死と復活【アドベンチストの信仰#26】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

罪の支払う報酬は死である。しかし、神はただひとり不死であり、贖われた者に永遠のいのちをお与えになる。その日まで、すべての人にとって死は無意識の状態である。われわれのいのちであるキリストが来られるとき、よみがえらされた義人と生きている義人は栄化され、引き上げられて主に会う。第2の復活は不義なる者たちの復活であって、1000年ののちに起る。(信仰の大要26)

ペリシテびとの軍勢はシュネムに陣を構え、イスラエルの攻撃に備えました。サウル王はイスラエルの軍勢を、近くのギルボア山に置きましたが、彼は事態を非常に憂慮していました。これまでサウルは、神のご臨在を確信していたので、恐れることなくイスラエルの先頭に立って、敵に立ち向かうことができました。しかし、彼は心をひるがえし、主に仕えることをやめていました。それでこの背信した王が、差迫った戦いの結果について神と連絡を取ろうとしたとき、神は彼と交わることを拒んでおられたのです。

明日はどうなるかわからない、という不吉な恐れがサウルの心に重くのしかかっていました。もしサムエルさえここにいてくれたなら。しかしサムエルは死んでおり、もはや彼に助言することはできません。それともできるのでしょうか。

あの背の高い王が、先に自分の行った魔女刈りを逃れた霊媒を捜し出し、彼女を通じてその翌日の戦いの結果を知るために、身をかがめたのです。彼は「私のためにサムエルを呼び起こして下さい」と頼みました。降神術をしているとその霊媒は「霊が地から上ってくるのを見ました。」この霊は不運な王に、イスラエルが戦争に負けるだけでなく、彼と彼の息子たちは殺されるだろう、と知らせました(サムエル上28章参照)。

この予言は成就しました。しかし予言をしたのは本当にサムエルの霊だったのでしょうか。神にとがめられた霊媒が、どのようにして神の預言者サムエルの霊を支配することができたのでしょうか。またサムエルはどこから現れたのでしょうか。なぜ彼の霊は地から現れたのでしょうか。死んだときサムエルはどうなったのでしょうか。もしサウルに語ったのがサムエルの霊でなかったらだれだったのでしょうか。聖書が死について、死人との交信について、また復活について何と教えているか調べてみましょう。

目次

不死と死

不死とは死ぬことのない状態あるいはそのような特質のことです。聖書の翻訳者たちはギリシャ語のアタナシア「死ぬことがないこと」及びアフタルシア「不滅」という言葉を翻訳するのに、不死という言葉を用いました。この概念は神と人間とにどのように関連するのでしょうか。

不死

聖書は、永遠の神は不死であると言っています(1テモテ1:17)。事実、神は「ただひとり不死を保」っています(1テモテ6:16)。神は被造物でなく、自存の存在で、始めもなく終りもない方です(本書第2章参照)。

「聖書はどこにも不死を、人間―あるいはその「魂」か「霊」―が生来所有している特質又は状態として描いていません。聖書の中に通常「魂」や「霊」と翻訳された言葉が1600以上ありますが、決して「不死の」または「不死」という言葉には関連していません」(本書7章参照)[1]

したがって神とは対照的に、人間は死すべき存在です。聖書は人間の一生を「しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧」(ヤコブ4:14)に例えています。人は「ただ肉であって、過ぎ去れば再び帰りこぬ息」【訳注1】(詩篇78:39)にすぎません。人は「花のように咲き出て枯れ、影のように飛び去って、とどま」(ヨブ14:2)りません。

神と人間は著しく違います。神は無限であり、人間は有限です。神は不死であり、人間は死すべき存在です。神は永遠であり、人間はつかの間の存在です。

条件づきの不死

創造のとき「神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2:7)。創造の記事によれば、人間は神から命を得たことがわかります(使徒17:25,28、コロサイ1:16,17参照)。この基本的な事実から言えることは、不死は人間に生まれつきのものではなくて、神の賜物だということです。

神はアダムとエバを創造されたとき、彼らに自由意志すなわち選択の能力をお与えになりました。彼らは従うこともそむくこともできました。彼らが存在し続けるかどうかは、神の力によってではあるが従い続けるかどうかにかかっていました。そういうわけで不死の賜物を所有することは条件づきでした。

神は注意深く、彼らがこの賜物を失うことになる条件、すなわち「善悪を知る木」から取って食べることについて、一言一言念入りにお語りになりました。神は彼らに「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2:17)と警告を与えられました[2]

死――罪の支払う報酬

不従順は死をもたらす、という神の警告を否定して、サタンは「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」(創世記3:4)と断言しました。しかしアダムとエバは神の命令にそむいた後、罪の支払う報酬は確かに死である、ということを知るに至りました(ローマ6:23)。彼らの罪は次の宣言をもたらしました。あなたは「土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)。この言葉は命の継続ではなくて、停止を示しています。

神はこう言われた後、この罪深い二人が「取って食べ、永久に生きる」(創世記3:22)ことができないように、命の木に至る道をふさがれました。

神のこの行為から、従順という条件づきで約束された不死は、罪のゆえに失われたことが明らかになりました。彼らは今や死すべきもの、死に従属するものとなったのでした。するとアダムは、自分がもはや所有していないものを伝えることはできないのですから「死が全人類にはいり込んだ」のです。なぜなら「すべての人が罪を犯した」からです(ローマ5:12)。

アダムとエバがすぐに死ななかったのは、ただ神のあわれみによったのです。神のみ子は彼らに別の機会、すなわち二度目の機会を与えようとして、ご自身の命をさし出しておられたのです。彼は「世の初めからほふられた小羊」(黙示録13:8)でした。

人類の希望

人は死すべき存在として生れていますが、聖書は人に不死を求めるように励ましています(例えばローマ2:7参照)。イエス・キリストはこの不死の源です。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのち」(ローマ6:23、1ヨハネ5:11参照)です。彼は「死を滅ぼし、…いのちと不死とを明らかに示され」(2テモテ1:10)ました。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされる」(1コリント15:22)のです。キリストご自身、自分の声が墓を開き、死人をよみがえらせるであろうと言われました(ヨハネ5:28,29)。

もしキリストがおいでになっていなかったら、人間の状況は絶望であり、死んだ人は永遠に滅びていたでしょう。しかし彼のゆえに、だれひとり滅びる必要はないのです。ヨハネは言いました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と。そういうわけでキリストにある信仰は、罪に対する刑罰を廃するだけでなく、信じる者に、値踏みのできないほど貴重な不死の賜物を保証するのです。

キリストは「福音によって…不死とを明らかに」(2テモテ1:10)示されました。パウロは私たちに、「キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を」(2テモテ3:15)与えうるのは聖書であると保証しています。この福音を受け入れない人々は、不死を受けません。

不死を受けること

不死の賜物が与えられる瞬間は、パウロによって描かれています。「見よ、【訳注2】ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった』」(1コリント15:51-55)。これによれば、神が信じる者に不死をお与えになるのは、死ぬ時ではなくて、復活の時、すなわち「終りのラッパ」が鳴り響く時だということがはっきりとわかります。その時、「この死ぬもの」は「死なないものを着る」のです。ヨハネは、わたしたちがイエス・キリストを、個人的な救い主として受け入れるとき、永遠の命の賜物を受けると指摘していますが(1ヨハネ5:11-13)、この賜物が現実となるのは、キリストがお帰りになるときです。そのとき初めて、わたしたちは死ぬものから死なないものへ変えられ、朽ちるものから朽ちないものへ変えられるのです。

死の性質

もし死が生命の停止であるなら、人間の死の状態について聖書はなんと言っているのでしょうか。何ゆえクリスチャンがこの聖書の教えを理解することが重要なのでしょうか。

死は眠りである

死は完全な滅びではありません。人が復活を待っている間の一時的な無意識の状態にすぎません。聖書は繰返してこの中間の状態を眠りと呼んでいます。

旧約聖書はダビデ、ソロモン、その他のイスラエルとユダの王たちの死に言及して、彼らの先祖と共に眠っていると描いています(列王上2:10、11:43、14:20,31、15:8、歴代下21:1、26:23、等)。ヨブは死を眠りと呼びました(ヨブ14:10-12)。ダビデ(詩篇13:3)、エレミヤ(エレミヤ51:39,57)、ダニエル(ダニエル12:2)も死を眠りと呼びました。

新約聖書は全く同じ表現を用いています。死んでいたヤイロの娘の状態を表すときキリストは、彼女は眠っていると言われました(マタイ9:24、マルコ5:39)。キリストは亡くなったラザロを同じように表現されました(ヨハネ11:11-14)。マタイはキリストの復活後、多くの「眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った」(マタイ27:52)と書きました。ルカはステパノの殉教を記録するとき「彼は眠りについた」(使徒7:60)と書きました。パウロもペテロも死を眠りと呼びました(1コリント15:51,52、1テサロニケ4:13-17、2ペテロ3:4)。

死が眠りであるとする聖書の表現は、次のような類似点が例証しているように、その性質にいかにもよくあてはまります。㈠、眠っている人々は無意識です。「死者は何事をも知らない」(伝道9:5)。㈡、眠っている間、意識的な思考は停止します。「彼の息が出て行く、…まさにその日に彼の思想は滅びる」(詩篇146:4、KJV)。㈢、眠りはその日のすべての活動を終らせます「あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないから」(伝道9:10)です。㈣、眠りはわたしたちを、目をさましている人たちやその活動から引き離します。「彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない」(同6節)のです。㈤、正常な眠りは感情を不活発にします。「その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせ」ます(同)。㈥、眠っている間、人は神を讃美しません。「死んだ者も…主をほめたたえることはない」(詩篇115:17)のです。㈦、眠れば必ず目がさめます。「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き…出てくる時が来るであろう」(ヨハネ5:28,29)といわれています[3]

人はちりに帰る

死ぬときに、人に何が起るかを理解するためには、何が彼または彼女という人間を構成しているかを理解しなければなりません。聖書は人を有機的統一体として描いています(本書第7章参照)。ときには聖書は魂という言葉を用いて全体の人間を表現し、また他の場合には愛情や感情を表現しています。しかし聖書は、人間が二つの分割された部分から成っている、とは教えていません。体と魂とは一緒にしか存在しません。体と魂とは一つであって、分割できません。

人間の創造のとき、地のちり(地の要素)と生命の息とが結合して、生きた人間または魂となりました。アダムは独立した実体としての魂を受けたのではありません。彼は生きた魂となったのです(創世記2:7、第7章参照)。死ぬときには逆のことが起ります。すなわち地のちりから生命の息が取り去られると、全く無意識の死んだ人間、あるいは死んだ魂となります(詩篇146:4)。体を形造っていた要素はその出てきた地に帰ります(創世記3:19)。魂には体とは別の、意識をもった実体などはありません。聖書はどこにも、死のとき魂が意識をもった実体として残るということを示していません。確かに「罪を犯す魂は死ぬ」のです(エゼキエル18:20)。

死人のすみか

旧約聖書は人々が死のとき行く場所を、シェオール(ヘブル語)と呼んでいます。また新約聖書はハデス(ギリシャ語)と呼んでいます。聖書では、シェオールはたいていの場合墓を意味しています[4]。ハデスの意味はシェオールの意味と同様です[5]

すべての死人は、義人も悪人もこの場所に行きます(詩篇89:48)。ヤコブは「わたしは墓【訳注3】(シェオール)に下って」(創世記37:35)と言いました。地が悪人のコラとその仲間を飲みこむために「その口を」開いたとき、彼らは「生きながら陰府【訳注4】(シェオール)に」(民数記16:30)下りました。

シェオールは人間が死ぬとき、そのすべてを受け入れるのです。キリストが死んだとき、彼は墓(ハデス)に入れられましたが、復活のとき、彼の魂は墓(ハデス、使徒2:27,31、あるいはシェオール、詩篇16:10)を去られました。ダビデがいやされたことを神に感謝したとき、彼は自分の魂が「墓【訳注5】(シェオール)から救われたとあかししました(詩篇30:3)。

墓は意識あるものの場所ではありません[6]。死は眠りですから、死人は復活のときまで、墓の中で無意識の状態でいるのです。復活のとき、墓(ハデス)はその死人を出します(黙示録20:13)。

霊は神に帰る

体はちりに帰りますが、霊は神に帰ります。ソロモンは、死のとき「ちりはもとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道12:7)と言いました。これはすべての者、義人にも悪人にも真実です。

多くの者はこの聖句が、人間の本質は死後も生き続ける証拠となると考えてきました。しかし聖書には、霊に対するヘブル語もギリシャ語も(それぞれルアハとプニューマ)体から独立して、意識をもって存在できる知的な実体という意味はありません。むしろこれらの言葉は「息」すなわち個人の存在に不可欠な生気、動物や人間を生かす生命の本質という意味です。

ソロモンは「人の運命は動物のそれと同様です。すなわち同じ運命がどちらにも臨みます。一方が死ぬように、他方も死にます。彼らは皆同じ息をもっています〔原語はルアハ「霊」とも訳せるとNIVには訳註〕。人は獣にまさるところがありません。…皆同じ所に行くのです。皆ちりから出て、皆ちりに帰ります。だれが知るでしょうか、人の霊〔ルアハ〕は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを」(伝道3:19-21、NIV)と書きました。したがってソロモンによれば、死のとき、人の霊と獣の霊との間にはなんの違いもありません。霊(ルアハ)はこれを授けた神に帰るとソロモンが言った意味は、神に帰るものは神がお与えになった生命の本質にすぎないということです。霊または息は、体から離れた、意識をもった実体であったというようには暗示すらされていません。このルアハは神が、最初人間の命のない体を生かすために吹きこまれた「いのちの息」と等しいものです(創世記2:7参照)。

聖書を貫く調和

死に関する聖書の完全な教えを研究したことのない多くの正直なクリスチャンは、死が復活までの眠りであることに気がついていません。彼らは、いろいろな聖句は霊または魂が死後も意識をもって存在するという考えを支持していると考えてきました。注意深く研究しますと、聖書の一貫した教えは、死が意識の停止をもたらすということが明らかになります[7]

心霊術

もし死人が完全に無感覚であるとすれば、心霊術者の霊媒はだれとあるいは何と交信しているのでしょうか。

すべて正直な人は、少なくともこれらの現象のあるものは欺まんだと認めるでしょう。しかしそのように説明できないものもあります。明らかに心霊術と結びついた超自然的な力が働いています。聖書はこの点について何と教えているでしょうか。

1 心霊術の土台

心霊術はサタンがエバに語った最初のうそ、すなわち、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」(創世記3:4)に始まりました。彼の言葉は、魂の不滅に関する最初の説教でした。今日、世界中であらゆる種類の宗教が、この誤りを無意識に繰返しています。多くの人は、「罪を犯す魂は死ぬ」(エゼキエル18:20)という神の言葉を「魂は、たとい罪を犯しても永遠に生きる」と反対に言ってきました。

生まれながらの不死というこの誤った教理は、死んでも意識があるという信仰を生みました。わたしたちが見てきたように、これらの見解はこの主題に関する聖書の教えにまったく矛盾します。それは大背教の時代に、異教の哲学、特にプラトンの哲学からキリスト教信仰に移入されました(本書第12章参照)。生れながらにして不死であるとか、死んでも意識があるという信仰は、キリスト教内に普遍的な見解となりましたし、今日も支配的な見解となっています。

死人は意識があるという信仰は、多くのクリスチャンが心霊術を受け入れる準備となりました。もし死人が生きていて神の前にいるのなら、彼らは仕える霊として、地上に帰ってくることができないでしょうか。またもし彼らが帰ってこれるのなら、クリスチャンたちが助言や指示を受けたり、また不幸を避けたり、悲しんでいるときに慰めを受けることができるよう、彼らと交信しようとしないはずがないではありませんか。

この論理が打ち立てられるやいなやすぐに、サタンとその使いたち(黙示録12:4,9)は、交信のチャンネルを確立してしまいました。それによって彼らは、自分たちの欺まんを成し遂げることができるのです。心霊術会のような手段を通じて彼らは、死んだ愛する者たちの姿をして、生きている者に慰めと保証を与えるように思わせます。彼らはときに、未来のできごとを予言します。それが正確に成就するとき、彼らは信用を得ます。そのとき彼らが唱える危険な異端の説は、たとい聖書と神の律法に矛盾していても、信頼性を帯びてきます。サタンは悪に対する障害物を取り除いてしまいますと、人々を自由にあやつり、神から引き離し、確実な滅びへと導くのです。

2心霊術に対する警告

だれも心霊術によって欺かれる必要はありません。聖書は明らかにその主張が偽りであることを暴露しています。わたしたちが見てきたように、聖書はわたしたちに、死者は何事も知らない、彼らは墓に無意識の状態で横たわっていると教えています。

聖書はまた、死人あるいは霊の世界と交信することを強く禁じています。心霊術の霊媒が今日しているように、死人と交信すると主張する人々は、実は「悪鬼の霊」である「ごくありふれたもろもろの霊」と交信しているのです。主はこれらの行いは憎むべきことであり、犯す者は死によって罰せられなければならないと言われました(レビ19:31、20:27、申命記18:10,11参照)。

イザヤは心霊術の愚かさをよく表現しています、「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずりや、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きているあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない」(イザヤ8:19,20、新改訳)と。本当に、聖書の教えだけが、この圧倒的な欺まんに対してクリスチャンを保護することができるのです。

3心霊術の現れ

聖書はたくさんの心霊術の活動、すなわち、パロの魔術師から、ニネベやバビロンの魔術師や占星術師、魔法使い、イスラエルの魔女や霊媒に至るまで、を記録し、彼らをすべて譴責しています。一例は、わたしたちがこの章の始めに述べた、あのエンドルの魔女がサウルのために魔法を使って呼び出したかみおろしです。

聖書は「サウルは主に伺いをたてたが、主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても彼に答えられなかった」(サムエル上28:6)と言っています。ですから神には、エンドルで起ったこととは何の関係もありませんでした。サウルは、死んだサムエルの姿をした悪鬼によってだまされたのです。彼は決して本当のサムエルに会ったのではありません。霊ばいの女は一人の老人の姿を見たのですが、サウルはそれがただサムエルだと「感じ」(同14節)あるいは結論づけたにすぎません。

もしわたしたちが、あの幽霊が本当にサムエルだと信じなければならないとしたら、わたしたちは魔女、魔法使い、占い師、魔術師、心霊術者、霊媒は、義人が死ぬとき、彼らがどこへ行くにしても、死んだ義人をそこから呼び出すことができると信じるようになっていくにちがいありません。わたしたちはまた、あの敬虔なサムエルが、地中で、意識のある状態で存在していたということを受け入れなければなりません。なぜならあの老人は「地から」のぼってきたのですから(同13節)。

この降神術はサウルに、希望ではなくて絶望をもたらしました。その翌日、彼は自殺をしました(サムエル上31:4)。しかしながらこのサムエルは、その日にサウルと彼の子らが自分と一緒になるであろうと預言していました(サムエル上28:19)。もし彼が正しければわたしたちは、死後あの不従順なサウルと義人サムエルが共に住むと結論づけなければならないでしょう。そうではなくて、わたしたちは、悪天使がこの降神術の会の欺まん的な事件を起したのだと結論づけなければなりません。

4最後の惑わし

過去、心霊術の現れはオカルトの領域に限られていました。しかしごく最近心霊術は、キリスト教の世界を欺くために「キリスト教」の装いをしています。キリストと聖書を受け入れると告白するために、心霊術は信者にとって、非常に危険な敵となっています。その影響は微妙で、欺まん的です。心霊術の感化によって「生れ変っていない心を喜ばすような方法で聖書が解釈され、他方、聖書の厳粛で重大な数々の真理が力ないものとされています。愛は神の第一のご性質としてくり返し説明されてはいるが、善と悪をほとんど区別しない弱々しい感傷主義に堕しています。神の正義、罪に対する神の非難、神の聖なる律法の諸要求は、すべて無視されてます。人々は十誠は死文であると考えるように教えられます。喜ばせ魅惑するような作り話が人々の感情をとらえ、聖書を自分たちの信仰の基盤とするのを拒否させようとします。」[8]

この方法によって義と不義とは相対的なものになり、個々の人間、状況、文化が「真理」とは何かについての規準となります。本質においてひとりびとりは神になり、「あなたがたは神のようになる」(創世記3:5、KJV)というサタンの約束を実現するのです。

わたしたちの前には「地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試練の時」(黙示録3:10)があります。サタンはこの世を欺く最後の努力において、大いなるしるしと奇跡を用いようとしています。ヨハネはこの熟達した惑わしについて、「かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。これらはしるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった」と言いました(黙示録16:13,14、同13:13,14参照)。

聖書の真理で強くされた精神をもち、聖書を唯一の権威として受け入れ、神の力によって守られている者だけがのがれることができます。他の者は皆、保護がなく、この惑わしによって一掃されます。

第一と第二の死

第二の死は、悔改めない罪人、すなわち、その名が生命の書にしるされていないすべての人々の最後の刑罰で、千年期の終りに起ります(本書第26章参照)。この死には復活がありません。サタンと不義な者たちの滅亡とともに、罪は根絶され、死そのものが滅ぼされます(1コリント15:26、黙示録20:14、21:8)。キリストは「勝利を得る者は」みな「第二の死によって滅ぼされることはない」という保証を与えておられます(黙示録2:11)。

聖書が第二の死と名づけたことに基づいてわたしたちは、第一の死とは、生きたまま昇天した人々を除く、すべての人がアダムの反逆の結果として経験する死のことだと考えることができます。それは『堕落した人類に通常に働く、罪の結果です。」[9]

復活

復活とは「存在と人格の完全さを伴う生命の回復であり、死のあとに起る[10]。人間は死に従属しているのですから、人間が墓のかなたの生命を経験するとすれば、復活がなければなりません。旧新約聖書を通じて、神の使命者たちは復活の希望を表現しています(ヨブ14:13-15、19:25-29、詩篇49:15、73:24、イザヤ26:19、1コリント15章)。

わたしたちは復活の希望をいだく確かな証拠をもっています。そしてこの希望はわたしたちを勇気づけてくれます。わたしたちは死がすべての者の運命であるこの現世を越えて、より良い未来を楽しむことができるのです。

キリストの復活

死んだ義人が不死の体に復活することはキリストの復活と密接に関係しています。なぜなら結局、死人をよみがえらせるのはよみがえられたキリストだからです(ヨハネ5:28,29)。

1 その重要性

もしキリストがよみがえられなかったとしたらどうなっていたでしょうか。パウロはその結果を要約しています。a、福音の宣教から何の益も得られなかったでしょう。「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなし」(1コリント15:14)いのです。b、罪のゆるしはないでしょう。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば…あなたがたは、いまなお罪の中にいる」(同17節)ことになるでしょう。c、イエスを信じる目的がないでしょう。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なもの」(同)となります。d、死人からの復活というものがないでしょう。「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか」(同12節)。e、墓のかなたに希望がないでしょう。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、…キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったので」(同17,18節)す。[11]

2肉体の復活

墓から出てこられたキリストは、肉において地上に生活されたあの同じイエスでした。今や彼は栄化された肉体をもたれました。しかしそれはなお実際の肉体でした。それがあまりにも現実的だったので、他の人たちは違いに気づくことさえありませんでした(ルカ24:13-27、ヨハネ20:14-18)。

イエスご自身が、自分はなんらかの霊または幽霊であるということを否定されました。彼は弟子たちに語ってこう言われました。「わたしの手や足を見なさい。…さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」(ルカ24:39)と。イエスはまた、自分の復活の真実を証明するために、弟子たちの前で食べられました。

3その影響

復活はキリストの弟子たちに電撃的影響を与えました。復活によって、一団の弱く、びくびくしていた男たちが、主のためにはどんなことでもする勇敢な使徒に変りました(ピリピ3:10,11、使徒4:33)。その結果として彼らが着手した伝道は、ローマ帝国をゆるがし、世界をひっくり返しました(使徒17:6)。

「福音の宣教に意味と力をもたらしたのはキリストの復活の確かさでした(ピリピ3:10,11参照)。ペテロは『イエスキリストの、死人からの復活』は信じる者たちに『生ける望み』をいだかせると語っています(1ペテロ1:3)。使徒たちは自分たちを、『主の復活の』(使徒:22)証人となるように按手を受けたと考えました。さらにキリストの復活を、旧約聖書のメシヤ預言に基づいて教えました(使徒2:31)。主イエスの復活を個人的に知っていたことこそが、彼らのあかしを『非常に力強く』(使徒4:33)したのでした。彼らが出て行って「イエス自身に起った死人の復活」(同2節)を宣べ伝えたとき、ユダヤ人の指導者の反対をひき起しました。サンヒドリンの議員の前で糾弾されたとき、パウロは彼らの前で「裁判を受けている」のは「死人の復活の望み」を彼がいだいているためだと断言しました(使徒23:6、同24:21参照)。ローマ人にあててパウロは、イエス・キリストは「死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた」(ローマ1:4)と書きました。彼は、バプテスマのときクリスチャンは、キリストの復活に対する信仰をあかしするのだと説明しました(ローマ6:4,5)。」[12]

2種類の復活

キリストは2種類の一般的な復活、すなわち義人が「生命を受けるためのよみがえり」と、不義な人が「さばきを受けるためのよみがえり」とがあると教えられました(ヨハネ5:28,29、使徒24:15)。千年間がこれらの復活を分けます(黙示録20:4,5)。

1 生命を受けるためのよみがえり

第一の復活でよみがえる人々は「さいわいな者であり、また聖なる者」(黙示録20:6)と呼ばれています。彼らは千年の期間の終りに火の池で第二の死を経験をすることはありません(同14節)。この生命と不死を受けるためのよみがえり(ヨハネ5:29、1コリント15:52,53)は再臨のときに起ります(1コリント15:22,23、1テサロニケ4:15-18)。それを経験する人々はもう死ぬことはあり得ません(ルカ20:36)。彼らは永遠にキリストと一つなのです。

よみがえった体とはどのようなものでしょうか。キリストのように、よみがえった聖徒たちは実際の体をもちます。さらにキリストが栄化された存在としてよみがえったように、義人もそのようになります。パウロは、キリストが「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」(ピリピ3:21)と言いました。彼は栄化されていない体と栄化された体とを、それぞれ「肉のからだ」と「霊のからだ」と呼んでいます。前者は死すべき、朽ちる存在であり、後者は不死で、不滅の存在です。死すべきものから不死のものへの変化は、復活のときに一瞬にして起ります(1コリント15:42-54参照)。

2さばきを受けるためのよみがえり

不義な人たちは第二の一般的な復活のときによみがえらされます。それは千年の期間の終りに起ります(本書第26章参照)。この復活は、最後の審判と断罪の前に起ります(ヨハネ5:29)。その名前が生命の書に見いだされない人々は、このときによみがえらされ「火の池に投げ込まれ」第二の死を経験します(黙示録20:15,14)。

彼らはこの悲劇的な最後を避けることができたはずでした。まちがえようのない言葉で聖書は、のがれるための神の方法を示しています。「悔い改めなさい。あなたのすべてのとがを離れなさい。そうすれば罪はあなたを滅ぼすことはありません。あなたが犯したすべてのとがからのがれて、新しい心と新しい霊とを得なさい。あなたがたはどうして死んでよかろうか。…私は何人の死をも喜ばないのだからと、いと上なる主は言われます。悔い改めて生きなさい」(エゼキエル18:30-32、NIV)。

キリストは「勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない」(黙示録2:11)と約束しておられます。イエスとイエスが与えて下さる救いを受け入れる人々は、歴史の最高潮となる彼の帰還のとき、言葉に表せない喜びを経験するでしょう。決して色あせることのない幸福のうちに、彼らは、彼らの主であり救い主である方と交わりつつ、永遠を過すのです。

訳注

  1. 口語訳では「風」になっていますが、原文の英語はbreathであるのでここでは「息」としました。
  2. 原文にはBeholdとありますが、口語訳には訳出されていません。
  3. 口語訳では「陰府」ですが、原文はgrave(墓)となっています。
  4. 原文pit、ここでは口語訳の「陰府」を用いました。
  5. 口語訳では「陰府」ですが、原文はgrave(墓)となっています。

[1]「不死」、『セブンスデー・アドベンチスト百科事典』、改訂版(“Immortality,” SDA Encyclopedia, rev. ed. )、621ページ。

[2]幾世紀にわたって、多くのキリスト教派、すなわちルター派教会、改革派教会、聖公会、バプテスト教会、会衆派、長老派教会、メソジスト教会等の、卓越したクリスチャンたちは、条件づき不死という聖書の教えを擁護してきました。最も卓越した人たちの中には次のような人がいます。16世紀―マルティン・ルター、ウィリアム・ティンダル、ジョン・ブリス、ジョージ・ウィシャート。17世紀―ロバート・オヴァートン、サムエル・リチャードソン、ジョン・ミルトン、ジョージ・ウィザー、ジョン・ジャクソン、ジョン・カニー、ジョン・ティロトソン、アイザック・バロー。18世紀―ウィリアム・コワード、ヘンリー・レイトン、ジョゼフ・N・スコット、ジョゼフ・プリーストリー、ピーター・ペカード、フランシスコ・ブラックバーン、ウィリアム・ウォーバートン、サムエル・ボーン、ウィリアム・ホイストン、ジョン・トティ、ヘンリー・ドッドウェル。19世紀―ティモシー・ケンドリック、ウィリアム・トムソン、エドワード・ホワイト、ジョン・トマス、H・H・ドブニー、リチャード・ホェトリー、ヘンリー・アルフォード、ジェームズ・パントン・ハム、チャールズ・F・ハドソン、ロバート・W・デール、フレデリック・W・ファラー、ヘルマン・オルスハウゼン、ヘンリー・コンスタブル、ウィリアム・グラッドストン、ジョゼフ・パーカー、ジョン・J・S・ペロン、ジョージ・G・ストークス、W・A・ブラウン、J・エイガー・ビート、R・F・ウェイマス、ライマン・アボット、エドワード・ビーチャー、エマニエル・ペタヴェルーオリフ、フランツ・デリッチ、チャールド・J・エリコット、ジョージ・ダナ・ボードマン、J・H・ペティンゲル。20世紀―ウィリアム・H・M・ヘイ・エイトケン、エリック・ルイス、ウィリアム・テンプル、ゲラルズス・ファン・デル・レーウ、オーブリー・R・ヴァイン、マルティン・J・ハイネッケン、デーヴィッド・R・デーヴィーズ、バジル・F・C・アトキンソン、エミール・ブルンナー、ラインホールド・ニーバー、T・A・カントネン、D・R・G・オーエン。『セブンスデー・アドベンチスト教理の研究』(三育学院短期大学、1976年)、530-585ページ参照。及びフルーム、『われわれの父祖たちの条件づき不死の信仰』(ワシントン・D・C、レビュー・アンド・ヘラルド社、1965年、1966年)、第1巻、第2巻、Froom, The Conditionalist Faith of Our Fathers(Washington, D. C.・ Review and Herald, 1965, 1966), vols. 1 and 2 を参照。

[3]「死」『セブンスデー・アドベンチスト聖書事典』、改訂版(“Death,” SDA Bible Dictionary, rev. ed.)、277,278ページ。

[4]R・L・ハリス、「聖書の詩篇文における並行法によって表わされたシェオールという言葉の意昧」『イギリス福音主義神学学会ジャーナル』、1961年(R. L. Harris,“The Meaning of the Word Sheol as Shown by Parallels in Poetic Texts,” Jounal of the Evangelical Theologcal Society, Dec. 1961)、129-125ページ。また『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』(SDA Bible Commentary)、改訂版、第三巻、999ページ参照。

[5]例えば、『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』改訂版、第5巻、(SDA Bible Commentary, rev. ed., vol.5)、387ページ参照。

[6]唯一の例外はシェオールが比喩的に用いられるとき(エゼキエル32:21参照)か、ハデスがたとえ話の中で用いられる場合です。シェオールは旧約聖書の中で60回以上出てきます。しかしどこでも死後の刑罰の場所をさすことはありません。この刑罰の場としての考えは後に、ゲヘナに結びつけられました(マルコ9:43-48)。しかし、ハデスにではありません。唯一の例外はあります(ルカ16:23)。また『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』、改訂版、第三巻(SDA Bible Commentary, rev. ed., vol.3)、999ページ参照。

[7]次の節が、死の性質に関する聖書の教えのこの見解に問題提起をしていると考えられてきました。しかしもっとくわしく調べれば、聖書の残りの部分と完全に調和していることがわかります。

a、ラケルの死。聖書はラケルの死に言及して、「魂の去ろうとする時」(創世記35:18)と言っています。この表現は単に、彼女の意識のある最後の瞬間に、いまわの息で、彼女は息子に名前をつけたということを示しています。それで他の訳では「彼女がいまわの息をした時」(NIV)となっています。

b、エリヤと死んだ男の子。エリヤがザレパテのやもめの死んだ息子の魂が帰ってくるように祈ったとき、神はその男の子を生き帰らせることによって彼に答えられました(列王上17:21,22)。このことは生命の原則が肉体と結合したことの結果でした。両方が離れていたとき、どちらも生きていないし、意識もなかったのです。

C、山上でのモーセの出現。変貌の山でのモーセの出現は意識のある霊が実在しているとか、すべての死んだ義人が天にいるという証拠にはなりません。このできごとのすぐ前に、イエスは弟子たちに、彼らが死ぬ前に、彼らのうちのある者は、イエスの王国で人の子を見るであろうと語られました。この約束はペテロ、ヤコブ、ヨハネに成就しました。

山上でキリストは彼らに、栄光の神の国のひな形を啓示されたのです。モーセとエリヤ、すなわちみ国の民の二つのタイプの代表者と共に、栄光の王キリストがおられました。モーセは、再臨のとき墓からよみがえらされる死んだ義人を代表しました。またエリヤは、死を見ないで天に移される生きた義人を代表しました(列王下2:11)。

ユダはモーセの特殊な復活の証拠を提供してくれます。モーセが死んで葬られた後(申命記34:5,6)、モーセの体について、ミカエルと悪魔との間に論争がありました(ユダ9)。山上にモーセが現れたことから、悪魔はその争いに敗れて、モーセが墓からよみがえらされたと結論づけることができます。彼はキリストの復活の力を示す、最初の知られた人となりました。このできごとは、魂の不死の教理の証拠とはなりません。むしろそれは、肉体の復活の教理を支持しています。

d、金持とラザロのたとえ話。金持とラザロについてのキリストの話は、死人が意識をもっていることを教えるために用いられてきました(ルカ16:19-31)。不幸なことにそれをこのように解釈する人々は、この話がたとえ話であって、詳細に至るまですべて字義通りに受取られたら、ばかげたことになるということを認識していませんでした。死人は、目、舌、指のような肉体の器官をもった存在であることとなるでしょう。義人はすべてアブラハムのふところにいることになるでしょう。また天国と地獄は話せる距離の内にあることになりましょう。また、どちらの人も死と同時に報いを受けることになってしまい。それは再臨のときに報いを受けるというキリストの教えと対照的です(マタイ25:31―41、黙示録22:12)。

しかし、この話はたとえ話です。キリストが好まれた教え方の一つです。それぞれのたとえ話は一つの教訓を教えようとされています。キリストが教えていることは死人の状態とは何の関係もありません。このたとえ話の教訓は、神の言葉によって生きることの重要性です。イエスは、金持は物質主義にとらわれていて、必要のある人々の世話を怠ったということを示されました。永遠の運命はこの現在の生活で決るのであって、第二の恩恵期間はありません。聖書は悔改めと救いへの案内書です。もしわたしたちが神の言葉の警告に心を留めないなら、何ものもわたしたちの心を動かすことはできません。こうしてキリストはこのたとえ話を次の言葉で終られました。「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」(ルカ16:31)。

キリストは単に、死人が会話を続けるという、ありふれたユダヤの物語の内容を用いたにすぎません。(アブラハムのふところとハデスというたとえ話の構想は、ユダヤの伝統に非常によく似ていました。「ハデスに関するギリシャ人への講話「『ヨセフォス全集』、ウィリアム・ホイストン訳((グランド・ラピズ、クリーゲル社、1960年))、“Discourse to the Greeks Concerning Hades,” Josephus’ Complete Works, trans. by William Whiston ((Grand Rapids ・ Kregel, 1960))、637ページ参照)。同様にわたしたちは聖書の中に、木が話すたとえ話を見い出します(士師9:7―15。列王下14:9参照)。だれもこのたとえ話を、木が話すことができることを証拠だてるために用いないでしょう。ですから人は、キリストのたとえ話に、死は眠りであることの豊富な聖書の証拠と、キリストの個人的な教えに矛盾する意味を与えることはひかえるべきです。

e、泥棒へのキリストの約束。キリストは十字架上の泥棒に「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)と言われました。パラダイスは明らかに天国と同義語です(2コリント12:4、黙示録2:7)。翻訳文は次のように解されます。キリストはあの金曜日に神の前にいるために、天国に行くであろう。そして泥棒も同様である。しかし復活の朝、キリストご自身がマリヤに、彼女が彼を礼拝するためにその足もとにひれ伏したとき、こう言われました。「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」(ヨハネ20:17、KJV)。キリストが週末の間墓に留まっていたということは、天使の言葉によって示されています。すなわち、「さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい」(マタイ28:6)。

キリストはご自身、矛盾していたのでしょうか。決してそうではありません。この聖句を理解するための解決は、句読点のつけ方に関係します。聖書の初期の写本は語と語の間にコンマも余白もありませんでした。句読点のそう入と語の区切り方次第で、本文の意味にかなりの違いを与えることができます。聖書の翻訳者は句読点を置くにあたって、自分たちが最善と思う判断を用います。しかし彼らのわざは決して霊感されてはいません。

翻訳者、彼は全体としてはすぐれた働きをしたのですが、もし彼がルカによる福音書23章43節においてコンマを、「きょう」の前にではなくて、後に置いていたら、この節は死に関する聖書のその他の教えと矛盾しなかったのです。そのときキリストの言葉は次のような意味に正しく理解されるでしょう。すなわち、「きょう(この日、わたしが犯罪人として死のうとしているとき)よく言っておくが、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」聖書の教えと調和して、イエスはあの泥棒に、ご自分と一緒にパラダイスにいるであろうと保証されました。これはイエスのご再臨のとき、義人の復活に続いて成就する約束です。

f、この世を去ってキリストと共にいること。「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」とパウロは言いました。「わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」(ピリピ1:21、23)。パウロは死ぬとき直ちに天国に入ることを期待したのでしょうか。

パウロはキリストと共にいるという主題に関して多くのことを書きました。別の書簡に、彼は「イエスにあって眠っている」人々について次のように書きました。再臨のとき、死んだ義人はよみがえり、また生きている義人と共に「引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(1テサロニケ4:14、17)と。

この背景とは対照に、ピリピ人への手紙ではパウロは、死ぬときに起こることに関する詳細な説明を与えていません。彼は死と復活の間の時間については何の言及も、説明もせずに、ただ現在の悩み多い生活を去って、キリストと共にいたいという願望を表現しているにすぎません。彼の望みの中心は、永遠にわたって、約束されたイエスとの個人的な交わりにあります。死ぬ人々にとっては、死んで目を閉じるときと、復活で目を開くときとの間に、長い時間のへだたり感はありません。死人は意識がなく、それゆえ時間の経過がわかりませんから、復活の朝は死後の瞬間におとずれるように見えます。クリスチャンにとって、死ぬことは益です。もはや誘惑も、試練も、悲しみもありません。そして復活のとき、栄光に満ちた不死の賜物を受けるのです。

[8]ホワイト、『各時代の大争闘』下巻(福音社、1974年)、313ページ。

[9]「死」、SDA Bible Dictionary, rev. ed., P.278, 『セブンスデー・アドベンチスト教理の研究』三育学院短期大学、1976年。490,491ページと比較。

[10]「復活」『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』、改訂版(“Death,” SDA Bible Dictionary, rev. ed.)、935ページ。

[11]『セブンスデー・アドベンチスト教理の研究』、67ページ。

[12]「復活」『セブンスデー・アドベンチスト聖書事典』、改訂版(“Resurrection,” SDA Bible Dictionary, rev. ed.)、936ページ。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

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