教会【アドベンチストの信仰#12】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

教会はイエス・キリストを主として、また救い主として信じ、告白する者たちの共同体である。旧約時代の神の民と同じように、われわれは世から召し出されている。われわれはともに礼拝し、交わり、神の言葉を教え、主の晩餐を記念し、人類に仕え、世界的な福音宣教に参与する。教会の権威の源は、聖書に啓示されている受肉された神の言葉、キリストにある。教会は神によって神の子どもとされ、新しい契約に基づいて生きる者たちで構成される神の家族である。教会はキリストのからだであって、キリストご自身をかしらとする信仰の共同体である。教会はキリストの花嫁である。キリストは教会を清めるため、教会の身代りとなっていのちをささげられた。勝利のうちに再臨されるとき、キリストは教会を、栄光の教会、各時代にわたる忠実な信徒、キリストの血によって買い取られた者、しみもしわもない者、責められるべきところない聖なる者とされる。(信仰の大要12)

怒りにまかせて、その初老の男は、持っていたつえで岩を打ちました。つえをふり上げ、再び岩を打って、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」(民数記20:10)と彼は叫んだのです。

岩から水がふんだんに湧き出て、イスラエルの必要を満たすことができました。しかし、モーセは、水を賜ったのが、岩からであることを明らかにせずに、自分自身の手柄としたことにおいて、罪を犯してしまいました。そして、その罪のために、彼は約束の地に入ることはなかったのです(民数記20:7-12参照)。

その岩とは、神が、個人としても団体としても、主の民をお立てになったその土台であるキリストでした。この比喩的表現は、聖書を貫いています。

モーセは、イスラエルの民に語りかけた最後の説教で、おそらくこのできごとを思い起しつつ、この岩のたとえを用いて、神の不変性と信頼性というものを、次のように表したのでした。「われわれの神に栄光を帰せよ。主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である」(申命記32:3,4)。

何世紀も後に、ダビデは、岩としての救い主という同じ主題を、次のようにくり返しています。「わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である」(詩篇62:7)。

イザヤもまた、来るべきメシヤの同じ比喩的表現を、次のように用いています。「一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である」(イザヤ28:16)。

ペテロは、キリストがこの預言を、ただの石としてではなく、「人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石」(1ペテロ2:4)として成就されたことを証言しました。パウロは、「すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである」(1コリント3:11)と述べて、キリストを唯一の確かな土台とみなしました。モーセの打った岩に関して、パウロは、「みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない」(1コリント10:4)と記しています。

イエス・キリストご自身、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)と宣告されたときに、まさにこの象徴を用いられたのです。主は、生ける岩であるご自身の上に、キリストの教会を建てられました。主ご自身のお体は、岩を打つこと、すなわち、世の罪のために、いけにえとして供えられるべきものでした。主が備えられる堅い土台の上に築かれる教会に勝るものはありません。この岩から、いやしの水が、渇いた民へ流れ出るのです(エゼキエル47:1-12、ヨハネ7:37,38、黙示録22:1-5参照)。

キリストがこの宣言をされたとき、教会は何と弱くもろい存在であったことでしょう。教会を構成していたのは、疲れて疑い深く、自己賞揚的な弟子たちや、一握りの女たち、また移り気な群衆であり、その「岩」が打たれたときには彼らはどこかへ消えてしまいました。にもかかわらず、教会は、か弱い人間の知恵や小賢しさの上にではなく、代々限りない岩の上に建てられたのです。主の教会を破壊したり、主の教会が神に栄光を帰し、人々を救い主へ導く働きを阻止したりするものは何もないことを、歴史は明らかにしているのです(使徒4:12,13,20-33参照)。

目次

「教会」の聖書的意味

聖書において、教会[1]という言葉は、ギリシャ語の「エクレシア」の訳語であり、「召し出す」という意味です。この表現は、一般に、人々が会合するために招かれた集まりに用いられていました。

イエスの在世当時普及していた、ヘブル語旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書は、ヘブル語の「クァハル」の訳語として、エクレシアを用いていましたが、その「クァハル」は、「集まり」、「集合」、または「会衆」を表していました(申命記9:10、18:16、サムエル上17:47、列王上8:14、歴代上13:2)[2]

この用法は、新約聖書に広まっていました。新約聖書が教会という言葉をどのように用いているか書きとめてみると、(1)礼拝のために特定の場に集まった信徒(1コリント11:18、14:19,28)、(2)ある地域に住んでいる信徒(1コリント16:1、ガラテヤ1:2、1テサロニケ2:14)、(3)個人の家における信徒のグループ(1コリント16:19、コロサイ4:15、ピレモン2)、(4)ある特定の地域における会衆(使徒9:31)[3]、(5)世にある信徒のすべて(マタイ16:18、1コリント10:32、12:28、エペソ4:11-16参照)、(6)天と地における忠実な被造物(エペソ1:20-22、ピリピ2:9-11参照)ということになります。

教会の特性

聖書は、教会を「神の教会」(使徒20:28、1コリント1:2)と呼び、神聖な機関として描写しています。イエスは、教会に神の権威を授げられました(マタイ18:17,18)。わたしたちは、キリスト教会の特性を、旧約聖書のルーツや、新約聖書が用いている教会についてのさまざまなたとえを考察することで、理解することができます。

キリスト教会のルーツ

旧約聖書は、教会を、組織された神の民の集合として描写しています。ごく初期のころから、アダム、セツ、ノア、セム、アブラハムの家系の、神をおそれる民は、主の真理の守護者でした。これらの人々の家庭では、父親が祭司の役目を果していましたが、いわば、これは小規模の教会と考えることができるのです。アブラハムに対して、神は、神のこの家族が、徐々に一つの国民となるという大いなる約束を与えられました。イスラエルの使命は、神の愛を世に示し、「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:1-3)というアブラハムに与えられた約束の延長でした。

神がエジプトから連れ出された国民は、「荒野における教会『または、会衆(RSV、NIV)』」(使徒7:38 KJV)と呼ばれました。そのメンバーは、「祭司の国となり、また聖なる民」(出エジプト19:6)、神の「聖なる民」(申命記28:9、レビ26:12参照)すなわち、主の教会と考えられたのです。

神は、世界の主要な文明の中心地であるパレスチナに、彼らを置かれました。ヨーロッパ、アジア、アフリカの三大大陸が、パレスチナで結ばれています。まさにこの地において、ユダヤ人は、自分たちへの神の招きを、他国民へも広げ、彼らを神の民として加えるために、彼らに「仕える者」であるはずであったのです。要するに、神は、すべての民を招き入れるために、彼らを召し出されたのです(イザヤ56:7)。神は、イスラエルを通して、世界のすべての民の代表が、礼拝するために集まり、真の神について学び、救いの使命をたずさえて、自分の民のもとへ戻ることのできる、地上最大の教会を作ることを望まれたのです。

ご自分の民に対する神のたゆまぬ働きかけにもかかわらず、イスラエルは、偶像崇拝、孤立主義、民族主義、誇り、さらには自己中心に陥ってしまったのです。その結果、神の民は、そのとおとい使命を果し損ねてしまいました。

イエスにおいて、イスラエルは、分水界に立たされたのです。神の民は、自分自身から彼らを解き放つ救世主ではなく、自分たちの国家を解放する救世主を求めていました。十字架において、イスラエルの霊的な破綻が、明白となりました。キリストを十字架に架けることによって、彼らは、内部の腐敗を外部にさらしてしまったのです。彼らが、「わたしたちにはカイザル以外に王はありません」(ヨハネ19:15)と叫んだとき、彼らは、自分たちに対する神の支配を、認めることを拒んでいたのです。

十字架において、二つの相反する使命が、極点に達したのです。第一に、失敗に終った教会の使命が、あまりに使命中心になりすぎたために、それをこの世に存在させられた主なるお方を見失ってしまったことです。第二に、キリストの使命が、人々への愛に集中したため、永遠の生命を彼らに与えようとして、キリストが、彼らの身代りとなられたということです。

十字架は、イスラエルの使命の終結を意味していました。一方、キリストの復活は、キリストの教会とその使命、すなわちキリストの血による救いという福音宣教の始まりとなったのです。ユダヤ人が、彼らの使命を見失ったとき、彼らは、単なるひとつの国民となり、神の教会ではなくなったのです。彼らの代りに、神は、世に主の使命を推し進める新たな国民、すなわち、教会を建てられたのです(マタイ21:41,43)。

古代のイスラエルの信仰共同体と密接に関連した新約聖書の教会は[4]、悔改めたユダヤ人と、イエス・キリストを信じる異邦人との、双方によって構成されています。したがって、真のイスラエルは、信仰によってキリストを受け入れるすべての人なのです(ガラテヤ3:26-29参照)。パウロは、これらの異なった人々の新しい有機的な関係を、二つの木のたとえ、すなわち、イスラエルと異邦人のそれぞれを表す良いオリーブと野生のオリーブで説明しています。キリストを受入れないユダヤ人は、もはや神の子ではなく(ローマ9:6-8)、良い木から切り取られた枝によって表されています。それに対して、キリストを受け入れたユダヤ人は、つながれたままなのです。

パウロは、キリストを受け入れる異邦人を、野生のオリーブの木から良い木につがれた枝として描写しています(ローマ11:17-25)。パウロは、これら新しい異邦人クリスチャンに、神が選ばれた道具である神の選民、すなわち、ユダヤ人を、重んじるよう命じています。「もし根がきよければ、その枝もきよい。しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリーブであるあなたがそれにつがれ、オリーブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである」(ローマ11:16-18)。

新約聖書の教会は、旧約聖書の教会とは趣を異にしています。使徒時代の教会は、イスラエルの国家とは別個の、独立した組織となりました。教会には普遍的な特性が与えられ、民族的な枠は破棄されました。民族的な枠の代りに、教会はその創始者であるイエス・キリストの神聖な命令において、改めて述べられた「すべての国民を弟子とせよ」(マタイ28:19)という、神の当初のご計画を達成するために存在する伝道機関となったのです。

教会の隠喩的描写

新約聖書の教会の隠喩的描写によって、教会の特性が明らかにされています。

1からだとしての教会

からだのたとえは、教会の一致と全体に対するひとりひとりの教会員の機能的関係を強調しています。十字架は、すべての信じる者を、「一つのからだとして神」(エペソ2:16)と和解させます。彼らは、聖霊によって「一つのからだとなるようにバプテスマを受け」(1コリント12:13)た教会です。一つの組織体として教会は、キリストのからだにほかなりません(エペソ1:23)。それは主が、ご自分の豊かさを与えるための有機体です。信徒は、キリストのからだの肢体なのです(エペソ5:30)。したがって、主は、ご自分の力と恵みによって、すべての真の信徒に霊的生命をお与えになります。キリストは「からだ…のかしら」(コロサイ1:18)であり、「教会のかしら」(エペソ5:23)なのです。

愛のうちに、神はご自分のからだである教会の構成員ひとりひとりに、いきいきとした機能を発揮できる霊的賜物を、少なくとも一つはお与えになっているのです。ちょうど、各器官の果している役割が、人間のからだに不可欠であるように、教会の働きの成功は、ひとりひとりの教会員に与えられた霊的賜物の働きいかんによるのです。心臓のないからだを良いとは言えません。あるいはまた、目や足のないからだはどうでしょうか。各教会員が各自の賜物を用いなければ、教会は死んでいるか、盲目かなのであり、少なくとも不完全なのです。しかしながら、これらの特別な、神が割り当ててくださった賜物は、それ自体が目的なのではありません(本書第16章参照)。

2宮としての教会

教会は、聖霊の宿る「神の建物」「神の宮」です。イエス・キリストは、その土台であり、「すみのかしら石」(1コリント3:9-16、エペソ2:20)であられます。この宮は、死んだ建物ではありません。それは、ダイナミックな成長を見せています。ペテロは、キリストが「生ける石」であられるように、信徒たちは、「霊の家」を築き上げる「生ける石」(1ペテロ2:4-6)であると言いました。

建物は、まだ完成されていないのです。新しい生ける石が、「主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなる」(エペソ2:22 NIV)宮に、絶えず加えられているのです。パウロは、裁きの日の火の試練に耐えるために、この宮においては、最善の素材を用いるようにと信徒に強く勧めています(1コリント3:12-15)。

宮のたとえは、地方の教会と教会全般の双方の聖性を強調しています。神の宮は聖なるものであると、パウロは述べています。「もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう」(1コリント3:17)。不信仰者との緊密な協調は、パウロが記していますが、その聖なる特性に相反するものであり、避けられるべきです。「義と不義となんの係わりがあるか。…神の宮と偶像となんの一致があるか」(2コリント6:14,16)。(パウロのこの勧告は仕事と結婚の双方の関係に妥当するものです)。神が特別に関心を払って下さる対象なのですから、教会は充分に尊重されねばなりません。

3花嫁としての教会

教会は花嫁として、主は花婿として描写されています。主は荘重に、次のように保証しておられます。「わたしは永遠にあなたとちぎりを結ぶ。すなわち正義と、公平と、いつくしみと、あわれみとをもってちぎりを結ぶ」(ホセア2:19)。さらに主は、「わたしはあなたがたの夫だからである」(エレミヤ3:14)と保証しておられます。

パウロも同じように、わたしは「あなたがたを、きよいおとめとして、…キリストにささげる」(2コリント11:2)と述べています。キリストの教会に対する愛は、「そのためにご自身をささげられた層(エペソ5:25)ほどに、まことに深く、永久不変なものです。キリストは、「水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするため」(エペソ5:26)に、ご自身をささげられたのです。

神の言葉の真理がもたらす清い感化によって(ヨハネ17:17)、またバプテスマがもたらす清めによって、キリストは教会員の汚れた衣を取り去り、主の完全な義の衣で彼らをおおって、ひとりひとりを清めることがおできになります。このようにして、主は、教会をご自分の花嫁、すなわち、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会」(エペソ5:27)へと整えることがおできになるのです。しかし、教会の完全な栄光と輝きは、キリストの再臨のときまでは見ることができません。

4「上なるエルサレム」としての教会

聖書は、エルサレムの町を、シオンと呼んでいます。そこに神は、主の民とともに住まわれるのです(詩篇9:11)。救いが来るのは、シオンからです(詩篇14:7、詩篇53:6)。その町は、「全地の喜び」(詩篇48:2)となるものでした。

新約聖書は、教会を、地上のエルサレムの霊的な対照である「上なるエルサレム」(ガラテヤ4:26)として見ています。このエルサレムの市民の「国籍は天」(ピリピ3:20)にあります。彼らは、キリストが解放してくださったことによって自由を得、「霊によって生れた」「約束の子」(ガラテヤ4:28,29、5:1)です。この町の市民は、もはや「律法によって義とされ」(ガラテヤ4:22,26,31、5:4)ようとする奴隷ではなく、「御霊により」「信仰によって義とされる望みを」強く抱いています。キリスト・イエスにあって、彼らにこの市民権を与えるのは、「愛によって働く信仰」(ガラテヤ5:6)なのだということを、彼らは理解しているのです。

この栄えある一群の人々が、「近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会」(ヘブル12:22,23)なのです。

5家族としての教会

天上および地上にある教会は、家族と考えられています(エペソ3:15)。二つのたとえが、人々がどのようにしてこの家族に加えられるかを述べるために用いられています。すなわち、養子縁組(ローマ8:14-16、エペソ1:4-6)と新生(ヨハネ3:8)です。キリストへの信仰によって、新しくバプテスマを受けた者は、もはや奴隷ではなく、新しい契約を基礎として生きる天の父の子(ガラテヤ3:26-4:7)なのです。今や、彼らは、「神の家族」(エペソ2:19)であり、「信仰の仲間」(ガラテヤ6:10)なのです。

主の家族のメンバーは、神を「父」(ガラテヤ4:6)と呼び、たがいに兄弟姉妹として結びついています(ヤコブ2:15、1コリント8:11、ローマ16:1)。パウロは、多くの人々を教会の家族へと導き入れたので、自分自身を霊的な父とみなしています。彼は、「キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである」(1コリント4:15)と述べています。彼は、自分が導き入れた人々のことを、「わたしの愛児」(1コリント4:14、エペソ5:1参照)と呼んでいます。

家族としての教会の特質は、交わりです。クリスチャンの交わり(ギリシャ語でコイノニア)は、単なる社会化ではなく、「福音にあずかっていること」(ピリピ1:5)なのです。それは、信徒との交わり同様に(1ヨハネ1:3,7)、父なる神と子と聖霊との純粋な交わりを意味しています(1ヨハネ1:3、1コリント1:9、2コリント13:14、RSV、NIV)。そこで、教会員は、家族の一員となる人にはだれにでも、「交わりの手を」(ガラテヤ2:9)さしのべるのです。

家族のたとえは、いたわり合う教会を指しています。「そこでは、人々は愛され、尊敬され、さらにおたがいを認め合うのです。人々がたがいに必要とし合っていることを認めている場であり、賜物が開花させられ、人々が成長し、誰もが満たされる場」[5]なのです。それはまた、霊的な親に対する尊敬、霊的な兄弟姉妹に対する保護の責任をも意味しています。そして最後に、家族のたとえは各教会員が他の教会員に対して、おたがいのきずなを深め強める忠誠を生み出す愛を持ち合うことを意味しています。

教会家族の構成員であるということは、性格と気質において非常に異なっている個人個人をして、互いに相手を受止め、支え合うことを可能にすることなのです。教会家族の構成員は、それぞれの個性を失うことなく、和合して暮すことを学ぶのです。

6真理の柱と土台としての教会

生ける神の教会は、「真理の柱、真理の基礎」(1テモテ3:15)です。それは敵の攻撃から真理を守る真理の倉であり、とりでなのです。しかしながら、真理は、静的なものではなく、動的なものです。もしも、教会員のだれかが、新しい光、すなわち、新しい教理や聖書の新しい解釈が与えられたと主張する場合には、聖書の標準によって主新しい教えを試すべきです(イザヤ8:20参照)。新しい光が、この標準に合致しているなら、教会はそれを受け入れるべきですし、もしそうでないなら、教会はそれを拒否すべきです。すべての教会員は、この聖書を基礎とした判断に従うべきです。なぜなら、「助言者が多ければ安全である」(箴言11:14)からです。

真理を広めることにより、また真理を証しすることにより、教会は、「世の光」、「隠れることができない」「山の上にある町」、そして「地の塩」(マタイ5:13-15)となるのです。

7交戦中で、意気揚々とした軍隊としての教会

地上の教会は、戦いに従事する軍隊のようなものです。教会は、霊的暗黒に対する戦いのために召集されました。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エペソ6:12)。クリスチャンは、「悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけ」(エペソ6:13)なければならないのです。

何世紀にもわたって、教会は、内外双方の敵と戦わねばなりませんでした(使徒20:29,30、1テモテ4:1参照)。教会は、著しい前進と幾多の勝利を得てはきましたが、まだ究極的な勝利を得ているわけではありません。不幸にも、教会には、今なお多くの欠点があります。他のたとえを用いて、イエスは、次のように、教会内部の不完全さを説明されました。「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った」(マタイ13:24,25)。しもべたちが毒麦を抜き取ろうとしたときに、その主人は、「毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ」(マタイ13:29,30)と述べています。

毒麦と麦の双方ともが、畑に育ったのです。神が、悔改めた者を教会に導かれる一方で、サタンが、悔改めていない者を送り込むのです。これら二つのグループは、からだ全体に影響を与えます。一方は清めのために働き、他方は堕落へと引きずり込むのです。教会内部のこの両者の闘争は、再臨という収穫のときまで続くのです。

教会の対外的な戦いも、まだ終了してはいないのです。困難と争いが、前途に横たわっています。時の短いことを知っているサタンは、神の教会に対して怒り(黙示録12:12,17)、「国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時」(ダニエル12:1)をもたらすのです。しかし、キリストが、主の忠実な民のために介在され、忠実な主の民、すなわち、「あの書に名をしるされた者は皆救われ」(ダニエル12:1)るのです。イエスは、わたしたちに、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:13)と保証しておられます。

キリストの再臨のとき、勝利を得た教会が現れます。そのとき、キリストは、各時代において忠実であり、主の血潮でもって買われた「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない」「栄光の…教会をご自分に」(エペソ5:27)迎えることがおできになるのです。

見える教会と見えない教会

見えるとか見えないとかいう用語は、地上の教会の二つの局面を、識別するために用いられてきました。わたしたちが論議してきたたとえは、見える教会にとくに当てはまります。

1見える教会

見える教会は、奉仕のために組織された神の教会です。教会は、世に福音を宣べ伝え(マタイ28:28-20)、人々を主の栄光に満ちた再臨に備えさせる(1テサロニケ5:23、エペソ5:27)という、キリストから託された大いなる任務を果すのです。

キリストが特別に選ばれた証人である教会は、主がなさったように、世を啓蒙し、世に仕えるのです。すなわち、貧しい人々に福音を宣べ伝え、失意の中にある者をいやし、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、うちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのです(ルカ4:18,19)。

2見えない教会

普遍的な教会とも呼ばれている見えない教会は、世界中のすべての神の民によって構成されています。それは、見える教会の信徒のみならず、教会組織に属していなくても、キリストが与えられたすべての光に従っている、多くの人々をも含んでいます(ヨハネ1:9)。この後者のグループは、イエス・キリストについての真理を、学ぶ機会がなかったにもかかわらず、聖霊にこたえて、「自然のままで」、神の「律法の命じる事を行う」(ローマ2:14)人々を含んでいます。

見えない教会の存在は、神への礼拝が、最も高い意味において、霊的なものであるということを表しています。イエスは、「まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」(ヨハネ4:23)と言われました。真の礼拝の霊的な特性のゆえに、人間は、だれが神の教会の一員であり、だれがそうでないかを、正確に判断することはできません。

聖霊によって、神は、主の民を、見えない教会からご自分の見える教会との結合へ導かれます。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ主ひとりの羊飼となるであろう」(ヨハネ10:16)。主の民が、神の真理、愛、交わりを充分に味わうことは、見える教会においてはじめて可能なのです。なぜなら、主は、教会員を全体的に、また個人的に養う霊の賜物を、見える教会に賜るからなのです(エペソ4:4-16)。パウロが回心したとき、神は、彼に見える教会とのつながりを持たせた上で、彼をご自分の教会の働きを先導する者に任命されました(使徒9:10-22)。今日も同様に、主は、ご自分の民を主神の戒めに忠実で、イエスへの信仰を持つことを特徴とする見える教会へと導き、彼らを地上での主の働きを完結するわざにあずからせようとしておられるのです(黙示録14:12、18:4、マタイ24:14、本書第12章参照)。

見えない教会の概念には、天上と地上の結合された教会(エペソ1:22,23)、及び迫害の時代にのがれた教会が含まれるとも考えられてきました(黙示録12:6,14)。

教会の組織

全世界に福音を宣べ伝えよというキリストの命令には、福音をすでに受け入れた人を養育するということも含まれているのです。新しい教会員は、信仰が確立されるべきであり、神が与えられたそれぞれの能力や賜物を、教会の働きにおいて用いるように教えられるべきです。「神は無秩序の神ではなくて」すべてのことが「適宜に、かつ秩序を正して」(1コリント14:33,40)なされるように望んでおられるので、教会は簡素にして効果的な組織を持たなければならないのです。

組織の特性

教会員であることと組織について考えてみましょう。

1教会員であること

彼らがある資格を満たしたとき、改心者は、新しい信仰共同体の一員となるのです。教会員になるということは、他の人々、国家、そして神に対する新しい関係の受容を意味しています。

A教会員としての資格

主の教会の一員となることを望む者は、イエス・キリストを主、また救い主として受け入れ、自分の罪を悔改めて、バプテスマを受けねばなりません(使徒2:36-41、同4:10-12参照)。彼らは、新生を経験すべきであり、主が命じられたすべてのことを守るよう、他の人々に教えるキリストの任務を受入れるべきでした(マタイ28:20参照)。

B公平と奉仕

「あなたがたはみな兄弟であり」(マタイ23:8)、また「あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない」(マタイ23:11)とのキリストの宣言に調和して、教会員は、公平であることを基礎として、たがいにかかわり合うのです。しかしながら、彼らはまた、キリストの模範に習うことが、他の人々を主に導きつつ、他の人々の必要に仕えるべきことをも意味しているということを悟らなければならないのです。

C万人祭司制

天の聖所におけるキリストの働きによって、レビ記の祭司の役割は、終りを告げました。今や教会は、「聖なる祭司」(1ペテロ2:5)となりました。ペテロは、「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである」(1ペテロ2:9)と述べています。

万人祭司というこの新しい秩序は、各自に、教会のからだに対する責任なしに、それぞれが選んだように考え、信じ、教える権威を、持たせるわけではありません。それは、各教会員が、神の名において他の人々に仕える責任があり、またいかなる人間の仲保も必要なく、直接に主と交わることができるということを意味しているのです。それは、各自の自主性のみならず主各教会員の相互依存を強調しています。この祭司制は、牧師と信徒の役割における、機能上の相達の余地を残しながらも、牧師と信徒の間に、質的な区別をつけません。

D神と国家に対する忠誠

聖書は、政府の設立における神のみ手を認めており、この世の権威を敬い従うよう、信徒に命じています。この世の権威を保持している者は、「神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いる」(ローマ13:4)のです。ですから、教会員は、「貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬」(ローマ13:7)うのです。

国家に対する態度において、教会員は、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)との、キリストの原則に従うべきです。しかし、国家が神の戒めに抵触するような場合は、神に対してこそ、最高の忠誠が払われるべきです。使徒たちは「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒5:29)と述べています。

2教会組織の主な機能

教会は、神の栄光の知識で地上を満たすという、神の計画を達成するために組織されました。見える教会だけが、この目的を達成するための重大な働きを、数多く提供することができるのです。

A礼拝と奨励

歴史を通じて、教会は、安息日に創造者を拝むために信徒を集める、神の機関でありました。キリストはこの礼拝慣例に従われました。弟子たちも従いました。また聖書は、今日、「集会を」やめることはしないで、「互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」(ヘブル10:25、3:13参照)と、信徒に勧告しています。会衆相集まって礼拝することは、礼拝者を活気づけ、勇気づけ、さらには喜びをもたらします。

Bクリスチャンの交わり

教会をとおして、教会員の交わりというもっとも切実な必要が、完全に満たされるのです。「福音にあずかっていること」(ピリピ1:5)は、他のすべての関係にまさるのです。なぜなら、それは同じ信仰を持つ者同志の親密な関係のみならず、神との親密な関係をももたらすからです(1ヨハネ1:3,6,7)。

C聖書の教え

キリストは、教会に、「天国のかぎ」(マタイ16:19)を授けられました。鍵とは、キリストの言葉、すなわち、聖書のすべての言葉です。わけても、それは王国に入るための「知識のかぎ」(ルカ11:52)を意味しています。イエスの言葉は、それを受け入れる者すべてにとって、霊であり、また命なのです(ヨハネ6:63)。み言葉は永遠の命をもたらすのです(ヨハネ6:68)[6]

教会が聖書の真理を示すとき、救いに導くこの鍵には、天国への道を開いて天国に結び付ける力も、天国への道を閉ざして天国から締め出してしまう力もあるのです。なぜなら、み言葉は、人々が受け入れられて救われるか、拒否されて失われるかの基準を宣言しているからです。したがって、教会の福音宣教は、「いのちのかおり」と「死のかおり」(2コリント21:6、NIV)を放つものなのです。

イエスは、「神の口から出る一つ一つの言で」(マタイ4:4)生きることの大切さを、知っておられたのです。そうすることによってのみ、教会は、すべての国民に、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように」(マタイ28:20)教えよという、イエスの命令を完了することができるのです。

D神聖な儀式の管理

教会は、教会への加入の儀式であるバプテスマの式(本書第14章参照)、及び洗足式や聖餐式(本書第15章参照)を管理する、神の器なのです。

E福音の全世界的な宣教

教会は、イスラエルの民がなしえなかったわざを果たすための、奉仕の機関として組織されています。主イエスの生涯に見られるように、教会が世に対してできる最大の奉仕は、聖霊のバプテスマにより力が満たされて、福音を完成させるために「すべての民に対してあかしをする」(マタイ24:14)ことに、専心することなのです。

この働きには主教会自体(1コリント1:7,8、2ペテロ3:14、黙示録3:14-22、14:5)及びそれ以外の人々(黙示録14:6-12、18:4)の双方に向けられた、キリストの再臨に対する備えのメッセージを宣布することが含まれています。

教会の行政

イエスの昇天ののち主教会の指導は主使徒たちの手にゆだねられました。彼らの最初の組織的な行動は、他の信徒たちとの協議によって、ユダのかわりの使徒を選出することでした(使徒1:15-26)。

教会が成長するにつれて、使徒たちは、福音を宣べ伝えることと、教会の日常的な業務に当ることの両立は、不可能だと悟りました。そこで彼らは、教会の実際的な業務を教会が任命した七名の人たちに任せたのです。教会は、「御言のご用」と「日々の配給」(使徒6:1-4)とを分けましたが、教会の働きを果す上で、牧師と信徒を区別しようとしたわけではありません。事実、七人の執事の内の二人、ステパノとピリポは、それぞれ有力な説教及び伝道をしたことが特記されています。(使徒7章及び8章)。

アジアやヨーロッパへの教会の発展は、教会の組織的な拡大を要求しました。数多くの新しい教会の設立により、「教会ごとに」(使徒14:23)、長老が、安定した指導力を確保するために任命されました。

大きな問題が発生したとき、背景を異にしながらも教会に導かれていた人々は、全教会を代表する使徒たちや長老たちから成る総会に、それぞれの立場を述べることが許されていました。この会議の決定は、すべての教会員に拘束力があるものとして考えられ、また神の声として受入れられたのです(使徒15:1-29)。このことは主教会全体に影響を与えるような問題が起きた場合、地方の教会のそれよりも、さらに広いレベルの協議と権威が求められるという事実を説明しています。この場合、会議の決定は、背景を異にするすべての教会員の代表者によって得られた同意からくだされたものでした(使徒15:22,25)。

新約聖書は、必要が生じたときには、神のわざの指揮を、神ご自身が取られるということを明らかにしています。神の指示を仰ぎ、教会との協議を通して、彼らは教会の組織を作りあげましたが、もし今日もそれに従っておれば、それは、背教から教会を守り、また教会がその偉大な使命を達成するのを助けることでしょう。

教会組織の聖書的原則

1キリストは教会の頭であられる

教会に対するキリストの指導的地位は、主にキリストの仲保的働きに基礎を置いています。十字架においてサタンに勝利されたことにより、キリストは、「天においても地においても、いっさいの権威」(マタイ28:18)を授けられました。神は、「万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」(エペソ1:22、ピリピ2:10,11参照)のです。したがって、キリストは「主の主、王の王」(黙示録17:14)であられるのです。

キリストはまた、教会が主のからだ(エペソ1:23、コロサイ1:18)であるということのゆえに、教会のかしらであられます。信徒は「キリストのからだの肢体」(エペソ5:30)です。信徒は、キリストと、密接な関係を持たねばなりません。なぜなら、教会はキリストから出て、「節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していく」(コロサイ2:19)からです。

2キリストは一切の権威の源であられる

キリストは、その権威を、以下の点において示しておられます。(a)キリストの教会の設立において(マタイ16:18)、(b)教会が行わなければならない儀式の制定において(マタイ26:26-30、28:19,20、1コリント11:23-29、ヨハネ13:1-17)、(c)主の名によって働く教会への、神の権威の賦与において(マタイ16:19、18:15-18、ヨハネ20:21-23)、(d)ご自分の権威の下にご自分の教会を導く聖霊を送ることにおいて(ヨハネ15:26、16:13-15)、(e)すべての者が信仰の一致に到達し、「キリストの満ちみちた徳の高さ」に至るまで、聖徒たちを整えて奉仕のわざをさせ、「キリストのからだ」を建てさせるために、教会において特別な賜物により、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師(羊飼い)、教師として任命することにおいて(エペソ4:7-13)。

3聖書はキリストの権威を担うもの

キリストは、聖霊によって教会を導かれますが、神の言葉は、教会が働きをする上での、唯一の基準です。すべての教会員は神の言葉に従うべきです。なぜなら、神の言葉こそが、絶対的な意味において法であるからなのです。人間のあらゆる伝統、習慣、文化的慣例は、聖書の権威に服さなければなりません(2テモテ3:15-17)。

4キリストの権威と教会の役員

キリストは、教会と特別に任命された僕をとおして、ご自分の権威を行使なさいます。しかし、主は決して、ご自分の力を譲渡なさらないのです。どんな人も、キリストとキリストの言葉から離れて独立した権威を持つことはありません。

セブンスデー・アドベンチスト教会は、自分たちの役員を選出します。役員は、教会員の代理として、その職務を果しますが主その権威はキリストから与えられるものです。役員に選出されるということは、彼らがキリストから受けた召しを確かにすることにほかなりません。選任された役員の本来の義務は、礼拝、教理、訓練、及び福音宣布に対する聖書的な教えが、守られていることを確かめることです。教会は、キリストのからだですから、役員は、自分たちの決定や行為に関して、その勧告を求めるべきなのです。

新約時代の教会の役員

新約聖書は、教会の二つの役職、すなわち長老と執事について述べています。これらの役職の重要さは、それに従事する人のために定められた、高い道徳と霊的要求によって強調されています。教会は、按手礼を行うことによって、指導者への召しの神聖さを認めています(使徒6:6、13:2,3、1テモテ4:14、5:22)。

1長老

A長老とはどのような役割か

長老(ギリシャ語でプレスビュテロス)または監督(エピスコポス)は、もっとも重要な教会の役職でした。長老という言葉は、威厳と敬意とに包まれた年長者という意味です。この立場は、会堂(シナゴーグ)を監督した人の立場に似ていました。監督という言葉は「監視者」を意味しています。パウロは、長老を監視者、あるいは監督と同等視しました。これらの言葉を、彼は互換性を持つものとして用いていました(使徒20:17,28、テトス1:5,7)。

この立場にあった人は、新しく造られた教会を監督しました。長老が役職上の地位や身分を指していたのに対して、監督は、役職における義務や責任、すなわち「監視者」[7]を表していました。使徒たちも自分たちを長老と呼んでいましたので(1ペテロ5:1,2、2ヨハネ1、3ヨハネ1)、地方の長老と巡回する長老の双方が存在したことは明らかです。しかし、どちらの立場の長老も主会衆の羊飼いとして、その職分を果したのです。

B資格

長老にふさわしい人は、次のような人でなければなりません。「非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう」(1テモテ3:1-7、テトス1:5-9参照)。

したがって、役職に任命される前に、候補者は、自分自身の家でまず指導力を発揮していなければならないのです。「役員として推薦されている人の家族については、充分調査されるべきであります。家族は服従しているでしょうか。自分の家をよく治めることができているでしょうか。子供たちはどのような品性を持っているでしょうか。子供たちは父親の感化に敬意を表しているでしょうか。自分の家族を管理するにあたり、彼がその心得や知恵や敬神の念を持っていないのであれば、同じように、聖別されることのない管理が、教会でも見られることになると考えるべきでしょう」[8]。候補者が既婚者であれば、「神の家」(1テモテ3:15)でのリーダーシップという、より大きな責任がゆだねられる前に、家庭でのリーダーシップが示されるべきです。

役職の重要性のゆえに、パウロは、「軽々しく人に手をおいてはならない」(1テモテ5:22)と命じていたのです。

C長老の責任と権威

長老は主まず何よりも、霊的な指導者です。神は、彼を、「神の教会を牧させるために」(使徒20:28)選ばれます。彼の責任は、弱い者を助け(使徒20:35)、逆らう者に訓戒し(1テサロニケ5:12)、分裂をもたらす教えにたえず気を配っていなければならない(使徒20:29-31)ということです。長老は模範的なクリスチャン生活をしなければなりませんし(ヘブル13:7、1ペテロ5:3)、寛大さの模範でなければなりません(使徒20:35)。

D長老に対する態度

効果的な教会のリーダーシップは、かなりの部分まで、教会員の忠誠度にかかっています。パウロは、信徒に、指導者を尊敬するよう、また「彼らの働きを思って、特に愛し敬う」(1テサロニケ5:13)よう勧めています。そして、次のようにも述べています。「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である」(1テモテ5:17)。

聖書は、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている」(ヘブル13:17、1ペテロ5:5参照)と記して、教会の指導者の働きを尊重する必要を明らかにしています。教会員が、指導者が神から委託された責任を果すのを困難にしていると、教会員も指導者も、ともに悲しみを味わい、神の豊かさがもたらす喜びを逃がしてしまいます。

信徒は、キリストを模範とする指導者たちの生活様式に従うよう勧められています。「彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい」(ヘブル13:7)。うわさ話に関心を払うべきではありません。パウロは、「長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない」(1テモテ5:19)と警告しています。

2執事と女性執事

執事という名は、「召使い」や「助手」を意味するギリシャ語のディアコノスに由来しています。執事の役職は、使徒たちが、「祈と御言のご用に」(使徒6:4)十全にあたることができるようにと制定されました。執事は教会の日常的なわざの世話をすることになっていましたが、同時に、伝道の働きにも積極的に従事すべきでした(使徒6:8、8:5-13,26-40)。

この言葉の女性形が、ローマ人への手紙16章1節に使われています[9]。翻訳者は、この言葉を、「召使い」(KJV、NIV)、または「女性執事」(RSV)と訳してきました。「この章句の、この言葉と用法は、パウロがローマ人への手紙を書いた当時、女性執事の役職が、すでに教会に確立されていたかもしれないことを示唆しています。」[10]

長老と同じように、執事も、道徳及び霊的資格にもとづいて、教会によって選出されます(1テモテ3:8-13)。

教会の訓練

キリストは、教会に、教会員を訓練する権威を授け、それをするための適切な原則を与えてくださいました。主は、「聖なる祭司」(マタイ18:15-18、1ペテロ2:5参照)、また「聖なる国民」(1ペテロ2:9)としての、その高尚な召しを維持するために、必要なときにはいつでも、これらの原則を執行するよう、教会に期待しておられます。しかしながら、教会は、誤りを犯している教会員に、その状態を改める必要のあることも訴えねばなりません。キリストは、「悪い者たちをゆるしておくことができ」(黙示録2:2)ないエペソの教会を、賞賛しておられます。しかし、主は、異端と不品行(黙示録2:14,15,20)を黙認しているペルガモとテアテラの教会を譴責しておられます。訓練のための、以下の聖書的勧告に注目してください。

1個人的な罪の扱い

教会員の一人が、他の教会員に悪い事をした場合には(マタイ18:15-17)、キリストは、不当な扱いを受けた人が、罪を犯した人、すなわち、迷い出た羊の所に行って、その行いを正すよう彼を説得しなさいと勧告しておられます。聞いてもらえない場合には、一人か二人の、先入観を持たない証人を連れていって、二回目の努力を試みるべきです。もしこの試みも効を奏さなければ、問題は教会全体にゆだねられるべきです。

もし誤りを犯した教会員が、教会の知恵と権威を拒否すれば、彼は教会との交わりを自ら絶ったことになります。罪を犯した人を除名することによって、教会はその人の状態を単に確認するに過ぎないのです。もし、聖霊の導きの下、教会が注意深く聖書の勧告に従っているなら、その決定は天において認められているのです。キリストは、「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ18:18)と言われました。

2公の罪の扱い

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3:23)ますが、教会を汚す、目にあまる反逆的な罪は、それを犯す者を除名することによって、直ちに処理されなければなりません。

除名は、そのままにしておけばパン種のようにふくらむ悪をとり除いて、教会の清さを元に戻すと同時に主罪を犯した者に対しては、贖罪の救済策としても働くのです。コリントの教会における不品行の問題について、パウロは、即座の行動を主張しました。彼は、「主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。…新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい」(1コリント5:4,5,7)と述べています。パウロは信徒であると自称していても、次のような人々とは交際してはならない。「不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない。…その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい」(1コリント5:11,13)と述べています。

3分裂を引き起こす人の扱い

「分裂を引き起こし、つまずきを与え」(ローマ16:17)、聖書の教えに従うことなく、「無秩序に歩んでいる」教会員からは、その人が「自ら恥じるようになるため」主遠ざかるべきです。「しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい」(2テサロニケ3:6,14,15)と、パウロは述べています。もし「分裂を引き起す者」が、教会の「二度目の訓戒」に耳を傾けようとしないなら、退けられなければなりません。「たしかに、こういう人たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているから」(テトス3:10,11)です。

4過ちを犯した者の回復

教会員は、除籍された者を、軽蔑したり、避けたり、無視したりすべきではありません。むしろ、彼らが、悔改めと新生によって、キリストとの関係を回復するよう試みるべきです。悔改めが真実であることを充分に明らかにすれば、除籍された人は、教会の交わりへと回復されうるのです(2コリント2:6-10)。

神の力、栄光、恵みは、わけても、罪人が教会に回復されることによって表されます。神は、やみの国から光の国へ罪人を導き入れ、罪のなわめから解放しようと望んでおられます。宇宙の舞台である神の教会は、すべての人々の生涯において、キリストの贖いの犠牲の力を示しています。

今日キリストは、主の教会をとおして、すべての人を主の家族の一員となるよう招いておられます。主は、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)と言っておられます。

[1]教会という語の起源に関してバーコフは次のように記しています。「『チャーチ』、『ケルク』、『キルヘ』という名は、エクレシアという語ではなく、『主に属する』という意味の、キュリアケという語に由来しています。このことは、教会が神に属するものであるという事実を強調しています。ト・クリアコン、ヘ・クリアケという語は、まず第二に教会が集りを持った場を示していました。この場所は主に属するものとして考えられており、したがってト・クリアコンと呼ばれていました」(『組織神学』(Systematic Theology)557ページ)。

[2]「教会の特性」『セブンスデー・アドベンチスト百科辞典』(”Church, Nature of”, SDA Encyclopedia)、改訂版、302ページ、「教会」『セブンスデー・アドベンチスト聖書辞典』(”church,SDA Bible Dictionary)、改訂版224ページ。

[3]シナイ写本、アレクサンドリア写本、ヴァティカン写本、エフライム写本などに基づいて、単数として読むティッシェンドルフを受け入れる近代の翻訳による。

[4]イエスについての教えを除いて、初代教会の信条はユダヤ教のそれに大変似ていました。ユダヤ人及び異邦人双方のクリスチャンが、安息日には会堂で、旧約聖書の講解に耳を傾け、礼拝を続けていました(使徒13:42-44、15:13,14,21)。聖所の幕が裂けたことは、儀式の対型的な成就を意味していました。ヘブル人への手紙は、クリスチャンの心を型から型の示す実体、すなわち、イエスのあがないの死、天でのイエスの大祭司としての働き、そしてイエスの救いの恵みへと向けることを意図していました。新約聖書の時代は過渡的な時代でした。使徒たちはときに旧約聖書の定めた儀式に参加することはあったものの、最初のエルサレム会議での決議は、それらに救いの価値は認めていないことを示しています。

[5]チャールズ・E・ブラッドフォード「私にとって教会の持つ意味」、『アドベンチスト・レビュー』(Charles E. Bradford, “What the Church Means to Me”, Adventist Review)1986年11月20日号、15ページ。

[6]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、改訂版、第5巻、432ページ参照。

[7]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、改訂版、第6巻、26,38ページ参照。

[8]ホワイト『証』(White, Testimonies)、第5巻、618ページ。

[9]ディアコノスは性としては男性、女性のいずれでもありうるので、この場合の性は文脈によって決定されます。「わたしたちの姉妹」であるフィベもまたディアコノスですので、この言葉は第二変化名詞としてつづられてはいますが、女性名詞に違いありません。

[10]「執事」、『セブンスデー・アドベンチスト聖書辞典』(”Deaconess”, SDA Bible Dictionary)、改訂版、257ページ。新約時代において、「ディアコノス」には広い意味がありました。「それは、分に応じて教会に仕えたすべての人を記述するために用いられていました。パウロは、使徒でありながらも、しばしば自分(1コリント3:5、2コリント3:6、6:4、11:23、エペソ3:7、コロサイ1:23参照)とテモテ(1テモテ4:6参照)をディアコノイ(ディアコノスの複数形)と記述しました」。『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、改訂版、第7巻、300ページ)。これらの例において、ディアコノスは「執事」の代わりに「奉仕者」または「僕」と訳されてきました。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

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