キリストの生涯と死と復活【アドベンチストの信仰#9】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

神は、神のみこころに完全に従ったキリストの生涯とその苦難、死、復活を通して、人間の罪を贖う唯一の方法を提供された。それは、信仰によって贖いを受け入れる者が永遠のいのちを受け、すべての造られたものが創造主の無限の聖なる愛をよりよく理解するようになるためである。この完全な贖いは、神の律法が義であり、神の品性が恵み深いことを擁護する。神の義と恵みは、われわれを罪に定めるとともに、われわれに赦しをもたらすからである。キリストの死は身代りの死であって、われわれに贖いと和解と変革をもたらす。見える形でのキリストの復活は、悪の力に対する神の勝利を宣言し、贖いを受け入れた者には、罪と死に対する究極的な勝利を確信させる。復活は、イエス・キリストが主であることを示す。天と地にあるすべての者は、そのみ前にひれ伏す。(信仰の大要9)

一つの開かれた門が、天にある宇宙の中心へと導きます。「入ってきて、ここでなにが起るかを見なさい」と声が招きます。使徒ヨハネは聖霊に感じて神のみ座の光景を見ます。

み座の回りにはエメラルドの虹が輝いていて、そこから、いなずまがひらめき、雷ともろもろの声とが聞えてきます。白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった高位の者たちが小さい方の座についています。頌栄の声が周りに満ちあふれるとき、長老たちは自分たちの金の冠をみ座の前に投げ出してひれ伏します。

七つの封印で封じられた巻物を持っている一人のみ使が、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」(黙示録5:2)と叫びます。ヨハネは、天にも地にもこの巻物を開くにふさわしい者のいないことを知って動揺します。その動揺が涙に変ります。すると長老の一人が、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙示録5:5)と言って慰めます。

ふたたび輝くみ座に目を向けたとき、ヨハネはほふられたが今は生きていて聖霊の力を受けている小羊を見ます。小羊が身を低くして巻物を受取ったとき、生き物と長老たちとが新しい讃美をささげます。「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」(黙示録5:9,10)。天と地のすべての被造物もその讃美に加わり、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」(黙示録5:13)と歌いました。

この巻物の何がそんなに重要なのでしょうか。その中には人類がサタンの奴隷から解放されることと罪に対する神の完全な勝利が記録されています。そこには完全な救いが示されていて、罪にとらわれている人々は、ただ救いを選ぶことによって滅びの獄屋から解放されるのです。ベツレヘムでお生まれになる大分前に、小羊は、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:7,8、ヘブル10:7参照)と叫ばれました。人類のあがないに効力を与えたのは、実に世のはじめからほふられたもうたこの小羊の来臨でありました(黙示録13:8)。

目次

神の救いの恵み

聖書は、神が人類の救済に強い関心をもっておられることを示しています。三位一体の神は人々を創造主に結びつけるために一致して働いておられます。イエスは神の救済の愛を強調して「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と言われました。

聖書は「神は愛である」(1ヨハネ4:8)と述べています。神は「限りなき愛」(エレミヤ31:3)をもって人類に手をさしのべられます。救いに招く神は全能であられます。しかし神の愛は、各人がそれに答えるのに選択の自由を持つことを必要とします(黙示録3:20,21)。強制は、神の品性に反することであり、神の方策にはまったく含まれえないのです。

神の主導権

アダムとエバが罪を犯したとき、神の方からまず彼らを捜されました。やましい思いのある二人は創造主の歩かれる音を聞いたとき、罪を犯す前にはそうであったような行動、すなわち喜んで神に会いに走って行くようなことはしませんでした。それどころか身を隠したのです。しかし神は二人を見捨てられませんでした。「あなたはどこにいるのか」と、根気よく呼びかけられました。

神は深い悲しみをもって、彼らの不服従の結果もたらされる苦痛、すなわち彼らがやがて経験することになるもろもろの困難のあらましを述べられました。しかし、絶望の極みにあった二人に神は、罪と死に対する完全な勝利を約束している、ひとつのすばらしい計画を示されました(創世記3:15)。

恵みか正義か

後にイスラエルがシナイで背教したとき、主はモーセに慈悲と公正の品性をお示しになり、次のように言われました。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」(出エジプト34:6,7)。

神の品性は、恵みと正義、またよろこんで罪をゆるすことと、とがを見すごそうとしないこととの独特な混合を示しています。キリストという方においてのみ、わたしたちは、これらの性質がいかに互いにうまく調和できるものであるかを見ることができます。

ゆるしか罰か

イスラエルの背信の時代、神は、イスラエルが自分たちの罪を認めて、神にたち帰るように長い間何度も訴えられました(エレミヤ3:12-14)。しかし彼らは神のあわれみの招きを拒絶しました(エレミヤ5:3)。ゆるしをあざけるような悔改めのない態度は必ず罰を招きます(詩篇7:12)。

神はあわれみ深い方ですが、罪に執着する者をゆるすことはおできになりません(エレミヤ5:7)。ゆるしには目的があります。神は罪人を聖徒に変えようと望んでおられます。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」(イザヤ55:5)。救いの使命は全世界にはっきりと鳴り響きます。「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ」(イザヤ45:22)。

罪に対する神の怒り

最初の罪は人間の心の中に神に敵対する傾向をもたらしました(コロサイ1:21)。結果として、わたしたちが神の不興を買うにいたったのは当然です。神は「焼きつくす火」(ヘブル12:29、ハバクク1:13参照)です。「すべての人は罪を犯した」(ローマ3:23)、すべての人は「生れながらの怒りの子」(エペソ2:3、同5:6参照)である。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)ゆえに人は死なねばならないという教えは厳粛な真理です。

神の怒りとは、聖書が罪と不義に対する神の反応とみなしているものです(ローマ1:18)。神の啓示された意志(律法)に対する故意の拒絶は、神の正義の怒りを引き起します(列王下17:16-18、歴代下36:16)。G・E・ラッドは、「人間は道徳的に罪深い存在です。神が人間の罪過を数えられるとき、彼らを罪人、敵、神の怒りの対象と見なさないわけにはいきません。なぜなら神の聖潔は罪に対する怒りにおいてそれ自身を現すことが道徳的にまた宗教的に必要だからです」[1]と書いています。しかし同時に神は反逆した世界を救おうと望んでおられます。神はすべての罪を憎まれるが、すべての罪人をこよなく愛されます。

人間の応答

イスラエルに対する神の取り計いは、神の恵みの「絶大な富」(エペソ2:7)についてもっとも明らかな洞察を与えてくれるイエス・キリストのみ業においてその極点に達しました。ヨハネは、「わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)といいました。パウロは、「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」(1コリント1:30,31)と書きました。それ故にだれが「神の慈愛と忍耐と寛容との富」を軽んじることができましょうか。パウロははっきりと悔改めに導くのは「神の慈愛」(ローマ2:4)であると指摘しています。

神がお与えになる救いに対し人間が応答するのでさえ、それは人から出たものでなく、神から出たものなのです。信仰はただ神の賜物です(ローマ12:3)。悔改めも神の賜物です(使徒5:31)。わたしたちの愛は神の愛に対する応答として芽生えるのです(1ヨハネ4:19)。わたしたちは自分をサタン、罪、苦しみ、死から救うことはできません。わたしたち自身の義は、汚れた衣のようなものです(イザヤ64:6)。「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし、……あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためである」(エペソ2:4,5,8,9)。

キリストの和解の務め

福音とは、「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」(2コリント5:19)られたということです。キリストによる和解が神と人類の関係を回復させます。この聖句は、このようにして罪人を神に和解させるのであって、神を罪人に和解させるのではないことを示しています。罪人を神に連れ戻す鍵はキリストです。神の和解の計画は神の驚くべき謙遜の業であります。神は人類を滅ぼすすべての権限をもっておられたのです。

すでにふれたように、人類とご自身との間の破れた関係を回復するために主導権を発動されたのは実に神ご自身でした。パウロは、「わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けた」(ローマ5:10)と言いました。その結果、「わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶ」(ローマ5:11)のです。

和解の過程は贖罪という語と関連がありました。「英語のAtonement(贖罪)は元来at-one-mentすなわち『一致』または同意の状態を意味しました。したがって、『贖罪』とは関係における調和を示しました。仲たがいがあった場合、一致は和解の過程の結果として得られることになります。したがって元来の意味からすると、『贖罪』という言葉は、仲たがいの状態を終らせた和解の状態を意味しました。」[2]

多くのクリスチャンは贖罪という語をもっぱらキリストの受肉と苦難と死によるあがないの結果に限定します。しかしながら、聖所の儀式においては、贖罪は単に犠牲の小羊を殺すことだけでなく、その流された血を用いて祭司が聖所の中で奉仕することも含んでいました(レビ4:20,26,35、16:15-18,32,33参照)。聖書的用法に従えば、贖罪はキリストの死と天の聖所におけるキリストの仲保の務めの両者を指すことができます。キリストは大祭司として人間を神と和解させるためにご自身の完全なあがないの犠牲の恵みを用いられます[3]

ヴィンセント・テイラーも贖罪の教理には次の二つの側面があることを指摘しています。「a、キリストの救いの行為。及びb、キリストの業が信仰によって個人及び集団のいずれにも供されること。これらの二つが一緒になってキリストの贖罪が構成されています。」この洞察に立って彼は、「贖罪はわたしたちのために成し遂げられ、わたしたちのうちで働く」[4]と結論しました。

この章はキリストの死と関連する贖罪に焦点を合わせています。キリストの大祭司としての働きに関連する贖罪はあとで述べられることになります(本書第23章参照)。

キリストの贖罪の犠牲

カルバリーにおけるキリストの贖罪の犠牲は、神と人類の関係の転換点となりました。人々の罪の記録はありますが、和解の結果として神は彼らの罪を数えられません(2コリント5:19)。このことは神が罰を忘れたり、罪がもはや神の怒りをひき起さないということを意味しているのではありません。むしろ、神が永遠の律法の正義を支持しながら、悔改めた罪人をゆるす方法を見つけられたことを意味します。

キリストの死の必要

イエス・キリストの瞭罪の死は、愛の神が正義を擁護するために、「道徳的にも法的にも必要なもの」となりました。神の「正義は罪が裁かれることを要求します。それゆえに神は罪と罪人とに裁きを下されなければなりません。この執行にあたって神のみ子は、神の意志に従ってわたしたちの立場、罪人の立場をとられました。贖罪は人が神の義の怒りの下にあったために必要とされました。ここに罪のゆるしの福音の核心とキリストの十字架の神秘がありました。キリストの完全な義が神の正義の要求を充分に満たし、神は人間の死の代りにキリストの自己犠牲を喜んでお受けいれになります」[5]

キリストのあがないの血を喜んで受け入れない者たちには罪のゆるしはあたえられず、彼らは今なお神の怒りの下にあります。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)。

それゆえに、十字架は神の恵みと正義の表示であります。「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ3:25,26)。

贖罪の犠牲がなしとげたこと

み子を「あがないの犠牲」(asacrificeofatonement)(ローマ3:25、NIV、ギリシャ語、ヒラステリオン)、「なだめ」(apropitiation KJV、NKJV)、「つぐない」(anexpiation RSV)としてさし出されたのは父ご自身でした。ヒラステリオンの新約聖書における用法は、「怒りの神をなだめる」または「報復的な気まぐれな神を和らげる」[6]といった異教の概念とは関係がありません。右の聖句は以下のことを示しています。「神はあわれみ深いみ旨に基づき人類のとがに対する神の聖なる怒りをなだめるためにキリストをお与えになりました。それは神がキリストを人間の代表とし、また罪に対する神のさばきを受ける神聖な身代りとして受けいれられたからです。」[7]

この観点に立つと、パウロがキリストの死を、「神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえ」(エペソ5:2、創世記8:21、出エジプト29:18、レビ1:9参照)と述べたことが理解できます。「キリストの自己犠牲は神に喜ばれています。なぜならこの犠牲の供え物は、キリストが人間の罪に対する神の怒りを完全に負われたことによって神と罪人の間の障害物を取り除いたからです。キリストをとおして神の怒りが愛に変えられるのではなく、キリストをとおして神の怒りが人から退けられ、キリストの上に置かれるのです。」[8]

ローマ人への手紙3章25節の聖句も、キリストの犠牲によって罪の償い、または清めがなされることを示しています。償いはあがないの血が悔改めた罪人に対してどんなことをするかに焦点をあてています。彼はゆるしと個人的なとがの除去、罪からの清めを経験します。[9]

身代りとして罪を負われたキリスト

聖書はキリストを、人類の「罪を負われた方」として描写しています。イザヤは含蓄に富む預言的言葉で次のように述べています。「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。…主はわれわれすべての者の不義を、彼の」におかれた。…彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。…(彼は)とがの供え物となり、…しかも彼は多くの人の罪を負」った(イザヤ53:5,6,10,12、ガラテヤ1:4参照)。パウロはこの預言を心にとめて、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」(1コリント15:3)と述べています。

これらの聖句は、わたしたちを汚した罪ととががわたしたちの罪を負って下さる方の上に移され、その結果わたしたちは清いものとされることができるという、救いの計画の中の重要な思想を強調しています(詩篇51:10参照)。旧約聖書の聖所における犠牲制度はこのようなキリストの役割を示していました。そこで悔改めた罪人の罪が無垢な小羊に移されたことは、罪を負われる方、すなわちキリストにそれが移されることを象徴していました(本書第4章参照)。

血の役割

血は聖所においてささげられたあがないの犠牲の中で中心的な役割を演じました。神は、「肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために…あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた」(レビ17:11)と言われて、あがないのために備えられました。動物を殺したのち、祭司は、ゆるしが与えられる前に、動物の血を注がなければなりませんでした。

代用の血によるゆるしときよめと和解を得るための旧約聖書の儀式は、カルバリーのキリストの犠牲のあがないの血において成就したと新約聖書は教えています。古い方法と対比して、新約聖書は、「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」(ヘブル9:14)と述べています。流されたキリストの血は罪の償いをなしとげました(ローマ3:25、RSV)。ヨハネは、神は愛のゆえに「わたしたちの罪のためにあがないの供え物(ヒラスモス、『償い』、RSV、『あがないの犠牲』、NIV)として御子をおつかわしになった」(1ヨハネ4:10)と言いました。

要約すると次のように言うことができます。「神の客観的な和解の行為は、み子キリスト・イエスのなだめと償いの血(自己犠牲)によって完成されました。このように神は和解の提供者であると同時に受容者でもあられます。」[10]

代償の価としてのキリスト

人間が罪の支配下に置かれたとき、同時に神の律法の有罪宣告とのろいの支配下にも置かれました(ローマ6:4、ガラテヤ3:10-13)。罪の僕(ローマ6:17)、すなわち死に支配される者として、かれらはそこから逃げることができませんでした。「人はだれも他人のいのちをあがなうことはできない。また自分のためにいのちの価を神に支払うことはできない」(詩篇49:5、NIV)。あがなう力は神だけが持っておられます。「わたしは彼らを陰府の力から、あがなうことがあろうか。彼らを死から、あがなうことがあろうか」(ホセア13:14)。神はどのようにして彼らをあがなわれたのでしょうか。

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マタイ20:28、1テモテ2:6参照)とあかしされたキリストをとおして、神は「御子の血」(使徒20:28)により教会を「あがない取られ」(使徒20:28)ました。わたしたちは、キリストにあって、「その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けた」(エペソ1:7、ローマ3:24参照)のです。キリストの死は、「わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するため」(テトス2:14)でありました。

代償の価の成果

キリストの死は、神が人類の所有者であるという事実を批准しました。パウロは、「あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」(1コリント6:19,20、1コリント5:23参照)と言いました。

キリストはご自分の死によって罪の支配を打破り、霊的捕囚を終らせ、律法の有罪宣告とのろいをとり除き、悔改めたすべての罪人が永遠の命を得ることができるようにされました。ペテロは信徒が「先祖伝来の空疎な生活からあがない出された」(1ペテロ1:18)と言いました。罪のしもべ及びその致命的な結果から解放された者たちは、今や「きよきに至る実とその結果である永遠のいのち」【訳注1】(ローマ6:22、NKJV)をもって神に奉仕しています。

代償の価の原則を無視または拒否することは「恵みの福音の核心を失うことであり、神の小羊に対する深い感謝の動機を否定すること」となるのでした。[11]この原則は天のみ座のまわりで歌われる頌栄の中心でした。

「あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」(黙示録5:9,10)。

キリストは人類の代表

アダム及び「最後のアダム」または「第二の人」であるキリスト(1コリント15:45,47)の両者は全人類を代表しています。肉の誕生はすべての者にアダムの罪の結果を負わせますが、霊の誕生を経験する者はすべてキリストの完全ないのちと犠牲の恩恵を受けます。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」(1コリント15:22)。

アダムの反逆はすべての人に罪と有罪宣告と死をもたらしました。キリストは下向きの傾向を逆転されました。大いなる愛をもってキリストはご自分を罪の裁きにゆだねられ、人類の代表者となられました。キリストの身代りの死は罪の刑罰からの解放をもたらし、悔改めた罪人に永遠の命の賜物を与えました(2コリント5:21、ローマ6:23、1ペテロ3:18)。

聖書は、はっきりとキリストの身代りの死の普遍的な性質を教えています。「神の恵み」によって、キリストはすべての人のために死なれました(ヘブル2:9)。アダムと同じく、すべての人は罪を犯しました(ローマ5:12)。それですべての人は第一の死を経験するのです。キリストがすべての人のために味わわれた死は第二の死、すなわち完全な死ののろいでした(黙示録20:6、本書第26章参照)。

キリストのいのちと救い

「もしわたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」(ローマ5:10)。罪によってえぐられた深い淵に橋をかけるためには、キリストの死と命とが必要でした。どちらもわたしたちの救いに不可欠であり、有用なものでした。

わたしたちのためのキリストの完全な生活

キリストは神にまったく頼られ、高潔で聖別された愛の生活をおくられました。キリストは尊い命を悔改めた罪人に賜物として分け与えられます。キリストの完全な品性は義を達成しようとする人間の試みの汚れた衣をおおうためにキリストがお与えになる婚宴の礼服(マタイ22:11)または義の衣(イザヤ61:10)として描写されています(イザヤ64:6)。

わたしたちの堕落にもかかわらず、自分自身をキリストにささげるとき、心はキリストの心と結合し、意志はキリストの意志に没入し、精神はキリストの精神と一つになり、思いはキリストのうちにとらえられて、わたしたちはキリストのいのちを生きるのです。わたしたちはキリストの義の衣でおおわれるのです。神が信じ悔改めている罪人をご覧になるとき、裸や罪の醜さではなく、律法に対するキリストの完全な従順によって織られた義の衣をご覧になるのです。[12]人はだれでもこの衣によっておおわれないかぎり、真に義となることはできません。

婚宴の礼服のたとえの中で、自分の服を着て人ってきた客はその.不信仰のゆえに外にほうり出されたのではありませんでした。彼は婚宴の招待を受け入れました(マタイ22:10)。しかし彼の出席には欠けたところがありました。彼には結婚の礼服が必要でした。同様に十字架を信じるだけでは充分ではありません。王の前に出るには、わたしたちにもキリストの完全ないのちと義の品性が必要です。

わたしたちは罪人として負債が帳消しにされるだけでなく、自分たちの銀行口座が回復される必要があります。わたしたちには牢獄からの解放以上のものが必要です。王の家族に養子として迎えられる必要があります。復活されたキリストの仲保の奉仕にはゆるしとおおい、すなわちわたしたちの命にキリストの死と命を適用することと、神の前にわたしたちを立たせることとの二重の目的があります。カルバリーで語られた「すべてが終った」という言葉は完全ないのちと完全な犠牲の完結を意味していました。罪人にはその両者が必要です。

キリストの生活が与えてくれる励まし

地上でのキリストの生活は、さらに人類に生き方のモデルを示しました。たとえばペテロは、キリストが虐待に対処された方法をわたしたちの模範として勧めています(1ペテロ2:21-23)。わたしたちと同様の者として生まれ、あらゆる点でわたしたちと同じような試みを受けられたキリストは、神の力に頼る者たちが罪を犯し続けないでおられることを実証されました。キリストの生活はわたしたちが勝利の生活をおくることができることを保証しています。パウロは、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)と証ししました。

キリストの復活と救い

「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」、そして、「あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう」(1コリント15:14,17)とパウロは言いました。イエス・キリストは肉体をもって復活し(ルカ24:36-43)、神であり人である者として昇天され、父なる神のみ座の右に座して困難な仲保のわざをはじめられました(ヘブル8:1,2、本書第4章参照)。

キリストの復活は、失望した弟子たちが金曜日の十字架のときには見ることができなかった十字架の意味を明らかにしました。キリストの復活はこれらの弟子たちを、歴史を変える力強い戦士に変えました。復活、それはけっして十字架から分離されてはならない事柄ですが、それが弟子たちの宣教の中心となりました。彼らは悪の勢力に勝利された生ける十字架のキリストを宣べ伝えました。これが使徒たちの使命に力を与えました。

「キリストの復活は、キリスト教の真偽を決定する重大な試金石です。それは歴史が記録する最も大きな奇跡にもなれば、最も大きな欺瞞にもなります」とフィリップ・シャッフが書きました 。[13]ウイルバー・M・スミスは次のように注解しました。「キリストの復活はクリスチャン信仰の最後の拠点です。これは1世紀において世界をひっくり返し、キリスト教をユダヤ教と地中海世界の異教の上に高く押し上げた教理です。もしこの教理が有効に働くなら、主イエス・キリストの福音において極めて重大で、ユニークな他のほとんどすべての教えもそのようになるにちがいありません。『もしキリストがよみがえられなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなる』(1コリント15:17)。」[14]

キリストの現在の働きはその死と復活に根ざしています。カルバリーにおけるあがないの犠牲が充分かつ完全であったとしても、もし復活がなかったら、地上におけるご自分の働きをキリストが成功裏に終えられたことの保証をわれわれは何も持っていなかったことになったでしょう。キリストのよみがえりは、墓のかなたのいのちの現実を確認し、キリストのうちにある永遠のいのちに関する神の約束が真実であることを実証しています。

キリストの救いの奉仕の結果

キリストのあがないの働きは人類だけでなく、全宇宙にも影響を及ぼします。

全宇宙の和解

パウロは教会内および教会をとおしてのキリストの救いの大きさを示してつぎのように述べています。「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって」(エペソ3:10)。さらにパウロは、キリストをとおし、「その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、…ご自分と和解させ」(コロサイ1:20)ることは、神の喜びであると主張しています。パウロは和解の驚くべき結果を鮮明にしてつぎのように言いました。「イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰する」(ピリピ2:10,11)べきです、と。

神の律法の擁護

キリストの完全なあがないの犠牲は神のあわれみ深い品性のほか、正義及び善、または神の聖なる律法を擁護しました。キリストの死と代償の価は律法の要求を満たす(罪は罰せらされる必要があった)と同時に、恵みとあわれみによって悔改めた罪人を義としました。パウロは「肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」(ローマ8:3,4)と言いました。

義認

提供されているゆるしを人が受入れるときにのみ和解は有効なものとなります。放蕩息子は父の愛とゆるしを受入れたとき父との和解が成立しました。

「神がキリストにあって世をご自分と和解させられたことを信仰によって受入れて神に服従する者には、高価な義認の賜物とそれに伴う神との平和が神から与えられます。ローマ人への手紙5章1節。義とされた信徒は、もはや神の怒りの対象でなく、神の好意の対象となります。キリストをとおして神のみ座に近づくことにより、彼らは聖霊の力を受け、ユダヤ人と異邦人との間に存在する敵意によって象徴された人間と人間との間の敵意という隔ての中垣を取除きます。エペソ人への手紙2章14-16節参照。」[15]

行為による救いの無用性

神の和解の奉仕は、律法の行為によって救いを得ようとする人間の努力の無価値なことを示します。神の恵みに対する洞察は、キリストへの信仰を通して有効なものとなる義をわたしたちが受入れるようにと導きます。ゆるしを経験した者の感謝は服従することを喜びと感じさせます。そこでは行為は救いの根拠ではなく救いの実なのです。[16]

神との新しい関係

キリストの完全な服従の生活とその義、また無償の賜物としてのそのあがないの死とを提供している、神の恵みを経験するとき、わたしたちは神との深い交わりに導かれます。感謝、讃美、喜びが湧き起り、服従は楽しみとなり、神の言葉を喜んで学び、心は聖霊が宿る場所となります。神と悔改めた罪人との新しい関係が築かれるのです。この関係は恐れと義務感からでなく、愛と感謝からでた交わりです(ヨハネ15:1-10参照)。

わたしたちが神の恵みを十字架の光に照らして理解すればするほど、独善性は弱まり、自分がどんなに祝福されているかをさとります。キリストが死からよみがえられたときにキリストの中に働いた同じ聖霊の力がわたしたちの生活を変えます。失敗のかわりに日々罪に勝利することができるようになります。

伝道への動機づけ

イエス・キリストをとおしてなされた和解の働きに示されている驚くべき愛は、わたしたちに福音宣教を動機づけます。わたしたちがそれを自分で経験するとき、罪のためにささげられたキリストの犠牲を受け入れる者を神は罪人として扱われることがないという事実を心に秘めておくことはできなくなります。したがって、わたしたちは、「神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためである」(2コリント5:20,21)との生ける福音の招待を他の人々に伝えるのです。

訳注

  1. 口語訳では、ここは「きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである」と訳されています。

[1]ジョージ・E・ラッド『新約聖書神学』(George E. Ladd, A Theology of the New Testament (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmands, 1974)、453ページ。

[2]「贖罪」『セブンスデー・アドベンチスト聖書辞典』(”Atonement” SDA Bible Dictionary)改訂版、95ページ。

[3]この聖書的概念についてさらに考察を深めたい場合は、『セブンスデー・アドベンチスト教理の研究』(三育学院短期大学、1956年)325-337ページ参照。

[4]ヴィンセント・テイラー『キリストの十字架』(Vincent Taylor, The Cross of Christ (London: Macmillan, 1956)88,89ページ。

[5]ハンス・K・ラロンデル『わたしたちの救いキリスト』(Hans K.LaRondelle,Christ Our salvation (MountainView,CA:Pacific Press,1980))、25,26ページ。

[6]ラウール・デドレン「キリストの死におけるあがないの側面」アーノルド・V・ヴァレンカンプ、w・リチャード・レシャー編『聖所と贖罪』(Raoul Dederen, “Atoning Aspects in Christ’s Death,” in The Sanctuary and the Atonement, eds., Arnold V. Wallen-Kampf and W. Richard Lesher, (Washington, D. C.: 〔Biblical Research Institute of the General Conference of Seventh-day Adventists〕, 1981))、295ページ。彼は次のようにつけ加えています。「異教徒の間で、なだめは礼拝者がそれを捧げることによって神の心を変えることができる行為であると考えられた。彼は単に自分の神の好意をかちとるために、神にわいろを贈ったのである。聖書では、償い―なだめ(expiation-propi-tiation)は神の愛からわき出るものと考えられている」(同317ページ)。

[7]ラロンデル(LaRondelle)、26ページ。

[8]同、26,27ページ。

[9]デドレン(Dederen)、295ページ。

[10]ラロンデル(LaRondelle)、28ページ。この引用文はH・G・リンク、C・ブラウン「和解」『新約聖書神学新国際辞典』(H. G. Link and C. Brown, “Reconciliation,” The New International Dictionary of New Testament Theology(Grand Rapids, MI: Zondervan, 1978))、第3巻、162ページからとられました。

[11]ラロンデル(LaRondelle)、30ページ。

[12]ホワイト『キリストの実物教訓』(福音社、1967年)、292ページ参照。

[13]フィリップ・シャフ『教会史』(Philip Schaff, History of the Christian Church(Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans, 1962))、第1巻、173ページ。

[14]ウイルバー・M・スミス「20世紀の科学者とキリストの復活」『現代キリスト教』(Wilbur M. Smith, “Twentieth-Century Scientists and the Resurrection of Christ” Christianity Today)、1957年4月15日号、22ページ。復活の歴史性について論考する場合は、ジョシュ・マクドウェル『裁断を求める証拠』(Josh McDowell, Evidence That Demands a Verdict(Campus Crusade for Christ, 1972)、185-274ページ参照。

[15]ラロンデル(LaRondelle)、32,33ページ。

[16]ハイド「キリストの命はわたしにとってどのような意味があるか」『アドベンチスト・レビュー』(Hyde, “What Christ’s Life Means to Me.” Adventist Review)、1986年11月6日号、19ページ参照。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次