永遠の福音【ヤコブの手紙】#13

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このシリーズのヤコブの手紙の研究において、私たちは福音に関連するいくつかの問題に目を向け、聖書のほかの記者と比較してきました。ヤコブの言うことが聖書の他の箇所といかに合致しているかをはっきり理解することは、とりわけそれが福音そのもののような中心的なことになると、必ずしも容易ではありません。しかし私たちが見てきたように、彼の言うことは合致しています。そして、このことはまた、「永遠の福音」を「地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせる」(黙14:6)という私たちの終末時代の任務の基礎が福音であるがゆえに、とても重要です。

私たちは今回、「永遠の福音」——すなわち、ヤコブの手紙を含む聖書全体で教えられている教理、「信仰による救い」——に関する基本的な疑問に目を向けます。覚えておくべき極めて重要な点は、聖書が矛盾したことを(とりわけ「救い」のような基本的な事柄に関して)言わないということです。福音が聖書の中にどのようにあらわれているのかを見ることで、私たちはこのシリーズを終えようとしています。そうすることによって、ヤコブの手紙が、神の救済計画というより大きな概念といかに合致しているのかを、さらに理解できるからです。

旧約聖書における福音

「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(ヘブ4:2)。

この聖句の意味するところは、衝撃的です。第一に、単なる「良い知らせ」ではなく「福音」が、旧約聖書の中で告げ知らされていたということ、第二に、それは新約聖書の時代と「同様に」告げ知らされたということです。福音のメッセージそのものに違いがあったという示唆はありません。従って、問題は、福音の「メッセージ」ではなく、その「聞かれ方」でした。今日でも、人によって同じメッセージの聞き方(受け取り方)がかなり違います。福音が説かれるとき、私たちがそれを正確に聞き取れるよう、徹底的な信仰によって御言葉の教えに身を委ねることは、なんと重要なことでしょうか。

問1

以下の聖句を読み、それぞれの中の福音のメッセージを要約してください(創世記3:15、出エジプト記19:4~6、詩編130:3、4、32:1~5、イザヤ53:4~11、エレミヤ31:31~34)。

同じような内容が、共通して繰り返されていることに気づきましたか。神は私たちを救うために介入し、私たちを赦し、私たちが「進んで従う」(イザ1:19)ことができるように、罪に対する「敵意」を私たちの内に置かれました。1人(イエス)が大勢のために死に、彼ら(私たち)の罪を負い、赦しに値しない者たちを赦します。新しい契約は、古い契約とは異なります。なぜなら、その律法は心に記されており、「罪を思い出しはしないから」(ヘブ8:12)です。要するに、赦しと新生とは一体だということ——義認と聖化は、罪という問題に対する神の解決策をあらわしているということ——です。先のような聖句は、もっと挙げることができます。なぜなら、そこに含まれているメッセージは、聖書の初めから終わりに至るまで同じだからです。私たちの罪にもかかわらず、神は私たちを愛し、罪から救い出すために可能なことをすべて行われた、というメッセージです。

肉となった福音

福音書の中に、なかなか福音を見いだせない人たちがいます!イエスの教えは、話の続きを聞かなければ、律法主義的に思える場合があるからです。イエスがこの世におられた頃のイスラエル人のほとんどは、自分自身が神の前に正しい状態であると考えていました。彼らは要求された税を払い、ふさわしい犠牲をささげることで神殿を支えていました。汚れた食べ物を遠ざけ、息子たちに割礼を施し、祭りの日と安息日を守り、宗教指導者たちによって教えられたとおりに律法を守ろうと、大抵努めていたからです。そこにヨハネがやって来て、「悔い改めよ」と叫び、バプテスマを授けました。さらにイエスは、新しく生まれることが必要であり(ヨハ3:3、5)、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタ5:20)ともおっしゃいました。言い換えれば、「あなたは、あなたが持っていないものを必要としているのだ。あなたの業では十分でない」と、イエスは言っておられました。

ルカ15:11~32、18:9~14を読んでください。放蕩息子のたとえ話において、息子は失われていますが、彼はそのことを知りません。最終的に彼は、父親の愛情を新しい視点から見るようになり、家に帰りたいと切望します。彼のうぬぼれも消え去ります。僕として受け入れてもらうことを期待していた彼は、あふれるほどの敬意をもって父親に迎えられ、驚きます。2人の関係は、単に回復されたのではありません。変わったのです。同じような予想の逆転が、二つ目のたとえ話の中にも見られます。「正しい」ファリサイ人は神から無視され、その一方、「罪深い」徴税人は神に受け入れられるだけでなく、義とされ、赦され、罪から解放されます。

いずれの物語も、私たちが神を(父親として、不信心な者の正当性を証明する方として)もっとはっきり理解できる助けとなります。イエスは絞ったぶどう汁の杯を、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタ26:28、マコ10:45と比較)と表現なさり、真の過越の小羊として、私たちのものであった死を体験なさいました。このように、イエスが救いの代償をすべて支払われたので、救いは無償で私たちに与えられるのです。

パウロにおける福音

パウロは同郷人の多くと同様、自分が霊的に正しい状態にあると思っていました。しかし、彼はやがてイエスを、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」(ガラ2:20)とみなします。パウロは突然、自分が救われておらず、失われていること、神の僕ではなく、敵であること、義人などでなく、罪人の頭であることを自覚しました。彼の目から、言い換えれば、彼の(旧約)聖書の読み方から、うろこが落ちたのです。パウロに個人的に与えられた神の啓示と、聖書を通じての啓示によって、彼の心と人生は永遠に変えられました。私たちは、このような基本的事実を認識するまでは、その事実が生み出したパウロの手紙を理解できないでしょう。

問2

先のことを踏まえて、IIコリント3:14~16を読み、次に3:2~6を読んでください。パウロはここにおいて、どのようなことを重要な段階とみなしていますか。

古い契約の意味は、「主の方に向き直(る)」(16節)ときにのみはっきりします。イエスは救いに至る道です。すべては彼に始まり、彼に終わります。自分の従順さを頼みにした回心前のパウロと同じように、イスラエルは、死に仕える者として古い契約を体験しました。なぜでしょうか。イスラエルを含めて、「人は皆、罪を犯して」(ロマ3:23)いるからであり、掟は有罪判決を下すことしかできないからです(IIコリ3:7)。それとは対照的に、コリントの信者たちは、「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた[キリストの]手紙」(同3:3)でした。

ローマ1:16、17、3:24~26を読んでください。福音は、信じるすべての人を救う神の力です。義は、私たちのすることに基づくのではなく、キリストが私たちのためになさったことに基づき、それを私たちは信仰によって求めます。それは、「初めから終わりまで信仰を通して」(ロマ1:17)成長するものです。パウロがこの言葉で意味することは、ローマの信徒への手紙の残りの部分の中で明らかになりますが、その中核は3章の終わりに見いだされます。私たちはキリストを通して「贖い」(私たちの罪の代価を支払って、神が私たちを買い戻されたということ)と「義」(私たちが恵みによって罪から解放され、清められること)と「赦し」(神が私たちを再び受け入れ、過去の罪を「忘れてくださる」こと)を受けるのです。驚くべきことに、神はキリストの犠牲を通して、キリストを信頼した不信心な者たちを義とすることで、御自分の正当性を証明なさいます。

「新しい」契約

ヘブライ人への手紙は、新しい契約を古い契約よりも「更にまさった」ものだと述べています(ヘブ8:1、2、6)。すると、当然疑問に思うのが、「もし古い契約が不完全なものだったのなら、なぜ神はそれを定められたのか」ということです。しかし、問題は契約にではなく、契約に対する人々の応答にあったのでした。

人々は「契約に忠実でなかった」(ヘブ8:9)が、同時に不従順で反抗的でした。これは、古い契約の動物の犠牲が罪を取り除くことができなかった(同10:4)という事実とともに、罪の問題が残ったことを意味しました。「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたこと」(同10:10)だけが、古い契約のもとで犯されたものも含めて、罪を贖うことができたのです。なぜなら、「律法が何一つ完全なものにしなかったからです——しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって[新しい契約の約束を通して]神に近づくのです」(同7:19)。

ある意味において、この新しい契約は、まったく新しくありません。というのも、(蛇の頭を砕くであろう子孫に関するエデンでの約束以来、)救済計画は常にキリストの死、つまり「天地創造の時から、屠られた小羊」(黙13:8、エレ32:40、ヘブ13:20、21、ヨハ13:34も参照)の上に打ち立てられてきたからです。

一方、パウロのところで触れたように、私たちが主に頼るとき、特別なことが起きます。永遠の契約との関連において、神は次のように約束なさいました。「わたしは……わたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする」(エレ32:40)。信仰がなければ、動物の犠牲を携えて来ることは、罪に対する支払いをするようなものです。代わりに、「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、……御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された」(ヘブ12:2、3)イエスを見つめることで、計り知れないほどの罪の代償と、その代償が「永遠の契約の血」(同13:20)を通してほかのだれか[イエス]によって支払われたという良い知らせとが、明らかになります。この「新しい」契約は、あらゆるもの(例えば、「互いに愛し合いなさい」という掟)に対する私たちの見方を変えます。この掟(レビ19:18)は、単に自分自身を愛すように隣人を愛すのではなく、「わたし[イエス]があなたがたを愛したように」(ヨハ13:34)愛さなければならないという点を除けば、まったく新しいものではありません。

福音の頂点

「第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである」(黙10:7)。

意義深いことに、ヨハネの黙示録において、福音を告げることにはっきり言及しているのは、(黙14:6を除けば)10:7だけです(「告げられた」と訳されているギリシア語は「ユーアンゲリゾー」で、「良い知らせを公に告げる」という意味)。これら二つの章(10章と14章)は、私たちの召しと任務をそこに見いだすことができるので、セブンスデー・アドベンチストにとって特別です。言い換えれば、神は、「永遠の福音」を宣べ伝えるようにと、(ほかのグループにはなさらなかった形で)私たちをはっきり任命なさったということです。

すでに触れたように、創世記から黙示録に至るまで、福音は同じですし、律法も、契約も同じです。イエスも、パウロも、ヤコブも、福音は、アブラハムが信じたものと同じである、と認めています(ヨハ8:56、ロマ4:13、ヤコ2:21~23)。この主張に難色を示す人がいますが、それはひとえに、彼らが福音というものを、聖書の定義よりも狭く定義しているからです。しかし、アブラハムの従順な信仰は、イエスの犠牲を予見することを通して生じました。私たちは救われるために、信仰と行いのバランスを取る必要はありません。信仰だけで十分だからです。ただし、それは、悪魔が持っているような知的な信仰や、救いの条件を満たすことなく、神の約束を自分のものとして主張する厚かましい信仰であってはなりません。そうではなく、働く信仰でなければなりません。

終末時代における決定的な問題は、私たちがだれを礼拝し、だれに従うか、ということです。「天と地、海と水の源を創造した」(黙14:7)神でしょうか。それとも、獣とその像でしょうか。イエスに対する信仰によって、(安息日を含む)戒めに従うことは、終わりまで忠実である者たちのしるしです。真の宗教は、信仰と従順の両方を要求します。

「しばしば非難と迫害のただ中にあっても、神の律法の不変性と、創造の安息日を聖く守るべきこととが、絶えずあかしされてきた。これらの真理は、黙示録14章において『永遠の福音』と関連して示されているように、再臨の時のキリストの教会の特徴である。なぜなら、三重の使命が伝えられる結果として、『ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』と言われているからである」(『希望への光』1815、1815ページ、『各時代の大争闘』下巻177ページ)。

さらなる研究

「私たちは、より高い水準に達し、前進し、私たちの高貴な特権を主張する必要がある。私たちは謙遜に神とともに歩み、品性の完璧さを誇ったりせず、神の御言葉の中のあらゆる約束を単純な信仰によって主張すべきだ。なぜなら、それらの約束は従順な人たちのためのものであって、神の律法を犯す人たちのためのものではないからである。私たちは神の証しを素直に信じ、神に全的に信頼するならば、あらゆる虚栄心やうぬぼれは取り除かれるであろう。私たちは確かに信仰によって救われるのだが、それは受け身の信仰によるのではなく、愛によって働き、魂を清める信仰によるのである。キリストの御手は極悪人にさえ差し伸べられ、その人を違反から従順へと連れ戻すことができる。しかし、神の聖なる律法の要求を越えるほど高尚なキリスト教は存在しない。それでは、キリストの助けの力を超えたもの、彼の教えと模範からはずれたものになるであろう。なぜなら、『わたし[は]父の掟を守り、その愛にとどまっている』と、キリストがおっしゃっており、彼に従う者たちはみな、神の聖なる律法に従うからである」(エレン・G・ホワイト『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1890年3月31日号)。

*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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