聖霊なる神【アドベンチストの信仰#5】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

聖霊なる神は創造と受肉と贖いのみわざにおいて、父なる神、子なる神とともに働かれた。聖霊は、父なる神、子なる神と同様に1つの位格であられる。聖霊は聖書記者たちに霊感を与えられた。聖霊はキリストの生涯を力で満たされた。聖霊は人間を引き寄せ、その罪を指摘される。そして、それに応答する者を生れ変らせ、神のかたちへと変えられる。聖霊は父と子からつかわされて常に神の子らとともにあり、教会に霊の賜物を与え、キリストをあかしするように教会を力づけ、聖書に従って教会をあらゆる真理へと導かれる。(信仰の大要5)

イエスが十字架でなくなられたことは、弟子たちを困惑させ、苦悩でみたし、恐怖におとしいれましたが、よみがえりは、かれらの生活に輝く朝をもたらしました。神の王国は、キリストが死のかせをうち砕かれたときに、弟子たちの心の中ではじまりました。

今や火は、消すことができないほどの勢いで、かれらの魂の中で燃えさかりました。数週間前、かれらの間でみにくい障壁となっていた不和は、溶けてなくなりました。かれらは、互いに過ちを告白し、みずからをさらに大きく開いて、天に昇られた王イエスを受け入れました。

かつては離散していたこの群の一致は、毎日が祈りに費やされるにつれて強められていきました。忘れることのできないあの日、かれらが神を讃美していたときのことでした。つむじ風のとどろきのような音が、かれらの真ん中をかけ抜けていきました。あたかもかれらの心の中に燃えている火が外に現れ出たかのように、激しい炎がかれらの頭上にくだりました。聖霊がたけり狂う火のようにかれらの上にくだられました。

聖霊に満たされた弟子たちは、イエスにある愛と喜びの新しい燃えあがりをおさえることができませんでした。かれらは人々の前で、熱烈に救いのよきおとずれをのべはじめました。物音に驚いた土地の人々は、諸国から集まってきていた巡礼者たちと一緒に建物のまわりをとり囲みました。驚きと狼狽とでみたされたかれらは、純朴なガリラヤ人が神のすばらしいわざについて自分たちの言葉で力強く証しするのを聞きました。

ある人々は、「これはいったいどうしたことか」と言い、他の人々は、「あの人たちは酒に酔っているのだ」とその場をとりつくろいました。ペテロは、群衆のさわぎよりも大きな声で、「そうではない」と叫びました。

「まだ朝の九時です。あなたがたが聞きまた見たものは、よみがえられたイエス・キリストが神の右にあげられ、今わたしたちに聖霊をお与え下さったので起っていることなのです」(使徒2章)。

目次

聖霊とはどなたのことか

聖書は、聖霊が非人格的な力ではなく、人格の持主であると教えています。「聖霊とわたしたちとは……決めた」(使徒15:28)という声明は、初期の信徒たちが聖霊を人格的な存在であると見なしていたことを示しています。キリストもまた、聖霊を別個な人格の持主であると言われました。キリストはさらに、「御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」(ヨハネ16:14)とも言われました。聖書は、三位一体の神に言及しながら、聖霊を一人の人格的な存在として描いています(マタイ28:19、2コリント13:14)。

聖霊は、人格を持っておられます。聖霊は、争われます(創世記6:3)。教えられます(ルカ12:12)。罪を悟らせられます(ヨハネ16:8)。教会の果すべき役目を示されます(使徒13:2)。助け、また執成されます(ローマ8:26)。霊感を与えられます(2ペテロ1:21)。清められます(1ペテロ1:2)。これらの活動は、単なる力や影響や神の属性といったものによってなされるものではありません。人格の持主だけにできることなのです。

聖霊は真の神である

聖書は、聖霊を神と見なしています。ペテロはアナニヤに、聖霊に対してうそをつくことによって、かれは「人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」(使徒5:3,4)と言いました。イエスは、ゆるされない罪を「聖霊を汚す言葉」(マタイ12:31)であると定義し、さらに「人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」(マタイ12:32)と言われました。このことは、聖霊が神であられるときにのみ真理であることができます。

聖書は、聖霊と聖なる属性とを結びつけています。聖霊は命をお持ちです。パウロは、聖霊を「いのちの御霊」(ローマ8:2)と呼んでいます。聖霊は真理であられます。キリストは聖霊を「真理の御霊」(ヨハネ16:13)と呼ばれました。「御霊の愛」(ローマ15:30)、「神の聖霊」(エペソ4:30)といった表現は、愛や聖が聖霊の性質の一部であることを示しています。

聖霊は全能であられます。聖霊は、霊の賜物を「思いのままに……各自に」(1コリント12:11)分け与えられます。聖霊は遍在されます。聖霊は、その民と「いつまでも」(ヨハネ14:16)ともにおられます。だれも聖霊の影響の外に出ることはできません(詩篇139:7-10)。聖霊はまた全知であられます。なぜなら、「御霊はすべてのものをきわめ、「神の深みまでもきわめ」られるからであり、「神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない」からです(1コリント2:10,11)。

神の働きもまた聖霊と結びつけられています。聖霊は、創造とよみがえりのいずれにもかかわっておられます。ヨブは、「神の霊はわたしを造り、全能者の息はわたしを生かす」(ヨブ33:4)と言いました。詩篇記者は、「あなたが霊を送られると、彼らは造られる」(詩篇104:30)と言い、パウロは、「キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」(ローマ8:11)といいました。

非人格的な影響力でも造られたものでもなく、ただ遍在される人格の神だけが、聖なるキリストを人間マリヤに宿らせるという奇跡を行うことがおできになりました。ペンテコステのとき、聖霊は、喜んで受け入れるすべての者たちに神であられ人であられるイエスをお示しになりました。

バプテスマの式文(マタイ28:19)や使徒祝禱(2コリント13:14)、霊の賜物に関する記述(1コリント12:4-6)などの中で、聖霊は父と子と同等とみなされておられます。

聖霊と三位一体の神

聖霊の神は、三位の神の第三の構成員として、永遠の昔から存在されました。父と子と聖霊は、等しく自存されます。三位の神はそれぞれ同等でありながら、その間に職分上の秩序が働いています(本書第2章参照)。

聖霊の神に関する真理は、イエスをとおして知るときにもっともよく理解されます。聖霊が信ずる者たちにくだるときには、「キリストの霊」としてこられます。聖霊はご自分の信認状をたずさえ、みずからの権限でこられるのではありません。歴史上聖霊の活動は、一貫してキリストの救いの働きに集中しています。聖霊は、キリストの誕生に積極的にかかわられました(ルカ1:35)。またバプテスマのときのキリストの公の奉仕を確認されました(マタイ3:16,17)。さらにまたキリストのあがないの犠牲とよみがえりの恵みを人々にもたらされました(ローマ8:11)。

三位の神の中で、聖霊は執行者としての役割を果しておられるように思われます。父がみ子をこの世にお与えになったとき(ヨハネ3:16)、イエスは聖霊によって人間の胎にやどられました(マタイ1:18-20)。聖霊は、その計画を完成し、それを実現するためにこられました。

創造と聖霊との密接なかかわりは、聖霊が創造の場におられたことの中にみられます(創世記1:2)。生命の起源と保持は、聖霊の働きに依存しています。聖霊が去ることは死を意味します。聖書は、もし神が「その霊をご自分に取りもどし、その息をご自分にとりあつめられるならば、すべての肉は共に滅び、人はちりに帰るであろう」(ヨブ34:14,15、33:4参照)と述べています。聖霊によってなされる創造のわざは、神に向かって心を開いている者たちの中でなされる再創造のわざにも反映されています。神がその働きを個人のうちでなしとげられるのは、創造者であられる聖霊をとおしてなのです。まさに聖霊は、受肉と創造と再創造において、神のみ心を成就するためにこられます。

約束された聖霊

わたしたちは、聖霊の住いとなるように定められました(1コリント3:16参照)。アダムとエバの罪は、エデンの園と内住する聖霊から彼らを切りはなしました。その分離は長く続き、洪水前、人々の邪悪な振舞いが神に「わたしの霊はながく人の中にとどまらない」(創世記6:3)と言わせることとなりました。

旧約聖書の時代に、聖霊は特別な仕事をさせるために、ある人々を準備されました(民数記24:2、士師6:34、サムエル上10:6)。聖霊はまた、ときには人々の「うちに」宿られます(出エジプト31:3、イザヤ63:11)。真の信徒たちは、うたがいなく聖霊の臨在にいつも気づいていました。しかし、預言は、「すべての肉なる者」(ヨエル2:28)に聖霊がそそがれると告げました。そして、その聖霊の顕現のときには、新しい時代が開始されることになっていました。

この世が略奪者の手に帰している間は、聖霊の豊かなそそぎはあるべきではありませんでした。すべての肉なる者に聖霊が注がれる前に、キリストは地上の働きをなしとげ、あがないの犠牲を達成されねばなりませんでした。キリストの働きを聖霊の働きとして指し示しながら、バプテスマのヨハネは「わたしは……水でおまえたちにバプテスマを授けている」が、キリストは「聖霊……によっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」と言いました(マタイ3:11)。しかし、福音書には、イエスが聖霊のバプテスマをお授けになる場面について述べているところがありません。亡くなられるほんの数時間前に、イエスは弟子たちに、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ14:16,17)と約束されました。約束された聖霊のバプテスマは、十字架において授けられたのでしょうか。十字架の金曜日には、鳩は姿を見せず、ただやみと稲妻とが見えただけでした。

イエスが弟子たちに聖霊を吹きかけられたのは、よみがえられたあとのことでした(ヨハネ20:22)。イエスは、「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と言われました。この力は、聖霊が下って、信じる者たちがイエスの証人として地のはてまで出て行くときに与えられることになっていました(使徒1:8)。

ヨハネは、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである」(ヨハネ7:39)と言いました。聖霊がそそがれるためには、父がキリストの犠牲をお受け入れになることが必要でした。

新しい時代は、勝利の主が天のみ座につかれたときにはじめて到来しました。そのときにのみ、はじめてイエスは豊かに聖霊を送ることがおできになりました。ペテロは、イエスが「神の右に上げられ」てのち、このことが起るのを熱心に待ち続け、「心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」弟子たちに聖霊が「注がれた」(使徒1:5,14、2:33)と述べています。カルバリーから50日後のペンテコステの日に、聖霊の臨在の力をともなって、突如として新しい時代が到来しました。「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。……すると、一同は聖霊に満たされ……た」(使徒2:2-4)。

イエスの働きと聖霊の働きとは、互いにまったく依存の関係にありました。聖霊の満たしは、イエスがその働きを完了なさるまでは与えられないことになっていました。イエスもまた、聖霊によって母の胎内に宿られ(マタイ1:8-21)、聖霊によってバプテスマを受けられ(マルコ1:9,10)、聖霊によって導かれ(ルカ4:1)、聖霊をとおして奇跡を行われ(マタイ12:24-32)、聖霊をとおしてご自分をカルバリーで捧げられ(ヘブル9:14,15)、部分的には、聖霊によってよみがえられたのでした(ローマ8:11)。

イエスは、聖霊の満たしを経験された最初の人でした。聖霊を熱心に求めるすべての者に、主が喜んでそれをお与えになるとは実に驚くべき真理です。

聖霊の働き

キリストが亡くなられる前の夕べ、ご自分が間もなくこの世を去ると語られたことは、弟子たちを非常に困惑させました。イエスは直ちに、弟子たちがキリストの代理であられる聖霊をうけると保証されました。弟子たちが孤児として残されるはずはありませんでした(ヨハネ14:18)。

その働きの源泉

新約聖書は、聖霊を独特の方法で示しています。聖霊は、「イエスの御霊」(使徒16:7、NIV)「御子の霊」(ガラテヤ4:6)、「神の御霊」(ローマ8:9)、「キリストの霊」(ローマ8:9、1ペテロ1:11)、「イエス・キリストの霊」(ピリピ1:19)と呼ばれています。聖霊の働きは、イエス・キリストと父なる神のどちらに源をもっているのでしょうか。

キリストが、失われた世界に対する聖霊の働きがどこに由来するものであるかをお示しになったとき、その二つの出所を明らかにされました。まず、キリストは父に言及して、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」(ヨハネ14:16、ヨハネ15:26の「父のみもとから」参照)と言われました。聖霊のバプテスマを、キリストは「父の約束」(使徒1:4)と呼ばれました。第二に、キリストはご自分に言及して、「それ〔御霊〕をあなたがたにつかわそう」(ヨハネ16:7)と言われました。結局、聖霊は父と子の両方に由来するのです。

この世に対する聖霊の働き

わたしたちは、ただ聖霊の感化をとおしてのみ、キリストの統治権を認めることができます。パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(1コリント12:3)と言いました。

わたしたちには、「まことの光」であられるキリストが、「世に来るすべての人」【訳注1】を聖霊をとおして照らされるという保証が与えられています(ヨハネ1:9)。聖霊の働きは、「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開く」(ヨハネ16:8)ことです。

第一に、聖霊は罪、特にキリストを受け入れなかったという罪に関する深い自覚をわたしたちにもたらされます(ヨハネ16:9)。第二に、聖霊はすべての人がキリストの愛を受け入れるように強くうながされます。第三に、聖霊は罪のために暗くなっている心に悔改めと回心の必要を感じさせる強力な手段となるさばきについてわたしたちに警告されます。

わたしたちは、悔改めているときに、水と聖霊のバプテスマをとおして再生することができます(ヨハネ3:5)。新しい命がわたしたちのものになるのはそのときです。なぜなら、わたしたちは、キリストの聖霊の宿る場所となっているからです。

信じる者たちのための聖霊の使命

聖霊について述べる聖句の大多数は、神の民に対する聖霊の関係に関するものです。聖霊の清めの力は、人を従順へ導きます(1ペテロ1:2)。しかし、一定の条件を満たさなければ、だれも聖霊の永続的な臨在を経験し続けることはできません。ペテロは、絶えず服従する者に神は聖霊をお与えになると言いました(使徒5:32)[1]。こうして、信じる者たちは、聖霊にさからい、聖霊を悲しませ、聖霊を消すことについて警告されます(使徒7:51、エペソ4:30、1テサロニケ5:19)。聖霊は、信じる者たちのために何をされるのでしょうか。

1聖霊は信じる者たちを助けられる

キリストは、聖霊を「もうひとりのパラクレトス」【訳注2】(ヨハネ14:16)と呼ばれました。このギリシャ語は、「助け手」(NKJV)、「慰め手」(KJV)「相談相手」(RSV)と訳されてきました。「仲保者」、「仲裁者」、「弁護者」を意味することもあります。

聖書に述べられている他のもう一人のパラクレトスは、キリストご自身です。キリストは、父の前でわたしたちの弁護者となり、仲保者となって下さいます。「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(1ヨハネ2:1)。

キリストは、仲保者、仲裁者、助け手としてわたしたちを神に推薦され、またわたしたちに神をお現しになります。聖霊も、同じようにわたしたちをキリストに導き、キリストの恵みをわたしたちに示されます。それはなぜ聖霊が「恵みの御霊」(ヘブル10:29)と呼ばれているかを説明します。聖霊の最大の貢献の一つは、キリストのあがないの恵みを人々に適用することです(1コリント15:10、2コリント9:4、ヨハネ4:5,6参照)。

2聖霊はキリストの真理をもたらされる

キリストは、聖霊を「真理の御霊」と呼ばれました(ヨハネ14:17、15:26、16:13)。聖霊の役目は、「わたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させる」(ヨハネ14:26)ことであり、「あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる」(ヨハネ16:13)ことです。聖霊の使信は、イエス・キリストについて証しします(ヨハネ15:26)。キリストは、「それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」(ヨハネ16:13,14)と言われました。

3聖霊はキリストを臨在させられる

聖霊は、キリストについてあかしするだけでなく、キリストを臨在させられます。イエスは、「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主(聖霊、ヨハネ14:16,17)はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」(ヨハネ16:7)と言われました。

人間イエスは、人間性に妨げられてどこにでもおられるというわけにはいきませんでした。それが、イエスが去ることが益であると言われた理由でした。イエスは、聖霊をとおして、いつでもどこにでもおいでになることがおできになりました。イエスは、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ14:16,17)と言われました。また、聖霊が「あなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る」(ヨハネ14:17,18)という保証も与えられました。「聖霊はキリストの代理者であるが、人間の個性を備えておられないので、これに拘束されない。」[2]

受肉のとき、聖霊は人間マリヤにキリストの臨在をもたらされました。ペンテコステのときも、聖霊は勝利のキリストをこの世にもたらされました。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)というキリストの約束は、聖霊をとおして実現されます。この理由から、新約聖書は、旧約聖書では一度も用いられたことのない「イエス・キリストの霊」(ピリピ1:19)というタイトルを聖霊に与えています。

父と子が信じる者たちのうちに住まわれるのが聖霊をとおしてであるように(ヨハネ14:23)、信じる者たちがキリストのうちに住むことができるのも聖霊をとおしてです。

4聖霊は教会の働きを導かれる

キリストは、聖霊をとおして臨在されるので、聖霊は地上におけるキリストの真の代理者です。信仰と教理にかかわる権威の不変の中心として、聖霊が教会を導かれる方法は聖書と完全に調和しています。「プロテスタント主義のきわだった特長、すなわちそれがなければそこにはプロテスタント主義は存在しなくなるというような特長は、聖霊が、キリストの地上における真の代理者または後継者であられるということです。組織や指導者や人間の知恵にたよることは、人を神の場所におくことです。」[3]

聖霊は、使徒時代の教会の管理にも、密接なかかわりを持たれました。教会は、伝道者を選ぶにあたって、祈りと断食をとおして聖霊の指導を受けました(使徒13:1-4)。選ばれた人々は、聖霊の導きに心を開いていたということで知られた人々でした。使徒行伝は、かれらを「聖霊に満たされ」(使徒13:9、同52参照)ていたと書いています。かれらの活動は、聖霊の支配のもとにありました(使徒16:6,7)。パウロは、教会の長老たちに、かれらがその地位にあるのは聖霊によるものであることを思い起こさせました(使徒20:28)。

聖霊は、教会の一致にとって脅威となるような重大な難局を解決するにあたって、重要な役割を演じられました。事実、聖書は、最初の教会会議の決定について次のように述べています。「聖書とわたしたちとは……決めた」(使徒15:28)。

5聖霊は教会に特別な賜物を与えられる

聖霊は、神の民に特別な賜物を与えてこられました。旧約聖書の時代に、「主の霊」が人々「に臨み」、イスラエルを指導し、解放する並はずれた力(士師3:10、6:34、11:29など)と預言する能力(民数記11:17,25,26、サムエル下23:2)とをかれらに与えられました。サウルとダビデが神の民を治める者として油注ぎを受けたとき、聖霊はかれらにも臨まれました(サムエル上10:6,10、16:13)。聖霊のみたしは、ある人々にすばらしい芸術的技能を持たせました(出エジプト28:3、31:3、35:30-35)。

初代教会においても、キリストは聖霊をとおして教会に賜物を与えられました。ご自分がよしと見られるときに、聖霊は信じる者たちにこれらの霊の賜物を分け与えられました。全教会は、こうしてその恩恵に浴しました(使徒2:38、1コリント12:7-11)。聖霊は、世のすみずみまで福音を宣べ伝えるのに必要な特別な力をお与えになりました(使徒1:8、本書第16章参照)。

6聖霊は信じる者の心をみたされる

パウロがエペソで弟子たちにした「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」(使徒19:2)という質問は、信徒ならだれにとっても重大な問いかけです。

否定的な答えを耳にしたパウロがその弟子たちの上に手をおくと、かれらは聖霊のバプテスマをうけました(使徒19:6)。

この出来事は、聖霊によって呼びさまされる罪の自覚と、生活が聖霊で満たされることとは、二つの違った経験であることを示しています。

イエスは、水と霊とから生れる必要を指摘されました(ヨハネ3:5)。昇天の直前にイエスは、新しい信徒たちに「父と子と聖霊との名によって」(マタイ28:19)バプテスマを受けるようにと命じられました。ペテロは、この命令のとおりに「聖霊の賜物」はバプテスマのときに与えられると説教しました(使徒2:38)。さらにパウロは、信じる者たちに、「御霊に満たされ」(エペソ5:18)るように熱心に訴えることで、聖霊のバプテスマの重要性を強調しました(本書第14章参照)。

聖霊の満たしは、わたしたちを神のかたちにかえることによって、新しい誕生とともに始められた聖化の働きを継続します。神は、あわれみにより、「再生の洗い」と「聖霊により新たにされ」ることをとおしてわたしたちを救われました。そしてその聖霊を、「わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれ」ました(テトス3:5,6)。

「福音の奉仕を無力にするのは、聖霊の欠乏です。学問や能力や雄弁、また先天的後天的な資質のすべてに恵まれているかもしれません。しかし、神の聖霊の臨在がなければ、心は動かされることはありませんし、罪人がキリストにかちとられることもありません。他方、もしキリストに結ばれて霊の賜物をもっているなら、キリストの弟子のもっとも貧しい者やもっとも無知な者も、人の心にかたりかける力を持つことになります。神はかれらを、宇宙の最高の感化力のあふれ出る回路とされます。」[4]

聖霊は生きておられます。わたしたちのうちにキリストがもたらされるいっさいの変化は、聖霊の働きをとおして来るのです。信じる者としてわたしたちは、聖霊なしには何も達成できないことを常に知っていなければなりません(ヨハネ15:5)。

今日聖霊は、神がみ子をとおしてお与えになる愛の最大の賜物に、わたしたちの注意を向けられます。聖霊は、わたしたちが、その訴えをこばまずに、わたしたちの愛してやまない恵み深い父と和解できる唯一の道を受け入れるようにと切に願っておられます。

訳注

  1. 「世に来る」という語は、NKJVでは、「すべての人」にかかりますが、口語訳では、「まことの光」であられるイエスにかかるような語順になっています。
  2. 口語訳では、この「もうひとりの」が「別に」と訳されています。

[1]アーノルド・V・ワレンカンプ『聖霊による新生』(Arnold Wallenkam pf , New by the Spirit(MountainView,CA‥pacificPress,1978))49,50ページ参照。

[2]ホワイト『各時代の希望』、下巻(福音社、1965年)、153ページ。

[3]ルロイ・E・フルーム『慰め主の来臨』改訂版(LeRoy E. Froom, The Coming of the Comforter,rev.ed.(Washington,D.C.‥Review and Herald,1949))66,67ページ。

[4]ホワイト『教会への証』(White,Testimonies for the Church(MountainView,CA:PacificPress,1948))第8巻、21,22ページ。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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