創造【アドベンチストの信仰#6】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

神は、創造のみわざに関する確かで歴史的な記録を聖書の中に啓示された。主は、宇宙を創造し、現在の6日の間に「天地万物」を造り、第7日に休まれた。こうして神は、文字どおり6日間で成し終えた創造のみわざに絶えず心を向ける記念として、安息日を制定された。その6日間とは、われわれが現在、安息日とともに1週間と呼ぶものと同じ期間である。最初の男と女は、創造の冠として神のかたちに造られた。彼らには世界を治める主権が与えられ、世界を保護する責任が課せられた。世界が完成したとき、それは神の栄光をあらわしていて、「極めて良かった」。(信仰の大要6)

聖書の説明は単純です。神が創造の命令を発せられると、「天と地と海と、その中のすべてのもの」(出エジプト20:11)が直ちに現れました。「形なく、むなし」い状態から、完全に成長した動植物のみちあふれる豊かな惑星に変わるまで、わずか六日を要しただけでした。わたしたちの住む惑星は、透明で、きれいな明るい色と形と香気で飾られ、すばらしい風情と細部にわたる精密さと機能とをそなえていました。

そこで、神は祝い喜ぶために手をとめられ、「休まれ」ました。この六日間の美と尊厳とは、神が休まれたことによって永遠に記念されるはずでした。起源に関する聖書の説明を一べつしてみましょう。

「はじめに神は天と地とを創造され」(創世記1:1)ました。地は水とやみでおおわれていました。第一日に、神は、光とやみとを分けられ、光を「昼」、やみを「夜」と名づけられました。

第二日に、神は「水と水とを分け」て、地の上の水とおおぞらとを隔てられました。こうして、生命にもっとも適した状態が造られました。第三日に、神は水を一つ所に集めて陸と海とを分離されました。その後、神はむき出しの海岸や丘や谷をおおわれました。こうして、「地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせ」(創世記1:12)ることとなりました。

第四日に、神は「しるしのため、季節のため、日のため、年のために」、日、月、星を造られました。日は昼をつかさどり、月は夜をつかさどるものと定められました(創世記1:14-16)。

第五日に、神は鳥と海中の生物とを造られました。神は、「種類にしたがって」(創世記1:21)それを創造されました。そのことは、神が造られた生き物は、それ自身の種類に従って、再生産されることを示していました。

第六日に、神は動物の中のさらに高級な形をそなえたものを造られました。神は、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」(創世記1:24)と言われました。その後神は、最高の創造行為として、「自分のかたちに」人を造り、それを「男と女」とに創造されました(創世記1:27)。神は、お造りになったすべてのものを見られましたが、「それは、はなはだ良」(創世記1:31)いものでした。

目次

神の創造のみことば

詩篇記者は、「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」(詩篇33:6)と言いました。この創造のみことばは、どのように働いたのでしょうか。

創造のみことばと先在の素材

創世記の「神は言われた」ということばには、創造の六日間の荘厳な出来事をひき起す力にみちた神の命令が続きます(創世記1:3,6,9,11,14,20,24)。それぞれの命令には、創造の力が貯えられていて、「形なく、むなし」い惑星を、パラダイスに変えました。「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである(詩篇33:9)。「この世界が神の言葉で造られた」(ヘブル11:3)というのは真実です。

この創造のみことばは、すでに存在している素材に依存しませんでした。「信仰によって、わたしたちは、宇宙が神の命令によって形づくられ、それゆえに、見えるものは、現れているものから造られたものでなかったことを理解する」(ヘブル11:3、NIV)。神は、ときどきすでに存在していた物を用いられました(アダムと動物は土で造られ、エバはアダムのあばら骨から造られました。創世記2:7,19,22)が、すべてのものは究極的には神が造られたものでした。

創造の物語

創造に関する創世記の記述には、多くの質問が投げかけられてきました。聖書の最初の書巻においてなされた二つの創造の記述は、たがいに矛盾しているでしょうか。それとも、一致しているでしょうか。創造のために要した一日一日は、字義どおりに理解されるべきでしょうか。それとも、それぞれ長大な期間を示すのでしょうか。天体は(太陽や月や星さえも)、本当にわずか六千年前に造られたのでしょうか。

創造に関する記述

創造に関する聖書の二つの報告、すなわち創世記1章1節ー2章3節と、創世記2章4節ー25節とは調和しています。

最初の物語は、万物の創造を出来事の順に列挙しています。

第二の物語は、「これらは……の由来(generationKJV)である」【訳注1】という語で始まります。この表現は、創世記では、家族の歴史を紹介するときに用いられます(創世記5:1、6:9、10:1参照)。この物語は、創造における人間の立場を描写しています。厳密な時間的順序ではなく、すべてのものが人間の環境をととのえるために役立てられたことを示しています 。[1]第一の物語に比べると、この物語は、アダムとエバの創造と神がエデンの園の中に用意されたその環境について、さらにくわしく説明するものです。それはまた、人間性の本質や神の支配についても述べています。創造に関するこの二つの記述が、もし字義通りの歴史的事柄として受入れられていさえすれば、両者は聖書の他の部分とうまく調和します。

創造の日々

創造に関する聖書の記述の一日一日は、字義通りの二十四時間を意味します。旧約聖書の神の民が、時を計るために用いた代表的な方法であった「夕と朝」【訳注2】(創世記1:5,8,13,19,23,31)という表現は、夕、すなわち日没に始まる一日を示します(レビ23:32、申命記16:6参照)。この表現が、例えば、レビ記では文字通りの一日を意味し、創世記では、数千年や数百万年を意味したと言える根拠はありません。

創世記1章で、日と訳されたヘブル語は、ヨムです。ヨムが一定の数字を伴うときは、いつも文字通りの二十四時間の一日を意味します(例えば、創世記7:11、出エジプト16:1)。これは、創造の記述が、字義通りの二十四時間の一日について述べていることを示すもう一つの証拠です。

十戒は、創世記の創造の記述が字義通りの日と関係していることを示す他の証拠を与えてくれます。第四戒の中で、神は次のように述べておられます。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。……主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(出エジプト20:8-11)。

神は、創造の物語を簡潔にくり返されます。それぞれの日(ヨム)に多くの創造がなされ、創造週は安息日においてクライマックスに達しました。二十四時間の安息日は、それゆえに文字通りの創造週を記念します。もしそれぞれの日がアエオン[2]を意味するのなら、第四戒は無意味となっていたことでしょう。

創造の日々が文字通りの二十四時間の一日でなかったことを証明しようとして、ペテロの第二の手紙3章8節の「主にあっては、一日は千年のようであり」を引用する人々は、同じ節が「千年」は「一日のようである」と述べている事実を見落しています。創造の日々の中に、数千年とか、数百万年、あるいは数十億年といった長大な期間を読みこむ人々は、ちょうど、蛇がエバにそうするよう試みたように、神のみことばの妥当性に異議をとなえていることになります。

「天」とは何を示すかある人々は、神が、「天と地とを創造された」(創世記1:1、2:1、出エジプト20:11参照)とか、六千年前の創造週の第四日に日と月と星を造られた(創世記1:14-19)とか述べる聖句に当惑します。しかもその当惑は、非常にはっきりしています。すべての天体は、そのときに造られたのでしょうか。

創造週は、神が永遠の昔から住んでおられる天国とは無関係でした。創世記1章と2章の「天」は、おそらく地球にもっとも近い惑星や星々をさしています。

実際、地球は、キリストの最初の被造物ではなく、多分最後に造られたものでした。聖書は、すべての神の子たち、すなわちおそらく堕落していない世界のアダムたちが、宇宙のある遠隔の地で神にお目にかかっていると書いています(ヨブ1:6-12)。これまでになされた宇宙の調査では、人の住んでいる惑星は他には発見されていません。そのような星は、広い宇宙の中にたしかに存在していますが、罪の影響を免がれるために、罪でよごれた太陽系の圏外に隔離されているのです。

創造の神

わたしたちの創造主は、いったいどのような神なのでしょうか。このような無限の方が、遠い宇宙のはての小さな生命の一片にすぎないわたしたちに、はたして関心をお持ちになるのでしょうか。神は、地球を創造されたのち、さらに大きなすぐれたものへとその働きを進めていかれたのでしょうか。

保護の神

創造に関する聖書の記述は、神で始まり、人間へと移っていきます。それは、天地をお造りになったとき、神が人類のための完全な環境を準備しておられたことを意味します。人類は、男も女も神の栄光の傑作でした。

その記述はまた、神が被造物を心にかけて下さる注意深い計画者であられることを示しています。神は、特別な園をかれらの住いとして設けられ、それを耕す責任をかれらにお与えになりました。神は、人間がご自分と関係を持つことができるように造られました。それは、強いられた不自然な関係であってはなりませんでした。神は、かれらを、選択の自由をもち、神を愛し、神に仕える能力を持つ者として造られました。

創造者なる神とはどなたのことか

三位の神のどの方も、創造とかかわられました(創世記1:2,26)。しかし実際の行為者は、神のみ子、すなわち先在のキリストでした。創造の記述の序文に、モーセは、「はじめに神は天と地とを創造された」と書きましたが、これを思い起したヨハネは、創造のときのキリストの役割を次のように記しました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。……すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ1:1-3)。そののち同じ箇所で、ヨハネは自分がどなたのことについて書いているかを明らかにしています。「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)。イエスは、創造主として地を存在へ呼び出された方でした(エペソ3:9、ヘブル1:2参照)。

神の愛の表示

神の愛は、なんと深いことでしょう。キリストが、愛の心づかいをもってアダムの上にかがまれ、この最初の人の手を造っておられたとき、やがて人々の手がご自分を虐げ、最後には十字架に釘づけることになることを知っておられたに違いありません。ある意味で、創造と十字架とは、一つに溶け合っています。なぜなら、創造者なるキリストは、世の初めからほふられておられたからです(黙示録13:8)。キリストの聖なる予知[3]は、キリストの手をとどめさせることはしませんでした。不吉なカルバリーを見とおされた上で、この創造のわざがやがてご自分から命の息を奪いとることになると知りつつ、キリストはアダムの鼻に命の息を吹きいれられました。計り知ることのできない愛が創造の基礎です。

創造の目的

神のなさることは、すべて愛によって動機づけられています。なぜなら、神は愛だからです(1ヨハネ4:8)。神がわたしたちを造られたのは、わたしたちが神を愛することができるようにということだけでなく、神がわたしたちをお愛しになることができるようにということのためでした。神の愛は、神がお与えになることのできる最大の賜物の一つ、すなわち存在を創造において共有するよう神を動かしました。それでは聖書は、宇宙とその中に住む者たちがどんな目的のために存在すると教えているでしょうか。

神の栄光をあらわすこと

神は、ご自分が造られたものをとおしてご自分の栄光をあらわされます。「もろもろの天は神の栄光を宣言し、もろもろの空はみ手のわざを示す。それらは、日々言葉を発し、夜々知識をあらわす。話もなく、言葉もない。その声も聞こえない。しかし、その声は全地に達し、その言葉は世界にくまなく及ぶ」(詩篇19:1-4、NIV)。

神がこのような方法で栄光をあらわされるのはなぜでしょうか。自然は、神の証人として働きます。神は、ご自分が造られたものによって、人々にその創造者を示そうと考えておられます。パウロは、「世界が創造されたときから、神の見えない特性、すなわち神の永遠の力と聖なる性質とは、造られたものにおいて明らかに知られており、理解されている。したがって、人間には弁解の余地はない」(ローマ1:20、NIV)と言いました。

わたしたちが自然を介して神に引寄せられるとき、神の特質について、すなわちわたしたちの生活の中に具現されうる神の特質についてさらに多くのことを学びます。そしてわたしたちは、神の品性を反映することによって栄光を神に帰し、こうしてわたしたちが創造された目的を達成することになるのです。

この世に住むこと

創造主は、この地球をだれも住まないさびしい星にするつもりはありませんでした。それは人間の住いとなるはずでした(イザヤ45:8)。最初の男性が仲間の必要を感じたとき、神は女性を造られました(創世記2:20、1コリント11:9)。こうして、神は結婚の制度を設けられました(創世記2:22-25)。創造主は、この夫婦に新しく造られたこの世界を治めさせ、さらに「生めよ、ふえよ」(創世記1:28)と言われて、二人に創造に参加する特権をお与えになりました。

創造の意義

人々は、創造の教理を無視するよう誘惑されます。「神がどのようにしてこの地球を造られたかなどに、だれがいったい関心をもつだろう。わたしたちが知る必要のあることは、どのようにして天国を手にいれるかということだ」と彼らは言います。しかし、聖なる創造の教理は、「キリスト教および聖書の神学には欠くことのできない土台」[4]なのです。基礎的な聖書の概念の多くは、聖なる創造にその根底をもっています[5]。実際、神がどのようにして「天と地」を創造されたかということに関する知識は、結局は人が黙示録者ヨハネの言う新天新地への道を見いだすのを助けてくれます。それでは、創造の教理が含まれているものはいったい何なのでしょう。

偶像礼拝の解毒剤

神が創造主であられるということは、神を他のすべての神々から区別します(歴代上16:24-27、詩篇96:5,6、イザヤ40:18-26、42:5-9,44)。わたしたちは、わたしたちを造られた神を礼拝しなければなりません。わたしたちの作った神々を礼拝してはならないのです。創造主であられるということのために、神はわたしたちから完全な忠節をささげられるに値します。この忠節を妨げるいかなる関係も、偶像礼拝であり神のさばきを受けなければなりません。このようなわけで、創造主に対する忠誠は生死の問題です。

真の礼拝の土台

神に対する礼拝は、神がわたしたちの創造主であられ、わたしたちが神の被造物であるという事実にもとづいています(詩篇95:6)。この主題の重要性は、キリストの再臨の直前に地上の人々に広く語りかけられる「天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」(黙示録14:7)という命令の中に、それが含まれていることによって示されています。

安息日――創造の記念

神はわたしたちが神の被造物であることを週ごとにわたしたちに思い起させるために、七日ごとの安息日を設けられました。安息日は、わたしたちが何をしたかではなく、神が何をなさったかを告げる恵みの賜物です。神は、わたしたちが仕事をやめ、創造主と交わり、休息し、神の驚くべき創造のわざをほめたたえながら過すべきであることを決して忘れることがないようにと、この日を特別に祝福し聖別されました(創世記2:2,3)。その重要性を強調するために、創造主は、ご自分の創造の力を示すこの聖なる記念を、創造の永遠のしるしおよびシンボルとして覚えよとの命令を、道徳律法の中心におかれたのでした。(出エジプト20:8-2、31:13-17、エゼキエル20:20、本書第19章参照)。

結婚―聖なる制度

創造週の間に、神は結婚を聖なる制度として制定されました。神は、二人の間のこの神聖なる結合を永遠のものとしようとされました。人は「妻と結び合い」、二人は「一体となる」べきでした(創世記2:24、マルコ10:9参照、本書第22章も参照)。

真の自尊心の基礎

創造の物語は、わたしたちが神のかたちに造られたと述べています。この理解は、個人の価値に関する真の概念を与えてくれます。そこには、わたしたち自身を低く評価する余地はまったくありません。実際、わたしたちは、創造主と不断の交わりができるという特権と創造主にさらに似た者となる機会とが与えられていることによって、創造のわざの中で独自の場所を占めています。

真の交わりの基礎

神が創造主であられるということは、神が父であられるということを立証し(マラキ2:10)、さらに全人類が同胞であることを示します。神はわたしたちの父であられ、わたしたちはその子供たちです。性、人種、教育、地位にかかわりなく、すべての者は神のかたちに造られました。この概念が理解され適用されれば、人種差別も頑迷さも、また他のいかなる形の差別もとり除かれることでしょう。

自己管理

神がわたしたちを造られたのですから、わたしたちは神のものです。このことは、わたしたちが自分の肉体的、知的、霊的能力を忠実に管理する神聖な責任が与えられていることを意味します。創造主から完全に独立して振舞うことは、忘恩の最たるものです。(本書第20章参照)。

環境に対する責任

創造のとき、神は最初の男女を園の中におかれました(創世記2:8)。彼らは地を耕やし、すべての動物を治めるべきでした(創世記1:28)。このようにわたしたちは、環境を保護するという神から託された責任を持っています。

肉体労働の尊さ

創造主は、アダムにエデンの園を「世話し保護する」よう求められました(創世記2:15)。神が完全な世界でこの有用な職務を人類にあてがわれたということは、肉体労働の尊さを示しています。

物的宇宙の価値

神は、創造の各段階で、ご自分が造られたものについて「良し」(創世記1:10,12,17,21,25)と言われ、創造が完了したときには「はなはだ良かった」(創世記1:31)と宣言されました。ですから、創造されたものは、本質的には悪ではなくて善なのです。

悲観論・孤独・無意味へのいやし

創造の物語は、すべてのものが偶然の進化によって存在するようになったのではなく、目的をもって造られたと教えています。人類は創造主と永遠に変らない関係を持つように定められました。わたしたちが造られたのには理由があったと知るとき、人生に意味が感じられてきて心は豊かにされ、神の愛が痛ましいむなしさや多くの人々が口にする不満にとってかわります。

神の律法の聖性

神の律法は、堕落前から存在していました。人間は、堕落していない状態でそれに従っていました。それは、自己破滅に警告を与え、自由の限界を示し(創世記2:17)、神の王国の民の幸福と平和を保護するためのものでした(創世記3:22-24、本書第18章参照)。

生命の神聖さ

生命の造り主は、人間の生命の形成にかかわり続けられます。生命は、そのことによって神聖なものとされます。ダビデは、神が彼の誕生にかかわっておられたということを認めて、次のように神を讃美しています。「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。……わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。……

その日はことごとくあなたの書にしるされた」(詩篇139:13-16)。イザヤ書で、主はご自分を「あなたを胎内で造られた」(イザヤ44:24)者と認めておられます。生命は神の賜物なので、わたしたちはそれを尊ばなければなりません。実際、わたしたちにはそれを守る道徳的な義務があります。

神の創造の業は続いている

神の創造は終ったか

創造の物語は、「こうして天と地と、その万象とが完成した」(創世記2:1)という陳述で終っています。新約聖書は、神の創造が「世の初めに」(ヘブル4:3)完了したと述べています。このことは、キリストの創造の力がもはや働いていないことを意味するでしょうか。決してそうではありません。創造のみことばは、今でもさまざまな方法で働いています。

1キリストと創造のみことば

創造後四千年たったとき、一人の百卒長がキリストに、「ただ、お言葉を下きい。そうすれば僕はなおります」(マタイ8:8)と言いました。ちょうど創造のときにしたようにイエスがことばをお発しになると、その僕はいやされました。イエスが地上で奉仕を続けておられた間、かつて生命のないアダムの体にそれを吹きこまれたと同じ創造の力が、死者をよみがえらせ、イエスの助けを必要としていた苦しむ者たちに新しい生命をもたらしました。

2現代における創造のみことば

この世界や宇宙は、それ自体に固有のいかなる力も持ちあわせてはいません。それを造られた神が、それを保持し支えておられるのです。神は、「雲をもって天をおおい、地のために雨を備え、もろもろの山に草をはえさせ、食物を獣に与え、また鳴く小がらすに与えられ」(詩篇147:8,9、ヨブ26:7-14参照)ます。神は、すべてのものをそのみことばによって支えられます。そして、「万物は彼にあって成り立ってい」(コロサイ1:17、ヘブル1:3参照)るのです。

わたしたちは、体内のひとつひとつの細胞の機能についても神に依存しています。ひとつひとつの呼吸、ひとつひとつの脈動、ひとつひとつのまばたき、それらはすべて、愛なる創造主の心づかいを伝えています。「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」(使徒17:28)のです。

神の創造の力は、創造だけでなく、あがないと救のにもかかわります。神は心を再創造されます(イザヤ44:21-28、詩篇51:10)。パウロは、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」(エペソ2:10)と言いました。また、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(2コリント5:17)とも言いました。宇宙に多くの輝く星を散りばめられた神は、堕落しきった罪人を、神ご自身のかたちに再創造するためにその同じ力を用いられます。

このあがないと救いの力は、人間の生活を変えるにあたり無制限に用いられます。はじめに天と地を創造した同じ力が、最後のさばきののちに再びそれを創造します。すなわちそれをすばらしい創造物に変えて、新しい天と新しい地とにするのです(イザヤ65:17-19、黙示録21章,22章)。

創造と救い

そのようなわけで、創造と救いとは、イエス・キリストにおいて一つになります。イエスは、荘厳な宇宙と完全な世界とを造られました。創造と救いの間の相違と類似はどちらも重要です。

創造の期間

創造のとき、キリストが命じられるとそれは直ちに完成しました。長大な期間が変えたのではなく、キリストの力強いみことばが創造したのです。キリストは、六日の間に万物を造られました。しかし、なぜそのために六日間もかかったのでしょう。キリストは、一度みことばを発すれば、すべてのものが一瞬のうちに成るというようにはできなかったのでしょうか。

おそらくキリストは、この惑星を六日間かけて造るのを喜ばれたのでしょう。あるいは、このように「長い」時間をかけられたこととキリストが造られたものの価値とに何かの関係があったのかもしれません。あるいはそれは、七日からなる週をキリストが人間のために計画された活動と休息の周期のモデルとして示そうとされたことと関係していたのかもしれません。

しかし、キリストは、ただみことばを発するだけで、救いを達成しようとはしておられません。人の救いの過程は、数千年以上にもおよびます。それは、古い契約と新しい契約とを含み、キリストの33年半の地上生涯とその後のほぼ2千年にわたる天における執成しとを含みます。そこには広大な時間のひろがりがあり、聖書の年表によると、それは創造以来の約6千年に相当します。しかし、人々はまだエデンの園に戻ってはいません。

創造のために要した時間と再創造のために要する時間との間の違いは、神の働きがいつも人類の最善の利益のためになされていることを教えています。創造が短期間でなされたのは、神が造られたものを楽しめるほど十分に成熟した人間を造ろうとされた神の熱意を反映しています。長い期間をかけて漸進的に達成されていく成熟の過程に、創造をゆだねることによってその完結をおくらすことは、愛の神の品性に反することでした。再創造に要する時間の長さは、できるだけ多くの人々をお救いになろうとする神の愛の願いを示しています(2ペテロ3:9)。

キリストの創造の働き

エデンでは、キリストは創造のみことばを語られました。ベツレヘムでは、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿」(ヨハネ1:14)られました。創造主が、被造物の一部となられたのでした。なんと深い謙遜でしょう。だれもキリストが世界を創造されるのを見てはいませんが、多くの人々が盲人に視力を(ヨハネ9:6,7)、ことばの話せない者にことばを(マタイ9:32,33)、らい病をやむ者にいやしを(マタイ8:2,3)、死者に生命を(ヨハネ11:14-45)与えられるイエスの力を目撃しました。

キリストは、第二のアダム、人類の新しい開始としてこられました(ローマ5章)。キリストは、エデンで人類に命の木をお与えになりましたが、人類は、カルバリーでキリストを木にかけました。人類は、パラダイスに神のかたちを負って意気揚々と立ちましたが、人の子は、カルバリーで罪人のかたちを負って弱々しく釘づけられました。創造の金曜日にも十字架の金曜日にも、「すべてが終った」という言葉が創造のわざの完了を告げました(創世記2:2、ヨハネ19:30)。キリストは、一方は神としてなしとげ、他方は人の子としてなしとげられました。一方はすみやかな力でなしとげ、他方は人間としての苦しみによってなしとげられました。一方はしばらくの間のためになしとげ、他方は永遠のためになしとげられました。一方では人類の堕落に仕え、他方ではサタンに勝利されました。

はじめ人類に生命を与えたのは、完全で神聖なキリストの手でしたが、人類に永遠の生命を与えるのは、釘うたれて血にまみれたキリストの手です。人は単に創造されるのではなく、再創造されるのです。二つの創造は、どちらもキリストの働きです。両者とも自然な成熟によって、内からもたらされるというものではありません。

神のかたちに造られたわたしたちは、神に栄光を帰するために召されています。創造における最高のわざとして、神はわたしたち一人一人を、キリストの新生の力を日々求めながら神との交わりに入るよう招いておられます。そうすれば、わたしたちは、神の栄光のためにもっと充分に神のかたちを反映することができるようになるでしょう。

訳注

  1. ここで用いられた「由来」は、口語訳によったもので、KJVでは、generationとなっています。創世記5章1節、6章9節、10章1節でも、KJVは、同じ語を用いていますが、口語訳では、それを「系図」と訳しています。
  2. 口語訳は、「夕となりまた朝となった」と訳しています。

[1]L・バーコフ『組織神学』改訂第4版(L.Berkhof, Systematic Theology,4threv.ed.(Grand Rapids,MI:Wm.B.Eerdmans,1941))182ページ。

[2]創造週の一日を単に千年と考えたとしても、それは問題となったはずです。この考えを受けいれると、アダムの人生の最初の「日」である第六「日」の夕までに、彼は聖書が彼の生存期間の合計として示した(創世記5:5)期間よりも長く生きていたことになります。ジェミソン『キリスト教信仰』(Jemison,Christian Beliefs)116,117ページ参照。

[3]本書第4章参照。

[4]「創造」『セブンスデー・アドベンチスト百科事典』(”Creation”,SDA Encyclopedia)、357ページ。

[5]同。アーサー・J・ファーチ「わたしにとって創造は何を意味するか」『アドベンチスト:レビュー』(Arhurj.Ferch,”What Creation Means to Me,”Adventist Review,Oct.9,1986)11-13ページ。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次