結婚と家庭【アドベンチストの信仰#23】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

結婚はエデンにおいて神によって制定され、愛の交わりにおける男女の生涯にわたる結合として、イエスによって認められた。クリスチャンにとって結婚の契約は、伴侶に対すると同時に神に対するものであって、信仰を同じくする男女の間でだけなされるべきである。この関係を支えるものは、相互の愛と名誉と尊敬と責任である。そしてそれは、キリストと教会の間にある愛に満ちた清い関係、また親密で永続する関係の反映であるべきである。離婚についてイエスは、不品行以外の理由で離婚し、他の者と再婚することは姦淫の罪を犯すことであると教えられた。ある家族は理想に達していないかもしれないが、結婚を通してキリストにあって完全に委ね合った男女は、聖霊の指導と教会の交わりを通して愛の一致に達することができる。神は家庭を祝福し、家族が互いに助け合って、成熟した完全な家庭を目指していくように願っておられる。家族の親密さが増すことは、福音の最後の使命の特徴の1つである。両親は、子どもたちが主を愛し、主に従うように彼らを育てなければならない。両親は自分たちの行為と言葉を通して彼らに、キリストが愛情深く、優しく、思いやりに満ちた案内者であり、そのからだの一員、つまり独身者も既婚者も含む神の家族の一員に彼らがなることを望んでおられると教えなければならない。(信仰の大要23)

家庭は、第一に、男女の内に神のかたちを回復するため、制定されました。家族の中では、遠慮なく自己表現ができますし、父母も子供たちも、互いの帰属意識、愛、親しみ等の必要を満たしていけるのです。そこでは自分が何者であるかが判然としますし、自己の価値観が育てられます。また、家庭こそは、クリスチャンの真の諸原則が実践され、更にはその価値が次世代に伝達されていく場です。

家族関係は、この上ない幸せを味わうところとなることができます。同時にまた、ひどく傷つけ合う場ともなり得ます。調和のとれた家庭生活には、クリスチャン人生の原則が真に息づいており、神の品性が現れています。不幸なことに、今日の家庭では、この品性の現れをほとんど見られなくなっています。それどころか、利己的人間の心から出る考えや行為が、いたる所で散見されます。争い、反抗、競争心、怒り、不正、さらには無慈悲なことなど。しかし、すべてこれらの不義は、神の当初の計画にはなかったものなのです。主イエスは、「初めからそうではなかった」(マタイ19:8)と語っておられます。

目次

初めから

安息日と結婚は、神が人類家族に当初からお与えになったもろもろの賜物の内の二つです。これらの制度をとおし、神は、人が休息の喜びを持ち、また、いつでも、どこでも、どんな環境下でも共にいることの喜びを味わうことができるよう意図されたのです。これらの制度の確立は、創造のみ業の最後を飾るものでした。神が創造当初にお与えになった諸々のすぐれて良いもののうちでも、これらは、み業のフィナーレであり、最上の賜物でありました。安息日の制度を設けられては、神は休息と清新や神との親しい交わりのときを人類にお与えになり、また最初の家族を作られては、これを基本的な社会構成の単位として、そこで彼らの帰属感を満足させ、神と人とに仕える円満な人間となる機会を彼らに提供されたのです。

神のかたちに従って創造された男と女

創世記1章26節、27節は、人類の創造を次のように描いています。「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、…自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』」。ここで言う人とは、男性も女性も含む「人類」全般を指すもので、旧約聖書中では500回以上も、このように用いられています。この聖句が明らかにしていることは、決して神は、ご自身のかたちにまず男を造り、それから男のかたちに従って女を造られたというのではなく、[1]男女両性とも、神のかたちに従って創造されたということです。

ちょうど、父、子、聖霊が神であられるように、男も女も「人」類であります。そして、神と同様に、男性と女性とは同じ人ではあっても、それぞれの役割は異なります。彼らは、人間として、またその価値において、神の前に平等ではあっても、同一人物ではありません(ヨハネ10:30、1コリント11:3参照)。彼らの肉体は互いに補い合うもの、役割の違いは助け合う性質のものです。

両性はともにはなはだ良かったのです(創世記1:31)。したがって、両性の役割の違いも、はなはだ良かったのです。家族及び家庭は、二つの性の違いという事実に基づいて樹立されています。神は、男女の性を造らなくても、生命体を増殖することがおできになったはずです。実際、性別のないある生物はそうです。しかし神は、「かたちや諸性質においてはほとんど同じ、しかし、それ自体ではある面で何かが足りなくて、しかもたがいに補い合えるような、二つの個性ある存在」を創造されました[2]。どちらかの性のみから成る世界は完全ではないでしょう。真の完成は男女両性から成る社会においてのみ見られるでしょう。彼らの平等性には、まったく疑問の余地がありません。なぜなら、両性とも互いに本質的に必要欠くべからざる存在であるからです。

初めの一日、人祖アダム、すなわち、人類のかしらであった者は[3]、その特異性を自覚したに違いありません。地の上に、彼のような者は一人として、いなかったからです。「人(アダム)にはふさわしい助け手が見つからなかった」(創世記2:20)とも記されています。神はこの欠乏に敏感であられました。それゆえ、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:18)と言われたのです。

ここで「ふさわしい」と訳出されている原語のヘブル語は、ネゲドゥですが、この語は名詞です。そして、だれかあるいは何かに対面して、その前にとか、前方にとか、またその反対側とかに、立つことを意味する前置詞と結びつく名詞です。この場合、アダムのかたわらに立つべきであったその人は、彼の分身として、彼と一つになって、彼を補うことになるのです。そこで神は、「人を深く眠らせ」それから「そのあばら骨の一つ」を取り(創世記2:21)、彼の伴侶を造られたのです[4]

眠りから覚めたとき、アダムは、神がこの特別な創造において可能にされた密接で親しい関係を、たちどころに認識しました。そして、叫んだのです。「遂に、これはわたし自身の分身、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。『女』、それは、彼女が人から取られたのだから、彼女の名前となるのだ」(創世記2:23, TEV、1コリント11:8参照)。

結婚

男性と女性の相違にもかかわらず、神は、これを一つにする、という秩序を確立されました。あの最初の金曜日に、神は、最初に結婚式を執り行い、ご自身のかたちの縮図である、彼ら二人を一つにするため、結びつけられたのです。このようにして、結婚は、家族や社会の土台となったのです。

聖書は、結婚を、離別と結合の両方が決定的になされる業であると言います、「人は父母を離れて、妻と結び合い、男女は一体となるのである」(創世記2:24)。

1 離別

結婚関係で肝要なことは、以前の関係を後に残して離れることです。結婚の関係は親子関係以上のものです。この意味で、父母との関係を離れることが、人をして他者と結び合うことを可能にするのです。この過程を経ることなしに、結婚に確かな土台が据えられることはありません。

2結合

「結び合い」と訳出されているヘブル語の原語は、「粘着させる」、「しっかり結びつける」、「加入する」、「しっかりしがみつく」等の意味を持つ語から派生しています。その名詞形は、溶接やはんだづけ(イザヤ41:7)の意味でも用いられます。この結合の密接さやその強度は、結婚の結びつきの性質を表しております。この縁を破壊しようとすれば、必ず当事者個々人を傷つけることになるでしょう。この人間のきずなが密接不可分であるということは、この同じ原語の動詞が、神とご自身の民との間の結びつきを表すのに用いられている事実によっても強調されています、「主に仕え、彼に結び合い、そのみ名により誓いなさい」(申命記10:20、KJV)。

3契約

聖書には、結婚における誓約は、「契約」であると語られています。この語は、神のみ言葉において知られているもっとも厳粛で、拘束力のある合意を示す用語です(マラキ2:14、箴言言2:16,17)。夫と妻との関係は、神とご自身の民すなわち教会との間の、神の永遠の契約にかたどってなされるべきです(エペソ5:21-33)。彼ら相互の結婚の公約には、神の契約の特性である誠実と忍耐とが見られるべきです(詩篇89:34、哀歌3:23)。

神も、夫婦、友人、また社会も、彼らがたがいにかわした契約を証言します。その契約は天で批准されています。「神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19:6)。クリスチャンの夫婦は、生きている限り、たがいに忠実であることを結婚において契約したことを認めています[5]

4一体となる

分離し、かつ一体となるように契約を結ぶことの結果は、一つの神秘である結合を招来します。そこでは、あらゆる意味で一体となるのです。ともに歩み、ともに立ち、また親密な交わりを共有します。まず、この一体は肉体の一致を指します。しかしそれは、もっと、夫婦間の関係の、肉体に結びつきを与える、精神や感性の一体感をも意味します。

Aともに歩む

神はご自身と民との関係に関連して、「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか」(アモス3:3)と問うておられますが、この問いは、一体となろうとしている者たちによっても、等しく問われるべきものです。神は、異邦の近隣諸国民とは雑婚しないように、イスラエル人に勧めておられました。「それは彼らがあなたのむすこを惑わしてわたしに従わせず、ほかの神々に仕えさせ」(申命記7:4、ヨシュア23:11-13参照)るからでありました。イスラエル人がこの教えを無視したとき、悲劇がおとずれました(士師14-16章、列王上11:1-10、エズラ9,10章)。広義において、パウロは、この原則を繰返しています、「不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である」(2コリント6:14-16、同17,18参照)。

聖書は、信徒は信徒とだけ結婚すべきであることを、はっきり宣言しています。しかし、この原則は、それ以上のことを意味しています。真の一体は、信仰においても行為においても一つであることを要求します。宗教経験における差異は、しばしば深い緊張関係を生み出し、結婚関係にもみぞをつくってしまいます。ですから、「一体となる」ことを実現するためには、自分と同じ宗教社会の中に生活している「信徒」との結婚に限ると、聖書は述べているわけです[6]

Bともに立つ

一体となるためには、二人は完全にたがいに対し、忠実でなければなりません。結婚するとは、すべてをかけ、また相手の持つすべての事柄を受容することです。結婚する人は、配偶者の持つ責務を共有し、またいかなる障害にも、喜んで二人で立ち向っていくことを宣言するのです。結婚においては、決してあきらめられることのない愛、活動的で絶えず追い求める愛が必要です。

「二人は、所有するすべてを共有します。そのからだや物資だけではなく、考えも感情も、喜びも悲しみも、望みも恐れも、そして成功も失敗もです。『二人が一体となる』とは、その二人が心と精神とからだとにおいて、完全に一つになると同時に、しかし一方では、二人は別個の個性を有する存在なのです」[7]

C親密さ

一体となるということは、性的結合を内包します。「人はその妻エバを知った。彼女はみごもり」(創世記4:1)とあります。結婚する男女は、たがいに一つになりたいという衝動、すなわち、アダムとエバのとき以来、男女が互いに対して感じてきた衝動の内に、今も人祖の愛情物語を再現しているのです。性関係の行為は、二人にとって可能な肉体的結び合いの内でも、最大の親密さの表現です。情緒や霊性においてももちろん、二人はたがいに知り合うことができるのではありますが、この肉体の性的関係は、親密さの度合の深さの大事な表現です。クリスチャンの結婚愛は、暖かさ、喜び、充足によって特徴づけられています(箴言5:18,19)。「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない」(ヘブル13:4)。「聖書は明瞭に、夫妻間の喜悦に満ちた性愛の表現は、神の創造当初からの計画であったことを教えています。ヘブル人への手紙が強調していますように、それは汚されていない関係であり、罪でも不潔でもないのです。結婚関係の内でも、肉体関係は非常に尊重すべき領域です。それは夫婦が、たがいにその愛を個人的に祝うもっとも神聖な出会いの場であり、また神聖であると同時に、まさに喜悦のとき、場でもあります」[8]

5、聖書的な愛

結婚の愛とは、たがいに対する、無条件の愛と親密さをこめた献身です。それは全人、すなわち、肉体的、情緒的、知的、霊的のあらゆる面で、神のかたちへと成長を促すような熱情です。種々のタイプの愛が結婚関係を支配します。ロマンティックで熱愛のとき、情愛こまやかなとき、また慰めのとき、ともなるとき、二人っきりの親密な情感のときもあるでしょう。しかし、いずれにしても結婚関係を真に永続させる愛は、新約聖書に言うアガペーの愛であり、無我の愛、すべて他者のためという性質を持った愛であります。

イエスは、この種の愛の最大の模範を残されました。主はわたしたちの罪ととがとを受容して、十字架に至るまで忍ばれました、「世にいるご自身の者たちを愛して、主は最後まで彼らを愛された」(ヨハネ13:1、NASB)のです。罪が主にもたらすことが何であるかを知っておられたにもかかわらず、主はわたしたちひとりひとりを愛して下さったのです。これが主イエス・キリストの無条件の愛、アガペーの愛なのです。

この愛を描写して、使徒パウロは次のように言います。「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない」(1コリント13:4-8)。

この聖句を注解して、エド・ホイートは次のように言っています。「アガペーの愛は、永遠の力の源に接続されて、力を得ています。そしてこの愛は、他のどんな愛が挫折するときでも働き続けます。アガペーの愛はいかなる条件下でも愛するのです。どんなに他者が愛しえない状況下にあろうとも、この愛はあふれるのです。アガペーの愛は、神がわたしたちを愛されたように無条件なのです。それは、熟慮の上の意志決定に基づく、一つの心の姿勢なのです」[9]

6各人の霊的責務

結婚において、たがいは相手に対してその責務を果すことを誓約するのですが、それでも各人は、それぞれ自分のわざに責任を負わねばなりません(2コリント5:10)。責任を負うということは、自己の行為の責任を決して他者のせいにしない、他者を批判して責任を転嫁しないということです。各人は、自己の霊的成長の責務を自ら負わなければなりません。だれも、他者の霊がいかに強くとも、自己の霊性向上をこれに全的に任せておくことはできません。しかし、各人の神との関係は、他者への力や勇気ずけのため助けになることができます。

人類堕落の結婚関係への影響

罪のもたらした神のかたちのゆがみは、人生の他の分野においてと同様、確実に結婚関係にも影響を及ぼしています。かつては完全な愛と一致とが支配していたところに、今や、自己本位の生きかたが入り込んで来ています。キリストの愛によって動かされていない人々の場合、その行為の主な動機は利己的です。福音が代表する明け渡しあるいは仕える者、そして与えるといった諸原則、これに逆行する生きかた、それがあらゆるクリスチャン人生の失敗例の背景にある主な原因です。

不服従によってアダムとエバは、創造時に神が意図された目的に反することになりました。罪を犯す前は、神の前で彼らは全く自由に生きることができたのです。しかし、堕落後は、喜びをもって神の前に来るどころか、恐れをもってそのみ前から身を隠すようになりました。彼ら自身の真実を隠し、また、自分たちの行為の責任逃れを計ったのです。

払拭しえない深い罪の意識で満たされていたので、彼らは神の目を正面に見ることができなかったし、聖天使たちに対しても同様でした。それ以来、このような逃避や自己正当化が、人と神との関係においては当り前のこととなりました。

彼らを隠蔽に駆立てた恐怖感は、単に、アダムとエバ二人の神との関係のみならず、たがいの関係にもゆがみをもたらしました。神が彼らに呼びかけられたとき、二人はどちらも、たがいの関係を犠牲にしても、自己防衛に走りました。彼らがたがいにした批判は、神が創造時に樹立された愛の関係に、重大な亀裂を生じさせたことを表しています。

罪を犯したのち、神はエバに言われました。「それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)と。この原則は、男女の平等性を変えることなく、しかもアダムとエバ双方にも、また、その後の結婚するすべての夫婦にも祝福となるように意図されました[10]。しかし、不幸なことに、この原則はゆがめられてしまいました。権威のふりまわしや巧妙な策略、あるいは個人の尊厳を破壊することによる横暴な支配が、各時代を通じて、結婚という関係を特徴づけてきました。自己中心の生きかたが、たがいの受容や感謝の表現を払拭してしまっています。

キリスト教の精髄とは、堕落以前の結婚関係の特徴であった、あの「自己否定的な調和」において生きることです。人間の堕落がこの調和を破ったのです。夫と妻の愛情は、たがいの仕合わせに貢献すべきです。一方は他方の仕合わせを増進すべきです。どちらも、それぞれの個性を失わないで、それでいて一つとなっていくべきです。各人は神の所有だからです[11]

神の理想からの逸脱

一夫多妻主義

ひとりの男性が複数の妻を持つ関係は、エデンで神が定められた最初の結婚の「男女は一体となる」という原則と相反しています。一夫多妻制においては、他の人間関係から分離した献身もありません。確かに、聖書は父祖時代の文化としての一夫多妻の事実を叙述してはいますが、その内容が明らかにしていることは、これらの結婚関係は、神の理想を決して実現してはいなかったということです。家庭内に種々の分派があり、それらがたがいに、子供を武器にして、家族中の他の者たちを傷つけるような、権力争い、厳しい怒り、また、のけ者扱い等が観察されます(創世記16章、29:16-30:24等参照)。

それに対し、一夫一婦制においては、二人はたがいに帰属意識を持つことができ、たがいの親密さや結合度を強めます。彼らは、たがいの関係が特別なもので、他の人がその交わりをに加わることはできないことを知っています。この一夫一婦の関係こそは、キリストと教会、また神と人間との在るべき関係を、明瞭に映しているのであります[12]

姦淫

近代の社会通念と風俗習慣は、死に至るまで両性はたがいに忠誠を尽くすという結婚時の誓約をはなはだ軽いものにしてしまっています。しかし、聖書は、婚外の如何なる性関係をも罪であるとしています。十戒の第七条は今日でも有効で、変えられてはいません、「あなたは姦淫してはならない」(出エジプト20:14)。ここには、何等の例外も限定も述べられていません。この命令は原則であって、結婚関係をしっかりと守るものです。

聖書の姦淫に関する教えに照らしてみると、今日社会のいわゆる「成人向け」と称するもろもろの企画は、聖書の原則とは真っ向から対立するものです。新約、旧約を問わず、聖書は多くのページをさいて、このような生きかたを断罪しています(レビ20:10-12、箴言6:24-32、7:6-27、1コリント6:9,13,18、ガラテヤ5:19、エペソ5:3、1テサロニケ4:3等)。

不品行は、考えも及ばないほど遠く、また永続する影響を与えてしまうものです。それは正当な性のパートナーをだまします。相手を精神的にも肉体的にも、また経済的にも法的にも社会的にも傷つけてしまう可能性があります。家族を広範囲に巻き込んで傷つけます。子供があれば、とくに彼らは打撃を受けてしまいます。また、不義は性病伝染の担い手ともなり、また不義の子、正当な父親のいない子供を生み出すことにもつながります。この不品行にまつわる嘘や不真実のゆえに、信頼関係は完全に破壊され、しばしばそれは決して回復されえない関係に追い込んでしまうのです。これら不義の行為に対する聖書の禁令を見なくとも、それがもたらす一連の不幸な結果を一覧すれば、これを行う事の何であるかの警告を充分読みとれるはずです。

不純な思い

罪は単なる外に現れた行為ではありません。それは、思いの中に深く根ざした心の問題でもあります。もしも泉が汚れているなら、そこから流れる川もきれいであるはずはありません。イエスは、心の内にあるものが人間の行為を動機づけていることを指摘されました。「というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくる…」(マタイ15:19)と。この特質について主は、さらに、不実の行為の原点は、その思想や思いにあるとして、次のように言われました。「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイ5:27,28)。

あらゆる企業努力が、人間の想像力の誤用を増長し刺激する方向に傾注されてきました。それが生みだす、性を描写した官能的なフィルムや本は、クリスチャンの人生にはまったく受け入れられる余地のあるものではありません。これらの媒体は、不法な人間関係をそそのかすだけではなく、男女をたがいに単なる性行為の道具としてしまい、このようにして、性の持つ真の意味をゆがめ、また神のかたちを卑しいものにしてしまうのです。クリスチャンたちは、純粋なことを思い、純粋に生きるように招かれています。彼らは今、永遠に純粋である世界に生きうるように、その備えの人生を生きているのです。

近親相姦

親たちの中には、垣根を越えた行為に走る者たちがいます。それは子供たちへの健全な愛情表現を払拭し、肉体的に、また感情的に親密な関係を持つようになるのです。しばしばこのようなことは、正常な夫と妻との関係が無視されているときに起っており、子供たちの一人がその配偶者の役割を果すようにされています。境界線を越えたこのような関係は、兄弟あるいは他の家族間においても生じえます。

近親相姦は、旧約聖書では禁じられ(レビ18:6-29、申命記27:20-23)、新約聖書では断罪されています(1コリント5:1-5)。この種の虐待は、子供たちの性的成長に損傷を与え、のちになって、とくに結婚のとき、不必要な羞恥心や、罪責感となって自分を不当に苦しめるようになります。信頼心は神への信仰をつちかうには必須なのですが、もし、両親のどちらかがこの垣根を越えた場合、この信頼心の成長を破壊します。

離婚

これに関する聖書の教えを、イエスは次のように要約しておられます。「神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19:6、マルコ10:7-9)。結婚は神聖です。なぜなら、神がそれを聖別されたからです。究極的には、夫と妻に結合をもたらすのは、単なる人の言葉による約束事あるいは性行為ではなく、神自身であられます。神こそが彼らの結合に証印をおされる方なのです。したがって、離婚や再婚に関するクリスチャンの判断は、これらの聖書の教えに基づいていなければなりません。

イエスの言葉は、離婚に対してクリスチャンがいかなる態度を取るべきであるかの、基本的な教えです。神は、結婚は破れてはならないものと願われました。結婚関係における性格の不一致が、離婚の理由となりうるかどうかをパリサイ人が問うたとき、主は、エデンにおける結婚は、永遠にわたる結合のちぎりであったことを確言されました。さらに、それではなぜ、モーセの律法に離婚の条項があるのかを問われたとき、主は、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった」(マタイ19:8)と答えられました。さらに主は、離婚の唯一の条件は不品行のみであることを宣言されました(マタイ5:32、19:9)。

パリサイ人に対するイエスの答ではっきりしたことは、彼らの考えているよりはるかに高い次元で、おたがいに対する忠誠心の必要を、主は教えておられたということです。主のみ教え及び新・旧約聖書に教えられている結婚の原則からすると、神が意図されたのは、結婚する者たちが、その永久の結合において神のかたちを反映するに至ることでありました。

たとい一方が不忠実であっても、必ずしも離婚しなければならないという定めはありません。主の十字架の道は、悔改めを迫ると同時に、他方、にがい根を除いて、無限に許すように促します。不品行の結果傷を受けた配偶者であっても、ゆるしと神が与えてくださる和解の力によって、神の創造当初の目的を実現していけるよう追求すべきです。「聖書的に言えば、姦淫ほどあなたがたの結婚を破壊する力のある罪はほかにありません。しかし、もしあなたにこれをゆるす用意があり、またあなたがその拒否的な態度を捨てるように努めるなら、神はあなたに癒し以上のことをしてくださいます。たがいの愛をまったく新しいものにしてくださるのです」[13]

神の理想では、結婚は配偶者のどちらか一方が死ぬまで継続する永遠の愛の結合でありますが、ある場合には、妻や子供たちへの暴力行為のゆえに法的に別離を必要とされることがあります。「ある裁判においては、そのような別離は、唯一離婚によってのみ、成立します。このような状況下では、この離婚は断罪されるべきではありません。しかし、このように不実によらない離婚では、もし、どちらか一方が、再婚するか、姦淫の罪を犯すか、あるいは死に至るのでない限り、聖書的な再婚の権利をあたえるものでは決してありません」。

結婚は、神の定めたものでありますから、離婚を防止することにおいて、あるいは離婚した場合にはその傷をできる限り癒すことにおいて、教会は特別なまた極めて厳粛な責任を有しております。

同性愛

神は人をたがいに異なる男と女とに創造され、しかもたがいに補い合うような存在とされました。そのように造られたとき、たがいに性的感性を異性の方向に引かれるように定められました。人の特性である、たがいに異なっているにもかかわらずたがいに結びつきを有する点は、緊密な関係をかたち作っていこうとして異性がたがいに引き合っていく、不可思議な吸引力の内によく現われております[14]

ある場合には、罪は、この基本的な人間の性向にも影響を及ぼし、倒錯的な現象をもたらします。そのような場合、異性へと引かれる自然の性向が倒錯し、同性に性的魅力を感じるようになってしまいます。

聖書は非常に強い言葉で、同性愛の行為を断罪しています(創世記19:4-10、ユダ7,8、レビ18:22、20:13、ローマ1:26-28、1テモテ1:8-10参照)。同性愛のわざは、男女における神のかたちを著しく損傷するのです。

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」(ローマ3:23)いますので、このような混乱によって苦しんでいる人々を救うよう、クリスチャンたちは働くのです。クリスチャンである者たちは、主が姦淫の女に対されたときに取られたような態度を表すのです。「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネ8:11)。同性愛の傾向をもっている人々ばかりではなく、不安や羞恥心、罪責感をもたらすような行為や人間関係に陥ってしまっているあらゆる人々が、同情を必要としています。これらの人々は、よく訓練された経験豊かな、クリスチャン・カウンセラーたちの、聞いてくれる耳を必要としています。神の癒しの恵みが達しえないような、どのような行為もありえないのです[15]

家族

アダムとエバを創造されたのち、神は彼らに世を治める権を与えられました(創世記1:26、2:15)。彼ら二人が最初の人類家族を構成し、最初の教会、また社会構成の出発となりました。このように、社会は結婚と家族に基づいて築き上げられています。神は、彼ら二人だけが地上の人類でありましたので、彼らに「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」(創世記1:28)と命ぜられました。

今日、世界人口の統計が示していますように、もはや、地上には人の住んでいない地域がほとんどなくなり、「地に満ちよ、地を従わせよ」と叫ばれることはなくなりました。しかしながら、子を生む決心をしているクリスチャン夫婦は、今でも神の訓練と教えとの下にあって、その子供を育てる責任があります。子を生む前に、彼らは神が理想としておられる家族とは何であるかを、考えてみる必要があります。

両親

1 父親

聖書は、父であり夫である者に、家族のかしらとなり、祭司となる責任を与えました(コロサイ3:18-21、1ペテロ3:1-8)。彼は、教会のかしらであられるキリストを代表する者となるのです。「キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである」(エペソ5:23-28)。

キリストが教会を導かれるのですから、夫も妻も、「両方とも、たがいに譲り合うべきです。しかし、神の言葉が教えるところによれば、家庭では、妻よりも夫の判断に、優先権が与えられています。」[16]とくに、良心の問題にかかわらない分野においてはそうです。しかし、同時に夫には、妻をその個性を最大限に尊重して扱う責任を持っています。

キリスト自身が、奴隷のような立場をとって、十字架を担われたほどに優しい支配者であることを示されたように、夫は犠牲を払って導く者でなければなりません。「キリストの支配は、知恵や愛のそれです。そして、夫がもし妻にその義務を果すなら、ちょうどキリストが教会に対されたと同じ優しさをもって、その権威を行使するでありましょう。キリストの霊が夫を支配していれば、妻の服従はまさに、平安と祝福をもたらします。なぜならば、夫はただ良い結果となることだけを妻に求めるからです。ちょうどキリストが、教会に服従を求められるのと同じ方法であるからです。…夫となる者は、キリストの言葉を学びなさい。妻をいかに完全に従順にさせうるかを見出すためではなく、いかに自分がキリストの心を持ち、きよめられ、家の主人にふさわしくあることができるかを学びとるためです。」[17]

アブラハムのように、父親は家族の祭司として、一日の初めに家族を集め、主のみ手に彼らをゆだねるのです。夕べには、再び家族を集め、与えられた恵みのゆえに、主を讃美し、主に感謝を捧げるようにするのです。家族礼拝は、家族をたがいに結びつける帯となるでありましょう。それは、家族の最優先権を、神に捧げるときでもあります[18]

賢明な父親は、子供たちとともに過す時間を持ちます。子供は父親から多くのことを学びます。母への尊敬と愛、神への愛、祈りの重要性、他の人々への愛情、働き方、慎み深さ、自然や神の創造された物への愛情等々。しかし、もし父親がいつも家にいないなら、子供はこれらの特権と喜びから締出されています。

2母親

母性愛は、神との関係の親密さに、地上では、もっとも近いものです。「王座にすわっている王でも、母親より高貴な仕事は持っていない。母親は家庭の女王である。子供たちをより高い永遠の生活にはいるにふさわしい者となるように彼らの品性を形成する仕事が彼女の手中にある。天使ですらそれ以上高貴な仕事を求めることはできなかった。なぜならこの仕事をすることによって彼女は神に奉仕しているからである。…彼女は自分の任務の仕事の価値を認め、世間の標準に妥協するという誘惑に抵抗できるように、神の武具を身につけなければならない。彼女の仕事は現在及び将来のためのものである。」[19]

家庭内のだれかが、子供たちの品性形成に究極的な責任を持つべきです。子供の訓練は、場当りでできるものではありませんし、他の人にあずけて事が済むものでもありません。なぜなら、だれも、両親が持つのと同じ情感を子供に持つことはできないからです。神は、母親を、自分の胎内に子供を宿し、これに乳をふくませ、育て、愛しうるように創造されました。経済的な厳しさのゆえに、働かねばならない状況下にあるような場合、あるいは寡婦である場合を除いては[20]、もし、受け入れることができるのなら、母親には一日中子供たちと一緒に家庭にいる特権があります。子供たちの永遠の品性を築き上げるため、創造主とともに働く喜びにあずかることができます。

「家族の中のだれかが、家庭を働き場と考えることが必要です。母親及び妻としての働きを生涯かけてすることは、20世紀においては、信じ難いほどまれなものとなっています。そして、それは挑戦に満ちた働きです。いったいそれは、無駄なわざでしょうか、それとも、感謝すべき働きなのでしょうか。あるいは尊厳さを欠いた奴隷の仕事でしょうか。否、それは、流れを変え、人類を救い、歴史に影響を与え、いやもっと広い世界にも感じられ聞かれうる何かをなすような、最大に心踊る、可能性のある世界なのです。」[21]

旧約聖書時代には、人の名前はその人の人柄を表しておりました。エバという名は、堕落後に与えられたものです。(創世記3:20)。彼女は全人類の母となるべきであったので、その名、エバ(ヘブル語ではハウアー)は、「生きる」(ヘブル語ではハァイ)という語からとられました。この名は、人類歴史の中で、彼女の占めた特別に名誉ある地位を反映しています。

ちょうど出産がアダムかエバのどちらか一方のみの特権ではなかったように、両親の権利もどちらか一方に偏するものではありませんでした。共同の責任です。子供を生むことにおいても、育てることにおいても、今も、それは共同の責任であるべきです。両親はおのおの、責任を分担し、それを主のために果されねばなりません。「見よ、子供たちは主から賜った嗣業であり、その胎の実は主の賜る報酬である」(詩篇127:3、KJV)。

子供たち

1 優先

救い主と自分の配偶者への献身を除けば、自分たちの生んだ子供たちに対すること以上の高い責任はありません。自分たちの安楽より、彼らの興味に関心をよせなければなりません。子供たちは、自分で選んでこの世に生まれてくるわけではありません。彼らには、その人生の最上の出発ができるように備えてあげるべきです。両親の感化は、霊と心と身体の健康に決定的な影響を及ぼすのですから、子供たちの福利を第一にすることは、彼らが生まれる前から始められるべきであります[22]

2愛情

両親の愛は、無条件的かつ犠牲的であるべきです。親のなした分は、そのまま報われるとういことは決してないかも知れませんが、子供たちは一生を通じてその愛を保ち、良い自己評価と健全な情緒とを持ち続けるに違いありません。一方、愛情に不足している子供たち、すなわち、のけ者同様の扱いをされ、尊重されてないと感じる子供たちは、異常行動によって、親の愛情をかち取ろうとしますし、その行動は、根深く習慣的なものとなっていきます[23]

両親の愛情に囲まれて安定している子供たちは、彼ら以外の人々に手をさし伸べるようになるでしょう。子供たちは、受けるばかりではなく、与えることも学ぶことができますし、また、自分を越えた、他者の存在理由をも体得しうるのです。このような子供たちは、成長するにしたがって、神に栄光を帰すことを学んでいくことができます。

3献身

クリスチャンの両親は、可能な限り、その人生の初期の時代から、子供たちを神の働きに捧げるべきであります。セブンスデー・アドベンチスト教会は、ごく簡単な儀式を伴った献児式を執行します。その式の中で両親は、祈りの内に、会衆の面前で子供を神にさし出します。それは、ヨセフとマリヤが、神殿で、幼いイエスを捧げたのと同様です(ルカ2:22-39)。このようにして、その子供は、広い意味での霊的家族の一員として、その人生を始めることになります。そして会衆も、この子供の社会的、霊的成長に、すなわち、神の子供として、またキリストの身体の一部を構成する者としての子供の成長に、参与するのです。

この儀式においては、両親も、その子供の内に神のかたちが形成されるように、主の与えられた方法に従って子供を養育するよう献身します。この目的を達成するために、両親は子供を、安息日学校や教会の諸集会に、定期的に連れていきます。人生の当初から、キリストのからだの一部を構成する者となるようにするのです。こうして、学齢に達したなら、両親も教会も、子供がクリスチャン教育を受け、主をさらに深く愛していけるようにあらゆる努力をします。

4志操堅固

両親が与える霊的教えは、子供たちの人生のあらゆる面に絶えず作用し続けます。「努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の前に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない」(申命記6:7-9、11:18以下)。

子供は、家庭の全雰囲気より影響を受けます。両親は家庭礼拝のみにより霊性をつちかうことはできません。それはイエスに対する継続的な信頼をとおしてもたらされるものであります。それは生活態度に表されなければなりませんし、服装にも家の飾りつけにおいてさえもです。子供が、神をあたかも愛情深い両親であるかのように知ることは、その子のクリスチャンとしての成長に極めて重要な要素です。

5服従を学ぶ

「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない」(箴言22:6)。この「行くべき道」とは、どんな教えを意味するのでしょうか。それは単に罰を与えること以上のことを内包しています。罰は通常、過去のことを扱います。しかし、この教えでは将来を展望します。それは、しつけであり、訓練の1過程です。子供は両親の下に見習に出されたようなもので、訓戒を受け、導きを受け、実例に触れさせられるのです。それで子供は、忠誠、真実、平等、堅固、忍耐、秩序、あわれみ、慈善、また仕事といった、人生の重要な諸原則を学ぶのです。

子供たちが、もし幼い時から両親に従うことを学んだなら、権威を恐れるようなことはありません。もちろん、学んだ服従の性質も重要です。真の従順は、決してそれが単純にそうするように求められているからというのではなく、内側から湧きでるようにして、自ら進んで従うのです。この種の服従の秘訣は新生にあります。「神の戒めは、従うべきものであるという、単なる義務の観念をもって守ろうとする人は、服従の喜びを味わうことができない。このような人は、従っていないのである。…真の服従は、内部に秘められた原則が、外にあらわれ出ることである。それは、義と神のおきてを慕う愛から発するのである。あらゆる義の本質は、わたしたちのあがない主に対する忠誠である。この忠誠心が、わたしたちに、正しいことであるからという理由で正しい行いをさせ、善行は、神が喜ばれることであるからという理由で義を行わせるのである」[24]

6社会化と言語の発育

子供たちが、人類の一員として社会の中に受入れられていくのは、まず家族関係の中においてです。そこでは必然的に特権と共に責任が与えられます。社交性を身につけるのは、子供たちの学びの一過程であり、この学びの過程で彼らは、社会の中で用いるべき基本的技術を学ぶのです。子供が幼少期に学ぶ諸技術の内で最初のものは言葉です。それは、伝達のあらゆる微妙な表現を有しております。したがって、家庭で用いられる言葉は、神の品性を現すものとなるように注意深く見張っていなければなりません。子供たちは家庭で、繰返し、喜びの表現、そして、湧き溢れる愛情表現、さらに神への讃美の表現に触れるのでなければなりません。

7性別

社会の中で、男性あるいは女性としての役割を果すことを子供たちが学ぶのは、家庭においてです。家庭では、その家族を構成している男女が、いろいろな形で相互作用を持つのです。大人たちは、正しく適当な方法で、性の成熟の美を子供たちに教える必要があります。また子供たちを、性の暴力から守るのも大人たちの責任です。

8価値感の学習

家庭の持つ社交性は、家族によって支持されているもろもろの価値感を同化していくための場としての機能を果すべきです。家族生活において示される価値感と宗教の提示する価値概念とが必ずしも同じでない場合があります。両親は、ある種の宗教原則に忠実であろうとしているかもしれません。しかし、彼らが生活において、子供たちに示している価値感がこれらの原則と異なる場合があります。両親の言行一致が重要です。

大家族

神が計画されたように、結婚は排他的な関係です。しかし、家族同士はそうではありません。今日のように転居の激しい社会においては、祖父母、兄弟たち、あるいは従兄弟たちが同居生活するか、極めて近接した地点に住むといった大家族はほとんど見当りません。教会家族は、近親者から遠く離れている人々や近親者のない人々にとっては、自己の存在意味や帰属意識を見出す助けとなります。ここはまた片親であるやもめたちが慰めを得、また彼らの子供たちを愛と慈しみをもって育て得る場所ともなります。教会はまた、家庭に欠落しているさまざまな役割の模範を提供できる所でもあります。

会衆内の老人を愛することにより、子供たちは、尊敬ということを学ぶことができます。一方老人は、愛し交わることができる子供たちを得て、満足感を味わうことができます。「神よ、わたしが年老いて、しらがとなるとも、あなたの力をきたらんとするすべての代に宣べ伝えるまで、わたしを見捨てないでください」(詩篇71:18)。

神は特別な思いやりを老人たちに向けており、次のように言っておられます。「しらがは栄えの冠である。正しく生きることによってそれが得られる」(箴言16:31)。また、「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。私は造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(イザヤ46:4)。

教会は、独身者にとってもまた、特別な場所となります。愛され大事にされる場所であると同時に、愛や力を分かち合う場所となり得ます。教会の奉仕活動をとおし、神の顧みを感じとることができるようにもなります、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」(エレミヤ31:3)。

助けを必要としている人々に特別な世話を提供することは、「清く汚れのない信心」の大事な一部です(ヤコブ1:27、出エジプト22:22、申命記24:17、26:12、箴言23:10、イザヤ1:17)。教会家族は、家族を持たない人々に、避難所や宿り場所、また帰属意識を持てる場を提供するような特別な機会を有しております。それはキリストが言われた、キリスト教社会のしるしとも言うべき特別な一致において、各教会員を囲み、包むのです(ヨハネ17:20-23)。

回復

家庭は教会の核心でありますから、クリスチャンの家庭それ自体、そのメンバーのひとりびとりを主のためにかち取り、保ちゆく手段ともなります。旧約聖書の最後の書には、主の再臨直前に何が起るかの預言があります。「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、私は預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」(マラキ4:5,6)。さまざまな力が、今日家庭からそのメンバーひとりびとりを切り離そうとしていますが、一方神は、再結合、再団結、回帰、回復を人類に呼び掛けておられます。神のこの召しに応答する家庭は、真のキリスト教とはいかなるものであるかを、世に証しするような力を持つでありましょう。このような家族からなる教会は成長します。そして、その若者たちは離れゆくどころか、世に対し、神とはどのような方であるかを判然と描き出すようになるでしょう。

[1]ホワイト、『教育』(福音社、1975年)、第8版、10ページ参照。

[2]P・W・スポルディング、『家庭をつくる者たち』(カリフォルニア州、マウンテンビュー、パシフィック・プレス社、1928年)、A. W. Spalding, Makers of the Home (Mountain View, CA ・ Pacific Press, 1928)、58ページ。

[3]この地球の管理の責任はアダムにあったということは、彼が最初に罪を犯したのではなかったにもかかわらず、神は彼に有罪を宣告されたところに見られます(創世記3:9以下)。新約聖書は、最初のアダムを第二のアダムと比較して述べ、前者に罪と死の導入の責任があることを宣言しております(ローマ5:12以下、1コリント15:22、ホワイト、『各時代の大争闘』、下巻(福音社、1974年)427,428ページ参照)。

[4]「神ご自身が、アダムに伴侶をお与えになった。神は、『彼にふさわしい助け手』すなわち、彼にちょうど合った助け手、彼の伴侶となるにふさわしく、彼と1つになって、愛し、同情することができる者をお与えになった。エバは、アダムのわきから取られたあばら骨によって創造された。このことは、彼女がかしらになって彼を支配するのでもなければ、彼よりは劣った者として彼の足の下に踏みつけられるものでもなく、同等のものとして、彼のかたわらに立ち、彼に愛され、守られるものであることを示している」(ホワイト、『人類のあけぼの』、上巻(福音社、1971年)21ページ)。

[5]結婚における契約の概念については『契約と結婚―協力関係と誓約』(指導者用ノート)(テネシー州、ナッシュビル、南部バプテスト協議会家庭部局、日曜学校部、1987年)、Covenant and Marriage・ Partnership and Commitment (Leader’s Note) (Nashville, TENN ・ Family Ministry Depertmant Sunday School Board of the Southern Baptist Convention, 1987)、51-60ページ中の、「契約としての結婚」(“Marriage as Covenant”)参照。

[6]『セブンスデー・アドベンチスト教会指針』、(福音社、1974年)、125ページ。F・W・ウィルコックス、「未信者との結婚」『レビュー・アンド・ヘラルド』1914年7月2日号、F. M. Wilcox,“Marrying Unbelievers”Review and Herald 9、10ページ、G・B・トンプソン、「未信者との結婚――『ふたりがもし約束しなかったら、1緒に歩けるだろうか?』」『レビュー・アンド・ヘラルド』1944年5月4日号、G. B. Thompson,“Marrying Unbelievers・ Can Walk Together, Except They Be Agreed?”Review and Herald、1-4ページ、ホワイト、『証し』(Testimanies)、第4巻、503-508ページ参照。

[7]ウォルター・トロビッシュ、『私はあなたと結婚した』(ニューヨーク州、ニューヨーク、ハーパー・アンド・ロー社、1971年)、Walter Trobisch, I Married You (New York, NY ・ Harper and Row, 1971)、18ページ。

[8]エド・ホイート、『すべての夫婦のための愛の生活』(ミシガン州、グランド・ラピッズ、ゾンダーバン社、1980年)、Ed Wheat, Love Life for Every Married Couple (Grand Rapids ・ Zondervan, 1980)、72ページ。

[9]同・62ページ。

[10]ホワイト、『人類のあけぼの』、上巻(福音社、1971年)、47、48ページ。

[11]例えば、ホワイト、『ミニストリー・オブ・ヒーリング』(福音社、1957年)、333,334ページ・同、『青年への使命』、(福音社、1957年)、454ページ参照。

[12]ホワイト、『人類のあけぼの』、上巻(福音社、1971年)、150,151,228,398ページ・同、『霊の賜物』(Spiritual Gifts)、第三巻、104,105ページ、同・第4巻、86ページも参照。

[13]ホイート、『すべての夫婦のための愛の生活』、202ページ。ロイ・ヘッション、『忘れられた諸要素――誤った性行動の中で見失われている事柄に対するより高い自覚のための1助』(ペンシルヴァニア州、フォート・ワシントン、クリスチャン・リタラチュア・クルセード社、1976年)、Roy Hession, Forgotten Factors…An Aid to Deeper Repentance of the Forgotten Factors of Sexual Misberhavior (Fort Washington, PA ・ Christian Literature Crusade, 1976) 中の、「離婚裁判か十字架か」(“The Divorce Court or the Cross”)、ホイート、『すべての夫婦のための愛の生活』中の「いかにしてあなたの結婚を救済するか」(“How to Save Your marriage Alone”)、ゲーリー・チャップマン、『離婚者のための希望――傷ついた結婚はいやされうる』(イリノイ州、シカゴ、ムーディー・プレス社、1982年)Hope for the Separated・ Wounded Marriages Can Be Healed (Chicago, ILL ・ Moody Press, 1982) も参照。

[14]『セブンスデー・アドベンチスト教会指針』、(福音社、1974年)、145ページ。

[15]ヘッション、『忘れられた諸要素』(Forgotten Factors)参照。この秀れた書物は、罪人が悔い改めて神の愛の内にそのゆるしを見出すのを助けるため、性の不道徳という深い問題を注意深く扱っています。

[16]ホワイト、『証し』(Testimonies)、第1巻、307ページ。

彼女はまた、次のように言っています。「わたしたち女性は、神がわたしたちをして夫に従うような立場に置かれたものであることを、覚えるべきです。わたしたちの判断や物の見方、また理由づけは、できる限り、夫とひとつでなければなりません。しかし、もし一致できない場合は、神の言葉は、良心に反しない限り、夫の判断に優先権を与えるように定めております。わたしたちは、かしらとなる夫に譲歩すべきです」(ホワイト、書簡6、1861年)。

[17]ホワイト、原稿、17、1891年。ラリー・クリステンソン、『クリスチャン家族』(ミネソタ州、ミネアポリス、ベタニー・フェローシップ社、1970年)、Larry Christenson, The Christian Family (Mineapolis, MN ・ Bethany Fellowship, 1970)も参照。

[18]どのようにして生きた家庭礼拝を持つかについての種々のアイデアについては、ジョンおよびミリー・ヤングバーグ、『心の調律――よい家庭礼拝の助け』(ワシントンD・C・、レビュー・アンド・ヘラルド社、1985年)、John and Millie Youngberg, Heart Tuning ・ A Guide to Better Family Worship (Washington, D. C.・ Review and Herald, 1985)、クリステンソン、『クリスチャン家族』、157-197ページ参照。

[19]ホワイト、『アドベンチスト・ホーム』(福音社、1968年)、254ページ。

[20]子供たちの養育を他の人の手に委ねなければならない事情の下にある親は、人生に関して同じ価値感を有する人を選別すべきです。そうすることによって、十分に協力を得て、子供に愛と「主の薫陶」と与えることができるようになるためです。親はまた、自分の子供の交友関係を注意深く見守るべきです。交わっている子供たちと同じような子供に育って欲しいと、願うかどうかを問いなさい。子供たちは、実に素早く、また永久に消えないような学びをするものですから、子育てのあらゆる面を、意図的に探り調べ、観察して行く必要があります。

[21]エディス・シェーファー、『家族とは何か』(ニュージャージー州、オールド・タッパン、フレミング・H・レベル社、1975年)、Edith Schaefer, What is a Family? (Old Tappan, NJ ・ Fleming H. Revell Co., 1975)、47ページ。

[22]ホワイト、『各時代の希望』、中巻(福音社、1964年)、319,320ページ、ホワイト、『アドベンチスト・ホーム』(福音社、1968年)、282-287ページ参照。

[23]ゲーリー・スメリー及びジョーン・トレント、『祝福』(テネシー州、ナッシュヴィル、トーマス・ネルソン・パブリッシャーズ社、1986年)、Grary Smalley and John Trent, The Blessing (Nashiville, Tenn ・ Thomas Nelson Publishers, 1986)。成長期の子供の情緒及び心理学上の健全さは、ひとえに両親がその無我の愛を与えるか否かにかかっていることを、著者は注意深く説明しております。

[24]ホワイト、『キリストの実物教訓』(福音社、1967年)、72ページ。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

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