「……になること」と「……を行うこと」【ヤコブの手紙】#4

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本名よりも「偉大なブロンダン」として知られるジャン・フランソワ・グラベレは、ナイアガラの滝の上を綱渡りしたことで有名になりました。1860年9月、ブロンダンが助手を背負って滝を渡るのを、イギリスの皇太子も見ました。渡ったあとで、ブロンダンは皇太子のほうを見て、こう申し出たのです——「殿下もお渡ししましょうか」と。皇太子はブロンダンの技術を聞いていましたし、実際に渡るところを見たばかりでした。しかし、自分の命を彼の手に預ける心の準備は、まだできていなかったのです。

言うまでもなく、聞いたり見たりすることは、神との関係について言えば十分でない、というのがその要点です。神の存在、福音の真理、再臨といったものを、私たちは頭では確信しているかもしれません。神の愛と配慮の現実を自分の目で見たことがあるかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、私たちは神の御手に自分を委ねる準備が本当はできていないかもしれません。それは私たちの業によって明らかになる行動です。ヤコブが、御言葉を聞くだけで終わる者ではなく、「行う人」であることの重要性を強調しているのは、まさにこのことのゆえです。

私たちは今回、恵みによって救われた者たちにとって、「御言葉を行う人」が何を意味するのかについて考えます。

敵を知ること

ある男性が自分の敵について、かつてこのようなことを言いました——「ぼくはそいつを毎日見ているんだ。ぼくがひげをそっているときにね」と。これこそまさに、ヤコブが私たちに認めさせたいと思っていることです。つまり、私たちの最大の敵は自分自身です。救いは、想像上の自分を見ることではなく、本当の自分を見ることから始まります。

ヤコブ1:23、24を読んでください。自分の身なりを最もよく見せることは、何ら悪いことではありませんが、多くの人が外見をよくするために多くの時間とお金を浪費しています。私たちは思い違いをしないようにしなければなりません。どれほど、私たち自身が目に見える姿と違っていようと、私たちはもっと自分自身をよく見る必要がある、とヤコブは言っています。

問1

マタイ19:16~22、26:33~35、69~75を読んでください。この2人の男の自己イメージと現実の姿を比べてください。イエスに対する彼らの異なる二通りの応答は、彼らについてどのようなことを物語っていますか。

金持ちの青年は、自分が掟を守ってきたと思っていました。そして突然、異なる種類の服従をしなさいと、彼は要求されたのです。それは、彼が予想していなかった服従であり、規則や規定を外見的にただ順守することよりずっと深い服従でした(ロマ7:7参照)。

この青年と同様、ペトロも自分に対してゆがんだイメージを持っていました。彼は自信たっぷりに、たとえみんながつまずき、見捨てたとしても——たとえ己の命を失おうと——、自分は忠実であり続けるだろうと予想したのです。しかし両者とも、自分が罪によっていかに強く縛られているかを自覚しておらず、両者とも、自分の本当の霊的状態について思い違いをしていました。ですが、ペトロは最終的に改心します。一方、金持ちの青年は、私たちが知る限りでは、改心しませんでした。

「行う人」に「なる」こと

問2

ヤコブ1:22を読んでください。御言葉を行う人に「なりなさい」とあります。もしヤコブが単純に、御言葉を「行いなさい」と記していたとしたら、この聖句のメッセージはいかに異なったものになっていたでしょうか。

ヤコブは「……になること」と「……を行うこと」を結びつけています。両者を分けることも、一方を他方より重視することもしていません。両者は硬貨の裏と表のようで、分けられません。私たちは行う人に「なり」ます。さらに、ここでの「なり」に相当する原語(ギリシア語)の時制は、継続的な服従の生き方——将来のいつかではなく、今、私たちに求められている生き方——を意味しています。

重要なのは、私たちは主にあって新しい人になり、私たちがなったものの結果として、私たちは、神が命じられることを行うという点です。これは、単に規則に従うこと(昨日の研究において、金持ちの青年の問題であったと思われること)とはまったく違います。

ルカ6:27~38を読んでください。「敵を愛しなさい」(ルカ6:27)、「求める者には、だれにでも与えなさい」(30節)、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(36節)。どれも不可能だと思いませんか。自力でそうしようとすれば、確かに不可能です。このような愛は、罪深い人間には生まれつき備わっていません。それゆえイエスは、2種類の木とそれぞれの木が結ぶ実について、引き続き話をしておられます(同6:43~45)。

同様にガラテヤの信徒への手紙5章において、パウロは肉の「業」(ガラ5:19~21)と霊の結ぶ「実」(同5:22、23)を比較しています。「すること」に目を向ければ向けるほど、私たちはますます悪くなるかのようです。しかし、私たちが霊によって導かれているときは、まったく異なる結果(愛と服従という実)が生じるのです。

自由の律法

ヤコブ1:25を読んでください。ヤコブの手紙は、神の律法を「完全」(詩編19:8[口語訳19:7])で、自由な道(同119:45)とみなしている詩編と同じことを述べています。しかし、ヤコブの手紙における律法が、私たちを救うことも、清めることも決してできない点に注目してください。律法は私たちに神の理想を示しますが、私たちがその理想を追えるようにはできません。世界一流の選手がすばらしい技を披露するのを見たからといって、私たちに同じことができないのと同じです。その理想を追うために、私たちは生活の中でキリストの力を必要としています。

ローマ8:2、4とIIコリント3:17、18を読んでください。パウロでさえ、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」(ロマ2:13)と認めています。彼が言うように、私たちは、律法を私たちの心に書き記す聖霊の働きによってのみ「行う人々」になることができます。私たちが心から従うときにのみ、律法は自由の律法になりえます。

それゆえ、問題は律法にではなく、私たちにあります。私たちは自分の本当の姿、つまり、救い主を常に必要とする罪人であることを忘れています。私たちがキリストの外にあって耳にするのは、律法の有罪宣告だけですが、キリストの内にあれば、彼によって自由にされた(ヨハ8:36)新しい人(IIコリ5:17)になれます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハ15:12、強調筆者)という律法(掟)を、イエスが私たちに語っておられるのが聞こえます。私たちはキリストを通して、恵みによって救われ、罪人として受けていた有罪宣告や隷属に逆戻りすることを望まない神の息子、娘の自由を体験します。キリストにおいて、私たちは自分の罪を赦されるだけでなく、今や新しい命(律法への服従を可能にさせる命)を与えられています。しかし、私たちが服従するのは救われるためではなく、自分がすでに救われており、それゆえもはや律法によって有罪判決を受けていないことを知っていることから来る自由のゆえです。

役に立つか、それとも役に立たないか

問3

ヤコブ1:26、27を読み、マタイ25:35、36、40やローマ12:9~18と比較してください。

これらの聖句で、もしイエスやパウロやヤコブが何かを強調しているとしたら、それは役に立つクリスチャンであることの重要性です。「この最も小さい者」(マタ25:40)を愛し、最も見過ごされやすい人々を訪ね、人をもてなすことによって——こういった実践的な方法によって——、私たちはイエスの愛を示し、イエスの愛の通路になります。

エレン・G・ホワイトは、「福音に対して好感をいだかせる最も強い証しは、愛し愛されるクリスチャンである」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』478ページ)と述べ、「こうした生活を送り、こうした感化を及ぼすためには、一歩一歩、努力と自己犠牲と鍛錬がいる」(同)と説明を続けています。それは簡単にできることでも、自然にできることでもありません。もし私たちの宗教が教理を肯定することや説教を聞くことにすぎないなら、それはほとんど無意味です。ヤコブは26、27節において、非常に敬虔であることを意味する言葉を用いて、「信心深い」ことや「信心」を表現しています。そのような態度は明らかな結果をすぐに生じ、人々は違いに気づくでしょう。

顕著な変化の一つは、言葉の選び方です。抑制されていない意見を述べたり、荒々しい声の調子や身振りを用いたりせず、私たちは、自分の発言が他者に及ぼす影響に対してもっと慎重になるでしょう。飼い慣らされていない馬のように、私たちの舌が、激しく、勢いよく暴走しないために、私たちはそれを「制する」[それにくつわをかける(新改訳参照)]のです。

ヤコブはまた、私たちの愛情と世話を最も必要としている人々として、みなしごとやもめを挙げています。この世的な視点からすれば、社会にまったく貢献できない人々に私たちの資金を提供することは、道理にかなっていません。しかし神の視点からすれば、この世に見捨てられ、拒絶されてきた人々を私たちがいかに扱うか(あるいは、返済できない者に金を貸し、返礼できない者を食事に招き、あるいは、私たちを不当に扱う者を祝福し、彼らのために祈ること(ルカ6:35、14:12~14、マタ5:44参照)が、まさに私たちのうちのだれがキリストの真の弟子であるかを明らかにすることです。パウロが指摘するように、私たちは善い業のためにキリスト・イエスにあって再創造されました(エフェ2:10)。

この世とは違い

ヤコブ1:27を読んでください(IIペト1:4も参照)。この世から遠ざかりさえすれば、ほとんどの誘惑は避けることができる、と思っている人たちがいるようです。その考え方には何がしかの真理はありますし、私たちはできるだけ多くの誘惑(とりわけ、抵抗するのが難しい誘惑)を避けるべきですが、私たちの問題や弱さは、私たちがどこへ行こうと追いかけてくる傾向があります。罪に関する問題は、外にあるものも確かに役割を果たしますが、私たちの中にあるもの、つまり心の中のものほど大きくはありません。心の中こそ、真の戦いが繰り広げられる場所であり、私たちはどこで生きていようと、その戦いに参加せざるをえないでしょう。

もう一つの興味深い事柄は、問題をいくつか解決すると、未解決の問題が一層はっきりしてくるということです。「イエスに近づけば近づくほど、ますます欠点が多く見えてきます。それは自分の目が開けて明らかになり、イエスの完全さに比べて、自分の不完全さが大きくはっきりと見えるからです。これは悪魔の惑わしの力が失われ、人を生かす聖霊の力が働いている証拠です」(『希望への光』1957ページ、『キリストへの道』(改定版)96、97ページ)。

エレン・G・ホワイトがここで言っていることを曲解しないようにしましょう。彼女は、キリストに近づけば近づくほど、私たちはますます不完全になる、とは言っていません。彼女は次のように文章を続けています。「必要に迫られ、キリストと神のみ言葉に近づけば近づくほど、私たちはキリストの品性をもっとよく知るようになり、そのみかたちを十分に反映するようになります」(『希望への光』1957ページ、『キリストへの道』(改定版)97ページ)。

真の宗教は、さらに深い体験をするために人を「飢え渇(き)」(マタ5:6)へ導きます。イエスは天のお父様の御心を知るために、2人きりで十分な時間を過ごされました。しかし、彼は人々から離れて、引きこもったりなさいませんでした。イエスは、人々がいる場所へ行かれました。彼の「食べ物」は困っている人に手を差し伸べ、偏見の壁を壊し、永遠の命という福音を伝えることでした(ヨハ4:28~35)。

イエスや初期のクリスチャンたちが、彼らの周囲の異邦人世界とはまったく異なる食生活や生活スタイルを送っていたという事実にもかかわらず、そういった習慣は、彼らが信仰を分かつ妨げにはなりませんでした。彼らはどこへでも出て行き、そして福音は帝国の隅々にまで広がり、腐敗と悪の中心であるローマのような場所においてさえ、しっかり根づきました。

さらなる研究

「律法は、神の大いなる道徳を映す鏡である。人は、自分の言葉、精神、行動を神の御言葉と比べるのである」(『SDA聖書注解』935ページ、英文)。

「人を服従から解放する代わりに、私たちをキリストの恵みにあずかる者とさせるのは信仰、信仰のみであり、その恵みによって私たちは服従できるようになるのである。イエスが人性においてそうであられたように、イエスに従う者たちもそうであることを、神は望まれる。神の力によって、私たちは、救い主が送られた清く気高い人生を生きるのである」(エレン・G・ホワイト『父なる神の配慮』69ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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