その日を呪いなさい【ヨブ記】#5 

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私たちがヨブ記を読むとき、私たちには二つの際立った優位さがあります。第一に、結末を知っていること。第二に、宇宙規模の対立が舞台裏で起きているという背景を知っていることです。

ヨブはこれらのことをいずれも知りませんでした。彼が知っていたのは、万事順調な生活を送っていたのに、突然、次から次へと災難や悲劇が襲いかかって来たということだけでした。そして次に、この「東の国一番の富豪」(ヨブ1:3)は、山のような灰の上で嘆き悲しむまでに落ちぶれました。

私たちがヨブ記の研究を続ける際に、わが身をヨブの立場に置いてみましょう。そうすることで、彼が味わっていた戸惑い、怒り、悲しみをよりよく理解できるからです。しかも、ある意味において、それはさほど難しいことではないに違いありません。私たちが体験してきたことはヨブが体験したことではありませんが、堕落した世界に肉体を持って生まれた私たちの間に、悲劇や苦しみがもたらす当惑を多少なりとも味わったことのない人がいるでしょうか。とりわけ、私たちが忠実に主に仕え、主の目に正しいことを行おうと努めているときにです。

その日は消えうせよ

あなたがヨブだと想像してみてください。不可解にも、あなたの人生が、これまでのあらゆる努力が、成し遂げてきたあらゆることが、神から授けられたすべてが、崩れ去ります。納得できません。良し悪しにかかわらず、このことにいかなる理由もあるようには思えません。

昔、1台のスクールバスが道から外れて、多くの子どもたちが死にました。そのような状況の中で、ある無神論者が、「これは意味も目的も方向性もない世界で人が予想しうる類のことだ。この世自体が意味を持たないのだから、このような悲劇には何の意味もない」と言いました。

しかしこれまで見てきたように、このような答えは、神を信じる者たちには役に立ちません。主に忠実に従う者であったヨブにとっても、この答えは役に立ちませんでした。しかし、〔ヨブにとっての〕答えは何だったのでしょうか。説明は何だったのでしょうか。ヨブにはそれがありませんでした。彼が持っていたのは、激しい悲しみと必然的にそれに伴うさまざまな疑問だけでした。ヨブ記3:1~10を読んでください。

言うまでもなく、命は神からの贈り物です。私たちが存在するのは、神が私たちを創造されたからです(使徒17:28、黙4:11)。私たちの存在そのものが、現代科学を困惑させてきた奇跡です。実際に科学者たちは、「命」をどう定義するかについてさえ、ましてや、それがどのように生じたかについて、もっと重要なことに、なぜそれが生じたのかについて、意見が一致していません。

しかし絶望したときに、命にそれだけの価値があるのだろうか、と疑問に思ったことのない人がいるでしょうか。私たちは、自殺という不幸な例を話題にしているのではありません。そうではなく、ヨブのように、私たちがそもそも生まれてこなければよかったと望むときはどうでしょうか。

かつて、ある古代ギリシア人が、「死ぬことを除いて、人に起こりうる最上のことは、まったく生まれてこなかったことだ」と言いました。つまり、人生は悲惨になりうるから、私たちは存在しないほうが幸せだったろうし、それによってこの堕落した世界での人生に伴う必然的な苦悩を回避できたであろうといいます。

墓の中での憩い

問1

ヨブ記3:11~26を読んでください。ヨブはここで何と言っていますか。彼はどのように嘆きの言葉を続けていますか。彼は死について何と言っていますか。

私たちは、哀れなヨブが直面していたひどい悲しみを想像することしかできません。財産を失うことも、健康を失うこともつらかったに違いありませんが、ヨブは子どもをすべて失いました。1人残らずです。1人の子どもを失う苦痛を想像するだけでも大変ですが、ヨブは全員失いました。彼には10人の子どもがいました。

彼が死にたいと思ったのも不思議ではありません。そして、またもや、ヨブはこのことの背景をまったく知りませんでした。が、それを知ったからといって、彼の気持ちが楽になったわけではないでしょう。

ですが、ヨブが死について語っていることに注目してください。もし彼が死んだら、どうなるというのですか。天の至福ですか。神の御前にいる喜びですか。天使と一緒に竪琴を弾くのでしょうか。そのような神学はここにはまったくありません。そうではなく、彼は何と言っていますか。「それさえなければ、今は黙して伏し/憩いを得て眠りについていたであろうに」(ヨブ3:13)と言っています。

問2

コヘレト9:5とヨハネ11:11~14を読んでください。ヨブが言っていることは、聖書が死後に起こると教えていることと、いかに一致していますか。

聖書の最古の書巻の一つであるヨブ記のここに、私たちが「死後の状態」と呼ぶものの、恐らく最も初期の表現があります。この時点でヨブが望んでいたのは、「憩いを得る」ことだけでした。人生が突然、困難に、難しく、つらくなってしまい、ヨブは、彼が死として知っているもの、つまり墓の中での安らかな憩いを切望しました。彼はあまりにも悲しく、苦しかったので、災難がやって来る前に人生で味わったあらゆる喜びを忘れて、生まれ落ちたときに死んでいればよかったのに、と願ったのでした。

ほかの人たちの苦痛

記録されているように、ヨブはヨブ記3章の中で最初の嘆きの言葉を言い終えました。そのあとの2章の中では、彼の友人の1人であるエリファズがヨブに意見します(これについては、来週再び取り上げる予定です)。続くヨブ記6章と7章では、ヨブが彼の苦しみについて語り続けています。

ヨブ記6:2、3を読んでください。この比喩は、ヨブが彼の苦しみをどのように受け止めているかを伝えています。もし海辺のすべての砂を天秤の片側に載せ、彼の「苦悩」と「(彼を)滅ぼそうとするもの」をもう一方に載せるなら、彼の苦しみのほうがすべての砂よりも重いだろう、といいます。

ヨブの苦痛は、彼にとってそれほど現実的でした。そして、これはヨブの苦痛だけであって、ほかの人の苦痛ではありません。私たちは時折、「人類の苦しみの総和」といった考えを耳にします。しかし実のところ、これは真理をあらわしていません。私たちは集団で苦しむわけではないからです。私たちはだれかの苦痛を感じるのではなく、自分自身の苦痛を感じます。私たちは自分の苦痛、自分の苦しみしかわかりません。しかし、ヨブの苦痛がどれほど激しいものであったにしろ、それは、これまでにだれかが感じえた苦痛を超えるものではありませんでした。「あなたの苦痛がわかりますよ」と、善意からだれかに言う人がいるかもしれません。しかし、彼らにはわかりません。わかりえないのです。彼らが感じるのは、だれかの苦しみに対して生じる彼ら自身の苦痛です。しかし、それは常に彼ら自身の苦痛でしかなく、ほかの人の苦痛ではありません。

私たちは、人為的なものかどうかは別にして、多くの死者を伴う災害について耳にします。死傷者の数は私たちを驚かせます。私たちはそのような大きな苦しみをとても想像できません。しかし、ヨブの場合や、(エデンのアダムとエバからこの世の終わりに至るまで)堕落した人類のあらゆる場合と同様、古今東西のすべての堕落した人間が知りえるのは、その人自身の苦痛にすぎません。

言うまでもなく、私たちは個人の苦しみを軽視したくありませんし、クリスチャンとして、可能な時と場所では、心の痛みを和らげる手助けをしなさい、と命じられています(ヤコ1:27、マタ25:34~40参照)。しかし、どれほど多くの苦しみがこの世に存在しようと、堕落した1人の人間が苦しむのはその人の苦しみだけだというのはなんと感謝すべきことでしょう(唯一の例外については、第12課参照)。

機の梭(補足)

次の会話を想像してみてください。2人の人が、すべての人間の運命である死について嘆いています。つまり、どんなにすばらしい人生を過ごそうと、どんなことを成し遂げようと、人生は墓の中に行きつくということです。

メトシェラが友人にこぼします。「私たちはたかだか800年か900年生きたら死ぬんだ。永遠に比べたら、800年や900年なんて何だろうか」(創5章参照)。

数百年間生きるというのはどんな感じなのか、私たちには想像しがたいのですが(メトシェラは187歳のときに息子レメクをもうけ、その後782年生きました)、ノアの大洪水以前の人たちでさえ、死という現実に直面したとき、彼らにとっての人生の短さを嘆いたに違いありません。

ヨブ記7:1~11を読んでください(詩編39:6〔口語訳39:5〕、ヤコブ4:14も参照)。私たちは、ヨブが死によってもたらされるだろう憩いと安息を求めているところを見たばかりです。今度は、人生がいかに速く過ぎ去るかを、彼は嘆いています。要するに彼が言っているのは、人生は厳しく、労苦と苦痛であふれていて、やがて私たちは死ぬのだ、ということです。ここには、私たちがしばしば抱えている難しい問題があります。私たちは、人生が悲しく、惨めであっても、いかに人生が速く過ぎ去り、はかないかを嘆きます。

あるアドベンチストの女性が、うつ病との闘いや自殺念慮について記事を書きました。しかし、彼女は次のように記しています。「最悪だったのは、私が、『平均より6年間長く』生きる助けになると証明された生活スタイルを守るアドベンチストであったということでした」。合点がいきませんでした。言うまでもなく、痛みや苦しみがあるときには、多くの物事が納得できないように思えます。ときとして、苦痛の中で理性や合理性は隅に押しやられ、私たちが知っているのは痛みと恐れだけで、希望が見えません。実に分別のあったヨブでさえ(ヨブ19:25)、絶望と無力さの中で、「わたしの命は風にすぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう」(同7:7)と叫びました。今や、かつてないほど死の兆しが近づいているヨブは、現状が悲惨であるにもかかわらず、それでも自分の人生がいかに短いかを嘆きました。

「人間とは何なのか」

再び、私たちはわが身をヨブの立場に置く必要があります。「なぜ神はこのようなことを私になさっているのか。なぜ神は、このようなことが私に起こるのを許しておられるのか」。ヨブは全体像を見ていませんでした。どうしてそんなことができるでしょうか。彼は周囲や自分の身に起きたことしか知らず、そのどれもまったく理解できません。同様の状況を体験したことのない人がいるでしょうか。

ヨブ記7:17~21を読んでください。ヨブはここで質問をしています。ある学者たちは、ヨブは詩編8:5~7〔口語訳8:4~6〕をあざ笑っているのだ、と主張してきました(詩編144:3、4も参照)。「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」。しかし問題なのは、ヨブ記が詩編よりもずっと前に書かれたということです。ですから、もし両者に関係があるとしたら、詩編記者がヨブの嘆きの言葉に応じて書いたのかもしれません。

いずれにしても、「人間とは何なのか」という疑問は、私たちが問いうる最も重要な疑問の一つです。私たちは何者なのでしょうか。私たちはなぜここにいるのでしょうか。私たちの人生の意味や目的は何でしょうか。ヨブの場合、彼は、神が彼に「狙いを定め」られた、と信じているので、「なぜ神は私を悩ますのだろうか」といぶかしんでいます。神は偉大であり、その被造世界は広大です。一体全体、なぜ神はヨブに対処する必要があるのでしょうか。そもそも、なぜ神は私たちのだれかのことで頭を悩ます必要があるのでしょうか。

ヨハネ3:16とIヨハネ3:1を読んでください。「ヨハネは、死にゆく私たち人類に対する神の愛の高さ、深さ、広さを見て、賞賛と畏怖の念に満たされている。彼はこのような愛を表現する適当な言葉を見いだすことができないが、それに目を向けるよう、世界に訴えている。『御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えて下さい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです』。このことによって、なんという価値が人間に置かれていることだろうか。罪を犯したことによって、人の子らはサタンの臣下となった。しかし、キリストの限りない犠牲と彼の御名に対する信仰によって、アダムの子らは神の子らとなる。人性を取ることで、キリストは人類を高められるのである」(『教会への証』第4巻563ページ、英文)。

さらなる研究

「これまでになく科学と理性によって啓発された時代の中で、キリスト教の『福音』は、ますます説得力のない形而上学的構造物、その上に人生を築くにはますます頼りない土台、精神的にますます不要なものとなった。無限で永遠の神が、特定の歴史的時代と場所に、突然、特定の人間になり、結局、屈辱的な形で処刑されるなどという一連の出来事がまったく起こりえないことが、痛々しいほど明らかになってきた。想像もできないほど広大で非人間的な宇宙の中にある無数の恒星の中の一つの周りを回っている、今やあまり重要でない物質だとわかっている一つの惑星の上の辺鄙で未開な一つの国で、2000年前に一つの短い人生が生じた。そのような平凡な出来事が、圧倒的な宇宙や永遠の意味を持つなどということは、もはや理性的な人間にとって説得力のある信仰ではありえなかった。宇宙全体が、その広大さの中のこんな小さな場所に熱烈な関心を寄せるなどいうことは、たとえ何らかの「関心」があったとしても、まったく信じがたい。公的に、経験的に、科学的に、あらゆる信条を裏づけることへの現代的要求という光のもとで、キリスト教の核心部分はしぼんでしまったのである」(リチャード・ターナス『西洋精神の情熱』305ページ、英文)。

このような思想の問題点は何ですか。この著者は何を見落としていますか。この引用文は、「科学と理性」が神の存在と私たちに対する神の愛について知りえることの限界について、どんなことを教えていますか。このことは、啓示された真理、人間の「科学と理性」が達しえない真理の必要性について、どんなことを示していますか。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。

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