神と人間の苦しみ【ヨブ記】#4

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聖書の中のどの書巻とも違って、ヨブ記の背景はイスラエルの人々やその国(土地)からまったく切り離されています。主がアブラハムに、「あなたを大いなる国民に(する)」(創12:2)と約束された創世記から、「聖なる都」(黙22:19)について描いている黙示録に至るまで、何らかの形で、直接的あるいは間接的に、イスラエルや、彼らと神の契約関係という背景が、各書巻の形成に一役買っています。

しかし、ヨブ記にはそのようなものが、古代イスラエル史の中で重大な出来事であった出エジプトさえ、一切含まれていません。その最も直接的な理由は、モーセがヨブ記をミディアンの地で、創世記とともに書いたからです(『SDA聖書注解』第3巻1140ページ、英文参照)。出エジプトがまだ起きていなかったということが、なぜヨブ記の中で言及されていないかを説明しています。

しかし、恐らくもう一つの理由、もっと重要な理由があります。ヨブ記の主要なテーマの一つである人間の苦しみが普遍的である、ということです。それはいずれかの人や時代に限定されません。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、私たちはみな、ヨブの苦悩、堕落した世界に生きることの苦痛を多少なりとも知っています。ヨブの苦痛がどれほど特殊であったとしても、彼は苦しみの中にある私たちを象徴しています。

自然界の中の神

問1

ローマ1:18~20を読んでください。パウロはここで何と言っていますか。

なんと説得力のある文章でしょうか。神の存在は「被造物」(ロマ1:20)、つまり創造されたこの世界によって十分に明らかにされており、人間には不信心に対する「弁解の余地がありません」(同)。パウロは、天地創造のときから、人間だけが神の存在とその御性質を十分に知ることができ、それゆえ、人間は裁きの日に公正に有罪とされうるのだ、と言っています。

自然界が神の存在について多くのことを私たちに示していることは、間違いありません。現代科学も、私たちの祖先が300年ほど前でさえ、ましてや3000年前には想像もできなかった天地創造の驚異に関する詳細を明らかにしてきました。そこには興味深い皮肉もあります。科学は、命の中に複雑さを見いだせば見いだすほど、命が偶然によるものだとますます主張できなくなっています。例えば、設計された形を持ち、設計されたように動き、中も外も設計されたとおりで、設計されたようにしか動かないスマートフォンは、言うまでもなく、設計されたものです。ところが、設計された姿を持ち、設計されたように行動し、中も外も設計されたとおりで、設計されたようにしか動かない人間は、単なる偶然の産物にすぎないというのです。悲しいことに、多くの人がこのような主張を信じるようにだまされています。

問2

ヨブ記12:7~10を読んでください。ここでの言葉は、ローマ1:18~20であらわされている考えを、どのように反映していますか。

この箇所も、神の存在は創造された世界の中に明らかだ、と告げています。自然界は、とりわけその堕落した状態において、神の御品性を十分にはあらわしていませんが、神の創造力と善意という側面は確かに啓示しています。

それ自体から生じたものは何もない

神の存在を支持する十分で、説得力のある根拠がたくさんあります。創造された世界のあかしに加えて、いわゆる「宇宙論的証明」と呼ばれるものもあります。要するにそれは、それ自体から生じたものは何もない、また、それ自体を創出したものは何もない、という考えです。そうではなく、創造されたものは、それより前に存在した何かによって創造されたということ、何であれ創造されたものは、それより前に存在した何かによって創造されなければならないということです。これは、創造されなかった何か、常に存在してきた何か、存在しなかったことのない何かに私たちが至るまで、延々と続きます。そしてそれは、聖書の中に描かれている神以外にありません。

問3

次の聖句は、あらゆるものの起源について、どのようなことを教えていますか。

黙示録4:11

コロサイ1:16、17

ヨハネ1:1~3

これらの聖句は、何が天地創造の最も論理的な説明であるか——永遠の昔から存在される神——を教えています。神という考えに真っ向から反対する思想家の中には、代替案を出している者たちもいます。全能で永遠の神が宇宙を創造されたのではなく、「無」が宇宙を創造したというのです。かつてニュートンが占めていた椅子に現在座っているスティーブン・ホーキングのような有名な科学者でさえ、「無」が宇宙を創造したと主張します。「重力のような法則があるおかげで……宇宙は無から生成できます」(『ホーキング、宇宙と人間を語る』エクスナレッジ、252ページ)。確かにホーキングは彼の考えを説明するために、難解で複雑な多くの数学を用いますが、私たちは不思議に思わざるをえません。科学革命が始まってから少なくとも400年が過ぎ、世界最高の科学者の1人が、宇宙とその中にあるものは「無」から生じた、と論じています。しかし、偉大な科学者が語ったとしても、間違いは間違いです。

最古の書巻

神を信じない者たちのうそにもかかわらず、神を信じる者たちには、自分たちの信仰の正当な理由がたくさんあります。しかし、神を信じないことを正当化するために、多くの人が昔から用いてきた長年にわたる問題が一つあります。それが、人間の苦しみと災いという問題です。災いが存在するのに、どうして神が憐れみ深く、愛情深く、全能でありえるのか……。このことは、これまで多くの人にとってつまずきの石でしたし、今もなおそうです。しかも私たちが正直になるなら、神を信じる者、神とその愛の現実を味わい、体験してきた者たちで、ときとしてこの問題に苦しまなかった人がいるでしょうか。

さて、ユダヤ人の言い伝えは、モーセがヨブ記をミディアンの地で書いたと教えていますが、エレン・G・ホワイトもそう教えたというのは、なんと興味深いことでしょう。「荒れ野での長年にわたる孤独は、無駄にはならなかった。モーセは彼の前に備えられた偉大な働きの準備をしていただけでなく、その間に、聖霊の導きのもとで創世記と、時の終わりまで神の民によって深い関心をもって読まれるヨブ記をも記した」(『SDA聖書注解』第3巻1140ページ、英文)。

聖書の最初の2巻のうちの一つであるヨブ記は、人間の痛みと苦しみという普遍的な問題を扱っているのだと、この言葉は告げています。つまり神は、この問題が人類にとって大きな問題になることをご存じであり、それゆえ最初から、モーセを用いて聖書の中にヨブの物語を書かせられたのでした。神は、私たちが痛みと苦しみの中に置き去りにされたりしないこと、神がその場にいて、すべてをご存じであり、最後にはそれを正されるという希望があることを、早くから私たちに知らされたのです。

次の聖句は災い(苦難)の存在について教えています(マタ6:34、ヨハ16:33、ダニ12:1、マタ24:7)。災いによって神の存在を否定する議論は、いかに理解できるものであったとしても、聖書の光に照らすなら意味を成しません。聖書は、全知全能で、愛情深い神の存在を教えていますが、同時に、災いや人間の苦悩が存在することも教えているからです。災いは、神を信じない言い訳にはなりません。実際、ヨブ記をざっと読むなら、ヨブがすっかり落ち込んださなかにあっても、神の存在をまったく疑わなかったことがわかります。疑問は、なぜこれらのことが彼の身に起こっているのかという、もっともなものでした。

難問

問4

ヨブ記の次の聖句を読んでください。ヨブはどんな問題と格闘していますか(ヨブ6:4~8、9:1~12)。彼はどんな質問はしていませんか。

昨日の研究の中で述べたように、神の存在の問題はヨブ記にはまったく登場しません。そうではなく、疑問は、なぜヨブがこのような試練をくぐっているのか、というものでした。そして、彼の身に起こったあらゆることを考えるなら、とりわけ彼は神を信じていたのですから、それは確かにもっともな疑問でした。

例えば、誰かが無神論者で試練が襲いかかるとしたら、理由に関する答えは、その人にとって比較的単純でわかりやすいものになるでしょう。私たちは意味も目的もない世界、私たちにまったく関心のない世界に住んでいます。、私たちを取り囲む厳しくて冷酷で思いやりのない自然の力の中で、ときとして何の意味もない試練の犠牲者になります。なぜそうなるのでしょうか。もし人生そのものに意味がないなら、その人生に伴う試練も意味がなくなるからです。

多くの人が、このような答えは満足のいかない絶望的なものだ、と思うかもしれませんが、神が存在しないという前提を考慮するなら、それは確かに筋が通っています。一方で、ヨブのような人にとってその難問は異なります。

問5

ヨブ記10:8~12を読んでください。これらの聖句は、ヨブが格闘していた大きな疑問を理解するうえで、いかに助けとなりますか。

確かに、ヨブが格闘している疑問は、神を信じる多くの者がこれまで格闘してきた、そして今も格闘している疑問と同じものです。もし善良で愛情深い神が存在されるのなら、なぜ人間はこのように苦しむのだろうか……。なぜヨブのような「良い」人たちが、しばしば何の価値も生み出さないように思える試練や災難を体験するのでしょうか。またもや、もしこの宇宙に神が存在されないのなら、その答えは単純でしょう。私たちが純粋に物質的な世界に、つまり人間が原子と分子の偶然の副産物にすぎない世界に生きているからです。ヨブはそれ以上のことを知っていました。私たちもそうです。だから悩むのです。

神義論

ローマ3:1~4を読んでください。直近の文脈は、一部の神の契約の民の不誠実さですが、パウロがここで語っているもっと大きな問題があります。

パウロは詩編51:6〔口語訳51:4〕を引用しながら、いかに主御自身が「言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」(ロマ3:4)かについて述べています。ここで提示されている考えは、聖書のさまざまな場所に登場する一つの主題で、神義論と呼ばれています。悪事(災い)が存在するにもかかわらず神が善であると理解しようとする問題です。これは、私たちが今回ずっと研究してきた昔からの問題です。実際、大争闘は、それ自体がまさに神義論です。人類の前で、天使たちの前で、全宇宙の前で、この世に広がる悪にもかかわらず、神が善であることが明らかにされます。

「長年にわたって争われてきた真理と誤謬のすべての問題が、今明らかにされた。反逆の結果、すなわち神の律法を廃することの結果が、すべての知的被造物の目の前で明らかになった。神の統治と対照的なサタンの支配が行われた結果が、全宇宙の前に公開された。サタン自身の行為が、彼を罪に定めたのである。神の知恵と正義といつくしみとが、完全に擁護される。大争闘における神のすべての処置は、ご自分の民の永遠の幸福のために、そして神の創造されたすべての世界の幸福のために行われたものであることが明らかになる」(『希望への光』1926、1927ページ、『各時代の大争闘』下巻457ページ)。

罪と苦しみの世に浸かっているので、現在の私たちには理解しがたいかもしれませんが(わたしたちに理解しがたいのなら、ヨブにとってなおさらでしょう)、すべてが終わるとき、人類、サタン、罪に対する神のあらゆる扱いの中に、神の善、正義、愛、公平を見ることができるでしょう。このことは、この世に起こるあらゆる物事が良いという意味ではありません。明らかにそうではありません。それはただ、神があらゆることを最善の方法で扱っておられ、罪によるこのようなひどい体験が終わるときに、私たちが「全能者である神、主よ、あなたの業は偉大で、驚くべきもの。諸国の民の王よ、あなたの道は正しく、また、真実なもの」(黙15:3)と叫べることを意味するにすぎません。

さらなる研究

クリスチャン作家で護教論者のC・S・ルイスは、彼の妻の死とその死を受け入れる格闘について本を書きました。その中で、彼は次のように述べています。

「わたしが神を信じなくなる危険が大きいわけではない(と思う)。ほんとうの危険は、神に関してこのようなおそろしいことを信じるようになるということだ。わたしが怖れる結論は、『それではけっきょく神はないのだな』ではなくて、『それじゃ神の、ほんとうのありていがこれなんだな。もう欺かれてはならないぞ』なのだ」(『ルイス宗教著作集6——悲しみをみつめて』新教出版社10ページ)。

これもまた、ヨブ自身が格闘した問題です。すでに触れたように、彼は神の存在を決して疑いませんでした。彼が苦しんでいたのは、神の御品性に関する問題でした。ヨブはそれまで忠実に主に仕えていました。彼は「良い」人でした。それゆえに彼は、自分の身に起こっていたことを受けるいわれがないと知っていました。従って彼は、神を信じる多くの人が悲劇のさなかにあって抱く問い——「神とは実際にどのような方なのか」——を問うていました。そしてこれこそが、まさに大争闘ではないでしょうか。この問題は、神の存在に関する問題ではなく、神の御品性に関する問題です。そして、大争闘を解決するうえで多くのことが関わりますが、十字架上のイエスの死、つまり神の御子が「御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」(エフェ5:2)こと以上に私たちの創造主の真の御品性を宇宙に啓示したものは、間違いなくありません。キリストの十字架は、神が、私たちの信頼しうる神であることを示しています。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会s

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