千年期と罪の終わり【アドベンチストの信仰#27】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

千年期とは、第一の復活と第二の復活にはさまれた、1000年にわたるキリストと聖徒たちの天における支配のことである。この間、死んだ悪人が裁かれ、地は生きている住人もなく、サタンとその使いたちに占領されてまったく荒廃する。この期間の終りに、キリストは聖徒を伴い、聖なる都とともに天から地に降りてこられる。そののち、死んでいる不義な者たちがよみがえらされ、サタンとその使いたちとともに聖なる都を包囲する。しかし、神から出る火は彼らを焼き尽くし地を清める。こうして、宇宙は永遠に罪と罪人から解放される。(信仰の大要27)

いつの時代にも、人々に神を礼拝させようとして、地獄のぞっとするようなことを雄弁に語って、人々の恐怖をあおるのに巧みな人々がいました。しかし彼らはどんな神を描くのでしょうか。

神は最後にどのようにして悪を取除かれるのでしょうか。サタンはどうなるのでしょうか。罪がもう一度、その醜い頭をもたげないようにするのは何でしょうか。どのようにして正義の神が、同時に愛の神でありうるのでしょうか。

目次

千年期の始まりの出来事

千年期、すなわち、ヨハネの黙示録20章が語る千年の期間、サタンが地上に及ぼす影響力は制限され、キリストは聖徒たちと共に支配されます(黙示録20:1-4)。

再臨

ヨハネの黙示録19章と20章とは一つのものです。これらの章の間には途切れがありません。これらはキリストの来臨(黙示録19:11-21)を描き、そのあとひき続いて千年期のことを述べています。この順序は、千年期がキリストのお帰りになるときに始まることを示しています。

ヨハネの黙示録は、再臨の直前に、キリストの働きと、キリストの民に対抗するために、全世界の国々を召集する三つの力、すなわち龍と、獣と、にせ預言者とを描いています(黙示録16:13)。キリストのお帰りのとき、「獣と地の王たちと彼らの軍勢」とが、キリストに対して戦いをいどむために集るとき、獣とにせ預言者は滅ぼされます(黙示録19:19,20)。次に来るヨハネの黙示録20章は千年期の章ですが、悪魔的な三重の勢力の三番目である龍の運命を扱っています。彼は捕えられて、底知れぬ所の穴に投込まれます。彼はそこに千年間留まります[1]

わたしたちが本書第24章で見たように、神がご自分の栄光の王国を打ち立てられるのは、キリストの再臨と関係があります。そのとき、この世の王国は滅ぼされます。一方、神の国は永遠に続くのです(ダニエル2:44)。神の民が支配を始めるのはそのときです。

第一の復活

再臨のとき、第一の復活が起ります。義人、すなわち、「さいわいな者であり、また聖なる者」はよみがえらされます。なぜなら「この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する」(黙示録20:6、本書第25章参照)からです。

義人は天に行く

死んだ義人の復活の後、彼らと生きている聖徒たちとは「空中で主に会」(1テサロニケ4:17)うために、引上げられます。そのときキリストは、ご自分がこの世を去る直前にした約束を成就されます。すなわち、「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ14:2,3)。イエスは、ご自分に従う者たちを連れていく場所を「わたしの父の家」と表現し、そこには、「たくさんのすまい」あるいは住む場所があると言われました(ヨハネ14:2)。ここでイエスは新エルサレムに言及しておられます。それは千年期の終りまで、この地上には来ません。したがって、再臨のとき、義人は「空中で主に会」うのですが、彼らの行き先は天であって、彼らが去ったばかりの地上ではありません[2]。キリストはこのときには、この地上に栄光の王国を築かれません。彼は千年期の終りにそれをされます。

キリストの敵は殺される

キリストは、ご自分の帰還を、洪水のときに起ったことや、ソドムとゴモラの滅亡と比較されました(マタイ24:37-39、ルカ17:28-30)。彼の比較には二つのポイントがあります。第一は、滅亡が襲ったとき、それは突然であったということ。第二は、襲ったものは滅亡であったということです。すなわち洪水は「いっさいのものをさらって行」(マタイ24:39)きました。ソドムに降った火と硫黄は「彼らをことごとく滅ぼし」(ルカ17:29、マタイ13:38-40参照)ました。キリストは再臨のとき、ご自分の軍勢と共に、白い馬に乗って天から降りてこられます。彼の名前は「王の王、主の主」です。彼は、この世の反逆する諸国民を打たれます。獣とにせ預言者が滅ぼされたあとで、サタンに従う「残りの者」が死に、生き残る者は一人もいません。なぜなら彼らは「馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた」(黙示録19:21)[3]からです。

聖書はこの情景を描いてこう言っています。「主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる。地はその上に流された血をあらわして、殺された者を、もはやおおうことがない」(イザヤ26:21)。

地上は荒廃する

義人が昇天して主と共におり、悪人がキリストの出現のとき滅ぼされてから、この地上はしばらくの間、人間が住まなくなります。聖書はそのような状況を指摘しています。エレミヤは「わたしは地を見たが、それは形がなく、またむなしかった。天をあおいだが、そこには光がなかった。わたしは山を見たが、みな震え、もろもろの丘は動いていた。わたしは見たが、人はひとりも」(エレミヤ4:23-25)おらなかったと言いました。エレミヤが創世記1章2節に見られる「形なく、空しく」ということばを用いたことは、地上が創造のはじめのときのように、混沌とした状態になることを示しています。

サタンが束縛される

このときに起るできごとは、イスラエルの聖所の奉仕におけるあがないの日の、贖罪のやぎに予表されていました。あがないの日に大祭司は、主のやぎのあがないの血で聖所を清めました。この贖罪が完全に終って初めて、サタンを象徴したやぎであるアザゼルに関係する儀式が始まります(本書第23章参照)。大祭司はその頭に手を置いて、「イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪を」告白して「これをやぎの頭にのせ」ました(レビ16:21)。この贖罪のやぎは荒野、すなわち、「人里離れた地」(レビ16:22)に送られました。

同様に、キリストは、天の聖所において、ご自分が完成したあがないの祝福を与えるために、ご自分の民に奉仕しておられます。彼は、お帰りになるとき、彼らをあがない。彼らに永遠の生命をお与えになります。彼がこのあがないの働きと、天の聖所の清めを完成されたとき、彼はご自分の民の罪を、悪の創始者であり、扇動者であるサタンの上に置きます。決してサタンが信じる者たちの罪をあがなうということはありえません。キリストが完全にそれをなしとげて下さいました。しかしサタンは、彼が原因となって、救われる人々に犯させたすべての罪の責任を負わなければなりません。そして「定めておいた人」が、そのあがないのやぎを人里離れた地にやったように、神はサタンを、荒廃した、人のいない地上に追放されます(本書第23章参照)[4]

ヨハネが見た千年期の幻は、サタンの追放を生き生きと描いています。彼は、千年の期間の始まりに、「悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへび」が鎖につながれ、「底知れぬ所」に投げ込まれるのを見ました(黙示録20:2,3)。このことは、サタンの迫害と欺きの活動が、一時的に終ることを象徴的に伝えています。彼は「千年の期間が終るまで、諸国民を惑わずことがない」(黙示録20:3)のです。

ヨハネが用いている「底知れぬ所」(ギリシャ語、アブッソス)という言葉は、このときの地球の状態を適切に表現しています。キリストの来臨のすぐ前に起る七つの災いで打たれ(特に黙示録16:18-21参照)、悪しき者の死体でおおわれて、この地球は全く荒廃した情景です[5]

サタンは、この地球に制限され、環境という鎖によって「つなぎお」かれます。地球はいかなる人間の命も存在しないのですから、サタンは誘惑したり、迫害したりする人がいません。彼は何もすることがないという意味でつながれているのです。

千年期に起る出来事

キリスト、あがなわれた者と共に天にキリストは再臨のとき、ご自分に従う者たちを天に、すなわち、新エルサレムの中に彼らのために用意されたすまいに、連れていかれます。モーセとイスラエル人たちのように、あがなわれた者たちは、感謝に満ちあふれて、解放の歌を歌います。すなわち、「神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、『全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります』」(黙示録15:3)。

聖徒はキリストと共に支配する

キリストが勝利者に、「諸国民を支配する権威」(黙示録2:26)を授けると言われたご自分の約束を成就されるのは、千年期のときです。ダニエルは、キリストの敵が滅亡した後、「国と主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられる」(ダニエル7:27)のを見ました。第一の復活においてキリストがよみがえらされる人々は、千年間彼と共に支配します(黙示録20:4)。

しかし、もし聖徒が天におり、すべての悪人が死んでいるのでしたら、どのような意味で、聖徒たちが支配ずると言えるのでしょうか。彼らの支配とは、キリストの統治の重要な局面に参加するということです[6]

悪人のさばき

ヨハネは、千年期の間、聖徒がさばきに加わるのを見ました。彼は「かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた」(黙示録20:4)のを見ました。これが、聖書が示しているサタンとその天使たちのさばきのときです(2ペテロ2:4、ユダ6)。それは聖徒たちが、この世をさばくだけでなく、「み使をさえさばく」(1コリント6:2,3)とパウロが断言した言葉が実現するときです[7]

千年期のさばきは、だれが救われ、だれが滅びるかを決めるのではありません。神は再臨の前に、その決定をされます。再臨のときよみがえらされなかった人たちや、生きたまま昇天しなかった人々は皆、永遠に滅びています。義人が参加するさばきは、悪人たちがなぜ滅びたのかということについて義人がいだく疑問に答える目的です。神は彼らに、ご自身のあわれみと正義の働きをお示しになるのです。

あなたが天にいて、絶対にいるものと期待していた愛する人びとの一人がいないことを知った場合を想像してみて下さい。そのような場合、あなたは神の正義に疑問を抱くでしょう。そしてそのような疑いこそが、まさに罪の根底に横たわっているのです。そのような疑いを抱く機会をすべて、永遠に葬るために、さらに罪は決して二度と起らないことを確実にするために、神は千年期のさばきで、既になされた決定をふり返えらせ、これらの疑問に対する答を提供されるのです。

この働きにおいて、あがなわれた者たちは、善と悪の間の大争闘で、非常に重要な役割を果します。「彼らは神が、滅びた罪人をどんなに熱心に、また忍耐強く世話したかということを知って永久に満足します。彼らは罪人が、どんなにむとんじゃくに、またかたくなに、神の愛をはねつけ、拒んだかを認めます。彼らは、穏やかに見えた罪人でさえ、主と救い主の価値観を受け入れるよりはむしろ、醜い利己心をひそかにいだいていたことを発見します。」[8]

サタンの反省のとき

千年期の間、サタンはひどく苦しみます。彼に従う天使たちと共に、荒廃した地上に制限されて、彼は絶え間なく専念してきた欺きを続けることができません。彼は、神と神の律法に対する自分の反逆の結果を見せられます。彼は、善と悪の間の争闘において彼が果した役割を、深く考えなければなりません。彼は、自分に責任のあるすべての悪のゆえに受けなければならない恐しい刑罰を恐れつつ、将来に向かうことしかできません。

千年期の終りの出来事

千年の期間の終りに、「それ以外の死人」すなわち、悪人がよみがえらされます。こうしてサタンは獄から解放されて、活動できるようになります(黙示録20:5,7)。彼はもう一度、悪人を欺き、彼らの先頭に立って、「聖徒たちの陣営と愛されていた都(新エルサレム)」(黙示録20:9)に逆らいます。この都はこのときまでには天から下ってきています[9]

キリストと、聖徒と、都とが降下する

キリストは、二つの目的のために、聖徒たちと新エルサレムとを伴って、再び地上に降りてこられます。彼は千年期の審判の決定を執行することによって、大争闘を終らせられます。また彼は、ご自分の永遠の王国を築くために、この地上を清め、再び新しくされます。そのとき、最も完全な意味において、「主は全地の王となられる」(ゼカリヤ14:9)のです。

さばきを受けるためのよみがえり今や、「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞」(ヨハネ5:28)くという、キリストの言葉が完全に成就するときが来ました。キリストは再臨のとき、第一の復活、すなわち、「命の復活」において、死んだ義人を墓から連れ出されました。今や、イエスが語られたもう一つの復活、すなわち、「さばきを受けるためのよみがえ」(ヨハネ5:29)りが実現します。ヨハネの黙示録はこの復活にも言及しています。すなわち、「それ以外の死人(第一の復活のときよみがえらされなかった人々)は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった」(黙示録20:5)。

サタンの監禁が終る

千年の期間の終りに悪人が復活することによって、サタンは「しばらくの間」(黙示録20:3)とらわれの身から解放されます。彼は、神の政府に挑戦しようと最後の試みをします。彼は「出て行き、地の四方にいる諸国民…を惑わし」(黙示録20:8)ます。悪人は死んだとき彼らがそれぞれ持っていたのと全く同じ反逆の精神をもってよみがえらされていますから、サタンの働きは困難なことではありません。

聖都に対する攻撃

サタンは最後の欺きにおいて、神の国を力で獲得できるという希望を悪人に吹きこもうとします。彼は地の諸国民を召集し、彼らの先頭に立って、愛されていた都に逆らいます(黙示録20:8,9)[10]。「キリストの犠牲のあがないという功績によって神の都に入ることをかたくなに拒んだ悪人は、今や、包囲と戦闘とによって都に入ろうとし、かつ支配しようと決心します」[11]

神が悪人を生返らせられるやいなや、彼らが、神に背を向け、神の国をくつがえそうと試みるという事実によって、神が彼らの運命について下した決定が正しいと確認されます。このようにして、サタンが汚そうとしてきた神の名と品性は、すべての者の前で、完全に擁護されるのです。」[12]

大きな白いみ座のさばき

ヨハネは、神の敵が都を包囲して、攻撃しようとかまえるとき、神が大きな白いみ座をすえられると述べています。全人類がこのみ座のまわりで出会います。都の中で安全な者もいますが、外にあってさばき主の前でおののいている者もいます。このとき神は、さばきの最後の局面を実行されます。キリストが「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」(ルカ13:28)と語られたのはこのときのことを言っています。

この執行審判を実行するために、神の記録の書が開かれます。「もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」(黙示録20:12)のです。それから神は最後の審判を宣告されます。

神はなぜ、これらの人々を再び滅ぼすためにだけ、生返らせるのでしょうか。千年期の間、あがなわれた者たちは、宇宙のすべての知的存在を神がどのように公正に扱われたかを吟味する機会をもちました。今は滅びる者たち自身が、サタンとその使いたちも含めて、神のやり方が正しいことを確認するのです。

「わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである」(ローマ14:10)というパウロの言葉が実現されるのはこの大きな白いみ座のさばきのときです。そこで全被造物は、堕落しない者も堕落した者も、救われた者も滅びる者も、ひざをかがめて、イエス・キリストは主であると告白します(ピリピ2:10,11、イザヤ45:22,23参照)。そのとき、神の正義についての疑問は永遠に解決されてしまいます。罪は二度と再び宇宙をそこなうことはなく、またその住民の上に大暴れすることもありません。

サタンと罪人が滅ぼされる

サタンと彼の天使たち、およびサタンに従った人間たちは、宣告を受けると同時に刑罰を受けます。彼らは永遠に死にます。「天から火が下ってきて」救われない者をすべて「焼き尽した」(黙示録20:9)とあります。都の外の地表は「不信仰な人々がさばかれ…火で焼かれる」(2ペテロ3:7)ために、大きな火の池となってとけているようにみえます。「主があだをかえす日」(イザヤ34:8)がきました。この日に神はご自分の敵を滅ぼすという「不思議なわざ」(イザヤ28:21、KJV)を行われます。ヨハネは言いました。「このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(黙示録20:15)と。悪魔とその仲間たちもこの破滅を受けます(黙示録20:10)。

悪人が受けるこの「第二の死」(黙示録21:8)が完全な滅びを意味することは、聖書全体の文脈から明らかです。それでは永遠に燃える地獄という概念はどうしたのでしょうか。意味深く研究すれば、聖書はそのような地獄も責苦も教えていないことがわかります。

1地獄

聖書的には、地獄とは、「神を拒み、イエスキリストにある救いの提供を拒んだ人たちが、第二の死のとき、永遠の火によって罰せられ、滅ぼされる場所と状態」[13]のことです。

聖書の英語訳は、しばしばヘブル語のシェオールとギリシャ語のハデスを翻訳するのに「地獄」という言葉を用いています。これらの言葉は普通、死人―義人も悪人も―が無意識の状態で復活を待つ墓をさします。地獄についての今日の概念は、これらのヘブル語やギリシャ語の言葉が意味することとあまりにも大きく違っているので、多くの現代訳は「地獄」という言葉を避けて、単にヘブル語の言葉は「シェオール」、ギリシャ語の方は「ハデス」と音訳しています。

対照的に、ギリシャ語のゲエンナは、新約聖書の英語訳も「地獄」と翻訳していますが、悔改めない人に対する恐しい刑罰の場所を意味します。そういうわけで聖書では、「地獄」は必ずしも同じ意味をもっていません。この区別を認めることに失敗して大変な混乱を招いたことがたびたびありました。

ゲエンナはベフル語のゲヒンノムからきています。それは「ヒンノムの谷」のことで、エルサレムの南側に沿った峡谷です。ここでイスラエル人は、子供たちを火で焼いてモレクにささげる異教の儀式を行いました(歴代下28:3、33:1,6)。エレミヤは、この罪のために主はこの谷を「ほふりの谷」とし、そこにもはや余地がなくなるまで、イスラエル人の死体が葬られると預言しました。残りの死体は「空の鳥の食物」(エレミヤ7:32,33、19:6、イザヤ30:33)となりました。エレミヤの預言によってイスラエル人は、ゲヒンノムを悪人のさばきの場所であり、憎悪と刑罰と恥辱の場所だと考えるようになったことは確かです。[14]後にラビの伝説はそれを、死体やくずが燃えている場所とみなしています。

イエスはヒンノムの火を、地獄の火の表現としてお用いになりました(例えば、マタイ5:22、18:9)。そういうわけでヒンノムの火は、最後のさばきの焼き尽す火を象徴していました。イエスはそれが死のかなたの経験であり(ルカ12:5)、地獄はからだも魂も滅ぼすのだと言われました(マタイ10:28)。

地獄の火とはどんな性質のものでしょうか。人は地獄で永遠に燃えるのでしょうか。

2悪人の運命

聖書によれば神は、義人にのみ永遠の生命を約束しておられます。罪の支払う報酬は死であって、地獄における永遠の生命ではありません(ローマ6:23)。

聖書は、悪人が「断ち滅ぼされ」(詩篇37:9,34)る、すなわち、彼らは滅びる(詩篇37:20、68:2)と教えています。彼らは意識のある状態で永遠に生きるのではなくて、焼き尽されるのです(マラキ4:1、マタイ12:30,40、2ペテロ3:10)。彼らは滅ぼされ(詩篇145:20、2テサロニケ1:9、ヘブル2:14)焼き尽されます(詩篇104:35)。

3永遠の刑罰

悪人の刑罰について語るとき、新約聖書は「とこしえの」とか「永遠の」という言葉を用いています。これらの言葉はギリシャ語のアイオニオスという言葉の翻訳で、人間と同様、神にも適用します。誤解を避けるために人は、アイオニオスは相対的な用語であることを記憶していなければなりません。すなわち、その意味は、修飾する対象によって決定されるのです。そういうわけで聖書が神についてアイオニオス(「とこしえの」、「永遠の」)を用いるとき、神は永遠に存在する、ということを意味しています。なぜなら神は不死だからです。しかし、この言葉を死すべき人間や朽ちる物に用いるとき、それはその人が生きる限り、又はその物が存在する限り、という意味です。

例えばユダ書7節は、ソドムとゴモラが「永遠の火の刑罰」を受けたと言っています。しかしあの町々は今日燃えてはいません。ペテロは、あの火があの町々を灰に帰せしめて破滅に処したと言いました(2ペテロ2:6)。「永遠の」火は燃えるものが何も残らなくなるまで燃えて、それから消えました(エレミヤ17:27、歴代下36:19参照)。

同様に、キリストが悪人を「永遠の火」(マタイ25:41)に入れるとき、悪人を燃やし尽すあの火は「消えない」(マタイ3:12)のです。燃えるものが何も残らなくなってはじめて消えます[15]

キリストが「永遠の刑罰」(マタイ25:46)について語られたとき、永遠に罰し続ける、という意味ではありませんでした。キリストが言わんとしたのは「永遠の生命(義人が享受します)は、終りのない永遠の時代にわたって続きます。一方悪人が受ける刑罰も永遠です。しかしそれは、意識をもったままで苦しむ期間の永遠ではなくて、完全で最終的な罰が永遠なのです。こうして苦しむ人々の最後が第二の死です。この死は永遠であって、いかなる復活もありませんし、あり得ません。」[16]

聖書が「永遠のあがない」(ヘブル9:12)や「永遠のさばき」(ヘブル6:2)について語るとき、それはあがないとさばきの永遠の結果をさしており、あがないとさばきの終りのない過程のことを言っているのではありません。全く同じように、聖書が永遠の、あるいはとこしえの刑罰について語るとき、結果について語っているのであって、その刑罰の過程のことではありません。悪人がこうむる死は最終的かつとこしえに続くものです。

4世々限りなく苦しめられる

聖書が「世々限りなく」(黙示録14:11、19:3、20:10)という表現を用いていることも、サタンと悪人どもを罰する過程が永遠にわたって続くという結論に貢献してきました。しかし「とこしえの」のように、修飾する目的語が「世々限りなく」という言葉の意味を決定します。それが神と関連しているとき、その意味は絶対的です。なぜなら神は不死だからです。それが死すべき人間と関連しているとき、その意味は限られます。

神がエドムを罰することについての聖書の描写は、この用法の良い例です。イザヤは、神があの国を変えて「夜も昼も消え」ない燃える樹脂とし、その煙は「とこしえに立ちのぼる。これは世々荒れすたれて、とこしえまでもそこを通る者はない」(イザヤ34:9,10)と言っています。エドムは滅ぼされました。しかし今も燃え続けているのではありません。この「世々限りなく」は、その滅亡が完全なものとなるまで続いたものです。

聖書を通じて「世々限りなく」には限度があることが明らかです。旧約聖書によると、奴隷はその主人に「いつまでも」(出エジプト21:6)仕えることができました。子供のサムエルは幕屋に「いつまでも」(サムエル上1:22)いることになりました。またヨナは大いなる魚の腹の中に「いつまでも」(ヨナ2:6)いるだろうと思いました。新約聖書はこの言葉を同じように用いています。例えばパウロは、ピレモンにオネシモを「いつまでも」(ピレモン15)受け入れるように勧告しています。これらのすべての例において「いつまでも」は「その人が生きている限り」という意味です。

詩篇92篇7節は、悪人がとこしえに滅びると言っています。マラキはあの最後の大火災を預言してこう言いました、「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない」(マラキ4:1)。

ひとたび悪人たち、すなわち、サタンと悪天使たち、および悔改めない人々が皆、火で根も枝も滅ぼされますと、死もハデスももう用がなくなります(本書第25章参照)。神はこれらをも永遠に滅ぼされます(黙示録20:14)。

そういうわけで聖書は、罰する行為ではなくて、刑罰が永遠に続く、つまり第二の死であることを明らかにしています。この刑罰には復活がありません。その結果は永遠です。

大司教ウイリアム・テンプルが次のように主張したとき、彼は正しかったのです。「わたしたちが確信をもって言えることが一つあります。すなわち、永遠の責苦は廃去されるべきものだということです。もし人々が、個々人の魂は生まれながらにして不滅であるというギリシャの非聖書的な考えを取り入れていなかったら、そうして新約聖書を読んでいたなら、彼らはそれ(新約聖書)から、永遠の責苦という信仰ではなくて、絶滅という信仰を得ていたでしょう。アエオニアン(永遠の)と呼ばれているのは火であって、火の中に投げ込まれる命ではありません。」[17]

神の律法の刑罰が完全に執行されてしまいますと、正義の要求が満たされます。今や天と地とは主の義を宣言します。

5刑罰の原則

死が罪に対する最後の報いです。罪の結果、神の提供される救いを拒む人は皆、永遠に死にます。しかしある者たちははなはだしく罪を犯し、悪魔のように他人を苦しめることを喜びました。他の者たちは比較的道徳的で平和な生活を送りました。この人たちのとがは、おもに提供されたキリストにある救いを拒んだということです。彼らが全く同じ刑罰を受けることは公平でしょうか。

キリストは言われました。「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは更に多く要求されるのである」(ルカ12:47,48)と。

疑いもなく、神に一番反逆した人々は、それほどでない人々よりも多く苦しみます。しかしわたしたちは、キリストが十字架の上で「第二の死」を経験されたという見地から、彼らの最後の苦しみを理解しなければなりません。あそこでキリストはこの世の罪を負われました。彼が受けた苦悩、すなわち、描写できないほどの精神的苦悩をひき起したのは、罪がもたらした父なる神からの恐ろしい分離でした。滅びる罪人も同じです。彼らは生きている間だけでなく、最後の滅びにおいても自分のまいたものを刈り取ります。神の前で、彼らが自分たちの犯した罪のために有罪だと感じることは、彼らに表現しえない苦悩を与えます。有罪の意識が大きければ大きいほど苦悩も大きいのです。罪の扇動者であり、推進者であるサタンは一番苦しみます[18]

地を清める

すべての罪の痕跡が取り除かれる主の日を描写して、ペテロはこう言いました。「天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」(2ペテロ3:10)と。

悪人を滅ぼす火は、地を罪の汚れから清めます。神はこの地上の廃墟から「新しい天と新しい地と」をもたらします。なぜなら「先の天と地とは消え去」(黙示録21:1)ってしまっているからです。神はこの清められ、再創造された地球―あがなわれた人たちの永遠の住まい―から、永遠に悲しみと痛みと死とを追放されます(黙示録21:4)。遂に罪がもたらしたのろいは取り除かれます(黙示録22:3)。

ペテロは、罪と悔改めない罪人が滅ぼされる主の日が近づいていることを思い、すべての人にこう言っています。「神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。」彼はキリストの帰還の約束に望みを置いて断言しました。「わたしたちは、…義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい」(2ペテロ3:11,13,14)と。

[1]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』、改訂版、第7巻(SDABibleCommentary,rev.ed.)、885ページ参照。

[2]『セブンスデー・アドベンチスト教理の研究』(三育学院短期大学、1976年)、463ページ。

[3]「にせ預言者も、獣と共に…火の池に投げ込まれた」とき(黙示録19:20)、「それ以外の者たち」(黙示録19:21)、または彼らに従う「残りの者」は、キリストのつるぎによって殺されます。これらは王たち、将軍、勇者、また「すべての自由人と奴隷」(黙示録19:18)です。同じ階級の人たちが、第6の封印の下で、天が巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とが移されるとき、小羊のみ顔から隠れることを求めている者として述べられています(黙示録6:14-17)。明らかにこれらの聖句は、同じ地が破壊されるできごと、キリストの再臨を描いています。

「『それ以外の者たち』(黙示録19:21)の死に、何人がまきこまれるのでしょうか。ヨハネの黙示録13章8節によれば再臨のとき、地上は二つの組だけになります。『地に住む者で、その名をいのちの書にしるされていない者はみな、彼(獣)を拝むであろう。』それゆえ『それ以外の者たち』がいつ『つるぎで切り殺される』かは明らかです(黙示録19:21)。獣に抵抗した人々、すなわち、いのちの書にしるされている人々以外は生き残る者はいません(黙示録13:8)」(『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』、改訂版、第7巻(SDABibleCommentary,rev.ed.)、885ページ)。

[4]『セブンスデー・アドベンチスト教理の研究』467ページ参照。あがないのやぎは義人の救い主ではありません。

[5]七十人訳聖書は創世記1章22節のヘブル語の言葉テホーム、「ふち」を翻訳するのに、この表現を用いています。このことは千年期の地上の状態が「形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあ」った、はじめの地球の状態を少くとも部分的に反映しているということを示しています。『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』、改訂版、第7巻(SDABibleCommentary,rev.ed.)、879ページ参照。

[6]彼らが統治する、あるいは支配権をもつという事実は、地上に悪人が生きていなければならないということを必ずしも意味していません。はじめに神はアダムとエバに統治権をお与えになりました(創世記1:26)。彼らは罪を犯す前、神が彼らに委託された被造物の一部を治めました。治めるためには制御しにくいものがいる必要はありません。

[7]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』、改訂版、第7巻(SDABibleCommentary,rev.ed.)、880ページ。

[8]マックスウェル『神はかえりみられる』(アイダホ州、ボイズ、パシフィック・プレス社、1985年)、第2巻、Maxwell,GodCares(Boise,ID・PacificPress,1985),vol.2、500ページ。

[9]新エルサレムの降下についてのヨハネの黙示録の描写は、必ずしも降下の正確な時を示してはいません。なぜならその前の章でわたしたちは、あの「愛されていた都」が悪魔の軍勢によって取り囲まれるのを見るからです。この筋書きによれば、新エルサレムは元来、この地が若返る前に降下していたはずだという結論になります。

[10]ゴグとマゴグという名前は、イスラエルの敵と関連していました。彼らは、バビロン捕囚後神の民とエルサレムを攻撃することになっていました(エゼキエル38:2,14-16参照)。イスラエルに関する旧約聖書のさまざまな預言は成就しませんでした。それらは霊的イスラエルにおいて実現します。そういうわけでエゼキエルがエルサレムに敵対してくると語った、力ある敵の同盟は、神がサタンに、救われない人たちの軍勢と共に、大争闘の最後の戦いのために、神の民と愛されていた都に敵対してくるのをおゆるしになるとき、実現を見るでしょう。

[11]『セブンスデー・アドベンチスト教理の研究』、471ページ。

[12]『セブンスデー・アドベンチスト聖書注解』、改訂版、第4巻(SDABibleCommentary,rev.ed.)、708ページ参照。

[13]「地獄」『セブンスデー・アドベンチスト百科事典』、改訂版(”Hell”SDAEncyclopedia,rev.ed.)、579ページ。

[14]「地獄」『セブンスデー・アドベンチスト聖書事典』、改訂版(”Hell”SDAdia,rev.ed.)、475ページ参照。

[15]消えない火によるエルサレムの破壊についてのエレミヤの預言(エレミヤ17:27)参照。この預言はネブカデネザルがあの都を占領したとき成就しました(歴代下36:19)。火は都が破壊され、消失するまで燃えました。

[16]『セブンスデー・アドベンチスト教理の研究』504ページ。

[17]ウィリアム・テンプル、『クリスチャンの信仰と生活』(ニューヨーク、マクミラン社、1931年)、WilliamTmple,ChristianFaithandLife(NewYork・Macmillan,1931)、81ページ。

[18]「地獄」『セブンスデー・アドベンチスト聖書事典』、改訂版(”Hell”SDABibleDictionary,rev.ed.)、475ページ参照。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

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