クリスチャンの品行【アドベンチストの信仰#22】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

われわれは、私生活および社会生活のあらゆる面において、聖書の原則に調和して考え、感じ、行動する敬虔な民であるように召されている。われわれは、キリストに見られる純粋さと健康と喜びを生活の中につくり出すような事柄だけに関係する。それは、聖霊がわれわれのうちに主の品性を再創造してくださるためである。このことは、われわれが参加する娯楽や楽しみが、クリスチャンにふさわしい好みや美しさの最高の標準に合致していなければならないことを意味する。文化的な違いに留意しながらも、われわれの服装は単純で、清潔で、よく似合うものであるべきである。そこにあらわれる真の美しさは、外面の飾りによるのではなく、柔和でしとやかな霊という朽ちることのない飾りによる。それはまた、からだを賢明に大切にすべきであることを意味する。からだは聖霊の宮であるからである。十分な運動をし、十分な休息を取るとともに、できる限りもっとも健康的な食物を摂り、聖書に示されている汚れた食物を絶つべきである。アルコール飲料やタバコ、薬物や麻薬の無責任な使用はからだに有害であるので、これらをも避けるべきである。むしろ、思いとからだをキリストの訓練へと導くような事柄に携わるべきである。キリストは、われわれが健康で喜びにあふれ、誠実に生きることを願っておられる。(信仰の大要22)

クリスチャンの品行、すなわち、神に従う者としての生活のスタイルは、キリストをとおしてなされた、神の偉大な救いのみ業に対する、感謝の応答に起因するのです。使徒パウロは、すべてのクリスチャンに訴えています。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ローマ12:1,2)。このようにして、クリスチャンは、創造主であり、またあがない主であられる方をほめたたえうるように、自ら進んで、心と身体と霊性とを守り、かつ、その向上を図るのです。

キリストは祈られました。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」(ヨハネ17:15,16)。いったいクリスチャンは、いかにして、世に在って、しかも同時に世から分離しうるのでしょうか。いったいその生活スタイルはいかに、世のものとは異なるのでしょうか。

クリスチャンは、世とは異なった生活の仕方を採るべきです。それは何も、単に世と異なるためではなく、神ご自身が、クリスチャンを、原則に従って生きるように召されたからです。主の召しておられる生活の仕方は、それを選ぶ者に、主のみ業において効果ある者とならせ、創造当初の十全の徳の高さに達する成長を、可能ならしめます。この違った生活スタイルに生きることは、地の塩、世の光として世に仕えるという、彼らの使命にも貢献します。実際、味なくして、塩は何の役に立つでしょうか。また、暗やみと異ならない光であるとすれば、その光はいったい何の役に立つと言えるでしょうか。

キリストは、わたしたちの模範であられます。主は、あまりに、世の人々と交って親しく生きられたので、実際は、人々があざけるような生活は何一つなさらなかったにもかかわらず、ある人々は主を「強欲な人間、酔っぱらい」(マタイ11:19、NIV)と呼んで非難しました。一方、主は、神の諸原則を一心に生きられましたので、その罪を指摘しうる人は一人もいなかったのでした(ヨハネ8:46、NIV)。

目次

品行と救い

何がふさわしい行動かを決定するにおいて、二つの両極端を排除すべきです。第一は、救いの手段として、規則、また原則の適用を計ろうとする極端です。使徒パウロは、この極端を次のように要約しています。「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」(ガラテヤ5:4)と。

もう一つの極端は、どんな業も人を救わないので、行為は重要ではない。人が何をするかはどうでもよいことだ、といった考え方です。パウロは、この極端に対しても、次のように言っています。「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)。もしおたがいが、それぞれ自分の思いどおりに行動するなら、そこには、「マタイによる福音書18章やガラテヤ人への手紙6章1, 2節に勧告されているような、たがいに重荷を負い合うような生き方はありません。教会が、キリストの身体としての機能を果すことはありません。教会内には、たがいの愛や親切があるはずでありますが、それは、ただの個人の集合と堕し、各人は自分のしたいことをするだけで、たがいに対する責任を持つことはないし、隣人に対して何の関心をも示すことはありません」[1]

わたしたちの品行と霊性とは、密接に関連してはいますが、しかし、正しい品行によっては決して、救いを得ることはできません。クリスチャンの品行とは、むしろ、救われたことのごく自然な結果であって、カルバリーで、主がわたしたちのためにすでに成し遂げて下さった事柄に根ざしています。

聖霊の宮

教会のみならず、個々のクリスチャンも聖霊の宿られる宮です。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分のものではないのである」(1コリント6:19)。

それゆえ、クリスチャンは、身体なる宮の中でも、とくに命令系の中枢である心、そこはとりわけ聖霊が宿られる場所でもありますが、これを守るため、最良の健康習慣を保持しようと努めるのです。それゆえに、セブンスデー・アドベンチスト教会は、過去100年余の間、絶えず健康を保つ習慣の重要性を強調してきました[2]。そして、この努力は報われています。最近の研究調査によれば、ほとんどの主要な病気につき、アドベンチストは、一般の人々より、それらの病にかかる率が一様に低いことが判明しています[3]

クリスチャンとして、わたしたちは、人々の生活の肉体的、霊的の両面に関心を持っています。わたしたちの模範であられるイエスは、「民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらい」(マタイ4:23)を、おいやしになったのでした。

聖書は、人間を一つの単体として見ています(本書第7章参照)。「人間を霊体と肉体の二つに分けて考える二元論は、聖書の世界観外の思想です」[4]。ですから、聖化への召しは、霊的のみならず、肉体の健康をも内包しています。メソジスト教会の創立者ウエスレーの母、スザンナ・ウエスレーは、これを次のように定義しています。「それがたとい何であろうとも、あなたの理性を弱め、あなたの良心を傷つけ、神の臨在感をおぼろにし、精神の力や身体に対する権威を弱めるものは、それ自体は無害であっても、不適当なものです」と[5]

神の律法は、健康の法則をも含んでいますが、それは、決して行き当りばったりのものではなく、創造の神自身が制定されたもので、わたしたちが最高度に人生を楽しむことができるように意図されたものでした。神の敵であるサタンは、わたしたちから健康や喜び、心の平和を奪おうとしてつねにうかがっていますし、ついには滅し去ろうと欲しています(ヨハネ10:13参照)。

全体的健康への神の祝福

この健康を得るためには、神がお与えくださった、幾つかの、しかも簡単で効果的な原則に従うことが必要です。これらの原則のあるものは自明の理で、だれにでも納得できるものです。しかし、他の原則、例えば食生活改善などは、受け入れがたく感じられるかも知れません。なぜなら、日常生活の様式の基本的にかかわるものの是正を含んでいるからです。それゆえ、この項では、とくに誤解されたり、論争の対象となるもの、あるいは拒絶されてしまうような原則には、[6]より多くの紙面をさくことにします。

運動の祝福

日常の運動は簡単な形で良いのですが、それは、活力を増したり、強壮な身体づくり、ストレスの解消、効果的な体重調整、消化吸収の増進、規則正しい生活づくり、またふさぎ込みを防いだり、心臓病やがんの予防等を目ざします。運動は、人生の単なる付録ではなく、心身の健康維持のためには、ぜひとも必要なものです[7]

有為な活動は人を豊かにし、不活動や怠惰は、その逆の傾向をもたらします(箴言6:6-13、14:23)。神はアダムとエバに、活動の処方箋を与えられました。すなわち、彼らの園エデンを耕させられました(創世記2:5,15、3:19)。また、キリスト自身は、肉体的活動の模範を示されました。その生涯の大部分は、大工として手仕事に従事され、また、公生涯では、パレスチナの道を歩いて巡られたのでした[8]

太陽光線の祝福

光は人間生活に不可欠の要素です(創世記1:3)。わたしたちの身体を養いかつ活力を与えるための栄養素、また、生きるためには必須要素である酸素、これらを産み出すための全行程につねにあずかっているのは太陽光線です。日光は健康といやしを増進します。

水の祝福

人間の身体の75%は水です。しかし、この体内の水分は、吐き出す息や汗、また、老廃物とともに、断えまなく失われていきます。ですから、一日にコップ6-7杯のきれいな水を飲むことは、健康維持の助けになります。その他の、水の大事な機能には、清潔やくつろぎを与えるといった働きもあります。

新鮮な空気の祝福

今日、家庭の内外のよごれた空気の生活環境は、酸欠状態の血液の原因になっており、その血液は、健全な細胞維持に必要な酸素の量を保有していないのです。これは、人の機敏さや反応を鈍くするように働きます。ですから、毎日できる限り、新鮮な空気を確保することが大切です。

節制、薬物や刺激物を摂取しない生活の祝福

薬物の使用は、今日のわたしたちの生活に深く浸透しています。薬類は刺激を与えますが、同時にストレスを解消し、痛みを和らげます。わたしたちは、薬物使用の慣習で囲まれてます。何でもないような飲物にも、さまざまな薬物が含まれています。コーヒー、お茶、コーラには、カフェインが入っていますし、[9]ある果実の香りのついている清涼飲料には、アルコールが入っています。研究報告によれば、始めは弱くても、徐々に強いものに移行していく傾向が、薬物使用にはあることが分かってきています。したがって、賢明なクリスチャンは、有害なものはすべて避け、良い物のみを適度に用いる生きかたをします。

1タバコ

どんな形であれ、喫煙の習慣は、肉体にも、精神にも、また道徳の力にも、ゆっくりではありますが、確実に有害な影響を及ぼしていきます。タバコは毒物です。始め、その効果はほとんど気づかれません。それは刺激を与えます。それから、神経をまひさせ、頭脳を弱め、くもらせます。

タバコを用いている人々は、徐々に自殺しているのです[10]。それは、十戒の第六条、「あなたは殺してはならない」(出エジプト20:13)という戒めを犯していることになります。

2アルコール性飲料

アルコールは、地上でもっとも広く用いられている薬物の一つです。これは公式に発表はされていませんが、実に数百万の人々を滅ぼしてきました。それは単に、用いた人を傷つけるだけではなく、一般に家庭破壊や交通事故による死、貧困という形を伴い、したがって、その地域社会から代償を、厳しく取立てる結果になります。

神は、わたしたちの心をとおしてだけ、対話をなさいます。一方、アルコールは、対話を含めた心の種々の機能に、ことごとく、支障を来す有害な作用を及ぼすものであることを、銘記すべきです。体内でのアルコールの濃度が高くなるにつれ、まず調整力を失い、ついで混濁、方向感覚の喪失、無感覚、麻酔、昏睡、死へと、症状が進行します。継続的にアルコール性飲料を摂取しますと、記憶力、判断力、学習力を失っていきます[11]

聖書中の、アルコール性飲料の使用例は神がその使用許可を与えておられる証拠であるかのような印象を与えます。しかし聖書には、例えば、離婚、一夫多妻制、奴隷制度等のような、神が決してお認めにはならないような社会慣習を、神の民が行っていた記録も見られます。それゆえ、これらの聖書の解釈にあたっては、必ずしも、すべてこれらのことを神が許容しておられる保証ではないことを、心に留めておくべきです。

なぜモーセが離婚を許したかという問いに対するイエスの答えの中に、この種の問題の解釈の、原則となるものが与えられています。主は言われました。「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった」(マタイ19:8)[12]。エデンのすべては、神の樹立した在るべき理想であり、福音は、そこへわたしたちを回復しようとしているのです。これらの外の慣習もそうであったように、アルコールの使用も、神の当初の計画には入れられてはいなかったのです[13]

3その他の薬物や麻薬

サタンが人間を破壊するために用いるものには、その他にも、多くの薬物や麻薬があります[14]。キリストを一心に見つめているクリスチャンは、身体でも神の栄光を現し続けたいと願います。自分は神の尊い所有物であり、また、計り知ることのできないほど尊い血の代価によって、買取られている存在であることを認めているからです。

休息の祝福

適宜な休みは、心と身体の健康に欠かせません。疲れていた弟子たちに、主が言われた言葉は、今日のわたしたちにも、一つの慈悲深い指針を示しています。「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」(マルコ6:31)。休息のときは、人生には必須な、神との交わりのための静けさを提供します。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)。神は、人がこのような休息を必要としていることを強調し、週の第七日を、休日として聖別してくださいました(出エジプト20:10)。

休息とは単に睡眠を取るとか、日常の仕事を休むとかいうこと以上のことです。それには、楽しみのときを持つことも含まれます。疲れは、必ずしもストレスや一所懸命の働き、あるいは長時間の働きによるものばかりとは限りません。わたしたちの心は、種々の生活条件、病、あるいはさまざまな個人的問題等から来る過度の刺激によっても疲れます。

リクリエーションとは、その真の語義には、「再び創造する」という意味があります。心身を強壮にし、高め、生き返らせるのです。このようにして、新しい力をもって働きに戻れるようにするのです。クリスチャンは、最善の状況で生きうるためには、主との緊密な結びつきを強め、かつ健康を増進するようなリクリエーションや娯楽のみを求めるべきです。

クリスチャンが、いったいいかなるリクリエーションを選択すべきかという点につき、聖書は次のような原則を教えています。「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである」(1ヨハネ2:15,16)。

1映画、テレビ、ラジオ、ビデオ

これらのものは、教育のためには、とくに重要な媒体となりえます。これらの媒体は、「現代世界の空気(を)一変し、われわれ(が)、地球上のあらゆる生活と、思想と活動によういに接触することができるように」しました[15]。他のどんな働きよりも、テレビやビデオが個々人の生活に与えた影響力をクリスチャンは思い起すでしょう。

不幸なことには、テレビやラジオのほとんどの劇映画は、家庭に決定的な影響をもたらしましたが、それらは、健全なものではなかったし、決して向上させるものではありませんでした。もし、選択をしないなら、しかも毅然とした態度で事に臨まないなら、「われわれの家庭は、ラジオとテレビによって低級で下品な劇場や音楽ショーとなってしまうのです」[16]。当然、献身したクリスチャンは、不健全で、暴力や性を刺激するだけの映画やテレビの番組を、賢明に避けるでしょう。

視聴覚の教材それ自体は悪ではありません。人間の悪の深さを描いて見せる同じ媒体が、救いの福音を宣べ伝える通路としても用いられることができますし、その他多くの価値ある番組が放送されています。しかし、たとい良い番組であっても、日常生活の責任を果さないような形で見てしまうこともあります。したがって、クリスチャンは、番組の内容ばかりではなく、その見るための時間をも検討し、観賞することになるでしょう。それは、社会の人間関係や、負っている責任に支障を来たさないようにするためです。もし、選別できないか、あるいは自制心に欠けているなら、心を毒したり、時間を過度に浪費して、これらのとりこになってしまうよりは、これらの媒体を除いてしまった方がはるかに良いことです(マタイ5:29,30参照)。

キリストを瞑想することについての重要な原則が、聖書の中で次のように教えられています。「見つづけることによって、わたしたちは、絶えず増し加わる栄光をもって主と同じ姿に変えられていきます」(2コリント3:18、NIV)。見ることは変化をもたらします。しかし、これは悪い方向においても同様であることを、つねに覚えなければなりません。映画は、殺人、姦淫、盗み、その他の堕落した人間の犯罪、罪を絵画的に生き生きと描いているので、これらは、今日の道徳の破壊にあずかって力があります。

ピリピ人への手紙4章8節のパウロの勧告は、価値あるリクリエーションかどうかを判定する一つの基準を示しています。「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称讃に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」。

2読書と音楽

同様の高い標準がクリスチャンの読書や音楽にも適用できます。音楽は神からの一つの賜物で、人の思想を清め、高尚にし、高揚するため与えられました。ですから、良い音楽は、品性のもっともすぐれた資質を促進します。

一方、品性を低下させる音楽は、「魂のリズムを狂わせ、道義性を破壊します。」ですから、キリストに従う者たちは、「ジャズやロック、スイングやそれらをミックスしたような性質を持った音楽や、愚かなくだらない感情を表わした言葉」[17]を避けます。誘惑的な歌詞やメロディーの音楽に、彼らは耳を傾けません(ローマ13:11-14、1ペテロ2:11)[18]

読書もまた、多くの有益な価値あるものを提供してくれます。心を啓発し、大きくしてくれるような優れた書籍がたくさんあります。しかし、一方では、「人をひきつけるような仮面をかぶって、精神や徳性を破壊するような悪い読物もたくさんあります」。「野蛮な冒険物語や、道徳の退廃した物語は実話であろうが、作り話であろうが」、神の民には適しません。なぜなら、これらは高尚で、正直で、清潔な生活を嫌悪させ、キリストとの交わりを深めるのを妨げるからです[19]

3容認し得ない活動

アドベンチスト教会は、ギャンブルやトランプ遊び、また、観劇、ダンスを避けるように教えています(1ヨハネ2:15-17)。闘争的なスポーツを見て、時間を費やすことにも疑問を投げかけています(ピリピ4:8)。いかなる活動であっても、主との関係を弱め、永遠への関心を失わせてしまうような内容の活動は、わたしたちの魂を、サタンの鎖で縛るのを助けることになるのです。クリスチャンは、知:徳:体のすべてに清新さを与えるような、健全なレジャー活動にこそ携わるのです。

栄養食品の祝福

人祖アダムとエバに、創造主なる神は、理想の食物を与えられました「…わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう」(創世記1:29)。堕落後、神は食物として、「野の草」(創世記3:18)も与えられました。

今日の健康問題は、徐々に悪化する性質のもの、つまり、直接には食習慣や生活の仕方に起因する病気に集中する傾向にあります。神の計画された食物は、穀類、果実、堅果類、野菜などから成っているのですが、それは、健康を最良の状態に保つのに必要な、もっとも適当な栄養の諸成分を提供します。

1原初の食事法

聖書では、清い動物の肉を食べることを罪としてはいません。しかし、神の初めの計画には、肉食は入っていませんでした。なぜなら、食用として動物の生命を取ることは神の意図されるものではありませんでした。またバランスのとれた菜食は、健康のためには最善であるからです。この菜食の効用に関しては、今日では、科学的にも数多く実証されています[20]。病気を起すバクテリアやビールスを含んだ肉を食べていると、健康を弱めていく可能性があります[21]。毒性の家禽類の食糧のために、米国だけで、毎年数百万の人々が病気になっています。検査ミスで、サルモネラ菌等の汚染を見過ごしてしまった肉のためです[22]。ある専門家たちは、「バクテリア汚染による方が、化学物質や合成保存料の添加によるより、はるかに危機的状況にある」ので、これら、バクテリアに起因する病気の増加を予測しています[23]

さらに、最近の研究の結果、肉食の増加とともに、動脈硬化、がん、腎臓疾患、骨粗鬆症、旋毛虫病が増加し、また、平均寿命の短くなる可能性が指摘されています[24]

エデンの園で示された神の食事法、すなわち、菜食は理想的なものです。しかし、現実にはときとして理想どおりにはいきません。そのような状況下にあっては、また、たといいかなる場合に置かれても、もし、良い健康を保ちたければ、その置かれた環境下で得られる最善の食糧を摂取することです。

2清い肉と汚れた肉の食べ物

大洪水後、初めて神は肉を食物とすることを許されました。すべての植物が地から一掃されてしまったので、ノアとその家族に、血をとり除くことを条件に、神は肉食を許されたのでした(創世記9:3-5)。

聖書の教え全体から暗示されているもう一つの条件は、おそらく清いと言われた動物のみを食べるべきであったという点です。箱船に入る動物として、神はノアに清い動物は七つがい、汚れた動物は一つがいだけを選ぶように命じられました(創世記7:2,3)。これは犠牲として捧げるためのもの(創世記8:20)ばかりではなく、食糧としても清い動物を必要としていたからでした。レビ記11章や申命記14章には、清い食物と汚れた食物とに関するくわしい説明があります[25]

当然、汚れた動物は、最良の食べ物ではありません。豚やライオンから始まって、はげたかや、海底に住む生物、そしてたこやいかに至るまで、多くの場合、それは腐食を食う動物か食肉動物です。その生活習慣のゆえに、これらの生き物は、より病原菌の媒体になり易いのです。

研究の結果、「豚や貝類はかなりの量のコレステロールのほか、人間には有害である毒物や汚染物質を保有する」ことが分かってきています[26]

汚れた食物を断つことによって、神の民は、周囲の堕落、汚れた世界からあがなわれたことへの限りない感謝を表したのでした(レビ20:24-26、申命記14:2)。神の聖霊が宿られる宮である身体の中へ、汚れたものを取り入れることは、神の理想からは遠く隔たったものです。

新約聖書でも、清い食物と清くない食物との区別を廃してはいません。しかし、ある人々は、これらの食物規定は旧約聖書のレビ記に書いてあるので、それは単に祭りや儀式上のおきてであって、今日のクリスチャンにはもはや意味がないと考えています。しかし、清い動物と汚れた動物との区別は、イスラエル民族が存在するよりはるか以前の、ノアの時代にさかのぼることができます。健康の原則として、これらの食物規定は、今も有効な戒めといえましょう[27]

3規則正しく、単純で、調和のとれた食事

成功する食事改革は、徐々に、しかも、良く考えてなされなければなりません。当然、わたしたちは、高コレステロールあるいは砂糖を含んだ食物については、摂取をやめるか控え目に用いることを学ぶ必要があります。

さらに、わたしたちは、自分の食べ物を、できるだけ単純で、自然のままで摂ることができるように調理すべきです。それに、健康のためには、定期的に食事をとることも必要です。複雑に料理されたもので、かつ刺激的な食べ物は、最良の健康的な食事とは言えません。多くの薬味やスパイスは、消化器官を刺激し[28]、習慣的にこれを用いると、ある種の健康問題を引き起こします[29]

クリスチャンの服装の祝福

神は、アダムとエバのため、最初の衣服を与えられましたが、今日でも、わたしたちには適当な着衣が必要であることをご存じです(マタイ6:25-33)。服装の選択にあたっては、簡素、上品、実用的、健康的、魅力的であるといった、諸原則に基づくべきです。

1簡素

他のどの分野でもそうですが、クリスチャンは着ることにおいても、簡素を旨とするように召されています。「クリスチャンのあかしには単純さが必要です。」

「わたしたちの服装は、わたしたちがどんな人であるか、またどんな働きをしているかを証言します。したがって、それが、昔からの伝統的な礼節にかなっているかどうかというよりも、主イエスに対する愛の表現であるかどうかが問われているのです。」[30]

2高い道徳性

真のクリスチャンは、欲情(1ヨハネ2:16)をそそるようなスタイルの服装で、自己の品性を傷つけるようなことはしないでしょう。他の人々に証しとなるような生活を願っていますので、身体の一部をあらわにしたりして、性的欲望を刺激する結果となるような衣服を身につけるようなことはしません。上品で、慎み深い装いをし、行動をします。それは、道徳上の健全さを助長します。クリスチャンが求めているものは神の栄光であって、決して自分自身の栄光ではありません。

3実用的かつ経済的

神の財産の管理者として、クリスチャンは経済的な生きかたの実行者です。「金や真珠をつけたり、高価な着物を着たり」(1テモテ2:9)しないのです。しかしながら、この経済性ということは、何も安物を買いなさいということではありません。長い目で見れば、質の良いものの方がより経済的です。

4健康的

人の健康に影響を与えるのは、食べ物に限りません。クリスチャンは、身体を保護しないような衣服、また、締めつけたり、健康を弱めるような服装を避けます。

5優雅で自然美の装い

クリスチャンは「持ち物の誇り」(1ヨハネ2:16)に陥ることのないようにとの警告を知っています。キリストは、野の百合を指して、「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6:29)と言われました。これは、天の美の標準は、その優雅、簡素、純潔、自然美にこそあることを例示しています。今日のファッション界に見られるような、世的なはかない見せびらかしは、神の目に何の価値もありません(1テモテ2:9)。

クリスチャンが世の人々を引きつけるのは、世の人々と同じように装ったりふるまったりすることによってではなく、どこか違っていて、魅力的で、新鮮であることによってであります。ペテロは言います。「…たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう」。クリスチャンが意を用いるべきは、外側を飾ることではありません。「かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである」(1ペテロ3:1-4)と、ペテロは勧告しています。さらに、聖書は次のことを教えています。

A品性は人の真の美しさを表す

着飾ることに関して、ペテロもパウロもともに、クリスチャンのための基本となる指針を与えています。「あなたがたの美は、金の飾りや高価な服装を身につけたりするような外面の飾りによるべきではありません」(1ペテロ3:3、NIV)。「また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい」(1テモテ2:9,10)。

B改革とリバイバルにふさわしい簡素さ

ヤコブが家族一同に神への献身を呼び掛けると、彼らは「持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与え」ました。そして、ヤコブはこれらを埋めました(創世記35:2,4)[31]

イスラエルが背教して、金の子牛の像を作ったとき、神は彼らに言われました。「今、あなたがたの飾りを身から取り去りなさい。そうすればわたしはあなたがたになすべきことを知るであろう」。それで、悔改めて、彼らは「飾りを取り除いた」のでした(出エジプト33:5,6)。これらの背教のことが、聖書の中に記録されているのは、「世の終わりに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」(1コリント10:11)と、パウロは、はっきりと述べています。

C良い管理者の務めには犠牲の生活がある

世界の多数の人々が、栄養不良の状態にあるにもかかわらず、物質主義の波はクリスチャンをも試み、高価な衣服や車、また宝石類からぜいたくな家屋に至るまで、さまざまな余分なものを手に入れたいと思うように誘惑しています。しかし、クリスチャン人生の質素な生活習慣は、この20世紀社会の貪欲、それは人より物に重点を置く生きかたですが、そのような物質至上主義、異教に特徴的なけばけばしさ等とは、全く対称的な生きかたです。

これらの聖書の教えや原則に照らしてみて、クリスチャンは、宝石類で身を飾るべきではないと考えます。単に飾りであるだけの、指輪、耳飾り、ネックレス、腕輪、ネクタイピン、カフスボタン等、その他どんなものであれ、クリスチャンたちには、不必要であり、これらは、つつましい身なりをするようにと勧めている聖書の教えと調和しません[32]

聖書では、また、けばけばしい化粧を、異教や背教と結びつけています(列王下9:30、エレミヤ4:30)。したがって、化粧について言えば、クリスチャンは自然で健康的な顔立ちを保つべきです。もしも、わたしたちが、自分たちの日常会話や行為、また、装い等の生きかたの中で、救い主を高く掲げるなら、わたしたちはちょうど磁石のようになって、人々を救い主のみ許に引きつけるようになります[33]

クリスチャン標準の諸原則

クリスチャンの人生に現れる一つ一つの生き様は、キリストをとおして与えられた救いへの応答です。そのクリスチャンは神の栄光を求めます。「もし、イエス様であったなら、どうなさるであろうか」と問いながら生きます。ある人は、クリスチャンの人生とは、一連の禁止事項から成っていると考えてしまいますが、そうではなく、むしろ救いの範ちゅうにある一連の積極的な諸原則に基づいていると見るべきです。イエスは、ご自分が世に来たのは、わたしたちが生命を得、しかも豊かに得るようになるためであると言われました。いったいこの豊かな生命に導く諸原則とはいかなるものでしょうか。それは、個々人の人生の中に聖霊が訪れる事によるのであり、そのとき周囲の人々に判然とするような、決定的変革がその人の内に起ってくるのです(ヨハネ3:8)。聖霊は人生の変革を起させるばかりではなく、その影響力をその後も継続されます。そして、この聖霊の第一で最重要な実は「愛」です(ガラテヤ5:22,23)。キリスト教の何たるかを示す最大の論証は、愛し愛されるクリスチャンです。

キリストの心で生きる

「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」(ピリピ2:5)。たといそれが順境であろうと逆境であろうと、あらゆる状況下で、わたしたちはキリストの望まれること、そのみ旨に調和して生きることを求めるべきです(1コリント2:16)。

キリストとの関係において生きる人生の美しい結果を、エレン・ホワイトは、次のように述べています。「すべての真の服従は心から生まれる。キリストにとってはそれは心の働きであった。もしわれわれが承知するなら、キリストはわれわれの思いやこころざしと一体となり、われわれの心と思いとを一つにしてご自分のみこころに一致させてくださるので、キリストに従うときに、われわれは自分自身の衝動を実行しているにすぎない。意志は洗練され、きよめられて、主のご用をなすことに最高のよろこびをみいだす。神を知ることはわれわれの特権であるが、このように神を知るときに、われわれの生活は変ることのない服従の生活となる。キリストのこ品性の真価を認めることによって、神とまじわることによって、罪はわれわれにとって憎むべきものとなる。」[34]

神を讃美し崇めるために生きる

神はわたしたちの祝福のため、数限りないことをしてくださいました。わたしたちの感謝を表す一つの方法は、主をほめ称えることです。

霊的生活におけるこの面の重要さを、詩篇記者は力説しています。「わたしは、あなたに聖所でお目にかかりました。そして、あなたの力と栄光とを目のあたりにしました。あなたの愛は、生命にも優るものであるゆえに、わたしのくちびるはあなたをほめ称えます。生き長らえる限り、わたしはあなたをほめ称え、み名を呼び求め、手を挙げて祈ります。わたしの魂は、最上のご馳走によってもてなされるように満足し、わたしの口は、讃美のくちびるをもってあなたをほめ称えます」(詩篇63:2-5、NIV)。

クリスチャンのこのような讃美の世界観は、人生のもろもろの事象にも、もっともふさわしく対処していけるようにします。わたしたちを罪ととがからあがない出し、また、その力から解放してくださった、十字架にかけられたわたしたちの救い主を、仰ぎ見続けていくと、わたしたちは、ただ「主の目にかなう事柄」(1ヨハネ3:22、エペソ5:10、NIV参照)のみをさせて項きたいと願うようになるのです。クリスチャンは、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きる」のです(2コリント5:15)。すべての真のクリスチャンは、彼のなすすべてのわざ、すべての思い、すべての言葉、すべての願いにおいて、神を第一とします。あがないの主以外のいかなる神をも神とすることはありません(1コリント10:31)。

模範となるように生きる

パウロは、だれにも「つまずきになってはいけない」(1コリント10:32)と言いました。さらに、「わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています」(使徒24:16)と宣言しています。もし、わたしたちの生きかたが人を罪に導いてしまうのなら、わたしたちは、キリストが生命を賭けられた人々の、つまずきの石となってしまっているのです。「だれでも『彼にあって生きている』と主張する者は、イエスが生きられたように歩まねばなりません」(1ヨハネ2:6、NIV)。

仕えるために生きる

クリスチャンが生きる主な理由は、失われた人々を救うことです。パウロは言いました、「わたしは、あらゆる方法で、すべての人を喜ばせようと努めてきました。それは、自分の益ではなく、彼らの益を求めたからです。こうして彼らが救われるに至ることを願ったのです」(1コリント10:33、NIV、マタイ20:28参照)と。

基準と指針

人の生きかたは、その人の霊的経験やあかしに大きな影響を与えるため、教団としては、教会員になるための最低の基準として、ある種の生活指針を設定しています。これらの規約には、タバコやアルコール性飲料、また、心を操作するような化学物質や、けがれた食物を摂取しないこと、さらに、成長しているキリスト者にふさわしい服装の必要や、さらにまた、余暇の用いかたに関する留意事項等を含んでいます。これら最小限の規約には、神がお与えになった、信徒はこう在るべきという理想の在りかたのすべてを含んでいるわけではありません。これらは、単に、クリスチャンとして成長し、輝いていくためのごく最初のステップを示したに過ぎません。それはまた、信徒の交わりに一致を与える基礎となるものでもあります。

クリスチャンの品行の、「神のかたち」への成長は、漸進的で、キリストとの生涯にわたる結合を内包しています。聖なる生きかたとは、日毎に、キリストのコントロール下にわたしたちの意志の明け渡しをし、また、み言葉の学びや祈りにおいてわたしたちに示されている主の教えに、日毎に自らを同化させて行くこと以外の何ものでもありません。わたしたちひとりびとりは、それぞれ異なった段階で成長していくので、わたしたちが、自分より信仰の弱い兄弟・姉妹方を、決して裁くことのないように生きることは、極めて重要です(ローマ14:1、15:1)。

救い主と一つになっているクリスチャンは、ただ一つの理想だけを持っています。自分たちを救うため、このように豊かな救いのご計画をお立てくださった方、すなわち、天の神に栄光を帰すため、彼らは最善のことをするのです。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべき」(1コリント10:31)です。

[1]L・A・キング「律法主義か自由放任主義か――のがれえないジレンマ」『クリスチャン・センチューリー』L. A. King,“Legalism or Permissiveness ・ An Inescapable Dilemma?”The Christian Century (April 16, 1980)、436ページ。

[2]セブンスデー・アドベンチスト教会内における、健康生活の聖書的裏付けの理解に関しては、ダムスディークト『セブンスデー・アドベンチストのメッセージと働きの土台』Damsteegt, Foundations of the Seventh-day Adventist Message and Mission、221-240ページ、およびダムスティークト「初期安息日順守者の再臨信仰における健康改革と聖書」『アドベンチスト・ヘリテージ』Damsteegt,“Health Reforms and the Bible in Early Sabbatarian Adventism,”Adventist Heritage (Winter, 1978)、13-21ページ参照。

[3]ルイス・R・ウォルトン、ジョー・エレン・ウォルトン、ジョン・A・シャーフェンバーグ『いかにしてもう6年長生きするか』Lewis R. Walton, Jo Ellen Walton, John A. Scharffenberg, How You Can Live Six Extra Years (Santa Barbara, CA ・ Woodridge Press, 1981)、4ページ、D・C・ニーマン、H・J・スタントン「アドベンチスト・ライフスタイル――より良い生き方」『活力に満ちた人生』D. C. Nieman and H. J. Stanton,“The Adventist Lifestyle – A Better Way to Live,”Vibrant Life (March/April, 1988)、14-18ページ参照。

[4]『ゾンダーヴァン絵入り聖書百科辞典』Zondervan Pictorial Encyclopedia of the Bible (Grand Rapids, MI ・ Zondervan, 1975)、第1巻、884ページ。

[5]C・B・ヘインズ「教会の標準――第5」『レビュー・アンド・ヘラルド』C. B. Haynes,“Church Standards―No. 5”, Review and Herald (Oct. 30, 1941)、7ページ。

[6]これらの健康の原則をもっと詳しく知りたければ、V・W・フォスター『新しい出発』V. W. Foster, New Start!(Santa Barbara, CA ・ Woodbridge Press, 1988)参照。

[7]例えば、以下のものを参照。ケネス・H・クーパー『全人的健康のためのエアロビックス・プログラム』Kenneth H. Cooper, Aerobics Program for Total Well Being (New York ・ M. Evans, 1982)。『健康教育要目』Physical Fitness Education Syllabus (Loma Linda, CA ・ Department of Health Seience, School of Health, Loma Linda University, 1976―1977)。ジョン・ディグナム「歩いて形を整える」『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』John Dignam,“Walking Into Shape,”Signs of the Times (July, 1987)、16ページ。B・E・ボールドウィン「運動」『健康といやしのジャーナル』B. E. Baldwin,“Exercise,”Journal of Health and Healing, 11, No. 4 (1987)、20-23ページ。ジーヌ・ワイスマン。『身体の健康――豊かな、生きた健康サービス』Jeanne Wiesseman, Physical Fitness, Abundant Living Health Service、第5巻(Loma Linda, CA ・ School of Health, Loma Linda University, n. d.)、21,37,38,45ページ。ダイアンヌ―ジョー・ムーア「歩いてあなたの緊張を取り去る」『あなたの人生と健康』Dianne―Jo Moore,“Walk Your Tensions Away,”Your Life and Health, No. 4 (1984)、12,13ページ。

[8]種々の運動の中で、歩くことは最も良い運動の一つとされています。例えば、J・A・シャーフェンバーグ「運動に対するアドベンチストの責任」J. A. Schariffenberg,“Adventist Responsibility in Exercise”、未刊行原稿。ホワイト『教会への証』White, Testimonies、第三巻、78ページ。ホワイト「節制」『健康改革者』White,“Temperance,”Health Reformer (April, 1872)、122ページ。ディグナム「歩いて形を整える」Dignam,“Walking Into Shape,”、16,17ページ。

[9]カフェインは、血中コレステロールを高め、高血圧をもたらし、胃液の過剰分泌や消化障害をもたらすことが知られています。それはまた、心臓病や糖尿病、結腸、膀胱、膵臓部のがんにも関連づけられています。妊娠中に飲み過ぎると、出産障害や未熟児の出産率が増加します。以下のものを参照のこと。ロバート・オブラィエン、シドニー・コーヘン「カフェイン」『薬物乱用に関する百科辞典』Robert O’Brien and Sidney Cohen,“Caffeine,”Encylopedia of Drug Abuse (New York ・ Facts, on File, 1984)、50、51ページ。マジョリー・V・ボールドウィン「係争中のカフェイン」『人生と健康』Margorie Baldwin,“Caffeine on Trial,”Life and Health (October, 1973)、10-13ページ。E・D・ゴーハム、L・F・ガーランド、F・C・ガーランド他、「カリフォルニア州の非都市地域におけるコーヒーと膵臓ガンの関係」『西欧医学ジャーナル』E. D. Gorham, L. F. Garland, F. C. Garland, et. al,“Coffee and pancreatic Cancer in a Rural California County,”Western journal of Medicine (January, 1988)、48-53ページ。B・K・ジェイコブセン、D・S・セレ「トロムソ心臓の研究――コーヒー愛飲は阻血性心臓病を高度に誘発することになると言えるか」『アクタ・メディカ・スカンディナヴィカ』D. S. Thelle,“The Tromso”Heart Study ・ Is Coffee Drinking an Indicator of a Lifestyle With High Risk for Ischemic Heart Disease?”Acta Medica Scandinavica, 222, No. 3 (1987)、215―221ページ。J・D・カーブ、D・M・リード、J・A・カウツ、K・ヤノ「ハワイ在住日系人のコーヒーとカフェインと血清コレステロールとの関係」『アメリカ疫学ジャーナル』J. D. Curb, D. M. Reed, J. A. Kautz, K. Yano,“Coffee Caffeine and Serum Cholesterol in Japanese Living in Hawaii,”American Journal of Epidemiology (April, 1986)、648-655ページ。コーヒーを多量に摂ることを習慣としている人は、「宗教活動において不活発になる傾向があります」(B・S・ヴィクター、M・ルーベツキー、J・F・グレーデン「カフェイン常用によってひき起こされる身体現象」『臨床精神医学ジャーナル』B. S. Victor, M. Lubetsky, and J. F. Greden,“Somatic Manifestations of Caffeinism,”Journal of Clinical Psychiatry, May, 1981、186ページ)。飲み物のカフェイン含有量については、「最新カフェイン得点表」『FDAコンシューマー』(“The Latest Caffeine Scoreboard,”FDA Consumer)、1984年3月号、14-16ページ、ボズリー「カフェイン――それは無害なものか」『ミニストリ』Bosley,“Caffeine ・ Is It so harmless?”Ministry(August, 1986)28ページ、ウィンストン・J・クレイグ、サイ・T・エン「ココアといなごまめの中のカフェインおよびテオブロミン濃度」『食品科学ジャーナル』Winston J. Craig and Thuy T. Nguyan,“Caffeine and Theobromine Levels in Cocoa and Carob Products,”Journal of Food Science (January―February, 1984) 302,303,305ページ参照。

[10]循環系に関して言えば、タバコは心臓発作や高血圧、それに手足の指の切断が必要となるある種の末梢血管の病気(Buerger’s Disease)の増加をもたらします。呼吸器系の病気に関係しては、タバコは、肺がんによる死亡の増加、また慢性気管支炎や気腫の増加につながります。さらに肺やよごれた気管をきれいにする気管支の繊毛をまひさせます。その結果、喉頭、口蓋、食道、膀胱、腎臓、膵臓等のがん発生につながってきます。それはまた、十2指腸潰瘍の進行や潰瘍の合併症による死亡につながります。例えば、『喫煙と健康――公衆衛生局医務長官レポート』Smoking and Health ・ A Report of the Surgeon General (Washington, D. C.・ U. S. Department of Health, Education, and Welfare, 1979) 参照。

[11]ゲイレン・C・ボズリー「少量のアルコールの影響」『ミニストリー』Galen C. Bosley,“The Effects of Small Quantities of Alcohol,”Ministry (May, 1986) 24-27ページ参照。アルコール常用者は、道義を判別する中枢である前頭葉部が縮んでいくことが観察されています(L・A・カラ、B・ジョーンズ、P・バーンズ他、「アルコール中毒者の断酒後再発の可能性に焦点を合わせたコンピューター断層写真、精神鑑定テスト並びに食事規定に関する研究の結果報告」『オーストラリア医学ジャーナル』L. A. Cala, B. Jones, D. Burns, et. al,“Results of Computerized Tomography, Psychometric Testing and Dietary Studies in Social Drinkers, With Emphasis on Reversibility After Abstinence,”Medical Journal of Australia, Sept. 17, 1983 264―269ページ)、ボズリー「なにゆえに健康のメッセージか」『アドベンチスト・レビュー』Bosley,“Why a Health Message,”, Adventist Review (July. 30, 1987) 15ページ参照。アルコール常用者に対する心理テストの結果、精神力、知力とも、著しく低下していくことが判明しています(D・A・パーカー、E・S・パーカー、J・A・ブロディー、R・シェーンバーグ「社員におけるアルコール使用と認識力低下の関係について」『アメリカ公衆衛生ジャーナル』D. A. Parker, E. S. Parker, J. A. Brody, and R. Schoenberg,“Alcohol Use and Cognitive Loss Among Employed Men and Women,”American Journal of Public Health, May, 1983 521―526ページ)。また、アルコール摂取の量が増加すると教会への出席が減少します(A・M・エワード、R・ウオルフ、P・モール、F・ハーバーグ「かっての愛飲家とアルコールに無縁であった者とに差異をもたらす心理社会的、行動的諸要因」『アメリカ公衆衛生ジャーナル』A. M. Eward, R. Wolfe, P. Moll, and E. Harburg,“Psychosocial and Behavioral Factors Differentiating Past Drinkers and Lifelong Abstainers,”American Journal of Public Health (January, 1986) 69ページ)。

[12]主の晩餐における酒に関する議論については、【アドベンチストの信仰#16】の注8参照。

[13]旧約聖書で、酒に対して用いられている一般の言葉はヤイーンです。この語は、時を経て十分アルコールを含んで、酒になっているものにしばしば用いられているとは言え、醱酵しているといないとにかかわらずぶどうから作られたジュースを指します。醱酵していないぶどう酒に通常用いられているヘブル語は、テイロシュです。これは、しばしば「新しい酒」と訳されていて、絞り立てのぶどうジュースを指します。旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書では、両方の語がオイノスとなっています。この、オイノスは、新約聖書では、酒全般を表す語として用いられており、醱酵しているものにもしていないものにも用いられます。いずれを指すかは、文脈からしか判別できません。旧約聖書の用法に関しては、ロバート・P・ティーチアウト「旧約聖書における『酒』の用法」Robert T. Teachout,“The Use of ‛Wine’ in the Old Testament”, Th. D. dissertation, 1979, (University Microfilms Internationalで入手可能)、ラエル・O・シーザー「ヤイーンの意味」、Lael O. Caesar,“The Meaning of Yayin”(unpublished M. A. thesis, Audrews University, Berrien Springs, MI, 1986) ウィリアム・パットン『聖書の酒』William Patton, Bible Wines (Oklahoma City, OK ・ Sane Press, n. d.)、54-64ページ参照。

「強い酒」(ヘブル語ではシェカル)と表現されているものには、通常は醱酵していて、しかも一般にはぶどう以外から作られた甘い飲物を指します。これには、大麦、きび、小麦から作られたビールやなつめやしあるいはやしの実酒のようなものを含みます。蒸溜法はイスラエルには知られていなかったので、それは蒸溜酒ではありません(パットン57,58,62ページ)。

醱酵している酒――聖書はアルコール性飲料の使用を断罪しています。なぜなら、それは暴力、悲惨、破滅をもたらすからです(箴言4:17、23:29,35)。それは宗教的指導者たちを暴虐な人間にし(イザヤ56:10-12)、イスラエルのリーダーたち(イザヤ28:7)やバビロンの王ベルシャザル(ダニエル5:1-30)の判断に致命的な誤謬をもたらしました。

醱酵していない酒―聖書には、よく醱酵していない酒、あるいはジュースの事が述べられていますが、聖書は、これを大いなる祝福として勧めています。それは神への捧げられるべきものでした(民数記18:12,13、ネヘミヤ10:37-39、13:12,13)。それは神の祝福の一つでもあり(創世記27:28、NIVでは「新しい酒」と訳出、申命記7:13、11:14、箴言3:10、イザヤ65:8、ヨエル3:18)、「神と人とを喜ばせる」(士師9:13)、もの、さらには、霊的祝福の象徴でもありました(イザヤ55:1,2、箴言9:2,3)。それはまた、健康的な飲み物でもありました(1テモテ5:23)。

[14]例えば薬物執行監督局(Drug Enforcement Administration)、『濫用されている薬物』Drugs of Abuse、3rd ed, (Washington, D. C.・ United States Depertment of Justice, n. d.)、ダン・スパーリング「薬物狩」『アドベンチスト・レビュー』Dan Sperling,“Drug Roundup”, Adventist Review (April. 9, 1987) 12,13ページ参照。

[15]『セブンスデー・アドベンチスト教会指針』(福音社、1974年)、137ページ。

[16]同。

[17]『セブンスデー・アドベンチスト教会指針』(セブンスデー・アドベンチスト教団、1992年)、171ページ。現代音楽や娯楽における退廃の例については、ティッパー・ゴア『不適評価を受けた社会における親のガイダンスを必要とする子供たちの養育』Tipper Gore, Raising PG Kids in an X-rated Society (Nashville, TN ・ Abingdon Press, 1987) を参照。

[18]「悪影響を与える他の娯楽は社交ダンスです。『今日行われているようなダンス遊びは、堕落の学校であり、社会にとっても恐るべき災いです』『青年への使命』(福音社、1957年)、401ページ(200ページも参照)。(2コリント6:15-18、1ヨハネ2:15-17、ヤコブ4:4、2テモテ2:19-22、エペソ5:8-11、コロサイ3:5-10参照)」。罪へのこのような影響から考えると、クリスチャンは「世俗的な人間や、軽薄な人間、『神よりも快楽を愛する者』といわれている享楽的な大衆と一緒になって、商業的娯楽をひいきに」するようなことはしたくないのです(『セブンスデー・アドベンチスト教会指針』(セブンスデー・アドベンチスト教団)、171ページ)。

[19]同169ページ。

[20]菜食主義の妥当性に関しては、S・ハヴァラ、J・ドワイヤー「アメリカ栄養学会の立場――菜食主義者の食事、その技術上のサポート」『アメリカ栄養学会ジャーナル』S. Havala, J. Dwyer,“Position of the American Dietetic Association ・ Vegetarian Diets―Technical Support Paper,”Journal of the American Dietetic Association (March, 1988) 352-355ページ、テリー・D・シュルツ、ウインストン・J・クレイグ他、「菜食主義と健康」『最新の栄養』Terry D. Shultz, Winston J. Craig, et. al,“Vegetarianism and Health”Nutrition Update (1985) 第2巻、131―141ページ、U・D・レジスター、L・M・ソネンバーグ「菜食者の食事」『アメリカ栄養学会ジャーナル』U. D. Register and L. M. Sonnenberg,“The Vegetarian Diet,”Journal of the American Dietetic Association, (March, 1973) 253-261ページ参照。

[21]国家の家畜及び家禽検査プログラムの科学的根據に関する調査委員会 (Committee on the Scientific Basis of the Nation’s Meat and Poultry Inspection Program)、『家畜および家禽の検査』Meat and Poultry Inspection (Washington, D. C.・ National Academy Press, 1985)、21-42ページ、ジョン・A・シャーフェンバーグ『食肉の問題』John A. Scharffenberg, Problems With Meat (Santa Barbara, CA ・ Woodbringe Press, 1979)、32-35ページ参照。

[22]国家の家畜及び家禽検査プログラムの科学的基礎に関する調査委員会、『家畜および家禽の検査』(Meat and Poultry Inspection)、68-123ページ、ロバート・M・アンドリューズ「食肉の検査官は言う、『自分の責任で食べなさい』と」『ワシントン・ポスト』Robert M. Andrews,“Meat Inspector ・ ‛Eat at Own Risk’,”Washington Post (May. 16, 1987) 参照。

[23]キャロール・シュガーマンがワシントン・ポスト誌の1986年7月23日号の「食物の安全性に対して起りつつある不安」(Carole Sugarman,“Rising Fears Orer Food Safety,”Washington Post)という記事に引用した、フランク・ヤング(食物および薬物行政コミッショナー)とサンフォード・ミラー(アメリカFDA食物安全性および応用栄養食センター主任)のことば参照。ホワイト『食事と食物に関する勧告』White, Counsels on Diet and Foods (Washington, D. C.・ Review and Herald, 1946)、384,385ページも参照。

[24]シャーフェンバーグ『食肉の問題』Scharffenberg, Problems With Meat、12-58ページ。

[25]シェー「清い肉と汚れた肉」Shea,“Clean and Unclean Meats”(Unpublished Manuscript, Biblical Reseach Institute, General Confernce of SDA) 参照。

[26]ウィンストン・J・クレーグ「豚と甲殻動物――その安全性は?」『健康といやし』Winston J. Craig,“Pork and Shellfish―How Safe Are They?”Health and Healing, 12, No. 1 (1988)、10-12ページ。

[27]新約聖書においても、聖潔に対する関心度は旧約聖書のそれとまったく同様です。人間の健全ということでは、身体のことばかりではなく、霊的健康の必要も指摘されています(マタイ4:23、1テサロニケ5:23、1ペテロ1:15,16)。

マルコによる福音書にある、イエスが言われる「どんな食物でもきよいものとされた」(マルコ7:19)という言葉は、食物の清い清くないの区別を廃されたという意味ではありません。イエスとパリサイ人や律法学者との間の議論は、まったく、食物の「種類」のことではなく、弟子たちの食べ方、「マナー」に関するものでした。問題の焦点は、食前の手洗いの儀式が必要か否かという点でした(マルコ7:2-5)。主が語られたことを要約すれば、人を汚すのは、洗わない手で食べた食物ではなく、心の中のよこしまである(マルコ7:20-23)。なぜなら、食物は「人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして外に出ていくだけである」からだというわけです。このようにして、主は、洗わない手で食べたどんな食物も「清い」と宣言されたのでした(マルコ7:19)。ここで用いられている食物に対するギリシャ語、「ブロマタ」は、人間が食べるあらゆる種類の「食べ物」を表す日常語です。肉の食べ物だけを表しているわけではありません。

使徒行伝10章中にあるペテロが見た動物の幻は、汚れた肉も食べ物として認められるようになったことを、教えているわけではありません。そうではなく、異邦人を決して汚れていると考えてはいけないこと、また、ペテロも汚されることなく、この人たちと交際できることを神は教えられたのです。次に示すペテロ自身の言葉が、彼がこの幻をどのように理解したかを表しています。「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました」(使徒10:28)。

ローマ人への手紙並びにコリント人への手紙の中で(ローマ14、1コリント8:4-13、10:25-28)、パウロはクリスチャンたちに対し、当時、異教の社会では広く行われていた、偶像に捧げられた肉という慣習に関連して、その背後にある問題を取り扱い、教えています。初期のクリスチャンたちにとっての問題は、偶像に捧げられた食物を食べることは、偶像礼拝になってしまうのか、否かという点でした。信仰の強い人々は、そんなことはないと思っていましたので、偶像に捧げられたものでも、食物は何でも食べていました。しかし、そのような強い信仰を持っていない人々は、偶像に捧げられていない野菜だけを食べたのです。パウロは、だれも、野菜だけを食べる人を軽んじてはならず、一方また、捧げられたものを食べないという主義の人も、食べている人々をさばいてはならないと教えています。(ローマ14:2)

使徒パウロはまた、天地創造の当初に与えられた二つの制度である結婚と食物に関し、将来、信者たちに禁止を与えるような異端が起ると警告を発しています。ここで言われている食物とは、神が人の食べ物として与えられたすべてを含みます。ですから、パウロは、異邦の社会で食用として用いられていた汚れた肉でも、「信仰があり、真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたもの」(Iテモテ4:3)として受け留められるべきであると主張しようとしていたわけでは決してありません。

[28]こしょう、薬味、からし、ピックルス、その他の同様の物質は、胃を傷めます。最初は胃壁を刺激します。次いで粘液を分泌する壁を破壊し、痛みに抵抗することができなくなります。この胃の痛みは頭脳に影響をおよぼします。そして、この頭脳は今度は気性に影響を与え、しばしば、怒り易くなります。M・A・シュナイダー他、「香辛料摂取の胃への影響」『アメリカ胃腸病学会ジャーナル』(“The Effect of Spice Ingestion on the Stomach,”American Journal of Gastroenterology)、第二6巻(1956年)、722ページ。これは「香辛料および薬味が与える生理的影響」“Physiological Effects of Spices and Condiments,”(Loma Linda, CA ・ Department of Nutrition, School of Health, Loma Linda University [mimeographed]) に引用されている。ホワイト、『食事と食物に関する勧告』White, Counsels on Diet and Foods)、339,345ページも参照。

 [29]薬味や香辛料は、また、食道に炎症を起こさせ、小腸や結腸の粘液分泌壁を、しばしば破壊してしまいます。これらは腎臓にも刺激を与え、また、高血圧の原因になる可能性があります。あるものは、発がん性物質を含んでいます。ケネス・I・バーク、アン・バーク「香辛料はどんなにすばらしいか」『アドベンチスト・レビュー』Kenneth I. Burke and Ann Burke,“How Nice Is Spice?”Adventist Review (Jan. 8, 1987) 14,15ページ、ロマリンダ大学健康学部栄養学科「香辛料と薬味」(“Spices and Condiments”)、マジョリー・V・ボールドウィン、バーネル・E・ボールドウィン「香辛料―ひともんちゃくのレシピー」『ワイルドウッド・エコーズ』Marjorie V. Baldwin and Bernell E. Baldwin,“Spices Recipe for Trouble,”Wildwood Echoes (Winter, 1978-79) 8-11ページ参照。

[30]ウィリアム・G・ジョンソン「閑素に代えて」『アドベンチスト・レビュー』William G. Johnsson,“On Behalf of Simplicity,”Adventist Review (March 20, 1986) 4ページ。

[31]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』The SDA Bible Commentary、第1巻、417ページ。

[32]セブンスデー・アドベンチスト北米支部の年度末委員会決議録(1986年)、23-25ページ参照。

[33]化粧品を用いることは、必ずしも無害ではありません。それに用いられているある化学物質は、皮膚をとおして体内に吸収され、血液中に入ります。もちろん化学物質の性質にも、また、使用している人の敏感度にもよりますが、その化粧品が健康を害することもあります。N・シェーファー、R・W・シェーファー「毛染めにおけるガン誘発の可能性について」『ニューヨーク州医学ジャーナル』N. Shafer, Potential Carcinogenic Effect of Hair Dyes”, New York State Journal of Medicine (March, 1976) 394-396ページ、サミュエル・J・タウブ「化粧アレルギー――メーキャップの下で何が起こっているのか?」『目・耳・鼻・喉』Samuel J. Taub,“Cosmetic Allergies ・ What Goes on Under Your Makeup,”Eye, Ears, Nose, and Throat (April, 1976) 131,132ページ、S・J・タウブ「汚染されている化粧用品と眼病の原因」『眼・耳・鼻・喉』S. J. Taub,“Contaminated Cosmetics and Cause of Eye Infections”, Eye, Ear, Nose, and Throat (February, 1975) 81,82ページ、ホワイト「クリスチャンの母親たちへのことば」『レビュー・アンド・ヘラルド』White,“Words to Christian Mothers,”Review and Herald (Oct. 17, 1871) 参照。

[34]ホワイト、『各時代の希望』、第三巻(福音社、1965年)、150ページ。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
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