中心思想:非人間的な行為は神に対する罪であって、相応の裁きを受けます。
この記事のテーマ
聖書の中で、獅子はしばしば動物界の王とされています。その外観は凶暴性と破壊力と同時に、抗しがたい力と威厳を感じさせます。狩りをしているときでなくても、それは存在感にあふれていて、うなり声は何キロも聞こえます。羊飼いアモスがイスラエル人に遣わされたのは、自分が獅子のほえる声を聞いたことを伝えるためでした。獅子は彼らの主以外の何ものでもありませんでした。預言者アモスは聖霊に動かされて、神が御自分の特別な民と諸国民に語られる様を、獅子のほえる様と比べています(アモ1:2参照)。
アモスが召されたのは人類に対して罪を犯した諸国民に預言をするためでした。彼はまた、特権を与えられた宗教的な民が、平和と繁栄の中で暮らしている社会に遣わされました。しかし、この民は貧しい人々を虐げ、不法な商売を行い、法廷で賄賂を取っていました。今回は、主がこれらの卑劣な行いについて言われることに耳を傾けます。
人間に対する犯罪
問1
アモス書1、2章を読んでください。刑罰が臨むことについて、主が警告されるのはなぜですか。
アモス書の最初の2章には、周辺諸国民に対する七つの預言が、続いてイスラエルに対する預言が記されています。外国の諸国民が裁かれるのは、彼らがイスラエルの敵であるためではなく、彼らが普遍的な人間の原則を犯したからです。アモスは特に二つの点—忠誠の欠如と憐れみの欠如—について断罪しています。
たとえば、ティルスはイスラエルの北の地中海沿岸にあった中心的な商業都市でした。ほとんど難攻不落の島の要塞であったために、この町は自らを安全であると自慢していました。その上、ティルスの指導者たちは、ペリシテ人など周辺のいくつかの国々と平和条約を結んでいました。この町はダビデとソロモンの治世には(王上5:15、26—口語訳5:1、12)、またアハブ王の治世にも(王上16:30、31)、「兄弟の条約」によってイスラエルと結ばれていました。列王記上9:13で、ティルスの王ヒラムがソロモンを「わたしの兄弟」と呼んでいるのも不思議ではありません。
しかし、ティルスの住民は「兄弟の契り」を破りました。ティルスは捕虜を連れ去ったことのためではなく、捕虜をイスラエルの敵であるエドム人に引き渡したことのために非難されています。したがって、ティルスの住民はこれらの捕虜を敵の手によって苦しめた残酷さに対して責任を問われたのでした。神の視点からすれば、犯罪を助け、それを支持した者は、それを犯した者と同じだけ罪が深いのです。
神は絶対者であるゆえに、全世界の運命をその御手に握っておられます。神の目的と関心はイスラエルの国境のはるか彼方まで及びます。イスラエルの神はすべての国民の主であって、すべての人間の歴史に関心を寄せておられます。主は創造主なる神であって、すべての人に命をお与えになります。すべての人は神に対して責任を負っています。
抑圧された者たちのための正義
神の普遍的な裁きはアモス書に見られる中心的な教えの一つです。この書の冒頭において、預言者は人類に対する犯罪のゆえにイスラエルの隣国のいくつかに対して神の裁きを宣言しています。しかし、アモスは大胆にも、神がまたイスラエルをも裁かれると布告しています。主の怒りは諸国民だけでなく、御自分の選ばれた民にも向けられていました。ユダの民は主の言葉を拒み、主の教えに従いませんでした。
同時に、イスラエルに対するアモスの叱責はユダよりもはるかに広範囲に及んでいます。イスラエルが神の契約を破り、多くの罪を犯したからです。イスラエルの経済的繁栄と政治的安定は霊的腐敗につながりました。この霊的腐敗は社会的不法となって現れました。イスラエルにおいては、富める者たちが貧しい者たちから搾取し、力ある者たちが弱い者たちを食い物にしました。富める者たちは、それが貧しい者たちに犠牲と苦しみを強いることであっても、自分自身と自分の利益のことしか考えませんでした(数千年後の今も、状況はあまり変わっていません)。
アモスはその説教の中で、他者に対する私たちの扱いに関心を寄せる生ける神がおられると説いています。正義は思想や規範以上のものです。イスラエルの石造りの家、象牙の家具、最高級の食物と飲み物、最上の香油に至るまで、すべての物は滅ぼされると、預言者は警告しています。
問2
イザヤ書58章を読んでください。この章は「現代の真理」の特徴を帯びています。しかし、世に対する私たちのメッセージは、これ以上のものです。
社会的正義は福音のもたらす必然的な結果であると、聖書ははっきりと教えています。聖霊によってイエスに似る者とされるとき、私たちは神の思いにあずかるようになります。モーセの書は寄留者や寡婦、孤児を公平に扱うように教えています(出22:21~24)。預言者たちは、神が恵まれない人々を公平に、憐れみをもって扱うように望まれると言っています(イザ58:6、7)。詩編作者は、聖なる宮にいます神は「みなしごの父となりやもめの訴えを取り上げてくださる」と言っています(詩編68:6)。キリストは社会から拒絶された人々に深い関心をお示しになりました(マコ7:24~30、ヨハ4:7~26)。主の兄弟ヤコブは、私たちの信仰を行動によって示し、貧しい人々を助けるように教えています(ヤコ2:14~26)。そのように行わない者は、真にキリストに従う者とは言えません。
特権にともなう危険
アモスの預言的なメッセージはイスラエルの歴史的状況に限定されたものではなく、イスラエルとユダを超えて伝えられるべきものでした。旧約聖書においては、イスラエルと神との関係は独特のものでしたが、独占的なものではありませんでした。
アモス書3:1、2を読んでください。2節で用いられているヘブライ語の“ヤーダ”(「知る」—口語訳参照)は、親密さを表す特別な意味を持っています。たとえば、神はエレミヤ書1:5で、御自分が預言者を生まれる前から「知って」いて、彼を聖別されたと言っておられます。イスラエルの場合も同じでした。彼らは単に多くの国民の中の一つではありませんでした。神は彼らを聖なる神の目的のために聖別されました。彼らは神と特別な関係にありました。
神御自身がイスラエルを選び、彼らを奴隷の身から自由の身とされました。エジプトからの脱出は、国家としてのイスラエルの歴史の始まりの中で最も重要な出来事でした。それは神の贖いの業とカナンの地の征服への道を備えました。しかし、主の選ばれた民としての特権的な地位について言うなら、イスラエルはその力と繁栄のゆえに高慢と自己満足に陥りました。
問3
ルカ12:47、48にあるキリストの言葉を読んでください。キリストがここで教えておられる原則を、そのように理解したらよいですか。人生における大きな特権を乱用するなら、重い刑罰を受けることになるという意味ですか。
預言者アモスは神の霊感によって、イスラエルの民は主の選民であるゆえに、その行いに関して特に責任を問われると警告しています。イスラエルの神との独特の関係には義務がともなっており、もしその義務を遂行しなければ、結果として刑罰が下ると、主は言っておられます。言い換えるなら、神の選民であるイスラエルは、とりわけ神の裁きを受けるべき立場にあるということです。なぜなら、特権には責任が伴うからです。イスラエルはただ特権的な地位のために選ばれたのではありませんでした。彼らが召されたのは、彼らを豊かに祝福なさった主を世界に証しするためでした。
イスラエルの神との出会い
「イスラエルよお前は自分の神と出会う備えをせよ」(アモ4:12)。
アモス書4章はイスラエルの罪についての描写をもって始まり、清算の日についての布告をもって終わります。自分たちの生き方と他者に対する態度に関して、神は特に御自分の民の責任を問われます。
アモスは一連の自然災害をあげていますが、それらはどれもイスラエルを神に立ち帰らせるに足るものでした。これら七つの災害は神の契約を破ったことに対する十分な刑罰です(レビ記26章のモーセの言葉と比較)。災害のうちのいくつかは、神がエジプトに送られた災いを思い起こさせるもので、最後の災いは明らかにソドムとゴモラの完全な滅亡に言及しています。
問4
神殿の奉献式においてささげられたソロモンの祈りによれば、災いはふつう民をどのような行為に導くことになっていましたか。王上8:37~40
イスラエルはもはや普通の民のように振る舞わなかったので、神は彼らの心を引きつけることが不可能であるとお考えになりました。さらに、神の裁きは民の心をかたくなにする結果になりました。民は主に立ち帰ろうとしなかったので、アモスは悔い改めるための最後の機会を与えます。
最後の裁きが下ろうとしていますが、アモスはその裁きがどのようなものであるかを明らかにしていません。アモスの言葉に含まれる曖昧さが、裁きの脅威をいっそう不気味なものにしています。イスラエルが神を求めなかったので、神がイスラエルに会うために出て行かれます。もし裁きがだめなら、神との出会いが救うことになるのでしょうか。
アモス書4:12は、「わたしはお前にこのようにする」という言葉をもって始まっています。これは伝統的な誓いの文句を思い起こさせるものです。この厳粛な宣言は、かつて神がシナイにおいて出現されたときのように(出19:11、15)、イスラエルに対して神と出会う備えをするように求めています。
高慢は堕落につながる
問5
オバデヤ書を読んでください。この書はどんな重要な道徳的・霊的真理について教えていますか。
オバデヤ書は旧約聖書の中で最も短い書で、エドムに対する神の裁きに関する預言的な幻について記しています。この書は、エドムの傲慢(1~4節)、エドムに臨む屈辱(5~9節)、ユダに対するエドムの暴虐(10~14)の三つの問題に焦点を当てています。
エドム人はヤコブの兄弟エサウの子孫でした。イスラエル人とエドム人の間の敵意は、双子の兄弟をめぐる家族同士の争いにさかのぼります。二人は後に二つの国民の父となりました。しかし、創世記33章によれば、二人の兄弟は後に和解しました。イスラエル人は神によって、「エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である」と命じられています(申23:8)。
それにもかかわらず、両国民の間の敵意は長年にわたって続きました。バビロンがエルサレムを滅ぼし、その市民を捕囚にしたとき、エドム人は喜んだばかりでなく、逃れようとするイスラエル人を食い物にし、そのうえエルサレムの略奪を助けました(詩編137:7)。それゆえに、預言者オバデヤは、エドムが自らの基準によって裁かれると警告したのでした。「お前がしたように、お前にもされる」(オバ15)。エドム人は苦難の中にあるユダの民に対して兄弟として行動しないで、むしろ敵の軍勢に味方したのでした(哀4:21、22)。
エドムが占領した地は死海の南東にありました。それは、軍勢が身を隠すことのできる高い峰々や険しい岩、洞穴、裂け目で満ちていました。エドムの町のいくつかはこのような近づき難い場所にありました。セラ(別名ペトラ)はエドムの首都でした。彼らの傲慢な態度は次の言葉によく表されています。「誰がわたしを地に引きずり降ろせるか」(オバ3)。
神は苦しみの中にある人々を利用する者たちの責任を問われます。オバデヤは高慢なエドムの民に対して、神が彼らの頭を低くされるであろうと警告しました。主から逃れる場所はありません(アモ9:2、3)。来るべき主の日は裁きと救いをもたらします。エドムは神の怒りの杯を飲み、神の民の繁栄は回復されます。
さらなる研究
次の引用文を読み、それらがアモス書1~4章とオバデヤ書のメッセージをもっとよく理解する上でどんな助けになるか話し合ってください。
「イスラエルの宗教の初めから、神が御自分の使命を遂行するためにこの特別な民をお選びになったという信仰が、ヘブライ人の信仰の基礎であり、悩みの時の避け所であった。しかし、預言者たちは、自分たちと同時代の多くの人々にとって、この基礎がつまずきの石となり、この避け所が逃げ道になったと感じていた。逆に、選ばれていることを神の偏愛や、懲罰からの免除と誤解してはならないこと、またそれがより深刻に神の裁きと懲罰にさらされていることを意味することを、彼らは民に思い起こさせねばならなかった。……
選ばれていることは、神がイスラエルだけに関心を寄せられることを意味するのだろうか。エジプトからの脱出は、神がイスラエルの歴史だけに関わり、他の国民の運命には全く無関心であることを暗示するのだろうか」(エイブラハム・J・ヘスケル『預言者』32、33ページ、英文)。
「誤った礼拝に陥った人々は、心の防備がくずれ去って、罪に対する防壁を失い、人間の心の邪悪な欲望に負けてしまったのである。
預言者たちは、その時代のはなはだしい圧迫、悪評高い不正、異常なまでの華美とぜいたく、恥を忘れた宴楽と酔酒、野卑な放蕩と堕落に対して、その声をあげたのであるが、彼らの抗議も、彼らの罪の告発も、その効果がなかった。『彼らは門にいて戒める者を憎み、真実を語る者を忌みきらう』『あなたがたは正しい者をしえたげ、まいないを取り、門で貧しい者を退ける』とアモスは言った(アモス書5:10、12)」(『希望への光』497ページ、『国と指導者』上巻249、250ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。