*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。
聖餐式は、主であり、救い主であるイエス・キリストを信じる信仰の表明として、イエスのからだと血の象徴にあずかることである。この交わりの中にキリストは臨在され、ご自分の民と会い、彼らを力づけられる。この礼典においてわれわれは、主が再び来られるときに至るまで、喜びをもって主の死を告げ知らせる。聖餐式にあずかるため、自己を吟味し、罪の悔い改めと告白をしなければならない。主はまた洗足式を定められた。それは新たな清めを象徴し、キリストが示された謙遜さをもって喜んで互いに仕え合う気持をあらわし、愛にあってわれわれの心を1つにするものである。聖餐式は信仰を表明するすべてのクリスチャンに開かれている。(信仰の大要16)
彼らは、過越の祭のために、よごれた足のままで二階座敷に着きました。習慣として足を洗うための水さし、洗面器、タオルが用意されてありましたが、だれもこのいやしい行為をしようとする者はいませんでした。
イエスは、さし迫った死を感じ、悲しんで言われました。「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。あなたがたに言っておくが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」(ルカ22:15,16)。
弟子たちが互いに心に抱いていたねたみは、イエスの心を悲しみで満たしました。イエスは、弟子たちがまだ、天国でだれが1番偉いかと論争しているのを知っておられました(ルカ22:24、マタイ18:1、20:21)。謙遜になり、僕として他の人の足を洗おうという気持ちを持てなくしたのは、彼らのうまくやって地位を得ようとする下心、誇り、自尊心でした。彼らは、天国での真の偉大さは、謙遜と愛の奉仕によって示されるということを、彼らは学んできたはずではなかったでしょうか。
「夕食のとき」(ヨハネ13:2)[1]、イエスは、静かに立ち、僕のタオルを取って、洗面器に水を注ぎ、ひざまずき、弟子たちの足を洗いはじめられました。主なる方が僕となられたのです。無言の譴責を理解した弟子たちは、恥ずかしさで心がいっぱいになりました。主は、ご自分の働きをなし終えられたとき、ご自分の席に戻って言われました。「しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである」(ヨハネ13:14-17)。
ここでイエスは、過越の祭に代って、主の大いなる犠牲を記念する儀式を制定されたのです。これが聖餐式です。主は、種入れぬパンを取り、「祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた。『取って食べよ、これはあなたがたのためのわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。それから主は祝福の杯を取り、『感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」』。「飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」(マタイ26:26-28、1コリント11:24-26、10:16参照)。
洗足式と主の晩餐(Lord’s Supper)の儀式が聖餐式(Communion Service)を形づくっています。このようにキリストは、わたしたちが主との交わりに入るのを助けるために、2つの儀式を制定なさったのです。
洗足式
過越の祭を祝うとき、ユダヤの家族は、除酵祭の週の第一日までに、家からすべての酵母と罪を取り除く習慣がありました(出エジプト12:15,19,20)。同じように信徒は、もっとも深い所で、正しい霊の下で、キリストとの交わりに入る前に、誇り、競争心、ねたみ、怒りっぽい性質、利己主義といった罪をすべて告白し、悔改めなければならないのです。
キリストは、その目的のために洗足式を制定されました。主は、模範を示しただけでなく、弟子たちも同じことをするようにと言われました。それから祝福を約束されました。「もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである」(ヨハネ13:17)。聖餐式の前になされるこの儀式は、「ふさわしくないままで」(1コリント11:27-29)聖餐にあずかることがないように、自分自身を吟味する役割を果します。
洗足式の意味
この儀式は、キリストの使信とそれにあずかる者たちの経験を表しています。
1キリストの謙遜の記念
洗足式は、キリストの受肉と奉仕の生活において示された謙遜を記念するものです[2]。主は、天の栄光の中で、父とともに、み座に座しておられましたが、「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(ピリピ2:7)のでした。
神の子は、謙遜にも大いなる自己否定と愛とを示されましたが、結局は、主が救おうとされた者たちの大多数によって拒否されてしまいました。地上でキリストが生活をしておられた間、サタンは、あらゆる機会に極力主をはずかしめようと決心しました。汚れのないお方が、罪人として十字架にかけられるとは、何という屈辱であったことでしょう。
キリストは無我の奉仕の一生を送られました。主は、「仕えられるためではなく、仕えるため」(マタイ20:28)に来られたのです。洗足の行為をとおして、主は、人々を救うためなら、たといどのようないやしい奉仕でもしようということを示されたのです。このようにして、主は、弟子たちの心に、イエスの奉仕と柔和の生涯を印象づけられました。
主は、この準備の式典を制度化することにより、信徒たちを、思いやりと愛の持主に変え、他の人々へ奉仕させようと考えられました。この儀式は、謙遜と優しさをもって人と接し、儀式のもつその重要性を反映しようとする人々を力づけます。洗足式を行ってキリストに従おうとすることにより、わたしたちは主の次の精神を告白するのです。「愛をもって互に仕えなさい」(ガラテヤ5:13)
この儀式に参加することは、へり下りを意味しますがその人の品位を落すものではありません。主の前にひざまずき、十字架上でくぎづけされたその足を洗うことを特権と思わない人がいるでしょうか。イエスは言われました。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)。
2より高い清めの型
洗足式には、足を清める以上の働きがあります。これは、より高度な清め、つまり、心の清めを表しています。ペテロがイエスに全身を洗って下さいと願ったとき、イエスは言われました。「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから」(ヨハネ13:10)。
からだを洗った者はきれいなのです。しかしながら、足の見えるサンダルでは、足はすぐによごれ、再び洗わなくてはなりません。弟子たちも同様でした。彼らの罪は、バプテスマをとおして洗われました。しかし、誘惑がやってきて、その心に、誇り、ねたみ、悪といったものを育てていくのです。彼らは、主との親しい交わりに入る準備ができていませんでしたし、主が結ぼうとしておられた新しい契約を受け入れる準備もできていませんでした。洗足式をとおしてキリストは、弟子たちが聖餐式に加わる準備ができるよう望まれました。裏切り者のユダ以外は、利己心や誇りといったものから、キリストの恵みによって清められ、互いに愛しあうことによって彼らは謙遜にされ、教えを素直に受入れるようになりました。
弟子たちのようにキリストを受入れ、バプテスマを受ける者は、キリストの血によって清められるのです。しかし、クリスチャンとして歩むとき、失敗してしまいます。わたしたちの足はよごれてきます。再びキリストのもとに来て、恵みによってよごれを清めていただかねばなりません。しかし、再びバプテスマを受ける必要はないのです。それは、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない」(ヨハネ13:10)[3]からです。儀式としての洗足式は、わたしたちにいつも清めていただく必要があることを思い起させ、わたしたちが全的にキリストの血に頼っていることを思い起させます。洗足式そのものは罪を清めることはできません。キリストのみが清めることができるのです。
3ゆるしによる交わり
参加する者のゆるしの精神が、この儀式が象徴している清めの効果を決定します。わたしたちが人をゆるすときにのみ、神のゆるしを経験できるのです。「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」(マタイ6:14,15)。
イエスは言われました。「あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである」(ヨハネ13:14)。わたしたちには、人の足を洗わせていただく気持と、人に洗っていただく気持の両方が必要です。後者については、わたしたちは霊的助けを必要とします。
この儀式が終るとき、罪は洗い清められたので、わたしたちは清められたと信じることができます。だれによってでしょうか。キリストによってです。しかし、キリストの働きの象徴を執行するのは、仲間の信徒たちです。この意味で、この儀式はゆるしによる交わりということができるのです[4]。
4キリストと信徒の交わり
洗足式は、主に従う者たちに「最後まで」(ヨハネ13:1)キリストの愛を実演してみせます。ペテロが、足を洗っていただくことを拒否したとき、主は言われました。「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」(同8節)と。清めがなければ主との交わりもありません。キリストとの絶えざる交わりを続けたいという願いが、この儀式にこめられています。
同じ夜、イエスは言われました。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(同34節)。この儀式の主旨は明らかです。「愛をもって互に仕えなさい」(ガラテヤ5:13)ということです。この種の愛を持つということは、すなわち隣人を自分たち以上に尊敬し、高い位置に置くことを意味します(ピリピ2:3)。これは、わたしたちと考えを異にする人々を愛するよう要求します。このことは、わたしたちが優越感を持ったり、偏見を抱いたりすることを許しません。わたしたちの生活は、信仰の仲間に対する愛を反映したものになるでしょう。人の前にひざまずき足を洗うことにより、永遠に至るまで彼らと共に生きることを喜ぶのです。この儀式においてキリストの模範に従う声は皆、キリストが愛されたように愛するとはどういうことかを、幾分経験できるでしょう。そして、このような愛こそ、力強い証しとなりうるのです。
以前に、ある仏教の僧侶が、一人の宣教師にキリスト教というものを代表している場面を教えていただきたいと言いました。芸術家たちが、世界的大宗教を壁画のようなものや彫り込み細工で寺院の床を描き、ホールを飾ろうとしていたのです。いろいろ考えた末、宣教師はヨハネ13章の話をはじめました。「イエスが弟子たちの足を洗っている様子を記した聖句をわたしが読んでいる間、僧侶は何も言いませんでしたが、わたしは不思議な畏怖の念にみちた静けさと力を感じました」。彼らの文化では、足に関することを公に論ずることは、大変不作法だと考えられていました。
「わたしが読み終ったとき、しばらくの沈黙がありました。彼はわたしを疑い深い目で見て言いました。『あなたは、あなた方の教祖が弟子たちの足を洗ったとおっしゃるのですか。』
『はい、そうです』と答えました。まゆ毛と頭をそった僧侶は、驚きのあまりおだやかな丸い顔にしわを寄せて、信じられないという様子でした。彼は無言で、そしてわたしも同様でした。わたしは何度かかたずをのみました。その間わたしたちは二人共そのドラマの光景に捕えられていました。やがて、わたしが彼を見つめると、疑いをもっていた表情が、崇敬の表情に変わっていました。キリスト教の教祖、イエスがよごれた漁師たちの足を洗われたのです。しばらくして彼は我に返って、立ち上がり、こう言いました。『わたしはキリスト教の真髄がわかりました』。」[5]
聖餐式
プロテスタント教会の中で、聖餐式の最も一般的な名まえは「主の晩餐」(1コリント11:20)です。他に、「主の食卓」(1コリント10:21)、「パンをさくこと」(使徒20:7、2:42参照)[6]そして、この儀式がもっている感謝と祝福を表す面に関連したユーカリストという名もあります(マタイ26:26,27、1コリント10:16、11:24)。
聖餐式は喜びのときとなるべきで、悲しみのときとなってはならないのです。先に行われる洗足式が、自己吟味、罪の告白、不和の和解、そしてゆるしといった機会を提供します。救い主の血潮によって清められるとの確信が与えられ、信徒は特別な主との交わりに入る備えができていきます。人々は喜びをもって食卓につき、十字架の救いの陰にではなく、光の前に立ち、キリストのあがないによる勝利を祝う備えをするのです。
聖餐式の意味
聖餐式は、旧約時代の過越の祭にとって代りました。過越の小羊であるキリストが命をお捧げになったとき、過越の祭はその役割を終えたのです。キリストは死の前に、新しい契約の下で霊的イスラエルの偉大な祭をそれまでのものに代えて制定なさったのです。このように、聖餐式が象徴している多くのものの根源は、過越の祭までさかのぼります。
1罪からの救出の記念
過越の祭が、エジプトでの奴隷状態からの救出の記念であるように、聖餐式は、霊的エジプト、つまり罪の奴隷からの救出の記念です。
かもいと柱に塗られた過越の小羊の血が、そこに住む者を死から守りました。それを食べてとり入れた栄養が、エジプトを脱出する力となりました(出エジプト12:3-8)。同様にキリストの犠牲は、死からわたしたちを解放してくれました。信徒は、主のからだと血にあずかることによって救われます(ヨハネ6:54)。聖餐式は、キリストの十字架の死がわたしたちに救いを与え、ゆるしを与え、そして永遠の生命を保証したと宣言しているのです。
イエスは言われました。「わたしを記念するため、このように行いなさい」(1コリント11:24)。この儀式は、キリストの贖罪が身代りであることを強調しています。「これはあなたがたのために裂かれた、わたしのからだである」(1コリント11:24、NKJV、イザヤ53:4-12参照)とイエスは言われました。十字架上で、罪のない方が罪人の身代りとなられました。義なる方が、不義なる者の身代りとなられました。この高潔な行為は、悔改めた罪人に、ゆるしと平安と永遠の命の保証を与え、罪人に死を宣告する律法の要求を満たすのに充分でした。十字架は、わたしたちの罪を取り除き、キリストの義の衣と悪に打ち勝つ力とを与えてくれたのです。
Aパンとぶどうの実
イエスは、ご自身についての様々な真理を教えるのに、多くの比喩を用いられました。主は言われました。「わたしは門である」(ヨハネ10:7)。「わたしは道である」(ヨハネ14:6)。「わたしはまことのぶどうの木である」(ヨハネ15:1)。そして「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)と。これを文字通り解釈することはできません。主は、門や道やぶどうの木において存在しておられるわけではない。そうでなく、これらはもっと深い真理を説明しているのです。
五千人を養うという奇跡を行われたとき、イエスはご自身のからだと血に関して大変深く重要なことを言われました。まことのパンについて、主は言われました。「『天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである』。彼らはイエスに言った、『主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい』。イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない』」(ヨハネ6:32-35)。主は、わたしたちの最も深い必要と願望に発した飢えとかわきを満たすためにそのからだと血とを捧げられたのです(ヨハネ6:50-54)。
イエスのお食べになった過越のパンは種入れぬパンでした。また、ぶどうの実は発酵してないものでした[7]。酵母(イースト)は、パンを発酵させ、ふくらませます。これは、罪の象徴と考えられてきました(1コリント5:7,8)。それでこれは、「きずも、しみもない」(1ペテロ1:19)[8]の小羊を表すのには不適当でした。ただ種入れぬパン、あるいは発酵していないパンだけが罪のないキリストのからだを象徴することができました。同様に、腐っていないぶどうの実、つまり発酵してないぶどう汁のみが、救い主の罪を清める血潮という、しみのない完全さを象徴するのにふさわしいものです[9]。
Bパンを食べぶどう汁を飲む
「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6:53,54)。
キリストのからだを食べ、血を飲むというのは、神のことばが人のうちに同化していくということの象徴的表現です。これをとおして信徒は、天との交わりを保ち、霊的生活をすることができます。主は言われました。
「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63)。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)。
信徒は、命のことばである聖書を読むことをとおして、命のパンであるキリストを食物とするのです。このことばによってキリストは、生命賦与の力を与えられます。また聖餐式でわたしたちは、聖霊をとおしてみことばを理解し、キリストと共にいることができます。この意味で聖餐式にはみことばの説教が伴うのです。
信仰によってわたしたちは、キリストのあがないの犠牲という恩恵を受け入れているので、聖餐式は、単なる記念の食事以上のものなのです。聖餐式に参加することは、キリストの力強い支えをとおしてわたしたちが命と喜びを与えられ、生活に活力がもたらされることを意味します。手短かに言えば、この象徴は、「肉体の生命が食物と飲物を頼りにするように、霊的生命はキリストに頼っている」[10]ことを表しているのです。
聖餐式ではわたしたちは杯を「祝福する」(1コリント10:16)のです。これは、キリストが杯を「感謝して与え」(マタイ26:27)られたように、わたしたちがキリストの血潮に感謝することを表します。
2会衆と共にキリストと交わる
争いと分裂に満ちているこの世で、このような儀式に共に加わることは、真のキリストとの交わり、友との交わりとは何かをはっきり示してくれるので、教会の一致と安定に寄与するところが大きいのです。この儀式を強調してパウロは言いました。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである」(1コリント10:16,17)。
「このことは次の事実を示しています。すなわち、信徒たちが食べるために、聖餐式のパンは小さく裂かれますが、これは小さなパンが一かたまりのパンからきているように、聖餐式に参加する者は皆、裂かれたパンによって象徴されている砕かれたキリストにあって一体であることを表しています。この儀式に共に加わることによって、クリスチャンは自分たちがキリストを頭とした一つの大きな家族に連なり、その一員であることを世に示しているのです。」[11]
すべての教会員は、この聖なる儀式に参加すべきです。なぜなら、そこでは聖霊をとおして、「キリストがご自分の民に会い、その臨在によって彼らを力づけられる(からである)。ふさわしくない心や手によってこの式がとり行われることさえあるかも知れないが、それでもキリストがそこにおられて、ご自分の民に奉仕されるのである。主に固い信仰をおいてこれにあずかる者はみな大いに祝福される。このような天来の特権の時をおろそかにする者はみな損失をこうむる。このような人たちについては、『みんながきれいなのではない』と言うことがふさわしいのである。」[12]
主の食卓で、わたしたちは最も強く、最も深い交わりを体験するのです。わたしたちを分けていた障壁は砕かれ、わたしたちはそこで共通の広場を持つのです。わたしたちはそこで、世の中にはわたしたちを分裂させるものが多くあるけれども、キリストの内には、わたしたちを結びつけるのに必要なすべてのものがあることに気づくのです。聖餐式の杯にあずかっているとき、キリストは神の子たちに、新しい契約を明らかにされます。主は言われました。「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マタイ26:27,28、ルカ22:20参照)。古い契約が、犠牲の動物の血によって批准されたように(出エジプト24:8)、新しい契約は、キリストの血によって批准されます。この儀式の中で信徒は、自分たちが驚くべき合意の一方の当事者であることを新たに認識しながら、主に対する忠誠の誓いを更新するのです。神はその合意に基づいて、ご自分をイエスにあって人類と結びつけられたのでした。この契約の一方の当事者であるがゆえに、人間は何かを祝うのです。聖餐式は、恵みの永遠の契約に調印することを示す記念であり、また感謝なのです。どのような恵みを受けるかは、参加する人々の信仰にかかっています。
3再臨への期待
「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」(1コリント11:26)。聖餐式は、カルバリーと再臨との間に置かれています。これは、十字架と来るべき王国とをつなぐものです。これは、新約聖書の世界観の真髄である「すでに」と「いまだ」とを結ぶものです。これは、与えられた救いと完成された救いという救い主の犠牲と再臨との両方を握っています。これは、聖霊によって、主が目に見える状態で来られるまでキリストが臨在されることを表しています。
キリストの誓われた「わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」(マタイ26:29)とのことばは預言を含んでいます。これは、わたしたちの信仰をみ国におけるキリストとの聖餐式の祝いへと向けるものです。これは「小羊の婚宴」(黙示19:9)という偉大な祭です。
この出来事の準備としてキリストは、次のように教えられました。「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう」(ルカ12:35-37)。
かつてエルサレムでなさったように食卓に集められたしもべらと共にキリストは、晩餐会を催されるでしょう。主は長くこの儀式を待ち望んでおられ、いまやすべての準備が整ったためです。主はそのみ座から立ち上がり、仕えるためにすすみ出られます。一同は驚きに満たされます。彼らは、キリストに仕えていただく栄誉など受ける資格は全くないと感じます。彼らは「わたしたちに仕えさせて下さい」と申し出ます。しかし、キリストは静かに彼らを座に着かせられます。
「主が自らを低くして僕の立場をとられたあの記念すべき聖餐式ほど、真に偉大であったものはキリストの地上でのご生涯にはありませんでした。聖徒たちに仕えておられるときのキリスト以上に偉大な主の姿は、天国にはありません」[13]これが、聖餐式の示している喜びが最高潮に達するときです。この喜びは、来るべき永遠のみ国において、キリストとの個人的交わりをとおして与えられる栄光なのです。
参加資格
2つの大きな儀式が、キリスト教信仰に貢献しています。それは、バプテスマ式と聖餐式です。前者は教会への門口であり、後者は教会員への恩典です[14]。イエスは、聖餐式を信仰の告白をした弟子たちのためにのみとり行われました。ですから、聖餐式はキリスト教信仰を持つ者のためにあります。慣例として、子供たちは、バプテスマを受けるまでは、聖餐式にはあずかりません[15]。
聖書は信徒に、主に対する尊敬をもってこの儀式を祝うように指示しています。それは、「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯す」(1コリント11:27)からです。この「ふさわしくない」態度というのは、「ふさわしくないやり方(同21節参照)、あるいはキリストのあがないの犠牲というものへの生きて働く信仰の欠如」[16]のことです。このような態度は、主に対する不敬であり、主を拒んだものと考えられるので、主を十字架につけた者と同罪とみなされるのです。
正しくない態度で参加すると、神の不興を招きます。ふさわしくない方法で飲み食いすることは、「主のからだをわきまえないで」、「さばき」(1コリント11:29)を食べ、飲むことになるのです。彼らは、通常の食物と、キリストのあがないの死を表す聖なる象徴とを区別しそこなったのです。「信徒たちはこの儀式を、歴史の中で起った単なる記念行事として扱ってはなりません。それは歴史上の記念行事ですが、それ以上のものです。これは、罪が一体どれだけの苦痛を神に与えたかを、また人は一体どれだけ救い主に負っているかを思い起させるものです。これはまた信徒が、神の子のあがないの死に対する信仰を証しする義務があるということを、心に鮮やかに保つ手段でもあります。」[17]
これらの勧告から考えて、パウロは信徒たちに、聖餐式に加わる前に、「自分を吟味する」(1コリント11:28)ように勧めています。信徒たちは、この儀式に加わる前に、罪を告白して断絶した関係を回復し、祈りをもって自分の過去を再吟味すべきです。
アドベンチストの先駆者たちの経験は、このような自己吟味がいかに祝福をもたらしたかを物語っています。
「教会員数が少なかったころ、聖餐式は最も有益な式典でした。金曜日までに、各教会員は自分自身を兄弟や神から引き離してしまう恐れのあるものを一掃しようと努力しました。心の内を綿密に探り、隠れている罪が神によって示されるようにと、熱心な祈りが捧げられました。商売で人をだましたこと、思慮のない性急なことばを語ったこと、罪を抱いたことなどが告白されました。主は近づいてこられ、わたしたちは大いに強められ、勇気が与えられました。」[18]
この吟味は、個人的なものです。他人がすることはできません。一体だれが人の心を読んだり、雑草を小麦から区別することができるでしょうか。わたしたちの模範であられるキリストは、聖餐式における排他心を禁じておられます。明らかな罪を犯している場合は参加できませんが(1コリント5:11)、イエスご自身は、外面的には認められた弟子であり、内面的にはどろぼうであり、裏切り者であったあのユダと食事を共にされたのです。
ですから、この聖餐式の参加資格の決定は、心の状態がどうなのかということに係わってきます。すなわち、キリストに献身し、主の犠牲を信じる者であれば、教会員となっていない者でも資格があるのです。従って、キリスト教信仰を持つ者は、どの教会に属していようと聖餐式に参加できるのです。すべての人は、この大いなる新しい契約の式典に招かれており、これに参加することによって、キリストを個人的救い主として受け入れた証しをするよう招かれているのです。[19]
[1]ロバート・オドム「主の家での最初の聖餐式」『ミニストリー』Robert Odom,“The First Celebration of the Ordinance of the Lord’s House,”Ministry(Jan. 1953)、20ページ。ホワイト『各時代の希望』、下巻(福音社、1965年)、116-124ページ参照。
[2]同、126,127ページ。
[3]バプテスマ式と聖餐式は関係があります。バプテスマ式は、教会員となる前に行われ、洗足式は、教会員となった者が行います。この儀式の間、わたしたちはバプテスマ式における誓約のことをめい想するのが適切でしょう。
[4]C・マーヴィン・マクスウェル「ゆるしの交わり」『レビュー・アンド・ヘラルド』C.Mervyn Maxwell,“A Fellowship of Forgiveness,”Review and Herald(June 29, 1961)、6,7ページ参照。
[5]ジョン・ディブドール『宣教―両方向の道』Jon Dydbahl, Missions: A Two-Way Street(Baise, ID: Pacific Press, 1986)、28ページ。
[6]使徒行伝20章7節の表現が、聖餐式に関するものであるということは一般に受け入れられていますが、この儀式に限定されるとは言えません。ルカによる福音書24章35節では、日ごとのふつうの食事のことを言っています。
[7]秋のぶどうの収穫時から春の過越の祭まで、長期にわたるイスラエルの暖かい気候の間、聖書時代の人々はグレープ・ジュースを保存できなかったという仮説の下で、ユダヤ人は過越の祭を、発酵したワインで祝っていたという考えが受け入れられています。しかし、この仮説は正しいとは言えません。古代社会に、おいては、ジュースはさまざまな方法で、発酵しない状態で長期間保存されました。その方法の1つは、煮つめることによってジュースを濃縮し、シロップ状にするのです。温度の低い所に保存しておけば、この濃縮ジュースは発酵しません。これを水でうすめれば、アルコールの入っていない「甘いブドウ酒」ができあがるのです。ウィリアム・パットン『聖書のワイン・発酵の規定』William Patton, Bible Wines-Laws of Fermentation(Oklahoma City, OK: Sane Press, n. d. )、24-41ページ参照。C・A・クリストフォリデス「発酵しないブドウ酒考」『ミニストリー』C. A. Cristoforides,“More on Unfermented Wine.”Ministry(April 1955)、34ページ。ラエル・O・シーザー「旧約時代のヤインの意味」Lael O. Caeser,“The Meaning of Yayin in the Old Testament”(アンドリューズ大学修士論文、1986年)、74-77ページ。ホワイト『各時代の希望』、下巻(福音社、1965年)、131,132ページ)。過越のワインは、干しぶどうからも作られました。F・C・ギルバート『イスラエルの経験に基づく現代の教会のための実際的教訓』F. C. Gilbert, Practical Lessons From the Experience of Israel for the Church of Today(Nashville, TN: Southern Publ. Assn., 1972 ed.)、240,241ページ。
[8]この光によれば、キリストが酒(ギリシャ語のオイノス)ということばを使わないで、「ぶどうの実」(マルコ14:25)ということばを使われたことは、注目に値します。オイノスは、発酵した状態、発酵しない状態の両方を意味しますが、ぶどうの実は純粋なジュースを意味します。そしてこれこそは、キリストが自らを「まことのぶどうの木」(ヨハネ15:1)と呼ばれましたが、そのキリストの血潮を象徴するにふさわしいのです。
[9]イーストもグレープ・ジュースを発酵させます。イースト菌は、風や虫によって運ばれ、ぶどうの表皮のろうの膜につきます。ぶどうがつぶされ、イースト菌がジュースとまじります。室温で、イースト菌は非常な勢いで増えていき、発酵したワインとなります。
[10]R・ライス『神の統御』R. Rice, Reign of God、303ページ。
[11]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、改訂版、第6巻、746ページ。
[12]ホワイト『各時代の希望』、下巻(福音社、1965年)、137,138ページ。
[13]M・L・アンドレアセン「主の家の聖餐式」『ミニストリー』M. L. Andreasen“The Ordinances of the Lord’s House,”Ministry(Jan. 1947)、44,46ページ。
[14]ホワイト『伝道』White, Evangelism(Washington, D. C.: Review and Herald, 1946)、273ページ参照。
[15]たとえば、フランク・ホルブルック「教会員のみ?」『ミニストリー』Frank Holbrook, “For Members Only?,”Ministry(Feb. 1987)13ページ参照。
[16]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』SDA Bible Commentary、改訂版、第6巻、765ページ。
[17]同。
[18]ホワイト『伝道』White, Evangelism、274ページ。『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』SDA Bible Commentary、改訂版、第6巻、765ページ参照。
[19]聖書は、聖餐式を何回するようにとは明記していません(1コリント11:25,26参照)。アドベンチストは、多くのプロテスタントが行っている年4回方式を取り入れてきました。「初期のアドベンチストは、回数を多くすれば形式主義に陥り、儀式のもつ厳粛さが失われると考え、一期に一回というやり方を取り入れたのです。」これは、聖餐式を度々行うという考えと、間をたっぷり置く―たとえば一年に一回―という考えの、丁度中間をとって決めたように思えます(W・E・リード、「聖餐式の回数」『ミニストリー』W. E. Reid,“Frequency of the Lord’s Supper,”Ministry(April, 1955)、43ページ)。
*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。