救いの体験【アドベンチストの信仰#10】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

神は限りない愛とあわれみをもって、罪を知らないキリストをわれわれのために罪とされた。それは、われわれがキリストにあって神の義とされるためである。われわれは聖霊に導かれて自らの必要を悟り、自らの罪深さを認め、イエスに対する信仰を働かせる。イエスは救い主であり、主であるとともに、われわれの代理にして模範である。この救いの信仰は、神の恵みの賜物であって、神の言葉の力を通して来る。キリストを通して、われわれは義とされ、神の息子、娘とされ、罪の支配から救われる。聖霊によって、われわれは生れ変り、清められる。聖霊はわれわれの心を新たにし、神の律法を心に書きつける。このようにして、われわれには、聖なる生活をする力が与えられる。われわれは神のうちにあって、神の性質にあずかる者となり、現在も将来の裁きの時も救われることを確信している。(信仰の大要10)

何世紀も前、ヘルマスの羊飼いは、長生きをしてしわが寄った老婦人の夢を見ました。その夢の中で、やがてこの老婦人の姿が、変り始めました。肉体は衰え、髪は白髪のままでありながら、顔の表情が若々しく見えたのです。そしてついに、彼女は若さを取り戻してしまいました。

T・F・トーランスは、その婦人を教会になぞらえました[1]。クリスチャンは、静止してなどいられません。キリストの霊が内に宿っているなら(ローマ8:9)、クリスチャンは変貌の途上にあるのです。

パウロは次のように述べています。「キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより主言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである」(エペソ5:25-27)。ここで述べられているようなきよめこそ、教会の目ざす目標です。このことのゆえに、教会を構成している信徒は、「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(2コリント4:16)と証言することができるのです。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(2コリント3:18)。この変貌こそ、究極的かつ本質的なペンテコステなのです。

救い、義認、聖化、きよめ及びあがないという信徒の体験についての描写が、(1)すでに達成されてしまったこと、(2)現在実現されつつあること、さらには、(3)将来実現されることとして、聖書全体に記されています。これら三つの視点についての理解が、義認と聖化の関係を強調することから生れる戸惑いを解く助けとなります。したがって、この章は信仰者の過去、現在、未来における救いという、三つの主要な部分に分けられています。

目次

救いの体験と過去

事実に基づく神や神の愛と慈悲についての知識は、充分なものではありません。キリストから離れて、自己の内部に善を促進しようとすることは、かえって逆効果を生みます。魂の深みにまで広がる救いの体験は、神からのみ得られるものです。この体験について、キリストは次のように述べられました。「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない。…だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」(ヨハネ3:3,5)。

イエス・キリストによってのみ、わたしたちは救いの体験にあずかることができるのです。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:12)。イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。

救いの体験には、悔改め、告白、ゆるし、義認及び聖化がふくまれます。

悔改め

イエスは、十字架に掛けられる直前に、弟子たちに聖霊をつかわすと約束されましたが、聖霊は、「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開」(ヨハネ16:8)き、イエスについて明らかにされたのです。ペンテコステのとき、人々は、聖霊によって救い主の必要を示され、そこでどのようにすべきかを尋ねたのですが、そのときペテロは、「悔い改めなさい」(使徒2:37,38、同3:19参照)と答えました。

1悔改めとは何か

悔改めという言葉は、ヘブル語のナハムの訳語で、「後悔する」、「残念に思う」という意味を持っています。同義語のギリシャ語メタノエオは、「考え直す」、「良心の呵責を覚える」、「後悔する」を意味します。純粋な悔改めは、結局、神と罪に対する根本的な姿勢の変化なのです。神の霊は、神を受入れる者に、神の義と自分たちの失われている状態についての意味を悟らせることによって、罪のゆゆしさを明らかにされます。彼らは悲しみと罪とを自覚するのです。「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける」(箴言28:13)との真理を認めて、彼らは特定の罪を告白するのです。意志を断固働かせることによって、彼らは救い主に全的に降伏し、罪深い行動を放棄します。このように悔改めは、改心すなわち、罪人の神に向かう方向転換(「方向転換」を意味するギリシャ語エピストロフェに由来、使徒15:3参照)[2]において最高点に達します。

姦通と殺人の罪に対するダビデの悔改めは、この体験が、いかに罪に対する勝利の道へと導くかを、鮮やかに例証しているものです。聖霊によって罪を悟らされたダビデは、自分の犯した罪を嘆き悲しみ、とがからのきよめを嘆願したのです。「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。」「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。」「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」(詩篇51:3,1,10)。ダビデのその後の体験は、神のゆるしが、単に罪に対するゆるしをもたらすだけでなく、罪からの回心をももたらすことを例証しています。

悔改めが許しに先立つにしても、罪人は、悔改めることによって、神の祝福を確実なものにするため、自らをゆるしにふさわしい者とすることができるわけではありません。事実、罪人は自ら悔改めることさえできないのです。それは神の賜物です(使徒5:31、ローマ2:4参照)。聖霊が罪人をキリストへと導かれ、その結果、罪に対する心からの悲しみである悔改めがもたらされるのです。

2悔改めの動機

「そして、わたしがこの地から上げられるときには、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネ12:32)と、キリストは言われました。キリストの死が、わたしたちを義とし、死の刑罰からわたしたちを解き放つと感じるとき、わたしたちの心は溶かされ、和らげられます。列をつくって死刑執行を待つ囚人に、突如許しが与えられたとしたら、どんな気持がするでしょうか。

キリストにあって悔改めた罪人は、許されるだけではなく、無罪、すなわち義と宣告されるのです。彼はそのような処遇を受けるに値しませんし、また受けることもできません。パウロが指摘しているように、わたしたちがまだ弱く、罪深く、不信心で、敵であったときに、キリストはわたしたちを義とするために死んで下さったのです(ローマ5:6-10)。キリストの許しの愛ほど、魂の深みまで揺さぶるものは他にありません。罪人が、十字架に表されたこの計り難い神の愛を熟慮するとき、彼らは悔改めるよう強く動機づけられるのです。これこそ、わたしたちを悔改めへと導く神の慈愛なのです(ローマ2:4)。

義認

限りのない愛と慈悲において、神は「わたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされ」ました。それは、「わたしたちが、彼にあって神の義となるため」(2コリント5:21)でした。イエスへの信仰により、心は主の聖霊に満たされるのです。神の恵みの賜物であるこの同じ信仰によって(ローマ12:3、エペソ2:8)、悔改めた罪人は義とされるのです(ローマ3:28)。

「義認」という語は、「義の要求または行為」、「法規」、「公平な判決」、「義なる行為」を意味するギリシャ語のディカイオマと、「正しいとされること」、「弁護」、「無罪放免」を意味するディカイオシスの訳語です。これらの言葉に関連した動詞ディカイオーは、「義と宣告され、義として扱われること」、「無罪とされること」、「正しいとされること」、「自由とされ、清くされること」、「正しいとすること」、「正当であることを立証すること」、「正当な取り扱いをすること」という意味なのですが、この義認という用語の意味を考える上で補足的な洞察を加えています[3]

一般的に、神学的に用いられる義認とは「神が悔改めた罪人を義と宣告される、すなわち、義とみなされる神聖な行為」のことなのです。義認は罪の宣告の反対語です(ローマ5:16)。」[4]この義認の根拠は、わたしたちの従順ではなく、キリストの従順です。次のように言われています。「ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、…ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである」(ローマ5:18,19)。主は、「価なしに、神の恵みにより、…義とされる」(ローマ3:24)信徒に、この従順を与えられるのです。「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、…わたしたちは救われたのである」(テトス3:5,6)。

1信仰の役割と行為

善悪の行為によって、神の前での立場が決定されてしまう、と誤って信じている人は、決して少なくありません。神の前で、人がどのように義とされるかという疑問に対して、パウロは率直に次のように述べています。「わたしは、…わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。…それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ3:8,9)。彼はアブラハムをさして、「彼は神を信じた。それによって、彼は義と認められた〔を帰された、NIV〕」(ローマ4:3、創世記15:6)と述べています。アブラハムは、割礼を受けたためではなく、割礼を受ける前に義とされたのです(ローマ4:9,10)。

どのような信仰を、アブラハムは持っていたのでしょうか。聖書には、アブラハムが神より召しを受けたとき、「信仰によって…それに従い」、故郷をいで立ち、「行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8-10、創世記12:4、13:18参照)と記されています。アブラハムが神に対して本当の生きた信仰を持っていたということは、彼の従順によって示されていました。彼が義とされていたということこそ、このダイナミックな信仰の基礎でした。

使徒ヤコブは、行いが伴わなくとも、信仰によって義とされるという、信仰による義のまちがった理解について警告しています。彼は、行いの伴わない純粋な信仰などありえないということを示しています。パウロと同じように、ヤコブもまた、アブラハムの体験から、信仰による義の考えを例証しているのです。アブラハムが息子イサクを祭壇にささげたことは、アブラハムの信仰を示していました(ヤコブ2:21)。「あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」た(ヤコブ2:22)と、ヤコブは述べています。「信仰も…行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(ヤコブ2:17)。

アブラハムの体験は、行いが神との真の関係の証拠であるということを表わしています。したがって、義に導く信仰は、行いを伴う生きた信仰なのです(ヤコブ2:24)。

パウロとヤコブは、信仰による義において、その見解が一致していました。パウロが、行いによって義を獲得するという誤りを指摘していたのに対して、ヤコブは行いが伴っていないにもかかわらず、当然の権利として義を要求するという、同じように危険な考え方を論じていたのです。行いも死んだ信仰も、義に導くことはありません。それは、愛によって働き(ガラテヤ5:6)、魂を清める純粋な信仰によってのみ、実現されうるものなのです。

2義認の体験

キリストに対する信仰による義により、主の義がわたしたちに帰せられます。わたしたちは、わたしたちの身代りであるキリストによって、神に対して義とされています。パウロは、神が「わたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)と述べています。悔改めた罪人として、わたしたちは完全なゆるしを体験するのです。わたしたちは神との和解を受けているのです。

大祭司ヨシュアについてのゼカリヤの幻は、義認を美しく例証しています。ヨシュアは、汚れた衣を着て、み使の前に立っていましたが、その汚れた衣は、罪の汚れを表していました。彼がそこに立っていたとき、サタンはヨシュアに罪が宣告されるよう要求しました。サタンの告発は確かに正しく、ヨシュアは無罪とは言い難いものでした。しかし、神はその慈悲をもって、「これは火の中から取り出した燃えさしではないか」(ゼカリヤ3:2)と、サタンを譴責されたのです。これは、わたしが特別に心にとめているわたしの大切な者ではありませんか。

主は、汚れた衣を速やかに脱ぐように命じられ、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」(ゼカリヤ3:4)と言われるのです。慈愛に満ちたわたしたちの神は、恐れおののく罪人を義とし、キリストの義の衣をもっておおい、サタンの訴えを退けられるのです。ヨシュアの汚れた衣は、罪を表わしていましたが、新しい衣は、信仰者のキリストとの新しい体験を表していました。義認の過程において、告白され、ゆるされた罪は、罪を負う小羊である清く聖なる神の子に転嫁されるのです。「しかしながら、神の義を受けるに値しない信仰者が、悔改めたときには、帰せられたキリストの義を身につけるのです。この衣の交換、すなわち、この神の救いの執行が、義認についての聖書の教義なのです。」[5]義とされた信徒はゆるしを体験し、自分の罪を清められるのです。

その結果

悔改めと義認の結果は、何なのでしょうか。

1聖化

「聖化」という言葉は、「聖とする」、「神聖にする」、「聖別する」、「区別する」を意味するギリシャ語のハギアゾーからきた「聖性」、「神聖」、「聖別」を意味するハギアスモスの訳語です。ヘブル語の同義語は、「通常の使用から区別する」[6]を意味するクァダシュです。

真の悔改めと義認は聖化をもたらします。義認と聖化とは密接に関連しており[7]、それぞれ別個のものでありながら、不可分のものです。この二つは救いの二つの局面を示しています。すなわち、義認がわたしたちのために神がしてくださることなら、聖化はわたしたちのうちに神がしてくださることなのです。

義認も聖化も、価値ある行いの結果ではありません。いずれもまったく、ただキリストの恵みと義によるのです。「私たちが義とされるのはキリストによって着せられる義によってであり、私たちが清められるのは、キリストを通して与えられる義によるものです。前者は天国にはいる私たちの肩書き、後者は天国にはいる私たちの資格です。」[8]

聖書が示している聖化は次の三つの局面を持っています。(1)信徒が過去において成した行為、(2)信徒の現在の体験における経過、さらに(3)再臨のときに信徒が体験する最終的な結果です。

信徒の過去に関しては、義認の瞬間に彼は、「主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって」(2コリント6:11)清められます。その人は「聖徒」となるのです。その点において、新たな信徒はあがなわれ、神に完全に属するのです。

神の召しの結果として(ローマ1:7)、信徒は、彼らが罪のない状態に達したからではなく、「キリストにある」(ピリピ1:1、ヨハネ15:1-7参照)から聖徒と呼ばれているのです。救いは現在の経験です。パウロは「ただ、神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」(テトス3:5,6)と述べていますが、わたしたちは神のあわれみによって、世から分たれ、聖なる目的とキリストと共なる歩みへと専心するのです。

2神の家族へ加えられる

同時に、新たな信徒は、「子たる身分を授ける霊」を受けたのです。神は彼らを神の子として受け入れる養子縁組をされますが、それは、信じる者は王のむすこでありむすめであるという意味です。主は、彼らを、主の相続人、「キリストと共同の相続人」(ローマ8:15-17)とされたのです。何という特権であり、名誉であり、喜びであることでしょう。

3救いの確証

義認はまた、信徒に、神によって受け入れられているということを確信させます。義認は、信徒に今や神と再び結び合わされているという喜びをもたらします。たとい過去の生活がどれほど罪深いものであったとしても、神はすべての罪をゆるされるので、わたしたちはもはや罪の宣告や律法ののろいの下にはいないのです。あがないが現実となったのです。「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである」(エペソ1:7)。

4新しい勝利に満ちた生活の始まり

救い主の血によるわたしたちの罪深い過去の償いの実現は、身体、魂そして心にいやしを与えます。罪責感が取り除かれます。なぜなら、キリストにおいてすべてはゆるされ、すべては新たにされるからです。日ごとに恵みを授けてくださることによって、キリストはわたしたちを神のかたちへと変えてくださるのです。

主に対するわたしたちの信仰が深まるにつれて、わたしたちのいやしや変貌がうながされ、さらに主は、わたしたちを闇の力にますます勝利させてくださるのです。主の世に対する勝利は、罪の奴隷からの自由をわたしたちに保証しているのです(ヨハネ16:33)。

5永遠の生命の賜物

わたしたちのキリストとの新たな関係は、永遠の生命の賜物をもたらします。ヨハネは次のように断言しています。「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(1ヨハネ5:12)。わたしたちの罪深い過去は案じられてきましたが、内に宿る聖霊によって、わたしたちは救いの祝福にあずかることができるのです。

救いの体験と現在

清め、義認及び聖化をもたらすキリストの血によって、信徒は、「新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった」(2コリント5:17)という体験をするのです。

聖化の生活への召し

救いとは、カルバリーでキリストがなし遂げてくださったことを基礎とした、清められた生活の営みを含みます。パウロは信徒に、倫理的な清さと道徳的な行為に結び付いた生活をするように、訴えました(1テサロニケ4:7)。信徒が聖化の体験にあずかることができるように、神は「聖なる霊」(ローマ1:4)を与えてくださいます。パウロは、神が「その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住」(エペソ3:16,17)んで下さるようにと言いました。

新しく造られた者として、信徒には、新しい責任が与えられます。パウロは、「あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない」(ローマ6:19)と述べています。今や、新しく造られた者は、「御霊によって」(ガラテヤ5:25)生きなければならないのです。

聖霊に満たされた信徒は、「肉によらず霊によって歩く」(ローマ8:1、8:4参照)のです。「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」(ローマ8:6)から、彼らは変えられるのです。神の聖霊の内住によって、彼らは「肉におるのではなく、霊におる」(ローマ8:9)のです。

聖霊に満たされた生活の究極の目標は、神を喜ばせることです(1テサロニケ4:1)。聖化とは神のみ旨であると、パウロは述べています。だからこそ、次のようにも述べているのです。「不品行を慎しみ」(1テサロニケ4:3)、「このようなことで…兄弟をだましたりしてはならない。…神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである」(1テサロニケ4:6,7)。

内的な変化

再臨のとき、わたしたちは、肉体的に変えられます。この朽ちはてて死すべき肉体が、朽ちることのない不死をまとうのです(1コリント15:51-54)。しかしながら、わたしたちの品性は、再臨に備えて、変化していなければなりません。

品性の変化は神のかたちの精神的、霊的側面、すなわち、日ごとに新しくされるべき「内なる人」(2コリント4:16、ローマ12:2参照)を意味しています。したがって、ヘルマスの羊飼の見た夢の話に出てくる老婦人のように、教会は内部から若返っていきます。そして、完全にみずからを明け渡したクリスチャンのひとりびとりは、神のかたちへと変貌が遂げられる再臨のときまで、栄光から栄光へと変えられていくのです。

1キリストと聖霊との関係

創造者だけが、わたしたちの生活を変える創造的なわざをなし遂げることがおできになります(1テサロニケ5:23)。しかしながら、主は、わたしたちの参与がない限り、それをなさることはありません。わたしたちは、聖霊のわざの通路に、自分自身を置かなければなりませんが、それは、キリストを見上げることによって、可能となります。わたしたちがキリストの生涯を黙想するとき、聖霊は、肉体的、精神的、かつ霊的能力を回復させて下さいます(テトス3:5参照)。聖霊の働きには、キリストを啓示し、キリストのかたちにわたしたちを回復することが含まれます(ローマ8:1-10参照)。

神は、ご自分の民の中に宿ることを、望んでおられます。パウロが、「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:20、ヨハネ14:23参照)と言うことができたのは、「わたしは彼らの間に住」(2コリント6:16、1ヨハネ3:24、4:12参照)むと、主が約束されたからです。創造者が日ごとに宿られるということは、信徒の心を新たにし(ローマ12:2、ピリピ2:5参照)、彼らを内側からよみがえらせることなのです(2コリント4:16)。

2神の性質にあずかること

キリストの「尊く、大いなる約束」(2ペテロ1:4)は、わたしたちの品性の変化に必要な、神聖な力を保証しています(2ペテロ1:4)。この神聖な力にあずかることによって、わたしたちは、以下のこと、すなわち、「あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい」(2ペテロ1:5-7)という教えのひとつひとつのことに、勤勉に励むことができるのです。ペテロは、さらに次のように述べています。「これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である」(2ペテロ1:8,9)。

Aただキリストによってのみ

何が人性を創造者のかたちに似せるかと言えば、主イエス・キリストを着ること、すなわち、主イエス・キリストにあずかることであり(ローマ13:14、ヘブル3:14)、「聖霊により新たにされ」(テトス3:5)ることです。それは、神の愛によってわたしたちの内にまっとうされるのです(1ヨハネ4:12)。ここに、神の子の受肉と同様の神秘があります。聖霊がみ子キリストをして人性を取らしめたように、聖霊は、わたしたちをして、神の品性の特質にあずからせてくださるのです。神性をこのように自分のものとすることによって、異なった段階においてではあれ、わたしたちは、キリストのようになり、内なる人は新たにされるのです。キリストは人となられましたが、わたしたち信徒は神にはなりません。そうではなくて、わたしたちは、品性において神のようになるのです。

B力強い過程

聖化は、漸進的なものです。祈りとみ言葉の学びによって、わたしたちは、絶えず神との交わりを深めます。

救いの計画を、単に知的に理解するだけでは、充分ではありません。キリストは、次のように言われました。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の生命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」(ヨハネ6:53-56)。

主のかたちは、明らかに、信徒がキリストの言葉に一致するよう示唆しています。イエスは、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63、マタイ4:4参照)と述べておられます。

品性は、心が何を「食べ、かつ飲む」かによって形造られます。生命のパンを消化するとき、わたしたちはキリストのかたちへと変えられるのです。

3二つの変貌

ルターが、ドイツのウィッテンベルグ城内教会の門に、95カ条文を掲げた1517年にラファエロは、ローマで、彼の有名な作品である変貌の山の製作に取りかかりました。この二つのできごとには、共通したところがありました。ルターの行為はプロテスタント主義の誕生の記念となりましたし、ラファエロの作品は、たとい意図的ではなかったとしても、宗教改革の精神を要約していたのです。

ラファエロの作品は、谷間にいる悪鬼に取りつかれた人が、山上に立っておられるキリストを、希望をもって見上げているところを描いています(マルコ9:2-29参照)。弟子たちは、山上にいるグループと、谷間にいるグループの二つに分けられていますが、このことはクリスチャンの二つの型を表しています。

山上の弟子たちは、キリストと共に留まることを望み、下方の谷間の必要にはいかにも無関心な様子でした。何世紀もの間、世の必要から全く遊離した「山」の上に、多くの人たちが何かを築き上げてきました。それは、いわば働きのない祈りです。

他方、谷間の弟子たちは、祈りの伴わない働きをしてきました。つまり、彼らの、悪魔を追い出そうとするさまざまな努力は、空しいものでした。多数の者が、無力な他者に対する働きかけというわなに、あるいは、他者に対する働きかけの伴わない祈りというわなのどちらかにかかってきたのです。どちらのクリスチャンも、彼らの内に回復された神のかたちを持つ必要があるのです。

A真の変貌

神は、堕落した存在であるわたしたちの意志、精神、欲求、そして品性を変えることによって、わたしたちをご自分のかたちに変えようと望んでおられます。聖霊は、信徒の外観に、決定的な変化をもたらします。聖霊の実は、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)であり、キリストの再臨のときまでは、信徒は朽ち果てて死ぬべき存在ではありながらも、彼らのライフスタイルはこの聖霊の実によって形造られるのです。

わたしたちが、主に逆らうことがなければ、「キリストはわれわれの思いやこころざしと一体となり、われわれの心と思いとを一つにしてご自分のみこころに一致させてくださるので、キリストに従うときに、われわれは自分自身の衝動を実行しているにすぎない。意志は洗練され、きよめられて主のご用をなすことに最高のよろこびをみいだします。」[9]

B二つの行き先

キリストの変貌は、もう一つの著しい対照を示しています。キリストは変貌を遂げられましたが、しかしある意味では、谷間の少年も変貌していたのです。少年は悪鬼のかたちに変貌していたのです(マルコ9:1-29参照)。ここに、わたしたちを回復させてくださる神の計画と、わたしたちを滅びへと落し入れるサタンの計画との、二つの対照的な計画が明らかにされているのが分かります。神はわたしたちを「つまずかない」(ユダ24)ように守ることがおできになると、聖書には記されていますが、他方においては、サタンは、わたしたちを堕落した状態にとどめるために死力を尽すのです。

人生には絶えざる変化がありますが、中立の立場というものはありません。気高くされるか、堕落するかのどちらかです。わたしたちは「罪の僕」か、「義の僕」(ローマ6:17,18)かのどちらかなのです。精神を支配する者は誰でも、自分自身を支配するのです。もし聖霊をとおしてキリストがわたしたちの精神を支配なさるのであれば、わたしたちはキリストのようになり、聖霊に満たされた生命は「すべての思いをとりこにして、キリストに服従させ」(2コリント10:5)るのです。しかし、キリストなしには、わたしたちは、変貌を遂げるどころか、生命の源から絶ち切られて、究極的な滅亡も避けられないのです。

キリストの完全

聖書的な完全とは何なのでしょうか。どのようにしてその完全にあずかることができるのでしょうか。

1聖書的完全

「完全な」とか「完全」とかいう言葉は、ヘブル語のタム、またはタミムの訳語であり、「完全な」「正しい」「平和な」「健全な」「潔白な」という意味をもっています。一般的に、ギリシャ語のテレイオスには、「完全な」「充分に成熟した」「充分に成長した」「充分に発達した」さらには、「その目的を成就した」という意味があります[10]

この言葉が、旧約聖書で人間について用いられる場合には、相対的な意味で用いられています。ノアもアブラハムもヨブも、それぞれ欠点を持っていましたが(創世記9:20,21、ヨブ40:2-5)、完全で罪がない(創世記6:9、17:1、22:18、ヨブ1:1,18)と記されています。

新約聖書において、完全は、しばしば、与えられた最善の光に従って行動し、霊的、精神的、かつ肉体的な力の可能な限りをつくした成熟した人(1コリント14:20、ピリピ3:15、ヘブル5:14参照)を意味する言葉として用いられています。キリストが言われましたが、神がその無限で絶対的な領域において完全であられるように、信徒は自分たちの有限な領域において完全となりうるのです(マタイ5:48参照)。神の見地において完全な人とは、その心と生活が神への礼拝と奉仕に全く捧げられ、神の知識において絶えず成長し、かつ神の恵みによって勝利した生活の中で喜びつつ、自分の受けたすべての光に従って行動をしている人のことです(コロサイ4:12、ヤコブ3:2参照)。

2キリストにある全き完全

わたしたちは、どのようにして完全になることができるのでしょうか。聖霊は、わたしたちに、キリストの完全をもたらしてくださいます。信仰によって、キリストの完全な品性が、わたしたちのものとなるのです。わたしたち人間は、その完全があたかも生来の所有物であるかのように、あるいは自分たちの権利によって獲得されるものであるかのように、それを要求することは、決してできないのです。完全は神の賜物です。

キリストから離れては、人間は義を獲得することはできません。主は「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:5)と言われました。「神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられた」(1コリント1:30)のは、キリストです。

これらの特性は、キリストにあって、わたしたちの完全を構成します。主は一度だけ、わたしたちの聖化とあがないを完成されたのです。主がなされたことに、何もつけ加える必要はありません。わたしたちの結婚衣装、すなわち、義の衣は、キリストの生命、死、そしてよみがえりによってもたらされたのです。聖霊が、今や完全な成果を生み出し、クリスチャンの生涯において、それを成就なさるのです。この意味で、わたしたちは、「神に満ちているもののすべてをもって…満たされる」(エペソ3:19)のです。

3完全への前進

この完全への営みにおいて、わたしたちは、信徒として、どのような役割を果すのでしょうか。キリストの内住によって、わたしたちは霊的に成熟していくのです。ご自分の教会に対する神の賜物によって、わたしたちは、「全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」(エペソ4:13)のです。わたしたちは、霊的な幼児体験(エペソ4:14)を越えて、さらには、クリスチャン体験の基礎的真理をも越えて、成熟した信徒に備えられた「堅い食物」(ヘブル5:14)にふさわしい者へと成長しなければなりません。「そういうわけだから」とパウロは次のように述べています。「わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか」(ヘブル6:1)。さらに次のようにも述べています。「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように」(ピリピ1:9-11)。

聖化の歩みは、困難や障害のない歩みではありません。パウロは、信徒に次のように勧告しています。「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」(ピリピ2:12)。しかし彼は、次のような励ましの言葉をも付け加えました。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2:13)。

さらに、「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい。もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである」(ヘブル3:13、14、マタイ24:13参照)とも述べています。

しかし、聖書は、次のようにも警告しています。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある」(ヘブル10:26,27)。

これらの勧告は、次のことを明らかにしています。すなわち、クリスチャンは、「単に律法上の義認や聖化を越えたものが求められています。救いはつねに信仰によるものではありますが、品性の清さが求められています。天国への資格は、キリストの義にのみ基づいています。義認に加えて、神の救いの計画は、この資格によって、内住するキリストによる天国への適性を与えてくれます。この適性は、『現に救われている』ことの証しとして、救われている者の道徳的品性に、現れてくるに違いありません。」[11]

このことは、さらに具体的には、何を意味しているのでしょうか。成長の各段階において完全な聖化の歩みを営むには、絶えざる祈りが不可欠であるということを、これは示しているのです。「そういうわけで、…わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたが…主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである」(コロサイ1:9,10)。

日ごとの義認

聖霊に満たされた(キリストのものとなった)聖化の歩みを営むすべての信徒は、絶えず(キリストが授けられる)日ごとの義認にあずかる必要があります。わたしたちが自覚している罪や、不本意に犯すかもしれない誤りのために、このことが必要なのです。人間の心の罪深さを自覚して、ダビデは、自分の「隠れたとが」(詩篇19:12、エレミヤ17:9参照)からのゆるしを求めたのです。信徒の罪について明確に語りながら、神は「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(1ヨハネ2:1)とわたしたちに保証して下さっているのです。

救いの体験と将来

わたしたちの救いは、よみがえりの際に栄化されるときか、天国へ移されるときのどちらかに、最終的にかつ完全に達成されます。栄化により、神は、あがなわれた者と、主ご自身の輝く栄光を共にされるのです。このことこそ、わたしたちすべてが、神の子として首を長くして待ち望んでいる希望です。パウロも「そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」(ローマ5:2)と述べています。

そしてこのことは、キリストが「彼を待ち望んでいる人々に…救を与え」(ヘブル9:28)るためにおいでになる再臨のときに成就するのです。

栄化と聖化

わたしたちの心にキリストが内住することは、将来の救い、すなわち、わたしたちの死すべき肉体が栄化されるための条件のひとつです。パウロは、「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」(ローマ8:11)と他の所で説明しながら、「あなたがたのうちにいますキリスト」は、「栄光の望みである」(コロサイ1:27)と述べています。パウロは、わたしたちに、神が「あなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、…わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである」(2テサロニケ2:13,14)と断言しています。

主にあって、わたしたちはすでに天の王座のある部屋にいるのです(コロサイ3:1-4)。「聖霊にあずかる者」は、「きたるべき世の力」(ヘブル6:4,5)を、実際に味わってきました。主の栄光を熟視し、キリストの品性の魅力的なすばらしさに目をすえることによって、わたしたちは、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(2コリント3:18)、すなわち、わたしたちは、再臨のときにあずかる変貌のために備えられているところなのです。

わたしたちの最終的なあがないと、神の子としての養子縁組は、将来、現実のものとなるのです。パウロは、「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」(ローマ8:19)と述べた上で、次のように付け加えています。「わたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(ローマ8:23、エペソ4:30参照)。

このクライマックスとなるべき出来事は、「万物更新の時」(使徒3:21)に起るのです。キリストはそれを、「世が改ま」(マタイ19:28、「すべてのものの再生」、NIV)ると言っておられます。そのときに、「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている」(ローマ8:21)のです。

ある意味で、子たる身分を授けられることとあがない、すなわち、救いが「すでに」達成されたということ、及び、別な意味で、救いがまだ達成されていないということ、この聖書の二つの見解は、少なからずわたしたちを混乱させてきました。それに答えるためには、救い主としてのキリストの働き全般にわたる研究がなされなければなりません。

 パウロは、わたしたちの現在の救いを、キリストの初臨に関連づけていました。史実としての十字架、よみがえり、そしてキリストの天における働きにおいて、わたしたちの義認と聖化は、一度で、かつ永久に保証されました。しかしながら、パウロは、わたしたちの将来の救い、すなわち、わたしたちの肉体の栄化については、キリストの再臨に関連づけています。

「この理由により、パウロは同時に次のように言うことができるのです。過去におけるキリストの十字架とよみがえりのゆえに『わたしたちは救われています』。しかし、将来、キリストの再臨によって、肉体があがなわれるということのゆえに、『わたしたちはまだ救われてはいません。』」[12]

将来の救いを除外して、現在の救いを強調することは、キリストの完全な救いについての、不正確で不幸な理解を生み出します。

栄化と完全

栄化がもたらす究極的な完全が、すでにわたしたち人類に有効であると、間違って信じている人たちがいます。しかし、神に生涯を捧げたパウロは、晩年自分自身について次のように記しています。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」(ピリピ3:12-14)。

聖化は一生の営みです。完全は現在、ただキリストにおいてのみ、わたしたちのものです。しかし、わたしたちが、究極的に、またまったく包括的に神のかたちに変貌を遂げるのは、再臨のときなのです。パウロは、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント30:12)と警告しています。イスラエルの歴史とダビデ、ソロモン、さらにはペテロの生涯は、わたしたちすべてにとって、重大な警告です。「生きている限り、情愛と情熱を、確かな目的をもって抑制する必要があります。内には腐敗、外には誘惑がありますが、神の働きが進められる所ではどこででも、サタンが、計画的に環境を整え、抵抗し難い誘惑をもって、魂をおびやかすのです。わたしたちが神に信頼しているときにのみ、キリストと共に神のうちにかくされた生活を、わたしたちは長く確保することができるのです。」[13]

わたしたちの最終的かつ創造的変貌は、不朽と不死がわたしたちのものとなるとき、すなわち、聖霊が本来の創造を完全に回復されるときに、達成されるのです。

わたしたちが神に受け入れられている根拠

わたしたちが神に受け入れられている根拠は、キリストのような品性の特性でも、過失のない品行でもありません。義認は唯一の義なるお方、イエスにのみよるのであり、聖霊によって、わたしたちに伝えられるのです。わたしたちはキリストの義の賜物に何ら寄与することはできません。ただ、それを受け入れることしかできないのです。キリストの他には、義なる人はいません(ローマ3:10)、神から離れた人間の義は、ただの汚れたぼろ切れにすぎません(イザヤ64:6、ダニエル9:7,11,20、1コリント1:30参照)[14]

キリストの救いの愛に対するわたしたちの応答でさえ、わたしたちが神に受け入れられる上での根拠とはなりません。神が受け入れてくださるのは、まさにキリストのわざの故に他なりません。聖霊は、キリストをわたしたちに示すことにおいて、神が受け入れてくださっているという恵みをもたらしてくださるのです。

わたしたちが受け入れられているのは、キリストが義認を正当としてくださることに基づいているのでしょうか、それとも、キリストが義認を聖別してくださることに基づいているのでしょうか、それともその双方に基づいているのでしょうか。ジョン・カルヴァンは、「キリストは片々に引き裂かれることができないお方であるように、これら両者、すなわち『義』と『聖』とも、われわれがかれにおいて、同時に、また結び合ったものとして、体得したものであるから、分割することができない。」[15]と指摘しました。キリストの働きは全体的にとらえられるべきなのです。だからこそ、「義認と聖化の違いのこまかい点を詳細に定義してみようとすること」による、これら二つの用語についての推論を、避けることこそ最も重要なことなのです。「…なぜ、信仰による義に関する極めて重大な問題に対して与えられている霊感以上に詳細な定義をしようとするのでしょうか。」[16]

ちょうど、太陽が光と熱という不可分なものでありながら、独特な機能を有しているように、キリストはわたしたちの義となられたばかりか、聖ともなられたのです(1コリント1:30)。わたしたちは完全に義とされているばかりか、主にあって完全に聖ともされているのです。

聖霊は、神が人性を取られたというただ一度の経験を用いて、カルバリーにおける「すべてが終った」という事実を、わたしたちの内へもたらされます。この十字架における「すべてが終った」という事実は、承認を得ようとする人間の他のすべての試みに異議を唱えます。十字架に架けられた方を内にもたらすことによって、聖霊は、わたしたちにとって有効な唯一純粋な救いの資格と適性を提供し、神がわたしたちを受け入れて下さる唯一の根拠へ導いて下さいます。

[1]T・F・トーランス、『王なる祭司』(T. F. Torrance, Royal Priesthood, Scottish Journal of Theology Occasional Papers, No. 3.)(Edinburgh: Oliver and Boyd, 1963)、48ページ。

[2]「回心」(”Conversion”)および「悔い改め」(”Repent, Repentance”)『セブンスデー・アドベンチスト聖書辞典』(SDA Bible Dictionary)、改訂版、235,933ページ参照。

[3]W・E・ヴァイン『新約聖書用語釈義辞典』(W. E. Vine, An Expository Dictionary of the New Testament Words)(Old Tappan, NJ: Fleming H. Revell, 1966)、84-86ページ。ウィリアム・F.アーント、F・ウィルバー・ギングリッチ『新約聖書及び初代キリスト教文学のギリシャ語・英語辞典』(William F. Arndt and F. Wilbur Gingrich, A Greek English Lexicon of the New Testament and Other Early Christian Literature)(Chicago, IL: University of Chicago Press, 1973)、196ページ。

[4]「義認」『セブンスデー・アドベンチスト聖書辞典』(”Justification,” SDA Bible Dictionary)、改訂版、635ページ。

[5]ラロンデル(LaRondell)、47ページ。

[6]「聖化」『セブンスデー・アドベンチスト聖書辞典』(”Sanctification,” SDA Bible Dictionary)、改訂版、979ページ。

[7]同。

[8]ホワイト『青年への使命』、(福音社、1947年)、22ページ。

[9]ホワイト『各時代の希望』、下巻(福音社、1965年)、150ページ。

[10]「完全な、完全」『セブンスデー・アドベンチスト聖書辞典』(”Perfect, Perfection,” SDA Bible Dictionary)、改訂版、864ページ。

[11]ラロンデル(LaRondelle)、77ページ。

[12]同89ページ。

[13]ホワイト『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(White in SDA Bible Commentary)、改訂版、第2巻、1032ページ。

[14]わたしたちの大祭司キリストについて、ホワイトは次のように説明しています。「敬虔な礼拝、祈り、讃美、悔い改めた罪の告白が、真の信徒から天の聖所への香として立ちのぼります。しかし、人間の腐敗した通路を経ているため、それらは非常に汚れているので、血によって清められない限り、決して神にふさわしいものとはなりえないのです。それらはしみのない清いものとしては立ちのぼらず、神の右の手である仲保者がその義を提示し、すべての者を清めない限り、神に喜ばれることはないのです。地上の幕屋から立ちのぼるすべての香は、キリストの血による清めのしずくで潤ったものでなければならないのです」。(『セレクテッド・メッセージズ』《Selected Messages》、第1巻、344ページ。)

[15]J・カルヴァン『キリスト教綱要』第3巻11(新教出版社、1971年)、241ページ。

[16]ホワイト『セブンスデー.アドベンチスト聖書注解』(White in SDA Bible Commentary)、改訂版、1072ページ。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

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