネ1:11、ルカ23:18)。わずかな例外を除けば、イエスは、救い主として認められることはありませんでした。受け入れられるどころか、死の脅迫にあわれました(ヨハネ5:16、7:19、11:53)。

イエスの3年半にわたる働きの終りごろに、友であったイスカリオテのユダが、銀貨30枚(マタイ26:14,15)で、イエスを裏切りました(ヨハネ13:18、18:2)。イエスは抵抗せずに、ご自分を守ろうとした弟子たちを、かえってたしなめられました(ヨハネ18:4-11)。

どんな悪事にもかかわられなかったのに、イエスは逮捕され、それから一日も経たない間に、つばを吐きかけられ、打たれ、裁判にかけられ、死に定められ、十字架にかけられました(マタイ26:67、ヨハネ19:1-16、ルカ23:14,15)。兵士たちは、イエスの衣を手に入れようとくじを引きました(ヨハネ19:23,24)。イエスが十字架にかけられている間、その骨は1本も折られませんでした(ヨハネ19:32,33,36)。イエスが息をひきとられたのち、兵士たちは、槍でイエスの脇腹を突き刺しました(ヨハネ19:34,37)。

キリストの弟子たちは、キリストの死を罪人を救いうる唯一の犠牲と認めました。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ローマ5:8)。パウロは、「愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである」(エペソ5:2)と書いています。

イエスの働きと死の時

聖書は、「時の満ちるに及んで」(ガラテヤ4:4)、神がみ子をこの世につかわされたと述べています。キリストは、働きを始められたとき、「時は満ちた」(マルコ1:15)と宣言されました。時に関して述べられたこれらの言葉は、救い主の働きが、注意深く立てられた預言的な計画に調和して進められていったことを示します。
5世紀以上も前に、神はダニエルをとおして、キリストの働きの開始と死のときを預言されました[1]

バビロンでの70年間にわたるイスラエルの捕囚の終りごろに、神はダニエルに、ユダヤ人とエルサレムの町のために、70週の猶予期間を定めていると言われました。

この期間内に、悔改めてメシヤの来臨に備えることにより、ユダヤの民は神が彼らのために設けられた目的を実現しなければなりませんでした。

ダニエルはさらに、この期間を区切るものは、「罪に終りを告げ」ることと「永遠の義をもたら」すことであると書きました。メシヤによってなされるとされたこれらの活動は、救い主がこの期間内にこられることになっていたことを示します(ダニエル9:24)。

ダニエルの預言は、「エルサレムを建て直せという命令が出てから」(ダニエル9:25)、7週と62週、すなわち69週を経てのちにメシヤがこられることを明らかにしました。第69週ののち、メシヤは「断たれ」ることになっていましたが、それは「自分のため」にではありませんでした(ダニエル9:26)。このことは、イエスの身代りの死を指していました。メシヤは、第70週の半ばになくなられて、「犠牲と供え物とを廃する」(ダニエル9:27)ことになっていました。

時に関する預言を理解する鍵は、預言的な時の一日は、太陽暦の文字通りの一年に当るとする聖書の原則の中にあります(民数記14:34、エゼキエル4:6)[2]。その一日一年則(year-day principle)によれば、70週(すなわち預言的490日)は、実際の490年を示します。

ダニエルは、この期間が、「エルサレムを建て直せという命令」(ダニエル9:25)の発布と共に始まることになっていたと述べています。ユダヤ人に完全な自治をゆるしたこの命令は、ペルシャ王アルタクセルクセスの第7年に布告され、紀元前457年の秋にその効力を発しました(エズラ7:8,12-26、9:9)[3]。その預言によれば、この命令の発布後483年(預言的69週)経って、「メシヤなる君」がこられることになっていました。紀元前457年から数えて483年と言えば、それは、紀元27年の秋にあたります。イエスは、そのときバプテスマを受けて公の働きを開始されました[4]。グリーゾン・アーチャーは、この紀元前457年と紀元27年の二つの年を受け入れて、次のように述べています。これは、「この種の古代の頂言のうち、その成就の正確さに関してまさに無類のものです。神の子の来臨について、これほどの驚くべき正確さで預言できたのは、神以外にはありません。それはいっさいの合理的な説明を拒否します。」[5]

ヨルダン川でバプテスマをお受けになったとき、イエスは、聖霊の油をそそがれ、「メシヤ」(ヘブル語)または「キリスト」(ギリシャ語)〔両語とも「油をそそがれた者」を意味します。ルカ3:21,22、使徒10:38、ヨハネ1:41〕としての承認を神から受けられました。イエスが言われた「時は満ちた」(マルコ1:15)ということばは、この、時の預言の成就を指しています。

第70週の半ば、すなわちキリストがバプテスマをお受けになってちょうど3年半たった紀元31年の春に、メシヤはご自分の命を与え犠牲制度を廃されました。キリストが息をひきとられた瞬間、神殿の幕は「上から下まで」(マタイ27:51)超自然的に二分されましたが、それは、いっさいの神殿の働きが、神によって廃止されたことを示していました。

すべての供え物と犠牲とは、メシヤによってなされた十全なる犠牲をさし示していました。神のまことの小羊であられたイエス・キリストが、カルバリーでわたしたちの罪のあがないとしてご自分をささげられたとき(1ペテロ1:19)、象徴は実体と会い、影は本体と一つになりました。地上の聖所の働きはもはや必要でなくなりました。

過越しの祭りの間の預言されたちょうどその時に、イエスは息をひきとられました。パウロは、「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ」(1コリント5:7)と書いています。この驚くべき正確な時の預言は、イエス・キリストが、長い間預言されてきた救い主であられるという根源的な歴史的真理に関するもっとも強力な証拠の一つです。

救い主のよみがえり

聖書は、救い主の死だけでなく、よみがえりについても預言しました。ダビデは、「彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない」(使徒2:31、詩篇16:10参照)と預言しました。キリストは、他の人々をよみがえらせられましたが(マルコ5:35-42、ルカ7:11-17、ヨハネ11)、世の救い主であるというご自身の主張を背後から支える力を実証したのはキリストご自身のよみがえりでした。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」(ヨハネ11:25,26)。

イエスは、よみがえったのち、次のように宣言されました。「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている」(黙示録1:17,18)。

イエス・キリストの二つの性質

「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)と言ったとき、ヨハネは、深遠な真理を語ったのでした。子なる神の受肉は奥義です。聖書は、神が肉においてこられたことを「信心の奥義」(1テモテ3:16)と呼んでいます。

諸世界の創造者であり、ご自身の中に三位の神の十全さを保有しておられる方が、飼葉おけの中で無力な赤子となられました。どの天使よりもはるかにすぐれておられた方、威厳と栄光において父と等しい方が、それにもかかわらずへり下られて、人性を衣としてまとわれました。

人は、聖霊の啓発を求めることによってのみ、この聖なる奥義の意味をわずかながら理解することができます。受肉を理解しようとするときは、「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属」(申命記29:29)するということを思い起すことが重要です。

イエス・キリストはまぎれもなく神であられる

イエス・キリストが、神であられるという証拠はあるでしょうか。イエスは、ご自身をどのようにお認めになったでしょうか。人々はイエスの神性を認めたでしょうか。

1キリストの神としての属性

キリストは、神としての属性を持っておられます。キリストは全能です。キリストは、父がキリストに「天においても地においても、いっさいの権威を」(マタイ28:18、ヨハネ17:2)お授けになったと言われました。

キリストは全知です。パウロは、キリストのうちに、「知恵と知識との宝がいっさい隠されている」(コロサイ2:3)と言いました。

イエスは、ご自分の遍在を確信して、次のように主張されました。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。「ふたりまたは3人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。

キリストの神性は、本来的に遍在の能力をそなえていますが、受肉されたキリストは、この点に関してご自身を自発的に抑制されました。キリストは、聖霊の働きを通して遍在するという方法を選ばれました(ヨハネ14:16-18)。

ヘブル人への手紙は、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル13:8)と述べて、イエスの不変性を強調しています。

イエスがご自身の中に命があると主張されたことは、あきらかにイエスの自存性を示しました(ヨハネ5:26)。ヨハネは、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ1:4)と証言しました。キリストの、「わたしはよみがえりであり、命である。」(ヨハネ11:25)という宣言は、キリストのうちには「彼自らに起源し、決して借りものではなく、また、他のなにものに由来するものでもない命」[6]が存在することを断言するものでした。

聖性は、キリストの性質の一部です。天使はマリヤに告げて、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう」(ルカ1:35)と語りました。悪霊は、イエスを見て、「あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。……あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」(マルコ1:24)と叫びました。

キリストは愛です。ヨハネは、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(1ヨハネ3:16)と書いています。

イエスはまた永遠です。イザヤは、イエスを、「とこしえの父」(イザヤ9:6)と呼び、ミカは「その出るのは昔から、いにしえの日からである」(ミカ5:2)と言いました。パウロは、イエスを、「万物よりも先に」(コロサイ1:17)存在したと言い、ヨハネもそれに同意して、「この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ1:2,3)と言いました。[7]

2キリストの神としての力と大権

神の働きは、イエスに帰されます。イエスは創造者(ヨハネ1:3、コロサイ1:16)、また、保持者あるいは維持者とみなされております。つまり「万物は彼にあって成り立っている」(コロサイ1:17、ヘブル1:3)のです。イエスは、み声をもって、死者をよみがえらせ(ヨハネ5:28,29)、終りのときには、世をさばかれます(マタイ25:31,32)。イエスはまた罪をゆるされます(マタイ9:6、マルコ2:5-7)。

3キリストの聖なる名

キリストの名は、キリストの神としての性質を示します。インマヌエルは、「神われらと共にいます」(マタイ1:23)を意味します。イエスを信ずる者たちや悪霊たちは、イエスを神の子と呼びました(マルコ1:1、マタイ8:29、マルコ5:7参照)。旧約聖書で用いられた神の名エホバ、すなわちヤーウェーは、イエスを指します。マタイは、イザヤ書40章3節の「主の道を備え」という語を、キリストの使命に先立ってなされる備えの働きを描写するために用いています(マタイ3:3)。ヨハネは、み座に座しておられる万軍の主とイエスとを同一視しています(イザヤ6:1,3、ヨハネ12:41)。

4人々によって認められたキリストの神性

ヨハネは、イエスを、肉体となられた神なる言葉と描写しました(ヨハネ1:1,14)。トマスは、よみがえられたキリストを、「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ20:28)と認めました。パウロは、キリストについて、「万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな」(ローマ9:5)と言いました。ヘブル人への手紙は、イエスを神また創造主と書きました(ヘブル1:8,10)[8]

5イエスご自身の証し

イエスご自身が、神との同等性を主張されました。イエスは、ご自分を旧約聖書の神である「わたしは有る」と同じ者とみなされました(ヨハネ8:58)。イエスは、神を、「わたしたちの父」とはお呼びにならずに、「わたしの父」と呼ばれました(ヨハネ20:17)。またイエスが、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)と言われたことは、イエスが父なる神と本質において一つであり、同じ属性を持っていると主張されたことを示しています[9]

6当然のこととされていたイエスと神との同等性

父なる神とキリストの同等性は、バプテスマ(マタイ28:19)の式文や使徒祝禱(2コリント13:14)、この世を去られるときのイエスの勧め(ヨハネ14-16章)、霊の賜物に関するパウロの説明(1コリント12:4-6)等の中で当然のこととされています。聖書はイエスを、神の栄光の輝き、「神の本質の真の姿」(ヘブル1:3)と述べています。さらにイエスは、父なる神を示してほしいと求められたとき、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14:9)と答えられました。

7神としての礼拝をお受けになるイエス

人々はイエスを礼拝しました(マタイ28:17、ルカ14:33参照)。「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」(ヘブル1:6)とも述べられています。パウロは、「イエスの御名によって、……あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白し」(ピリピ2:10,11)たと書いています。いくつかの祝禱において、「とこしえの栄光」という語が、キリストにささげられています(2テモテ4:18、ヘブル13:21、2ペテロ3:18参照)。

8イエスの神としての性質の必然性

キリストは、人類を神と和解させられました。神との個人的な関係を深めるために、人々は神の品性の完全な啓示を必要としました。キリストは、この必要をみたすために神の栄光をあらわされました(ヨハネ1:14)。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18。同17:6参照)。イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14:9)とあかしされました。

キリストは、父にまったく信頼しながら(ヨハネ5:30)、神の愛を現すために神の力を用いられました。神の力によって、キリストはご自分を、いやし、回復し、罪をゆるすために神からつかわされた愛の救い主としてあらわされました(ルカ6:19、ヨハネ2:11、5:1-15,36、11:41-45、14:11、8:3-11)。しかし、イエスは、同じ境遇の中におかれたら、他の人々も経験したに違いない個人的な困難や苦しみからご自分を救い出すために奇蹟を行われることはありませんでした。

イエス・キリストは、「性質においても、品性においても、目的においても」、父なる神と一つでした 。[10]

真の人間であられるイエス・キリスト

聖書は、キリストは、神としての性質に加えて、人としての性質をも持っておられると主張しています。この教えを受け入れることは、非常に重要です。「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する」者は、すべて「神から出ているもの」ですが、そうでない者は、だれも「神から出ているもの」ではありません(1ヨハネ4:2,3)。人間としてのキリストの誕生や成長や特徴、またみずから語られた事柄は、キリストの人間性を証明しています。

1 人間としてのイエスの誕生

「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)。ここで「肉体」と言われているものは、「人間性」、すなわちイエスの天の性質と比べると劣っている性質を意味します。パウロははっきりと、「神は御子を女から生れさせ」(ガラテヤ4:4、創世記3:15参照)たと言っています。キリストは、「人間の外観」(the likeness of men)と「人間の形」(human form)(ピリピ2:7,8RSV)とをとられました。人間性におけるこの神の顕現は、「信心の奥義」(1テモテ3:16)とされています。

キリストは、系図の上では、「ダビデの子」および「アブラハムの子」と呼ばれています(マタイ1:1)。その人間性からすれば、キリストはダビデの子孫から生れた(ローマ1:3、9:5)「マリヤのむすこ」(マルコ6:3)でした。キリストは、他の子供たちと同じく女から生れましたが、しかし、一つの大きな違い、他とは比べることのできない一つの特徴を持っておられました。マリヤは処女でした。彼女は、この子供を聖霊によってみごもりました(マタイ1:20-23、ルカ1:31-37)。キリストは、その母のゆえに、真の人間性を主張することができました。

2 人間としてのイエスの成長

イエスは、人間の成長の法則に従われました。そして、「成長して強くなり、知恵に満」(ルカ2:40,52)たされられました。12歳のとき、イエスは、ご自分に委ねられた神の使命に気づかれました(ルカ2:46-49)。少年時代をとおして、イエスは常に両親に従われました(ルカ2:51)。

十字架への道は、苦難を背負いながらの絶えざる成長の道でした。その苦難は、イエスの成長にとって重要な役割を演じました。イエスは、「苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、……従順であるすべての人に対して、永遠の救の源とな」(ヘブル5:8,9、2:10,18)られました。イエスは、人と同じく成長されましたが、罪は犯されませんでした。

3「人」と呼ばれたイエス

バプテスマのヨハネとペテロは、イエスを、「人」(ヨハネ1:30、使徒2:22)と呼んでいます。パウロも、「ひとりの人イエス・キリストの恵み」(ローマ5:15)と述べています。イエスは、「死人の復活」をもたらした「人」(1コリント15:21)であられます。「神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(1テモテ2:5)。キリストは、ご自分に敵対する者たちに対して、みずからを人と呼ばれました。すなわち次のように言われました。「あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきた人である【訳注1】わたしを、殺そうとしている」(ヨハネ8:40 NKJV)。

イエスがご自分を呼ばれるときのお気に入りの名は、「人の子」でした(マタイ8:20、26:2参照)。イエスは、それを77回も用いられました。神の子という名は、三位一体の内部におけるイエスの関係にわたしたちの注意を向けさせます。人の子という名は、受肉されたことによって生じたイエスと人類との連帯を強調します。

4人間としてのイエスの特徴

神は人間を「ただ少しく天使【訳注2】よりも低く造」(詩篇8:5 NKJV)られました。同じように聖書は、イエスをも「御使たちよりも低い者とされた」(ヘブル2:9)と述べています。イエスの人間性は創造されたものであり、超人間的な力をそなえたものではありませんでした。

キリストは真の人間であるべきでした。このことは、キリストの使命の一部でした。キリストは、人間性に欠くことのできない特徴をそなえるように求められたので、「血と肉」(ヘブル2:14)とをとられたのでした。「あらゆる点において」、キリストは仲間である人間と「同じように」(ヘブル2:17)なられました。その人間性は、他の人々と同じく精神的肉体的感受性をそなえ、飢え、かわき、疲れ、心配を経験しました(マタイ4:2、ヨハネ19:28、4:6、マタイ26:21、8:24参照)。

イエスは、人に奉仕されるとき、同情と正義の怒りと悲しみとを現されました(マタイ9:36、マルコ3:5)。ときには、困惑を感じ、悲しみ、泣かれたことさえありました(マタイ26:38、ヨハネ12:27、11:33,35、ルカ19:41)。あるときは大声で、あるときは涙を流し、あるときは血の汗を流すまでに祈られました(ヘブル5:7、ルカ22:44)。イエスの祈りの生活は、神に対するイエスの完全な信頼を示しました(マタイ26:39-44、マルコ1:35、6:46、ルカ5:16、6:12)。

イエスは死を経験されました(ヨハネ19:30,34)。そして、霊としてではなく、肉体をもってよみがえられました(ルカ24:36-43)。

5イエスがご自分を人間と同一視された程度

聖書は、キリストは第二のアダムであるとか、「罪の肉の様で」(“in the likeness of sinful flesh”)、あるいは「罪人の外観をそなえて」(“in the likeness of sinful man”)(ローマ8:3NIV)生活されたとか述べています。キリストは、堕落した人類をどの程度にご自分と同一視し、またどの程度に実際にそれと等しくなられたのでしょうか。「罪の肉の様」、すなわち罪人という語を正しく理解することは非常に重要です。これに関する誤った考えが、キリスト教会の歴史を通じて、紛争と仲たがいの原因となってきました。

Aイエスは「罪の肉の様で」すごされた

先に述べられた荒野で掲げられたへびは、キリストの人間性を理解するのに役立ちます。毒へびに似せて作られた真鍮の像が人々を生かすために掲げられたように、「罪の肉の様で」こられる神の子がこの世の救い主となるべきでした。

受肉される前のイエスは、「神のかたち」をもっておられました。すなわちイエスは、はじめから神の性質をもっておられたのでした(ヨハネ1:1、ピリピ2:6,7、NIV、NEB)。「僕のかたち」をとられたとき、イエスは神としての大権をお捨てになりました。イエスは、父の僕となって(イザヤ42:1)、父のみ心を実践されました(ヨハネ6:38、マタイ26:39,42)。イエスは、神性を人性で被われました。イエスは、「罪の肉の様」、「罪深い人間性」、「堕落した人間性」をとられました(ローマ8:3参照)[11]。このことは決して、イエス・キリストが罪を犯されたということ、すなわちイエス・キリストが罪の行いをし、罪の思いを持ったということを示すものではありません。罪の肉のかたち、または外観をとられましたが、イエスには罪はありませんでした。イエスの無罪性は疑いのないことでした。

Bイエスは第二のアダムであった

聖書は、アダムとキリストの類似を示して、アダムを「第一の人」、キリストを「最後のアダム」、または「第二の人」と呼んでいます(1コリント15:45,47)。しかし、キリストに比べて、アダムは良い条件に恵まれていました。アダムは罪におちたとき、パラダイスにいました。かれは、身体的にも精神的にも充分な活力をそなえた完全な人間性を持っていました。

キリストはそうではありませんでした。キリストが人間性をとられたとき、人類は、罪ののろいのもとにおかれていた地球の、4千年にわたる歴史を通じ、まったく堕落しきっていました。キリストは、堕落の極点にあった人類を救うために、罪を犯す前のアダムの性質とは比較できないほど肉体的にも精神的にも能力の衰えた人間性をとられました。しかし、イエスは罪を犯されませんでした[12]

罪の結果を負った人間性をとられたとき、イエスはすべての者たちが経験する欠点や弱さをも負う身となられました。イエスの人間性は、「弱さに悩まされ」(ヘブル5:2KJV)、あるいは「弱さを身に負うて」(同、KJV、マタイ8:17、イザヤ53:4)いました。イエスは、ご自分の弱さを感じられました。そのため、「激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願い」(ヘブル5:7)をおささげにならなければなりませんでした。このようにして、イエスはすべての人間が持つ欠乏と弱さにご自分を同化されました。

「キリストの人間性は、アダムの人間性、すなわち、堕落以前のアダムの人間性ではなく、また堕落した人間性、すなわち堕落後のアダムの人間性でもありませんでした。罪のない弱さを持っていたという点では、アダムの人間性と違っていましたし、一度も道徳的な不純に落ちこんだことがなかったという点では、堕落してはいませんでした。結局、罪がなかったということの他は、それはまったく文字どおりわたしたちと同じ人間性でした。」[13]

Cイエスが体験された誘惑

誘惑は、キリストをどのように影響したでしょうか。それに耐えることは、キリストには容易なことだったでしょうか。それとも困難なことだったでしょうか。キリストが誘惑を経験された方法は、キリストが真に人間であったことを証明しています。

イ「すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われた」

キリストが、「すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われた」(ヘブル4:15)ということは、イエスが人間性をもっておられたことを示します。誘惑と罪を犯す可能性は、キリストにとって現実のものでした。もし罪を犯すことがおできにならなかったとしたら、キリストは、人間でも、またわたしたちの模範でもあられなかったでしょう。キリストは、人間性を、誘惑に屈伏する可能性をも含めて、その一切の不利とともにおとりになりました。

どのようにしてキリストは、「すべてのことについて」、わたしたちと同じように、試みられることができたのでしょうか。

「すべてのことについて」、または「あらゆる方法で」(NIV)は、明らかにイエスがわたしたちが現在遭遇する誘惑と同じものを体験されたことを意味するものではありません。イエスは、風紀を乱すようなテレビ番組を見たり、制限速度を超えて自動車を運転したりするように試みられることはありませんでした。

すべての誘惑に共通する基本的な争点は、神に意志を明け渡すかどうかという問題です。イエスは、誘惑に会われたとき、つねに神への忠誠を保持されました。神の力に対する不断の信頼をとおして、人間であられたにもかかわらず、イエスは、激烈をきわめた誘惑に首尾よく打ち勝たれました。

誘惑に勝たれたことは、人間の弱さに同情する資格をキリストに与えました。誘惑からの勝利は、そのキリストを信頼し続けることによって得られます。「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(1コリント10:13)。
「キリストが、すべての点で、わたしたちと同じように試みられることができたこと、それにもかかわらず、罪を犯されなかったことは、結局は奥義である」[14]ことを、わたしたちは認めなければなりません。

ロ「試錬を受けて苦しまれた」

誘惑にさらされている間、キリストは苦しまれました(ヘブル2:18)。キリストは、「苦難をとおして全うされ」(ヘブル2:10)ました。みずから誘惑の力と対面されたので、キリストは試みられている者をどのように助けたらよいかをご存知です。人間性におそいかかる誘惑の苦しみの中で、キリストは人類と一つであられました。

キリストは、誘惑のもとでどのように苦しまれたのでしょうか。キリストは「罪の肉の様」であられましたが、その霊の能力は、いかなる罪のよごれからも守られていました。そのため、キリストの聖なる性質は極度に敏感でした。悪とのどのような接触も、キリストには痛みを与えました。キリストは、その聖性の完全さに比例して苦しまれたので、誘惑は他の人にまさって大きな苦しみとなりました[15]

キリストは、どの程度に苦しまれたのでしょうか。キリストが荒野やゲッセマネやゴルゴダでされた経験は、キリストが誘惑に対して血を流すまで抵抗されたことを示しています(ヘブル12:4参照)。

キリストは、その聖性に比例して苦しまれただけでなく、わたしたち人間が直面するよりも、さらにいっそう強力な誘惑に会われました。B・F・ウェスコットは、次のように書いています。「試練に会っている罪人に対する同情は、罪を経験することによるものではなく、罪への誘惑の力を経験することによるものです。それをその最大量の強さで知ることができるのは、罪のない者だけです。罪に陥る者は、最後の努力を試みる前に負けてしまいます。」[16]F・F・ブルースは、それに同意して、次のように述べています。「しかし、かれは、神に対する信仰にわずかな弱まりも見せず、また、神に対する服従に少しの衰えも見せずに、人の耐えうるいかなる試みにも耐えられました。このような忍耐は、通常の人間の苦しみをはるかに越えています。」[17]

キリストはまた、かつてだれも知らなかった強力な誘惑に会われました。その誘惑とは、キリストのうちにあった神の力を、ご自分のためにお用いになるということでした。E・G・ホワイトは、次のように述べています。「かれは、天の宮廷で栄誉を受けておられ、完全な力とはどのようなものであるかをよくご存知でした。人間がその堕落した性質の低いレベルを越えて神の性質にあずかることが困難であるように、かれが人間性のレベルを保つことは困難でした。」[18]

Dキリストは罪を犯すことができたか

クリスチャンは、キリストが罪を犯すことができたかどうかという問題について、さまざまな考えをもっています。わたしたちの考えは、フィリップ・シャフのそれと同じです。かれは、次のように言いました。「もし、かれ〔キリスト〕に、はじめから完全な無過失性(absolute impeccability)、すなわち、堕罪不能性(the impossibility of sinning)が与えられていたのであれば、かれは、真の人間でも、わたしたちの見ならうべき模範でもありえなかったでしょう。かれの霊性は、かれ自身の自己獲得的行為やかれ自身に帰せられるべき功績ではなく、偶然的、あるいは、非本質的な資質ということになるでしょう。」[19]カルル・ウルマンは、それに加えて、次のように述べています。「誘惑の歴史は、それがどのように説明されようと重要性をもたなかったでしょうし、ヘブル人への手紙の中の、『すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われた』という表現も無意味であったでしょう。」[20]

6イエス・キリストの人間性に罪がなかったこと

イエスの神としての性質が、罪のないものであったことは、明らかです。しかし、イエスの人間性はどうだったでしょうか。

聖書は、イエスの人間性を、罪のないものとして描いています。イエスの誕生は、超自然的なものでした。イエスは、聖霊によって人間の胎に宿られました(マタイ1:20)。お生れになったばかりの赤子のとき、イエスは、「聖なるもの」(ルカ1:35)と描写されました。イエスは、堕落した状態の人間の性質をとられました。その人間性は、罪の結果を負ってはいましたが、罪深くはありませんでした。イエスは、罪のほかは人類とひとつであられました。

イエスは、「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われ」(ヘブル4:15)ました。それと同時に、「聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され」(ヘブル7:26)ておられました。パウロは、イエスは「罪を知らない」(2コリント5:21)と書いています。ペテロは、イエスは「罪を犯さず、その口には偽りがなかった」(1ペテロ2:22)と証言し、さらに、イエスを、「きずも、しみもない小羊」(1ペテロ1:19、ヘブル9:24)にたとえました。ヨハネは、「彼にはなんらの罪がない。……彼が義人である……」(1ヨハネ3:5-7)と言いました。

イエスは、わたしたちの性質を、それにともなう一切の不利と共に負われましたが、遺伝的な腐敗や堕落や実際の罪からは守られました。イエスは、ご自分に敵対する者たちに挑戦して、次のように言われました。「あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか」(ヨハネ8:46)。厳しい試練に会われたとき、イエスは、「この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない」(ヨハネ14:30)と宣言されました。イエスは、悪い性向も性癖も、また、罪の欲情さえも持ってはおられませんでした。どとうのように襲ってくるどのような誘惑も、神に対するキリストの忠誠を打ち砕くことはできませんでした。

イエスは、決して罪を告白されませんでしたし、いけにえをささげられることもありませんでした。イエスは、「父よ、わたしをおゆるしください」と祈られるのでなく、「父よ、彼らをおゆるしください」(ルカ23:34)と祈られました。イエスはいつも、ご自分のみ心ではなく、父のみ旨を行おうとつとめ、父への信頼を堅く保ち続けられました(ヨハネ5:30参照)。

イエスの「霊的な性質」は、堕落した人類のそれとは違って、清く、聖であり、「すべての罪のけがれを免れていました。」[21] イエスを、わたしたちと「全く同じ人間」であると考えるなら、それは誤りです。イエスは、第二のアダムであり、神のかけがえのないみ子であられます。わたしたちは、イエスを、罪の傾向をもった人と考えるべきでもありません。イエスの人間性は、人間性が試みられるあらゆる点で試みられましたが、イエスは決して敗北されませんでした。決して罪を犯されませんでした。イエスには、悪の傾向はまったくありませんでした。[22]

7キリストが人間性をとられる必要があったこと

聖書は、キリストがなぜ人間性をおとりにならなければならなかったかについて、さまざまな理由をあげています。

A人類の大祭司となられるため

イエスは、メシヤとして、大祭司または神と人との仲保者の座を占めなければなりませんでした(ゼカリヤ6:13、ヘブル4:14-16)。この役割を果すには、人間性が必要とされました。キリストは、以下のような資質をみたしました。(イ)イエスは、「弱さを身に負うて」おられたので、「無知な迷っている人々を、思いやること」がおできになりました(ヘブル5:2)。(ロ)イエスは、「あらゆる点において兄弟たちと同じように」なられたので、「あわれみ深い忠実な」方であられます(ヘブル2:17)。(ハ)イエスは、「ご自身、試錬を受けて苦しまれた」ので、「試錬の中にある者たちを助けること」がおできになります(ヘブル2:18)。(ニ)イエスは、「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたので」(ヘブル4:15)、弱さに同情されます。

Bもっとも堕落した者をも救われるため

イエスは、人々のいる所においでになってかれらと会われ、もっとも望みのない者たちに救いの手をさしのべるために、僕の域まで身を低くされました(ピリピ2:7)。

C世の罪のためにご自分の命をお与えになるため

キリストの神としての性質は、死ぬことができません。死ぬためには、キリストは人間性をもっておられる必要がありました。イエスは、人間となられて罪の罰を受けられましたが、それは死でした(ローマ6:23、1コリント15:3)。イエスは、すべての人々のために、人間として死を味わわれました(ヘブル2:9)。

Dわたしたちの模範となられるため

人々がどのように生きるべきかについて模範を示すには、キリストは人間として罪のない生涯を送られなければなりません。キリストは、第二のアダムとして、人は神の律法に従うことができず、罪に勝つこともできないという神話を打破されました。イエスは、人類が、神のみ旨に忠誠をつくすことができることを示されました。第二のアダムは、第一のアダムが罪におちた所で罪とサタンに勝利され、わたしたちの救い主、また完全な模範となられました。キリストの勝利は、キリストの力によってわたしたちのものとされることができます(ヨハネ16:33)。

人々は、キリストを見ることによって、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて」(2コリント3:18)いきます。「わたしたちの信仰の創始者であり、完成者であるイエスに目をとめようではないか。……罪人らのこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを、深く考えてみなさい。そうすれば、あなたがたは疲れて意気そそうすることはないであろう」(ヘブル12:2,3、NIV)。キリストは真に、「あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残された」(1ペテロ2:21、ヨハネ13:15参照)のでした。

二つの性質の結合

イエス・キリストという方は、神と人間の両性質をお持ちです。神であられ、人でもあられるのです。しかし、ここで注意しなければならないのは、受肉とは、永遠の神の子が、みずからの上に人間性をとられたのであり、人間イエスが神性を獲得されたのではないということです。その行動は、神から人へ向けられたのであり、人から神へ向けられたのではありません。

この二つの性質は、イエスにおいて、一人の人間の中に溶けこみました。以下の聖書の証言に注目しましょう。

二つの性質の結合としてのキリスト

キリストには、三位一体の神を思い起こさせるような複数性はありません。聖書は、イエスを、二人ではなく、一人の人として描いています。いくつかの聖句が、神性と人間性とに言及していますが、それらは、ただ一人の人について述べているものです。パウロは、イエス・キリストという方を、一人の婦人からお生れになった(人間性、ガラテヤ4:4)神の子(神性)として描いています。イエスは、「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」(神性)、「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(人間性、ピリピ2:6,7)のでした。

キリストの二重の性質は、キリストの人間性と結合した抽象的な神の能力や影響から成っているものではありません。ヨハネは、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)と語りました。パウロは、神は、「御子を、罪の肉の様」(ローマ8:3)でつかわされたと書いています。「神は肉において現れ」【訳注3】(1テモテ3:16、1ヨハネ4:2)られたのでした。

二つの性質の混合

ときどき、聖書は、神のみ子をその人間性という見地から描写します。神は、教会をご自分の血で買われました(使徒20:28、コロサイ1:13,14参照)。他の例では、聖書は、人の子をその神性の点から説明します(ヨハネ3:13、6:62、ローマ9:5参照)。

キリストがこの世に来られたとき、「からだ」がキリストのために準備されました(ヘブル10:5)。キリストがご自分の上に人間性をとられたとき、その神性は人間性でおおわれました。このことは、人間性を神性に、また、神性を人間性に変えることによってなされたのではありません。キリストは、ご自分から出て、もう一つの性質に移られたのでもありません。ご自分のうちに人間性をとりこまれたのです。神性と人間性とは、このようにして結合されたのでした。

受肉されたとき、キリストは神であることをやめられたのでも、キリストの神性が人間性の水準まで弱められたのでもありません。どちらの性質も、存在し続けました。パウロは、「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており」(コロサイ2:9)と述べています。十字架にかけられたとき、キリストの人間性は死にましたが、神性は死にませんでした。それは不可能なことだからです。

二つの性質の結合の必要性

キリストの二つの性質の相互関係を理解することは、キリストの使命とわたしたちの救いに関する極めて重大な洞察を与えてくれます。

1 人類を神と和解させること

神であられ、人であられる救い主だけが、救いをもたらすことができました。信じる者にその聖なる性質を分け与えるために、キリストは、受肉においてご自身のうちに人間性をとりこまれました。信じる者たちは、神また人であられる方の血のいさおしを通して、神の性質にあずかることができます(2ペテロ1:4)。

ヤコブが夢で見たキリストを象徴するはしごは、わたしたちのいる所でわたしたちに達します。キリストは、人間性をとられ、勝利されました。それは、わたしたちがキリストの性質をとることによって、勝利するためでした。キリストの聖なる腕は、神のみ座をとらえ、その人間性は人類を抱きしめます。こうして、キリストは、わたしたちを神と結びつけ、地を天と結びつけられます。

結合された神性と人間性は、キリストの贖罪的な犠牲に、効力を与えます。罪のない人間の命は、それどころかみ使いの命さえ、人類の罪をあがなうことはできませんでした。ただ神であられ人であられる創造主だけが、人類をあがなうことができました。

2 神性を人間性でおおうこと

キリストは、罪人がほろぼされないで、キリストのみ前にいることができるように、天の栄光と威厳とを捨てて、その神性を人間性の衣でおおわれました。キリストは、依然として神であられましたが、神としてはお現れになりませんでした(ピリピ2:6-8)。

3勝利の生活を送ること

キリストの人間性は、そのままでは決して強力なサタンの欺きに耐えることはできませんでした。キリストが罪に勝つことがおできになったのは、ご自身のうちに、「満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって」(コロサイ2:9)宿っていたからです。父に完全に頼られたことによって(ヨハネ5:19,30、8:28)、イエスの「人間性と結合した聖なる力は、人間のために、無限の勝利をかちとった」[23]のでした。

キリストが経験された勝利の生活は、キリストの独占的な特権ではありません。キリストは、人類が行使できない力を用いられることはありませんでした。わたしたちも、「神に満ちみちているもののすべてをもって……満たされる」(エペソ3:19)ことができます。キリストの聖なる力をとおして、わたしたちは、「いのちと信心とにかかわるすべてのこと」(2ペテロ1:3)に、近づくことができるのです。

この経験を得るための秘訣は、「世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となる」という「尊く、大いなる約束」に対する信仰です(2ペテロ1:4)。すべての者が、真心から服従して勝利の生活をかちとるために、イエスは、ご自分が勝利されたときと同じ力をお与えになります。

慰めにみちたキリストの約束は、勝利の約束です。「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」(黙示録3:21)。

イエス・キリストの役目

預言者、祭司、王の役目は、無類のものであって、通常は、油注ぎによってなされる聖別の式を必要としました(列王上19:16、出エジプト30:30、サムエル下5:3)。きたるべきメシヤ、つまり油注がれた者は、(預言の示すところによると)これらの三つの役目のすべてを果すはずでした。キリストは、預言者、祭司、王の役目を果すことによって、神とわたしたちの間の仲保者として働かれます。預言者キリストは、わたしたちに対する神のみ旨を宣言され、祭司キリストは、神に対してはわたしたちの代理となられ、わたしたちに対しては神の代理となられます。さらに、王キリストは、神の恵みあふれる権威によってその民を支配されます。

預言者キリスト

神は、預言者としてのキリストの役目を示して、モーセに次のように言われました。「わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう」(申命記18:18)。キリストと同時代の人々は、この預言の成就を認めました(ヨハネ6:14、7:40、使徒3:22,23)。

イエスは、ご自分を「預言者」(ルカ13:33)と呼ばれました。イエスは、預言者の権威をもって(マタイ7:29)、神の国の原則を宣言し(マタイ5-7章、22:36-40)、未来を開示されました(マタイ24:1-51、ルカ19:41-44)。

キリストは、受肉される前、聖書記者たちをご自分の霊でみたし、ご自分の苦難とそれに続く栄光に関する預言をお与えになりました(1ペテロ1:11)。昇天されたのちも、その民にご自分を現し続けられました。聖書は、イエスが、忠実な残りの者たちに、イエスの「あかし」、すなわち「預言の霊」をお与えになると述べています(黙示録12:17、19:10、本書17章参照)。

祭司キリスト

聖なる誓いが、メシヤの祭司職をかたく不動なものとしました。「主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、『あなたはメルキゼデクの位にしたがってとこしえに祭司である』」(詩篇110:4)。キリストは、アロンの子孫ではありませんでした。キリストが祭司の任務を果す権限は、メルキゼデクの場合と同じく、聖なる任命によって得られたものでした(ヘブル5:6,10、本書7章参照)。イエスの仲保的な祭司職には、地的および天的な二つの側面がありました。

1地上におけるキリストの祭司

職燔祭の壇のところで祭司が果した役割は、地上におけるイエスの奉仕を象徴していました。祭司としての任務を遂行するためのイエスの資格は完全でした。まず、イエスは、真に人間であられました。また、「人間の中から選ばれて」、「罪のために供え物といけにえを」ささげる特別な役目を達成したことで、「神に仕える役」を果されました(ヘブル5:1,4,10)。

祭司は、犠牲制度をとおして、礼拝者を神と和解させることになっていましたが、その制度は、罪のためのあがないが準備されていることを意味しました(レビ1:4、4:29,31,35、5:10、16:6、17:11)。こうして、燔祭の壇でひき続きささげられた犠牲は、継続的な贖罪の効力を象徴しました。

これらの犠牲は、充分なものではありませんでした。それは、ささげる者たちを完全な者とすることはできませんでしたし、罪を除くこともくもりのない良心を作り出すこともできませんでした(ヘブル10:1-4、9:9)。それは単に、きたるべき良きものの影にすぎませんでした(ヘブル10:1、同9:9,23,24参照)。旧約聖書は、メシヤが来て、これらの動物のいけにえにとって代るであろうと言いました(詩篇40:6-8、ヘブル10:5-9)。これらの犠牲は、救い主キリストの身代りの苦難とあがないの死をさし示しました。神の小羊であられたキリストは、わたしたちのために罪となられ、またのろいとなられました。キリストの血は、すべての罪からわたしたちを清めます(2コリント5:21、ガラテヤ3:13、1ヨハネ1:7、1コリント15:3参照)。

そのようなわけで、地上で奉仕しておられた間、キリストは、祭司であり、同時に、ささげものであられました。十字架の死は、キリストの祭司の働きの一部でした。ゴルゴダで犠牲をおささげになったのち、キリストの祭司的執成しは、天の聖所にその中心を置くこととなりました。

2天におけるキリストの祭司職

イエスは、地上で開始された祭司の働きを、天において完了されます。イエスが地上で神の苦難の僕として味わわれた屈辱は、天におけるわたしたちの大祭司としての資格をイエスに与えました(ヘブル2:17,18、4:15、5:2)。預言は、メシヤが、神のみ座に座す祭司であるべきであったことを示しています(ゼカリヤ6:13)。はずかしめられたキリストは、よみがえられたのち、高くされました。今や、わたしたちの大祭司は、「天にあって大能者の御座の右に座し」、そこにある聖所で働いておられます(ヘブル8:1,2、同1:3、9:24参照)。

キリストは、昇天後直ちに、執成しの働きを始められました。神殿の聖所から立ちのぼる香の煙は、キリストのいさおし、祈り、義を示します。それは、わたしたちの礼拝や祈りを神に受けいれられうるものとします。香は、燔祭の壇からとられた燃えさしの上にだけささげられることができました。そのことは、執成しと祭壇の上のあがないの犠牲との間の密接な結びつきを示しています。キリストの執成しの働きは、キリストによってなしとげられた犠牲的贖罪のいさおしに土台をもっています。

キリストの執成しは、その民に励ましを与えます。キリストは、「いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができる」(ヘブル7:25)のです。キリストがその民のために執成しされるので、サタンの告発はことごとくその法的根拠を失っています(1ヨハネ2:1、ゼカリヤ3:1参照)。パウロは、修辞的に「だれが、わたしたちを罪に定めるのか」と問い、それに答えて、キリストご自身が神の右でわたしたちのために執成しておられるという保証を与えました(ローマ8:34)。キリストは、仲保者としてのご自分の役割を肯定し、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」(ヨハネ16:23)と言われました。

王キリスト

神は、「その玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはすべての物を統べ治め」(詩篇103:19)ます。神のみ子が、三位の神の一人として、全宇宙におよぶこの聖なる統治に参加しておられることは、自明のことです。

神また人であられるキリストは、主また救い主としてキリストを受けいれてきた者たちの上に、王としての権威を行使されます。聖書は、「あなたの位は永遠にかぎりなく続き、あなたの王のつえは公平のつえである」(詩篇45:6、ヘブル1:8,9)と述べています。

キリストの王国は、戦わずに建てられたものではありません。なぜなら、「地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者〔メシヤ〕とに逆ら」(詩篇2:1)うからです。しかし、かれらの陰謀は失敗します。神は、「わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた」(詩篇2:6)とのみことのりによって、メシヤを神のみ座の上に立てられます。神は、次のように宣言されました。「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ」(詩篇2:7、ヘブル1:5)。ダビデの位を占めるはずの王の名は、「主はわれわれの正義」(エレミヤ23:5,6)です。キリストの統治は無類のものです。なぜなら、キリストは天のみ座に座して、祭司および王としての役目を果されるからです(ゼカリヤ6:13)。

天使ガブリエルは、マリヤに、イエスはかのメシヤとして世を治められる方であると宣言して、次のように言いました。「彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」(ルカ1:33)。イエスの王権は、イエスの二つの王国を象徴する二つのみ座によって描かれています。「恵みの御座」(ヘブル4:16)は、恵みの王国を示し、「栄光の座」(マタイ25:31)は、栄光の王国を意味します。

1恵みの王国

恵みの王国は、最初の人間が罪を犯した直後に設けられました。それは、神の約束によって存在しました。人々は、信仰をとおしてその市民となることができました。しかし、キリストがなくなられるまでは、それは完全には確立されませんでした。キリストが十字架上で「すべてが終った」と叫ばれたとき、あがないの計画の要求はみたされ、新しい契約が批准されました(ヘブル9:15-18参照)。

「時は満ちた、神の国は近づいた」(マルコ1:15)というイエスの宣言は、その死によって間もなく建てられることになっていた恵みの王国に直接言及するものでした。創造にではなくて、あがないのわざに基づいて建てられたこの王国は、その民を新生(新しい誕生)をとおして受けいれます。イエスは、「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」(ヨハネ3:5、同3:3参照)と定められました。その発達を、イエスは、からし種の驚異的な成長と、酵母菌の粉に及ぼす影響とにたとえられました(マルコ4:22-31、マタイ13:33)。

恵みの王国は、外からは見えませんが、信じる者たちの心におよぼす結果によって、それとわかります。イエスは、この王国は、「見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20,21)と教えられました。それは、この世の王国ではなく、真理の王国であると言われました。「わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」(ヨハネ18:37)。パウロは、この王国は、「義と、平和と、聖霊における喜び」からなるキリストの国であり、信じる者たちはそこへ移されていると述べています(ローマ14:17、コロサイ1:13)。

この王国の建設は、非常に苦しい経験であり、そのことは、栄冠が苦難なしには得られないことを示しました。公生涯の最後に、メシヤであられた神人イエスは、ダビデの位の正当な継承者として、エルサレムにおいでになりました。イエスは、王が入場する際のユダヤの慣習にならってロバに乗り(ゼカリヤ9:9)、心からあふれ出た人々の熱烈な支持表明を受けいれられました。イエスが、王都へ勝利の入場をしておられる問、「群衆のうち多くの者」は、その衣を敷いて王のために道を作り、しゅろの枝を切りおとして、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ」と叫びました(マタイ21:8,9)、ゼカリヤの預言は、こうして成就しました。今やキリストは、ご自分をメシヤなる王としてあらわされました。

王であるというイエスの主張は、不幸にも拒否されました。「罪のない者」に対するサタンの憎しみは、極点に達しました。わずか半日の間に、信仰の擁護者であるはずのサンヒドリンは、ひそかにイエスを逮捕し、裁判にかけ、死刑を宣告してしまいました。

裁判がなされている間に、ご自分が神の子であり、神の民の王であることを、イエスは公衆の前で宣言されました(ルカ23:3、ヨハネ18:33-37)。その主張に対する答えとして、イエスは、人々のあざけりの中で王衣をまとわされ、冠をかぶらされましたが、それは、金の冠ではなくいばらの冠でした(ヨハネ19:2)。イエスを王として受けいれたというのは、まったくのいつわりでした。さんざんうちたたいたのち、兵士たちは嘲笑して、「ユダヤ人の王、ばんざい」(ヨハネ19:3)と叫びました。ローマの総督ピラトは、イエスを人々に紹介して、「見よ、これがあなたがたの王だ」(ヨハネ9:14)と言いました。ユダヤ人は、異口同音にイエスを拒み、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」(ヨハネ19:15)と叫びました。

キリストは、はなはだしい屈辱(十字架上の死)をとおして恵みの王国を建設されました。しかしその屈辱は、その後間もなく、キリストが高められることで終りました。昇天と同時に、キリストは天において、祭司また王として即位し、父のみ座にあずかられました(詩篇2:7,8、ヘブル1:3-5、ピリピ2:9-11、エペソ1:20-23参照)。この即位の式は、神の聖なるみ子イエスに、これまでになかったどのような力をも与えるものではありませんでした。しかし、神であり人であられる仲保者イエスの人間性は、今やはじめて天の栄光と力とにあずかったのでした。

2栄光の王国

栄光の王国は、変貌の山で示されました。キリストはそこで、栄光の中にご自身を現されました。「その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」(マタイ17:2)。モーセとエリヤは、あがなわれた者たちを代表しました。すなわち、モーセはキリストにあって死んだ者たちを意味し、エリヤは再臨のときに死なずに天にたずさえあげられる信徒を意味しました。

栄光の王国は、キリストが再びおいでになるときに、激変的な事件をともなって建設されます(マタイ24:27,30,31、25:31,32)。さばきが終り、天における人の子の仲保の働きが終了すると、それに続いて、「日の老いたる者」(父なる神)がキリストに「主権と栄光と国」とをお与えになります(ダニエル7:9,10,14)。そのとき、「国と主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられ」(ダニエル7:27)るのです。

栄光の王国は、最終的には千年期の終りになって地上に建設されます。そのとき、新しいエルサレムが天から降りてきます(黙示録20,21章)。イエス・キリストを救い主として受入れることによって、わたしたちは、今は恵みの王国の市民となることができ、イエスが再臨されるときには栄光の王国の市民となることができます。わたしたちの前には、無限の可能性を持つ生命がおかれています。キリストが提供される生命は、失敗だらけの希望も夢も達成されない生命ではなく、成長する生命であり、キリストと共に幸運な歩みを続ける生命です。それはまた、イエスが生涯をイエスにゆだねたすべての者との間に持たれる関係の結実である真の愛、喜び、平和、忍耐、親切、善良、忠実、温順、自己抑制が、ますます発揮される生命です(ガラテヤ5:22,23)。このような賜物を、いったいだれが拒むことができるでしょうか。

訳注

  1. 口語訳では、NKJVで“a Man”と訳されているところが、「この」と訳されています。
  2. 口語訳では、NKJVで“the angels”と訳されているところが、「神」と訳されています。
  3. 口語訳では、この「神」が「キリスト」と訳されています。
  4. 口語訳では、ここが「わたしたちの神と救主イエス・キリスト」となっています。

[1]70週の預言については、フランク・B・ホルブルック(編)、『70週、レビ記、預言の性格』(70 Weeks, Leviticus,and the Nature of Prophecy,ed.,Frank B.Holbrook(Washington,D.C.:Biblical Research Institute, General Conference of Seventh-day Adventists,1986))3-127ページ参照。

[2]「一日一年則」については、ウィリアム・H・シェー『預言の解釈に関する抜粋的研究』(Wiliam H.Shea,Selected Studies on Prophetic Interpretation(Washington,D.C.:Review and Herald,1982))56-93ページ参照。

[3]アルタクセルクセスの統治年代は、オリンピック暦、プトレマイオスの正典、エレファンティン・パピルス、バビロニヤ楔形文字文書によって確定されています。

[4]C:マーヴィン・マクスウェル『神はかえりみられる』(C.Mervyn Maxwell,God Cares(Mountain View, CA:Pacific Press,1981))第一巻、216-218ページも参照。

[5]グリーゾン・L・アーチャー『聖書の難点に関する百科事典』(Gleason L.Archer,Encyclopedia of Bible Difficulties(Grand Rapids,MI:Zondervan,1982))291ページ。

[6]ホワイト『各時代の希望』、中巻(福音社、1965年)、345,346ページ。

[7]聖書が、イエスを「ひとり子」や「長子」と言い、またそのお生れになった日について述べているのは、イエスの神性や永遠性を否定しているのではありません。「ひとり子」(ヨハネ1:14、1:18、3:16、1ヨハネ4:9)という語は、ギリシャ語のモノゲネスからきたものです。聖書で用いられるモノゲネスは、「唯一の」とか「無類の」を意味しますが、それは、時間的経過の中のできごととしての唯一性や無類性ではなく、特別な関係としてのそれを意味します。たとえば、イサクはアブラハムの「ひとり子」と呼ばれていますが、かれはアブラハムのひとり子ではありませんでしたし、最初に生れた子でさえもありませんでした(創世記16:16、21:1-21、25:1-6)。イサクは、アブラハムの一族中、あらかじめその後継者と定められた唯一無二の子でした。「先在の神、聖なる創造の言であられるイエス・キリストは、受肉されたとき、特別な意味で神の子となられました。かれが、『モノゲネス』とお呼ばれになるのはそのためです。かれは、その存在と生命の全局面において、神の唯一の同族であられ、他に比べうるもののない方でした。人類のだれ一人として、これほどの高密度なあり方をしたことはありませんし、神に対してこれほどに特別な関係をもったこともなく、また神のためにこれほどに真実な働きをしたこともありません。結局、『モノゲネス』は、三位の神の父なる神と子なるイエス・キリストの間の関係を示しています。救いの計画とのかかわりにおいては、これは神人両性を兼具されるキリストのパーソナリティーに属する関係です」(聖書翻訳の問題委員会、『聖書翻訳の問題』(Committee on Problems in Bible Translation,Problems in Bible Translation(Washington,D.C.:Review and Herald,1954))202ページ)。同じように、キリストが「長子」(ヘブル1:6、ローマ8:29、コロサイ1:15,18、黙示録1:5)とお呼ばれになるとき、その語は、時のある点をさしているのではなく、むしろ、重要性あるいは優先性を強調しています(ヘブル12:23参照)。ヘブルの文化では、長子は一族の諸特権を与えられました。同様にイエスは、人々の間の長子として、人間が失ったいっさいの特権をとりもどされました。イエスは、新しいアダム、新しい「長子」、人類の頭となられました。聖書が、イエスのお生れになった日に言及するのは、ひとり子や長子と同じ概念に基づいています。その脈絡から見て、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ」(詩篇2:7)というメシヤ預言は、イエスの受肉(ヘブル1:6)、復活(使徒13:33、同13:30参照)、即位(ヘブル1:3,5)について述べています。

[8]付加的証拠が、ギリシャ語文法の規則の中に見られます。⑴「主」の無冠詞用法(定冠詞なしの用法)。七十人訳聖書は、YHWHに無冠詞のクリオスをあてています。無冠詞のクリオスは、新約聖書では、非常にしばしば神をさして用いられます(例えば、マタイ7:21、8:2,6,25)。⑵一つの冠詞が二つの名詞を限定します。こうして、たとえば、キリストは、次の二つの節、「大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエス」(テトス2:13)と、「神であられ、また、わたしたちの救主であられるイエス・キリスト」【訳注4】(2ペテロ1:1、KJV)で、神として描かれます。⑶二つの名詞があって、第二の方が冠詞なしの属格であるときは、どちらの名詞にとっても、一方の特質は他方に帰せられます。こうして、ローマ人への手紙1章17,18節が、「神の義」と「神の怒り」について述べたと同じ方法で、イエスは「神の子」(ルカ1:35)と描写されます。

[9]ホワイト、「真の羊は羊飼の声に答える」(White,“The True Sheep Respond to the Voice of the Shepherd,” Signs of the Times,Nov.27,1893)54ページ。

[10]ホワイト、『人類のあけぼの』、上巻(福音社、1971年)、2ページ。

[11]これらの表現は、イエスが人類とひとつであられることを示すために、セブンスデー・アドベンチストの著者たちにとってしばしば用いられてきました。しかし、それらは、いかなる意味においてもイエスが罪深い方であったことを示すものではありません。歴史を通じて、教会の公式の立場は、主イエス・キリストの絶対の無罪性を支持することにありました。

[12]キリストは、同時代の人々と「同じ精神的肉体的感受性」をそなえておられました(ホワイト「旅の覚え書き」『アドベンチスト・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』(White,“Notes of Travel”,Advent Review and Sabbath Herald)、1885年2月10日号、81ページ)。その人間性は、「肉体的力や知的能力、道徳的価値」において弱められてはいても、道徳的には堕落しておらず、全体として罪がありませんでした(ホワイト「すべての点でわたしたちと同じく試みられた」『サインズ』(White,“In All Points,Tempted Like As We Are”,Signs,Dec.3,1902)、2ページ、ホワイト『各時代の希望』、上巻(福音社、1963年)、35ページ)。

[13]C.P.マッキルヴェイン(編)、『ヘンリー・メルヴィルの説教』(Sermons by Henry Melvill,B.D.,ed.,C.P.McIlvaine(New York,N.Y.:Stanford & Swords,1844))47ページで、ヘンリー・メルヴィルは、飢えや苦痛や悲しみなどを示すために、「罪のない弱さ」(“innocent infirmities”)という語を用いました。キリストの堕落前性質(pre-Fall nature)と堕落後性質(post-Fall nature)に関するこの考えを、かれは「正統的教理」(同)と呼びました。

[14]ホワイト書簡8(White,Lette,8,1895)。これは、フランシス:D:ニコル(編)、『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』改訂版(The Seventh-day Adventist Bible Commentary,ed.,Francis D.Nichol,rev.ed. (Washington,D.C.:Review and Herald,1980))第5巻、1128,1129ページに採録されています。『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDABibleCommentary)改訂版、第7巻、426ページ参照。

[15]ホワイト「ゲッセマネで」(White,“In Gethsemene,”Signs,Dec.9,1987)3ページ、および、ホワイト『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(White,SDA Bible Commentary)改訂版、第7巻、927ページ参照。

[16]ブルーク・F・ウェスコット『ヘブル人への手紙』(Brooke F.Wescott,The Epistle to the Hebrews(Grand Rapids,MI:Wm.B.Eerdmans,1950))59ページ。

[17]F・F・ブルース『ヘブル人への手紙注解』(F.F.Bruce,Commentary on the Epistle to the Hebrews(Grand Rapids,MI:B.Wm.Eerdmans,1972))85,86ページ。

[18]ホワイト「キリストの誘惑」『レビュー・アンド・ヘラルド』(White,“The Temptation of Christ,”Review and Herald,April 1,1875)3ぺージ。

[19]フィリップ・シャフ『人間キリスト』(Philip Schaff,The Person of Christ(New York,NY:Georgqe H.Doran,1913))35,36ぺージ。

[20]カール・ウルマン『イエスの無罪性に関する弁証的考察』(Karl Ullmann,An Apologctic View of the Sinless Charactor of Jesus,The Biblical Cabinet;or Hermeneutical Exegetical,and Philological Library(Edinburgh, Thomas Clark,1842))第37巻、11ページ。

[21]ホワイト「ゲッセマネで」『サインズ』(White,“In Gethsemane,”Signs,Dec.9,1897)335ページ参照。

[22]ホワイト書簡8(White, Letter8,1895)、『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、第5巻、1128,1129ページ。E・G・ホワイトの時代には、性向(propensity)について、以下の定義が用いられていました。ラテン語のプロペンススに起源するこの語は、「自然の傾向(inclination)、バイアス、性癖(bent)」『ウェブスター・カレッジエート・ディクショナリー』第3版(Webster’s Collegiate Dictionary,3rded.,(Springfied,MA:G.&C.MerriamCo.,1916))と定義されています。『ナッタル英語標準辞典』(Nuttall’s Standard Dictionary of the English Language(Boston,MA;De Wolfe,Fiske & Co.,1886))参照。ウェブスター大辞典は、それを「しがちな素質(quality)または状態(道徳的感覚における傾き)、自然の傾向(inclination)、善または悪を行う気質(disposition)、バイアス、性癖(bent)、かたより(tendency)」(『ウェブスター・インターナショナル英語辞典』(Webster’s International Dictionary of the English Language(Springfied,MA;G.&C.Merriam & Co.,1890))と定義しています。E・G・ホワイトが好んだ著者の一人ヘンリー・メルヴィルは、次のように述べています。「しかし、彼は、罪のない弱さを持った人間性をとられましたが、それを罪の性向(propensity)とともにとられたのではありませんでした。神がそこに介入されました。聖霊は、おとめを保護され、彼女に由来する弱さを容認されましたが、不正は禁じられました。また聖霊は、人間性に悲しみと苦しみを負わせられましたが、にもかかわらず、それをけがれなく清浄に保たれました。人間性に涙を負わせられましたが、よごれからは守られました。苦悩におちいりやすいものとはされましたが、罪を犯しやすいものとはされませんでした。ひき起こされた不幸とは深くかかわらせられましたが、それをひき起す原因からは無限に遠ざけられました」(メルヴィル、47ページ)。ティム・ポアリエ執筆の「エレン・ホワイトのキリスト論と彼女が用いた文献資料のキリスト論の比較」Tim Poirier,“A Comparison of the Christology of Ellen White and Her literary Sources”(Unpublished MS, Ellen G. White Estate,Inc., General Conference of Seventh-day Adventists,Washington,D.C.20012))参照。

[23]ホワイト「キリストの誘惑」『レビュー・アンド・ヘラルド』(White,“Temptation of Christ,”Review and Herald,Oct.13,1874)1ページ。『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、第7巻、904ページ参照。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

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