天の聖所におけるキリストの奉仕【アドベンチストの信仰#24】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

天には、人間ではなく、神が備えられた真の幕屋なる聖所がある。その中でキリストは、十字架でただ一度だけささげられた贖罪の犠牲の恩恵が、信じる者たちに与えられるように奉仕しておられる。キリストは昇天してわれわれの大祭司となり、仲保の働きを開始された。その働きは地上の聖所における大祭司の働きによって象徴されていた。そして、2300日の預言期間が終了した1844年に、贖罪の働きの第二の、そして最後の段階に入られた。その働きは地上の至聖所における大祭司の働きによって象徴されていた。それは、すべての罪を最終的に処理する働きの一部となる調査審判の働きであって、古代イスラエルにおける「贖罪の日」の聖所の清めに予表されていた。この予型としての奉仕では、聖所は動物の犠牲の血で清められたが、天の聖所は完全な犠牲であるイエスの血によって清められる。調査審判は、死者のうち誰がキリストにあって眠っているのか、すなわち誰がキリストにあって最初の復活にあずかるにふさわしいかを天の住民に明らかにする。それはまた、生きている者のうち誰がキリストにあって神の戒めを守り、イエスの信仰を持ち続けているか、すなわち誰がキリストにあって永遠のみ国へたずさえ入れられる用意ができているかをも明らかにする。この裁きはイエスを信じる者を救うことで神の義を擁護する。それは、神に忠実であり続けた者がみ国を受けることを宣言する。キリストのこの働きが終るとき、人間に与えられている再臨前の恩恵期間も終了する。(信仰の大要24)

夕べの犠牲を捧げる時刻になりました。祭司はエルサレムの神殿の中庭に立ち、小羊を犠牲としてささげようとしています。いけにえを殺そうとナイフを振り上げたちょうどその時、大地が大きく揺れ動きました。恐れおののく祭司の手からナイフがすべり落ち、小羊は逃げて行きます。目には見えない手が、神殿の幕を上から下まで引き裂く大きな音が、地震の喧騒をつらぬくように祭司の耳に聞えてきます。

町を横切る黒い雲が、十字架を覆っています。イエスが「すべてが終った」と叫ばれたとき、神の過越の小羊であるイエスは、全世界の罪のために死なれたのです。

型が本体と一つになったのです。永い間、神殿における奉仕が指し示してきたそのできごとが、実際に起ったのです。救い主がその贖罪の犠牲を完結された、すなわち象徴が実体と一つになったので、この犠牲を予表する儀式は廃されたのです。従って幕は裂かれ、ナイフは地に落ち、小羊は難を逃れたのでした。

しかし、救済の歴史はこれで終ったわけではありません。十字架のまだその先があるのです。イエスの復活と昇天は、わたしたちの注意を天の聖所へと向けます。そこではもはや小羊ではない方が祭司として働いておられます。ただ一度の犠牲が捧げられました(ヘブル9:28)。そして今やこの贖罪の犠牲の恩恵を、すべての人が受けられるようにして下さったのです。

目次

天の聖所

神はご自身の地上の住まいを、最初の(古い)契約にしたがって役目をはたす最初の聖所として(ヘブル9:1)建てるようモーセに命じられました(出エジプト25:8)。この聖所は人々に救いの方法を教えるための場所でした。それから約400年後、モーセの移動式幕屋に代って、恒久的な神殿がソロモン王によってエルサレムに建てられました。ネブカデネザルがこの神殿を破壊してから後、バビロニア捕囚から戻った人々が第二神殿を建てました。ヘロデ大王がこれを美しく飾りましたが、紀元70年、ローマ人によって破壊されました。

新約聖書は、新しい契約もまた聖所を持っていることを明らかにしています。それは天にあるのです。この天の聖所においてキリストは「大能者の御座の右に座し」、大祭司としての務めをはたしておられます。この聖所は「人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所」(ヘブル8:1,2)なのです[1]。シナイ山においてモーセは、天の聖所の写し、そして「型」である模型を見せられました(出エジプト25:9、40参照)[2]。聖書はモーセが建てた聖所を「天にあるもののひな型」、「ほんとうのものの模型」(ヘブル9:23,24)と呼んでいます。従って、地上の聖所とそこにおける奉仕は、天の聖所のはたす役割についての特別な洞察をわたしたちに与えてくれるのです。

聖書は一貫して天の聖所あるいは宮の存在を想定しています(例、詩篇11:4、102:19、ミカ1:2,3)[3]。啓示者ヨハネは幻で天の聖所を見せられました。ヨハネはそれを「天にある、あかしの幕屋の聖所」(黙示録15:5)、また「天にある神の聖所」(黙示録11:19)と記しています。ヨハネはそこで七つの燭台(黙示録1:12)や金の香炉(黙示録8:3)など、地上の幕屋の聖所で用いられた品々を見せられました。また地上の至聖所に置かれていた契約の箱と同じものをも見せられたのでした(黙示録11:19)。

天の香炉は、天の神の宮にある(黙示録4:2、7:15、16:17)神のみ座(黙示録8:3、9:13)の前に置かれています。このように天の玉座の情景(ダニエル7:9,10)は、天の宮、聖所のうちに存在しています。そしてこれが、なぜ最後のさばきが神の宮から発せられるかの理由なのです(黙示録15:5-8)。

したがって聖書が隠喩や抽象的な概念としてではなく、実在するものとして(ヘブル8:2、NEB)天の聖所を提示していることは明らかです[4]。天の聖所は神の第一の住まいなのです。

天の聖所における働き

聖所の使命は救いの使命でありました。神は聖所における奉仕を福音宣教のために用いられました(ヘブル4:2)。地上の聖所における奉仕は、キリストの初臨までは――「今の時代に対する」(ヘブル9:9、NSAB)――象徴[パラボレー(ギリシャ語)―たとえ]でありました。「神は象徴と儀式とをとおし、この福音のたとえによって、イスラエルの犠牲に対する信仰と、世の罪を取り除くあがない主、『神の小羊』の祭司としての働きとに焦点をあてようとされたのでした(ガラテヤ3:23、ヨハネ1:29)。」[5]

聖所はキリストの働きの三つの面を表しています。(1)身代わりとしての犠牲、(2)祭司としての仲保、(3)最後のさばき。

身代りとしての犠牲

聖所における犠牲はすべて、「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」(ヘブル9:22)という真理を表す、罪のゆるしのためのイエスの死を象徴していました。これらの犠牲は次に示す真理を表していました。

1罪に対する神のさばき

罪はすべての善なるもの、高潔なるもの、そして真理に対する根深い反逆であるため、無視することができないのです。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)。

2キリストの身代りの死

「われわれはみな羊のように迷って…行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」(イザヤ53:6)。「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」(1コリント15:3)。

3神が贖罪の犠牲を用意される

この犠牲は「その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物」(ローマ3:25)であるキリスト・イエスです。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかた[キリスト]を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである(2コリント5:21)。あがない主キリストは、罪のさばきをご自身の身に負われたのです。それによって、「当然キリストが受けられるべきとり扱いをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれが当然受けるべきとり扱いを受けられた。われわれのものではなかったキリストの義によってわれわれが義とされるように、キリストはご自分のものではなかったわれわれの罪の宣告を受けられた。キリストのものであるいのちをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれのものである死を受けられた。『その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ』(イザヤ53:5)。」[6]

地上の聖所における犠牲は繰り返しささげられました。このあがないの儀式的なたとえは、物語のようにして年々語りつがれました。これとは対照的に、本体――実際のわたしたちの主の贖罪の死――は、ただ一度だけカルバリーで起ったのでした(ヘブル9:26-28、10:10-14)。

人類の罪の代価は十字架上で完全に支払われたのでした。神の義は全うされました。法的な見方をすれば、この世は神の恩恵を受けられるように回復されたのです(ローマ5:18)。贖罪または和解は、犠牲によって予表されていたように十字架上で完結されたのです。したがって、悔改めて主を信じる人は、わたしたちの主が成遂げてくださったこのわざに信頼することができるのです[7]

祭司である仲保者

もし犠牲が罪をあがなったのであれば、なぜ祭司が必要だったのでしょうか。

祭司の役割は、罪人と聖なる神との間の調停の必要に注意を向けさせることにありました。祭司による仲介は、罪の重大さと、罪がもたらした全く罪のない神と罪深い人類との間の隔絶とを明らかにします。「ちょうどすべての犠牲がキリストの死を予表していたように、すべての祭司が、天の聖所における大祭司としてのキリストの仲保の働きを予表していました。『神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである』(1テモテ2:5)。」[8]

1仲保者と贖罪

祭司の仲保の働きの間に流される血もまた、贖罪の型とみることができました(レビ4:35)。英語の贖罪という言葉は、仲たがいをした二つのグループの和解を意味しています。キリストの贖罪の死がこの世を和解させたように、キリストの仲保あるいは、キリストの罪のない生涯と身代わりの死の功績の適用が、神との和解すなわち贖罪を、キリストを信じる人にとって個人的な現実性を持つものとするのです。

レビ記の祭司職は、キリストがご自身の死後続けておられる救いのわざを表しています。「天にあって大能者の御座の右に座し」、奉仕しておられるわたしたちの大祭司は、「人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる」(ヘブル8:1,2)のです。

天の聖所は、キリストがわたしたちの救いのために祭司としての働きを指揮される、いわば最高司令部です。キリストは「いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができ」(ヘブル7:25)ます。したがって、わたしたちは「あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に」(ヘブル4:16)近づくように奨励されているのです。

地上の聖所では、祭司たちは二つの異なった働きに携わりました。――聖所、すなわち第一の部屋(本書第4章参照)における日毎の務めと、至聖所、すなわち第二の部屋における年毎の務めです。これらの奉仕はキリストの祭司としての働きを表していました[9]

2聖所における働き

聖所における祭司たちの働きは、執成し、ゆるし、和解、そして回復の働きなどによって特徴づけることができるでしょう。絶えることなく続けられた働き、それは祭司をとおしてたえず神に近づこうとする試みでありました[10]。その働きは、悔改めた罪人が、執成し者であり仲保者であるキリストの祭司としての働きによって、直ちにそしていつも、神に近づくことができるという真理を象徴していました(エペソ2:18、ヘブル4:14-16、7:25、9:24、10:19-22)。

悔改めた罪人は[11]、犠牲を携えて聖所にやってくると、罪のない動物の頭の上に両手を置いて自分の罪を告白しました。この行為によって彼の罪とその刑罰は、象徴的に犠牲へと移されました。その結果として罪のゆるしを得たのでした[12]。『ユダヤ百科事典』(The Jewish Encyclopedia)に次のように記されているとおりです。

「犠牲の上に両手を置くことは、それによって罪の身代り、及び転移をもたらす通常の儀式であります。」「すべての犠牲には身代わりの概念があり、いけにえは罪人の代理をするのです[13]

罪のための供え物の血は、次の二つの方法の内いずれかで処理されました。a、その血が聖所に持ち込まれた場合は、垂れ幕の前に注がれ、薫香の祭壇の角に塗られました(レビ4:6,7,17,18)。b、聖所に持ち込まれなかった血は、庭にある燔祭の祭壇の角に塗られました(レビ4:25,30)。この場合、祭司は供え物である肉の一部を食べました(レビ6:25,26,30)。いずれの場合も儀式に参加した人々は、自分たちの罪とその責任が聖所と祭司の働きに移されたことを理解したのでした[14]

「この儀式的なたとえにおいては、悔改めた人が罪を告白して罪祭を捧げたとき、――少なくともしばらくの間は――聖所が悔改めた人の罪とその責任とを引受けました。その人はゆるされて、神に受入れられたことを確信して立ち去りました。本体との関係においても同様の経験をすることができます。罪人が聖霊によって悔改め、キリストを自分の救い主として受け入れるように導かれるとき、キリストがその人の罪とその責任とを引受けてくださいます。その人は完全にゆるされるのです。キリストは信徒の代理人であると同時に保証人でもあられるのです。」[15]

型及び本体のいずれにおいても、聖所での働きは主として個人に集中しています。キリストの祭司としての働きは、罪人のゆるしと、神との和解とをもたらします。(ヘブル7:25)。「キリストに免じて、神は悔改めた罪人をゆるし、み子の義なる性質と服従とをその人に帰してその罪をゆるし、ご自分の子供の一人としてその人の名を生命の書に記してくださいます(エペソ4:32、1ヨハネ1:9、2コリント5:21、ローマ3:24、ルカ10:20)。そして、信じる者がキリストの内にとどまるとき、その人には聖霊をとおして、霊的な恵みがわたしたちの主によって仲介され、それによって霊的に成熟し、天来の品性を反映する徳と慈愛とを高めることができます(2ペテロ3:18、ガラテヤ5:22,23)。」[16]

聖所における働きは、信じる人の義認と聖化とを成し遂げるのです。

最後のさばき

贖罪の日の出来事は神の最後のさばきの三つの面を表しています。それらは次の通りです。(1)「再臨前のさばき」とも呼ばれる「千年期前のさばき」(あるいは「調査審判」)、(2)「千年期のさばき」、(3)千年期の終りに行われる「律法に基づくさばき」。

1至聖所における働き

祭司としての働きの第二の段階は、主として聖所を中心とし、聖所と神の民の清めとをめぐってなされます。聖所の中の至聖所に焦点をあてた、そして大祭司のみが執行することができたこの働きの形式は、宗教上の年のある一日に限定されていました。

聖所の清めは2匹のやぎ――主のやぎと贖罪のやぎ(ヘブル語ではアザゼル)――を必要としました。主のやぎを犠牲として捧げると、大祭司は「聖所[この章では事実上は至聖所]と会見の幕屋[聖所]と[庭の]祭壇のための贈罪をしました」(レビ16:20、16:16-18参照)。

キリストの血を象徴していた主のやぎの血をとって至聖所に入ると、神の聖なる律法の要求を満たすために大祭司はそれを神の前で、贖罪所――十戒の入った契約の箱の蓋――に直接塗りました。大祭司の行為は、神がいかにご自分の民をご自身と和解させたいと切望しておられるかを表す、キリストがわたしたちの罪のために支払わなければならなかった測りしれない代価を象徴していました(2コリント5:19参照)。それから大祭司は、告白された罪を表す血が一年中毎日注がれた香壇と祭壇にこの血を塗りました。それによって大祭司は、民のためと同時に聖所のための贖罪をし、双方の清めを成し遂げたのでした(レビ16:16-20、30-33)。

次に仲保者としてのキリストを象徴している大祭司は、聖所をけがした罪を自分自身の身に引き受け、それを神の民のキャンプから引いてきた、生きているやぎ、アザゼルに転移しました。この行為は、悔改めた信徒たちから、ゆるしのための日毎の務めの犠牲の血あるいは肉をとおして、象徴的に聖所に移された民の罪を取り除きました。こうして聖所は清められ、来たるべき年の奉仕の働きに備えたのでした(レビ16:16-20,30-33)[17]。そして神と神の民との間のすべてが修復されたのです[18]

さらに、贖罪の日は罪を根絶やしにするさばきの過程を表しています。この日になされた贖罪は、「罪の存在を永遠にわたって消し去り、宇宙を神の調和した支配のもとへと完全に和解させる、キリストの功績の最終的な適用を予表していました。」[19]

2、アザゼル、贖罪のやぎ

ヘブル語アザゼルの「訳語『贖罪のやぎ』」(逃げるやぎ)は、ウルガタ訳のカペル:エミッサリウス「追い払われたやぎ」からきています(レビ16:8、RSV、KJV欄外)[20]。レビ記16章を注意深く調べてみれば、アザゼルは、ある人々が考えているようにキリストではなく、サタンを表していることは明らかです。この解釈を裏付ける論拠は次の通りです。「(1)身代りのやぎは犠牲として殺されることはなかったので、ゆるしをもたらすものではありえなかったのです。というのは、『血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない』(ヘブル9:22)からです。(2)身代りのやぎがこの儀式のために引いてこられる前に、聖所は主のやぎの血によって完全に清められました(レビ16:20)。(3)聖句は身代りのやぎを、神とは反対の、神と対立する人格をもった存在とみなしています。(レビ記16章8節は字義通りに読むと「一匹はヤハウェに、そして他はアザゼルに」となります。)したがって、聖所のたとえの設定においては、主のやぎをキリストの象徴、そして身代りのやぎ――アザゼル――をサタンの象徴とみるほうが矛盾がないでしょう。」[21]

3さばきの異なった面

贖罪の日の身代りのやぎの儀式は、カルバリーを越えた罪の問題の終極――罪とサタンの一掃――を指し示していました。「罪の全責任は、その創始者であり扇動者であるサタンに押し戻されるでしょう。サタンとサタンに従う人々、そして罪の結果であるすべてのものは撲滅され、宇宙から一掃されるでしょう。したがってさばきによる贖罪は、完全に一致し調和した宇宙をもたらすでしょう(エペソ1:10)°これが、天の聖所におけるキリストの祭司としての働きの第二の、そして最後の局面が成し遂げるであろう目的なのです。」[22]最終的にこのさばきは、宇宙の前に神の正当性を明らかにすることになるでしょう[23]

贖罪の日は最後のさばきの三つの面を描き出しています。

a聖所からの罪の除去は、さばきの最初すなわち、再臨前の調査の段階に関連しています。それは「ちょうど贖罪の日が、悔改めた人が告白した罪を聖所から移すことに焦点をあてていたように、生命の書に記されている名前に焦点をあてます。偽りの信者はふるいにかけられ、真の信徒の信仰と彼らのキリストとの結合は王の宇宙の前で再確認され、その罪の記録は消し去られるでしょう。」[24]

b身代りのやぎの荒野への追放は、サタンのこの荒廃した地上への千年間の監禁を象徴しています。それは再臨の時に始まり、天で行われる最後のさばきの第二の段階と同時に起るのです(黙示録20:4、1コリント6:1-3)。この千年間のさばきは、悪人に対するさばきの再審理を含んでおり、あがなわれた人々には、罪と救われない罪人たちに対する神の取扱いへの洞察を与えるでしょう。それはまた、神のあわれみと正義とに関して、あがなわれた人々がいだくであろうすべての疑問に答えるでしょう(本書第26章参照)。

c清められた幕屋は、火が悪人を滅ぼしてこの世を清める、さばきの第三の、法律執行上の段階を象徴しています(黙示録20:11-15、マタイ25:31-46、2ペテロ3:7-13、本書第26章参照)。

預言の中の天の聖所

これまでの論議の中でわたしたちは、型―本体の視点から聖所に焦点をあててきました。ここでは、預言の中の聖所を見て行きましょう。

天の聖所の聖別

ダニエル書9章の70週の預言は、天の聖所におけるキリストの祭司としての働きの開始を指していました。490年の間に起こるはずの最後のできごとの一つは「いと聖なる者」に油を注ぐことでありました。(ダニエル9:24、本書第4章参照)。「いと聖なる者」と訳出されてきたヘブル語のクォデシュ・クォデシームは、字義的にはもろもろの聖なるものの中の聖なるものを意味しています。従ってこの章句は「聖なるものの中の聖なるものに油を注ぐ」、あるいは「至聖所に油を注ぐ」(NASB)と訳出するほうがよいでしょう。

地上の聖所が務めを始める際、その務めのために聖なる油で清められたように、天の聖所もその務めを始める際、キリストの執成しの働きのために油を注がれ、清められねばなりませんでした。キリストは、死後間もなく昇天なさると(ダニエル9:27)[25]、わたしたちの大祭司であり、執成し者としての働きをお始めになりました。

天の聖所の清め

天の聖所の清めについてヘブル人への手紙は次のように記しています。「ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。このように、天にあるもののひな型[地上の聖所]は、これらのもの[動物の血]できよめられる必要があるが、天にあるもの[天の聖所]は、これらより更にすぐれたいけにえ」――キリストの尊い血――「できよめられねばならない」(ヘブル9:22,23)。

多くの注解者たちがこの聖書の教えに言及しています。ヘンリー・アルフォードは「天自体がキリストの贖罪の血による清めを必要とし、そして獲得しました」と述べています[26]

B・F・ウエストコットは、「『天にあるもの』でさえ、それらが将来の人類の生命の状態を例示しているかぎり、堕罪によって清めの必要が生じたということができるでしょう」と注釈を加えています。そして彼は「地上の聖所の原型である天の聖所の清め」を有効ならしめたものは、キリストの血であったと言っています[27]

神の民の罪が信仰によって罪のあがないの供え物の上に置かれ、それから象徴的に地上の聖所に移されたように、新しい契約のもとでは、悔改めた人の告白した罪は、信仰によってキリストの上に置かれるのです[28]

また、象徴的な贖罪の日の間に行われた地上の聖所の清めがそこに集められた罪を取り除いたように、天の聖所は天の書物にある罪の記録を最終的に取り除くことによって清められるのです。しかし、その記録が消し去られる前に、だれが一体、悔改めとキリストに対する信仰によって、キリストの永遠の王国に入る資格があるのかを決定するために審査されるでしょう。従って天の聖所の清めは、贖罪の日のさばきの日としての性質を充分に反映している[29]調査あるいはさばきの務めを含んでいるのです[30]。だれが救われ、そしてだれが失われるかについての決定を批准するこのさばきは、再臨の前に行われなければなりません。というのは、再臨の時にキリストは「それぞれのしわざに応じて」(黙示録22:12)報いを携えて戻ってこられるからです。またそのときにサタンの告発に対しても答えが出されるでしょう。(黙示録12:10参照)。

本当に悔改め、信仰によってキリストの贖罪の犠牲の血を求めた人々はみな、ゆるしを得たのです。このさばきにおいてこれらの人々の名があげられると、彼らはキリストの義の覆いによって覆われていると認められ、その罪は消し去られて、永遠の生命にふさわしい者であるとみなされるのです(ルカ20:35)。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう」(黙示録3:5)とイエスは言われました。

預言者ダニエルはこの調査審判の性質を明らかにしています。小さい角によって象徴された背教の勢力が、神と地上の神の民とを冒涜し、迫害し続けている間に(ダニエル7:20,21,25)、玉座がきちんとすえられ、神は最後のさばきを統轄なさるのです。このさばきは天の聖所の謁見の間で天の多くの証人たちの出席のもとに行われます。裁判官が席に着くと、書き物が開かれて調査の手続きの開始が告げられます。(ダニエル7:9,10)。背教の勢力が滅ぼされるのは、このさばきが終るまではありません(ダニエル7:11)[31]

さばきの時

調査審判には、キリストと父なる神との両方が加わっておられます。「人の子」であるキリストは地上に戻られる前に、「天の雲」に乗って「天の群衆とともに」「日の老いたる者」(ダニエル7:13)すなわち父なる神のもとに行かれ、そのみ前にお立ちになります。キリストは昇天なさって以来ずっと、神の前でわたしたちの執成し者である大祭司として働き続けておられます(ヘブル7:25)。しかし今や、キリストは王国を受けるためにおいでになるのです(ダニエル7:14)。

1キリストの祭司としての働きを覆う影

ダニエル書8章は、善と悪との間の戦い、そして神の最終的な勝利について述べています。この章は、キリストの大祭司としての働きの開始と天の聖所の清めとの間に、地上の勢力にはキリストの働きをあいまいにしようとする試みがあることを明らかにしています。

この幻の中の雄羊はメディア・ペルシア帝国を表していました(ダニエル8:2)――長い方の角が最後に伸びた二つの角は、明らかにその帝国の二つの時期を表しており、優勢なペルシアが最後にのし上がってきました。ダニエルが預言したように、この東方の王国はその勢力を「西、北、南にむかって」伸ばし、「高ぶって」(ダニエル8:4)いました。

西から来た雄やぎはギリシアを象徴しており、大きな角はその「第一の王」であるアレクサンダー大王を表していました(ダニエル8:21)。「西の方から」やって来たアレクサンダーは即座にペルシアを打ち破りました。その後、アレクサンダーの死後数年の内にその帝国は「4つの国」(ダニエル8:8,22)――カッサンドロス、リュシマコス、セレウコス、プトレマイオスなどの王国――に分割されました。

「彼らの国の終りの時」(ダニエル8:23)に、すなわち分割されたギリシア帝国の末期に「一つの小さな角」(ダニエル8:9)が現れます。ある人々は、紀元前2世紀に短期間パレスチナを支配したシリアの王、アンティオコス・エピファネスが、預言のこの部分の成就であると考えています。宗教改革者たちの多くを含めて、他の人々はこの小さな角を、異教とカトリック教会の両方の意味におけるローマであると考えてきました。この後者の解釈はまさにダニエルの記述に適合しますが、他の解釈は適合しません[32]。次にあげる点に注意してください。

a小さい角の力は、ギリシア帝国の滅亡から「終りの時」(ダニエル8:17)にまで及びます。異教そしてカトリック教会であるローマだけがこれらの時代の記述に合っています。

bダニエル書2章、7章、8章の預言は互いに平行しています。(本書614ページの預言の平行表を参照)。ダニエル書2章の4種類の金属の像とダニエル書7章の4匹の獣とは同じ世界の帝国、バビロニア、メディア・ペルシア、ギリシア、ローマを表しています。鉄と粘土でできている足と第四番目の獣の10の角とはいずれもローマ帝国の分裂を表しており、これらの分割された国家は再臨まで存続することになっています。両方の預言が、ローマ帝国がギリシア帝国の跡を継ぎ、そしてそれが再臨と最終的なさばきまでの最後の帝国であることを指し示しています。ダニエル書8章の小さい角は同じ位置に適合します。その小さい角はギリシア帝国の後に続いて起り、そして超自然的に、あるいは「人手によらずに滅ぼされる」(ダニエル8:25、ダニエル2:34参照)のです[33]

cメディア・ペルシアは「高ぶっていた(“great”『大きい』)」と言われ、ギリシアは「はなはだしく高ぶった(“very great”『たいへん大きい』)」とされ、そして小さい角は「はなはだしく大きく(“exceedingly great”)」(ダニエル8:4,8,9、KJV)なったと描写されています。世界の最も強大な帝国のひとつであるローマ帝国はこの記述に合っています。

dちょうど預言されたように(ダニエル8:9)、ローマだけがその版図を南方(エジプト)、東方(マケドニアと小アジア)、そして「麗しい地」(パレスチナ)へと拡大しました。

eローマは、イエス・キリストに他ならない「衆群の主」「君の君たる者」(ダニエル8:11,25)に敵対しました。「ローマの権力は、キリストの聖所と同様にキリストとその民に対して、最も驚くべき戦いを展開しました。この描写は、ローマの異教的局面と教皇制的局面との両方を含んでいます。異教国ローマがキリストに抵抗し、実際にエルサレムの神殿を破壊した一方で、ローマ教皇制は、人の仲保をとおしてゆるしをもたらすと主張する司祭制を導入することによって、天の聖所における罪人のためのキリストの祭司としての仲保の働き(ヘブル8:1,2参照)を事実上、あいまいなものにしてしまいました[34]。(本書第12章参照)この背教の勢力は相当な成果をあげるでしょう。というのは、「その角は…真理を地に投げうち、ほしいままにふるまって、みずから栄え」(ダニエル8:12)るからです。

2回復、清め、さばきの時

キリストの大祭司としての働きは限りなく続けられる、という真理に影をおとすことを神はお許しにはなりません。神をおそれる忠実な人々をとおして、神はご自分の運動に活力を与えられました。宗教改革による、わたしたちの仲保者としてのキリストの役割の部分的な再発見は、キリスト教界に大きな信仰復興をもたらしました。しかしまだ、キリストの天における働きについて明らかにされるべき真理がありました。

わたしたちの大祭司としてのキリストの役割は、「終りの時」(ダニエル8:17)が近づくと著しく重要なものとなり、その時にキリストは、継続しておられた執成しの働き(ヘブル7:25)に加えて、清めとさばきとの特別な働きを始められることを、ダニエルの幻は示していました[35]。幻は、キリストがいつこの予表されていた贖罪の日の働き――調査審判の働き(ダニエル書7章)と聖所の清め――を始められるかを明確に述べています。「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められるであろう」(ダニエル8:14、KJV)[36]。幻は終りの時について述べているので、そこで言われている聖所は地上の聖所ということはありえません。なぜならそれは紀元70年に破壊されてしまったからです。したがって預言は、天にある新しい契約の聖所――キリストがわたしたちの救いのためにお働きになる場所――について述べているに相違ありません。

2300日あるいは、「二千三百の夕と朝」とは何でしょうか、原典のヘブル語では何と書いてあるのでしょうか[37]。創世記1章によれば、「夕と朝」とは一日です。本書の第4章と第12章でみてきたように、象徴的な預言における一定の期間はこれまた象徴的です。預言の一日は一年を表しています。このように、多くのクリスチャンたちが幾世紀にもわたって信じてきたように、ダニエル書8章の2300日は実際には2300年であることを示しています[38]

Aダニエル書8章を解くかぎであるダニエル書9章

神は天使ガブリエルに、ダニエルに「幻を悟らせ」(ダニエル8:16)るよう命じられました。しかしその衝撃があまりに強烈でダニエルが病気になったため、ガブリエルはその説明を中断せざるをえませんでした。章の最後でダニエルは、「わたしはこの幻の事を思って驚いた。またこれを悟ることができなかった」(ダニエル8:27、RSV)、と述べています。

この中断のためガブリエルは、「期間」――ガブリエルがまだ説明していなかった幻の唯一の局面――に関する説明を遅らせねばなりませんでした。ダニエル書9章は、ガブリエルがこの責任を全うするために戻ってきたことを記しています。したがって、ダニエル書の8章と9章とは結び合わされ、9章が2300日の奥義を解くかぎとなっています[39]。ガブリエルは姿を現してダニエルに言いました。「わたしは…あなたに、知恵と悟りを与えるためにきました。…ゆえに、このみ言葉を考えて、この幻を悟りなさい」(ダニエル9:22,23)。ガブリエルはここで2300日の幻にさかのぼって言及しています。ガブリエルが70週の預言をもってその説明を始めていることから、ダニエル書8章の幻の時間的な要素について説明しようとしていることは明らかです。ユダヤ人とエルサレムのために70週、あるいは490年が「定められて(“determined”)」(KJV)、または「布告されて(“decreed”)」(ダニエル9:24)(RSV、NASB、NIV)いました。派生の原点となっているヘブル語の動詞は、ハサクです。この動詞は聖書中で一回だけしか使われていませんが、その意味は他のヘブル語の資料から知ることができます[40]。著名なゲセニウスのヘブル語―英語辞典は、その意味を適切に「切る」(“to cut”)あるいは「分かつ」(“to divide”)としています[41]

こうした背景からガブリエルの注釈はきわめて明らかです。ガブリエルはダニエルに、490年は、より長い期間である2300年から切り放されるはずであったといっています。また490年の起算点をガブリエルは、「エルサレムを建て直せという命令が出てから」(ダニエル9:25)と指摘しています。そしてそれは紀元前457年、アルタクセルクセスの治世第7年に起りました。(本書第4章参照)[42]

490年は紀元34年に終りました。2300年から490年を切り放すと1810年が残ります。2300年は、紀元34年から1810年後ですから、1844年までということになります[43]

Bキリストの働きをより充分に理解するために

19世紀の初頭、バプテスト教会、長老派教会、メソジスト教会、ルター派教会、英国聖公会、監督教会、会衆派、ディサイプル教会などの多くのクリスチャンたちは、ダニエル書8章の預言を徹底的に研究しました[44]。これらの聖書学者たちはみな、2300年の終りに何か特別なできごとが起ることを期待していました。小さい角の権力と聖所とに関する自分たちの理解に基づいて、彼らは、教会の清め、パレスチナとエルサレムとの解放、ユダヤ人たちの帰還、トルコあるいはイスラム教勢力の失墜、教皇制の滅亡、真の礼拝の回復、地上における千年期の開始、さばきの日、火による地上の清め、あるいは再臨などによって、この預言的な期間が終ると予想していました[45]

これらの予測のいずれも実現しなかったので、これらを信じていた人々はみな失望しました。彼らが失望によって味わった苦しみは、予測したできごとの迫真性に比例したものでした。1844年にキリストが戻ってこられると期待していた人々の失望は、ユダヤ人がパレスチナに戻ることを予測していた人々の失望よりも明らかに大きく、衝撃的でした[46]

失望した結果、彼らの内の多くは預言の研究をやめてしまったり、あるいはこれらの結論を導き出すに至った、預言の歴史主義的な解釈方法から転換して行きました[47]。しかしある人々は、自分たちのために天の聖所でなされているキリストの働きに望みを託しつつ、この預言と聖所の問題とについて、熱心に祈り非常な努力を傾けて研究しつづけました。そうした努力は、聖所におけるキリストの働きに対する新たな洞察によって豊かに報いられました。彼らは、初代教会及び宗教改革における歴史的、預言的な信仰はなおも正当な根拠を持つものであるということを発見したのでした。預言的な時期の算定はまさに適切であったのです。2300年は紀元1844年に終っていたのです。この人々と当時の注解者たちのすべての誤りは、その預言的な期間の終りにどんなできごとが起るはずであったかということの理解にありました。キリストの聖所における働きから来る新しい光が、彼らの失望を希望と喜びとに変えました[48]

聖所に関する聖書の教えの研究によって、キリストは1844年に日の老いたる者のもとに行き、天の聖所において大祭司としての働きの最後の段階を始められたということが明らかにされました。この働きは、ダニエル書7章が再臨前の調査審判として描写している、贖罪の日の聖所の清めが指し示していたものでした。

キリストの天における働きに対するこの新しい洞察は、「歴史的なキリスト教信仰から逸脱するものではありません。むしろそれは論理的な完結であり、キリスト教信仰の必然的な終結です。それは終りの日の状況であり、世に対するあかしの終りの部分における、…永遠の福音を特徴づける、あの預言が強調していた点の行事です。」[49]

大争闘における重要性

ダニエル書7章と8章との預言は、神とサタンとの間の大争闘の、最終的な結末のより広い展開を表しています。

神のご品性の証明

サタンは小さい角の活動をとおして、神の権威に挑戦してきました。その行為は神の統治の中心である天の聖所を非難し、踏みにじってきました。ダニエルの幻は、神が小さい角、すなわち、サタン自身に対する譴責の評決を確かなものとされる再臨前のさばきを指し示しています。カルバリーの輝きの内に、サタンのすべての挑戦は打ち破られるでしょう。神は正しいお方であり、罪の問題に対して責任はないということをすべての人が理解し、認めるようになるでしょう。神のご品性は攻撃の余地のないものであることが明らかになり、神の愛による支配が再確認されるでしょう。

神の民の証明

さばきは背教的な小さい角の勢力に有罪宣告を下すと同時に、「いと高き者の聖徒のために」(ダニエル7:22)もなされるのです。まさにこのさばきは、宇宙の前に神の正しいことを証明するだけでなく、神の民の正しさをも証明するのです。聖徒たちは、そのキリストに対する信仰のゆえにさげすまれ、迫害されてきました。それが幾世紀にもわたったにせよ、このさばきがすべてを正しくするのです。神の民がキリストの約束を実現するでしょう。「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう」(マタイ10:32、ルカ12:8,9、黙示録3:5参照)。

さばきと救い

調査審判は、イエス・キリストを信じる人々の救いを危うくするのでしょうか。決してそんなことはありません。真の信徒たちは執成し者としてのキリストに信頼し、キリストと和合して生活しています(ローマ8:34)。この人々の確信は、「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(1ヨハネ2:1)という約束にあります。

それでは、なぜ再臨前の調査審判があるのでしょうか。このさばきは神のためにあるのではありません。それはまず第一に宇宙のためです。サタンの告発に応え、そして堕落しなかった被造物たちに、神は真に回心した者だけをご自分の王国に受け入れるのだという確信をお与えになるのです。したがって神は、公正な調査のために記録の書をお開きになるのです。(ダニエル7:9,10)。

人類は次の三つの種類のいずれかに属しています。(1)神の権威を拒む悪人。(2)神の律法に従って生活し、信仰によってキリストの功績に信頼する真の信徒。(3)真の信徒のように見えるが、実際はそうではない人。

堕落しなかった被造物たちは、ただちに最初の種類の人々を識別することができます。しかし、どの人が真の信徒であって、どの人がそうではないのでしょうか。神の奉仕に携わったことのある、すべての人の名が書かれてある生命の書には、どちらの種類の人々の名も記されています(ルカ10:20、ピリピ4:3、ダニエル12:1、黙示録21:27)。教会自体は、真の信徒と偽りの信徒、麦と毒麦とを含んでいます(マタイ12:28-30)。

堕落しなかった神の被造物たちは全知ではないので、心を見抜くことはできません。「従って、真実なものを偽りのものからふるいわけて真実な信徒を救う神の正義を、関心をもって見守っている宇宙に対して明らかにするため、さばきが――キリストの再臨の前に――必要なのです。問題は神と宇宙との間にあるのであって、神と真の神の子との間にはありません。このために記録の書の公開、すなわち、信仰を告白した人々と生命の書にその名が記されている人々とを明らかにする必要があります。」[50]

キリストはこのさばきのことを、寛大な福音の招待に応じた婚姻の客たちのたとえの中で述べられました。クリスチャンとなることを選んだすべての人が必ずしも真の信徒ではないので、王がやって来て客たちを点検し、どの人が婚礼用の衣裳を着ているかを確かめるのです。この衣裳は「ほんとうにキリストに従う者が持つ、純潔でしみのない品性を」表しています。「教会については、『光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許され、』『しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいな』(黙示録19:8、エペソ5:27)いとされています。汚れのない麻布とは『聖徒たちの正しい行いである』(黙示録19:8)と聖書は言っています。キリストを自分の個人的な救い主として受入れる者すべてに信仰をとおして分け与えられるのは、キリストの義であり、キリストご自身の傷のない品性です」[51]。王が客たちを点検するとき、福音の招きの内に比類なく提示されているキリストの義の衣を身につけた人々だけが、真の信徒として受入れられるのです。神に従う者であると言いながら不従順な生活をし、キリストの義によって覆われていない人は、生命の書から消し去られるでしょう(出エジプト32:33参照)。

キリストへの信仰を告白する人々に対してなされる調査審判という考え方は、恵みをとおし信仰によって救われるという聖書の教えを否定するものではありません。パウロはいつの日かさばきに直面するということを知っていました。ですからパウロは、「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすように」(ピリピ3:9)なりたいという望みを表明しました。キリストと一つになっている人すべてに、救いが保証されています。最後のさばきの再臨前の段階では、キリストとの救いの関係を得ている真の信徒たちは、堕落しなかった宇宙の前でその確認をしてもらうのです。

しかし、自分がどれだけ多くの良いことをしたかということを基準にして、クリスチャンであることを公言する人々に対しては、キリストは救いを保証することはおできになりません(マタイ7:21-23参照)。したがって、天の記録は単に偽物から本物をふるい分ける道具ではありません。それは真の信徒たちを天使たちの前で承認するための根拠ともなるものなのです。

「聖所の教義は、信徒のキリストに対する確信を奪うどころか、それをより確かなものとするのです。聖所の教義は救いの計画を信徒の心の内に具体的に示し、明らかにします。悔改めた心は、犠牲の内に予表されていたように、キリストが自分の罪のために身代りとして死んで下さったという事実を理解し、喜びで満たされます。その上、彼の信仰はより高みへと達し、生きておられるキリストの内に信仰の意味を見いだし、そして聖なる神の前におけるキリストの祭司としての仲保の働きの意味を悟るのです」[52]

備えのとき

神はこのキリストの救いの最後の働きの福音が、キリストが戻られる前に全世界に行きわたるようにと意図しておられます。この使命の中心は永遠の福音であって、急いで宣べ伝えられねばなりません。「神のさばきの時がきた」(黙示録14:7)からです。この叫びは、神のさばきが現在行われていることを世界に告げ知らせています。

今日わたしたちは、大いなる贖罪の日が指し示していた時代に生きています。イスラエルの民が贖罪の日に身を悩ますようにと命じられたように(レビ23:27)、神はすべての神の民に、真心からの悔改めを経験するようにと求めておられます。生命の書にその名を留めておきたい人々はみな、この神のさばきの時の間に、神と同胞との関係を正す必要があります。(黙示録14:7)。

キリストの大祭司としての働きはまさに完結しようとしています。人類のための猶予の期間[53]は過ぎ去ろうとしています。神が「すべてが終った」と宣言なさるのはいつであるか、だれにもわかりません。キリストは「気をつけて、目をさまして祈っていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである」と言われました(マルコ13:33、KJV)。

わたしたちは贖罪の日が指し示していた厳粛な時代に生きてはいますが、恐れる必要はありません。イエス・キリストが天の聖所において、わたしたちのために、犠牲と祭司という二重の役割をはたしていてくださるのです。「わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル4:14-16)。

[1]ヘブル人への手紙は天にある本物の聖所について明らかにしています。ヘブル人への手紙8章2節の「聖所」という語は、ギリシア語のタ・ハギアという聖なる場所(物)を表わす語の複数形の訳語です。この複数形の語が用いられている他の箇所は、例えばヘブル人への手紙9章8,12,24,25節、10章19節13章11節などです。幾種類かの訳書は、キリストは聖所ではなく、至聖所すなわち聖なる場所のみで働いておられるという印象を与えます。(KJV、NKJV、NIV、NASB参照)。これは訳者たちが、タ・ハギアが強意の複数であり、単数として訳出することができると考えたからです。しかしセプトゥアギンタ(七十人沢聖書)やヨセフォスの研究から明らかなように、タ・ハギアという語は一貫して「聖なる物(複数)」あるいは「聖なる場所(複数)」――すなわち聖所そのもの――を指しています。これは聖所全体、つまり聖所と至聖所とを指す場合に用いられている一般的な語句です。

タ・ハギアに関するヘブル人への手紙の用法が聖所全体を指しているということの強力な釈義的根拠は、この書簡自体にあります。ヘブル人への手紙においてタ・ハギアが最初に用いられているのは8章2節で、「真の幕屋」と同格に置かれています。8章5節から明らかなように「幕屋」(スケーネー[ギ])は聖所全体を指しているので、8章2節においてタ・ハギアも同じく、天の聖所全体を指しているに相違ありません。ヘブル人への手紙の中の、複数形のタ・ハギアを至聖所と訳出しなければならないという根拠はどこにもありません。ほとんどの場合、文脈からみてタ・ハギアは「聖所」と訳出するのが適切です。「キリストとその大祭司の働き」『ミニストリー』“Christ and His High Priestly Ministry,” Ministry、1980年10月号、49ページ。

アドベンチストの先駆者たちは、地上の聖所とタ・ハギアに関する自分たちの研究から、天の聖所にも二つの部屋があると結論づけました。この理解は彼らが聖所に関する教えを展開して行く土台となりました。ダムスティーグ、「初期アドベンチスト思想における聖所の教理の歴史的発達」[未刊行原稿、セブンスター・アドベンチスト世界総会聖書学研究所、1983年]、Damsteegt, “The Historical Development of the Sanctuary Doctrine in Early Adventist Thought”(Unpublished manuscript, Biblical Research Institute of the General Confernce of Seventh-day Adventists)を参照。ホワイト、『各時代の大争闘』、下巻(福音社、1974年)、125-128、138-150ページ参照。

[2]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(The SDA Bible Commentary)、改訂版、エレン・G・ホワイト注釈、第6巻、1082ページ参照。

[3]古代ユダヤ教の文書は、あるラビたちもまた実物の天の聖所の存在を信じていたことを明らかにしています。あるラビは、出エジプト記15章17節にこう注釈を加えています。「[地上の]聖所の[位置]は天の聖所のそれと符合し、契約の箱[の位置]は、天上の玉座と符合します」『ミドラシュ・ラバー、民数記』、増刷版(ロンドン、ソンシノ・プレス社、1961年)、第1巻、第4章第13節、Midrash Rabbah. Numbers, repr. ed.(London ・ Soncino Press, 1961), vol. 1, chap. 4, sec. 13、110ページ、([ ]は原文通り)。バビロニア・タルムードに引用されている他のラビは、「天上と地上の宮」のことに言及しています。『サンヒドリン』99B、1、エプスタイン版(ロンドン、ソンシノ・プレス社、1969年)、Sanhedrin, 99b, Ⅰ. Epstein, ed.(London・Soncino Press, 1969)を参照。また、あるラビはこう述べています。「地上の聖所は天の聖所の写しであるという点について、見解の相違はありません」(レオン・ニモイ編、『詩篇に関するミドラシュ』、ウィリアム・C・ブロード訳〔コネチカット州、ニューヘブン、イェール大学出版社、1959年〕、Leon, Nemoy, ed., The Midrash on Psalms, trans. by William G. Braude[New Haven Conn. ・ Yale University Press, 1959]、詩篇30篇、第1節、386ページ)。

[4]ヘブル人への手紙は天にある実物の聖所を描き出しています。「天の聖所の実在性は、ヘブル人への手紙8章2節の『真の』という形容詞によって更に強調されています。天の聖所は『真の(“true”)あるいは、よりよい『現実の(“real”)ものであります。この箇所と同じく天の領域に適用されている、9章24節に用いられているギリシア語はアレーティノスです。このギリシア語形容詞は単なる『外見のみ』(“apparent”)に対して『実質的な』(“real”)という意味を持っています。『偽りの(“false”)に対して『真の(“true”)を意味するギリシア語形容詞のアレーテースに対する古典的な区別から、天の聖所に関して2回用いられている形容詞アレーティノスは、明確に、天の聖所の現実の実在性を指しているようです。ヨハネによる福音書17章3節で、神は『まことの(“real”)と呼ばれており、パウロによっても、例えばテサロニケ人への第一の手紙1章9節においてアレーティノスが用いられ、他の箇所において一貫してそう呼ばれているように、他の本質も神の実在性と関連を持っている限り、実体を持っています。天の聖所が神の実在性と関連しているように、天の聖所は、神が実在なさるのと同様に実在性を持っているのです」(ハーゼル、「天におけるキリストのあがないの働き」『ミニストリー』、1976年1月号、特別折込み、21ページ以下、((G. Hasel,“Christ’s Atoning Ministry in Heaven,” Ministry, January, 1976, special insert)), p.21c)。

[5]ホルブルック、「救いの聖所」『ミニストリー』1983年1月号、(F. B. Holbrook, “Sanctuary of Salvation,” Ministry, January 1983)、14ページ。

[6]ホワイト、『各時代の希望』、上巻(福音社、1963年)34-35ページ。

[7]ホルブルック、「影における光」『アドベンチスト教育ジャーナル』、1983年10月、11月号、(F. B. Holbrook, “Light in the Shadows,” Journal of Adventist Education, October-November 1983)、27ページ。

[8]同・28ページ。

[9]「キリストの務めが二つに大きく分けられ、そのおのおのがある期間を占め、天の聖所において明確な場所を占めるように、象徴的な務めも日ごとの奉仕と、年ごとの奉仕の2区分から成り、それぞれに幕屋の部屋が一つずつあてられていた」(ホワイト、『人類のあけぼの』、上巻 ((福音社、1977年))、422ページ)。

[10]日ごとの朝と夕の犠牲において、祭司は全国民を代表しています。

[11]各家庭の父親は、犠牲を捧げない妻と子供たちとを代表していました。

[12]参照例、エンジェル・M・ロドリゲス、「犠牲的代理と旧約聖書の犠牲」『聖書と贖罪』、Angel M. Rodriguez,“Sacrificial Substitution and the Old Testament Sacrifices” in Sanctuary and the Atonement、134-156ページ、A・M・ロドリゲス、「レビ記における罪の転移」『7十週、レビ記、預言の性質』、A. M. Rodriguez,“Transfer of Sin in Leviticus” in 70 Weeks, Leviticus, and the Nature of Prophecy, F・B・ホルブルック編、(ワシントンD・C・セブンスデー・アドベンチスト世界総会聖書学研究所、1986年)、F. B. Holbrook, ed.(Washington, D. C.・ Biblical Research Institute of the General Conference of Seventh-day Adventists, 1986)、169-197ページ。

[13]「贖罪の日」『ユダヤ百科事典』、イシドア・シンガー編、(ニューヨーク、ファンク・アンド・ワグナル社、1903年)、“Atonement, Day of” in The Jewish Encyclopedia, Isidore Singer, ed. (New York・Funk and Wagnalls Co., 1903)、286ページ。ハーゼル、「聖書的贖罪の研究、1―継続的いけにえ、けがれ/清めと聖所」『聖所と贖罪』、G. Hasel, “Studies in Biblical Atonement Ⅰ・Continual Sacrifice, Defilement// Cleansing and Sanctuary,” Sanctuary and the Atonement、97-99ページも参照。

[14]ハーゼル、「聖書的贖罪の研究、1」(“Studies in Biblical Atonement Ⅰ)、99-107ページ。アルバート・R・トライヤー、「聖所のけがしと清めとの関係より見た贖罪の日」『7十週、レビ記、預言の性質』、Albert R. Treiyer,“The Day of Atonement as Related to the Contamination and Purification of the Sanctuary,” 70 Weeks, Leviticus, Nature of Prophecy、253ページ。

[15]ホルブルック、「影における光」(“Light in the Shadows,”)、27ページ。

[16]同29ページ。

[17]参照例、ハーゼル、「聖書的贖罪の研究、2――贖罪の日」『聖所と贖罪』(“Studies in Biblical Atonement Ⅱ・ The Day of Atonement,” Sanctuary and Atonement)、115-125ページ。

[18]ハーゼル、「ダニエル書8章の小さい角、聖徒、聖所」『聖所と贖罪』(“The Little Horn the Saints, and the Sanctuary in Daniel 8,” Sanctuary and Atonement)、206,207ページ。トライヤー、「贖罪の日」(“Day of Atonement”)、252,253ページ。

[19]ホルブルック「影における光」(“Light in the Shadows”)29ページ。

[20]「アザゼル」『セブンスデー・アドベンチスト聖書事典』、改訂版、(“Azazel,” SDA Bible Dictionary, rev. ed.)、102ページ参照。

[21]ホルブルック、「救いの聖所」(“Sanctuary of Salvation”)、16ページ。幾世紀をも通じて、聖書注解者たちは同様の結論に達しました。セブチュアギンタ(七十人沢聖書)では、アザゼルは悪神を意味するアポボムパイオスというギリシア語に訳出してあります。古代ユダヤの著述家たちや初代教父たちはアザゼルを悪魔であるとしています(『セブンスデー・アドベンチスト百科事典』、改訂版、((SDA Encyclopedia, rev. ed. )) 1291,1292ページ)。19世紀及び20世紀の注解者たちで同様の見解を持つ人々は、長老派教会のサムエル・M・ツゥエーマー、ウィリアム・ミリガン、ジェイムズ・ヘイスティングズ、ウィリアム・スミス、ルター派教会のE・W・ヘングステンベルク、エルマー・フラック、H・C・アレマン、会衆派教会のウィリアム・ジェンクス、チャールズ・ビーチャー、F・N・ペルーベット、メソジスト教会のジョン・マクリントック、ジェームズ・ストロング、リフォームド・エピスコパル教会のジェームズ・M・グレイ、ディサイプル教会のJ・B・ロターホーン、基督友会のジョージ・A・バートンなどです。他の多くの人々が同様の見解を述べています。(『教理の研究』、三育学院短期大学、1976年、375-377ページ)。

もしアザゼルがサタンを象徴するなら、聖書(レビ16:10参照)はアザゼルと贖罪とをどう結びつけるのでしょうか。聖所を清めたのち、大祭司が罪を神の民から永久に追放されたアザゼルの上に置いたように、キリストは天の聖所を清めたのち、ご自分の民の、告白されて許された罪を、その時救われた人々から永久に追放されるサタンの上に置かれるでしょう。「元来サタンから発し、今ではキリストの贖罪の血によって罪から解放された人々の人生をかつては悲惨なものにしていた、すべての罪ととがを、サタンの頭の上に戻すという、神が罪を処理なさるドラマの終幕は、いかに適切なことでしょう。こうして周期が完結し、ドラマは幕を閉じました。すべての罪の扇動者であるサタンが最終的に追放されたときにはじめて、本当に罪が神の宇宙から永久に消し去られたということができるのです。この調停という意味において、身代わりのやぎが『贖罪』(レビ記16:10)においてひとつの役割をはたしていると理解することができるでしょう。義なる人々が救われ、悪人が『断たれ』、サタンはもはや存在しなくなってようやく、宇宙は罪が入る以前の、元の完全に調和した状態になるでしょう。」(『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』、改訂版、第1巻、((The SDA Bible Commentary, rev. ed., vol. 1))、778ページ)。

[22]ホルブルック、「救いの聖所」(“Sanctuary of Salvation”)、16ページ。

[23]トライヤー、「贖罪の日」(“Day of Atonement,”)、245ページ。

[24]ホルブルック、「影における光」(“Light in the Shadows”)30ページ。

[25]第4章参照。

[26]ヘンリー・アルフォード、『ギリシャ語聖書』、第三版(ロンドン、デートン・ベル社、1864年)、第4巻、Henry Alford, The Greek Testament, 3rd ed. (London・Deighton, Bell and Co., 1864), vol. 4、179ページ。

[27]B・F・ウエストコット、『ヘブル人への手紙』 (B. F. Westcott, Epistles to the Hebrews)、272,271ページ。

[28]これらの告白された罪をキリストの上に置くことによって、それらは「実際に天の聖所に移されるのである。」(ホワイト、『各時代の大争闘』、下巻 ((福音社、1974年))、136ページ。)

[29]このさばきは、神に従うことを告白する人々に関するものです。「象徴的儀式においては、告白と悔い改めによって神の前に出て、その罪が罪祭の血によって聖所に移された者だけが贖罪の日の儀式にあずかることができた。そのように、最終的な贖罪と調査審判の大いなる日に、審査されるのは、神の民と称する人々だけである。悪人の審判は、これとは全く別の働きで、もっとあとで行われる。『さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか』(1ペテロ4・17)」(ホワイト、『各時代の大争闘』、下巻 ((福音社、1974年))、211-212ページ)。

[30]ユダヤ教の伝統では長い間、ヨム・キパをさばきの日、神が玉座に座って世界をさばかれる日として描写してきました。記録の書が開かれ、すべての人が神の前に進み出て、その運命が決定されるのです。「贖罪の日」『ユダヤ百科事典』(“Atonement, Day of,” The Jewish Encyclopedia)、モーリス・シルバーマン編『聖祭日祈祷書』(コネチカット州、ハートフォード、プレーヤー・ブック社、1951年)、Morris Silverman, comp. and ed., High Holyday Prayer Book(Hartford, Conn Prayer Book Press, 1951)、147,164ページ参照。またヨム・キパは信徒たちに慰めと保証とをもたらします。というのは、「その日は、最後にやって来るさばきに対する恐ろしい予感が、神は刑を宣告するのではなく、悔い改め、へりくだって神のもとに立ち返る人々を十全にゆるしてくださるという、確かな確信へと代えられる日なのです」(ウィリアム・W・シンプソン、『ユダヤ人の祈りと礼拝』 ((ニューヨーク、シーベリー社、1965年))、William W. Simpson, Jewish Prayer and Worship (New York ・Seabury, Press, 1965)、57,58ページ)。

[31]アーサー・J・ファーチ、「ダニエル書7章のさばきの光景」『聖書と贖罪』(Arthur J. Ferch, “The Judgment Scene in Daniel 7,” Sanctuary and Atonement)、163,169ページ参照。

[32]ダニエル書中のアンティオカス解釈の問題については、W・H・シェー、『預言の解釈に関する抜粋的研究』(W. H. Shea, Selected Studies on Prophetic Interpretation,)、25-55ページ参照。

[33]シェー、「ダニエル書の調和」『ダニエル書シンポジウム』、F・B・ホルブルック編(ワシントンD・C、セブンスデー・アドベンチスト世界総会聖書学研究所、1986年)、W. H. Shea, “Unity of Daniel,” in Symposium on Daniel, F. B. Holbrook, ed. (Washington, DC.・ Biblical Reseach Institute of the General Conference of Seventh-day Adventists, 1986)、165-219ページ。

[34]「ダニエル書とヨハネの黙示録の驚くべき預言」『ジィーズ・タイムズ』、1979年4月号(“The Amazing Prophecies of Daniel and Revelation,” These Times, April 1979)、18ページ。マックスウェル、『神はかえりみられる』、第1巻(Maxwell, God Cares, vol. 1)、166-173ページ及び本書第12章参照。

 [35]贖罪の日、大祭司は地上の聖所の第一の部屋での務めを終えて至聖所に入りました。「そのように、キリストが、贖罪の最後の務めを行なうために至聖所に入られた時、彼は、第一室の務めを終えられた。しかし、第一室の務めが終わった時に、第二の務めがはじまった。…そのようにキリストは、仲保者としての働きの一部を終えて、そのみ業のもう一つの部分を開始され、そして、なお天父の前で、ご自分の血によって罪人のために嘆願なさるのであった。」ホワイト『各時代の大争闘』、下巻(福音社、1974年)、146ページ。

[36]KJVとNKJVとはヘブル語のニツダクを「清められるであろう(“shall be cleansed”)」と訳出しており、NABは『清くされるであろう(“shall be purified”)」としています。「清めた(“clansed”)」という語は、ビショップ訳(1566年)、ジュネーヴ聖書(1560年)、タバーナ訳(1551年)、大聖書(1539年)、マシュー訳(1537年)、カヴァデール訳(1537年)、ウィクリフ訳(1382年)など初期の英語訳にも用いられています。この翻訳は、マンダビトゥール「清めた」というラテン語のウルガタ訳からきており、そしてそれは旧約聖書の最も古いギリシア語訳――セプチュアギンタ及びテオドティオンの訳語カタリステセタイ「清められるであろう」にも由来しています。

ほとんどの現代訳はこの伝統的な翻訳を反映していません。ニツダクは「正しくする(“to make right”)」「正しい(“being right”)」「義である(“righteous”)」「義とされた(“justified”)」「正しいことを立証された(“vindicated”)」などの意味の範囲を含む、ツァダクという動詞の語根から派生しているので、これらの訳書はツァダクを「その正当な状態に回復された(“restored to its rightful state”)」(RSV)、「適切に回復された(“properly restored”)」(NASV)、「再び聖別された(“reconsecrated”)」(NIV)、「回復された(“restored”)」(TEV)などと訳出しています。旧約聖書の詩篇的な平行法は、ツァダクがタヘール「清く、清純である」(ヨブ4:17、17:9, NIV)、ザカー「罪がなく、清い」(ヨブ15:14、25:4)、ボル「清さ」(詩篇18:20)などの類語でありうることを示しています。したがって、ニツダクは「その語義の範ちゅうに『清める、正しさを立証する、無罪宣告する、正しくする、回復する』などの意味を含んでいます。ヘブル語をどのような方法で現代語に翻訳しようと、聖所の『清め』は、正しさを立証し、無罪を宣告し、回復するという働きだけではなく、実際の清めをも含んでいます(ハーゼル、「『小さい角』、天の聖所、世の終り――ダニエル書8章9-14節の研究」『ダニエル書論集』((G. Hasel, Little Horn, the Heavenly Sanctuary and the Time of the End・ A Study of Daniel 8・9-14,”Symposium on Daniel))、453ページ。448-458ページも参照。すなわち、ハーゼル、「『小さい角』聖徒、ダニエル書8章の聖所」『聖所と贖罪』(G. Hasel,“The Little Horn, the Saints, and the Sanctuary in Daniel 8,”Sanctuary and Atonement)、203-208ページ。ニールズ―エリック・アンドレアセン、「ダニエル書8章14節のニスダク/カタリステセタイの訳」『ダニエル書論集』(Niels-Erik, Andreasen,“Translation of Nisdaq / Katharisthesetai in Daniel 8・14,”Symposium on Daniel)、475-496ページ、マックスウェル、『神はかえりみられる』、第1巻、175ページ、「キリストとその大祭司としての働き」『ミニストリー』、1980年10月号、(“Crist and His High Priestly Ministry,”Ministry, October 1980)、34,35ページ参照。

[37]ある人々は、「二千三百の夕と朝」を字義的には単に1150日と解釈してきました(例、TEV)。しかしこれはヘブル語の慣用法に反しています。カイルーデリッチ聖書注解書の編集者であるカール・F・カイルはこう記しています。「ユダヤ人たちは、一週間の内の一日の構成要素である昼と夜とを別々に表現したいときには、昼と夜との両方の数を表示しました。例えば、まる三十日、あるいはまる三日を表わそうとするときには、80の昼と夜、あるいは六の昼と夜という表現ではなくて、四十日四十夜(創世記7:4,12、出エジプト24:18、列王上19:8)、三日三夜(ヨナ1:17、マタイ12:40)という表現を用いています。ユダヤの読者が、二千三百の夕と朝という期間を2300の半日、あるいは1150日と理解したとは考えられません。というのは、天地創造の際の夕と朝は半日ではなく、まる一日から成っていたからです。…。したがってわたしたちはこれを字義通り、すなわちまる二千三百日と考えるべきでしょう」(C・F・カイル、『ダニエル書注解』((C. F. Keil, Biblical Commentary on Book of Daniel))、これはC・F・カイル及び、F・デリッチュ、『旧約聖書注解』((グランド・ラピズ、ウィリアム・B・アードマンズ社、1959年))、第25巻、303、304ページの中にあり、M・G・イーストンが,訳出、C. F. Keil, Biblical Commentary on the Book of Daniel, trans. M. G. Easton, in C. F. Keil and F. Delizsch, Biblical Commentary on the Old T estament (Grand Rapids・ Wm. B. Eardmans, 1959), vol.25, pp.303, 304)。付加的な論拠としては、ハーゼル、「ダニエル書8章の聖所」『聖所と贖罪』(G. Hasel, “Sanctuary of Daniel 8,”Sanctuary and Atonement)、195ページ、ハーゼル、「『小さい角』、天の聖所、世の終り」『ダニエル書論集』(G. Hasel, “The Little Horn, the Heavenly Sanctuary and the Time of the End, ”Symposium on Daniel,)、430-433ページ、ジークフリート・J・シュワンツ「再び考察の対象となるダニエル書8章のエレブ・ボケル」『ダニエル書論集』(Siegfried J. Schwantes, Ereb Boqer of Daniel 8・14 Re-Examined,” Symposium on Daniel,)、462―474ページ、マックスウェル、『神はかえりみられる』、第1巻、174ページ参照。

[38]フルーム、『われわれの父祖たちの預言信仰(Froom, Prophetic Faith of Our Fathers)、第2巻、985ページ、第三巻、252ページ、第4巻、397,404ページ。預言的な一日が実際には1年を表わすという原則については、シェー、『預言解釈に関する抜粋的研究』(W. Shea, Selective Studies on Prophetic Interpretation,)、56-93ページ参照。

[39]参照例、ハーゼル、「ダニエル書8章の聖所」『聖所と贖罪』(G. Hasel,“Sanctuary in Daniel 8,”Sanctuary and Atonement,)、196,197ページ、シェー、「ダニエル書の調和」『ダニエル書論集』(W. Shea,“Unity of Daniel,”Symposium on Daniel,)、220-230ページ。

[40]ミシュナなどのユダヤの著作を分析してみると、カハタァハクは、「定める(“determine”)」という意味を含んではいるものの、より一般的な意味として、「切る(“cutting”)という概念を扱って」います(シェー、「ダニエル書8章及び9章の預言の関係」『聖所と贖罪』((W. Shea,“The Relationship Between the Prophecies of Daniel 8 and Daniel 9,”Sanctuary and Atonement,))、242ページ)。

[41]ゲセニウス、『旧約聖書ヘブル語カルデヤ語事典』、サムエル・P・トレゲレス訳、(グランド・ラピス、ウィリアム・B・アードマン、翻刻版、1950年)、Gesenius, Hebrew and Chaldee Lexicon to the Old Testament Scripture, trans. Samuel P. Tregelles (Grand Rapids・W. B. Eerdmans, reprinted., 1950)、314ページ。

[42]ファーチ、「7十週預言の開始日」『7十週、レビ記、預言の性質』(Ferch, “Commencement Date for the Seventy Week Prophecy,”70 Weeks, Leviticus, and the Nature of Prophecy,)、64-74ページ参照。

[43]ダニエル書8章から、2300日が長い期間にわたっていることは明らかです。「幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」(ダニエル8:13)という問いがなされています。「幻」という語は1節、2節で用いられている語と同じです。従って、「幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」という問いが天使から起ったとき、天使は、ダニエル書8章17、19節に示されているように、最初の獣の象徴から、第二の獣の象徴および角の象徴を経て終りの時までという幻全体にわたる答を期待しています。この問に対する2300の夕と朝という答は、これが年数を表していることを意味し、メディア・ペルシア帝国から終りの時にまで及んでいることをむしろ明らかにしています。

[44]ダムスティーグ、『セブンスデー・アドベンチストのメッセージと働きの土台』(Damsteegt, Foundations of the Seventh-day Adventist Message and Mission,)、14,15ページ、フルーム、『われわれの父祖たちの預言信仰』、第4巻(Froom, Prophetic Faith of Our Fathers,)参照。

[45]フルーム、『われわれの父祖たちの預言信仰(Froom, Prophetic Faith of Our Fathers,)、第4巻、404ページ。

[46]参照例、フランシス・D・ニコル、『真夜中の叫び』(ワシントン・D・C、レビュー・アンド・ヘラルド社、1944年)、F. D. Nichol, the Midnight Cry(Washington D. C.・ Review and Herald, 1944)。

[47]フルーム、『われわれの父祖たちの預言信仰』第1―4巻(Froom, Prophetic Faith of Our Fathers,)、ダムスティーグ、『セブンスデー・アドベンチストのメッセージと働きの土台』(Damsteegt, Foundations of the Seventh-day Adventist Message and Mission,)、16-20ページ参照。

[48]ダムスティーグ、『セブンスデー・アドベンチストのメッセージと宣教の土台』(Damsteegt, Foundations of the Seventh-day Adventist Message and Mission,)、103-146ページ、ホワイト、『各時代の大争闘』、下巻、(福音社、1974年)、138-150ページ参照。

[49]フルーム、『運命の運動』(Froom, Movement of Destiny,)、543ページ。

[50]ホルブルック、「影における光」(Holbrook,“Light in the Shadows”)、34ページ。

[51]ホワイト、『キリストの実物教訓』(福音社、1968年)、289-290ページ。

[52]ホルブルック、「影における光」(Holbrook,“Light in the Shadows”)、35ページ。

[53]人類のための猶予期間が終わる時には、悔い改めはもはや不可能です。個人の猶予期間は、次の三つの内のいずれかによって閉じられます。(1)死。(2)ゆるされない罪を犯したとき(マタイ12:31,32、ルカ12:10)。(3)再臨の直前に、すべての人のための猶予期間が閉じられるとき。キリストが大祭司として、そして神と人との間の仲保者として働いておられる間は憐れみを受けることができます。「従って、キリストの祭司としての働きが終わるまで、憐れみのないさばきが課せられることはあり得ません。しかし、キリストが弁護を終えられ、猶予期間が閉じられると、最後の七つの災害が憐れみなく注がれるのです(黙示録14:10、15:1)」(U・スミス、『セブンスデー・アドベンチスト百科事典』、改訂版 ((U. Smith in SDA Encyclopedia, rev. ed.))、1152ページに引用)。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次