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ヨブ記に関するこのシリーズの研究も最後を迎えました。私たちはこの書の大半を取り上げたかもしれませんが、扱うべきこと、学ぶべきことは、まだたくさんあると認めざるをえません。言うまでもなく、俗界の中でさえ、私たちが学び、発見することはどれも、さらに学ぶべきこと、発見すべきことをもたらします。原子や恒星、クラゲや数学の方程式に関してもそうであるなら、神の御言葉に関しては、どれほどそう言えることでしょう。
「神の神秘な摂理を悟ることができないということは、神のみ言葉を疑う理由にはならない。自然界をみると、われわれは、理解のできない不思議なことにいつもかこまれている。霊的な世界にわれわれの測り知ることのできない神秘があることは驚くにあたらない。問題は、人間の心の愚かさと狭さにある」(『教育』201ページ)。
確かに、とりわけ人生の最も難しい疑問がたくさん提起されているヨブ記のような本においては、謎が残ります。しかしそれにもかかわらず、私たちはこの物語から得ることのできるいくつかの教訓に目を向けましょう。それは、ヨブのように、悩み多き世界の中で主に忠実でいられる助けとなる教訓です。
見えるものによらず、信仰によって
IIコリント5:7、4:18を読んでください。これらの聖句には私たちが主の忠実な弟子であろうとするときに、重要な真理があらわされています。
IIコリント4:18の直近の文脈は終末論的で、私たちが不死を身につける終末の時について述べています。それは、私たちが成就をまだ目にしていない大いなる約束です。それはまだ起こっていないがゆえに、私たちが見えるものによらず、信仰によって受け入れなけばならない約束です。
同様にヨブ記は、現実には私たちの目に見えるものよりずっと多くのことがあると教えています。しかしこのことは、現代に生きる人々にとって、さほど理解しがたい概念ではないに違いありません。科学が、私たちの周囲の至る所に見えざる力が存在することを明らかにしてきたからです。
大都市のある教会堂で1人の牧師が前に立ち、静かにするよう、会衆に求めました。数秒間、物音一つありませんでした。すると彼はラジオを取り出してスイッチを入れ、さまざまなチャンネルにダイアルを合わせていきました。さまざまな音がラジオから聞こえました。
牧師は尋ねました。「質問しますが、これらの音はどこからやって来たのですか。ラジオそれ自体の中から生じたものですか。違いますよね。これらの音は、私の声が今実際に存在するように、電波として私たちの周囲の空中にあったものです。しかし、私たちの感覚では、それを感知することができません。ですが、私たちに見えず、感じず、聞こえないという事実は、電波が存在しないことを意味しません。そうですよね」
私たちの目に見えない放射線や重力などから、見えざる力が単に存在するだけでなく、私たちの生活に影響を及ぼしている事実から、霊的教訓を得ることができます。ヨブ記が示しているように、関係者たちは実際に起こっていることを、だれ1人としてわかっていませんでした。彼らは神を信じ、神や、神の御品性と創造力について、ある程度理解もしていました。しかし、彼らが目にすることのできた現実(つまり、ヨブの災難)という明らかな事実を超えて、彼らは舞台裏で起こっていることについて何もわかりませんでした。同様に、ときとして私たちも見えざる現実について何もわからないのではありませんか。それゆえヨブ記は、私たちが自分の弱さや、自分の見ているもの、知っていることの少なさを自覚しつつ、信仰によって生きる必要があることを教えています。
邪悪な存在
人間の思想に挑戦してきた大きな疑問の一つは、悪(災い)に関するものでした。哲学者や宗教家の中にさえ、悪の存在を否定した人、あるいは少なくともその言葉を捨てるべきだと考えた人がこれまでにいましたが、大抵の人は同意しないでしょう。悪は存在します。それはこの世の一部です。私たちは、悪が何であり、何でないかを論じることはできませんが、私たちのほとんどは、(別件における連邦最高裁判所判事の言葉を引用するなら)「見ればわかります」
ときとして、悪は二種類に大別されます——自然悪と道徳〔人間〕悪です。自然悪とは、自然災害から生じる類の悪と定義されます。例えば、地震、洪水、疫病などが苦しみをもたらすときです。道徳悪とは、ほかの人の意図的行動から生じるもので、例えば、殺人や強盗です。
古今東西のあらゆる種類の理論は、悪の存在を説明しようとします。私たちアドベンチストは、聖書が、悪は一つの被造物(サタン)の堕落に始まったと教えていることを信じています。唯物論的、哲学的考察によって後押しされた大衆文化は、サタンという考えを否定してきました。しかし、それを否定できるのは、聖書の明白なあかしを否定できる人だけであり、その聖書は、可能な限り人間に害を及ぼそうとする実際の存在としてサタンを描いています。これが、ヨブ記の中でとりわけ明らかにされている真理です。
ヨブ記1:1~2:8を読んでください。ヨブの場合、サタンは、この男性の身に降りかかった道徳悪、自然悪双方の直接的な原因でした。しかしヨブ記は、悪や苦しみのあらゆる例が悪魔の活動と直接関係しているとは教えていません。実際のところ、ヨブ記の登場人物たちと同様、私たちはつらい出来事のすべての理由がわかるわけではありません。それどころか、「サタン」という名前は、ヨブの不運に関する対話の中で一度も登場していないのです。話し手は神を非難し、ヨブを非難していますが、サタン自身はまったく非難していません。しかしそれにもかかわらず、ヨブ記は、結局のところ、だれが地上における悪に対して責任があるのかを示すべきです。
このような友人たちと
ヨブ記の全体を通して、3人の(やがて4人の)男性がヨブのところへやって来て語りますが、それは善意からのことでした。彼らはヨブに起こったことを聞き、「見舞い慰めようと」(ヨブ2:11)して来ました。しかし、ヨブが最初に話し始め、身に降りかかった悲劇を嘆いたあと、どうやら彼らは、苦しんでいる友人を励まし、元気づけることよりも、彼をつけ上がらせず、彼の神学を正すことのほうが重要だと感じたようです。
何度も何度も、彼らは勘違いをしました。しかし、もし彼らが正しく理解していたとしたらどうでしょうか。もしこれらのことがヨブを襲ったのは、自業自得だったとしたらどうでしょうか。彼らは神学的に正しかったのかもしれませんが、それがどうしたというのでしょう。ヨブは正しい神学を必要としていたのですか。それとも、彼が必要としていたのは、まったく別のものだったのでしょうか。
ヨハネ8:1~11を読んでください。イエスはここで、この男性たちに欠けているものを明らかになさいました。この物語における、姦通の現場で捕らえられた女性と彼女を非難する人たち、他方で、ヨブと彼を非難する人たち、双方の間には大きな違いがあります。この女性は罪を犯していました。彼女は、彼女を非難している者たちよりも罪が少なかったかもしれませんが、罪を軽減するどのような理由があったにしろ、彼女が有罪であることに疑いの余地はありませんでした。それにひきかえ、ヨブは、少なくとも彼を非難する者たちが訴えたような罪という意味において、無罪でした。しかし、ヨブがこの女性のように有罪だったとしても、彼が友人たちから必要としたものは、この女性が必要としたものであり、それはすべての苦しむ人たちが必要としているもの、つまり恵みと赦しでした。
「この女をゆるし、もっとよい生活をするように励ましておやりになったイエスの行為を通して、イエスのご品性は完全な義の美しさに輝いている。イエスは、罪を軽く見たり、不義の意識を弱めたりはされないが、罪に定めようとしないで、救おうとされる。世の人たちは、過失を犯しているこの女を軽蔑し嘲笑することしかしなかった。だがイエスは、慰めと望みのことばを語られる」(『希望への光』913ページ、『各時代の希望』中巻249ページ)。
私たちがヨブ記から学ぶべきことは、私たちが他の人々の立場になったときに受けたいものを与える必要があるということです。確かに、叱責し、対決すべき時と場所はありますが、私たちはその役割を果たすことを検討する前に、自分自身が罪人であることを謙虚に、素直に思い出さなければなりません。
茨とあざみ以上のもの
だれもが知っているように、人生は楽なものではありません。エデンにおいて、堕罪のあと、人生がいかに厳しいものになるかが示唆されています。主が私たちの最初の両親に、罪の結果がどのようになるかをお知らせになったときです(創3:16~24参照)。しかし、それらは示唆にすぎません。結局のところ、もし私たちが人生で直面する困難が「茨とあざみ」だけであったなら、人間の存在は今日のありさまとはまったく違っているでしょう。
私たちが辺りを見回して、苦しみ、病気、貧困、戦争、犯罪、うつ病、汚染、不公正以外に何が見えますか。古代の歴史家ヘロドトスは、人々が嘆いていた文化について記しています。赤子が生まれると、人々は嘆きました。なぜなら、その子が大人になる時、避けがたい悲しみや苦しみに直面することを知っていたからです。病的に思えますが、その理屈をだれが否定できるでしょうか。
ヨブ記の中には、人間の状態に関する一つのメッセージがあります。すでに触れたように、ヨブは、私たちがみな苦しむという点において、全人類の象徴と見ることができます。私たちは、しばしば公平とは思えない形で、あるいは、私たちが犯した罪が何であれ、それにふさわしいとは思えない形で苦しみます。それはヨブにとって公平ではありませんでしたし、私たちにとっても公平ではありません。
ヨブ記が私たちに言えることは、神がそこにおられ、神はご存じであり、神はそれが無駄になることはないと約束しておられるということです。世俗の作家、無神論の作家たちは、永遠の死で終わる人生の空しさを受け入れるためにもがいています。彼らは答えを求めてもがき苦しみますが、何も見いだせません。なぜなら、この世の人生は、何ももたらさないからです。しかしヨブ記は、死を免れない命を持つ私たちがおびえる「無」の向こう側に、超越的な現実があることを指し示しています。ヨブ記は、私たちに起こるすべてのことは他と無関係に起こるのではなく、起こっていることをすべてご存じである神、いつの日かすべてを正すと約束しておられる神がいる、と教えています。ヨブ記がどんな重要な疑問を答えのないまま残すとしても、それは私たちの手に命の灰以外に何も残さないということはありません(創3:19、ヨブ2:8参照)。むしろヨブ記は、希望の中の希望、私たちが直接感じられるものを超えた希望を私たちに残します。
イエスとヨブ
昔から、聖書を学ぶ者たちは、ヨブの物語とイエスの物語の共通点を見つけようとしてきました。ヨブは必ずしも(犠牲制度における動物たちのように)イエスの「予型」ではありませんが、いくつかの共通点が確かに存在します。それらの共通点の中に、私たちはヨブ記の教訓をもう一つ見いだすことができます。それは、私たちを救うには主を犠牲にする必要があるという教訓です。
ヨブ記1:1とIヨハネ2:1、ヤコブ5:6、使徒言行録3:14を比較すると「正しい人」という共通点があります。マタイ4:1~11を読むと、イエスとヨブの間に「悪魔から誘惑を受けた」共通点があります。マタイ26:61、ルカ11:15、16、ヨハネ18:30を読むと、これらの聖句は、「悪いことをしていると思われた」ヨブの経験と類似しています。ヨブ記1:22とヘブライ4:15を比較すると、「試練にあった」という共通点があります。
このようにこれらの聖句は、ヨブとイエスの経験の間に興味深い共通点があることを明らかにしています。言うまでもなく、ヨブは、イエスように罪がなかったわけではありません。しかしそれにもかかわらず、彼はその生き方が神に栄光を帰すような忠実で正しい人でした。ヨブは、イエスと同じように悪魔によって激しく試みられました。ヨブ記全体を通じて、彼は不当な非難を受けましたが、イエスもまた、不当な非難に直面されました。
最後の、そして多分最も重要な点は、どのようなことが起こってもヨブが主に忠実であり続けたことです。私たちすべてのため、ヨブ以上にイエスは神に忠実であられました。イエスはどのようなことがその身に起こっても、神の御品性を完全に具現化した罪なき人生を送られました。イエスは「神の本質の完全な現れ」(ヘブ1:3)であり、それゆえに彼だけが救いに必要な義を持っておられました。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(ロマ3:22)。
ヨブは大変なことを体験したかもしれませんが、彼の苦しみも、その苦しみの中における忠実さも、彼の贖い主イエスが、実際に来られ、「ついには塵の上に立たれるであろう」(ヨブ19:25)ときに、ヨブや私たちのために直面なさることのわずかで不完全な反映でした。
さらなる研究
ヨブ記は何世紀にもわたって、ユダヤ教、キリスト教、(ヨブ記の異本を独自に持つ)イスラム教の読者たちを感動させ、啓発し、彼らに挑んできました。私たちが「挑んできた」と言うのは、すでに触れたように、ヨブ記そのものの中には、答えらえていない疑問がたくさん残っているからです。ある意味で、それはさほど驚くべきことではありません。何しろ、創世記から黙示録に至るまで、聖書の中のどの書巻が、答えられていない疑問を残していないでしょうか。聖書は全体として見ても、提起しているあらゆる問題に答えているわけではありません。聖書が取り上げている人類の堕落、救済計画といった主題が永遠にわたって学ぶ主題であるなら(『各時代の大争闘』最終ページ参照)、限りあるその中の一つの書巻が、たとえ主の霊感を受けたものであったとしても(IIテモ3:16)、どうして今すべてのことに答えられるでしょうか。
しかし、ヨブ記は孤立していません。それは、神の御言葉の中にあらわされているはるかに大きな全体像の一部です。そして、それは偉大な霊的、神学的モザイク画の一部として、少なくとも神に従う者たちにとって普遍的な魅力を持つ力強いメッセージを私たちに伝えています。そのメッセージとは、逆境の中における忠実さです。ヨブは、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタ24:13)というイエス御自身の言葉の生きた手本でした。
正しいことをしようと努めているイエスの信者で、ときとして説明しがたい不正に直面したことのない人がいるでしょうか。忠実であろうとしているイエスの信者で、信仰に対する挑戦に遭ったことのない人がいるでしょうか。安らぎを求めているイエスの信者で、かえって非難を受けたことのない人がいるでしょうか。それにもかかわらず、ヨブ記は、こういったことやそれ以上のことに遭遇しても信仰と誠実さを保った人の実例を私たちに示しています。私たちが信仰と恵みによって、ヨブや私たちのために十字架で亡くなった方を信じるように、私たちへのヨブ記のメッセージは、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)です。
*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。