預言の賜物【アドベンチストの信仰#18】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

聖書は、預言が聖霊の賜物の1つであるとあかししている。この賜物は残りの教会を見分けるしるしであって、われわれは、それがエレン・G・ホワイトの奉仕にあらわれていたと信じる。彼女の著書は預言の権威をもって語り、教会を慰め、導き、教え、その過ちを正す。彼女の著書はまた、聖書がすべての教えと経験を審査する基準であることも明らかにしている。(信仰の大要18)

ユダの王ヨシャパテは、大変な苦境にありました。敵の軍隊が取りかこみ、状況は絶望的でした。「ヨシャパテは、主に顔を向けて助けを求め、ユダ全国に断食をふれさせた」(歴代下20:3)。会衆は宮に集まってきて、神のあわれみと救いとを求めました。

ヨシャパテは、断食祈禱の先頭に立って、状況を変えて下さるよう神に祈りました。「主よ、あなたは天にいます神ではありませんか。異邦人のすべての国を治められるではありませんか。あなたの手には力があり、勢いがあって、あなたに逆らいうる者はありません」(同6節)。神はかつて、ご自分の民を特別に守られなかったでしょうか。選ばれた民に、この地をお与えにならなかったでしょうか。ヨシャパテは、そこで嘆願しました。

「われわれの神よ、あなたは彼らをさばかれないのですか。われわれはこのように攻めてくる大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」(同12節)。

ユダの全会衆が主の前に立ったとき、ヤハジエルという人物が立ち上がりました。彼のことばは、恐怖におののく民に、勇気と進むべき道とをもたらしました。彼は言いました。「恐れてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである。…この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。…あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。…主はあなたがたと共におられるからである」(同15-17節)朝になって、ヨシャパテ王は、自分の軍隊に向かって言いました。「あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう」(同20節)[1]

王は、このほとんど知られていない預言者ヤハジエルを全的に信頼して、聖なる飾りを身にまとった聖歌隊を最前線の軍隊にとって代らせました。信仰の歌が地上をおおったとき、主はユダに敵する軍隊同士に混乱をもたらしました。殺りくは甚だしいものであり、「ひとりものがれた者はなかった」(同24節)ほどでした。

この特別なときにヤハジエルは、神の口となったのでした。

預言者は、新約、旧約の両時代にきわめて重要な役割を果しました。しかし、聖典の完結と共に預言者の働きは終ったのでしょうか。この答を見い出すために、預言の歴史をたどってみましょう。

目次

聖書時代の預言の賜物

罪が、神と人との、顔と顔とを合わせた交わりを終らせてしまいましたが(イザヤ59:2)、神は、人との親密な交わりをおやめにはなりませんでした。そればかりか、神は交わるための他の方法を示されました。神は、勇気を与え、あるいは警告し、譴責するメッセージを預言者をとおして与えはじめられたのです[2]

聖書の中では預言者は「神から情報を受けた人で、神のご意志を神の民に伝達する人」[3]のことです。預言者は、自分が主導権を握って預言したのではありませんでした。「預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」(2ペテロ1:21)。

旧約聖書において、預言者ということばは、一般にヘブル語のナビーの訳語です。その意味は、出エジプト記7:1,2に述べられています。「主はモーセに言われた、『見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者〔ナビー〕となるであろう。あなたはわたしが命じることを、ことごとく彼に告げなければならない。そしてあなたの兄弟アロンはパロに告げなければならない』」。モーセのパロに対する関係は、神のご自分の民に対する関係と同じです。アロンがモーセのことばをパロに語ったように、預言者は神のことばを民に伝えたのです。ですから、預言者ということばは、神のために神が任命された代弁者です。ヘブル語のナビーに当るギリシヤ語はプロフェーテースで、これが英語のプロフェットの語源となっています。

「先見者」、これはヘブル語のローエー(イザヤ30:10)あるいは、コーゼー(サムエル下24:11、列王下17:13)の訳語ですが、これも預言の賜物を持った人を表すことばです。預言者そして先見者は密接な関係を持っています。聖書は次のように説明しています。「昔イスラエルでは、神に問うために行くときには、こう言った、『さあ、われわれは先見者のところへ行こう。』今の預言者は、昔は先見者といわれていたのである」(サムエル上9:9)。先見者という名称は、預言者が神のメッセージを受取ったことを強調しています。神は、ご自分の民に伝えさせたい情報を、預言者の「目」や心に示されたのです。

長い間、神は預言の賜物を持っている者をとおして、ご自分の意志を神の民に啓示してこられました。「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」(アモス3:7、ヘブル1:1参照)。

新約聖書の中の預言の賜物の働き

新約聖書は、霊の賜物の中で、預言を重要な位置に置いています。教会にとって最も有用な働きの中で、一番目にもってきている所が一回、二番目にもってきている所が二回あります。(ローマ12:6、1コリント12:28、エペソ4:11参照)。信徒は特に、この賜物を求めるよう勧められています(1コリント14:1,39)。

新約聖書は、預言者には次のような働きがあったことを示しています[4]

1教会設立に寄与した

教会は「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である」(エペソ2:20)。

2外に向かって伝道を開始

聖霊がパウロとバルナバを選び、第一次伝道旅行につかわし(使徒13:1,2)、どの地で働くべきかの指示を与えたのは、預言者をとおしてでした。(使徒16:6-10)。

3教会を啓発

パウロは「預言をする者は教会の徳を高める」、また預言は、「人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰める」(1コリント14:4,3)ために語られると言いました。他の賜物同様、神は信徒に「奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ」(エペソ4:12)るために、教会に預言を与えられたのです。

4教会一致をはかり、教会を守った

預言者は、「信仰の一致」をもたらし、まちがった教理から教会を守るために働きました。それで、信徒は、「もはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく」(エペソ4:14)なったのです。

5将来の困難を警告

新約聖書のある預言者は、迫り来るききんについて警告しました。これに応えて教会は、ききんのため苦しんでいる人々を支える援助計画をはじめました(使徒11:27-30)。また、他の預言者たちは、パウロが捕えられエルサレムで牢につながれると警告しました(使徒20:23、21:4,10-14)。

6論争のとき信仰を強めた

第一回教会会議のとき、聖霊は異邦人クリスチャンの救いに関する難しい問題に対して、教会がどう決断すべきか導きました。そこで、聖霊は、預言者をとおして信徒がまことの教理にとどまるようくり返し伝えました。教会員に対して会議の決定を伝えた後「ユダとシラスとは共に預言者であったので、多くの言葉をもって兄弟たちを励まし、また力づけた(強めた、KJV)」(使徒15:32)のでした。

終末時代の預言の賜物

多くのクリスチャンは、預言の賜物は使徒時代が終ると共に終ったと信じています。しかし、聖書は、終りのときの危機に対して教会が神の導きを特別に必要とすることを明らかにしています。このことは、新約時代の後も、預言の賜物を引き続き求め、それに備えておくべきことを表しています。

霊の賜物の継続

教会がその目的を達成しないうちに、神が教会にお与えになった霊の賜物を引き揚げるということは、聖書のどこにも記されていません。その目的というのは、パウロによれば、「神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」(エペソ4:13)ことです。教会は、この経験に至っていないので、霊のすべての賜物を必要としています。預言の霊も含めたこれらの賜物は、キリストが再びおいでになるまで、神の民のために働くでしょう。従ってパウロは、「御霊を消」さないよう、また、「預言を軽んじ」(1テサロニケ5:19,20)ないように警告しています。そして、「霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求め」(1コリント14:1)るよう勧めています。

これらの賜物は、キリスト教会の中で、いつもその存在を明らかにされてきたわけではありません[5]。使徒たちの死後、預言者たちは紀元300年まで多くの社会の中で尊敬されてきました[6]。しかし、教会の霊性が低くなり、その結果起ってきた背教(本書第12章参照)によって、聖霊の存在も、霊の賜物も共に小さくされてしまったのです。それと同時に、にせ預言者が起って、霊の賜物への確信を失わせていったのです[7]

しかし、教会の歴史のある時期に、預言の賜物が低下していったことは、神がその賜物を完全に引き揚げてしまったことを意味するものではありません。聖書は、終りが近づくにつれて、このような困難な時代に教会を支えるために、賜物は存在することを示しています。いや、そればかりかこの賜物が増し加えられることを示しているのです。

再臨直前の預言の霊

神は、キリストの初臨を宣べ伝えるために、バプテスマのヨハネに預言の賜物を与えられました。同様にしてわたしたちは、神が再び預言の賜物を送って下さることを期待できるのです。こうしてキリストの再臨が宣べ伝えられ、わたしたちひとりびとりは主にお会いする備えができるのです。

実際、キリストは、再臨が近づくと、その印の一つとしてにせ預言者が起るとおっしゃいました。(マタイ24:11,24)。もし、終りの時に、真の預言者となる者がいなかったとしたら、キリストは、その賜物を求める人に対して警告されたでしょう。主がにせ預言者に対して注意するよう言われたことは、真の預言者が出現することを暗示しています。

預言者ヨエルは、キリストがおいでになる直前に、特別な霊の賜物が注がれることを預言しています。彼は次のように言いました。「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る」(ヨエル2:28-31)。

最初のペンテコステのとき、顕著な聖霊の明示がありました。ペテロはヨエルの預言を引用して、神はこのような祝福を約束しておられたのだと言いました。(使徒2:2-21)しかしながら、ペンテコステにおいてヨエルの預言は、その最終的成就を見たと言うべきなのでしょうか。あるいは、他により完全な成就があるはずだと考えるべきなのでしょうか。聖霊降下があった後にも先にも、ヨエルの言う、太陽と月の現象について証明できるものは、何もありません。このような現象は、何世紀も後になるまで起らなかったのです。(本書第24章参照)。

ですからペンテコステというのは、再臨前の聖霊の満ち満ちる出現を、前もって味わわせて下さったできごとだと言うことができます。秋に作物が植えられてまもなく降るパレスチナの先の雨のように、ペンテコステの聖霊の注ぎは、聖霊が与えられることのはじまりとなったのです。ヨエルの預言の最終的成就は、後の雨と一致します。この後の雨は、春に降るものであり、穀物を実らせるのです(ヨエル2:23)。神の聖霊が最終的に与えられるのは、再臨直前であり、また太陽と月と星とについて預言された印の後になります。(マタイ24:29、黙示録6:12-17、ヨエル2:31参照)後の雨と同じように、この最終的な聖霊の注ぎは、地の収穫を実らせるものであり(マタイ13:30,39)、「すべて主の名を呼ぶ者は救われる」(ヨエル2:32)のです。

残りの教会における預言の賜物

ヨハネの黙示録12章は、二つの大きな迫害の期間を示しています。第一は、紀元538年から1798年(黙示録12:6,14、本書第12章参照)におよび、忠実な信徒は厳しい迫害に苦しめられました。そして、再び再臨前に、「女の残りの子ら」すなわち、キリストに対する忠誠を放棄しない残りの教会を、サタンが攻撃するのです。ヨハネの黙示録は、残りの教会を構成している忠実な信徒を、「神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者」(黙示録12:17)として特徴づけています。

「イエスのあかし」ということばが預言的啓示であることは、後の天使とヨハネとの会話から明らかです[8]

ヨハネの黙示録の終りの部分で、天使は自分自身を「あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である」とし(黙示録19:10)、「あなたや、あなたの兄弟である預言者たち」(黙示録22:9)と同じであるとしています。この二つの聖句は「イエスのあかし」を持っているのが預言者であることを明らかにしています[9]。このことは、天使が「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」(黙示録19:10)と言ったことを説明しているのです。

この箇所の説明として、ジェームス・モファットは次のように書いています。「『イエスの(すなわち、による、からでた)あかし、あるいは証人は、預言の霊である(すなわち、を構成する)』。これは…イエスの証しをもっている者たちを、預言的霊感を持つものとする特別な定義である。イエスの証しは、実際イエスが証しなさっていることと同じである(xxii20)。これは、イエスの自己啓示であり(ヨハネの黙示録1章1節によれば、究極的には神のものである)、これがキリスト教徒の預言者たちを動かすのである」[10]

そして、預言の霊という表現は次のことに関係してきます。

(1)神からの啓示をもって預言者に霊感を与える聖霊。

(2)預言の霊の働き。

(3)預言そのものの媒介。

預言の賜物、すなわち「預言という媒介をとおして教会になされる」[11]イエスの証しは、残りの教会のはっきりとした性格を表しています。エレミヤは、この賜物が律法なしでは失われてしまうことと関連づけてこう言っています。「もはや律法はなく、またその預言者は主から幻を得ない」(哀歌2:9)。ヨハネの黙示録は、この二つを持ちあわせていることを、終りのときの教会の際立った特徴であると見なしています。その教会員たちは、「神の戒めを守り、イエスのあかし」――すなわち、預言の賜物を持つのです(黙示録12:17)。

神は、エジプトを出た人々の「教会」を組織し、ご自分の民に指示を与え、導くために預言の賜物をお与えになりました。(使徒7:38)。「主はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから導き出し、ひとりの預言者によってこれを守られた」(ホセア12:13)。最終的エジプト――すなわち罪によごれた地球からのがれて天のカナンに行くこと――に参加する者の中に、その賜物を見いだすことは驚くにはあたりません。この、再臨へと導く出エジプトは、イザヤ書11章11節の最後の完全な成就なのです。「その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者を…あがなわれる。」

最後の危機の助け

地球歴史最後の日に、神の民は彼らを亡ぼそうとして、最後の試みをしようとするサタンである龍の怒り狂った力を経験するであろうと聖書は明らかにしています。(黙示録12:17)。これが「国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時」(ダニエル12:1)となるでしょう。この最も激しい時代の戦いからご自分の民を救い、生き残らせるために、神は深い愛をもって、彼らが決して一人ではないことを確信させて下さるのです。イエスのあかし、預言の霊は、民をキリスト再臨のとき、救い主と一体となるという最終目的に、安全に導いて下さるのです。

次の例話は、聖書と聖書時代後の預言の賜物というものとの関係を説明しています。「わたしたちが航海に出ようとしていると仮定しましょう。船主が、わたしたちに説明書をくれます。この中には、わたしたちの航海に必要で充分な説明が書いてあります。だからもし、この説明書に注意を払っていくなら、わたしたちは安全に目的の港に着くでしょうと船主は言いました。出帆にあたって、説明書を開いて内容を調べはじめます。そこには、航海におけるわたしたちの行動を決定する一般原則が定められてあります。更に、航海が終るまでに出合うであろうできごとに対し、実際的な対処ができるよう書かれてあります。しかし、わたしたちの航海の終りの方は特に危険であろうとも書いてあります。海岸の様子が、流砂や暴風によって大変かわりやすいからです。それで次のように書いてあります。『しかし、この付近の航海には、私が水先案内人を用意してあげましょう。彼はあなたがたのところに行き、まわりの情況や様々な危険に対処する指示を与えるでしょう。だから、あなたは彼の言うことに注意していなさい』。指示通りにしているうちに、言われていた危険な場所にやってきました。約束どおり水先案内人が現れました。しかし、彼が援助の手をさしのべようとするのに、乗組員のある者たちが立ち上がって彼に対して言いました。『わたしたちはここに説明書を持っています。これで充分です。わたしたちはこの本に書いてあるとおりにやっているのであなたは必要ではありません。』いったい今、だれがこの説明書に注意を払っていると言えるでしょう。この水先案内人を拒んだ人たちか。あるいは、説明書が言っているように水先案内人を受け入れる人たちでしょうか。あなたがたの判断に委ねよう。」[12]

聖書時代後の預言者と聖書

預言の賜物は、聖書そのものをつくり出しました。聖書後の時代、預言の賜物は聖書に取って代ったり、聖書に加えられたりはしませんでした。なぜなら、聖書の正典は、もう完成していたからです。

預言の賜物は、使徒の時代と全く同様に、終りのときに働きます。その主眼は、信仰と行動の基準である聖書を高く掲げることにあります。預言の賜物は、聖書の教えを説明し、聖書の原則を日々の生活に適応させます。ここに、教会を設立し啓発することが、また神のお定めになった伝道ができるようにその方策が示されています。預言の賜物は、個人と教会を共に背教から守り、聖書の真理に合致させるために、叱責し、警告し、導き、力を与えるのです。

聖書時代後の預言者の働きは、次のような預言者たちのそれと同じです。すなわち、ナタン、ガド、アサフ、シマヤ、アザリア、エリエゼル、アハジヤ、そしてオベデ、ミリアム、デボラ、ホルダ、シメオン、バプテスマのヨハネ、アガブ、シラス、アンナ、そしてピリポの4人の娘たちです。彼らは聖書時代に生きていましたが、彼らの証しは聖書の一部分とはなりませんでした。聖書にその書物が含まれている預言者に語ったその同じ神が、これら預言者、女預言者に霊感を与えられたのです。彼らのメッセージは、前に記録された神の啓示と矛盾するものではありませんでした。

預言の賜物のテスト

聖書はキリストが再びこられる前に、偽預言者が起ると警告しているので、預言の賜物のあらゆる資格を調べなければなりません。パウロは言いました。「預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい」(1テサロニケ5:20-22、1ヨハネ4:1参照)。

聖書は、わたしたちが真の預言の賜物を偽物から区別することができるように、いくつかの指針を設けています。

1聖書と調和したメッセージか

「ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない」(イザヤ8:20)。このことばは、どんな預言者であれ、そのメッセージは聖書全体の神の律法と、証しとに調和していなければならないことを意味しています。後の預言者に、先の預言者たちとの矛盾があってはなりません。聖霊は先にお与えになったメッセージと違うことはおっしゃいません。なぜなら、神には「変化とか回転の影とかいうものはない」(ヤコブ1:17)からです。

2預言は成就しているか

「『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない」(申命記18:21,22、エレミヤ28:9参照)。語っていることが、預言全体の比較的小さな部分であったとしても、その正しさは証明されなければなりません。

3キリストの受肉が認められているか

「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない」(1ヨハネ4:2,3)。このテストは単に、イエス・キリストが地上で生活されたことの認識以上のものを要求しています。真の預言者は、キリストの人生についての聖書の教えを、心から信じていなければなりません。すなわち、それはキリストの神性、先在性、処女降誕、真の人間性、罪なき生涯、あがないの犠牲、復活、昇天、仲保の働き、そして再臨といったものです。

4その預言者は良い実を結んだか、それとも悪い実か

預言は聖霊が、「聖なる神の人々」(2ペテロ1:21、KJV)、に霊感を与え、それによって語ったものです。わたしたちは、偽預言者をその実によって識別できます。イエスは言われました。「良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」(マタイ7:16,18-20)。

この勧告は、預言者の資格を評価する決定的なものです。これはまず、預言者の生活について言っています。しかし、預言者が完全でなければならないと言っているのではありません。聖書もエリヤについて、「わたしたちと同じ人間であった」(ヤコブ5:17)と言っています。とはいえ、預言者の生活は、肉の働きによってではなく、聖霊の実によって特徴づけられるべきです(ガラテヤ5:19-23参照)。

第二に、この原則は、預言者の他者に対する影響というものも含んでいます。預言者のメッセージを受け入れる者の生活には、どのような結果が伴ってくるのでしょうか。そのメッセージは、神の民を伝道に備えさせるでしょうか。そして、信仰による一致をもたらすでしょうか(エペソ4:12-16)。

預言の賜物を持っていると主張する者はだれでも、これらの聖書のテストを受けなければなりません。もし人がこれらの標準に合うならば、わたしたちは聖霊は誠にその人に預言の霊をお与えになったと確信することができるのです。

セブンスデー・アドベンチスト教会における預言の霊

預言の霊は、セブンスデー・アドベンチスト教会の設立者の一人でもあるエレン・G・ホワイトの働きの中に表されました。彼女は、終りのときに神の民が生きることができるように、霊感に満ちた導きを与えたのです。19世紀初頭、エレン・G・ホワイトが、神のメッセージを伝えはじめたとき、世の中は男性社会でした。それで、彼女が預言者として召されたことが、批判的に吟味されました。聖書的なテストを経て、彼女は預言の賜物をとおして70年間にわたり、伝道の働きを続けました。1844年、彼女が17歳のときから、1915年、彼女の亡くなるまでの間、彼女には二千以上の幻が与えられました。その間、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアに住み、勧告し、新しい事業を始め、教え、また著述を行い、働いたのです。

エレン・ホワイトは、自分のことを預言者だと言ったことはありません。しかし、他人がそのように呼んだとき、それに反対したこともありませんでした。彼女はこう説明しました。「以前若かったころ、わたしは何度も、あなたは預言者ですか、と尋ねられました。わたしは、神のメッセンジャーですといつも答えてきました。わたしは多くの人が、わたしのことを預言者と呼んでいるのを知っていました。しかし、わたしはそのような呼称を主張したことはありませんでした。…どうして、わたしは自分が預言者だと主張しないかですって。――それは、今日、ずうずうしくも自分は預言者だと主張する者が多いけれど、彼らはキリストの悪いイメージを伝えているばかりだからです。更にわたしの仕事は、『預言者』という言葉の意味する以上の働きを含んでいるからです。…わたしは、自分が女預言者だと言ったことは決してありません。たとい他の人がわたしをそのように呼んだとしても、彼らと争うつもりはありません。しかし、わたしの働きは多分野にわたっているので、自分のことをメッセンジャー以外の名で呼ぶことができないのです。」[13]

預言者の規範の適用

エレン・ホワイトのどのような働きが聖書の言う預言者の規範にかなうのでしょうか。

1聖書との調和

エレン・ホワイトのかなり多くの聖書のことばを含む書物では、しばしば詳細にわたるみことばの説明がなされています。注意深く調べてみるならば、彼女の書物は聖書と矛盾がなく、正しく、そしてみことばの要旨が充分に語り尽くされていることがわかります。

2預言の成就

エレン・ホワイトの書物には預言が含まれていますが、数はあまり多くはありません。あるものは成就しつつあり、あるものは成就を待っている状態です。しかし、テストされうるものは、驚くべき正確さで成就しています。彼女の預言的洞察について次の二つの例があります。

A現代心霊術の台頭

霊の世界や死者と交わるといったふれこみで人を引きつけた運動、いわゆる心霊術が起りはじめた1850年、エレン・ホワイトは、これは終りの日の欺まんであり、またこれは勢力を広げるであろうと預言しました。当時この運動は明らかに反キリスト的でした。彼女は将来、この敵がい心は変えられ、クリスチャンの間で尊重されるようになるであろうと預言しました[14]。そのとき以来、心霊術は世界中に広まり、数百万の支持者を得るに至りました。反キリストという立場は変えられました。実際、多くの者は自分たちをクリスチャン心霊術者と呼びました。そして、自分たちこそまことのキリスト教信仰をもっていると主張しているのです。また彼らは、「心霊術者こそは、キリストの約束の賜物を用いる唯一の宗教家であり、その賜物によって病人をいやし、未来の認識をもち、自分達こそ進歩的人間です」[15]と主張しているのです。彼らは、心霊術は「宗教にまつわるあらゆる知識を与え、更にクリスチャンの聖書の知識よりも、多くの解釈を伴った知識を与えます。聖書は心霊術の本です」[16]とさえ断言しているのです。

Bプロテスタントとローマ・カトリックの緊密な協力

エレン・ホワイトが生存中、プロテスタントとローマ・カトリックの間には溝があり、いかなる協力も受け入れないという状態でした。プロテスタントの中では、反カトリック主義が猛威をふるっていました。しかし、彼女はプロテスタンティズムの中に大きな変化があらわれ、プロテスタントは宗教改革の信仰から離れるであろうと預言しました。それは、プロテスタントとカトリックの間の差異が小さくなり、二つを分けていた溝に橋がかけられようになっていくというのでした[17]

彼女の死後、次のような状態がみられるようになりました。すなわち、エキュメニカル(教会合同)運動の台頭、世界教会協議会の設立、カトリック教会第二バチカン公会議、そしてプロテスタントの精神は忘れられ、宗教改革時の預言解釈を公然と否定するようになりました[18]。これらの大きな変化が、プロテスタントとカトリックの間にあった障害を取り壊し、ますます協力していくようになったのです。

3キリストの人性を認める

エレン・ホワイトは、広範囲にキリストの生涯について書き残しました。イエスの主としての、救い主としての役割、十字架におけるあがないの犠牲、現在のとりなしの働きなどに重きを置いて書かれています。その著作『各時代の希望』は、キリストの生涯を扱った本の中で、最も霊的な書物のひとつであると賞賛されています。と同時に『キリストへの道』は、広く配布された書物ですが、何百万という人々をキリストとの深い交わりへと導いてきました。彼女は、キリストを完全な神、完全な人として明確に描いています。彼女のバランスのとれた表現は、聖書の見解と完全に一致しています。彼女は、人性あるいは、神性のいずれかが強調されすぎることを極力避けてきました。いずれか一方を強調することが、キリスト教の歴史の中で多くの論争を引き起してきたのです。

彼女のキリストの働きに関する全般的な扱いは、実際的です。どの点が扱われていても、彼女の強い関心は、読者を救い主との密接な関係へと導くことにありました。

4エレン・ホワイトの働きの影響

エレン・ホワイトが預言の賜物を受けて以来、すでに1世紀以上経過しました。彼女の教会や、彼女の勧告に注意を払って生活した人の生き方は、彼女の生活とメッセージの影響力がいかに大きいものであったかを表しています。

「彼女は、何らかの役職についたこともないし、按手礼を受けた牧師でもありませんでした。また彼女の夫が亡くなるまでは、教会から給料を受け取ったこともありませんでした。しかし、聖書は別にしてセブンスデー・アドベンチスト教会を形づくっていくのに、彼女以上に影響を及ぼしたものは他にありませんでした。」[19]彼女は、出版事業、学校、医事伝道、そして世界中の隅々にわたる伝道――これらがセブンスデー・アドベンチスト教会を最も早く、最も大きなプロテスタント教会のひとつへと成長させた――を設立するに当り、陰の力となっていったのです。

彼女の著作は、80冊の本、200の小冊子、パンフレット、それに4600の雑誌の記事に及んでいます。説教、日誌、特別な証し、そして手紙が6万ページにわたる資料となっています。

その著作の範囲は驚くばかりです。エレン・ホワイトの専門知識は、狭い範囲に限定されるものではありません。主は彼女に、健康、教育、家庭生活、節制、伝道、出版伝道、正しい食事、医療の働き、その他多くの分野に関して勧告を与えられたのです。その中でも、恐らく健康に関する著述が最も驚くべきものでしょう。なぜなら、1世紀以上も前に与えられた彼女の洞察というものが、現代の科学によって確かめられてきているからです。

彼女の著書は、キリストに焦点をあてています。そして、ユダヤ教、キリスト教…と伝統的に継承されてきた高い道徳的価値を掲げているのです。

彼女の多くの著書は、セブンスデー・アドベンチスト教会に向かって書かれたものですが、かなり多くの本が幅広い読者に喜んで読まれてきました。彼女の有名な本、『キリストへの道』は、100以上の言語に翻訳され、1500万部以上販売されたのです。彼女の最も大きな著作は、5巻〔英文〕から成る各時代の争闘シリーズです。これもよく読まれています。ここには、罪の起源から、罪が宇宙から根絶されるまでのキリストとサタンの大争闘が詳細に描かれているのです。

エレン・ホワイトの著書が人々に与える影響は、大変大きいものです。最近、アンドリューズ大学の宣教研究所が、彼女の本をよく読むアドベンチストとそうでないアドベンチストとの生活態度と行動の比較研究を行いました。この調査によって、彼女の書物が、それらを読む人に与える大きな影響というものが浮きぼりにされてきました。研究の結果、次のような結論に達したのです。「読者たちは、キリストとのより緊密な関係を持つようになり、神と共に立っているのだという確信が与えられます。そして、自分に与えられた霊の賜物を確認できるようになります。彼らは喜んで公衆伝道に時間を費やすようになり、教会の伝道プログラムにもより責任をもって参加するようになります。彼らは、証しをするために、よりよい備えをしたいと思い、実際により多くの証しをし、伝道プログラムにも参加するようなります。彼らは、毎日聖書を学ぶようになり、特定の人のために祈り、集いに参加し、毎日家庭礼拝を行なうようになります。彼らは、教会に対する確信を深めます。そしてより多くの魂が救われるようにと責任を感じます[20]

預言の霊と聖書

エレン・ホワイトの著書は、聖書にとってかわるものではありません。この二つを同じレベルに置くことはできないのです。聖書は、それのみで立つものです。そして、独自の基準を持っています。彼女の書物もその他すべての書物も、この基準によって評価され、またその基準に従わなければならないのです。

1最高の標準、聖書

セブンスデー・アドベンチストは宗教改革の信条である、聖書のみということ、また聖書はそれ自体が注解書であるということ、そして聖書のみがすべての教理の土台であるということを支持しています。教会の設立者たちは、聖書の学びをとおして、基本的な教義を確立していきました。彼らは、これらの教理を、エレン・ホワイトの幻をとおして与えられたのではありませんでした。教理を確立する段階で、彼女の果した重要な役割は、聖書理解の助けと、聖書研究をとおして導き出された結論を、より確かなものにするということでした[21]

エレン・ホワイト自身は、聖書が教会に対する最終的基準であると信じまた教えていました。1851年に出版された最初の本の中で彼女はこう言っています。「愛する読者方。わたしは、あなたがたの信仰と行為の基準として、神のみ言葉を推薦する。われわれは、その言葉によって裁かれる。」[22]彼女はこの見解を変えていません。ずっと後になって、彼女はこう書きました。「神は、み言葉を通して、救いに必要な知識を人間にお与えになった。われわれは、聖書を、神のみこころについての権威ある、まちがいのない啓示として受けとらねばならない。聖書は品性の規準であり、教理を示すものあり、経験を吟味するものである。」[23]1909年に開かれた教団総会で、彼女が最後に述べたのは、聴衆の前で聖書を開いてそれを高く掲げ、「兄弟姉妹方、私はこの聖書をお勧めします」[24]という言葉でした。

彼女の書物は聖書に附加されるべきものだと考える信徒に答えてこう書きました。「わたしは、このすばらしい聖書を手にしています。そして、神の民のために与えられた『教会への勧告』で聖書を取り囲みました。…あなたがたは聖書をまだよく知りません。もしあなたがたが聖書の標準に到達し、完成されたクリスチャンとなることを願って聖書を研究していれば、『勧告』は必要でなかったでしょう。

神は、単純で具体的な勧告によってあなたがたを導こうと求めてこられました。神は、あなたがたが従うことを拒んだ霊感のことばに注意をひきつけ、清らかで高尚な教えに従って生活するように強く勧めてこられたにもかかわらず、あなたがたが神の霊感に満ちたことばに目を向けるのを拒んだためです。」[25]

2聖書への案内書

彼女は、自分の仕事は人々を聖書に立ち返らせることだと考えていました。従って彼女はこう言いました。「神は人々を大きい光へ導くために小さい光をお与えになった。」[26]また、彼女は次のように書いています。「神のみことばは、ほとんどくもってしまった心を照らすのに充分であり、みことばを理解したいと望む者には、それができるのです。にもかかわらず、みことばを研究したいと告白する者の中に、はっきりした教えに真向から反して生活している者がいます。そこで人々が弁解できないように、そして人々が従うことを拒んだそのみことばに立ち返らせるこめに、神はわかり易く、的確な証しをお与えになったのです。」[27]

3聖書を理解するためのガイド

エレン・ホワイトは、自分の著書は聖書をより明らかにするためのガイドだと考えていました。「補足的真理が明らかにされたのではありません。そうではなく、神は『勧告』を通して、すでに与えられている偉大な真理をわかりやすくされたのです。そして、覚醒し、印象づけるために、ご自分の選ばれた方法で、人々の前にこの勧告を提示されたのです。従ってすべての人は、もはや弁解の余地がないのです。」「書き表された勧告は、新しい光を与えるためではなく、すでに啓示された霊感の真理を心に生き生きと印象づけるために与えられたのです。」[28]

4聖書の原則を適用するためのガイド

エレン・ホワイトの著書の多くは、聖書の勧告を日々の生活に適用させようとするものです。彼女は次のように言っています。彼女自身は「ことばと書物によって一般原則を伝えるように示されました。そして同時に、ある人々の危険、まちがい、罪といったものをひとつひとつあげています。これは、すべての人がこれによって警告を受け、叱責され、勧告を受けるためです。」[29]キリストは、教会にこのような預言的導きがあることを約束なさいました。エレン・ホワイトが書いているように「神がみことばを通してみこころを人間に啓示されたからといって、聖霊のたえざる臨在とみちびきが不要になったわけではない。それどころか、聖霊は、みことばを神のしもべたちに開き、その教えを解明して実行に移させるために、救い主によって約束されたのである。」[30]

信徒への挑戦

地球歴史の最後の日に、「預言の霊」をとおして「イエスのあかし」は自らを証明するでしょう。このヨハネの黙示録の預言はひとりびとりにまちがった態度や、不信仰な態度を取らないよう強く勧め、「あらゆるものをテストし」、「良きものにつながっているよう」勧めています。得るものが多くあるか、あるいは失うものが多くあるかは、わたしたちが聖書の命じている自己吟味を、実施するか否かにかかっています。ヨシャパテは言いました。「あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう」(歴代志下20:20)。神の言葉は今日も同様に、真理の鐘を鳴らしているのです。

[1]傍点付加。

[2]聖書の女預言者については次を参照。出エジプト15:20、士師4:4、列王下22:14、ルカ2:36、使徒21:9。

[3]フランク・B・ホルブルック「現代預言者の聖書的根拠」Frank B. Holbrook,“The Biblical Basis for a Modern Prophet”)、1ページ、(未刊行原稿、Elien G. White Estate. Inc., General Conference of SDA)。ジェミソン『あなたがたの間の預言者』Jemison, A Prophet Among You(Mountain View, CA・ Pacific Press, 1955)、52-55ページ参照。

[4]ホルブルック「現代の預言者」Holbrook,“Modern Prophet”、3-5ページ参照。

[5]キリスト教の歴史をとおして起ったできごとについての完全な記録というのは、残念ながらありません。

[6]ゲルハルト・フリートリヒ「新約聖書の預言者と預言」『新約聖書神学事典』Gerhard Friedrich,“Prophets and Prophecies in the New Testament,”Theological Dictionary of the New Testament)、第6巻、859ページ。

[7]フリードリッヒ860,861ページ参照。

[8]「イエスのあかし」という表現は、目的格属格よりも主格属格として理解する方がよいでしょう。「二つの解釈が可能です。a、イエスについての、あるいはイエスに関するあかし(目的格属格)=イエスについて、クリスチャンの行うあかし、「イエスのあかしをする者」(RSV)。b、イエスからあるいはイエスによってなされるあかし(主格属格)=教会に対するイエスからのメッセージ。ヨハネの黙示録の中でのこの表現の使われ方からすれば、主格属格(イエスからあるいはイエスによってなされるあかし)として理解すべきこと、またこのあかしは預言的な啓示をとおして与えられることを教えています。」(ホルブルック「現代の預言者」((“Modern Prophet”))、7ページ)。ホルブルックは、ひとつの証拠としてヨハネの黙示録1章1、2節をあげています。「イエス・キリストの黙示録。この黙示録は、神が…僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストがみ使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものです。ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかししました。」この文脈から、「イエスの黙示録」というのは、イエスから、あるいはイエスによってヨハネに伝えられた黙示録を表していることは明らかです。ヨハネは、このイエスからのあかし(目撃したこと)を記録しているのです。二つの属格表現は、主格属格としてみるとき、意味が通じ、キリストがヨハネの黙示録の最後の部分で語られたことば、「これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』(黙示録22:20)」とも調和します(同7,8ページ)。

[9]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、改訂版、第7巻、812ページ参照。T・H・ブリンコ「預言者はヨハネまでだった」『ミニストリー』T. H. Blincoe,“The Prophets Were Until John,”Ministry, Supplement(July, 1977)、24ページ」。ホルブルック「現代の預言者」Holbrook,“Modern Prophet”、8ページ。

[10]ジェームス・モファット(Games Moffatt)が『注解者のギリシヤ語聖書』W. Robertson Nicoll, ed., Expositor’s Testament、第5巻、465ページにおいて述べたもの。

[11]「預言の霊」『セブンスデー・アドベンチスト百科辞典』(“Spirit of Prophecy,”SDA Encyclopedia)、改訂版、1412ページ。再臨を待ち望む者は、確かなものとされたキリストのあかしを持ち、恵の賜物にいささかも欠けることはないとパウロは言いました(1コリント1:6,7)。

[12]ユライヤ・スミス「幻を是認することにより、聖書を捨てるのか?」『レビュー・アンド・ヘラルド』Uriah Smith,“Do We Discard the Bible by Endorsing the Visions?”Review and Herald(Jan. 13, 1863)、52ページ、『レビュー・アンド・ヘラルド』Review and Herald(Dec. 1, 1977)、13ページに引用。

[13]ホワイト「メッセンジャー」『レビュー・アンド・ヘラルド』White,“A Messenger,”Review and Herald(July 26, 1906)、8ページ。「主のメッセンジャー」という呼び名は霊感によって与えられました(同)。

[14]ホワイト『初代文集』(福音社、1976年)、131ページ。

[15]J・M・ピーブルズ「誤解されている心霊術という言葉」『アメリカにおける現代心霊術百年記念書』J. M. Peebles,“The Word Spiritualism Misunderstood,”in Centennial Book of Modern Spiritualism in America(Chicago, IL・ National Spiritualist Association of the United States of America, 1948)、34ページ。

[16]B・F・オースチン「役に立つ思想」『現代心霊術百年記念書』B. F. Austin,“A Few Helpful Thoughts,”Centennial Book of Modern Spiritualism、44ページ。

[17]ホワイト『各時代の大争闘』、下巻(福音社、1974年)、328,350ページ。

[18]19世紀までに宗教改革から切り離し、プロテスタンティズムを支配してしまったダニエル書およびヨハネの黙示録に関する歴史家の見解については、次のものを参照。フルーム『われわれの父祖たちの預言信仰』Froom, Prophetic Faiths of Our Father、2-4巻。本書第12章も参照。

[19]リチャード・ハミル「現代教会の霊の賜物」『ミニストリー』Richard Hammil,“Spitual Gifts in the Church Today”, Ministry(July, 1982)、17ページ。

[20]ロジャー・L・ダドレー、デス・カミングズ・ジュニア「エレン・ホワイトの書物を読むアドベンチストと読まないアドベンチストの態度と行動の比較」Roger L. Dudley and Des Commings, Jr.,“A Comparison of the Christian Attitudes and Behaviors Between Those Adventist Church Members Who Regularly Read Ellen White Books and Those Who Do Not,”(1982年)、41,42ページ。アンドリューズ大学「教会活動研究所報告」調査対象は、合衆国の193の教会に出席している8,200名以上の人々でした。

[21]ジェミソン『あなたがたの間の預言者』Jemison, A Prophet Among You、208-210ページ。フルーム『運命の運動』Froom, Movement of Destiny(Whashigton, D. C. Review and Herald, 1971)、91-132ページ。ダムステイーグト『セブンスデー・アドベンチストの使命と働きの土台』Damsteegt, Foundations of the Seventh-day Adventist Message and Mission、103-293ページ。

[22]ホワイト『初代文集』(福音社、1976年)、160ページ。

[23]ホワイト『各時代の大争闘』、上巻(福音社、1974年)、序、3ページ。

[24]ウィリアム・A・スパイサー『再臨運動における預言の霊』William A. Spicer, The Spirit of Prophecy in the Advent Movement、30ページ。

[25]ホワイト『教会への証』White, Testimonies、第5巻、664,665ページ。

[26]ホワイト「公開書簡」『レビュー・アンド・ヘラルド』White,“An Open Letter,”Review and Herald(Jan. 20, 1903)、15ページ。ホワイト『文書伝道者』(福音社、1970年)、125ページに引用。

[27]ホワイト『教会への証』White, Testimonies for the church、第5巻、663ページ。

[28]同・665ページ。

[29]同・660ページ。

[30]ホワイト『各時代の大争闘』、上巻(福音社、1974年)、序、4ページ。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

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