残りの民とその使命【アドベンチストの信仰#13】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

普遍的な教会は、キリストを真に信じるすべてのものから成る。しかし、背教がはびこる終りの時代には、神の戒めを守り、イエスの信仰を持ち続ける残りの民が召し出される。この残りの民は、裁きの時が来たことを告げ、キリストによる救いを宣べ伝え、キリストの再臨が切迫していることを知らせる。この働きは、ヨハネの黙示録14章に記されている三天使によって象徴されている。そしてそれは、天における裁きのわざと並行してなされ、地上に悔い改めと改革の働きをもたらす。すべて信じる者は、この世界的なあかしの働きに個人的に加わるように召されている。(信仰の大要13)

大きな赤い龍が待ちかまえてうずくまっています。その龍は、すでに天使の三分の一の転落を成功させています(黙示録12:4,8-9)。今度もし、いま生まれようとする赤子を滅ぼすことができれば、龍は戦いに勝つことになるのです。

その龍の前に立っている女は太陽を着て、足の下に月を踏み、十二の星の冠をかぶっていました。女が産む男の子は、「鉄のつえをもってすべての国民を治める」運命にあります。

龍はその子を食い尽くそうとしますが、それを殺そうとする努力はむだになります。かえってその子は、「神のみもとに、その御座のところに」引き上げられます。怒った龍はその母親に激しい怒りを向けます。彼女は奇跡的に翼を与えられ、神によって特別に用意された遠い所へ連れていかれます。神はそこで女を一時と二時と半時――三年半、または預言的1260日の期間養われることになっています(黙示録12:1-6,13,14)。

聖書の預言では、純潔な女は神に忠実な教会を表します[1]。姦淫者または姦婦として描かれる女は背教した神の民を表します(エゼキエル16章、イザヤ57:8、エレミヤ31:4,5、ホセア1-3章、黙示録17:1-5)。

この龍、「悪魔とか、サタンとか呼ばれ、年を経たへび」は、男の子、すなわち長く待望された救い主、イエス・キリストを食い尽くそうと待ちかまえていました。大敵イエスに挑むサタンは、ローマ帝国を手先として利用しました。何ものも、たとえ十字架上の死でさえも、イエスに人類の救い主としての働きをやめさせることはできませんでした。

十字架上で、キリストはサタンを打ち破られました。十字架の苦難について語っておられたとき、キリストは言われました、「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう」(ヨハネ12:31)と。ヨハネの黙示録は天の勝利の賛歌を描写して、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者…は、投げ落された。…それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ」(黙示録12:20-12)と書いています。天からのサタンの追放はその働きを制限しました。もはやサタンは、天の住民の前で神の民を責めることはできなくなりました。

しかし天が喜ぶ一方、地は警戒しなければなりません。「地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おえまたちのところに下ってきたからである」(黙示録12:12)。

サタンは激しく怒って女、すなわち、教会(黙示録12:13)を迫害し始めました。この教会は大きな痛手を受けましたが、それでも生き残りました。人口の希薄な地、すなわち「荒野」が、預言的1260日、すなわち、1260年の間、神の民のために逃れ場を備えました(黙示録12:14-16、預言の一日を一年とするという原則については第4章参照)[2]

この荒野の経験の終りに、神の民が、キリスト再臨のしるしに応じて現れるのです。ヨハネはこの忠実な群れを、「女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者」(黙示録12:17)と言っています。悪魔は特にこの残りの子らを憎みます(黙示録12:17)。

いつ、どこでこの迫害が起きたのでしょうか。どのように起きたのでしょうか。いつ残りの民が現れ始めたのでしょうか。その役割は何でしょうか。これらの質問に対する答えは、聖書と歴史の両方の詳細な調査を必要とします。

目次

大背教

キリスト教会の迫害は、まず多神教ローマによって、続いては教会自身の背教によってもたらされました。この背教については驚くには及びません。ヨハネもパウロもキリストもこれを預言していました。

イエスは最後の説教の中で、にせ者が現れることを弟子たちに警告されました。「イエスは答えて言われた、『人に惑わされないように気をつけなさい』」「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイ24:4,24)と。イエスの信者は「大患難」の期間を経験しますが、しかし生き残るのです(マタイ24:21,22)。自然界の印象的な徴候がこの迫害の終りのしるしとなり、キリスト再臨の間近いことを示すのでした(マタイ24:29,32,33)。

パウロも警告しました「わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう」(使徒20:29,30)。これらの「おおかみ」が教会を「背教」や「衰退」へと導くのです。

この背教はキリスト再臨の前に起らねばならないとパウロは言いました。それがまだ起らなかったという事実は、キリスト再臨がまだすぐではないという確かなしるしであったことは明白でした。「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい」と彼は言いました、「なぜなら、まず背教が起り、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日はこないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します」(2テサロニケ2:3,4)。【訳注1】

パウロの時代にさえ、この背教は限られたかたちではありましたが、すでに起きていました。その働きは「あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わし」(2テサロニケ2:9,10)とをもった悪魔的なものでした。一世紀末前に、ヨハネは「多くのにせ預言者が世に出てきている」(1ヨハネ4:1)と言いました。実に彼は「反キリストの霊」は「すでに世にきている」と言いました(1ヨハネ4:3)。いったいどのようにして、この背教が起ってきたのでしょうか。

「不法の者」の支配

教会が初めの愛から離れたとき(黙示録2:4)、教会は教理の純粋さ、人間の行為の高い標準、聖書によってもたらされる目に見えない一致のきずなを失いました。礼拝においては単純さが形式主義に代りました。人気や人間的な力がますます指導者の選出を決定するようになりました。指導者たちはまず地方教会で権力を握り、やがて近隣の教会にまで権力を伸ばす努力をしました。

「聖霊の指導のもとにある地方教会の管理は、ついには一人の役人すなわち司祭の手中にある教会管理主義に移りました。各教会員は司祭に対して従臣であり、司祭を通してのみ救いに近づくことができました。指導者は教会を助ける代りに治めることだけを考えるようになり、最も『偉大』なのは、もはや自分を『万人の僕』とみなす人ではなくなりました。こうして次第に個人と主との間に入り込んだ司祭制度の概念が発達しました。」[3]

個人や地方教会の重要性がむしばまれたときに、ローマの主教がキリスト教の最高の実力者として現れてきました。皇帝の助けによって、この最高の主教、または教皇[4]は普遍的教会の目に見える頭として認められ、世界中の教会指導者に対する最高権力を授けられました。

教皇制[5]のもとで、キリスト教会はさらに背教の深みへとはまり込んでいきました。教会の人気の高まりが、その堕落に拍車をかけました。標準がさがったことが、改心していない人々を教会内で居心地よくさせました。ほんとうのキリスト教をほとんど知らない大勢の人々が、彼らの内にあった異教の教えや偶像、その礼拝のしかたや儀式、祭り、象徴などを携えながら、名前だけで教会に加わってきました。

これら異教とキリスト教の妥協は、「不法の者」、すなわち真理と誤謬の混合である偽宗教の巨大な組織の形成へと導きました。テサロニケ人への第二の手紙2章の預言は個人を非難しているのではなく、大背教を引き起した宗教組織をあばいているのです。しかし、この組織内にいる信者の多くは神の普遍的教会に属しています。なぜなら、彼らは持っている光に従って生きているからです。

苦難の教会

霊的な衰退と共に、ローマの教会は皇帝政治と緊密なきずなを結んで、いっそう世俗的な様相を強めていきました。教会と国家は不浄な同盟を結びました。

最も大きな影響を及ぼした教父のひとりアウグスチヌスは、彼の古典『神の国』(The City of God)の中で、普遍的国家の支配下にある普遍的教会というカトリックの理想を述べました。アウグスチヌスの思想は、中世教皇神学の土台を築きました。紀元533年、ユスティニアヌス法典に織り込んだ手紙の中で、ユスティニアヌス皇帝は、ローマの司祭が全教会の頭であると宣言しました[6]。彼はまた、異端者を排斥する教皇の権勢を承認しました[7]

ユスティニアヌスの将軍ベリサリウスが紀元538年にローマを解放したとき、ローマの司祭は東ゴートの支配から自由になりました。東ゴートのアリウス派が原因で、カトリック教会の発展が制限されていたのです。しかし今や、司祭は533年のユスティニアヌス法典が与えた特権を実際に用いることができ、教皇の権威を増大することができるのです。こうして聖書が預言したように1260年の迫害が始まりました(ダニエル7:25、黙示録12:6,14、13:5-7)。

悲劇にも、教会は国家の援助のもとで、クリスチャンに教会の法令や教義を強制しようと試みました。多くの人々は迫害を恐れて自分の信仰を放棄し、一方、聖書の教えに忠実な人々は厳しい迫害に遭いました。キリスト教世界は一つの戦場になりました。多くの人々が神の名のために投獄されたり処刑されたりしました。1260年の迫害期間中、数百万の忠実な信徒たちが大患難を経験し、多数が死をもってキリストに忠誠を尽くしました [8]

流された血潮の一滴一滴が、神とイエス・キリストの名にしみを残しました。キリスト教に対し、この冷酷な迫害以上に損傷を与えたものはかつてありませんでした。このような、教会の行為が与えた神の品性に対するゆがんだ見方、また煉獄と永遠の苦痛の教理は、多くの人々にキリスト教全体を否定するようにさせてしまいました。

宗教改革のずっと以前から、カトリック教会内部でたくさんの声が、容赦ない反対者の殺害や、そのごうまんな主張、また腐敗をもたらす不正行為に対し抗議しました。教会がその改革を好まなかったことが、16世紀のプロテスタントの宗教改革を誕生させることになりました。この成功はローマの教会の権威と名声に大きな打撃となりました。反宗教改革を通して教皇制は宗教改革鎮圧のため血まみれになって戦いましたが、しかし市民権と宗教の自由を求める勢力に徐々に敗北していきました。

遂に1798年、すなわち538年から1260年後に、ローマ・カトリック教会は死ぬほどの傷を受けました(黙示録13:3参照)[9]。イタリアにおけるナポレオン軍のはなばなしい勝利は、教皇をフランス革命政府の手中におくこととなりました。この政府はローマの宗教を共和制とは相いれぬ敵とみなしました。したがって、政府は教皇を捕虜にするようナポレオンに指示しました。将軍ベルティエルはナポレオンの命でローマに進軍し、教皇制の最期を宣言しました。ベルティエルは教皇を捕らえてフランスから追放し、教皇は流浪の身で死にました[10]

教皇制の転覆は、その漸進的な衰退に関係した一連の長期的な事件の頂点でした。この事件は1260年の預言の終りをしるしています。多くのプロテスタントがこの事件を預言の成就と解釈しています[11]

宗教改革

伝統に基づいた非聖書的教理、反対者への残忍な迫害、腐敗、堕落、また多くの聖職者の霊的衰退が、民衆をして既成の教会内部の改革を叫び求めさせた要因でした。

教理的問題

次に掲げるのは、プロテスタント改革を促し、また今もプロテスタントとローマ・カトリックを区別する非聖書的教理の例です。

1地上の教会の頭はキリストの代理者である

この教理は、ローマの司祭だけが地上のキリストの代理者または代表人であり、教会の目に見える頭であると主張します。教会の指導者に関する聖書的見解(本書第11章参照)とは対照的に、この教理は、キリストがペテロを教会の目に見える頭とし、教皇がこのペテロの後継者であるという仮定に根拠がおかれました[12]

2教会とその頭の無謬性

ローマ教会の名声と影響力に最も強く貢献したのは、教会の無謬性という教理です。教会は決して誤ったことがなく、これからも誤ることがないと主張しました。これは次の理由に基づいていますが、聖書的支持は何も見いだせません。教会は神聖であるから、その本質的特性の一つが無謬性である。さらに、神はこの神聖な教会を通して善意あるすべての人々を天国に導こうとしておられるのであるから、教会は信仰と道徳を教えるに当って無謬でなければならない[13]。キリストは、それゆえに聖霊の力を通して教会をすべての誤りから保護してくださるであろう。

この論理的な結果は、人間の根本的な堕落を否定しており(本書第7章参照)、教会の指導者も無謬でなければならないとするのです[14]。よってカトリック文書は、指導者のために神聖な特権を主張しました 。[15]

3大祭司キリストの仲保のわざの消滅

ローマ教会の影響が強まるにつれて信徒の注目は、旧約聖書の聖所の儀式における継続的な日毎の犠牲の本体(本書第4章、第23章参照)である天での大祭司としてのキリストの継続的な仲保のわざから、ローマの指導者の地上の祭司制へと移されました。罪のゆるしと永遠の救い(本書第9章、第10章参照)を、キリストに頼む代りに、信徒は教皇、司祭、聖職者に信頼をおきました。万民祭司という新約聖書の教えに矛盾して、聖職者の赦免が今や救いの核心と信じられました。

悔改めた信徒には、キリストの贖罪的犠牲の恩恵を、いつでも適用するという天におけるキリストの祭司としての働きは、教会が聖餐式をミサに代えたときに、実際に否定されました。イエスがその死を記念し、来るべき王国を告げ知らせるために制定された儀式(本書第15章参照)である聖餐式とは異なり、カトリック教会は、ミサを神に対する人間祭司による血を流さないキリストの犠牲であると主張します。キリストはカルバリーのときと同様、ミサにおいて再び犠牲としてささげられるので、このミサは信徒や病人に特別な恵みをもたらすものとみなされました 。[16]

人間の祭司によって執り行われるミサしか知らず、聖書には無知な一般大衆は、わたしたちの仲保者イエス・キリストに直接近づく祝福を失いました。こうして、「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル4:16)との約束と招きは消し去られてしまいました。

4良いわざの功徳

良いわざをすることによって救いの功徳が得られる、また信仰では救われない、という広く行きわたった考えは、新約聖書の教えと矛盾します(本書第9章、第10章参照)。カトリック教会は、罪人の心に注がれた恵みの結果である良いわざには功徳がある、すなわち、良い行いは個々人に救いを要求する権利を与えると教えました。実際ある人は、聖人たちがそうであったように、救いのために必要とされている以上の良いわざを行うことができ、余分の功徳を積むことができるというわけです。この余分の功徳は他の人のために用いることができます。罪人はその心に注がれた義に基づいて義とされるとの考えをその教会は有しているので、善行は人の義認において重要な役割を演じていました。

功徳はまた煉獄の教理においても重要な役割を果たしました。この教理は、完全に清められていない人々は天の喜びに入る前に、罪を清める一時的な刑罰を煉獄で受けなければならない、と言います。祈りと良い行いによって、生きている信者は、煉獄にいる者たちの苦しみの期間を短くし、きびしさを和らげることもできます。

5告解と悔悛の秘蹟の教理

告解は、クリスチャンがバプテスマ後に犯した罪のためにゆるしを得る秘蹟です。この罪のゆるしは司祭の赦免を通して完成しますが、その前に、クリスチャンは自分の良心をさぐり、罪を悔改め、神に二度と罪を犯さないように決心しなければなりません。それから彼らは司祭に罪を告白し、悔悛の秘蹟―司祭によって課せられた罪の償いを行います。

しかし、悔悛の秘蹟は罪人を完全に解放しませんでした。彼らはこの世の煉獄で一時的な刑罰を受けなければなりませんでした。この刑罰を処理するために、教会は免罪符を発行しました。これは、ある罪が許された後で、罪の結果残された一時的刑罰を免除するためのものでした。生きている者と煉獄にいる者の両方に益となる免罪符は、悔改めの状態、指定された良い行いの実践、そして、しばしば教会への金銭の支払いを条件として、授けられました。

免罪を可能にしたのは、殉教者、聖人、使徒、特にイエス・キリストとマリヤの特別な功徳でした。彼らの功徳は「功徳の宝庫」に預けられており、これらは勘定の不足な信徒の口座に振り替えることができました。教皇はいわゆるペテロの後継者として、この宝庫の鍵をにぎっており、宝庫からの融資によって、人々を一時的刑罰から救うことができました[17]

6最高の権威は教会にある

既成の教会は数世紀を通じて、多くの異教の信条、聖日、象徴を取り入れてきました。このような忌まわしい行為に対して叫び声が上がったとき、ローマの教会は聖書解釈の絶対唯一の権利をにぎっていると考えました。聖書ではなく教会が、最高の権威となりました(本書第1章参照)。教会は真理について二つの源が存在すると主張しました。(1)聖書と(2)カトリックの伝統、後者は教父たちの諸文書、教会会議の諸法令、認証された信条、教会の諸儀式から成っていました。教理が伝統によって支持され、聖書によっては支持されないときは、いつでも伝統が優先しました。一般信徒は、神が聖書のうちに啓示された教理を解釈する権利をまったく有しておりませんでした。その権利はカトリック教会にのみ属していました[18]

新しい夜明け

14世紀に、ジョン・ウイックリフは、イギリスだけでなく全キリスト教国に教会の改革を叫び求めました。聖書がほとんどなかったこの時代に、彼は聖書全巻を初めて英語に翻訳しました。救いはただキリストへの信仰による、そして聖書のみが無謬である、という彼の教えがプロテスタント宗教改革の土台となりました。改革の明けの星として、彼は、キリストの教会を無知のゆえに縛りつけていた異教のかせから解く努力をしました。彼は個人の魂を自由にし、国々を宗教的誤りの毒手から解放するための運動を始めました。ウイックリフの著述は、フス、ヒエロニムス、ルターなど多数の魂を感動させました。

マルチン・ルター(熱烈な、行動的な、妥協しない人)が最も力のある改革者でした。他のだれよりも、彼は人々を聖書に導き帰し、また行いによる救いに激しく反対して、「信仰による義」という福音の大真理に導きました。

信徒は聖書以外のどんな権威も受け入れるべきではないと宣言して、ルターは人々の目を人間のわざ、司祭、悔悛の秘蹟から、唯一の仲保者であり、また救い主であられるキリストに向けさせました。人間のわざによって罪人の罪を軽くしたり、刑罰を免れたりするのは不可能だと、彼は言いました。ただ神への悔改めと、キリストへの信仰だけが罪人を救うことができます。キリストの恵みは賜物であり、それはただで与えられるもので、買えるものではありません。それゆえに人間は、免罪符ではなく、贖主の流された血潮のゆえに希望を持つことができるのです。

考古学の発掘者が、何世紀も地下に埋められていた宝物を見つけるように、宗教改革は、長く忘れられていたもろもろの真理を明らかにしました。福音の大真理、すなわち信仰による義が再発見され、イエス・キリストのただ一度の贖罪の犠牲と、充分に効力のある仲保のわざをする祭司職について認識が新たにされました。多くの非聖書的教え、たとえば死人のための祈禱、聖人・聖骨崇拝、ミサ聖祭、マリヤ礼拝、煉獄、悔悛の秘蹟、聖水、祭司職の独身制、ロザリオ、異端の宗教裁判、化体説、終油の秘蹟、伝統依存などは否認され、捨てられました。

プロテスタント改革者たちはほとんど異口同音に、教皇制を「荒らす憎むべき者」、「不法の者」、ダニエル書の「小さい角」、そしてヨハネの黙示録12章6、14節と13章5節にある、再臨前の1260年間に神の民を迫害する実在、とみなしました[19]

聖書、そして聖書のみが信仰と道徳の基準であるという教理が、プロテスタントの基礎になりました。宗教改革者たちは、人間のすべての伝統を聖書の最終かつ最高の権威に従属するとみなしました。宗教的信仰に関してはどんな権威(教皇、評議会、教父、王、または学者)も良心を支配すべきではありません。実に、キリスト教界はその眠りから目覚め始め、多くの国々で宗教的自由が宣言されました。

停滞した改革

キリスト教会の改革は16世紀で終ってしまうべきではありませんでした。改革者たちは多くを成遂げましたが、しかし背教時代に失ったすべての光をまだ再発見していませんでした。彼らはキリスト教を真っ暗闇から取出しましたが、しかし依然としてそれは暗がりの中にありました。彼らは中世教会の鉄の手を砕き、世に聖書を与え、基本的な福音を回復しましたが、他の重要な真理を発見するには至りませんでした。沈めのバプテスマ、義人の復活のときにキリストによって授けられる賜物としての不死、聖書的安息日としての週の七日目等の真理(本書第7章、第14章、第19章、第25章参照)は、まだ暗がりの中に失われたままでした。

しかし改革を前進させる代りに、後継者たちは改革者たちの偉業を固定させてしまいました。彼らは聖書の代りに改革者たちの言葉と意見に注意を向けました。少数の者は新しい真理を発見しましたが、大多数は初期の改革者たちが信じたこと以上に進むのを拒みました。その結果、プロテスタント信仰は形式主義と教義中心主義へと変質し、捨てるべきであった誤りが大切に残されてしまいました。改革の炎はしだいに消え去り、プロテスタント教会自身が冷たく、形式的で、改革が必要になりました。

宗教改革以後の時代は神学的活動が盛んになりましたが、霊的進展は少しもみられませんでした。フレデリック・W・ファラーはこの時期を「自由は束縛に、普遍的原理は貧弱な要素に、真理は教条主義に、自立は伝統に、宗教は組織に取り代えられた。聖書に対する敬いの心は、霊感という空論に取り代えられた。温和な正統的信奉が鉄の画一性に、生きた思考が議論のための論理に道を譲った」[20]と書きました。「宗教改革は旧スコラ哲学の鉛の笏をこわしました」が、プロテスタント教会は「鉄の棒の新スコラ哲学」をもちこみました[21]。ロバート・M・グラントはこの新しい教義中心主義を、「中世の神学的構造のように融通がきかない」[22]と言いました。プロテスタントは「実際上、現に行われていた彼ら自身の信仰告白という制限によって、自分自身を縛りつけた」[23]のです。

論争は爆発しました。「人々が互いに他の誤りを見つけることに、これほどまで時を費やしたり、これほどまで侮辱的な名で呼び合ったりした時代はなかった。」[24]こうして良き知らせは言葉の争いとなりました。「聖書はもはや心に語らず、批判的知性に語る。」 [25]「教義は正統となったが霊性は消え去った。神学は勝利したが愛はやんだ。」[26]

残りの教会

1260年間の背教と試練にもかかわらず、ある者たちは使徒時代の教会の純潔を現し続けました。1798年に、1260年の迫害が終ったとき、龍は神の忠実な民をまったく根絶することには失敗しました。サタンはこれらの人々に向かって破壊的努力を傾注し続けました。ヨハネは、「龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った」(黙示録12:17)と言いました。

残りの教会とは何か

女とその子らと龍の戦いについての描写で、ヨハネは「彼女の子孫の残り(“rest”)」(黙示録12:17、NIV)という表現を用いました。この表現は「残っている者たち」または「残り」(“remnant”KJV)という意味です。聖書は残りの者たちを、災難、戦争、背教などを通じて神に忠誠を保つ神の民の小さい群れとして描いています。この忠実な残りの者たちは、地上の神の見える教会を宣伝するために神が用いられたいわば根株でした(歴代下30:6、エズラ9:14、15、イザヤ10:20-22、エレミヤ42:2、エゼキエル6:8、14:22)。

神は残りの教会に対して、神の栄光を宣言し、世界中に散っている神の民をその「聖なる山エルサレム」、「シオンの山」に導くよう委ねられました(イザヤ37:31,32、66:20、黙示録14:1参照)。こうして一緒に集められた者について、聖書は、「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」(黙示録14:4)と述べています。

ヨハネの黙示録12章17節は、忠実な信徒である神の選民のうちの最後の教会、すなわちキリスト再臨前の終りの時代の忠実な証人たちの描写を含んでいます。では残りの教会の特徴とはどんなものでしょうか。

残りの教会の特徴

終りの時代の残りの教会はそう簡単には間違えられることはありません。ヨハネはこのグループを特別な用語で描いています。1260年の迫害後に現れ、「神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている」(黙示録12:17)者たち、とされています。

彼らは、キリスト再臨前に、全世界への神の警告、ヨハネの黙示録14章の三天使の使命を宣べ伝える責任があります(黙示録14:6-12)。これらのメッセージそのものが残りの教会の描写を含んでおり、彼らは「神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける」(黙示録14:12)人々なのです。これらの特徴のそれぞれをさらに詳しく考えてみましょう。

1イエスの信仰

神の残りの民は、イエスが持たれたのに似た信仰によって特徴づけられています。彼らは、神と聖書の権威に対するイエスの揺らぐことのない確信を表します。彼らは、イエスは預言されたメシヤ、神のみ子、世の救い主としてこれらた方と信じます。彼らの信仰は、聖書のすべての真理、すなわちキリストが信じ教えられたもの全部を含みます。

神の残りの民は、キリストへの信仰による救いという永遠の福音を宣べ伝えます。彼らは神のさばきの時が来たことを世に警告し、まもなくこられる主にお会いするために人々を備えさせます。彼らは人類に神のあかしを完成するために、世界的な伝道にたずさわります(黙示録14:6,7、10:11、マタイ24:14)。

2神の戒め

イエスにある真の信仰は、残りの教会に彼の模範に従うよう求めます。「『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(1ヨハネ2:6)とヨハネは言いました。イエスがみ父のいましめを守られたので、彼らもまた神のいましめに服従するのです(ヨハネ15:10)。

特に彼らは残りの民なので、彼らの行為はその告白と調和しなければなりません。そうでなければそれは無意味です。イエスは、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7:21)と言われました。キリストがお与えになる力によって、神の不変の道徳律、十戒のすべてのいましめを含めた神の要求に従うのです(出エジプト20:1-17、マタイ5:17-19、19:17、ピリピ4:13)。

3イエスのあかし

ヨハネは「イエスのあかし」を「預言の霊」と定義しています(黙示録19:10)。残りの教会は、預言の賜物を通して与えられたイエスのあかしによって導かれます。

この聖霊の賜物は、「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」(エペソ4:13)ように、教会の歴史を通じ継続的に働くのでした。それゆえに、これは残りの教会の主要な特徴の一つです。

このような預言的指導は、残りの教会を、預言的メッセージを宣べ伝える預言の人々にします。彼らは預言を理解し教えます。残りの教会に臨む真理の啓示は、キリストの来臨に世を備えさせるかれらの使命の完結を助けます(本書第17章参照)。

最後の残りの教会の出現

聖書は、残りの教会は大迫害後の世の舞台に現れる、と示しています(黙示録12:14-17)。

1260年間の終り(紀元1798年)の、教皇の捕囚へと発展したフランス革命という大事件、また天体の三大前兆の成就(地、太陽、月、星が、キリスト来臨の間近いことを証明した。本書第24章参照)は、預言研究の大覚醒へと導きました。間近なイエスの来臨への大きな期待が起りました。世界中で多くのクリスチャンが、「終りの時」(ダニエル12:4)が来たことを認識しました[27]

18世紀後半と19世紀前半において見られた聖書の預言の成就は、再臨待望に中心を置いた強力な超教派的運動をもたらしました。どの教会にもキリストの再臨の間近いことを信じた人々がおり、彼らは祈り、働き、時のクライマックスを待望していました。

再臨の希望は信徒間に固い一致の精神をもたらし、多くの者が力を合わせてキリストの来臨について世に警告しました。再臨運動は、神の言葉と再臨の希望に中心をおいた、真に聖書的な覚醒運動でした。

彼らは聖書を研究すればするほど、神が残りの教会を召して、沈滞していたキリスト教会の改革を続けさせようとしておられるのを確信しました。彼らはそれぞれの教会で改革の真の精神の欠乏、再臨の研究に関する興味や再臨への備えの不足を、すでに経験していました。彼らの聖書研究は、神によって導かれた試練と失望が、神の残りの民としてかれらを結び合わせる深い霊的な清めの経験であることを明らかにしました。神は、それほどの喜びと力を教会にもたらす改革を続けるように命じられました。神の任命が彼らに与えられたのは彼らが本来的に優秀だからではないこと、キリストのあわれみと力によってのみそれは成功しうるものであることを認めつつ、感謝と謙遜をもって彼らはその使命を受け入れました。

残りの教会の使命

ヨハネの黙示録の預言は、残りの教会の使命についてはっきりとその輪郭を描いています。ヨハネの黙示録14章6-12節の三天使の使命は、福音の真理の完全で最後的な回復をもたらす残りの教会の宣言を表しています[28]。三天使の使命は、キリスト来臨直前の世界に吹きまくる圧倒的な悪魔的欺瞞に対する神の答えを含んでいます(黙示録13:3,8,14-16)。世に対する神の最後の訴えに続いてすぐ、キリストは収穫物を集めに戻ってこられます(黙示録14:14-20)。

第一天使の使命

「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』」(黙示録14:6,7)。

第一の天使は、永遠の福音を世界に伝える神の残りの民を象徴しています。この福音は、昔の預言者や使徒たちが宣べたのと同じ神の無限の愛の良きおとずれです(ヘブル4:2)。残りの教会は異なった福音を提示しません。すなわち、さばきの点において、彼らは、罪人は信仰によって義とされ、またキリストの義を受けることができるというあの永遠の福音を再確認するのです。

このメッセージは世界に悔改めを求めています。それはすべての者に神を「おそれ」、すなわち敬い、また神に「栄光」、すなわち誉れを帰することを命じています。「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15:8)。

ヨハネは、世をキリストの来臨に備えさせる運動は、神の栄光のための聖書的関心に新たな強調をおくだろう、と預言しています。それはかつてないほどに、わたしたちの生活を清く保つようにとの新約聖書のアピールを示しています。「あなたがたのからだは聖霊の宮である」。わたしたちには自分の肉体的、道徳的、霊的力の独占権はありません。キリストがこれらを、ご自分の血と一緒にカルバリーへ持っていかれました。「それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(1コリント6:19,20)。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(1コリント10:31)。

「神のさばきの時」がきたという事実は、悔改めへの招きに緊急さを加えます(本書第23章参照)。ヨハネの黙示録14章7節のさばきという語はギリシャ語のクリシスの訳であって、審判の執行(クリマ)ではなく、審判の行為を意味します。すなわち、人々の神の法廷への召喚、生涯の記録の調査、無罪または有罪の判決、永遠の生命の授与または死の執行を含む審判の全過程を意味します(マタイ16:27、ローマ6:23、黙示録22:12参照)。さばきのときのメッセージはまた、すべての背教に対する神のさばきも宣言しています(ダニエル7:9-11,26、黙示録17,18章)。

さばきのときのメッセージは特に、天の聖所におけるキリストの大祭司職の最終段階として、キリストが審判の働きに入られた時を指し示しています(本書第23章参照)。

このメッセージはまたすべての人が創造主を礼拝するように招いています。礼拝への神の招きは、獣とその像を礼拝せよという要求と対照して考えなければなりません(黙示録13:3,8,15)。まもなく各人は、真と偽りの礼拝、すなわち、神の方法(信仰による義)で神を礼拝するか、または自分の方法(行いによる義)で礼拝するか、の選択をしなければならないでしょう。「天と地と海と水の源とを造られたかたを伏し拝め」(黙示録14:7、出エジプト20:11参照)とのわたしたちへの命令によって、このメッセージは十戒の第四条へ注目を向けさせています。これは人々を創造主への真の礼拝、すなわち、創造の記念、主の第七日安息日を崇める経験へと導きます。主は創造のときにこの日を定め、十戒の中で証言されました(本書第19章参照)。第一天使のメッセージはそれゆえに、創造主キリストと聖書的安息日の主を世に示して、真の礼拝の回復を訴えています。これは神の創造のしるし、しかし大部分の被造物によって無視されているしるしでもあります。

創造主なる神への注意を促すこのメッセージの宣言は、摂理によって、進化論がチャールズ:ダーウィンの『種の起源』(Origin of Species)(1859年)の出版により大人気を得たその歴史的段階と期を同じくして始まりました。第一天使の使命の説教は、進化論普及の波に抵抗する最高の防波堤を構築します。

最後に、この使命は、「不法の者」(2テサロニケ2:3)によって踏みにじられてきた神の聖なる律法の名誉回復を示しています。真の礼拝が回復され、信徒が神の王国の原則に生きるときのみ、神は栄光をお受けになることができるのです。

第二天使の使命

「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」(黙示録14:8)。

歴史の初めから、バビロンの都は神への挑戦を象徴しました。その塔は、背教の記念物であり、反逆の中心でした(創世記11:1-9)。ルシファー(サタン)はその目に見えない王であり(イザヤ14:4,12-14)、彼はバビロンを人類を滅ぼす大計画の代理店にしたかったことがわかります。神の都エルサレムとサタンの都バビロンの戦いは、聖書を通じて、善悪の争闘として描写されています。

キリスト教初期の時代、ローマ人がユダヤ人とクリスチャンを圧迫していたとき、ユダヤ人とクリスチャンの文学はローマの都をバビロンとして言及しました 。ペテロはバビロンをローマの別名として用いたと、多くの人が信じています(1ペテロ5:13)。宗教改革とそれ以後の時代のほとんどのプロテスタントは、その背教と迫害のゆえに、ローマの教会を霊的バビロン(黙示録17章)、神の民の敵と呼びました[30]

ヨハネの黙示録では、バビロンは不道徳な女、淫婦たちの母、また彼女の不品行な娘たちであるともされています(黙示録17:5)。それはすべての背教した宗教組織とその指導者を象徴しており、特にヨハネの黙示録13章15-17節に描写されている最後の重大局面を引き起す獣とその像との間の宗教連合、大背教の宗教同盟を指します。

第二天使の使命は、バビロン的背教の普遍的性質とその威力を明らかにして、「彼女は、その不品行の怒りのぶどう酒をあらゆる国民に飲ませた」と言っています。バビロンの「ぶどう酒」は、彼女の異教的教えを表します。バビロンは、彼女の偽りの教えと法令を全世界に強いるため、国家権力に圧力を加えるでしょう。

ここに述べられている「不品行」は、バビロンと国々、すなわち、背教の教会と国家権力の不法な関係を表します。教会は彼女の主と結婚することになっています。それなのに彼女の夫を離れ、国家の支持を求めて霊的姦淫を犯すのです(エゼキエル16:15、ヤコブ4:4参照)。

この不法な関係は悲劇を生みます。ヨハネは、地の住民がもろもろの偽りの教えで「酔いしれている」のを見ました。また彼は、バビロン自身も、その非聖書的教理を拒んでその権威に従わない「聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれている」(黙示録17:2,6)のを見ます。

バビロンは、第一天使の使命、すなわち、創造主への信仰による義の福音を拒否するので倒れます。最初の数世紀間、ローマの教会が背教したように、今日の多くのプロテスタントは宗教改革の大真理から離れてしまいました。このバビロン崩壊の預言は特に、かつて改革を強力に推進した信仰による義の永遠の福音の純粋性と単純さから、プロテスタントが全体として離れていることにその成就が見られます。

第二天使の使命は、終りが近づくにつれ適切さを増すでしょう。それは第一天使の使命を拒否したいろいろな宗教組織が連合するときに、完全な成就を見ます。バビロン倒壊のメッセージはヨハネの黙示録18章2-4節で繰り返されており、バビロンの完全な没落を告げ、バビロンを構成するいろいろな宗教団体の中にいる神の民に、そこから離れるよう招いています。天使が「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ」(黙示録18:4)と言います[31]

第三天使の使命

「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」(黙示録14:9-12)。

第一天使の使命は永遠の福音を宣言し、さばきのときがきたという理由で創造神への真の礼拝の回復を命じます。第二天使は、人間に端を発したすべての礼拝形態に警告します。最後に、第三天使は、信仰による義の福音を拒む者すべてが、遂にはおこなってしまう獣とその像の礼拝に対し、神の最も厳しい警告を宣言します。

ヨハネの黙示録13章1-10節の獣は、数世紀もの間キリスト教世界を支配し、パウロによって「不法の者」(2テサロニケ2:2-4)、またダニエルによって「小さい角」「ダニエル7:8,20-25、8:9-12)と言われた教会、国家連合です。獣の像は、教会が改革の真の精神を失ってしまい、その教えを他に強制するために国家と結びつくようになるとき、形成される背信宗教の形態を表します。教会と国家の結合において、それらは、1260年の間迫害した背信の教会であるあの獣の完全な影像になるのでした。よって獣の像という名前があるのです。

第三天使の使命は、聖書中で最も厳粛な恐ろしい警告を宣言します。それは、地上最後の重大時に人間の権威に従う者は、神よりも獣とその像を拝むことを明らかにしています。この最終期間に、二つの異なるグループが現れます。一方のグループは人間が考え出した福音を鼓舞し、獣とその像を拝み、その結果重大なさばきを自らにもたらします。他のグループはまったく対照的に、真の福音によって生き、「神の戒めを守り、イエスの信仰を持ちつづけ」(黙示録14:9,12)ます。最後の争点には、真の礼拝と偽りの礼拝、真の福音と偽りの福音などが含まれます。この問題がはっきりと世に提示されるそのとき、日曜日が神の指定された礼拝日ではないことを知りながらも、それを拝み尊び、神の創造の記念である聖書的安息日を拒む人々は、「獣の刻印」を受けることになります。この刻印は反逆の印であり、獣は、その礼拝日の変更は、神の律法にさえまさる権威を自ら有しているものであることを示していると主張します[32]

第三の使命は、真の礼拝を回復する永遠の福音と神のメッセージとを受け入れることを拒むその結果に、世の注目を向けさせます。それは礼拝に関する人々の選択の結果を生き生きと描写しています。その選択は容易なものではありません。なぜなら人が、たとえどちらをえらんでも苦しみが伴うからです。神に従う人々は龍の怒りにあい(黙示録12:17)、死に脅かされます(黙示録13:15)。また獣とその像を拝むことを選ぶ人々は、最後の七つの災を招き、最後には「火の池」(黙示録20:14,15)に遭います。

しかし、いずれを選んでも苦しみは伴いますが、その結果は違います。創造主を礼拝する者たちは、龍の激しい怒りをまぬがれ、小羊と共にシオンの山に立ちます(黙示録14:1、7:2、4)。一方、獣とその像を礼拝する者たちは、神のきびしい怒りを受けて、聖なるみ使たちや、小羊の面前で死んで行きます(黙示録14:10、20:14)。

各人はだれを拝むか選ばなければなりません。人が神の是認された礼拝に参加して、信仰による義を選択したことを示すか、または、神が禁止し、獣とその像が命令する、人の作った礼拝に参加して、行いによる義を選択したことを示すかのいずれかです。神は後者をお受け入れになることはできません。なぜならそれは、神の命令にではなく、人間の命令に優先権を与えるからです。それは人間のわざによる義を追求し、創造主、贖主、また再創造主としての神への全的依存からくる信仰による義を求めません。ゆえにこの意味で、第三天使の使命は信仰による義のメッセージなのです。

神はすべての教会にご自分の子供たちを持っておられます。しかし特に残りの教会を通して、神は背教からご自分の民を呼び出し、また彼らをキリストの来臨に備えさせることによって、真の神の礼拝を回復するという使命を宣言しておられます。残りの教会はこの厳粛な使命を果たそうと努力しますが、神の民の多くがまだ彼らの中に加わっていないことを知るときに、自らの不適格や弱さを感じます。彼らは、この重大な義務を遂行できるのは、ただ神の恵みによってのみであることを認めます。

まもなく起るキリストの来臨とこのキリストにまみえる備えの必要という光の中に、神のさし迫った、しかもあわれみ深い呼びかけが、わたしたち各人の心に痛切に響きます。「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる」(黙示録18:4,5)。

訳注

  1. このところは、原書ではNKJVが用いられていますが、ここでは訳の内容がそれに非常に近似している日本聖書刊行会発行の新改訳を用いています。

 [1]純潔な女(黙示録12:1)をとりかこむ太陽のまばゆい光明は、いろいろな注解者によると、初代教会に権限を付与し、宗教的情熱を与えた新約聖書の光を表します。月は、それが太陽の光を反射するように、十字架と来るべきお方を指し示した預言と儀式を通しての旧約聖書における福音の光の反射を象徴します。十二の星の冠は、旧約聖書の十二部族の父祖に始まり、新約聖書の十二使徒に及ぶ教会の根を表します。

 [2]預言の期間を計算する際の一日一年則の使用は、ダニエル書9章のメシヤ預言に関して説明されたところですでに述べられています。本書第4章参照。

 [3]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、第4巻、835ページ。

 [4]教皇という名は、字義的には「父」、「司祭」を意味する低ラテン語パパ、低ギリシャ語パパス、また「父」を意味するギリシャ語パッパスから来ています。教皇は「ローマの司教であり、ローマ・カトリック教会の頭」(『ウエブスター辞典』((Webster’s New Universal Unabridged Dictionary))、第2版、〔New York, NY:Simon&Schuster, 1979〕)です。

 [5]教皇制とは、最高権威が教皇に帰属する教会的政府の組織、と定義することができます。

 [6]ユスティニアヌスから教皇ヨハネスに宛てた手紙。これは、ユスティニアヌス法典、第1篇、第1、第8にある教皇ヨハネスからユスティニアヌスへ宛てた書簡の中に引用されているものです。S・P・スコット編訳の『民法』(The Civil Law, ed. and trans. S. P. Scott)、(Cincinnati, OH: Central Trust Comp., 1932)、第12巻、11-13ページにある、パウルス・クリューガー編、『ローマ法大全』(Corpus Juris Civilis, comp., Paulus Krueger)、第12版(Berlin: Weidmannsche Verlaglsbuchhandlung, 1959)、第2巻、11ページ参照。また、『民法』(Civil Law)、第17巻、125ページにある、ルドルフ・ショエール、ギレルムス・クロール編、『ローマ法大全』(Corpus Juris Civilis, comps, Rudolfus Schoell and Guilelmus Kroll)、第7版、第3巻、665ページの『ユスティニアヌス新勅法』(Justiniani Novellae)、第131新勅、第2章を参照。さらに、ドン・ニューフェルド、ジュリア・ニューファー編、『セブンスデー・アドベンチスト聖書学者のための資料集』(Don Neufeld and Julia Neuffer, eds., Seventh-day Adventist Bible Student’s Source Book)(Washington D. C.: Review and Herald, 1962)、684,685ページも参照。

 [7]ユスティニアヌスが、523年3月26日に、コンスタンチノープルの大主教、エピファニロースに宛てた手紙。これは、ユスティニアヌス法典、第1篇、第1、第7に見られます。注6の『資料集』(Souce Book)、685ページに引用されているクリューガー編、『ローマ法大全』(Corpus Juris Civilis)第2巻、8ページ参照。

 [8]例えば、ジェームズ・ハーディングズ編、『宗教・倫理百科事典』(Encyclopaedia of Religion and Ethics, .ed James Hastingqs)(New York, NY: Charles Scribner’s Sons, 1917)、第9巻、749-757ページの「迫害」の項、ジョン・ダウリング『カトリック教の歴史―キリスト教の初期堕落から現代まで』(John Dowling, The History of Romanism : From the Earliest Corruptions of Christianity to the Present Time)、第10版(New York, NY: Edward Walker, 1846)、237-616ページ参照。

 [9]この打撃は教皇制の名誉を著しくそこないましたが、しかしその影響を終わらせることはしませんでした。ヨハネの黙示録13章3節は、教皇の影響力の回復を示して、「死ぬほどの傷」がいやされると言っています。終末時代に、それは世界で最も強力な宗教的勢力になります。

 [10]ジョージ・トレーヴァー『ローマ―西帝国崩壊以後』(George Trevor, Rome : From the Fall of the Western Empire)(London: The Religious Tract Society, 1868)、439,440ページ、ジョン・アドルフス、『1790年から1802年アミアンで締結された講和条約までのフランスの歴史』(John Adolphus, The History of France From the Year 1790 to the Peace Concluded at Amiens in 1802)(London: George Kearsey, 1803)、第2巻、364-369ページ。『資料集』(Source Book)、701,702ページも参照。

 [11]レロイ・E・フルーム『われわれの父祖たちの預言信仰』(Leroy E. Froom, The prophetic Faith of Our Fathers)(Washington, D. C.: Review and Herald, 1948)、第2巻、765-782ページ。

 [12]ピーター・ガイヤーマン『改宗者のためのカトリック教理問答』(Peter Geiermann, The Convert’s Catechism of Catholic Doctrine)(St. Louis, MO: B. Herder Book Co., 1957)、27,28ページ。

 [13]同・27ページ。

 [14]後に、教皇無謬性の教理は、次のような仮定に基づくとされました。(1)神の教会の特質としての無謬性は、教会の首領の権威の十全性の中に必然的に見い出される。(2)ペテロは信仰と品行について教えるにあたり無謬であった。(3)教皇は、神の教会の特質をペテロから継承した。エクス:カテドラで話す時、「教皇は信仰と品行に関する無謬の教師である」(ガイヤーマン、29ページ)と結論されました。ラテン語でエクス:カテドラは字義的には「椅子から」という意味です。教皇に関して言えば、これはカトリック教会に向けて発表される公式の宣言と関係づけられています。

 [15]教皇制の擁護のためになされた主張に関しては、『資料集』(Source Booh)、680ページに引用されている。ルキウス・フェラリス『プロンプタビブリオテカ』(Lucius Ferraris, Prompta Bibliotheca)(Venice, Gaspar Storti, 1772)、第6巻、25-29ページの「パパ」、第2項参照。教皇自身の主張に関しては、例えば、『教皇レオ13世の大回勅』(The Great Encyclical Letters of Pope Leo XIII)(New York, NY: Benziger Brothers, 1903)、193,304ページにある教皇レオ13世の、1890年1月10日、及び1894年6月20日付の回勅を参照。『資料集』(Source Booh)、683,684ページも参照。

 [16]ジョン・A・マックヒュー、チャールズ・J・キャラン訳、『パリの司祭たちのためのトリエント公会議教理問答』(Catechism of the Council of Trent for Paris Priests, trans. by John A. McHugh and Charles J. Callan)(New York, NY: Joseph F. Wagqner, Inc., 1958 reprint)、258,259ページ。『資料集』(Source Book)、614ページも参照。

 [17]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、第7巻、47,48ページ。

 [18]フィリップ・シャフ編、『キリスト教信条』(The Creeds of Christendom. ed., Philip Schaff)、第6版、改訂版(Grand Rapids, MI: Baker, 1983)、第2巻、79-83ページに引用されている。1546年4月8日のトリエント総会議の第四会期参照。『資料集』(Source Book)、1041-1043ページも参照。

 [19]フルーム『われわれの父祖たちの預言信仰』(Froom, Prophetic Faith of Our Fathers)、第2巻、528-531ページ。

 [20]同。

 [21]同。

 [22]ロバート・M・グラント『聖書解釈小史』(Robert M Grant, A Short History of Interpretation of the Bible)(Philadelphia, PA: Fortress Press, 1984)、97ページ

 [23]ファーラー(Farrar)、361ページ。

 [24]同・363ページ。

 [25]グラント(Grant)、97ページ。

 [26]ファーラー(Farrar)、365ページ。

 [27]残りの民の起源については、フルーム、『われわれの父祖たちの預言信仰』(Froom, Prophetic Faith of Our Fathers)、第4巻、及びP・ジェラード・ダムスティーク『セブンスデー・アドベンチストのメッセージと働きの土台』(P. Gerard Damsteegt, Foundations of the Seventh-day Adventist Message and Mission)(Grand Rapids, MI: Wm. Eerdmands, 1977)参照。

 [28]ダムスティーク「回復の神学」(Damsteegt,“A Theology of Restoration”)(宣教百年記念会議に提出された論文、アンドリューズ大学、1974年5月4日)参照。

 [29]『雅歌のミドラシュ・ラバ』(Midrash Rabbah on Canticles)、Ⅰ・6、4、及びテルトゥリアヌス『マルキオン反駁論』(Tertullian, Against Maycion)、Ⅲ・13、同、『ユダヤ人に答える』(Answer to the Jews)、9参照。

 [30]フルーム『われわれの父祖たちの預言信仰』(Froom, Prophetic Faith of Our Fathers)、第2巻、531,787ページ。

 [31]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、第7巻、828-831ページ。

 [32]カトリック教会は、礼拝の日を変えるための権威を主張します。「問、どちらが安息日ですか。答、土曜日が安息日です。問、なぜわたしたちは土曜日の代わりに日曜日を守るのですか。答、カトリック教会が厳粛さを土曜日から日曜日に変えたので、わたしたちは土曜日の代わりに日曜日を守るのです。」(ガイヤーマン、50ページ)。『資料集』(Source Book)、886ページ参照。この教理問答書は、1910年1月25日に、法王ピウス10世より「教皇掩祝」を受けました(同書参照)。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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