人間の本性【アドベンチストの信仰#7】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

人間は、個性を備え、思考し、行動する力と自由を持つ神のかたちに造られた。人間は自由な存在として造られたが、肉体と精神と魂の分けることのできない統一体であって、いのちと呼吸とその他すべてを神に依存している。アダムとエバが神に従わなかったとき、彼らは神に頼ることを拒み、高い地位から転落してしまった。彼らのうちにある神のかたちは傷つけられ、彼らは死ぬべきものとなった。子孫たちはこの堕落した性質とその結果を受け継いだ。彼らは弱さと悪への傾向を持って生れる。しかし神は、キリストにおいて世をご自分と和解させ、聖霊によって悔い改めた者のうちに造り主のみかたちを回復させられる。人間は神の栄光のために造られ、神と人を愛し、その周囲のものを管理するように召されている。(信仰の大要7)

「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り』」。神は創造の傑作を世に存在させるにあたり言葉をお用いにはなりませんでした。むしろ愛情をこめて身をかがめ、土のちりでこの新しい被造物を造られました。

地上のどんな彫刻家もこのような高貴な存在を作ることはできませんでした。ミケランジェロは外観を美しく彫刻することができたかも知れませんが、人体組織や生理機能を外観と同じように綿密にデザインすることができたでしょうか。

髪の毛とまつげとつめを完璧に備えた像はできあがりましたが、まだ神のわざは完了していませんでした。人は寄集めのちりであるべきではなく、神の栄えのうちに生き、思考し、創造し、成長すべきでありました。

創造者はこの見事な像の上に身をかがめられて、「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2:7、同1:26参照)のでした。神は人に伴侶が必要であることを認め、「彼のために、ふさわしい助け手」を造られました。神はアダムを「深く眠らせ」、眠ったときに、アダムのあばら骨の一つを取って、ひとりの女を造られました(創世記2:18,21,22)。「神は自分のかたちに創造し、男と女とに創造された」。神は彼らを祝福して、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」と言われました。アダムとエバに与えられた庭園は、現在地球上にあるどの庭園よりもみごとなものでした。そこには主ご自身が美しく造られた木々やつる、またもろもろの草花や森、丘、谷などがありました。命の木と善悪を知る木の二つの特別な木もありました。神はアダムとエバに、善悪を知る木以外のどの木からでも心のままに取って食べてよろしいと言われました(創世記2:8,9,17)。

このようにして、創造週の最高のわざは成しとげられました。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記1:31)。

目次

人間の起源

現在多くの人々は、人類が何十億年もかかって下等動物から自然に進化してきたと信じていますが、この考えは、聖書の記録と調和していません。聖書は、はっきりと人類はむしろ退化の過程をたどっていると述べています[1]

神が人を創造された

人類の起源は天の会議で決定されました。神は「われわれにかたどって人を造り」(創世記1:26)と言われました。複数形の「われわれ」は三位一体の神、すなわち父なる神、子なる神、聖霊なる神を示唆しています(本書第2章参照)。神は一つの目的のために最初の人間を創造されました(創世記1:27)。

土のちりから造られた

神は人間をすでに存在している「土のちり」(創世記2:7)でお造りになりました。しかしそれは、海洋の動物や陸上の動物のようなすでに存在している何らかの生命から造られたのではありませんでした。神はまずすべての器官をお造りになり、その後、人を生きた者とする「命の息」を吹きいれられました。

神のかたちに創造された

神は魚や鳥、爬虫類、昆虫、哺乳類などの動物を「種類(kind)にしたがって」(創世記1:21,24,25)創造されました。各々の種(species)は独自の形を有し、その特有の種類を再生する能力を備えていました。ところが、人間だけは動物界の型によってではなく、神のかたちに従って造られました。神は「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」(創世記1:26)と言われました。人間と動物界の間には全くつながりがありません。ルカによる福音書の系図は人類の起源を「神の子、アダム」【訳注1】(ルカ3:38)と述べて、その相違を単純に、しかも、はっきりと示しています。

人は崇高な位置にいる

人間の創造はすべての創造の中で最高のものでした。神は主権者であられるご自分のかたちに造られた人間に地球とすべての動物の管理をお任せになりました。L・ベルコフはアダムに関して次のように述べています。

「彼の統治下におかれたすべての自然と被造物を彼の意思と目的の達成に役立つものとすることが、彼に与えられた義務であり、特権でした。それは、アダムとその栄光にみちた支配権が、全能の創造主また宇宙の主であられる方を高めるものとなるためでした(創世記1:28、詩篇8:4-9)。」[2]

人類の統一性

創世記の系図はアダムとエバの後の世代すべてが、この夫婦の子孫であることを示しています。わたしたちはすべて、人間として同1の性質を持っています。そしてその性質は遺伝的または系統的な統一を作りあげています。パウロは「(神は)、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ」(使徒17:26)られたといいました。

さらに聖書は、アダムによって罪と死が、またキリストによって救いが、全人類にもたらされたと主張していますが、それは人類が有機的な統一体であることを示しています(ローマ5:12,19、1コリント15:21,22)。

人間の性質の統一性

人間の特性を示す部分は何でしょうか。人間は体、魂、霊といった独立したいくつかの要素からできているのでしょうか。

命の息

神は「土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2:7)。

神が地の要素を生きた者に変えられたとき、神は「命の息」を命のないアダムの体の鼻に「吹きいれ」られました。この命の息とは命を与える「全能者の息」(ヨブ33:4)、すなわちいわば命の火花、生気であります。それは電流と対比することができます。カラーテレビのスイッチを入れると、部品の各部に電流が流れ、それまで静止していた灰色の画面を色彩と活動にみちた画面へと変えます。このように電流はそれまで何もなかったところに音と動きをもたらします。

人間――生きた魂

命の息は何をもたらしたのでしょう。神が人を地の要素で造られたとき、すべての器官、すなわち心臓、肺、腎臓、肝臓、脾臓、脳などは完全に造られていましたが、まだ命がありませんでした。そこで神は命のない体に息を吹きいれられ、「人は生きた者となった」のです。このことを式で表すと次のようになります。土のちり(地の要素)+命の息=生きた者、または生きた魂。土の要素と命の息が結合したとき生きた者または魂となったのです。

この「命の息」は人間にだけ与えられたものでありません。すべての生物がそれを所有しています。たとえば、聖書はノアの箱舟に入った動物と入らなかった動物の双方に命の息があったと述べています(創世記7:15,22)。

創世記2章7節で「生きた者」または「生きた魂」と訳されているヘブル語はネフェシュ・カイヤーです。この表現は人にのみ用いられているのでなく、海の動物、昆虫、爬虫類、獣にも用いられています(創世記1:20,24、2:19)。

「者」または「魂」と訳されているネフェシュはナファシュからきた言葉で、それは「息をする」という意味です。新約聖書におけるこの同義語はプスケーです。「息は生きていることを示す最もはっきりした証拠なので、ネフェシュは基本的には生きている者としての人間を示します。」[3]創造物語においてそうであったようにその言葉が動物に関して用いられると、それは神が造られた生き物としての動物を表現していることになります。

聖書は、人は生ける魂となった、と表現していますが、そのことは重要なことです。創造の記事の中には創造のとき別の存在である魂を人間の体が受けとったとは記述されていません。

分割不可能な統一体

人間の性質を正しく理解するためには、創造の記事の重要性をいくら評価してもしすぎることはありません。聖書は、有機的統一を強調することによって、人間を一つの総体として描いています。

1魂の聖書的意味

すでに述べられたように、旧約聖書における「魂」はヘブル語のネフェシュの訳です。聖書は創世記2章7節で人間が地の要素で形造られた肉体に息が入れられて生きた者となったと描写しています。「同様に、子供が生まれるときにはいつも、新しい魂が存在しはじめます。そして『魂』は他の類似した命の単位とは全く異なる独立した単位になるのです。このユニークな存在である生ける者の個体性の特質が、ヘブル語のネフェシュによって強調された思想であるように思われます。ネフェシュがこのような意味で用いられるとき、それは人間の一部ではありません。人間そのものです。それは多くの箇所で、『人』(創世記14:21、民数記5:6、申命記10:22、詩篇3:2参照)、または『自己』(レビ11:43、列王上19:4、イザヤ46:2等)と訳されています。

「一方、『わたしの魂』、『あなたの魂』、『彼の魂』などの表現は、人称代名詞である『わたし』、『あなた』、『彼』などの代りとして広く一般的に用いられている慣用語法です(創世記12:13、レビ11:43,44、19:8、ヨシュア23:11、詩篇3:2、エレミヤ37:9等参照)。ネフェシュは旧約聖書に755回出てきますが、KJVはその中の100回以上を『命』”life”と訳しています(創世記9:4,5、サムエル上19:5、ヨブ2:4,6、詩篇31:13等)。」[4]

「ネフェシュはしばしば欲望、食欲、情欲と関連して用いられています(申命記23:24、箴言23:2、伝道6:7参照)。ときには『食欲』と訳されています(箴言23:2、伝道6:7)。それはまた情愛の座と関連して用いられています(創世記34:3、雅歌1:7等)。申命記23章24節、詩篇105篇22節、エレミヤ書34章26節では『楽しみ』(”pleasure”KJV)と訳されていて、人の意志の部分を表現しています。民数記31章19節では、ネフェシュは殺されていますし、士師記16章30節では、それは死んでいます。民数記5章2節(「死者」)と9章6節(「死体」)ではネフェシュは死がいと関連して用いられています(レビ19:28、民数記9:7,10参照)。」

「新約聖書におけるギリシャ語プスケーの用法は旧約聖書におけるネフェシュの用法と似ています。プスケーは人間の命と同様に動物の命にも用いられています(黙示録16:3)。KJVは40回、それを単純に『命』(”life”または”lives”)と訳しています(マタイ2:20、6:25、16:25等参照)。ある箇所ではそれは単に『人々』を意味する言葉として用いられ(使徒7:14、27:37、ローマ13:1、1ペテロ3:20等参照)、他の箇所では人称代名詞の同意語として使われています(マタイ12:18、2コリント12:15等参照)。時には感情(マルコ14:34、ルカ2:35)や、精神(使徒14:2、ピリピ1:27)や、心(エペソ6:6)と関連して用いられています。」[5]

プスケーは不死ではなく、死に従属するものです(黙示録16:3)。それは滅ぼされうるものです(マタイ10:28)。

聖書の記述からすると、ときどきネフェシュとプスケーが全体としての一人の人を指し、あるときは、人のある特定の側面、すなわち愛情、情緒、食欲、感情を指して用いられていることがわかります。いずれにせよ、この用法は、人間とは分離された明瞭な二つの部分から成っているものではないことを示しています。肉体と魂は共存していて、分割不可能な結合体です。魂は肉体から分離した意識的存在を持つことはないのです。聖書のどの箇所にも、魂が意識をもった存在として肉体を生かしつづけるとは記されていません。

2霊の聖書的意味

魂(soul)と訳されているヘブル語のネフェシュが個性または人格を示す言葉であるのに対して、霊(spirit)と訳されている旧約聖書のヘブル語ルアハは個の存在に必須の、命に活力を与える火花を指しています。それは人を生かす神のエネルギーまたは命の原則を意味します。

「ルアハは旧約聖書に377回でてきますが、もっとも多く用いられる訳語は、『霊』、『風』、『息』です(創世記8:1等)。それはまた、活気(士師15:19)、勇気(ヨシュア21:11)、短気または怒り(士師8:3)、性向(イザヤ54:6)、道徳的特性(エゼキエル11:19)、感情の座(サムエル上1:15)を表すためにも用いられています。

「息の意味では、人間のルアハは動物のそれと同一のものです(伝道3:19)。人間のルアハは死ぬとき肉体を離れて(詩篇146:4)、神に戻ります(伝道12:7、ヨブ34:14参照)。ルアハはイザヤ書63章10節に見られるように、しばしば神の霊として用いられています。人間に関して旧約聖書のルアハが肉体を離れて意識を持っている知的な存在を意味することは決してありません。

「新約聖書におけるルアハの同義語は、『吹く』や『息をする』を意味するプネオーから出た『霊』を意味するプネウマです。ルアハと同じようにプネウマという言葉には、本来肉体を離れて意識を持っている存在を示すものではありません。新約聖書で、人間に関してそれがどのような方法で用いられる場合でも、それによってそのような概念が示されることはありません。ローマ人への手紙8章15節、コリント人への第一の手紙4章21節、テモテへの第二の手紙1章7節、ヨハネの第一の手紙4章6節において、プネウマは『気分』、『態度』、または『感情の状態』を表しています。それはまたガラテヤ人の手紙6章1節、ローマ人への手紙12章1節等にあるように、人格のさまざまな面を表すために用いられています。ルアハの場合と同様、プネウマは人の死とともに主に帰するのです(ルカ23:46、使徒7:59)。ルアハのようにプネウマはまた神の霊を示すためにも用いられています(1コリント2:11,4、エペソ4:30、ヘブル2:4、1ペテロ1:12、2ペテロ1:21等)。」[6]

3肉体、魂、霊の統一体

肉体、魂、霊の間にはどのような関係があるでしょうか。統一体としての人間にこの関係は、どう影響を及ぼすのでしょうか。

A 二要素の統合

聖書は人間存在を統一体と見ていますが、肉体と魂と霊の関係を厳密に定義してはいません。ときどき魂と霊が互換的に使われています。受胎告知後のマリヤの喜びの言葉の中に用いられているこの二つの語の並列関係に注目してください。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます」(ルカ1:46,47)。

イエスは人間をからだと魂の存在として性格づけられました(マタイ10:28)が、パウロはそれをからだと霊【訳注2】からなるものと性格づけました(1コリント7:34)。イエスが言われた魂とは人間のより高い機能、おそらく心(mind)をさしています。人間はそれをとおし神と交わるのです。パウロの場合、霊がそのより高い機能を指す魂に相当します。どちらの場合もからだは人の情緒的な側面と肉体的な側面の両面を含んでいます。

B 三要素の統合

人間は一般的には二要素の統合として特徴づけられますが、例外が一つあります。からだと霊の結合について述べたパウロが、他に三要素の結合についても語っています。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように」(1テサロニケ5:23)。この聖句は、パウロがこれらの三つの側面が聖化の過程から除外されないよう望んでいることを示しています。

ここで用いられている霊は、「知性と思想の標準の高い原則として理解され得ます。人にはそれらが与えられており、神はご自身の霊によってそれらと交わることができます(ローマ8:16参照)。人がキリストの姿に変えられるのは、聖霊の働きをとおして心が新しくされることによってです(ローマ12:1,2参照)。

「『魂』は……それが霊と区別されるときには、本能、感情、欲望をとおして表現される人間の性質の一部として理解され得ます。人間の性質のこの部分はまた、きよめられ得ます。聖霊の働きによって心が神のみ心と一致し、きよめられた理性がより低い性質を統御するとき、そうしなければ神に反逆してしまう衝動は、神の意志に服従するようになります。」[7]

からだは高い性質または低い性質のいずれかによって支配されていますが、それは肉、血、骨等からなる物質的な構成物です。

パウロは最初に霊、次に魂、最後にからだと並べていますが、これらは独立して共存しないのです。霊がきよめられるとき、心は神の支配下におかれます。きよめられた心は、次には魂、すなわち欲望、感情(feeling)、情緒(emotion)に影響してこれをきよめます。きよめを経験した人はからだを粗末にしません。したがって、からだの健康が増進されます。このようにして、からだはきよめられた器となり、これをとおしてクリスチャンは、その主また救い主に仕えることができるようになるのです。パウロのきよめへの召しは、明らかに人間性の統一という概念にルーツがあり、キリストの再臨に対する効果的な備えには、全人、すなわち霊と魂とからだの備えを必要としていることを訴えています。

C 分割不可能な調和的統合

人はそれぞれ分割不可能な統一体であることは明白です。からだと魂と霊は、人の霊的、知的、肉体的能力の間の強い調和関係を示しながら、密接に協力し合って機能しています。一つの分野の欠陥は他の二つの分野の機能を妨げます。病的で不純な、あるいは混乱した霊や心は、人の情緒的肉体的健康にも有害な影響をもたらします。その逆もまた真です。弱く、病気がちな体質は一般的には人の情緒的、霊的健康をそこないます。このようにそれぞれの機能が互いに刺激し合っていることは、各機能をできるだけ最上の状態に保つことが、創造主のかたちが回復されることの大事な要索なのです。

神のかたちに造られた人間

神が創造の六日目に造られた生きものは、「神のかたち」(創世記1:27)にかたどって造られました。神のかたちに造られたとは一体どういう意味でしょうか。

神のかたちに、神にかたどって造られた

人間の道徳的霊的次元は、神の道徳的霊的性質についての何かを表しているとしばしば指摘されています。しかし聖書は人がからだと心と魂の分割不可能な統一体であると教えていますので、人間の肉体的特徴も、ある点で神のかたちを反映しているに違いありません。しかし神は霊なる方ではないでしょうか。一体霊がいかにして形のあるものと関連することができるのでしょうか。

天使に関する簡潔な学びから知られるかぎり、かれらは神のように霊なる存在です(ヘブル1:7,14)。しかも彼らはいつも人間の姿をとって現れています(創世記18:1-19:22、ダニエル9:21、ルカ1:11-38、使徒12:5-10)。霊なる存在が形と容貌を備えた「霊のからだ」を持つということがありえたのでしょうか(1コリント15:44参照)。

聖書はある人たちが神の身体のいくつかの部分を見たと述べています。モーセ、アロン、ナダブ、アビウおよび七十人の長老は神の足を見ました(出エジプト24:9-11)。神はみ顔を見せるのを拒まれたけれども、ご自分の手でモーセをおおわれた後に、モーセのそばを通り過ぎられたとき、そのうしろ姿を見せられました(出エジプト33:20-23)。神はダニエルに、み座に座して審判を行う光景の幻の中で現れられました(ダニエル7:9,10)。キリストは「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)として、また「神の本質の真の姿」(ヘブル1:3)として描かれています。これらの聖句は、神は身体をもたれた存在者及び形をそなえられた方であることを述べているように思われます。このことは決して驚くべきことではありません。なぜなら人間は神のかたちに造られたからです。

人間は「御使たちよりも低い者」(ヘブル2:7)として造られました。このことは人間が知的霊的賜物を授けられていることを示しています。アダムは経験と洞察力と品性の発達に欠けてはいましたが、道徳の面では「正しい者」(伝道7:29)として造られました。[8]アダムは、神の道徳的かたちをもつ者として、聖であるばかりでなく義でもあり(エペソ4:24参照)、また神が「はなはだ良かった」(創世記1:31)と宣言された被造物の一部を構成していました。

人間は神の道徳的かたちに造られたので、創造者に対する愛と忠誠とを表明する機会が与えられました。人は神のように、選択の能力、すなわち、道徳的命令に従って考え行動する自由が与えられました。その結果、愛して服従するか、信じないで不服従にとどまるかは、アダムの自由でした。神は人間を誤った選択をする危険にさらされました。なぜなら、人は選択の自由が与えられているときにのみ、神自身の本質である愛の原則を完全に表わすような品性を、発達させることができるからです。(1ヨハネ4:8)。アダムに対する神のみ旨は全心全霊をもって神を愛し、自分を愛するように他人を愛するという神のかたちの最高の表現を達成することでした(マタイ22:36-40)。

他者との関係のために造られた

神は「人がひとりでいるのは良くない」(創世記2:18)と言われてエバを造られました。三位一体の神が愛の関係で結ばれているように、わたしたちも友情と結婚において交わりができるように造られました(創世記2:18)。わたしたちは、これらの関係において他者のために生きる機会を持つのです。真実に人間であるためには、関係が正しく方向づけられているべきです。神のかたちのこの面の発達は神の国の一致と繁栄のために欠かすことのできない部分です。

環境の管理者として造られた

神は「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記1:26)と言われました。神はここで人間が持っている神のかたちと他の動物に対する人間の統治権について述べておられます。人間が人間よりも低い被造物の上に置かれたのは、神の代理者としてでありました。動物界は神の主権を理解することはできませんが、多くの動物は人になつき、仕える能力をもっています。

ダビデは人間の統治権に関して次のように述べています。「これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」(詩篇8:6)。人間の高い地位は人間には栄えと誉れが与えられていることを示していました(詩篇8:5)。彼にはこの世界をあわれみ深く統治する責任がありました。そしてこれは宇宙に対する神の慈悲深い統治を反映するものでした。そういうわけで、わたしたちは、環境の力に支配されるような境遇の犠牲者ではないのです。むしろ神は、わたしたちがそのおかれている固有の境遇を、神のみ心を成しとげる機会として用いながら、環境をととのえることにより前向きの貢献をするようわたしたちに命じておられます。

これらの洞察は破れが満ちているこの世界の人間関係を改善するため、その鍵を提供します。それらはまた、地球資源の利己的な消耗やまた命の衰退を助長するような空気と水の無分別な汚染に対する解答にもなります。人間の性質に関する聖書の教えをとり入れることによってのみ、将来の繁栄が保証されるのです。

神にかたどって造られた

人間として、わたしたちは神のように行動すべきです。なぜなら、わたしたちは神にかたどって造られたからです。わたしたちは人間であって神ではありませんが、わたしたちの統治権の範囲内で可能な限りすべての面で創造者を反映すべきです。十戒の第四条が、わたしたちは、創造者の模範に従って、一週のうち六日働いて、七日目に休むべきであると言っているのはこの義務を訴えているのです(出エジプト20:8-1)。

条件的不死者として造られた

創造のとき、わたしたちの最初の両親は服従を条件に不死が与えられました。命の木に近づくことができたので、永遠に生きながらえることができました。彼らは、善悪を知る木の実を食べてはならないとの禁令を犯すことによってのみ、不死の状態を失うことになっていました。不服従が死に導くのでした(創世記2:17、3:22参照)。

堕落

アダムとエバは神のかたちにかたどられた完全なものとして造られ、完全な環境の中におかれていたにもかかわらず、罪を犯してしまいました。そのような根源的な、恐ろしい変化がどうして起ったのでしょうか。

罪の起源

もし神が完全な世界を造られたのなら、どうして罪が世にはびこるなどということがありえたのでしょうか。

1神と罪の起源

創造者なる神は罪の創造者でもあられるのでしょうか。聖書は神が本質的に聖であられ(イザヤ6:3)、神の内には不義はないと述べています。「主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である」(申命記32:4)。聖書は次のようにも述べています。「神は断じて悪を行うことなく、全能者は断じて不義を行うことはない」(ヨブ34:10)。「神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない」(ヤコブ1:13)。神は罪を憎まれます(詩篇5:4、11:5)。神が最初に造られたものは「はなはだ良かった」(創世記1:31)のです。神は決して罪の創始者ではなく、むしろ「彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源」(ヘブル5:9)であられるのです。

2罪の創始者

神はプログラム化されたことだけをするロボットのような宇宙を造ることによって、罪を防ぐこともおできになりました。しかし神の愛はそれに対して自由に応答することのできる者の創造を必要としました。そのような応答は選択の能力をもっている者のみができることです。

しかしながら被造物にこの種の自由を与えることは、被造物が神に背く危険性を持つことをも意味しました。不幸なことに天使の中で高い地位にいたルシファーは高慢になりました(エゼキエル28:17、1テモテ3:6参照)。ルシファーは神の支配下における自分の地位に不満をいだき(ユダ6参照)、神の地位を欲しがりはじめました(イザヤ14:12-14)。この堕落天使は宇宙の支配をもくろんで仲間の天使たちの間に不満の種をまき散らし多数の天使たちの忠誠をかち取りました。今ではサタンすなわち敵対者として知られているルシファーとその配下の天使たちが天から追い出されたとき、天での戦いは終結しました(黙示録12:4,7-9、本書8章参照)。

3人類における罪の起源

天から追放されたサタンは、他の者たちが神の統治に対する反逆に加わるように誘惑する決心をしました。彼は新しく創造された人類に注目しました。どのようにしてサタンはアダムとエバに反逆させることができたのでしょうか。アダムとエバは必要なものがすべて創造者によって与えられている完全な世界に住んでいました。どのようにして彼らは幸福の源であられる神に不満を持ち不信をいだくようになれたのでしょうか。最初の罪の記録がその疑問に答えてくれます。

サタンは、人祖アダムとエバを攻撃するに当り、彼らを神の守りの外に連れ出そうと心に決めました。エバが善悪を知る木の近くにいたとき彼はへびに変装して近づき、神が木の実を取って食べるなと禁じておられたことについて質問しました。木の実を食べると死ぬと神が言われたことをエバが認めたとき、サタンは、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」と言って、神の禁制に挑戦しました。サタンは、彼女が神のようになって新たなすばらしい経験をするのを、神はとどめておられるのだと言って彼女の好奇心を刺激しました(創世記3:4,5)。ただちに神の言葉に対する疑いが根づきました。エバは大きな可能性を秘めた果物のとりこになりました。誘惑は、彼女の清められた心を打ちこわしはじめました。神の言葉に対する信仰がサタンの言葉に対する信仰に変ってしまいました。彼女は突然、「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」と思いました。エバは自分の立場に満足せず、神のようになるといわれた誘惑に屈してしまいました。このようにして彼女は「その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」(創世記3:6)のでした。

エバは神の言葉よりも自分の感覚に頼り、神への信頼を失って高い地位から落ち、罪に沈んでしまいました。それゆえに、人類の堕落はまず第一に神と神の言葉に対する信仰の欠如として特徴づけられました。この不信仰は不服従に導き、次には関係を破壊し、遂には神と人間との間に断絶をもたらしました。

罪の影響

罪の結果、当初にまた長期的にどういうことが起ったでしょうか。そのことは人間の性質にどのような影響を与えたでしょうか。罪の除去と人間の性質の改善はどうなるのでしょうか。

1当初の結果

罪の最初の結果は神との関係及び人間相互の関係に影響を与えた人間の性質の変化でした。新たな浮き浮きするような目の開かれる経験はアダムとエバに屈辱だけをもたらしました(創世記3:7)。サタンが約束したように神と等しくなるどころか、二人は恐れて身を隠そうとしました(創世記3:8-10)。

神が彼らの罪について問い尋ねられたとき、二人はそのあやまちを認めるどころかいいわけをしようとしました。アダムは「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」(創世記3:12)と答えました。その言葉は暗に、間接的ではあるがエバと神の両方に彼の罪の責任をなすりつけることを意味しました。ここには彼の罪がいかに妻と創造者に対する彼の関係を破壊するにいたったかが明らかに示されています。一方、エバはヘビを責めました(創世記3:13)。

罪がもたらした悲惨な結果は反逆の重大さを示しています。神はサタンの手先となったへびをのろわれました。堕落の事実がいつまでも忘れられないようにするため、へびは腹で這いあるくように宣告されました(創世記3:14)。神は女に「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)と言われました。アダムが神に聞く代りに妻の言うことに耳を傾けたため、地はのろわれて心配と骨折りとが増えました。すなわち、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから」(創世記3:17-19)と記されているとおりです。

神の律法の不変性といかなる罪も死に至らせるという事実を再確認して、神は「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)と言われました。神は違反者をエデンの家郷から追放することによって判決を執行されました(創世記3:24)、すなわちそれによって彼らは神と直接交わることができないようにし、また彼らが永遠の命の源である命の木の実を食べることができないようにされました。このようにしてアダムとエバは死ぬべき者となったのでした(創世記3:22)。

2罪の性格

多くの聖句、特に堕落の記事は、罪とは道徳的悪であること、すなわち自由な道徳的行為者が示された神のみ旨を犯そうとして選択した結果を指すものであることを明示しています(創世記3:1-6、ローマ1:18-22)。

A罪の定義

罪の聖書的定義は次のことがらを含みます。「法律を破ること」【訳注3】(1ヨハネ3:4、KJV)「なすべき善を知りながら行わ」(ヤコブ4:17)ないこと、「すべて信仰によらないこと」(ローマ14:23)などです。広義の罪の定義は「神が特別に命じられたことを行わなかったり、神が特別に禁じられたことを行ったりすることなど、知られている神の意志から逸脱すること」[9]です。

罪に中立はありません。キリストは「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり」(マタイ12:30)と述べておられます。キリストを信じないことは罪です(ヨハネ16:9)。罪はその性格において絶対的なものです。なぜならそれは神と神の意志に対する反逆だからです。罪は、大小を問わず、「有罪(guilty)」という評決をもたらします。なぜなら「律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落度があれば、全体を犯したことになるから」(ヤコブ2:10)です。

B罪は行為のみならず思想にもかかわる

罪はしばしば具体的に目に見える形の違法行為としてのみ語られます。しかし、キリストは他人に対して怒ることは十戒の第六条「あなたは殺してはならない」(出エジプト20:13)を犯すことであり、情欲をいだくことは、「あなたは姦淫してはならない」(出エジプト20:14)との戒めを犯すことになると言われました。それゆえ、罪は行為における明らかな不服従だけではなく、思想や欲望における不服従にも関係するのです。

C罪と罪責(guilt)

罪は罪責を生みます。聖書の見解によれば、罪責とは、罪を犯した者が罰を受けなけばならないことを意味します。そしてすべての者が罪を犯したので、全世界は「神の前に有罪」【訳注4】(ローマ3:19、KJV)なのです。

罪責は、適正な扱いを受けないと、肉体的、知的、霊的、能力を破壊します。そしてもし、罪責が根本的に解決されなければ、それは死を生むのです。なぜなら「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)からです。

罪責の解毒剤はゆるしです(マタイ6:12)。それは清い良心と心の平和をもたらします。神は悔改めた罪人にこのゆるしを与えたいと熱望しておられます。キリストは罪の重荷を負っている人々、罪責に悩まされている人々を「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招いておられます。

D罪のコントロールセンター

罪の座は聖書が心(heart)と呼んでいるところ、すなわちわたしたちが精神(mind)として理解しているところにあります。「命の泉は、これから流れ出るからである」(箴言4:23)。キリストは「悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくる」(マタイ15:19)と述べておられます。人間は、その全領域(知性、意志、愛情、情緒、肉体)において、心の影響を受けます。「心はよろずの物よりも偽るもの」(エレミヤ17:9)なので、人間性は腐敗し、堕落しており、徹底して罪深いものであると描写されうるのです。

3人類に対する罪の影響

ある人たちは、死の宣告は禁断の木の実を食べたことに対する罰としては余りにも過酷であると感じるかもしれません。しかしわたしたちは人類へのアダムの罪の影響の光に照らして見て初めて律法を犯したことの深刻さを図ることができるのです。

アダムとエバの長子は殺人の罪を犯しました。彼らの子孫はやがて一夫多妻の婚姻関係を持つことによって聖なる結婚関係を犯し、わずかの間に悪と暴虐が地に満ちました(創世記4:8,23、6:1-5,11-13)。悔改めと改革を求める神の訴えは顧みられず、たった8人だけが悔改めない者たちを滅ぼした洪水から救い出されました。洪水後の人類の歴史は、わずかの例外を除いて人間性の罪深さを示す悲しい記録です。

A人類の普遍的罪深さ

歴史はアダムの子孫がアダムの罪性を受継いだことを示しています。祈りの中でダビデは、「生ける者はひとりもみ前に義とされないからです」(詩篇143:2、同14:3参照)と言いました。「人は罪を犯さない者はないのです」(列王上8:46)。ソロモンは次のように言いました。「だれが『わたしは自分の心を清めた、わたしの罪は清められた』ということができようか」(箴言20:9)。「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない」(伝道7:20)。同じく新約聖書もはっきりと次のように述べています。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3:23)、「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない」(1ヨハネ1:8)。

B罪深さは遺伝的なものか後天的なものか

パウロは、「アダムにあってすべての人が死んでいる」(1コリント15:22)と言いました。他の箇所では、「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」(ローマ5:12)と言いました。

心の堕落はその人全体に影響を及ぼします。ヨブはこの見地から「だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか、ひとりもない」(ヨブ14:4)と叫びます。ダビデは、「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみこもりました」(詩篇51:5)と言いました。またパウロは、「肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ8:7,8)と述べました。彼はまた、回心前の信徒をほかの人々と同じく、「生れながらの怒りの子であった」(エペソ2:3)と指摘しました。

子供としてわたしたちは模倣によって悪を学びますが、これらの聖句はわたしたちの根源的な罪深さは遺伝によるものであると、断言しています。人類の普遍的な罪深さは、わたしたちが悪に対する傾向は本性的に持っているが、善に対してそれは持っていないことを実証しています。

C罪の行為の根絶

人々は自分たちの生活や社会から罪を除くことにどれだけ成功しているでしょうか。

自分自身の力で正しい生活を送ろうとするあらゆる努力は失敗することがはっきりしています。キリストは罪を犯す者は「罪の奴隷」であると言われました。神の力のみがわたしたちをこの奴隷の境遇から解放することができるのです。キリストは、「もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである」(ヨハネ8:36)と保証されました。キリストはさらに、もしあなたがたが「わたしにつながってい」るなら、義の実を結ぶことができる。なぜなら「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」と言われました(ヨハネ15:4,5)。

使徒パウロでさえ、義の生活を実践することに失敗しました。彼は神の律法の完全な標準を知っていましたが、それを満足させることができませんでした。自分の努力について述べたのち、パウロは「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」。「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」と言いました。それから彼は自分の生活に及ぼす罪の影響について次のように指摘しました。「もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」。彼は失敗したにもかかわらず神の完全な標準をたたえて言いました。「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7:15,19,20,22-24)。

ついにパウロは、勝利を得るためには神の力が必要であることを認めました。彼はキリストによって肉の生活に打ち勝ち、み霊によって新しい人生を始めました(ローマ7:25、8:1)。

聖霊による新しい人生は神から与えられる賜物です。神の恵みをとおして「罪過と罪とによって死んでいた」わたしたちは勝利者になるのです(エペソ2:1,3,8-10)。霊的再生は、わたしたちがそれを新しい創造、すなわち「古いものは過ぎ去った」「すべてが新しくなった」(2コリント5:17)と言えるほどに生活をすっかり変えてしまいます(ヨハネ1:13、3:5)。しかしながら、新しい命は罪を犯す可能性をとり除くのではありません(1ヨハネ2:1)。

4進化論と人間の堕落

創世記以来サタンは多くの人々を惑わし、人類の起源と堕落に関する聖書の記述に対する信仰を弱めてきました。ある人は、進化論を、人間の「自然」観、すなわち、生命は偶然に発生し、人間は長い進化の過程を経て、下等な生命形態から変化してきたという仮説に基づいた見解だと言います。人間は適者生存の過程を経て、現在の高等な形態にまで進化した。しかしまだ最終段階に達してはおらず、今なお進化しつづけているというのです。

多くのクリスチャンは、神が進化を通じて万物を創造されたという有神論的進化論を支持しています。有神論的神化論を受け入れる人々は、創世記の初の数章を字義的にとらないで、寓話または神話と見なしています。

A人間に関する聖書の見解と進化論

創造論を支持するクリスチャンは、進化論がクリスチャンの信仰に及ぼす影響を憂慮しています。ジェイムズ・オアは次のように書いています。「今日キリスト教は教理に対する断片的な攻撃を受けているのではなく、科学的土台の上に築かれていると主張し、理論武装され、キリスト教組織の根底をゆるがす根本的な思想に根ざしている、積極的に考えぬかれたこの世の反対説によって攻撃されています。」[10]

聖書は創世記を寓話的または神話的に解釈することを拒否しています。聖書記者たちは、創世記1―11章を文字どおりの歴史として解釈しています。アダム、エバ、へび、サタンはすべて、大争闘のドラマにおいて実際に役割を果した者たちであるとみなされています(ヨブ31:33、伝道7:29、マタイ19:4,5、ヨハネ8:44、ローマ5:12,18,19、2コリント11:3、1テモテ2:14、黙示録12:9参照)。

Bカルバリーと進化論

進化論はその形または外観がどうであれ、キリスト教の根本に反するものです。レオナード・バードゥインが言ったように、「『堕落』の物語に代って上昇の物語が登場してきました。」[11]キリスト教と進化論は正反対のものです。わたしたちの最初の両親は神のかたちに造られて、それから堕落するに至ったか、そうでなかったかのいずれかです。もし、彼らがそうでなかったのであれば、なにゆえのクリスチャンなのでしょう。

カルバリーは進化論に対してもっともはげしく疑問を投げかけます。もし人間が堕落しなかったのなら、わたしたちにはなぜわたしたちのために死なれた神が必要だったのでしょうか。単なる一般の死ではなく、わたしたちのためのキリストの死が、人類は決して「大丈夫」ではないことを宣言しています。そのままにしていれば、わたしたち人類は破滅のときまで悪化しつづけるはずでした。

わたしたちの望みは十字架にかけられた方にあります。キリストの死のみが、終ることのない、より充実した人生の道を開くのです。カルバリーはわたしたちを解放するには身代りが必要であることを宣言しています。

C受肉と進化論

創造論対進化論の問題はおそらく人間の創造をキリストの受肉という観点から考察することによってもっともよく解決されます。歴史の中に第二のアダム、キリストを送ることによって、神はその働きを創造的に推進められました。もし神がこのような卓越した奇跡を行うことがおできになったのであれば、第一のアダムを創造する神の能力について疑うべきものは何一つありません。

D人間はすでに成年に達しているか

進化論者は、しばしば人間こそが自分自身の運命の決定者であることの証拠として、最近二、三世紀の科学のめざましい進歩をあげてきました。人間は自分たちの必要をみたす科学によって、充分な時間をかけさえすれば、世界のあらゆる問題を解決することでしょう。

しかしながら科学技術の救世主的な役割に関する懐疑的見解が強くなってきています。なぜなら科学技術は地球を破滅のふちに押しやってしまったからです。人類は罪深い心を抑制し、支配することに完全に失敗してきました。その結果、あらゆる科学的進歩はこの世界をさらに危険なものとしてしまいました。

次第にニヒリズムの哲学や絶望が正当とされてきつつあります。アレキサンダー・ポープの言う「希望は人の胸の中でとこしえにおどる」といった言葉が、今日ではむなしく響いてきます。ヨブは現実の時の歩みを「望みのない日々」(ヨブ7:6、TLB)としてとらえています。人間の世界は衰えつつあります。だれかが人間の歴史の外からやってきてそこに侵入し、新しい現実をそこにもたらさなければなりませんでした。

希望の光

人類の堕落はどれほどのものだったのでしょうか。人間は、十字架上で創造者を殺しました。なんと恐ろしい反逆だったことでしょう。それでも神は人類を望みなき者として放置されませんでした。

ダビデは創造物の中の人間の位置について瞑想しました。最初は宇宙の広大さに圧倒されて、人間はつまらない存在だと思いました。その後で人間の真の位置について知りました。人間と神との現在の関係を彼は次のように述べています。「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」(詩篇8:5,6、ヘブル2:7参照)。

堕落したとはいえ、そこに人間の尊厳という観念が残っています。神のかたちは傷つけられはしましたが、全く消えてしまったわけではありません。堕落し、罪深いとはいえ、人間は依然として地上における神の代表者です。人間の性質は神の性質よりは劣っていますが、神によって召されたこの地上の管理者として栄えある地位を保っています。ダビデはそのことを悟ったとき、「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう」(詩篇8:9)と讃美し、感謝をささげました。

恵みの契約

最初の夫婦は神にそむいたことによって罪深くなりました。もはやサタンに抵抗することができなくなった彼らは、それでも自由でありえたのでしょうか。それとも滅びに定められているのでしょうか。そこにいくらかでも望みがあったのでしょうか。

堕落時に与えられた契約

罪を犯した二人に刑罰の宣告を下される前に、神は二人に恵みの契約を示すことによって望みをお与えになりました。神は「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に、彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記3:15)と言われました。

神のメッセージは彼らに励ましをもたらしました。なぜならサタンは人類を悪の力の下におきましたが、最後には彼は敗北することになっていることをそれが告げていたからです。契約は神と人類の間で結ばれました。まず神は恵みによって罪に対する防壁を約束されました。神はへびと女との間に、サタンに従う者と神の民との間に憎しみをおかれるはずでした。このことは人間とサタンの関係を打ち砕き、神との新しい関係に道を開くことになっていました。

幾世紀にもわたって神の教会とサタンとの間の戦いが続けられるはずでした。その戦いは女のすえと預言されたイエス・キリストの死において最高潮に達するはずでした。カルバリーにおいてサタンは敗北しました。女のすえは傷をうけましたが、悪の張本人は敗北しました。

神がお与えになる恵みを受けいれる人々はみな、罪に対する憎しみがサタンとの戦いで彼らを成功に導くものとなることを知るに至るでしょう。信仰によって彼らはカルバリーにおける救い主の勝利にあずかるでしょう。

創造以前に立てられた契約

恵みの契約は堕落後に明らかにされたのでありません。聖書には、三位一体の神がもし人類が罪を犯したならそれを救うという契約をすでに互いにかわしておられたことが教えられています。パウロは神が「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである」(エペソ1:4-6、2テモテ1:9参照)と言っています。ペテロは、キリストの贖いの犠牲について述べたのち、「キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのである」(1ペテロ1:20)と言いました。

契約はゆるぎない土台、すなわち神ご自身の約束と誓いの上に立てられました(ヘブル6:18)。イエス・キリストは契約の保証人となられました(ヘブル7:22)。保証人とは他の人が契約違反したとき負債または債務を負う人のことです。保証人としてのキリストの務めは、人類が罪を犯したときには、その罰を負うことを意味していました。キリストは価を支払って罪の贖いをし、犯された神の律法の要求を満たすことになっていました。人間や天使のだれもその責任を果すことはできませんでした。創造者であり、人類の総代であられるキリストのみが、この責任をとることがおできになりました(ローマ5:12-21、1コリント15:22)。

神のみ子は契約の保証人であられるだけでなく仲保者、また執行者でもあられます。受肉された人の子としてのキリストの使命に関する記述は、キリストの役割のこの面を示しています。キリストは、「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」(ヨハネ6:38、同5:30,43参照)と言われました。父なる神のみ心は、「子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ること」(ヨハネ6:40)であります。イエスは、「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、またあなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ17:3)と言われました。宣教活動の終りにおいて、父なる神から託された任務を果されたことについて、キリストは「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」(ヨハネ17:4)と証しされました。

主イエスは十字架上で、契約における人類の保証人となられるという約束を果されました。「すべてが終った」(ヨハネ19:30)との叫びはキリストの使命の完結を示しました。キリストはご自分の命をもって、神の律法が違反者に要求する罰を受け、悔改めた人類に与えられる救いを保証されました。その瞬間にキリストの血は、恵みの契約を批准したのです。贖いの血を信じる信仰によって、悔改めた罪人は神の息子、娘となり、永遠の命の相続人となるはずでした。

この恵みの契約は、人類に対する神の無限の愛を示しています。創造に先だって定められた契約は堕落後に明らかにされました。そのとき、特別な意味で神と人類はパートナーになりました。

更新された契約

残念なことに、人類はこのすばらしい恵みの契約を大洪水以前と以後に2度にわたって拒否しました(創世記6:1-8、11:1-9)。それで神はアブラハムをとおして、再び契約を結ばれました。再び贖ないの約束が確認されて、神は「また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」(創世記22:18、同12:3、18:18参照)と言われました。

み言葉は契約の条件に対してアブラハムが示した忠実さをとくにうきぼりにしています。アブラハムは神を信じました。そして神は「これを彼の義と認められた」(創世記15:6)のでした。アブラハムが契約の祝福にあずかったのは、一方では神の恵みに基づいていましたが、同時に彼の服従を条件とするものでもあったということは、その契約が神の律法の権威を擁護するものであることを示しています(創世記17:1、26:5)。

アブラハムの信仰は、「信じて義とされるに至るすべての人の父」(ローマ4:11)という称号を受けるに値するものでした。アブラハムは服従において示される信仰による義のモデルです(ローマ4:2,3、ヤコブ2:23,24)。恵みの契約はアブラハムの肉の子孫に自動的に恵みを与えるのではなく、アブラハムの模範的な信仰に従う者たちにのみ与えられるのです。「信仰による者こそアブラハムの子である」(ガラテヤ3:7)のです。地上のすべての人は、「もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ3:29)との条件を満たすことによって救いの約束を経験することができます。神の側からすれば、シナイの契約(最初の契約とも呼ばれている)はアブラハムとの間にかわされた恵みの契約の更新でした(ヘブル9:1)。しかしイスラエルはそれをわざによる契約へと曲げてしまいました(ガラテヤ4:22-31)。

新しい契約

のちに聖句は「新しい契約、またはよりよい契約」について語ります[12]。永遠の契約が変えられたからではなく、以下の理由によってそうされているのです。(1)イスラエルの不忠実によって神の永遠の契約がわざの方式へと曲げられたこと、(2)それはキリストの受肉、生涯、死、復活、仲保にあらわされた神の愛の新しい啓示と関係があったこと(ヘブル8:6-13参照)、(3)それがキリストの血によって批准されたのは十字架においてであったこと(ダニエル9:27、ルカ22:20、ローマ15:8、ヘブル9:11-22)[13]

この契約がそれを受け入れた者たちに与えるものは非常にすばらしいものです。神の恵みによって罪のゆるしが与えられます。聖霊によって心に十戒がしるされ、悔改めた罪人が創造者のかたちを回復します(エレミヤ31:33)。新しい契約と新生の経験は、キリストの義と信仰による義認の体験をもたらします。

それによって与えられる心の刷新は各人を変え、その結果「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)等の聖霊の実を結ばせます。キリストの救いの恵みによって、彼らはキリストがいつも神のみこころにかなうことをして歩まれたように歩むのです(ヨハネ8:29)。堕落した人類の唯一の望みは、恵みの契約に入れ、との神の招きを受け入れることです。キリストを信じる信仰によって、わたしたちは、神の子となり、キリストと共にみ国を受け継ぐことを保証するこの関係を経験することができるのです。

訳注

  1. 口語訳では、ここが「アダム、そして神にいたる」となっています。
  2. 口語訳では「霊」ではなく、「魂」と訳されています。
  3. 口語訳では、「不法」と訳されています。
  4. 口語訳では、「神のさばきに服する」と訳されています。

[1]人間論(the doctrine of man)の教理は、人類を構成するものが何であるかが考察される際に長い間用いられてきた神学用語でした。manはここでは必ずしも女性を除く男性を意味するものではなく、考察を容易にし、さらに神学的伝統や意味論とのつながりを保持するために用いられているものです。

[2]ベルコフ『組織神学』(Berkhof,Systematic Theology)、183ページ。

[3]「魂」『セブンスデー・アドベンチスト百科事典』(”Soul”, SDA Encyclopedia)改訂版、1261ページ。

[4]「魂」『セブンスデー・アドベンチスト聖書事典』(”Soul”, SDA Bible Dictionary)改訂版、1061ページ。

[5]魂」『セブンスデー・アドベンチスト聖書事典』(”Soul”, SDA Bible Dictionary)改訂版、1061ページ。

[6]同、1064ページ。

[7]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)改訂版、第7巻、257ページ。

[8]同、第一2巻、1090ページ。

[9]「罪」『セブンスデー・アドベンチスト聖書事典』(”Sin,” SDA Bible Dictionary)改訂版、1042ページ。

[10]ジェームズ・オア『人間における神のかたち』(James Orr,God’s Image in Man(Grand Rapids,MI:Wm.B.Eerdmans,1948)3,4ページ。

[11]レオナード・バードゥイン『神よりも低く――人間に関する聖書的見解』(Leonerd Verduin,Some what Less than God:The Biblical View of Man(Grand Rapids,MI:Wm.B.Eerdmans,1970))69ページ。

[12]新約聖書はシナイ山におけるイスラエルの経験を古い契約としてとらえています(ガラテヤ4:24,25)。シナイ山で神は、自由の身とされたご自分の民に、永遠の恵みの契約を新たにされます(歴代上16:14-17、詩篇105:8-1、ガラテヤ3:15-17)。神は彼らに、「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」(出エジプト19:5,6、創世記17:7,9,19参照)と約束されます。契約は信仰による義に基づいており(ローマ10:6-8、申命記30:11-14)、心には律法が記されることになっていました(申命記6:4-6、30:14)。

恵みの契約は信者がそれを行いによる救いの体系へと変えたことによっていつも曲解されています。パウロは古い契約を説明するためにアブラハムが自分の問題を解決しようとして自分自身の行いに頼り、神に信頼することに失敗した経験を用いました(創世記16章、12:10-20、20章、ガラテヤ4:22-25)。実際に、行いによる義の経験は罪がこの世界に侵入し、永遠の契約が破られたときからずっと存在してきました(ホセア6:7)。

イスラエルの歴史を通じて、大多数の人々は「行い」によって「自分の義を立てよう」と努めました(ローマ9:30-10:4)。彼らは霊に仕えずに、文字に仕えました(2コリント3:6)。律法によって義とされようとしましたが(ガラテヤ5:4)、律法の宣告の下で生活し、自由ではなくて束縛の中に身を置きました(ガラテヤ4:21-23)。こうして彼らはシナイの契約をゆがめてしまいました。

ヘブル人への手紙は、はじめの契約、すなわち古い契約をシナイ以来のイスラエルの歴史にあてはめて、その契約の一時性を示しています。それによると、レビの祭司制はキリストにおいて実現されるまで象徴的機能を果すことによって一時的なものとなるはずでした(ヘブル9、10章)。全く悲しいことに、多くの人々は儀式自体には価値がないことを理解することができませんでした(ヘブル10:1)。型が実体となり、影が現実となったとき、「影」に対する執着がキリストの使命を曲解させてしまいました。よりよい契約とか新しい契約という強い言葉を用いてそれがシナイよりもすぐれていることを強調しようとしたのはそのためなのです。

それゆえに、古い契約は消極的な言い方と積極的な言い方とで記述されることができます。消極的には、それは神の永遠の契約に対する人々の曲解を指しており、積極的には、それは人間の失敗によって生じた緊急事態に対処しようとして神が計画された地上の一時的な奉仕を指しています。ホワイト『人類のあけぼの』、上巻(福音社、1951年)、439-444ページ。ホワイト「わたしたちの行い」『レビュー・アンド・ヘラルド』(White,”Our Work,”Review and Herald,June23,1904)8ページ。ホワイト「エルサレムの復興における神の目的」『サザン・ウォッチマン』(White,”A Holy Purpose to Restore Jerusalem” Southern Watchman,March1,1904)142ページ。ハーゼル『血の契約』(Hasel,Covernant in Blood(Mountain View,CA:Pacific Press,1982))参照。ワレンカンプ『救いは主から来る』(Wallenkampf,Salvation Comes From the Lord(Washington,D.C.:Review and Herald,1983))84-90ページ参照。

[13]バーゼル『血の契約』(Hasel,Covenant in Blood)参照。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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