結末【ヨブ記】#1 

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学生たちは作文の授業で、作品にとって良い結末がいかに重要であるかを教えられます。とりわけ、すべてが作りもののフィクションでは、満足のいく締めくくりで物語を終わらせる必要があります。しかしノンフィクションにおいても、良い結末は重要です。

しかし、現実はどうでしょうか。本のページの中や映画の脚本の中の人生ではなく、生身の人間が生きる人生ではどうですか。私たち自身の物語はどうですか。私たちの物語にはどのような結末がありますか。それらはどのように終わりますか。良い作品のように、すばらしい終わり方をするでしょうか。

どうもそのようになるとは思えません。私たちの物語は常に死で終わるというのに、どうしてめでたく終わったりするでしょうか。その意味で、私たちが幸せな結末を迎えることは決してないのです。死が喜ばしいときなどありますか。

ヨブの物語についても同じことが言えます。その結びの部分は、少なくともヨブが苦しんだあらゆることと対比して、しばしば幸福な結末として描かれますが、実のところ、それはさして幸せなものではありません。なぜなら、この物語も死で終わっているからです。

今回、ヨブ記の研究を始めるに当たって、私たちはその結末から始めます。というのも、それは私たちの結末——現世の結末のみならず、永遠の結末——に関する疑問を提起するからです。

「それからずっと幸せに……」

童話はしばしば次のような一文でしめくくられます。 「それからずっと幸せに暮らしましたとさ」。いくつかの言語において、それは決まり文句同然です。その全体的な意味は、(さらわれた姫、意地悪な狼、悪い王など)どんな物語であれ、男性主人公と(たぶん)彼の新妻とが最後に勝利するということです。

少なくとも一見したところ、ヨブ記はそのような終わり方をしています。身に降りかかったあらゆる試練と災難ののち、ヨブ記は比較的明るいとしか言いようのない雰囲気で終わっています。

物語全体の最後の箇所であるヨブ記42:10~17を読んでください。ヨブが人生をどう終えたかについて、疑問の余地はありません。もしあなたがだれかに、主人公にとってめでたい形で終わる聖書の書巻、「それからずっと幸せに……」的な結末を持った書巻を尋ねるなら、多くの人がヨブ記の名前を挙げることでしょう。

何しろ、物語が終わるときにヨブが持っていたすべてのものに目を向けてください。(エリファズ、ビルダド、ツォファル、エリフ、ヨブの妻を除いて)試練の間、周りにいなかった家族や友人たちがやって来て、ヨブを慰めます。彼らは気前もよく、銀や金をヨブに贈りました。物語が終わるとき、ヨブは物語の最初に持っていたものの2倍を、少なくとも物質的な富においては手にしています(ヨブ42:12と1:3を比較)。彼は、亡くなった7人の息子と3人の娘に代わる(同1:2、18、19参照)7人の息子と3人の娘、つまり10人の子どもを新たに得、最初の娘たちに関しては何も言われていませんが、〔あとから得た〕「ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった」(同42:15)と記されています。しかも、死が間近に迫っていたはずのヨブは、さらに140年間生き、「年老い、日満ちて死んだ」(同42:17、口語訳)のでした。「日満ちて」に相当するヘブライ語の句は(興味深いことに、ときとして「年が満ちて」〔口語訳〕とも訳され)、アブラハム(創25:8)、イサク(同35:29)、ダビデ(代上29:28)の最後の日々を描くためにも用いられています。この表現は、死という、まったく不幸な出来事の際にも、その人が比較的良い、幸せな立場にいたことをあらわしています。

不幸な結末

ヨブ記は、「年老い、日満ちて死んだ」ヨブにとって、物事がうまく行っている状態で締めくくられています。私たちがみな知っているように、しかも、いやというほどわかっているように、多くの人の場合、物語はそのようには終わりません。忠実で、立派で、高潔であった人たちでさえ、必ずしもヨブのような状況で終わるとは限らないのです。

問1

聖書の次の登場人物たちにとって、物語はどのように終わりましたか。アベル(創4:8)、ウリヤ(サム下11:17)、エリ(サム上4:18)、ヨシヤ王(代下35:22~24)、バプテスマのヨハネ(マタ14:10)、ステファノ(使徒7:59、60)

ご覧のとおり、聖書は幸福な結末で終わらない物語であふれています。それは、人生そのものがそのような物語であふれているからです。大義のために殉教しようと、ひどい病気のために死のうと、苦痛と悲惨ばかりの人生を送ろうと、多くの人はヨブのように立派に試練を乗り越えるわけではありません。それどころか、正直なところ、物事はどのくらいの頻度で、ヨブの場合のようにうまくいくでしょうか。その悲惨な事実を知るために、私たちは聖書を必要としません。私たちの間に、不幸な結末を知らない人がいるでしょうか。

(部分的な)回復

確かに、聖書のほかの登場人物や大抵の一般の人々の物語とは対照的に、ヨブの物語は明るい雰囲気で終わっています。聖書学者たちは、ヨブの「回復」について時折語ります。そして実際、ある意味で、多くのものが彼に戻されました。

しかし、もしそれがこの物語の完全な終わりであるなら、公正を期して言えば、物語は本当に終わるのでしょうか。確かに、ヨブにとって事態はかなり好転しましたが、それでもやはり彼は最終的に死んだのです。彼の子どもたちもみな死にました。彼の孫たちも、そのあとの子孫もみな死にました。そして彼らも、私たちがみな体験するのと同じ人生の痛手や試練の多くを、ある程度、体験したに違いありません。こういった痛手や試練は、堕落した世界における現実です。

そして私たちが知る限り、ヨブは彼の身に降りかかったすべての災難の裏側にある理由をまったく知りませんでした。確かに、彼は多くの子どもを得ましたが、失った子どもたちに対する彼の悲しみや嘆きは、どうだったのでしょうか。きっと彼が残りの人生の間抱え続けた心の傷は、どうだったのでしょうか。ヨブは幸福な結末を迎えましたが、それは完璧に幸福な結末ではありませんでした。数え切れないほどの未解決なこと、答えられていない疑問が残っています。

聖書は、主が「ヨブを元の境遇に戻し(た)」(ヨブ42:10)と、とりわけ先に彼を襲ったことと対比して、主が確かにそうなさった、と述べています。しかし多くは、不完全なまま、答えられぬまま、実現せぬまま残ったのでした。

これは意外なことではないはずです。結局のところ、この世においては現状がそうであるように、私たちの「結末」が良かろうと悪かろうと、不完全なまま、答えられぬまま、実現せぬまま残るものが何かしらあります。

それゆえ、ある意味においてヨブの結末は、あらゆる人間の悲しみや苦しみの真の結末の象徴と見ることができるかもしれません。それは、私たちがイエス・キリストの福音によって持っている、(ヨブの回復を色あせさせるような)十全で完全な回復という究極の希望と約束を予示しています。

問2

Iコリント4:5を読んでください。この聖句は、この世において、答えられぬまま、実現せぬまま、未完成なまま残るものがあることに関して、何と述べていますか。その代わり、どんな希望を私たちに示していますか。

最後の王国

何よりも、聖書は歴史に関する書物です。しかし、単なる歴史書ではありません。聖書は、過去の出来事、歴史的事件について語り、(とりわけ)それらを用いて私たちに霊的教訓を与えています。過去の出来事を用いて、私たちが今ここにおいていかに生きるべきか、そのことに関する真理を私たちに教えています(Iコリ10:11参照)。

しかし、聖書は過去について述べているだけではありません。それは未来についても語ります。すでに起こった出来事だけでなく、これから起こる出来事についても私たちに教えています。聖書は私たちに未来を、終末時代さえも指し示しています。終末の諸事件をあらわす神学用語は、「終わり」を意味するギリシア語から派生した「エスカトロジー」です。ときとしてこの用語には、死、裁き、天国、地獄などに関する思想が含まれますし、私たちが持っている新しい世界における新しい命という希望の約束も含まれます。

聖書は私たちに、終末時代に関する多くのことを教えています。確かに、ヨブ記はヨブの死で終わっていますが、もしこれだけが私たちの読むべき書巻であるなら、ヨブの物語は私たちの物語と同様に死で終わった、そういうことだ、と人は思うでしょう。ほかに期待すべきものはありません。なぜなら、私たちがわかり、知っている限りにおいて、そのあとには何もやって来ないからです。

しかし、聖書は私たちに別のことを教えます。終末時代には、神の永遠の王国が打ち建てられ、それは永遠に存在し続け、贖われた者たちの永遠の住まいになると、聖書は教えています。現れては消えるこの世の王国と違い、神の王国は永遠に続きます。ダニエル2:44、7:18を読んでください。

「贖罪の大いなる計画は、この世界を完全に神の恵みのもとに引きかえす。罪によって失われたすべてのものが回復される。人間ばかりでなく、地も贖われて、従順な者たちの永遠のすみかとなる。6000年のあいだ、サタンは地の所有を維持しようと努力してきた。だが、今や創造当初の神のみ旨が完成される。『いと高き者の聖徒が国を受け、永遠にその国を保って、世々かぎりなく続く』(ダニエル7:18)」(『希望への光』175ページ、『人類のあけぼの』上巻403ページ)。

確かに、ヨブ記はヨブの死で終わりました。彼や私たちにとっての良き知らせは、ヨブ記の結末がヨブの物語の結末ではないということです。そして私たちの死も、私たちの物語の結末ではありません。

復活と命

問3

ヨブ記14:14、15(新改訳、口語訳)を読んでください。ヨブはどんな質問をしていますか。彼は彼なりに、どのようにそれに答えていますか。

ヨブ記における主題の一つは、死の問題を扱うことです。扱わないわけがありません。言うまでもなく、人間の苦しみに目を向けるどんな本も、私たちの苦しみの多くの源である死について考えざるをえないからです。ヨブは、死者は「生き返るでしょうか」(ヨブ14:14、新改訳)と問い、続いて、「私の代わりの者が来るまで待ちましょう」(同)と言っています。「待つ」に相当するヘブライ語は、希望も暗示します。それは、ただ何かを待っているのではなく、期待しながら待っています。

そして、彼が期待しながら待っているのは、彼の「代わりの者」でした。この言葉は、「更新」「交換」といったことを意味するヘブライ語から派生したもので、しばしば服を着替えることです。この言葉自体は広い意味を持ちますが、(死のあとにどんな「更新」がなされるのかと尋ね、ヨブがそれを期待しているという)文脈からすると、この変化は死から生への変化——神が「御手の業であるわたしを尋ね求め」(ヨブ14:15)られる時——以外の何物でもないでしょう。

言うまでもなく、私たちの最大の希望、死が終わり(結末)ではないという最大の約束は、イエスの生と死と働きを通じて私たちにもたらされます。「〔新約聖書〕は、キリストが人類の最も苦々しい敵である死を打ち負かし、神が死者たちを最後の裁きのために復活なさると教えている。しかしこの教理は、キリストの復活のあと……聖書の信仰の中核となる。なぜなら、それは、キリストが死に勝利されたことによって確証を得たからである」(ジョン・E・ハートリー『ヨブ記』英文、237ページ)。

さらなる研究

ヨブの身に降りかかったひどい災難にもかかわらず、彼は神に忠実であり続けただけでなく、失った以上のものを戻されました。しかしヨブ記の大半と同様、ここにおいてもなお、疑問は答えられぬままです。確かに、ヨブ記は聖書の中の一つの書巻にすぎず、神学全体を一つの書巻の上に構築することは間違っているでしょう。私たちには聖書の残りの書巻があり、それらはヨブ記で扱われている難問の多くに関する理解を一層深めているからです。とりわけ新約聖書は、旧約聖書時代に十分に理解されえなかった多くのことを明らかにしています。恐らくその最大の例は、聖所の奉仕の意味でしょう。忠実なイエスラエルの民が動物の死と犠牲制度全体についてどれほど理解していたとしても、イエスと彼の十字架上の死という啓示を通してのみ、この制度はより一層明らかになります。ヘブライ人への手紙は、犠牲制度全体の真の意味の多くを浮かび上がらせる助けになります。

そして今日、私たちは「いま持っている真理」(IIペト1:12、口語訳、「現代の真理」とも訳される)を知る機会に恵まれ、ヨブよりも諸問題に対する多くの光を確かに与えられていますが、依然として答えられぬままの疑問を抱えながら生きることも身に着けなければなりません。真理の開示は漸進的であり、現在すでに大いなる光が私たちに与えられていますが、学ぶべきことはまだたくさんあります。それどころか、私たちは次のように言われています——「贖われた群衆は、さまざまな国から集められた者たちであり、彼らの多くの時間は、贖いの神秘を探るために用いられるであろう。そして永遠にわたって、この主題は絶えず彼らの探求の対象となるのである」(『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』1886年3月9日号)。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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