神の律法【アドベンチストの信仰#19】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

神の律法の大原則は十戒に具体化され、キリストの生涯に明らかとなっている。十戒は人間の行動と関係に対する神の愛とみ旨と目的をあらわしており、あらゆる時代のすべての人が守るべきものである。これらの戒めは神とその民との契約の基礎であり、神の裁きの基準である。聖霊の働きを通して十戒は罪を指摘し、救い主の必要を感じさせる。救いは行いによるのではなく、全く恵みによるのであって、戒めへの服従は救いの実である。この服従はクリスチャン品性を発達させ、幸福感をもたらす。それは主に対する愛と隣人への関心のあらわれである。信仰の従順は、われわれの生活を変えるキリストの力を示し、クリスチャンのあかしを力強いものとする。(信仰の大要18)

すべての人々の目がその山に注がれていました。山の頂上は暗く厚い雲で覆われ、頂上から吹きおろされてくる雲で山全体が包まれ神秘的でした。いなずまが闇を切り裂き、雷鳴が鳴り響きこだましました。「シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。ラッパの音が、いよいよ高くなったとき…」(出エジプト19:18,19)。神の臨在がこのように力強く明らかにされたので、イスラエルの人々は震えおののきました。

突然雷鳴とラッパとが止み、恐ろしい沈黙に包まれました。そして神はその山に立たれ、その深い闇の中から語られました。神はその民への深い愛に動かされ、十戒をお与えになりました。「主はシナイからこられ、…ちよろずの聖者の中からこられた。その右の手には燃える火があった。まことに主は、その民を愛される。すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。彼らはあなたの足もとに座して、教えをうける」(申命記33:2,3)とモーセは言いました。

シナイにおいて神が律法をお与えになったとき、宇宙における威厳に満ちた偉大な権威としてご自身を啓示されただけではありませんでした。神は、ご自身をその民のあがない主としても現されました(出エジプト20:2)。神は救い主であられるので、イスラエルだけではなく全人類を(伝道12:13)、神と同胞に対する義務を包括する十の、簡潔でわかりやすい権威ある戒めに従うよう招いておられます。

神は言われました。

「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」

「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は、天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵を施して、千代に至るであろう。」

「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないではおかないであろう。」

「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は、六日のうちに、天と地と海とその中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」

「あなたの父と母とを敬え。これはあなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである。」

「あなたは殺してはならない。」

「あなたは姦淫してはならない。」

「あなたは盗んではならない。」

「あなたは隣人について、偽証してはならない。」

「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」(出エジプト20:3-17)。

目次

律法の性質

神の品性の反映としての十戒は、道徳的、霊的、包括的であり、普遍的な原則を包含しています。

律法授与者の品性の反映

聖書は、律法の中に神の属性を見ています。神ご自身のように、「主のおきては完全」であり、「主の戒めはまじりな」いものです(詩篇19:7,8)。「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」(ローマ7:12)。「あなたのもろもろの戒めはまことです。わたしは早くからあなたのあかしによって、あなたがこれをとこしえに立てられたことを知りました」(詩篇119:151,152)。まことに「あなたのすべての戒めは正しい」(詩篇119:172)ものです。

道徳的律法

十戒は人類に対する神の行動の様式を示唆しています。十戒は創造主、あがない主とわたしたちとの関係、またわたしたちの同胞への義務を明らかにしています。み言葉は、律法を犯すことを罪と呼んでいます(1ヨハネ3:4、KJV)。

霊的律法

「律法は霊的なものである」(ローマ7:14)。それゆえに、霊的な者と聖霊の実を持つ者だけが、これに従うことができます(ヨハネ15:4、ガラテヤ5:22,23)。神の意志を行う力を与えるのは、神の霊です(使徒1:8、詩篇51:10-12)。キリストの内に留まることにより、神の栄光を現す実を結ぶための力を受けるのです(ヨハネ15:5)。

人間の法律は、明らかになった行為に対してのみ適用されます。これに対して十戒は、「限りなく広」(詩篇119:96)く、わたしたちの心の奥底に隠された思いや、願望、感情、すなわち、ねたみ、嫉妬、肉欲、野望などにまで及びます。山上の説教において、イエスは、律法の霊的側面を強調し、罪が心の中で始まることを明らかにしました(マタイ5:21,22,27,28、マルコ7:21-23)。

積極的な律法

十戒は、ただの簡潔な禁止条項の羅列ではありません。そこには、深遠な原則が述べられているのです。そこには、わたしたちのすべきでないことだけでなく、すべきことも示されているのです。わたしたちは、悪から遠ざかるばかりでなく、神から与えられた能力や賜物を、良いことのために使う方法を学ばなければなりません。ゆえにすべての禁止条項は、積極的な側面を持っているのです。

たとえば、「あなたは殺してはならない」という第六の戒めには、「あなたは命を大切にしなければならない」という積極的側面があります。「神に従う者たちが、その影響の及ぶ範囲のすべての人々の幸福と福利とをさらに豊かにすることは、神のみ旨である。広い意味において福音の働き、すなわち救いの良き知らせ、イエス・キリストにある永遠の命は、この第六の戒めが含む積極的な原則に基づいている。」[1]

十戒は「恩恵的な側面ほどには禁止的側面からとらえるべきではない。その禁止条項は、服従における幸福の確かな保証なのである。キリストにあって理解されるとき、それはわたしたちの性格を清め、永遠にわたる喜びをもたらす。従う者に、それは保護の壁となる。わたしたちは、その中に神のすばらしさを見るのである。神は、不変の義の原則を示すことにより、律法の違反の結果である悪から人々を守ろうとしておられるのである。」[2]

簡潔な律法

十戒の豊かさは、その単純さとわかりやすさにあります。十戒は、たいへん短いので子供でもすぐに覚えられます。それでいて、すべての罪をその範囲の中におさめるほど広く深いものです。

「神の律法には、不可解さはない。その偉大なる真理はだれにでも理解できるのである。知識において最も貧しい者も、これらの戒めを理解することができる。また、最も無知な者も、神の標準に従った生活をし、その品性を形成することができる。」[3]

原則としての律法

十戒は、すべての正しい原則、すなわち、すべての人々にいつの時代にもあてはまる原則の要約です。み言葉は、「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」と言っています(伝道12:13)。

十戒は、十の言葉、あるいは十の戒めであり(出エジプト34:28)、神が二枚の石の板に書かれたことからもわかるように、二つの部分からなっています(申命記4:13)。初めの四つの戒めは、わたしたちの創造主、またあがない主への義務を述べ、あとの六つは、人々への義務を規定しています 。[4]

この二つの区分は、神の国における二つの根本的な愛の原則に由来しています。すなわち、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」、また「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という原則です(ルカ10:27、申命記6:4,5、レビ19:18参照)。これらの原則に生きる者は、十戒に完全に調和するでしょう。というのは、十戒は、これらの原則をさらに詳しく述べたものだからです。

第一の戒めは、唯一の真の神だけを礼拝するように教えています。第二の戒めは、偶像礼拝を禁じています[5]。第三の戒めで禁じられているのは、不適切に、また偽って神のみ名を唱えることです。第四の戒めでは、安息日を守り、天と地の創造者であられる真の神を覚えるよう呼び掛けられています。

第五の戒めでは、神のみ旨を代々にわたって伝えるよう任じられた神の代理者である親に、子供達が従うように要求されています(申命記4:6-9、6:1-7参照)。第六の戒めは、命を聖なるものとして保護します。第七の戒めは、結婚関係を清くするよう命じ、また保護するものです。第八は、財産を保護します。第九番目の戒めは、真実を守り、偽証を禁じるものです。そして十番目の戒めは、他者に属するものへの貪りを禁じることにより、すべての人間関係の根本を扱っています[6]

独自な律法

十戒は、すべての民に聞こえる形で与えられた唯一の神の言葉という点で、他と区別されます(申命記5:22)。神はこの戒めを、忘れやすい人間の記憶に任せず、神ご自身がその指で二枚の石の板に記されました。これらの石の板は、聖所の契約の箱に保存されました(出エジプト31:18、申命記10:2)。

イスラエルの人々によってなされるこれらの戒めの適用を助けるために、神は、神とイスラエルとの、そして人間同志の関係についての律法を追加されました。これらの後から加えられた律法のあるものは、イスラエルの民事に関する法律(民法)であり、他のものは、聖所における儀式の規定です(礼典的律法)。神は、これらの律法を仲介者であるモーセをとおして人々にお与えになりました。モーセは、これらを「律法の書」に書き記し、神の究極の啓示である十戒のように契約の箱の中にではなく、「契約の箱のかたわらに置き」(申命記31:25,26)ました。これらの付加された律法は、「モーセの律法の書」(ヨシュア8:31、ネヘミヤ8:1、歴代下25:4)、また簡単に「モーセの律法」(列王下23:25、歴代下23:18)として知られています 。[7]

喜ばしき律法

神の律法は、魂を鼓舞します。詩篇記者は、言っています。「いかにわたしはあなたのおきてを愛することでしょう。わたしはひねもすこれを深く思います。」「わたしは金よりも、純金よりもまさってあなたの戒めを愛します。」さらに「悩みと苦しみがわたしに臨」んでも「あなたの戒めはわたしの喜びです」(詩篇119:97,127,143)。神を愛する者には、「その戒めはむずかしいものではない」のです(1ヨハネ5:3)。律法に従わない者たちは、律法を耐え難いくびきとみなしています。というのは、罪深い思いは、「神の律法に従わず、否、従い得ない」(ローマ8:7)からです。

律法の目的

神が律法を人々に与えたのは、豊かな祝福にあずからせ、神との救いの関係に導くためでした。以下の具体的な目的に注目してください。

律法は人類に神の意志を啓示している

神の愛と品性の表現としての十戒は、人間に対する神の意志と目的とを明らかにしています。十戒は、完全な服従を要求しています。「なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである」(ヤコブ2:10)。生命の法則としての律法に従うことは、わたしたちの救いにとって重要です。キリストご自身が「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい。」(マタイ19:17)と言っておられます。この服従は、内住する聖霊の力によってのみ可能です。

律法は神の契約の基礎である

モーセは、十戒と他の補足的律法を、契約の書と呼ばれる書の中に記しました(出エジプト20:1-24:8)[8]。後にモーセは、十戒を「契約の板」と呼び、永遠の契約の基礎としての十戒の重要性を指摘しました(申命記9:9、同4:13参照、契約に関して詳しくは本書第七章を参照)。

審判の基礎としての律法

神のように、「律法は、ただしい」(詩篇119:172)ものです。したがってそれは、義の基準とされています。わたしたちは、それぞれわたしたちの良心によってではなく、これらの義の原則によって審判を受けることになります。み言葉は、「神をおそれその命令を守れ」、「神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」(伝道12:13,14、ヤコブ2:12参照)と言っています。

人間の良心には幅があります。ある人たちの良心は「弱く」、他の人々の良心は「汚され」、「罪を犯し」、あるいは「焼き印をおされてい」ます(1コリント8:7,12、テトス1:15、ヘブル10:22、1テモテ4:2)。たとい良心がよく機能していたとしても、それが真価を発揮するには、時計のように、正確な基準に合わせられていなければなりません。わたしたちの良心は、正しいことをすべきだと教えてくれますが、何が正しいかについては語ってくれません。ただ神の偉大なる基準、すなわち、神の律法によって位置づけられた良心だけが、わたしたちを罪の内に留まることから守ってくれるのです[9]

律法は罪を指摘する

十戒なしには、人間は神の清さや、自分たちの罪科、また悔改めの必要をはっきりと理解できません。

神の律法を犯しているのを知らない間は、失われていることも、あるいはキリストの血によるあがないの必要も感じないのです。

ほんとうの状態に気づかせるために、律法は、鏡のような役割を果します(ヤコブ1:23-25参照)。これを見る者は、キリストの義なる品性と対照的に、自分の欠点のある品性に気づかされます。このようにして、道徳的律法は、神の前に全世界が罪深いものであることを示し(ローマ3:19)、そのことについてすべての者が神に対して全く責任をとるべきであるとするのです。

「律法をとおして、わたしたちは罪を自覚するようになる」(ローマ3:20、NIV)のです。というのは、「罪とは、律法を犯すこと(1ヨハネ3:4、KJV)だからです。実際パウロは、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう」(ローマ7:7)と言っています。罪人らにその罪を宣告することにより、律法は、彼らが神の怒りのさばきのもとにあり、永遠の死という刑罰に直面していることに気づかせてくれます。律法は、さらに罪人らに彼らが全く無力であることを気づかせます。

改心における律法の働き

神の律法は聖霊がわたしたちを改心させる際の手段です。「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ」(詩篇19:7)ます。わたしたちのほんとうの姿を見るとき、わたしたちは、罪人であり、また希望なくただ死に向かっていることに気づきます。そして、救い主の必要が分かるのです。このようにして、良き知らせである福音が、ほんとうに意味あるものとなってくるのです。こうして、律法は、わたしたちにキリストを、すなわち、絶望的な状況からわたしたちを逃れさせてくださるただ一人の方を指し示すのです[10]。パウロはこの意味で道徳的律法と礼典的律法は共に「信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛〔「保護者」、NKJV〕となったのである」(ガラテヤ3:24)としています[11]

律法は、わたしたちの罪を明らかにしますが、決してわたしたちを救うことはできません。ちょうど水が汚れた顔をきれいにするように、わたしたちは、わたしたちの必要を鏡である道徳的律法によって見いだし、「罪と汚れ」(ゼカリヤ13:1)のために開かれている泉に到達するのです。そして、「小羊の血」(黙示録7:14)によって清められるのです。わたしたちは、キリストを見なければなりません。「全世界の罪の重荷のもとに死なれたキリストが…カルバリーの十字架において〔わたしたちに〕示されるとき、聖霊は、…〔わたしたちに〕過ちを悔いるすべての人々に対する神の態度を明らかにされる。」[12]そのとき、わたしたちの魂は希望に満たされます。わたしたちは、信仰において永遠の命という賜物を与えてくださる救い主のもとへ行くのです(ヨハネ3:16)。

律法は真の自由を提供する

キリストは、「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ8:34)と言われました。わたしたちが神の律法を犯すとき、そこには自由はありません。しかし、十戒への服従は真の自由を確かなものとします。神の律法の制限のうちに生きることは、罪からの自由を意味します。それは、罪と共にあること、不断の心配、良心の痛み、そして罪科が増し加わること、また生活の活力を奪う後悔の念からの自由を意味します。詩篇記者は、「わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」(詩篇119:45)と言っています。ヤコブは、十戒を「尊い律法」、「完全な自由な律法」として引用しています(ヤコブ2:8、1:25)。

わたしたちがこの自由を受け取るために、イエスはわたしたちを罪の重荷を負ったまま来るようにと招いておられます。イエスは、それに替えて彼のくびきを提供されます。そのくびきは軽いのです(マタイ11:29,30)。くびきは、仕事の道具です。くびきは負担を分ち、働きを成遂げるのを容易にします。キリストは、わたしたちとくびきを共にしてくださいます。そのくびきとは、律法です。「エデンであらわされ、シナイで布告され、新しい契約のもとに心にしるされる偉大な愛の律法は働く人間を神のみこころにむすびつけるものである。」[13]わたしたちがキリストとくびきを共にするとき、キリストが重い荷を負ってくださり服従を喜びとしてくださいます。キリストは、わたしたちに以前は不可能であったことができるようにしてくださいます。こうしてわたしたちの心のうちに書かれた律法は、楽しみとなり、また喜びとなります。わたしたちは自由です。というのはキリストが命じられたように、わたしたちは行いたいからです。

もし律法が、キリストの救いの力なしに提示されたなら、そこには罪からの自由はありません。しかし神の救いの恵みは、律法を廃止するのではなく、罪から自由になる力を与えます。というのは、「主の霊のあるところには、自由がある」(2コリント3:17)からです。

律法は罪を抑制し祝福をもたらす

この世界にあふれる犯罪、暴力、不道徳そして悪の増加は、十戒を軽視した結果です。この戒めが受け入れられるところでは、律法は罪を抑制し、正しい行いを促進し、義を確立する手段となります。十戒の原則をその法律に取り入れている国々は、大きな祝福を受けています。一方この原則の否定は、確実に衰退を招いています。

旧約聖書の時代、神はしばしば国々や個人を神の律法の服従の度合いによって祝福されました。聖書は、「正義は国を高くし」、そして「その位が正義によって堅く立っている」(箴言14:34、16:12)と述べています。神の戒めに従わない者は、悲惨に見舞われます(詩篇89:31,32)。「主ののろいは悪しき者の家にある、しかし、正しい人のすまいは主に恵まれる」(箴言3:33、レビ26、申命記28参照)。この同じ一般的原則は、今日も有効です[14]

律法の永遠性

道徳的律法である十戒が、神の品性の反映であるからには、その原則は一時的なものでも状況によって左右されるものでもなく、絶対的で変えることができず、人間にとって永久に効力のあるものです。幾世紀にもわたりクリスチャンたちは、神の律法の永遠性をはっきりと支持し、その変わることのない効力を強く主張してきました[15]

シナイ以前の律法

律法は、神がイスラエルに十戒をあたえられたときのずっと以前から存在していました。もしそうでなければ、「罪とは律法を犯すことである」(1ヨハネ3:4、KJV)とあるように、シナイ以前は罪がなかったことになってしまいます。ルシファーと彼につく天使たちとが罪を犯したということは、創造以前にさえ律法があった証拠です(2ペテロ2:4)。

神がアダムとエバを神のかたちにお造りになったとき、神は彼らの心に律法の道徳的な原則を植えつけられたので、彼らにとって神の意志に従うのは自然なことでした。彼らの違反が罪を人類に導き入れたのでした(ローマ5:12)。

後に神はアブラハムが「わたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守った」(創世記26:5)と言われました。モーセも、シナイ以前に神の律法と規則とを守りました(出エジプト16、18:16)。創世記の研究は、シナイ以前に十戒が良く知られていたことを示しています。創世記は、神が十戒を与えられる前から、人々が十戒が禁じている行為が悪いものであるのを知っていたことを明らかにしています[16]。この道徳律の一般的な理解は、神が人類に十戒の知識を与えていたに違いないことを示しています。

シナイにおける律法

真の神を認めなかった国エジプト(出エジプト5:2)において長い期間捕囚になっている間、イスラエルの人々は偶像礼拝と腐敗の真っただ中で生活しました。その結果彼らは、神の神聖さや清さ、また道徳的原則の知識の大部分を失ってしまいました。彼らの奴隷としての立場は、礼拝を困難にしました。

彼らの助けを求めるせつなる叫びに答え、神はアブラハムとの契約を思い起して、その民を「鉄の炉」(申命記4:20)から救いだし、「彼らが主の定めを守り、そのおきてを行うため」(詩篇105:43-45)に導き出されました。

彼らを解放した後、神はイスラエルの人々をシナイ山に導き、神の統治の標準である道徳的律法と、救いが救い主の犠牲によるあがないによることを教えるための礼典的律法とをお与えになりました。シナイにおいて神は、「違反を促す」(ガラテヤ3:19)、また罪が「戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために」(ローマ7:13)、律法を直接的に、はっきりと単純な言葉で与えられました。神の道徳的律法の明瞭さによってのみ、イスラエルは彼らの律法の違反に気づき、弱さを見いだし、救いの必要を知るようになったのです。

キリスト再臨前の律法

聖書は、神の律法がサタンの攻撃の目標であり、その攻撃は再臨の直前に最高潮に達することを示しています。預言は、サタンが大半の人々を神への不服従に導くと述べています。(黙示録12:9)。「獣」の力をとおして働くことにより、サタンは世界の関心を神のかわりに獣に向けます(黙示録13:3、預言について詳しくは本書第12章を参照)。

1攻撃にさらされる律法

ダニエル書7章は、この同じ力を小さい角として描きました。この章は、四つのきわだった獣について語り、それらはキリストの時代から聖書の注解者たちによってバビロン、メディヤ・ペルシャ、ギリシャ、ローマといった世界の勢力として理解されてきました。第四の獣の十の角は滅亡時(紀元476年)のローマ帝国の分裂を表しています[17]

ダニエルの幻は、十の角の間から起る恐ろしい、神を汚す小さな角を中心としており、ローマ帝国滅亡後に、恐るべき勢力が起ることを示しています。この勢力は神の律法を変えようとし(ダニエル7:25)、これをキリストの再臨まで続けます(本書第19章参照)。この攻撃それ自体が、救いの計画における律法の変わることのない重要さの証拠です。この幻は、神の民への再保証で終っています。というのも、この小さな角は、さばきによって滅ぼされるので、この権力は律法を取り除くことに成功しないからです(ダニエル7:11,26-28)。

2聖徒たちは律法を擁護する

服従は、再臨を待ち望む聖徒たちを特徴づけています。最後の戦いにおいて、彼らは神の律法を高くかかげるために集まります。聖書は聖徒たちを次のように描写しています。彼らは、「神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている」(黙示録12:17、14:12)。そして彼らはキリストの再臨を忍耐強く待ち望んでいます。

再臨の準備において、これらの人々は福音をのべ伝え、他の人々を創造主への礼拝へと招きます(黙示録14:6,7)。神を愛のうちに礼拝する者は、神に従うでしょう。ヨハネが言っているように、「神を愛することは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」(1ヨハネ5:3)のです。

3神のさばきと律法

神に従わない者たちへの神のさばきである最後の七つの災いは、「あかしの幕屋」(黙示録15:5)の聖所にその端を発します。イスラエルは、あかしの幕屋という言葉をよく知っていました。それはモーセが建てた幕屋を意味しました(民数記1:50,53、17:8、18:2、NIV)。このように呼ばれたのは、聖所には「あかしの箱」(出エジプト26:34)が置かれており、その中には「あかしの板二枚」(出エジプト31:18)が納められていたからです。それゆえ、十戒は神の意志を人類に表す「あかし」なのです(出エジプト34:28,29)。

またヨハネの黙示録15章5節は、「天にある、あかしの幕屋の聖所」に言及しています。モーセのそれは、ただ天の聖所の複製にすぎません(出エジプト25:8,40、ヘブル8:1-5参照)。十戒の原型がそこにあるのです。最後の審判が神の律法の違反に深く関係しているということは、十戒の永遠性についてのさらなる証拠です。

ヨハネの黙示録はさらに、天の聖所が開けてその中に「契約の箱」(黙示録11:19)が見えたと述べています。契約の箱という言葉は、地上の聖所の「契約の言葉、十戒」(出エジプト34:28、民数記10:33、申命記9:9参照)が記されている板を入れてあった箱を意味します。天の聖所における契約の箱は、永遠の契約の言葉、すなわち十戒の原本が入っている原型としての箱です。ゆえに、この世界に対する神の最後の審判(黙示録11:18)が、この天の聖所が開け契約の箱と十戒が注目されることと関連しているのは明白です。これは、審判の基準としての神の律法を大いならしめることとみごとに調和しています。

律法と福音

救いは、賜物であり、律法のわざによってではなく、信仰をとおし、恵によってもたらされます(エペソ2:8)。「どのような律法の行いも、どんなすばらしい努力も、どんなに良い行いも、それが多かろうと少なかろうと、また献身的であろうとなかろと、罪人を義とすることはできません(テトス3:5、ローマ3:20)。」[18]

聖書全体をとおし、律法と福音の間には完全な調和があり、互いに支持し合っています。

シナイ以前の律法と福音

アダムとエバが罪を犯したとき、彼らは罪科、恐れ、そして彼らの必要の何たるかを知りました(創世記3:10)。神は彼らの必要に、彼らに罪を宣告する律法を廃止することによってではなく、むしろ交りと神への服従を回復する福音の提供により、応じられました。

この福音は、女のすえであり、いつの日にか来て、罪に勝利される救い主によるあがないの約束を内容としていました(創世記3:15)。神が命じられた犠牲制度は、あがないについての重要な真理、すなわち、ゆるしは血を流すことによってのみ、つまり、救い主の死によってのみなしとげられることを教えていました。動物の犠牲が、救い主のあがないの死を象徴していると信じることにより、彼らは罪のゆるしを与えられたのでした[19]。彼らは、恵みによって救われたのです。

この福音の約束は、人類に与えられた神の永遠の恵みの契約の中心でした(創世記12:1-3、15:4,5、17:1-9)。それは、神の律法への服従と深く関係していました(創世記18:18,19、26:4,5)。神の契約の保証人は、福音の中心であり、「世の初めからほふられた小羊」(黙示録13:8)であられる神のみ子でした。ゆえに、神の恵みは、アダムとエバとが罪を犯すやいなや発動されたのでした。ダビデは、「主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、…その契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ」(詩篇103:17,18)と言っています。

シナイにおける律法と福音

十戒と福音との間には、深い関係があります。例えば、十戒の序文は、神をあがない主として言及しています(出エジプト20:1)。十戒の布告に続いて、神は神の救いの恵みを表すために、イスラエルに祭壇を築き、犠牲を捧げるよう教えられました。

神がその民と共におられ、罪のゆるしと祝福とをお与えになる場所、すなわち聖所の建物に関する礼典的律法の大部分を神がモーセにお与えになったのは、シナイ山においてでした(出エジプト24:9-31:18)。シナイ以前からの単純な犠牲制度のこの発展は、罪人のあがないにおけるキリストの仲保の働きと、神の律法の神聖さと権威の擁護とを予表していました。

神の臨在の場は、地上の聖所における至聖所であり、契約の箱の上部にある贖罪所でした。その契約の箱の中には、十戒が納められていました。聖所における奉仕の一つ一つが、救い主を象徴していました。血にまみれた犠牲は、律法ののろいから人類をあがなう救い主のあがないの死を指し示していました。(本書第四章、及び第九章参照)。

十戒が契約の箱の中に納められていたのに対し、神がお与えになった礼典的律法と社会法規とは、「律法の書」として書き記され、契約の箱のかたわらに、民「にむかってあかしをするもの」(申命記31:26)として置かれました。民が罪を犯したときはいつでも、この「あかし」が彼らの行動を責め、神との和解のために何をすればよいかを詳細にわたって明らかにしました。シナイからキリストの死に至るまで、十戒に違反した者たちは、聖所の奉仕についての礼典的律法に表されている福音によって、希望、ゆるし、そして信仰による清めを見いだしたのでした。

十字架以降の律法と福音

多くのクリスチャンたちが述べているように、聖書は、キリストの死による礼典的律法の廃止を明らかにする一方、道徳的律法の永続性を断言しています[20]。その根拠に注目してみましょう。

1礼典的律法

キリストが死なれたとき、キリストは犠牲制度の預言的な象徴を成就しました。型が実体と出会い、礼典的律法に終りを告げました。幾世紀も前に、ダニエルは、メシヤの死が「犠牲と供え物とを廃するでしょう」(ダニエル9:27、本書第四章参照)と預言しました。イエスが息をひきとられたとき、超自然的に神殿の幕が上から下まで二つに裂けました。(マタイ27:51)。これは、神殿奉仕の霊的重要さの終りを告げていました。

礼典的律法は、キリストの死以前に、重要な役割を持っていましたが、それは「きたるべき良いことの影」(ヘブル10:1)にすぎず、不充分なものでした。これは、一時的なものであり、「改革の時」(ヘブル9:10、ガラテヤ3:19参照)まで、すなわち、キリストが真の神の小羊としてなくなられるまで、神の民に課せられていました。

キリストの死において、礼典的律法は効力を失いました。キリストのあがないの犠牲は、すべての罪に対するゆるしを提供しました。この行為は、「わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた」(コロサイ2:14、申命記31:26参照)のです。それゆえに、どのような場合にも、罪を取り除いたり、良心を清めたりできない煩雑な祭儀はもはや守る必要がないのです(ヘブル10:4、9:9,14)。食べ物や飲物の捧げ物に関する複雑な要求、さまざまな祭りの祝い(過越の祭り、五句節など)、新月、礼典的な安息日(コロサイ2:16、ヘブル9:10参照)などの礼典的律法について、もはや心配する必要はありません。これらは、「きたるべきものの影」(コロサイ2:17)にすぎないのです[21]

イエスの死と共にクリスチャンたちは、影、すなわち、キリストの実体の反映にすぎないものに係わる必要がもはやなくなりました。いま、彼らは直接救い主ご自身に近づくことができます。というのは、「本体はキリストにある」(コロサイ2:17)からです。

ユダヤ人たちによって解釈されているように、礼典的律法はユダヤ人と他の国々の間の障壁となっていました。それは、神の栄光をこの世に現すという使命に対する大きな障害となっていました。キリストの死は、「戒めの律法を廃棄し」、異邦人たちとユダヤ人の間の「隔ての中垣」を打ち壊しました。それは、クリスチャンたちを一つの新しい家族とし、「十字架によって…一つのからだとして」和解させるためでした(エペソ2:14-16)。

2十戒と十字架

キリストの死は、礼典的律法の権威に終りを告げる一方、十戒を確立しました。キリストは、律法ののろいを取り去り、信じるものたちを律法の有罪宣告から解放したのです。しかし、それは律法の廃止や、律法の原則を犯す自由が与えられたという意味ではありません。律法の永続性に関する聖書の多くの証言が、そのような見解を否定しています。

カルヴァンが的確に述べているように、「キリストの到来によってわたしたちは、律法の権威から自由にされていると考えるべきではない。というのは、律法は、敬虔かつ聖なる生活の永遠の法則であり、それゆえに神の義のように不変であるに違いないからである。」[22]

パウロは、服従と救いの恵みの福音との関係を描いています。パウロは、信者たちを清い生活へと招きつつ、彼ら自身を「義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである」(ローマ6:13,14)と挑戦しています。ゆえに、クリスチャンは、救いを獲得するために律法を守るのではありません。そのようにする者は、さらに深く罪の奴隷になっているのに気づくだけです。「人は律法のもとにある限り、罪の支配のもとにある。というのは、律法は人を罪の宣告からも、また罪の力からも救えないからである。しかし、恵みのもとにあるものは、罪に定められることがないばかりか(ローマ8:1)、それに打ち勝つ力が与えられる。(ローマ6:4)。それゆえに、罪はもはや彼らを支配できないのである。」[23]

パウロは、さらに「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである」(ローマ10:4)と述べています。ですから、キリストを信じるすべての人は、キリストが義を獲得する手段としての律法の終りとなられたのをはっきりと理解しています。わたしたちは、わたしたち自身においては罪人です。しかし、イエス・キリストにあっては、キリストにより与えられた義によって義なる者です[24]

しかしながら、恵みのもとにあるということは、信仰者たちに「恵みが増し加わるために、罪にとどまる」(ローマ6:1)許可を与えるものではありません。むしろ、恵みは服従と罪に対する勝利を可能にする力を与えます。「このようなわけで、今やキリスト・イエスにあるもの、すなわち肉に従って歩まず、霊に従って歩む者は、罪に定められることがありません」(ローマ8:1)。【訳注1】

キリストの死は、律法を高めその普遍的な権限を是認しています。もし、十戒が変えられるものであるなら、キリストは死なれなくてもよかったのです。しかし、この律法は、絶対かつ不変であるゆえに、死という刑罰が課せられたのです。この要求をキリストは十字架の死によって充分に満たし、その大いなる犠牲を受け入れる者すべてが、永遠の生命を手に入れられるようにされたのです。

律法への服従

人間は、自らの良きわざによって救いを獲得することはできません。服従は、キリストにある救いの結果です。とくに十字架に表された驚くべき恵みにより、神はその民を罪の刑罰とのろいから解放してくださったのです。彼らは、罪人であったにもかかわらず、キリストは永遠の生命という賜物を提供するために、その生命をお与えになったのです。神の豊かな愛は、悔改めた罪人に、豊かに与えられている恵みの力による愛の服従という一つの応答を引き出します。キリストが律法の価値をお認めになったことを理解し、また服従の祝福を知っている信仰者は、キリストのような生活をしたいと強く望むでしょう。

キリストと律法

キリストは、十戒を大変尊ばれました。「有って有る者」として、キリストご自身が父なる神の道徳律をシナイにおいて発布なさったのでした(ヨハネ8:58、出エジプト3:14、本書第四章参照)。キリストのこの地上における働きの一つは、「その律法を大いなるものとし、また栄光あるものとすること」(イザヤ42:21)でした。【訳注2】新約聖書がキリストに適用している詩篇のある一節は、キリストの律法に対する態度を明らかにしています。「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:8、ヘブル10:5,7参照)。

キリストの福音は、確固として十戒の有効性を高く掲げる信仰を生み出します。パウロは、「信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ3:31)と言っています。

ゆえに、キリストが来られたのは、人をあがなうためばかりでなく、神の律法の権威と神聖さとを擁護し、その偉大さと栄光とを人々の前に表し、律法とどのように係わるかという手本を示されるためでもありました。キリストに従う者として、クリスチャンは神の律法をその生活において高めるようにと召されています。キリストご自身が愛による服従の生活を送られ、彼に従うものたちに戒めを守る者となるよう強調されました。永遠の生命の条件について質問を受けたとき、キリストは「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」(マタイ19:17)とお答えになりました。キリストはこの原則を犯すことについてもまた警告されました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7:21-23)。律法違反者は、入るのを拒まれるのです。

キリストご自身は、律法を廃するのではなく、服従の生活を通してそれを成就されたのでした。キリストは「覚えておきなさい、天と地の続く限り、律法のささいな点も、最も小さい事柄もすたれることはない」(マタイ5:18、TEV)と言われました。キリストは、神の律法の重要な目的、すなわち、あなたの神、主を、心をつくし、精神をつくし、思いをつくして愛し、あなたの隣人を自分自身のように愛することを常に覚えるべきであると、強調されました(マタイ22:37,38)。しかし、キリストはキリストに従う者たちが、自己中心的で感傷的なこの世の愛によって互いに愛し合うのを望んではおられません。キリストのお語りになった愛を説明するために、キリストは、「新しい戒め」(ヨハネ13:34)をお与えになりました。この新しい戒めは、十戒に取って変わるものではありません。そうではなく、キリスト者たちに「無我の真実の愛を示す一つの手本である。このような愛は、かつてこの地上には見られなかったものである。このような意味においてキリストの戒めは、新しいと表現されているのであろう。この戒めは、単に『互いに愛し合いなさい』ではなく、『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』(ヨハネ15:12)と命じている。厳密に言えば、わたしたちは単純に、ここに、キリストが父なる神の律法をいかに大なるものとされたかというさらなる証拠を見いだすのである。」[25]

服従は、このような愛を表します。イエスは「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)と言われました。「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネ15:10)。同じように、もしわたしたちが、神の民を愛するなら、神を愛し、「彼の戒めを守る」(1ヨハネ2:3)のです。

ただキリストの内に留まることにより、わたしたちは真心からの服従ができるのです。キリストは、「枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。…人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:4,5)と言われました。キリストの内に留まるためには、キリストと共に十字架につけられ、またパウロが記した「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:20)という経験をしなければなりません。このような状態にある者たちに、キリストは新しい契約の約束を成就なさることができるのです。「わたしの律法を彼らの思いの中にいれ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」(ヘブル8:10)。

服従の祝福

服従は、クリスチャンの品性を発達させ、幸福を与え、「今生まれたばかりの乳飲み子」のようにキリスト者を成長させ、キリストの姿へと変えて行くのです(Iペテロ2:2、2コリント3:18参照)。罪人から神の子へという変化は、キリストの力を効果的にあかししています。

み言葉は、次のように言っています。「主のおきてに歩むものは」みな「さいわいです」(詩篇119:1)。そして「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」(詩篇1:2)のです。服従の祝福は、数多くあります。すなわち、(1)洞察と知恵(詩篇119:98,99)、(2)平安(詩篇119:165、イザヤ48:18)、(3)義(申命記6:25、イザヤ48:18)、(4)純潔と正しい生活(箴言7:1-5)、(5)真理の知識(ヨハネ7:17)、(6)病気からの保護(出エジプト15:26)、(7)長命(箴言3:1,2、4:10,22)、(8)祈りが答えられるという確信(1ヨハネ3:22、詩篇66:18参照)です。

神は、わたしたちを服従へと招き、豊かな祝福を約束しておられます(レビ26:3-10、申命記28:1-12)。わたしたちが積極的にこれに応じるとき、わたしたちは神の「特別な宝」、「祭司の国となり、また聖なる民とな」(出エジプト19:5,6、1ペテロ2:5,9参照)り、「地のもろもろの国民の上に立たせ」「かしらとならせ、尾とはならせられない」(申命記28:1,13)のです。

訳注

  1. 新共同訳では、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」となっています。
  2. 新共同訳では、「その教えを大いなるものとし」と訳されています。

[1]ホルブルック「私にとって神の律法は何を意味するか」『アドベンチスト・レビュー』Holbrook,“What God’s Law Means to Me,”Adventist Review (Jan. 15, 1987)、16ページ。

[2]ホワイト『セレクテッド・メッセージズ』White, Selected Messages、第1巻、235ページ。

[3]同・218ページ。

[4]フィリップ・シャフ『キリスト教信条』Philip Schaff, The Creeds of Christendom、第三巻、640―644ページに収録された「ウエストミンスター信仰告白」(1647年)、第19章参照。

[5]テーラー・G・バンチ『十戒』Talor G. Bunch, The Ten Commandments (Washington, D. C.・ Review and Herald, 1944)、35,36ページ参照。

[6]「十戒」『セブンスデー・アドベンチスト聖書事典』“Ten Commandments,”SDA Bible Dictionary、改訂版、1106ページ。

[7]モーセの律法は、旧約聖書の一つの区分であるモーセの五書(ペンタチューク)、すなわち聖書の最初の五つの書を指すこともあります(ルカ24:44、使徒28:23)。

[8]契約の書には、ある種の民事的また礼典的規定も含まれていました。民事的な規定は、十戒への付加ではなく、より大きな原則の特定の事柄への適用にすぎません。礼典的な規定は、罪人へ恵みの手段を提供することにより、福音を象徴します。ゆえに、契約において中心的な位置を占めていたのは十戒です。エレミヤ書7章21-23節、フランシス・D・ニコル『反対に答える』Francis D. Nichol, Answers to Objections (Washington, D. C.・ Review and Herald, 1952)、62-68ページ参照。

[9]アーノルド・V・ワレンカンプ「良心は安全な道しるべか」『レビュー・アンド・ヘラルド』Arnold V. Wallenkampf,“Is Conscience a Safe Guide?”Review and Herald (April 11, 1983)、6ページ。

[10]ある人々は、パウロの「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである」という言葉を解釈し、律法の目的は、わたしたちをして、罪深さに気づかせ、ゆるしを受けるためにキリストのもとにおもむかせ、信仰によってキリストの義を受けさせることにあると理解します(この「終わり」という言葉〔ギリシャ語ではテロス〕は、テサロニケ人への第一の手紙1章5節、ヤコブの手紙5章11節、そしてペテロの第一の手紙1章9節で用いられています。注23参照。

[11]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』SDA Bible Commentary、改訂版、第6巻、961ページ、及び、ホワイト『セレクテッド・メッセージズ』White, Selected Messages、第1篇、233ページ参照。

礼典的律法もまた方法は異なりますが、個人をキリストに連れて行く教師です。犠牲の捧げ物を伴う聖所の奉仕は、罪人らに来るべき神の子羊、エイス・キリストによる罪のゆるしを指し示していました。ゆえに、これらは福音の恵みを彼らにもたらしました。犠牲の捧げ物は、キリストにある神の劇的な例示であった一方、神の律法への愛を引き起こすよう意図されていました。

[12]同・213ページ。

[13]ホワイト『各時代の希望』、第2巻(福音社、1964年)、49ページ。

[14]ホワイト『教育』(福音社、1975年)205-219ページ。

[15]以下のような歴史上の信仰告白がその有効性を支持しています。「ワルドー派教理問答」、(1500年頃)、「ルター小教理問答」(1529年)、「聖公会教理問答」(1549年、1662年)、「スコットランド信仰告白」(1560年、改革派)、「ハイデルベルク教理問答」(1563年、改革派)、「第二スイス信条」(1566年、改革派)、「39ヶ条」(157一年、英国教会)、「和協信条」(1576年、ルター派)、「アイルランド聖公会大綱」(1615年、アイルランド聖公会)、「ウエストミンスター信仰告白」(1647年)「ウエストミンスター小教理問答」(1647年)、「ワルドー派信条」(1655年)、「サヴォイ宣言」(1658年、会衆派)、「フレンド派信条」(1675年、クエーカー)、「フィラデルフィア信仰告白」(1688年、バプテスト派)、「メソジスト宗教箇条」(1784年、メソジスト派)、「ニューハンプシャー信仰宣言」(1833年、バプテスト派)、「東方正教会大教理問答」(1839年、ロシア正教会)。以上は、フィリップ・シャフ編、デーヴィド・S・シャフ改訂、『キリスト教信条』Philp Schaff, ed., rev. by David S. Schaff, The Creeds of Christendom (Grand Rapids : Baker Book House, 1983)、第1巻―第3巻に収録されているものです。

[16]第一と第二の戒めについては、創世記35章1-4節、第四条は、創世記2章1-3節、第5条は、創世記18章29節、第六条は、創世記4章8-11節、第七条は、創世記39章7-9節、19章1-10節、第八条は、創世記44章8節、第九条については、創世記12章11-20節、20章1-10節、そして第十条については、創世記27章を参照してください。

[17]フルーム『われわれの父祖たちの預言信仰』Froom, Prophetic Faith of Our Fathers、第1巻、456,894ページ、第2巻、528,784ページ、第三巻、252,744ページ、第4巻、392,846ページ。

[18]『セブンスデー・アドベンチスト教理の研究』(三育学院短期大学、1976年)、142ページ。

[19]カインとアベルは、犠牲制度について熟知していました(創世記4:3-5、ヘブル11:4)。アダムとエバが最初に手にした衣服(創世記3:21)は、彼らの罪のあがないのために捧げられた動物の皮によって作られたのではないかと思われます。

[20]例としては、以下の歴史上の信仰告白を参照してください。ウエストミンスター信仰告白、アイルランド聖公会大綱、サヴォイ宣言、フィラデルフィア信仰告白、メソジスト宗教箇条。

[21]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』The SDA Bible Commentary、改訂版、第6巻、204ページ、及び、ホワイト『人類のあけぼの』、(上巻、福音社、1971年)、432ページ参照。

[22]カルヴァン『福音書記者の調和に関する注解』Calvin, Commenting on a Harmony of the Evangelists, trans. by William Pringle (Grand Rapids : Wm. B. Eerdmans, 1949)、第1巻、277ページ。

[23]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』The SDA Bible Commentary、改訂版、第6巻、541,542ページ。

[24]他の人々は、律法の終わりとしてのキリストを、律法の目標または目的としてとるか(ガラテヤ3:24参照)律法の成就として理解するかしてきました(マタイ5:17参照)。しかし、救いの手段として(ローマ6:14参照)の律法の終わりとしてのキリストととるのが、ローマ人への手紙10章4節の文脈に一番合うように思われます。「パウロは、神の方法である信仰による義と人間の企てである律法による義とを対比しています。福音のメッセージとは、信仰を持っているすべての者にとって、キリストは、義の手段としての律法の終わりであるということです」(『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』The SDA Bible Commentary、改訂版、第6巻、595ページ。)並びに、ホワイト『セレクテッド・メッセージズ』White, Selected Messages、第1篇、394ページ参照。

[25]ニコル『反対に答える』Nichol, Answers to Objections、100,101ページ。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

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