バプテスマ【アドベンチストの信仰#15】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

バプテスマによって、われわれはイエス・キリストの死と復活を信じる信仰を言いあらわし、罪に死に、新しいいのちに生きる決意を表明する。このようにしてわれわれは、キリストが主であり、救い主であることを認め、神の民となり、教会によってその会員として受け入れられる。バプテスマは、キリストと1つとなり、罪が赦され、聖霊を受けたしるしである。バプテスマは沈めの形式により、イエスへの信仰と罪の悔い改めを条件にほどこされる。バプテスマは、聖書研究を受け、聖書の教えを受け入れた者にほどこされる。(信仰の大要15)

ニャングウィラは中央アフリカに住んでいましたが、バプテスマを受けても受けなくてもよいものとは思いませんでした。彼女は一年以上聖書を熱心に学んでいました。彼女はクリスチャンになるのを待ちこがれていました。

ある晩、彼女は学んだことを夫に話しました。彼は怒ってどなりました、「そんな宗教はうちにはいらない、勉強を続けるのなら殺してやる」。彼女は打ちひしがれましたが、聖書研究を続け、やがてバプテスマの用意ができました。

バプテスマ式に出かける前に、ニャングウィラはうやうやしく夫の前にひざまずき、バプテスマを受けるつもりだと告げました。彼は大きな狩猟用ナイフをつかみ、「バプテスマを受けてはいけないと言ったではないか。おまえがバプテスマを受ける日に殺してやる」とどなりました。

しかし彼女は主に従う決心をし、夫のおどしが耳に鳴り響くまま家を出ました。

水に入る前に、彼女は、罪を告白し、彼女の救い主に生涯を捧げました。彼女は、バプテスマを受けたために夫に殺されることになるかどうか分らないままバプテスマを受けたのでした。

彼女は家にもどると、ナイフを夫のところに持って行きました。

「バプテスマを受けてしまったのか」と夫は怒って問いました。

「はい」とニャングウィラは答えました。

「さあ、ナイフをどうぞ」。

「殺される用意ができているのか」。

「はい、できています」。

その勇気に驚いて、夫はもはや彼女を殺そうとは思わなくなりました[1]

目次

バプテスマはいかに重要か

バプテスマは命をかける価値があるのでしょうか。神はほんとうにバプテスマを要求されるのでしょうか。救いはバプテスマを受けているかどうかで決まるのでしょうか。

イエスの模範

ある日イエスはナザレの大工の店を出、家族に別れを告げ、従兄弟のヨハネが説教をしていたヨルダン川へ行かれました。ヨハネに近づくと、バプテスマを受けさせてほしいと言われました。ヨハネは驚き、イエスを思いとどまらせようとして言いました。「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか。」

イエスは答えて言われました。「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」(マタイ3:13-15)。

イエスのバプテスマは永久に、この儀式[2]に神の許可を与えました(マタイ3:13-17、マタイ21:25参照)。バプテスマは、すべての人があずかりうる義の一つの側面です。罪のないキリストが「すべての正しいことを成就する」ためにバプテスマをお受けになったのですから、わたしたち罪人も同じようにすべきです。

イエスの命令

キリストは、お働きの最後に弟子たちに命じられました。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイ28:19,20)。

この命令の中で、キリストは、教会すなわちキリストの霊的王国の一員となりたい人に、バプテスマを施すよう要求することを明白にされました。弟子の働きを通して、聖霊が人々を悔改めさせ、イエスを救い主として受入れるよう導かれたならば、彼らは三位一体の神の名によってバプテスマを受けるのでした。そのバプテスマは、人々がキリストとの個人的関係に入り、恵みの王国の原則と調和して生きるよう献身したことを示すものです。キリストはバプテスマの命令を、次の保証を与えてしめくくられました。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

キリストの昇天後、弟子たちはバプテスマの必要性と緊急性を宣言しました(使徒2:38、10:47、22:16)。それに応答して多数がバプテスマを受け、新約聖書の教会を形成し(使徒2:41,47、8:12)、父・子・聖霊の権威を受入れました。

バプテスマと救い

キリストは「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)と教えられました。使徒時代の教会では、バプテスマはキリストを受入れた者に自動的にほどこされました。それは新しい信仰者の信仰の確認でした(使徒8:12、16:30-34参照)。

ペテロはバプテスマと救いの関係を例証するのに、洪水のときのノアの経験を用いました。大洪水以前、罪が満ちたので、神はノアを通して世に悔改めを促し、滅亡に会うことを警告されました。わずか八人が信じ、箱舟に入り、そして「水を経て救われた」。「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである」(1ペテロ3:20,21)。

ペテロは、ノアと彼の家族が水を経て救われたように、わたしたちはバプテスマによって救われると説明しました。もちろん、洪水の水がノアを救ったのではありません。神が救われたのです。同様に、信仰者から罪を除くのはバプテスマの水ではなく、キリストの血です。「しかしバプテスマは、箱舟に入るノアの服従のように、『神に向けた良心の答え』です。人が神の力によって『答え』をするとき、『イエス・キリストの復活によって』提供された救いが有効になるのです」[3]

しかし、バプテスマは救いと密接に結びついているものの、救いの保証はしません[4]。パウロはイスラエルの出エジプトの経験を、バプテスマの象徴的な表現だと考えました[5]。「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった」(1コリント10:1-5)。そのように今日も、バプテスマはそのまま救いを確証するのではありません。イスラエルの経験が書かれたのは、「世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10:11,12)。

一つのバプテスマ

キリスト教世界のバプテスマの仕方は様々です。ある所は浸し(immersion, dipping)、他の所はふりかけ(aspersion, sprinkling)、さらに他の所はそそぎ(affusion, pouring)を採用しています。神の教会に聖霊がもたらす一致の特徴は、「バプテスマは一つ」(エペソ4:5)の実施です[6]。聖書は、バプテスマを施すという語の意味、その方法、その霊的意味についてどのように言っているでしょうか。

「バプテスマを施す」の意味

英語のバプタイズ(「バプテスマを施す」)はギリシャ語の動詞バプティゾーから来ており、それは「…の中に浸る、または…の下にもぐる」を意味する動詞バプトーから派生しているので、浸礼を示唆しています[7]。動詞「バプテスマを施す」が水のバプテスマについて用いられるときは、人を水の中に沈める、または浸すという概念を伝えています[8]

新約聖書では、動詞「バプテスマを施す」は ㈠水の中のバプテスマをさして(たとえば、マタイ3:6、マルコ1:9、使徒2:41)、㈡キリストの苦悩と死の隠喩として(マタイ20:22,23、マルコ10:38,39、ルカ12:50)、㈢聖霊の到来を意味するものとして(マタイ3:11、マルコ1:8、ルカ3:16、ヨハネ1:33、使徒1:5、11:16)、㈣洗浄式や手の儀式的な洗浄を示すために(マルコ7:3,4、ルカ11:38)用いられています。この四番目の使用は単に、儀式上の不浄を清めるために洗うことを表し、水をかけて行う正当なバプテスマを表すのではありません[9]。聖書は名詞「バプテスマ」を、水のバプテスマとイエスの死の両方に用いています(マタイ3:7、20:22)。

J・K・ハワードは、新約聖書には「滴礼が使徒時代の方法だったという証拠は何もない。実にすべての証拠は、それが後に導入された」ことを示していると指摘しています[10]

新約聖書のバプテスマ 

新約聖書が記す水のバプテスマには、沈めのバプテスマが含まれていました。ヨハネはヨルダン川の中でバプテスマを施し(マタイ3:6、マルコ1:5参照)、また「サリムに近いアイノンで、バプテスマを授け…そこには水がたくさんあったからである」(ヨハネ3:23)という記録があります。浸礼だけが「たくさんの水」を必要とします。

ヨハネはイエスを水に沈めました。彼は「ヨルダン川で」イエスにバプテスマを施し、バプテスマ後イエスは「水の中から上がられ」ました(マルコ1:9,10、マタイ3:16参照)[11]

使徒教会も沈めのバプテスマをしました。伝道者ピリポがエチオピアの宦官にバプテスマを授けたとき、彼らはふたりとも「水の中に降りて行き」そして「水から上が」って来たのでした(使徒8:38,39)。

バプテスマの歴史

キリスト教時代以前に、ユダヤ人は改宗者に沈めによるバプテスマを授けました。クムランのエッセネ派は、メンバーと改宗者の両方に沈めの式を行いました[12]

 地下墓地や教会堂の絵画、床・壁・天井のモザイク画、レリーフ、また新約時代の絵などに見られる証拠は「圧倒的に、最初の10-14世紀間のキリスト教会では、バプテスマの普通の方法が沈めであったことを証明する」[13]とG・E・ライスは書いています。古い大聖堂や教会堂のバプテスマ槽、また北アフリカ、トルコ、イタリア、フランス、その他の旧跡は、沈めのバプテスマの古さを今も証ししています[14]

バプテスマの意味

バプテスマの意味は、その方法と密接に関係しています。アルフレッド・ブルマーは次のように言いました。

「バプテスマの完全な意味が見出されるのは、バプテスマが沈めによって行われたときのみであります。」[15]

キリストの死とよみがえりの象徴

水で被われることが耐えられないような困難や災難を象徴したように(詩42:7、69:2、124:4,5)、イエスの水のバプテスマは、イエスの苦難、死、葬り(マルコ10:38、ルカ12:50)を預言的に示し、水から上がられるのは、よみがえりを象徴しています(ローマ6:3-5)。

「もし使徒教会が沈め以外の方法でバプテスマを行っていたら」バプテスマは、キリストの苦難の象徴としての意味を持たなかったでしょう。それゆえに、「沈めのバプテスマに対する最も強力な論拠は神学的なそれなのです」[16]

罪に死に神に生きることの象徴

バプテスマにおいて、使徒はわたしたちの主の苦難の経験に入ります。パウロは言いました。「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ6:3,4)。

キリストと信徒の関係の親密さは、「キリスト・イエスにあずかるバプテスマ」、「彼の死にあずかるバプテスマ」、「バプテスマによって、彼と共に葬られた」などの表現に表されています。ハワードは「バプテスマの象徴的行為によって、信徒はキリストの死にあずかり、実際の感覚においてその死が自分の死となる。また、キリストのよみがえりにあずかって、そのよみがえりが自分のよみがえりとなる」と述べました[17]。主の苦難にあずかるとは何を意味するのでしょうか。

1.罪に死ぬ

バプテスマにおいて、信徒は「彼に結びついてその(キリストの)死の様に等しくなる」(ローマ6:5)と言われています。「キリストと共に十字架につけられ」(ガラテヤ2:20)るのです。これは以下のことを意味します。「わたしたちの古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」(ローマ6:6,7)。

信仰者は前の生活と縁を切りました。彼らは罪に対して死に、「古いものは過ぎ去った」(2コリント5:17)ことを確証し、彼らの生活は神にあってキリストのうちにおおわれます。バプテスマは古い生活が十字架につけられることを象徴します。それは死ばかりでなく葬りをも意味します。わたしたちは「バプテスマを受けて彼と共に葬られ」(コロサイ2:12)たのです。葬りが人の死に続くように、信仰者が水の墓に下りていくとき、イエス・キリストを受入れたときに過ぎ去った古い生活は葬られます。

バプテスマにおいて、信仰者は世と縁を切りました。「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない」(2コリント6:17)との命令に従って、受浸者はサタンへの奉仕をやめ、その生活にキリストを受入れることを公にするのです。

使徒教会では、悔改めへの召しはバプテスマへの呼びかけも含んでいました(使徒2:38)。こうしてバプテスマは真の悔改めのしるしにもなるのです。信仰者は律法の違反に死に、イエス・キリストの血の清めによって罪のゆるしを得ます。バプテスマ式は内なる清め(告白された罪を洗い流す)の表明なのです。

2.神に生きる

キリストの復活の力は、わたしたちの生活の中に働きます。それはわたしたちに新しい生活をさせます(ローマ6:4)。今や罪に対して死に、「キリスト・イエスにあって神に生きている」(ローマ6:11)のです。わたしたちは、古い性質に勝利する生活の唯一の望みが、聖霊をとおして力を与え、新しい霊的生活を可能にして下さった復活の主の恵みの中にあることを証しします。この新しい生命は、わたしたちを人生経験のより高い台地に引き上げ、新しい価値観や志を与え、イエス・キリストに献身するよう願わせます。わたしたちは救い主の新しい弟子であり、バプテスマは弟子であることの印です。

契約関係の象徴

旧約聖書の時代は、割礼が神とアブラハムとの間の契約関係を表しました(創世17:1-7)。

アブラハムの契約には、霊的要素と民族的要素の両面がありました。割礼は民族のアイデンティティーの印でした。アブラハム自身と生後八日以上経った彼の家族の中の男子はみな割礼を受けました(創世17:10-14,25-27)。割礼を受けない男子はだれでも、契約を破ったので神の民から「断たれる」(創世17:14)のでした。

契約が神とアブラハム、すなわち一人のおとなとの間で結ばれたということは、その霊的な局面を表しています。アブラハムの割礼は、信仰による義という彼が既に経験していたことを表明し、確証するものでした。彼の割礼は「無割礼のままで信仰によって受けた義の証印」(ローマ4:11)でした。

しかし割礼だけでは、契約の真の霊的経験に入る保証にはなりませんでした。くりかえして神の使命者は、霊的割礼だけが充分なものであると警告しました。「あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない」(申命10:16、同30:6、エレミヤ4:4参照)。『心に割礼』を受けていない『者たちは異邦人たちによって罰せられたのでした』(エレミヤ9:25,26)。

ユダヤ人がイエスを救い主として拒んだとき、彼らは神の選民という特別な立場を捨て、神との契約関係を断ったのでした(ダニエル9:24-27。本書第4章参照)。神の契約と約束はそのまま残されているにもかかわらず、神は新しい民を選ばれました。霊的イスラエルがユダヤ国民に代えられました(ガラテヤ3:27-29、6:15,16)。

キリストの死が新しい契約を批准しました。民は霊的割礼、すなわちイエスのあがないの死に対する信仰の応答によってこの契約に入りました。クリスチャンは「無割礼の者への福音」(ガラテヤ2:7)を持っているのです。新しい契約は「内なる信仰」を要求するのであって、霊的イスラエルに属する人々の「外面の儀式」を要求しません。人は生れによってユダヤ人になれますが、新しい誕生によってのみクリスチャンになれるのです。「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」(ガラテヤ5:6)。大事なのは「霊による心の割礼こそ割礼」(ローマ2:28,29)である、ということです。

イエスとの救いの関係のしるしであるバプテスマは、この霊的割礼を表します。「あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである」(コロサイ2:11,12)。

「イエスによってとり行われた霊的割礼を通して『肉の体』が取り去られ、バプテスマを受けた人は今や『キリストを着て』イエスとの契約関係に入ります。その結果、彼は契約の約束の成就を受ける人たちのなかにいるのです」[18]。「キリストに会うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。…もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ3:27,29)。この契約関係に入った人々は神の保証を経験します。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:33)。

キリストのわざに対する献身の象徴

バプテスマのときに、イエスは、み父が託された任務への油そそぎ、または献身を意味する聖霊の特別な注ぎを受けられました(マタイ3:13-17、使徒10:38)。イエスの経験は、水のバプテスマと霊のバプテスマとは一緒にあるものであり、聖霊を受けないバプテスマは不完全であることを表しています。

使徒教会では、聖霊の注ぎは一般に水のバプテスマに続きました。そのように今日、父、子、聖霊の名によってバプテスマを受けるとき、わたしたちは献げられ、清められ、また天の三者の偉大な力と結ばれて、永遠の福音を宣べ伝える働きに加わることになるのです。

聖霊は、わたしたちの心を罪から清め、その経験を通して永遠の福音の宣教の働きに私たちを準備させられます。ヨハネは、イエスが「聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」(マタイ3:11)と宣言しました。イザヤは、神が「審判の霊と滅亡の霊とをもって」(イザヤ4:4)彼らの汚れから民を清めると述べました。「あなたのかすを灰汁で溶かすように溶かし去り、あなたの混ざり物をすべて取り除く」(イザヤ1:25)と神は言われました。罪に対して「神は、実に、焼きつくす火」(ヘブル12:29)であられます。聖霊は、ご自身に身を明渡すすべての者の罪を焼きつくし、いのちを清められます。

それから聖霊は賜物を彼らに与えられます。聖霊の賜物は「使徒が教会の奉仕ができるように、またイエス・キリストをまだ受入れていない人々に仕えるために、バプテスマのときに与えられる特別な神聖な才能」[19]です。聖霊のバプテスマは初代教会に証しの力を与えましたが(使徒1:5,8)、その同じバプテスマだけが、教会にみ国の永遠の福音を宣べ伝える使命を完成させることができるのです(マタイ24:14、黙示14:6)。

教会に加わることの象徴

バプテスマは新生(ヨハネ3:3,5)のしるしであり、またキリストの霊的王国に入る経験をも象徴します。バプテスマは新しい信徒をキリストに結びつけるので、教会への門戸という役割を果します。バプテスマをとおして、主は新しい弟子を信徒たちの体、すなわち主の体、教会へ加えられます(使徒2:41,47、1コリント12:13)[20]。そのようにして彼らは神の家族のメンバーになるのです。人は教会家族に加わらずにバプテスマを受けることはできません。

バプテスマの資格

聖書はキリストと教会の関係を結婚にたとえています。結婚に際し、両当事者はそれに伴う責任と献身についてよく知らなければなりません。バプテスマを望む人は、バプテスマの意味とその後の霊的関係を理解すると同時に、彼らの生活の中に信仰、悔改め、回心の実が示されなければなりません[21]

信仰

バプテスマの第一条件は、救いの唯一の手段はイエスのあがないの犠牲であるという信仰を持つことです。キリストは「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)と言われました。使徒教会では、福音を信じた人々だけがバプテスマを受けました(使徒8:12,36,37、18:8)。

「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」(ローマ10:17)ので、教えることはバプテスマ準備の不可欠の要素です。キリストの偉大なる任命はこのような教えることの重要性を強調しています。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイ28:19,20)。弟子になることには徹底的な教育が伴うのです。

悔改め

ペテロは、「悔い改めなさい。そしてあなたがたひとりびとりが…バプテスマを受けなさい」(使徒2:38)と言いました。み言葉の教えは、信仰だけでなく悔改めと回心をももたらします。神の召しに応答して、人々は自分の失われた状態を見、罪深さを告白し、神に自分自身を服従させ、罪を悔改め、キリストのあがないを受け入れ、キリストにある新しい生活に献身します。回心なくして、イエス・キリストとの個人的関係に入ることはできません。悔改めをとおしてのみ、人はバプテスマの条件である罪に死ぬ経験ができるのです。

悔改めの実

バプテスマを望む人々は信仰を告白し、悔改めを経験しなければなりません。しかし「悔い改めにふさわしい実」(マタイ3:8)を結ばなければ、バプテスマの聖書的な要求を満たしていないことになります。彼らの生活は、イエスの教えによって示された真理に対する献身を示し、神の戒めに服従することによって神への愛を表すべきです。バプテスマの準備にあたり、誤った信仰や行為を放棄しているべきです。彼らの生活に見られる聖霊の実が、主は彼らと共に住まわれ、彼らは主と共に住んでいる(ヨハネ15:1-8)ことを表します。彼らがキリストとの関係の証拠を示さない限り、彼らは教会に加わる準備がまだできていないのです[22]

志願者の調査

教会員になることには、霊的段階を踏むことが含まれます。それはただ帳簿に名前を記録するというような事柄ではありません。バプテスマをとり行う人々は、バプテスマ志願者の用意ができているかどうかを見定める責任があります。彼らは、教会のよって立っている原則を志願者が理解していることを確かめ、主イエスにある再創造と喜ばしい経験の証拠を示さなければなりません[23]

しかしまた彼らは、バプテスマを願っている人々の動機をさばかないように注意しなければなりません。「人が教会員になることを志願するとき、わたしたちは彼の生活の実を調べるのであって、その動機の責任は彼自身にゆだねるべきです」[24]

ある人々は、バプテスマの水に生きたまま葬られました。自己は死にませんでした。このような人々は、キリストにある新しいいのちを受けなかったのです。このようにして教会に加わった人々は、弱さと背信の種を一緒に持込みました。彼らの「清められていない」影響は、教会内外を混乱させ、教会の証しを危険にさらします。

幼児や子供はバプテスマを受けるべきか

バプテスマは「再び生まれる」という意味において、新しい信徒を教会へ加入させます。彼らの回心が、バプテスマと教会員の資格を与えました。教会の一員になるのは「新生」においてであって、「赤子としての誕生」のときではありません。これが信徒すなわち「男も女も」(使徒8:12,13,29-38、9:17,18、1コリント1:14)バプテスマを受けた理由です。「新約聖書のどこでも、幼児洗礼を許したり命じたりしてはいない」[25]とK・バルトは認めました。G・R・ビーズリーマレーは「わたしは、幼児洗礼の中に新約聖書の教会のバプテスマを認めることはできないのがわかった」[26]と告白しました。

赤子や幼い子供は回心を経験することができないので、バプテスマの資格がないのです。それは彼らが新しい契約の交わりから排除されるという意味でしょうか。明らかにそうではありません。イエスは彼らを恵みの王国から除外されませんでした。イエスは「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」と言われ、手をその子供たちの上におかれました(マタイ19:14,15)。信徒である両親が、子供を実際にバプテスマに導かれるキリストとの交わりへ彼らを手引きする大切な役割をになうのです。

イエスに祝福していただくために、子供を連れてきた母親たちに対するイエスの肯定的な態度が、献児式をとり入れさせることになりました。この儀式で、両親は子供を教会へ連れていき、神に捧げるのです。

人は何歳でバプテスマの用意ができるでしょうか。もし(一)バプテスマの意味が理解できる年齢となり、(二)キリストに心をささげ、回心し、(三)キリスト教の基礎的原則がわかり、(四)教会員となることの意味が理解されているのであれば、バプテスマを受けることができます。人は、責任をもつ年齢に達したときにのみ、自分の救いを危うくしたり、聖霊の導きを拒んだりするのです。

霊的な成熟は、同じ年齢でも個人個人異なるので、ある人は他の人より早い年齢でバプテスマの用意ができます。そのために、バプテスマの最低年齢を決めることはできません。両親は、子供が早い時期にバプテスマを受けるのを承諾した場合、彼らの霊的成長や人格形成に対する責任を受け入れなければなりません。

バプテスマの実

バプテスマが生む顕著な実は、キリストのために生きる生活です。目標や抱負は自己にではなくキリストに焦点が合わされます。「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ3:1,2)。バプテスマは、クリスチャンの達しうる最高峰に到達することではありません。わたしたちが霊的に成長するにつれて、増加という神の方式で、人々への奉仕に用いられるクリスチャンの恵みが獲得されていくのです。「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに加わるように」(2ペテロ1:2)。わたしたちがバプテスマの誓いに忠実であるとき、その名によってバプテスマを受けた父、子、聖霊は、わたしたちがその後の生涯で直面するかも知れないあらゆる緊急時の助けとなる天の力に近づくことができるよう、保証してくださいます。

第二番目の実は、キリストの教会のために生きる生活です。わたしたちはもはや孤立した個人ではありません。キリストの教会のメンバーになったのです。生ける石として、わたしたちは神の宮を構成します(1ペテロ2:2-5)。わたしたちは教会の頭なるキリストと特別な関係を持ち、そこから愛における成長と発達に必要な日毎の恵みを受けます(エペソ4:16)。わたしたちは契約共同体の中でさまざまな責任を果すと同時に、新しくバプテスマを受けた人々に対する責任も負います(1コリント12:12-26)教会の益のためと、自分自身の益のために、新しいメンバーは礼拝、祈り、愛の奉仕に参加しなければなりません(エペソ4:12)。

最後の実は、世のために生きる生活です。バプテスマを受けたわたしたちが、天国に国籍を持っているというのは本当です(ピリピ3:20)。しかしわたしたちは、キリストの体の内で訓練され、キリストの救いの奉仕に参加して、僕として世に戻るために世から呼び出されました。真の弟子は世を離れて教会にひきこもることはありません。わたしたちは伝道者としてキリストの王国に生まれているのです。わたしたちがバプテスマの誓約に忠実であるということには、人々を恵みの王国に導くことが含まれています[27]

神は今、恵み深くもお備え下さった豊かな生活に、わたしたちが入るように熱望しておられます。「そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落しなさい」(使徒22:16)。

[1]S・M・サミュエル「アフリカの勇敢な妻」『レビュー・アンド・ヘラルド』(S. M. Samuel,“A Brave African Wife,”Review and Herald)、1963年2月14日号、19ページ。

[2]儀式(ordinance)とは、確立された象徴的、宗教的儀礼(rite)または典礼(observance)のことであり、福音の中心的真理を示し、世界的に、また恒久的に守る義務があります。キリストは二つの儀式、バプテスマと聖餐式を命じられました。儀式とは、オプス・オペラトゥム(それ自身が恵みを添えたり、救いをもたらす行為)という意味での秘蹟ではありません。バプテスマと聖餐式は、サクラメントゥム、すなわちローマ兵が誓って死をもってさえ司令官に服従したというような意味においてのみの秘蹟です。これらの儀式にはキリストへの全的忠誠の誓いがこめられています。ストロング『組織神学』(Strong, Systematic Theology)(Philadelphia, PA: Judson Press, 1954)、930ページ、「バプテスマ」『セブンスデー・アドベンチスト百科事典』(“Baptism,”SDA Encyclopedia)、改訂版、128,129ページ参照。

[3]ジェミソン『キリスト教信仰』(Jemison, Christian Beliefs)、244ページ。

[4]「セブンスデー・アドベンチストは、始めから、プロテスタント伝来の見方と同じように、オプス・オペラトゥム、つまりそれ自身が恵みを与えたり、救いをもたらしたりする行為としてのバプテスマという見方を否定してきました」(「バプテスマ」『セブンスデー・アドベンチスト百科事典』((“Baptism,”SDA Encyclopedia))、改訂版、128ページ)。

[5]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、改訂版、第6巻、740ページ。

[6]沈めのバプテスマを受けた人が、ときどき、再バプテスマを受けるべきだとの強い思いにかられるときがあります。この思いは、「バプテスマは一つ」(エペソ4:5)というパウロの主張と矛盾するのでしょうか。パウロの行為は、それが矛盾ではないことを明らかにしています。エペソ訪問のとき、彼はバプテスマのヨハネによってバプテスマを受けた数人の弟子たちに会いました。彼らは悔い改めをし、来たるべきメシヤに対する信仰を表していました(使徒19:1-5)。

これらの弟子たちは、福音のはっきりした理解を持っていませんでした。「ヨハネの手でバプテスマを受けたとき、彼らは重大な誤りをしていました。しかし彼らは、より明るい光が来たときに、贖い主としてキリストを喜んで受け入れました。この段階で、彼らの義務に変化が起きました。彼らがより純粋な信仰を受け入れたとき、彼らの生活と人格にはそれに呼応した変化が生じました。この変化のしるしとして、またキリストにある信仰の表明として、彼らはイエスの名によってバプテスマを受けました。

「キリストに従う多くのまじめな人々は同じような経験をしてきました。神のみ心のよりはっきりした理解は、人を神との新しい関係に導きます。新しい義務がわかってきます。以前には罪でなく思われ、ほめるべきとさえ思われた多くのことが、今や罪深く見えます。……彼が以前に受けたバプテスマは、今や彼を満足させません。彼は自分自身が罪人に思え、神の律法によって責められます。彼は新たに罪に死ぬ経験をします。そして再びバプテスマによってキリストと共に葬られ、新しいいのちを歩むために起き上がりたいと願います。このような一連の過程は、ユダヤ人改宗者へのバプテスマについてのパウロの例に調和します。あのできごとは、教会への教訓として聖霊によって記録されたのです」(ホワイト『パウロの生涯素描』((White, Sketches From the Life of Paul))〔Battle Creek, MI: Review and Herald 1883〕、132,133ページ。『セブンスデー・アドベンチスト教会指針』((福音社、1974年))、36ページ、ホワイト『伝道』(White, Evangelism)、372-375ページ参照。)

聖書は、重大な罪や背教によって、神との契約を破り、それから再び回心を経験し、契約の更新を願う人に再バプテスマをほどこずのを否定することについては何も言っていません(『セブンスデー・アドベンチスト教会指針』((福音社、1974年))、36,37,157ページ、ホワイト『伝道』((Evangelism))、375ページ参照)。

[7]アルブレヒト・オェプケ、「バプトー、バプティゾ」『新約聖書神学事典』(Albrecht Oepke,“Bapto, Baptizo”Theological Dictionary of the New Testament, ed. Gerhard Kittel, trans. Geoffrey W. Bromiley)、ゲアハルト・キッテル編、ジオフリー・W・ブロミリー訳(Grand Rapids: Wm. B. Eerdmans Publ. Co., 1964)、第1巻、529ページ参照。ヴァインは、バプトー(bapto)は「衣の染色、または一つの器を他の器につけることによって水を汲みあげること、またその他を意味するためにギリシャ人の間で用いられた」(W・E・ヴァイン『聖書用語解説辞典』((W. E. Vine, An Expository Dictionary of Biblical Words))〔New York, NY: Thomas Nelson, 1985〕、50ページ)と指摘しています。「ひたす」(to dip)は新約聖書に3回用いられていますが、いずれの場合も「水中に沈める」(to submerge)という意味を反映しています。金持ちとラザロのたとえ話の中で、金持ちがアブラハムに、ラザロがその指先を水でぬらし(dip)、金持ちの舌を湿らすために一滴持ってくるのをゆるしてほしいと願いました(ルカ16:24)。十字架刑の前夜にイエスは、一切れの食物をひたし(dipping)それをユダに与えることによって裏切り者を明らかにされました(ヨハネ13:26)。また、ヨハネが、天の軍勢の指揮官として馬に乗って前進されるイエスを見た時、ヨハネにとってイエスの衣はあたかも血で染められた(dipped)かのように見えたのです(黙示19:13)。

[8]ジョージ・E・ライス「バプテスマ―キリストとの結合」『ミニストリー』(George E. Rice,“Baptism: Union With Christ,”Ministry)、1982年5月号、20ページ。

[9]アルプレヒト・オェプケ「バプトー、バプティゾ」『新約聖書神学辞典』(Albrecht Oepke,“Bapto, Baptizo,”in Theological Dictionary of the New Testament)、第1巻、535ページ。アーント及びギングリッチ『新約聖書希英辞典』(Arndt and Gingrich, Greek-English Lexicon of the New Testament)、131ページ参照。

[10]J・K・ハワード『新約聖書のバプテスマ』(J. K. Howard, New Testament Baptism)(London: Pickering & Inglis Ltd., 1970)、48ページ。

[11]傍点筆者。

[12]マシュー・ブラック『死海書巻とキリスト教の起源』(Matthew Black, The Scrolls and Christian Origins)(New York: Charles Scribner’s Sons, 1961)、96-98ページ。「バプテスマ」『セブンスデー・アドベンチスト聖書辞典』(“Baptism,”SDA Biblel Dictionary)、改訂版、118,119ページも参照。

[13]G・E・ライス「初期教会のバプテスマ」『ミリストリー』(G. E. Rice,“Baptism in the Early Church,”Ministry)、1981年3月号、22ページ。ヘンリー・F・ブラウン『諸世紀を通じて実践されたバプテスマ』(Henry, F. Brown, Baptism Through the Centuries)(Mountain View, Cal.: Pacific Press, 1965)、ウィリアム・L・ランキン『浸礼の歴史』(Wiliam L. Lampkin, A History of Immersion)(Nashville: Broadman Press, 1962)、ウォルフレド・N・コット『バプテスマの考古学』(Wolfred N. Cotte, The Archeology of Baptism)(London: Yates and Alexander, 1876)参照。

[14]ブラウン『諸世紀を通じて実践されたバプテスマ』(Brown, Baptism Through the Century)、49-90ページ。

[15]アルフレッド・プラマー『ルカによる福音書評釈・国際的批評的注解』(Alfred Plummer, A Critical and Exegetical Commentary on the Gospel According to Luke, The International Critical Commentary, ed. Samuel R. Driver, et al.)、サミュエル・R・ドライヴァー他編、第5版、(Edinburgh: T. & T. Clark, 1981 reprint)、88ページ。

[16]「バプテスマ」『セブンスデー・アドベンチスト百科事典』(“Baptism,”SDA Encyclopedia)、改訂版、128ページ。

[17]ハワード『新約聖書のバプテスマ』(Howard, New Testament Baptism)、69ページ。

[18]G・E・ライス「バプテスマ―キリストとの結合」『ミニストリー』(G. E. Rice,“Buptism: Union With Christ,”Ministry)、1982年5月号、21ページ。

[19]ゴットフリート・ウースターヴァル「すべての信徒は牧師か。バプテスマから神学的基盤へ」『ミニストリー』(Gottfried Oosterwal,“Every Member a Minister? From Baptism to a Theological Base,”Ministry)1980年2月号、4-7ページ。レックス・D・エドワーズ「叙任式としてのバプテスマ」『ミニストリー』(Rex D. Edwards,“Baptism as Ordination,”Ministry)、1983年8月号、4-6ページも参照。

[20]ホワイト『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(White in SDA Bible Commentary)、改訂版、第6巻、1075ページに引用のもの。

[21]もしバプテスマのための資格があるなら、人はどのようにして「死者のためにバプテスマを受ける」ことができるのでしょうか。次の解釈は、聖書の使信と調和しています。

コリント人への第一の手紙15章の中で、パウロは死からの復活の意義を強調し、復活はないという見解を拒絶しています。彼は、もし復活がないならば、信徒の信仰はむなしく、また無益であることを示しています(1コリント15:14,17)。同じ論法で彼は、「もし死者が全く復活しないのであれば、死者のためにバプテスマを受ける人々はどうなるのでしょうか。ではなぜ彼らは死者のためにバプテスマを受けるのでしょうか」(1コリント15:29)と主張します。

ある人々は、『死者のためのバプテスマ』という表現を、死人のための信徒による代理のバプテスマに関係すると解釈しています。聖書が教えるバプテスマのための資格を考慮すれば、わたしたちはそのような見解を持つことはできません。W・ロバートソン・ニコルは、次のように指摘しています。パウロが言及しているのは、いわば正常の経験のことであって、「クリスチャンの死は生存者を回心に導く、すなわち生存者はまず第一に死者(彼らの愛していた者)のために、そして再会の希望のためにキリストに立ち帰る、ということ」なのです。パウロは、このような回心を「死者のためのバプテスマ」と描写しているのです。「家族の愛情と友情とに結ばれた将来の祝福の希望は、キリスト教の初期の伝道において最も力強い要素の一つでありました」(W・ロバートソン・ニコル編、『注解者のギリシャ語聖書』((W. Robertson Nicoll, ed., The Expositor’s Greek Testament))〔Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans, 1956〕、第2巻、931ページ。M・レーダーは、「死者のためのバプテスマ」という表現の中の「……のための」((ギリシャ語ヒュペル))という前置詞は目的を示す語であると指摘しています。このことは、このバプテスマが「復活の時に、死んだクリスチャン親族との再会の目的が果たされるので「死者のための、」または「死者のゆえの」ものであったことを意味しています((M・レーダー「コリント人への第一の手紙15章29節の代理バプテスマ」『新約聖書学雑誌』(M. Raeder,“Vikariatstaufe in 1 K.15 : 29?”Zeitschrift fur die Neutestamentliche Wissenschaft)、45(1955年)、258-260ページ。ハロルド・リーゼンフェルド「ヒュペル」『新約聖書神学事典』(Harold Riesenfeld,“Huper,”、Theological Dictionary of the New Testament)、第8巻、513ページに引用されたもの))。ハワード『新約聖書のバプテスマ』(Howard, New Testament Baptism)、108,109ページ参照)。

ハワードは、この文脈におけるコリント人への第一の手紙15章29節のパウロの議論は、次のようになると述べています。「もしキリストが復活しないならば、『キリストにあって』死んだ人々は滅んでおり、希望がなく、わたしたちは望みのないみじめなものになります。クリスチャンの交わりに入った人々、そして死者との再会を希望して、キリストにあって死んだ人々のためにバプテスマを受けた人々は特にそうです」(ハワード「死者のためのバプテスマ―コリント人への第一の手紙15章29節の研究」『エヴァンジェリカル・クォーターリー』、((Howard,“Baptism for the Dead: A Study of 1 Corinthiansl5: 29,”Evangelical Quarterly, ed. F. F. Bruce))、F・F・ブルース編〔Exeter, Eng.: Paternoster Press〕、1965年7月―9月号、141ページ)。

[22]ダムスティーク「収穫」『アドベンチスト・レビュー』(Damsteegt,“Reaping the Harvest,”Adventist Review)、1987年10月22日号、15ページ参照。

[23]『セブンスデー・アドベンチスト教会指針』(福音社、1974年)、22ページ参照。

[24]ホワイト『伝道』(White, Evangelism)、313ページ。

[25]カール・バルト『教会教義学』(Karl Barth, Church Dogmatics, trans. G. Bromiley)、G・W・ブロミリー訳(Edinburgh: T. & T. Clark, 1969)、第4巻、4,179ページ。

[26]G・R・ビーズリーマレー『新約聖書のバプテスマ』(G. R. Beasley-Murray, Baptism in the New Testament)(Grand Rapids,MI.: Wm. B. Eerdmans, 1973)、392ページ。

[27]エドワーズ『バプテスマ』(Edwards,“Baptism”)参照。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

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