天の最上の贈り物【ゼカリヤ書—主を求めよ、そして生きよ!】

中心思想:ゼカリヤ書はメシアに関する驚くべき預言をいくつか含んでいます。それらはイエスを指し示すと同時に、イエスに対する私たちの信仰を確認するものです。

目次

この記事のテーマ

聖書のメッセージの中心にあるのは、これまでに語られた物語の中でも最も素晴らしい物語、つまり創造主なる神の御子が、人類を罪と死から救うために天の栄光を去られたという物語です。ゼカリヤ書の後半部分には、いくつかのメシア預言、つまりイエスについての旧約聖書の預言的約束が見られます。私たちのためにそれらすべてをしてくださったのはイエスです。

これらの特定の約束は最初に、危機に満ちたゼカリヤの時代に住んでいた神の民に与えられました。彼らの心を絶えず贖いの約束に向けさせるためでした。これらの預言の背景にある事情も決して無視してはならないものですが、それらの重要性は過去の預言の成就に限られるものではありません。むしろ、それらがイエスにおいて成就した方法、つまり局地的でなく普遍的な成就に目を向ける必要があります。なぜなら、それらが古代イスラエルとユダだけでなく、世界の最終的な運命に影響を及ぼすからです。

「ユダヤ人の衣」

第8章から、ゼカリヤ書は大きく変わります。主から与えられた一連のメッセージは、世界の将来とその中における神の民の役割について述べています。これらの章の聖句の中には理解し難いものもありますが、最終的な将来は明らかに肯定的なものです。

問1

ゼカリヤ書8章を読んでください。セブンスデー・アドベンチストとしての私たちに関連して、また私たちに与えられている神からの召命に関連して、ここからどんな原則を学ぶことができますか。

神の計画は、エルサレムが再び安全な場所となり、老人たちが通りに座し、遊び戯れるわらべとおとめで溢れるようになることでした(ゼカ8:4、5)。征服者たちによって踏み荒らされた町に住んでいた者たちにとって、通りが若者や老人にとって安全な場所になるという約束は夢のように響きました。

永久に弱小の従属国家に留まる代わりに、神の民は磁石のように諸国民を引き付け、諸国民は主、全地の王を礼拝するようになるのでした(ゼカ14:9)。ゼカリヤ書8:23に「あらゆる言葉」という表現が用いられていますが、これは預言が世界的な運動となることを示唆しています。

イザヤ(イザヤ書2章)やイザヤと同時代のミカ(ミカ書4章)のように、ゼカリヤは神によって、群衆が多くの町や国から祈るためにエルサレムに上り、主を求める日が来ることを示されました。神がシオンにおられることが広く認められ、神の祝福が神を礼拝する人々の上に注がれるのでした。

福音書の記録によれば、これらのメシアに関する約束が実現し始めたのはイエス・キリストの働きを通してでした。たとえば、イエスはあるとき、御自身が地上から上げられるとき、「すべての人を」御自分のもとへ「引き寄せよう」と言われました(ヨハ12:32)。

キリストの教会、また「神のイスラエル」(ガラ6:16)は現代においてこの使命にあずかる特権を与えられています。私たちは地の果てまで救いの光を伝えるべきです。こうして、神の民は世界に大いなる祝福をもたらすことができます。

平和の王

問2

ゼカリヤ書9:9を読んでください。新約聖書はこの部分をイエスに適用しています。マタ21:5~9、マコ11:9、10、ルカ19:38、ヨハ12:13~15参照

イエスの勝利の入城は、将来の王がろばに乗ってエルサレムに入ることを連想させるものでした。聖書においては、喜びと歓呼の声は特に王としての神を祝うことと関係があります(詩編47、96、98編)。この柔和な支配者は正義と救い、永続的な平和をもたらし、その支配は地の果てまで及ぶのです。

御自分の死のわずか数日前に、イエスがろばに乗ってエルサレムに凱旋されたとき、大勢の人々が喝采して彼を迎えました。喜んだ者たちの中には、キリストがローマの権力を覆し、エルサレムに神の王国を打ち立てることを期待した者たちもいました。しかし、イスラエルの王となることなく、イエスは十字架上で亡くなり、復活されました。イエスに従う多くの者たち、より軍事的な指導者を求めていた者たちが失望させられたことは確かです。しかしながら、イエスの死によって得られるものに比べれば、自分たちの求めていたものが無に等しいことに、彼らは全く気づいていませんでした。

「キリストは、王の入城について、ユダヤ人の慣例に従っておられた。キリストが乗られた動物はイスラエルの王たちが乗った動物であって、預言には、このようにしてメシヤが王国にこられるということが予告されていた。キリストが小馬にお乗りになるやいなや、勝利の叫びが大気をふるわせた。群衆は、キリストをメシヤ、彼らの王として歓呼した。イエスはいま、以前には決しておゆるしにならなかった敬意をお受けになったので、弟子たちはこのことを、イエスが王位につかれるのを見ることによって自分たちのうれしい望みが実現される証拠として受けとった。群衆は、彼らの解放の時が近づいたことを確信した」(『希望への光』970ページ、『各時代の希望』下巻2、3ページ)。

刺し貫かれた方

ゼカリヤ書12~14章は、もしイスラエルが神に忠実であったなら実現していたはずのいくつかの事柄について啓示しています。第一に、主は御自分の救いの計画に反対する悪の勢力と敵対的な諸国民に対する全面的な勝利を与えておられたでしょう(ゼカ12:1~9)。エルサレムはこの勝利をもたらす神の手段となるはずでしたが、勝利そのものは主の介入によってもたらされるのでした。最後には、敵は完全に敗北し、滅ぼされていたことでしょう。

ゼカリヤ書12:10から、動きが肉体的な救い、つまりもしイスラエルが忠実であったなら実現していたであろう事柄から、神の忠実な民の霊的な救いへと移行しています。勝利の後に、神の民は主を喜んで受け入れます。恵みと嘆願の神の霊が指導者と民の上に注がれます。罪を自覚させるこの聖霊の働きは広範囲の悔い改めと霊的リバイバルをもたらします。それは私たちの教会が求めているものにほかなりません。

神の霊が注がれるとき、神の民は自分たちの刺し貫いた方を見つめ、独り子の死を嘆く者のようにその方のために嘆きます。「刺し貫いた」を意味する元のヘブライ語はいつでも、普通は死に至らしめる、ある種の肉体的暴力を表現しています(民25:8、サム上31:4)。民の痛烈な悲しみは、自分たちの罪がイエス・キリストの死を招いたことを理解することによって深まります。

問3

ゼカリヤ書12:10を読んでください。使徒ヨハネはこの聖句をどのようにキリストの十字架と再臨に結びつけていますか。ヨハ19:37、黙1:7参照

興味深いことに、あるユダヤ人の伝統的な解釈によれば、この聖句はメシアの経験を指し示しています。もちろん、彼らは正しいのです。それはイエスと、十字架上のイエスの死について述べています(イザ53章比較)。

私たちはどうしたらキリストの死の意味をもっと深く理解することができますか。

良い羊飼い

長年、ユダヤ教とキリスト教の聖書の読者たちは、ゼカリヤ書の中にメシアとメシアの時代に関する多くの言及があるのを認めてきました。当然ながら、キリスト教徒はこれらの言及がイエス・キリストに当てはまると理解しています。キリストは勝利と平和の王(ゼカ9:9)、刺し貫かれた方(同12:10)、撃たれた羊飼い(同13:7)でした。

ゼカリヤ書13:7~9で、主の裁きの剣が良い羊飼いに向かっている光景を、預言者は示されています。その先の場面では、剣が「無用の羊飼い」に向かって上げられるのを、預言者は見ています(ゼカ11:17)。しかし、この聖句においては、良い羊飼いが撃たれ、羊の群れが散らされています。彼の死は神の民に対する大いなる試練と試験をもたらし、その間に一部の者たちは滅びます。しかし、忠実な者たちはみな、清められます。

問4

マタイ26:31、マルコ14:27を読んでください。イエスはこの預言を、その夜に起ころうとしていたどんなことに適用しておられますか。さらに言えば、弟子たちが逆境に直面して、それから逃れようとするこの出来事の全体は(マタ26:56、マコ14:50参照)、人間の不信仰とは対照的な、神の忠誠についてどんなことを教えていますか。

羊飼いとしての神の象徴は聖書の随所に見られます。それは創世記(48:15)から黙示録(7:17)にまで及んでいます。神はエゼキエルを通して、御自分の民の無責任な牧者たちを叱責し、失われた羊を捜し出し、彼らを世話すると約束しておられます。イエスはこれらの言葉を御自分に当てはめることによって、御自分が羊のために自分の命を捨てる良い羊飼いであると宣言されました(ヨハ10:11)。

全世界の王

問5

ゼカリヤ書14章を読んでください。私たちはここで言われていることをどのように理解したらよいですか。

ゼカリヤはその書の最後の章の中で、悔い改めないすべての国民がエルサレムを攻撃するために集結する日について描いています。最後に、主は御自分の民を解放し、地上に永遠の王国を確立することによって介入されます。主に逆らうすべての者が滅ぼされた後、すべての国民は一人の真の神を礼拝するようになります。主は全世界の王となられます。主はただ一人の主となり、その名はすべての名にまさって高められます。大いなる「わたしはある」は、神がすべてであり、つねに存在される方であることを明らかにされます。これらのことは、もしイスラエルが忠実であったなら実現していたはずのことです。しかし、それらはなお将来において、あらゆる国の神の民の最終的な贖いにおいて、より壮大な規模で実現します。

ゼカリヤがメシアの来臨について予告したとき、彼はメシアの初臨と再臨を区別しませんでした。ほかの預言者たちと同様、彼は来るべきメシアの王国を栄光に満ちた一つの将来として見ていました。キリスト初臨の光に照らすことによってのみ、私たちは今、二つの来臨を区別することができます。私たちはまた、キリストがカルバリーにおいて私たちの救いのために達成されたすべてのことに感謝することができます。したがって、私たちは喜びをもって、神の永遠の王国を待ち望むことができます(ダニ2:44、3:33、7:14参照)。

この預言書の最後の部分は、栄光に満ち、高められ、人々に満ち、安全なエルサレムについて描写しています。あらゆる国民の中から救われた者たちは永遠の王の礼拝に加わります。エルサレムの町全体は神殿の神聖さに満たされます。

これらの栄光に満ちた約束を聖書の全体的な教えと共に学ぶとき、これらの預言が新エルサレムにおいて実現することがわかります。そこでは、神の民があらゆる国から集まり、永遠にわたって神を礼拝します。これらはすべて、イエスの再臨後に初めて起こります。彼らが永遠にわたってささげる賛美の主題は、あの有名な「海の歌」と同じく、神の救い、神の慈愛と力です─「主は代々限りなく統べ治められる」(出15:18)。昔の預言者、また過去の忠実な民はみな、この最高の出来事を心から待ち望みました。

さらなる研究

「神の教会は、悪との戦いにおける最も暗黒な時代に、主の永遠の計画に関する啓示が与えられた。神の民は現在の試練のかなたに将来の勝利を見ることが許された。その時になれば、戦いは終わり、贖われた者は約束の国を領有するのである。将来の栄光に関するこれらの幻、すなわち神の手が描いた光景は、各時代の争闘が急速に終わりを告げ、約束の祝福があふるるばかりに与えられようとしている今日、神の教会にとって貴重なものでなければならない。……

救われた諸国の人々は、天の律法のほかはどんな律法をも認めない。すべての者は賛美と感謝の衣服を着て、幸福な一致した家族となる。その光景に、明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわる。そして神とキリストとは、声を合わせて、『もはや罪もなく、もはや死もない』と宣言される」(『希望への光』653、657ページ、『国と指導者』下巻322、334ページ、一部改訳)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。

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