【レビ記】清めと健康【解説】#9

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この記事のテーマ

神のかたちを反映する

レビ記は聖潔と清めについて教えています。それらはクリスチャンの健康と幸福に関係があります。罪は人類家族を堕落させました。しかし、神は救いの計画によって悔い改めた罪人のうちに創造主のかたちを回復してくださいます。

聖なる神と調和する

レビ記の教えは今回の暗唱聖句に要約されています。「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(レビ記19:2)。同じような表現がレビ記のほかの箇所にも出てきます(レビ記11:44、45、20:26)。主は聖なるおかたです。「主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である」(申命記32:4)。「あなたがたを聖とする主、すなわち、わたしは聖なる者だからである」(レビ記21:8)。神は無限に清いおかたです。ですから、ご自分の民を罪から救い、罪のすべての結果から清めようと望んでおられます。聖書の宗教は神についての教理以上のものです。それは人間の生き方にかかわるものです。それは、私たちをあがなってくださった神のために、神のみことばの原則に従って生きることです。

「聖潔は忘我の境地ではない。それは意志を全く神に従わすことである。それは神のみ口から出る一つ一つのことばで生きることであり、天の父なる神のみこころをなすことである。光のうちにいるときと同様に、試練のときにも暗黒のときにも神により頼むことである。また、目で見て歩くのでなく、信仰によって歩むことである。それは少しも疑わずに確信をもって神に頼み、神の愛に安らぐことである」(「患難から栄光へ』上巻47ページ)。

神の民の肉体的な健康は、レビ記に描かれている清められた生き方の一面です。聖なる神は、ご自分の民も聖で、幸福な者となるように望んでおられます。聖書の宗教はいつでも神の民の健康と幸福を増進させるものです。神が古代イスラエルに与えられた宗教的教えは、彼らの精神的・肉体的健康に影響を及ぼしました。

清めと食物(レビ記3:17)

ィスラエルがエジプトから出たとき、主は、彼らが主に従い、その戒めとおきてとを守るなら、彼らを肉体的に祝福すると約束されました。「わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」(出エジプト記15:26)。レビ記は健康問題を直接的には扱っていませんが(らい病をのぞく)、現代科学に照らして考えるとき、神から与えられた宗教的指針は民の全般的健康を増進させるうえで役立っています。

質問1

動物のどの部分を食べることが厳しく禁じられていましたか。レビ記3:17、7:23~26

犠牲の動物の脂肪と血は聖所の供え物として用いられました。ほとんどの犠牲において、脂肪は祭壇の上で焼かれました。血を注ぐことによってあがないがなされました。

主は脂肪と血を儀式のために聖別することによって、ご自分の民から病気の潜在的原因を取り除かれました。血液は生命に必要な栄養物をからだの細胞に運びますが、同時に体の中の老廃物も運びます。ということは、病原菌も血液を通して全身をまわっているということです。動物の血を禁じることはイスラエルにとって祝福となるのでした。動物の脂肪を禁じることもそうでした。脂肪は現代の文明国における心臓病や血管の病気の原因の一つになっています。

喫煙と血中コレステロールの増加は、アメリカとイギリスの40歳から69歳までの人々の死因の半分を占めています。血液中のコレステロールの値が高くなると、血管が徐々につまってきます。正常な血液の流れが防けられます。心臓に血液を送っている血管がつまると、心臓発作か起こります。食事と体内代謝は人の血中コレステロールを決める要素です。

現代の科学者によると、血管にコレステロールがたまるおもな原因は、動物の肉や乳製品に含まれる飽和脂肪であると言われています。神はイスラエル人の食物から動物の脂肪と血を除くことによって、ご自分の民を潜在的な病気の原因から守られたのでした。

質問2 

イスラエル人の食べることのできる魚と動物はどんな特徴を持ったものに限られていましたか。レビ記11:1~12

質問3 

食物としてふさわしくない鳥はどんな種類のものでしたか。レビ記11:13~23

質問4 

ほかにどんな生き物がとくに禁じられていましたか。レビ記11:29、30

質問5 

神は「清い」、「汚れた」という言葉によって何を意味されたのでしょうか。神はなぜ食物を規制されたのでしょうか。レビ記11:47、20:25、26

多くのクリスチャンは、「清浄」と「不浄」の区別はもはや意味を持たないと考えています。それは単なる儀式上の律法であって、ユダヤの儀式制度がその対型と出会ったときに機能を停止した、と彼らは主張します。

※対型一予型(実体を示す型)が示していた実体

質問6 

人類家族が創造されたとき最初に与えられた食物は何でしたか。彼らの堕落後、食物はとのように変わりましたか。創世記1:29、3:18

質問7 

神の次善の策としての清い動物の肉が初めて許されたのはいつでしたか。創世記9:3、4

清い動物と汚れた動物の区別がモーセから始まったものでないことは、創世記から明らかです。この区別はおそらく、堕落後、犠牲制度が制定されたときから始まったものと思われます。なぜなら、「清い」動物だけが犠牲として用いられているからです(創世記8.20)。洪水後、肉食が許されると、神は当然ながらそれを「清い」動物だけに限定されました。

科学的になぜ、ある動物が「清く」、ある動物が「汚れている」のかはわかりません。この区別はただ、ある種の肉が食物に適しており、ある種の肉が不適当であることを意味しているだけです。

「清い」肉を食べ、「汚れた」肉を食べないということは何かを予表していたわけではありません。それはノアに与えられた健康上の指針だったようです。同じ理由から、それは今日もなお価値を持つものです。

現在も生きている原則

「ある家族から招待され、食事の祈りをささげるように求められたときのアダム・クラーク博士の話が伝えられている。その日のおもなメニューは豚肉の料理だった。彼は次のような祈りをささげたと言われている。『神よ、もしあなたが古い契約のもとでのろわれたものを新しい契約のもとで祝福することがおできになるなら、どうぞこの食物を祝福してください』。清い動物と汚れた動物の区別はモーセから始まったものではない。それは洪水以前からあった。この区別が廃止されたと信じる理由は全くない。たとえ現在はその科学的理由がわからなくても、これも神のみこころの明白な表現の一つなのである」(フランク・L・マーシ『特殊創造説の研究』388ページ)。

質問8

クリスチャンは聖書のどんな原則によって、可能なかぎり良い食物をとるように教えられていますか。コリント第I  6:19、20、10:31

肉食の影響

「私たちは取るべき食物に関して厳密な指針を定めてはいない。しかし、果物、穀物、ナッツ類が豊かにある国々においては、肉食は神の民にとってふさわしい食物ではない。肉食は人の性質を動物的にし、すべての人に対して抱くべき愛と同情心を奪い、低い欲情に高い能力を支配させる傾向があることを、私は教えられた。肉食が過去に健康的であったとしても、今はもう安全ではない。がん、はれもの、肺疾患は大部分、肉食によって起きる。私たちは肉食を教会員となるためのテストとすべきではないが、肉食をする信者が他人に及ぼす影響については考慮すべきである。私たちは神の使者として人々に次のように言うのである。『だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである』」(『教会へのあかし』第9巻159ページ)。

清めと清潔(レビ記15:31~33)

レビ記15:31~33を見ると、神が儀式上の汚れの除去に厳格であられたことがわかります。汚れを重大視することは道徳的な罪の重大さを強調するためでした。多くの場合、儀式的な清めには、病気の流行を予防する効果がありました。

質問9

動物の死体や死人にふれた者はどうしなければなりませんでしたか。レビ記11:24、25、民数記19:14~16

質問10

他人の汚れによって汚れた者はどうしなければなりませんでしたか。レビ記15:5~12

病原菌や伝染病についての現代の知識からすれば、神の指導は十分に根拠のあるものでした。イスラエル人は宗教的な理由から自分のからだと衣服を洗い、「夕まで汚れ」ましたが、からだと衣服を洗うことは病気の流行を予防するうえで役に立ちました。

1847年には、世界で6人のうち1人が産科病棟で亡くなっていました。ウィーンのイグナツ・ゼメルバイス博士は、自分の病院の医師と医学生が24時間以内に死亡した婦人を解剖していることに気づきました。彼らは手を洗わないで、ひきつづき生きた女性の骨盤検査をしていました。その場合、患者は病気になり、死んでいきました。この年の4月には、57人の女性が彼の病棟で亡くなりました。このとき、ゼメルバイス博士は教師と学生に対して、患者を診察する前に必ず手を洗うことを義務づけました。その結果、6月には42人のうちの1人が、7月には84人のうちの1人が死亡しただけでした。恐ろしい伝染病が死者から生きている人に移っていたのでした。(S・I・マクミラン『これらの病の一つも』12~15ページ参照)。

質問11

祭司はどんな手順に従ってらい病などの皮膚病の疑いのあるイスラエル人を扱いましたか。レビ記13:4、5、21、26、45、46

伝染病の疑いのある人は「隔離」されました。これは一時的なものでしたが、らい病であることがはっきりしている人は自分の家庭と社会から永久に隔離されました。

質問12

イスラエルの男子の割礼は、神の契約への忠誠を示す外面的なしるしでした。それは生後何日目に施されましたか。レビ記12:3

小児科の医学研究誌『ホルト・ペディアトリックス』(1953年)によれば、生後2日から5日の幼児は出血に敏感です。これは、生後5日から7日までは、重要な血液凝固因子であるビタミンKが子供の腸管で十分に形成されないためと考えられています。正常な凝血に必要な第二の因子であるプロトロンビンが最高値に達するのは8日目においてです。したがって、医学的に言えば、生後8日目が割礼を施すうえで最良の日ということになります。(S・ I・マクミラン『これらの病の一つも』19~21ページ参照)。

神はご自分の民に健康の原則について教えられました。私は今日、この戒めに従うべきでしょうか。

清めと精神街生(レビ記19:11~18)

自己中心、怒り、復讐心といった否定的な感情は健康に有害です。しかし、親切、好意といった積極的な態度は幸福をもたらします。親切にふるまうということは、天の父なる神のようにふるまうということです。(マタイ5:45)。

レビ記19:11~18を読み、次の質問に答えてください。

ここに4つの戒めが記されています。

(1).11、12節、(2).13、14節、(3).15、16節、(4).17、18節。

  1. それぞれの戒めはどんな言葉によって結ばれていますか。それは何を意味しますか。それは今回の暗唱聖句(レビ記19:2)とどんな関係がありますか。
  2. それぞれの戒めはイスラエル人に、他人に対してどんな積極的で同惰にみちた態度をとるように教えていますか。

質問13

イエスはどんな目的のためにレビ記のこの部分を引用しておられますか(レビ記19:17、18)。使徒パウロもこの教えをとのように用いていますか。マタイ22:34~40、ローマ13:8~10

愛の原則

「十戒のはじめの四つは、『心をつくして主なるあなたの神を愛せよ』という一つの大きな戒めに要約される。あとの六つは、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というもう一つの戒めに含まれる。これらの戒めは二つとも、愛の原則の表現である。第二の戒めを破りながら第一の戒めを守ることはできないし、また第一の戒めを破りながら第二の戒めを守ることもできない。神が心の王座に正当な座を占められるときに、正当な場所かわれわれの隣人に与えられる。われわれは自分自身と同じように神を愛するようになる。こうして神を最高に愛するときにのみ、隣人を公平に愛することができるのである」(『各時代の希望』下巻57ページ)。

質問14

人々の利己心を弱め、同情と寛容の精神を増大するためにどんな農業に関する律法が与えられましたか。レビ記19:9、10、23:22、申命記24:19~22

質問15

貧しい人々に物や金を貸す場合、どうすることが禁止されていましたか。レビ記25:35~38

質問16

土壌を自然に回復するために、どんな民事上の規定がもうけられていましたか。また、人手に渡った土地をもとの所有者やその相続人に定期的に返還するために、どんな律法が定められていましたか。レピ記25:1~24

安息年は土地の休閑期でした。そこに自然に生じた産物は貧しい人々のものとなりました。50年ごとに訪れるヨベルの年は経済を平等化するためのものでした。この年には、以前に売買されたすべての土地がもとの所有者に返されました。神はこのようにして、ご自分の民に同情と無我の精神を教えようとされたのです。神と人とのために献身することは聖書の宗教の核心です。それは与える者を祝福します。彼は霊的、心理的、肉体的祝福を受けます。

「人は神と協力して、衰えた土地の地力を回復しなければならなかった。そのことは神の御名をたたえ、その栄光をあらわすことになるのであった。技能と熱意をもって自分の土地を管理するとき、それが豊かな恵みをもたらすように、彼らの心も神によって支配されるとき、それは神の品性を反映するものとなるのであった」(『SDA聖書注解』第1巻1112ページ、エレン・G・ホワイト注)。

まとめ

「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(レビ記19:2)。これは旧約聖書の核心です。それは新約聖書の核心でもあります。使徒ペテロもクリスチャンに対して同じことを教えています(ペテロ第I  1.16)。私たちは霊的にばかりでなく、肉体的・精神的にも神と一致しなければなりません。私たちは神の道徳的な律法ばかりでなく、神の肉体的な律法にも従うことによって、神をあがめるのです。どちらも私たちの幸福のためにあります。

*本記事は、安息日学校ガイド1989年1期『レビ記と生活』からの抜粋です。

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