この記事のテーマ
人間の法であれ、神の法であれ、法に対する私たちの態度は、私たちがいかに他者と関係するか、いかに神と関係するかに影響を及ぼします。金持ちの有名人が、あたかも自分のほうが法よりも上であるかのように時折振る舞うのを、あなたはご存じですか。法を作ったり、法を施行したりする人たちの中にさえ、個人的な利益のためにそれらの法を作成しようとする人がいます。社会の法に対する軽視は、結果として、他者への軽視を引き起こします。というのも、法は、私たちが互いにいかに関係するかを左右するからです。
その一方で、法に対して厳格で融通に欠ける人たちも、対人関係において難しさがあります。より深いレベルにおいて、私たちの法律観は、立法者の知恵とその立法者が作った法の公正さに対する敬意の度合いによって決まります。
今回の研究では、まず法について考えますが、次に、(私たちは気づいていないかもしれないものの、神の律法の違反、罪として警告されている)おごり高ぶりと自己依存の一形態に関する重要ないくつかの言葉へ移っていきます。実のところ、ヤコブの手紙の中のここには、罪に対するもう一つの見方が示されています。
裁きか、見抜く力か
「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です」(ヤコ4:11)。
文字どおりに訳せば「非難してはならない」となる11節の最初の言い回しには、中傷すること、偽証すること、怒りの言葉をぶつけることなど(レビ19:15~18参照)、言葉に関するいくつかの罪が含まれます。一方、ヤコブは3章におけるよりも穏やかな言葉をここで使っているように見えますが、兄弟姉妹の悪口を言うことは律法そのものを疑問視することだ、というのですから、そこに含まれる意味はずっと深刻なようです。私たちは自分自身を裁きの座に着かせることで、どういうわけか、あたかも自分が律法の外(ないしは上)にいるかのように、自分の弱さには目を向けず(マタ7:1~3参照)、他者の不正行為に注目します。そうするとき、私たちは自分を愛するように隣人を愛することができません(レビ19:18)。それゆえ、私たちは律法を守っていないのです。しかし、私たちは他者を裁くべきではありませんが、その一方で、霊的な見抜く力を身につけなければなりません。
問1
次の聖句の中で、霊的な見抜く力が求められている分野を特定してください(使徒17:11、Iコリ6:1~5、IIコリ13:5)。
私たちは、人々が教えたり、説いたりしていることを、神の御言葉と照らし合わせなければなりません。また、教会員の間における意見の違いを、御言葉によって導かれるかどうかわからない法廷ではなく、可能な限り教会の中で解消するよう、彼らに勧めるべきです。そして最も重要なのは、[神や人との]信仰の関係における健康状態について、また、私たちのこだわることが自分のクリスチャン経験にとって健全か有害かということについて、私たちが自己吟味をすべきだということです。
律法の制定者は裁き主
旧約聖書のあらゆる律法は、イエスから出たものです。それらは、モーセを通して与えられたので「モーセの律法」と呼ばれていますが(代下33:8、ネヘ10:29)、荒れ野においてイスラエルの人々をずっと導き、シナイ山で彼らに十戒を語られたのはイエスでした(Iコリ10:1~4参照)。山上の説教において、イエスはその律法を明確にし、詳しく説明なさいました。彼は肉になった「言」(ヨハ1:14)であり、私たちが裁かれるのは、彼の言葉によってです(同12:48)。
問2
ヘブライ4:15、16は、私たちの裁き主としてのイエスについて、どのようなことを教えていますか。
法律が破られたかどうかを判断する資格があるのは、法律を詳しく知っている者だけです。弁護士は、開業するのに必要な準備ができているかどうかを調べる司法試験を受ける前に、何年も勉強します。イエスが地上におられた頃の(ファリサイ人が多数を占めていた)律法学者たちも、モーセの律法だけでなく、積もり積もった法的言い伝えを熱心に勉強しました。そして、イエスがそれらの言い伝えの多くに同意されなかったという事実が、彼ら指導者たちとの間に深刻な対立を生み出しました。しかし、イエスはこれらの律法を定めた方として、律法が意味することを説明し、それが破られたかどうかを判定する資格を、ただ1人持っておられました。それゆえ、イエスは再びおいでになるとき、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いられます(黙22:22)。さらに、イエスは人性を取り、罪なき人生を送り、私たちの代わりに死に、罪と死に打ち勝って復活されたがゆえに、私たちを罪から救うことがおできになります。
「神はすべての裁きを御子に委ねられた。なぜなら、疑いもなく、御子は肉となってあらわれた神だからである。神は、殉教者たちの君が全世界の裁き主となるように意図された。永遠の死から人間を救い出すために、天の法廷から来られた彼、……地上の法廷で審問され、屈辱的な十字架の死を経験した彼——その彼だけが、報いか罰かの判決を下されるのである」(エレン・G・ホワイト『マラナタ』341ページ、英文)。
律法を定めた方であり、救い主でもあるキリストは、ただ1人、私たちの裁きを行う方としての資格を持っておられます。
事前の計画
ヤコブ4:13を読んでください(ルカ12:13~21と比較)。1年前、あるいはそれ以上前から計画を立てるというのは、とても合理的なことのように思えます。個人であれ、家族であれ、将来に備えて貯金をしたり、予期せぬ出費のために備えたりする必要があります。その一方で私たちは、イエスが間もなくおいでになること、いつの日か、私たちの地上での持ち物が炎によって焼き尽くされることも信じています(IIペト3:10~12参照)。
人生に対するこれら二つの態度は、必ずしも対立しません。ある人がこう言いました。「キリストがしばらくおいでにならないかのように計画せよ。しかし、キリストがあしたおいでになるかのように毎日を生きよ」と。一応、これでいいのですが、長期の計画というのは、1日1日を着実に生きるのを難しくすることがあります。イエスの聴衆の多く(や、疑いもなく今日のクリスチャンの多く)は、「もっと大きな倉を建てることにした金持ちは、神から祝福されているから裕福なのだ」と考えたでしょう。しかしイエスは、金持ちの心の内を明らかになさっています。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(ルカ12:19)。要するに、彼の最大の関心事は、自分自身のために富を蓄えることだったのです。
最も重要なのは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」(ヤコ4:15)と考え、私たちの計画をあまりにも綿密に立てすぎないということです。これは、私たちの将来の計画に関する文の最後に「神の御心にかなえば」(ラテン語で「デオ・ボレンテ」)という決まり文句を単純に加えること以上の意味があります。私たちの計画をすべて神に委ねるべきだ、ということを意味しています。私たちは——「神様、私はあなたの御心を知りたいのです。もしあなたがこれらの計画を喜んでおられないのなら、どうかそのことをお示しください」と祈ることができます。そうするなら、もし私たちの計画がよくない場合、神は私たちにそのことを教えてくださるでしょう。ただし、私たちが神の声に耳を澄まし続け、進んで自分の計画を修正したり、ときにはまったく変更したりする限りにおいてです。
霧
ヤコブ4:14を読んでください。命は不確かなものです。一つひとつの息は賜物です。ヤコブ4:14は非常に珍しいギリシア語(「アトミス」)を用いており、それは「霧」ないしは「蒸気」と訳されます。コヘレトの言葉の中に38回登場し、しばしば「空(空しさ)」と訳されるヘブライ語「ヘベル」(「息」「蒸気」)と同様、その言葉は命のはかなさを強調しています。とりわけ私たちが年を取るにつれ、人生がいかに速く過ぎ去るかを感じたことのない人がいるでしょうか。晩年になって、有名な伝道師ビリー・グラハムは、「人生がこれほど速く過ぎ去るとは、思ってもみなかった」と言いました。
言い換えれば、常に死が差し迫っているということです。私たちと死は、心臓の鼓動1回分しか離れていません。私たちのだれもが、いつ何時、いくつもの理由のゆえに、一瞬にして死にうるのです。ヤコブが的確に述べているように、死も含めて、「明日のことは分からないのです」(ヤコ4:14)。
「私は今、人生の短いことや、はかないことを言おうというのではありませんが、ここに人の気づかない恐ろしい危険があります。それは、聖霊のささやきに従うことを延ばし、罪の生活を続けていくという恐ろしい危険です。これは実に恐ろしいことです」(『希望への光』1944ページ、『キリストへの道』(改定版)45、46ページ)。
加えて、人生は極めて短いだけでなく、それ自体、満足のいかないものにもなりえます。
問3
コヘレトの言葉2:15~19、4:4、5:9(口語訳5:10)、9:11、12を読んでください。ここにおけるソロモンのメッセージは、ヤコブの指摘をいかに支持していますか。
私たちはこの世の人生の中で、多くの不正、多くの不公平、多くの道理にかなわぬことを目にします。私たちが、イエスを通してなされた永遠の命の約束を待ちわびるのは当然です。それがなければ、私たちはやがて過ぎ去り、永遠に忘れられてしまう霧にすぎません。
善を知っていることとそれを行うこと
直前の聖句との関連において、ヤコブ4:15~17を読んでください。ヤコブはここで、自己依存の態度を取り上げています。実際には、そのような態度を「誇り高ぶ(り)」と呼び、それは「悪いこと」であると、彼は言っています。クリスチャンにとって、正しい態度はそれほど重要です。
17節を読んでください。聖書は罪を二通りに定義しています。(1)悪を行うことと、(2)善を行わないことです。最初の定義は、ヨハネによってなされています。「罪とは、法に背くことです」(Iヨハ3:4)。現代の多くの訳では、「罪とは不法(違法)である」としていますが、ギリシア語の「アノミア」は、習慣的な不法行為というよりは、むしろ特定の律法違反を指します(ロマ4:7、テト2:14、ヘブ10:17参照)。第二の定義は、ヤコブ4:17に記されています。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」。それゆえ私たちは、単に悪いことをしたいという誘惑に抵抗すること以上のことをしなければなりません。私たちは「光の子」(エフェ5:8)となるように召され、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタ5:16、強調著者)と命じられています。
もちろん、人は簡単に落胆してしまいます。なぜなら、結局のところ、あらゆる善を毎日することなど、だれにもできないからです。しかし、問題になっているのは、そういうことではありません。イエスの生活でさえ、絶え間ない活動の連続ではなく、彼が祈ったり、単に休んだりするために退かれたことは、よくありました(ルカ5:16、マコ6:31)。最も重要なのは、イエスが御自分のなさるすべてのことにおいて、神の御心をお尋ねになったということです(ヨハ5:30)。イエスは神の御心を行うことを食べることにたとえられました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4:34)。私たちが1回で食べられる量に限りがあるように、私たちにできることも量に限りがあります。それゆえイエスは、ある人は種を蒔き、ある人は刈り入れるが、両者は「共に喜ぶのである」(同4:36)と続けて言われました。私たちが主のために働くとき、私たちはもっとそうするように励まされるでしょう。そして、あらゆる可能な方法で用いられるためにさらに意欲を祈り求めるでしょう。
さらなる研究
「[他者の悪い動機を見抜く]この精神は、悪事を働く者たちをきびしくしかり、真理を守るために立ち向かうことからくる避けがたい結果だ、と言い張ることをゆるして、もうこれ以上、真理に反して誰にも誇らせてはならない。このような知恵を称賛する者が大勢いるが、その知恵は非常に欺瞞的で有害である。それは上からのものではなく、改心していない心の実である。それを生み出しているのはサタン自身である。他者を非難する者が、見抜く力を持っていると思ってはならない。なぜなら、彼はそうすることによって、義の衣でサタンの性質を覆うからである」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第7巻936、937ページ、英文)。
「悪事を行った者が、まっ先に人の悪を思うのである。他の人を非難することによって、彼は自分の心の悪を、隠したり弁解したりしようとする。人が悪の知識を得たのは、罪によってであった。人祖アダムとエバが罪を犯した時、彼らはすぐ互いに責め始めた。このことは、人間の性質がキリストの恵みによって支配されない時、必然的に行うことである」(『希望への光』1176ページ、『思いわずらってはいけません』165、166ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。