【レビ記】あがないの暦【23章解説】#7

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慰めの時

主は十戒の道徳律および礼典律で、霊的記憶を新たにし、再献身するための聖なる時期を備えられました。型としての祭りとその年ごとの安息日はもはや守られなくなりましたが、第7日目安息日はクリスチャンに対して毎週、創造主とあがない主を思い起こさせるものです。

イスラエルのための特別な礼拝の時

主はシナイでイスラエルを一つの国家として組織されたとき、彼らに安息日をゆだねられたばかりでなく、過去における神の救いのわざを記憶にとどめさせるために、儀式制度における数々の宗教的な日を定められました。これらの儀式は来るべきメシヤによる神の最終的な救いを予表するものでした。

毎月の第1日に祝われる新月の祭り(民数記10:10、28:11)に加えて、主は過越の祭りと、それと共に行われる種入れぬパンの祭を定められました。その50日後には、ペンテコステの祭りが祝われました。過越の祭りはその年の「宗教」暦の始まりとなりました。これら三つの祭りが春の型となっていました。

春の祭り、あるいは年初めの祭りについて、エレン・ホワイトは次のように記しています。「こうした型は、そのできごとだけでなくて、その時に関しても成就した」(『各時代の大争闘』下巻106ページ)。秋、あるいは「終わり」の時期に祝われた祭りに関しても、次のように記されています。「これと同様に、再臨に関連した型も、象徴的奉仕のなかで指示されたその時期に成就しなければならない」(『各時代の大争闘』下巻106ページ)。

秋の型はその年の7月に来ました。7月1日に祝われたラッパの祭り(ロシュ・ハシャナー)は一般暦の始まりとなりました。重要な贖罪の日はこの10日後に当たっていました。同じ月の15日に始まり、8日間つづく仮庵の祭りは、年ごとの祭りのしめくくりでした。

年ごとの、あるいは儀式的な7回の安息日もまた、春および秋の祭りに関連して守られました。種入れぬパンの祭りの最初と最後の日、それにペンテコステの日は、春の儀式的安息日でした。また、ラッパの祭りの日、贖罪の日、それに仮庵の祭りの最初と最後の日が秋の型の儀式的安息日でした。

第7日目安息日(レビ記23:2、3)

質問1

儀式的な祭りとそれにともなう聖日を定める前に、主は第7日目安息日について改めて何と言われましたか。「聖会」とは何ですか。このことから、イスラエルの安息日順守についてどんなことがわかりますか。レビ記23:2、3(出エジプト記20:8~11、ルカ4:16比較)

質問2

週ことの安息日がイエスの死後さらに再臨にいたるまで重要な意味を持ち続けることについて、イエスは何と言われましたか。マタイ24:15~20

「安息日をつくられたおかたは、それを廃してご自分の十字架につけるようなことをされなかった。安息日はキリストの死によって無効とされなかった。キリストが十字架につけられてから40年のちにも、それは依然として聖なるものとみなされるのであった。弟子たちは逃げることが安息日に起こらないように、40年の間祈るのであった」(『各時代の希望』下巻95ページ)。

マタイ24:15~31はダニエル書8:13、9:27のすぐれた注解となっています。「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者」(マタイ24:15)とは、ダニエル書8章の「小さい角」の権力によってなされるわざです。それは紀元70年のローマ軍によるエルサレム絞羅だけをさすのではありません。それはまた、中世の教皇制ローマの働き、さらに終わりの時の「バビロン」をさしています(黙示録13、17、18章参照)。イエスが言及されたダニエル書8章の「小さい角」の権力は、キリスト再臨のときまで滅びることがありません(ダニエル書8:25を2:44、45と比較)。

したがって、イエスが弟子たちに「荒らす憎むべき者」から逃れるように言われたとき、彼は終わりの時を予表していた紀元68~70年の状況について言及しておられたのでした。1世紀のクリスチャンはその逃避が安息日にならないように祈るべきでしたが(マタイ24:20)。これは終わりの時代のクリスチャンについても言えます。安息日は、キリスト再臨直前の時代を含むすべての時代の神の民のために定められた休みの日です。

質問3

使徒たちの行為は、キリストの死後も安息日を守ることの重要性についてどんなことを教えていますか。使徒行伝13:42、44、16:13、18:4

春の型(レビ記23:4~22)

質問4

過越はいつ祝われましたか。その直後にどんな7日間の祭りが続きましたか。レビ記23:4~6

急いで食べた最初の過越(出エジプト記12:11)は、ある意味でイスラエル国家の誕生を示していました。その重要性のために、神はこの出来事のあった月を宗教暦の初めの月とされました(出エジプト記12:2)。

質問5

この特別な食事は何を記念するものでしたか。この最初の過越の小羊の血はどうされましたか。なぜですか。小羊の肉は何と共に食べられましたか。その食物は何を表していましたか。出エジプト記12:1~17、23、27

過越が意味していた肉体的な束縛からの解放は同時に、罪の束縛からの解放という虚的な意味を持っていました。主が過越の犠牲の血によってイスラエルの長子に肉体的な救いを提供されたのと全く同様に(出エジプト記12:27)、型としてのこの特別な小羊は来たるべき神の小羊キリストのによる霊的な救いを予表していました(ヨハネ1:29)。

質問6

霊感を受けた使徒パウロは、イスラエルのあがないの暦における過越と種入れぬパンの祭りの意味について、どんな霊的な解釈をしていますか。コリント第1 5:7、8

解放の祭り

「過越の祭りは記念の祭りであると共に、また、一象徴的な祭りでもあった。それはエジプトからの解放を指示していたばかりでなく、キリストがその民を罪の束縛から自由にして成就される、さらに驚くべき解放をも表示していた。……過越の小羊はほふられるだけでは十分ではなく、その血を柱に注がなければならなかった。そのように、キリストの血といさおしは魂にも適用されなければならない。われわれは、キリストが死なれたのは世のためばかりでなく、われわれ一人びとりのためであることを信じなければならない。われわれは、贖いの犠牲の功績を自分のものとしなければならない。

肉は、食べなければならなかった。われわれは、罪がゆるされるために、キリストを信じるというだけでは、まだ十分ではない。ゎれわれはみ言葉を通して、キリストから来る霊的な力と栄養とを、信仰によって絶えず受けていなければならない。キリストは言われた。『人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたの内に命はない』。……キリストに従う者は、彼の経験にあずかる者でなければならない。彼らは神の言葉を受け入れ、消化し、それが彼らの生活と行為を動機づける力となるようにしなければならない。……キリストの精神と働きが彼の弟子たちの精神となり、働きとなるべきである」(『人類のあけぼの』上巻318、319ページ)。

質問7

過越の食事の一部として食べたエンダイプのサラダ(「苦菜」)は、イスラエル人にまた私たちに何を教えていますか。出エジプト記12:8、民数記9:11、コリント第I 5:8

「小羊は苦菜と共に食べなければならなかったが、それはエジプトでの奴隷の苦しさを示していた〔出エジプト記1:14〕。そのようにわれわれがキリストを食べるとき、われわれは心のうちで自分の犯した罪の悔い改めをしていなければならない」(『人類のあけぼの』上巻319ページ)。

「安息日の翌日」は最初の儀式的安息日の翌日、つまり一週の種入れぬパンの祭りの第1日でした。

「過越の小羊をほふることは、キリストの死の型であった。……過越の祭りのときに主の前で揺り動かす初穂の束は、キリストの復活の典型であった。……キリストは、将来復活の時に神の倉に収められる贖われた人々の、永遠の収穫の初穂である」(『各時代の大争闘』下巻105、106ページ)。

イエスの初臨を示している預言的予型は驚くべき正確さをもって成就しましたが、これは彼が過越の小羊またメシヤであることの証拠でした。彼はニサンの月の第14日に死なれましたが、このことは必然的に、彼が揺祭・初穂の日によみがえられることを示していました。

質問8

救い主は「最後の」過越のとき契約の食事によって何を確立されましたか。マタイ26:17、18、26~30

質問9

ペンテコステの祭りは種入れぬパンの祭りとどんな関係にありましたか。レビ記23:15、16、出エジプト記34:22

ペンテコステは収穫の祭りで、一般的な意味では穀物の収穫の、また特別な意味では小麦の収穫の終わりを示していました。このように、大麦の揺祭・初穂をささげる種入れぬパンの祭りは、種を入れで焼いた小麦のパンの「揺祭」と関連がありました。これは小麦の収穫の終わりのペンテコステの祭りで、主に対する感謝のささげ物としてささげられました。

質問10

主はイスラエルのすべての健全な男子に対して、この1日の祭りに何をするように要求しておられましたか。出エジプト記23:14~17(使徒行伝2:1~3比較)

礼拝を第ーとする      

「幕屋から遠方のところに住んでいた者は、毎年、1か月以上も、年ごとの祭りに列席するために費やさなければならなかった。このような神への献身の例を見るとき、宗教的礼拝の重要性……を強く感じるべきである」(『人類のあけぼの』下巻184ページ)。

ペンテコステは1日だけの祭りでした。それにもかかわらず、イスラエルのすべての男子、また可能な者はだれでも、神の聖所に来て礼拝するように求められていました。

種入れぬパンの過越の祭りとは対照的に、ペンテコステは種を入れたパンの祭りでした。大麦の初穂の束がパレスチナでの最初の大麦の収穫を祝うためにニサンの月の16日に祭坦の前で「揺り動かされた」ように、種を入れた小麦のパン2個がすべての穀物の収穫を祝うために揺り動かされました。

質問11

もしペンテコステが「収穫」を象徴するものであるなら、紀元31年に起こったどんな出来事がイエスの働きを収穫し、キリスト教会の誕生をもたらしましたか。使徒行伝2:1~12、37~47

秋の型(レビ記23:23~44)

質問12

一般の暦はどんな祭りによって始まりましたか。この祭りはとのように祝われましたか。レビ記23:24、25

7番目の宗教月の新月はほかの11の新月と異なり、どんな労働をもしてはならない儀式的な安息日でした。しかし、それはほかの場合と同様に「聖会」であって、地域の礼拝所に出席しなければなりませんでした。

質問13

ラッパを吹き鳴らすことはすぐに続く贖罪の日とどんな関係にありましたか。レビ記23:27

律法学者はラッパの祭りと贖罪の日とのあいだの期間を「悔い改めの10日間」と呼んでいました。昔の神の民にとって、これらの日々は「さばき」に備える機会でした。このさばきはあがないの日に下されると信じられていました。

このラッパの音には、「贖罪の日が近づいた!注意せよ!ラッパの音に耳を傾けよ!」といった意味がありました。ウイリアム・ミラーらによって発せられた全世界的な特別なメッセージは、1844年に始まる再臨前のさばきに対して世の人々を備えさせるものでした。このメッセージはイエスの再臨に対する霊的備えの必要性を強調していました。終わりの時代には、福音のラッパが警告と訴えの「確かな」音を全世界に鳴り響かせ、彼らを天の聖所における贖罪の日に備えさせなければなりません。

質問14

農業年の最後の祭りはどのような名で呼ばれていましたか。この祭りは人々の心に何を強調していましたか。レビ記23:24、39~44、出エジプト記23:16、34:22

仮庵の祭りはその年のすべての穀物の収穫を喜びと平和をもって祝うものでした。イスラエルの最後の巡礼におけるこの一週のあいだ、神の民は荒野での放浪を記念して聖所やエルサレムの神殿のまわりに木の枝で造った仮小屋やテントの中で生活しました。この行為は地上での魂の最後の「収穫」と新エルサレムの父なる神の家にある「多くの住まい」で実現する喜ばしい帰郷を象徴していました(民数記29:12~29、申命記16:13~17、ネヘミヤ記8:14~18参照)。

喜びの理由

「イスラエルの人々は、神が彼らをあわれんでエジプトの奴隷から解放し、荒野を旅していたときも、情け深くお守りになったことを思い出して、仮庵の祭りのときに神を賛美した。彼らは、また、終わったばかりの贖罪の日の儀式によって、許され、受け入れられたことを自覚して喜んだ。しかし、主に贖われた者が、天のカナンに無事集められ、『被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている』のろいから永遠に解放されるときに、彼らは、言葉で言い表わせない喜びを味わい、栄光に満たされるのである(ローマ8:22)。人類のためのキリストの贖罪の働きはそのときに終わるし、彼らの罪は、永久に消し去られるのである」(『人類のあけぼの』下巻185ページ)。

まとめ

週ごとの安息日とレビ人の儀式における祭りは、イスラエルに神を覚えさせるためのものでした。年ごとの祭りは、カルバリーから再臨にいたるまでのキリストの働きを示していました。

*本記事は、安息日学校ガイド1989年1期『レビ記と生活』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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