新しい地【アドベンチストの信仰#28】

*この記事では特にことわりのない場合は、口語訳聖書が使用されています。

神は贖われた者たちのために、永遠のすまいと、永遠のいのちと愛と喜びを与えてくれる完全な環境と、神のみ前での学びを、義の支配する新しい地に用意してくださる。そこには神ご自身が民と共に住まわれ、苦しみや死は過ぎ去っている。大いなる戦いは終わり、罪はもはや存在しない。いのちあるものもそうでないものもすべては、神が愛であると告げる。神はとこしえに統べ治められる。アーメン(信仰の大要28)

死ぬようなひどいめにあった後で、男の子がほっとしてこう言いました。「ぼくの家は天国にあります。でもぼくはホームシックになっていないよ。」彼のように、多くの人たちは死ぬとき、天国は「他の場所」よりはましな所、しかし現在の現実と刺激とは比べものにならないと感じています。もし多くの人たちが来世について抱いている見解が真実なら、この気持はもっともでしょう。しかし聖書が描いていることと示唆していることによれば、神が、あがなわれた人たちが楽しむようにと備えてくださっているものは、わたしたちが今生きている人生よりも、はるかに輝かしいので、新しい世界のためにこの世をあきらめることをためらう人はほとんどいないでしょう。

目次

新しい地の性質

触れることのできる現実

聖書の最初の2章は、神がご自分の創造なさった人間の住まいとして、完全な世界を創造されたことについて述べています。聖書の最後の2章はまた、人間のために神が完全な世界を創造なさることについて語っています。しかし今度は、再創造であり、罪がもたらした破壊から地を回復ずるものです。

何度も何度も聖書は、あがなわれた人たちのこの永遠の住いは実在の場所であり、体と知力をもった実在の人々が見、聞き、さわり、昧わい、においをかぎ、測り、描き、試し、充分に経験することができる所だと断言しています。神がこの実在する天国を置いてくださるのは、この新しい地の上になのです。

ペテロの第二の手紙3章は、この概念についての聖書の背景を簡潔に要約しています。ペテロは、洪水前の世界は「その時存在した世界」であり、水によって滅んだと語っています。第二の世界は「今存在している地」であり、第三の世界、すなわち「義の住む新しい地」に道をあけるために、火で清められる世界です。(6,7,13節)[1]。この「第三の」世界は最初の二つと同様現実のものです。

連続性と相違

「新しい地」という言葉は、現在の地との連続性と相違の両方を表現しています[2]。ペテロとヨハネは、古い地があらゆる汚れから火で清められ、それから新しくされるのを目で見るように描いています(2ペテロ3:10-13、黙示録21:1)[3] 。そういうわけで、新しい地とは、まず第一に、この地であって、何かかけ離れた場所ではありません。新たにされますが、なおなつかしい、よく知られた故郷です。すばらしいですね。しかしそれは、罪が原因となったすべての汚点を、神が取り除かれるという意味で新しいのです。

新しいエルサレム

新エルサレムはこの新しい地の首都です。ヘブル語でエルサレムは「平和の都」を意味します。この世のエルサレムはその名前にふさわしかったことはほとんどありませんでした。しかし新エルサレムという名前は、正確に現実を反映します。

結び合せるもの

ある意味でその都は、天と新しい地とを結び合せます。もともと天は空を意味しています。聖書はこの言葉を(1)大気の空(創世記1:20)、(2)星空(創世記1:14-17)、(3)天国のある「第三の天」(2コリント12:2-4)に言及するのに用いています。天と天国とのこの関連から、天は、神のみ座と住まいの場所である天国と同じ意味を表わすようになりました。ここから意味が拡充されて、聖書は神の王国や支配、また神の統治を喜んで受け入れる人々を「天の王国」と名付けています。

神は期待をはるかに越えて「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という主の祈りの嘆願に答えられます。それは神が、新エルサレムを惑星地球に再び置かれるときです(黙示録21:1,2)。神はこの地球を一新されるだけでなく、高められます。堕落前の地位をしのいで地球は、宇宙の首都となります。

物質的描写

ヨハネは新エルサレムの美しさを伝えるのに、ロマンチックな言葉を用いています。すなわち、都は「夫のために着飾った花嫁」(黙示録21:2)のようだ、と。彼が都の物質的な特性を描いているので、わたしたちはその現実を描写できます。

1その輝き

ヨハネが「小羊の妻なる花嫁」を見たとき、彼が認めた最初の明確な特徴はその「輝き」でした(黙示録21:9,11)。神の栄光が都を照らし、太陽と月の光を必要としません(黙示録21:23,24)。暗い裏通りが新エルサレムを損なうこともありません。なぜなら城壁と大通りは透きとおっていて「そこには夜がない」(黙示録21:25)からです。「あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照」(黙示録22:5)すからです。

2その構造

神は都を築くのに、これ以上ないすばらしい材料だけを用いられました。その城壁は非常に「高価な宝石」である碧玉でできています(黙示録21:11,18)。その土台は、12のさまざまな宝石で飾られています。すなわち碧玉、サファイヤ、めのう、緑玉、縞めのう、赤めのう、かんらん石、緑柱石、黄玉石、ひすい、青玉、紫水晶で飾られています(黙示録21:19,20)。

しかしこれらの宝石は、建物の主要な材料ではありません。大部分、神は都を、建物も大通りも金で造られました(黙示録21:18,21)。さらに人々が今日コンクリートを使うように、神は自由に宝石を用いています。この金は今日知られているどんなものよりもすばらしいものです。なぜならヨハネはそれを「すきとおったガラスのような純金」(黙示録21:18)と呼んでいるからです。

12の門は、それぞれ一つの真珠でできており、この門から都に出入りできるようになっています。「真珠は苦悩の産物です。あこや貝の中に小さな刺激が入ります。この小さな被造物が苦しむにつれて、その刺激物は光沢のある宝石に変るのです。門は真珠でできています。あなたが、またわたしが入れるように、神は、キリストにおいて万物をご自身と和解させられたとき、無限の個人的な苦しみを払われたのです。」[4]

都の建設に用いられた材料のリストと同様、今日意義深いことは、都をヨハネに示した天使がその城壁を測ったという事実です。城壁を測ることができたということ、高さと長さと幅をもっているということが、現代の、データ思考の知性に都の現実性を示唆しています。

3食物と水の供給

み座から都の中央を、「いのちの水の川」(黙示録22:1)が流れています。たくさんの幹をもったバンヤン樹のように、いのちの木が「川の両側に」はえています。その十二種の実は、アダムとエバがエデンを去らねばならなくなって以来、人類が失っていた生命の維持に必要な成分を含んでおり、それを食べれば年をとることなく、燃え尽きることもなく、また単に疲れることもありません(黙示録22:2、創世記3:22)。この木の実を食べる人々は休息するための夜は必要ありません(黙示録21:25参照)。なぜなら新しい地では、彼らは決して疲れを感じることがないからです。

わたしたちの永遠の郷里

聖書は、最後には救われた人々はこの地を受けつぐということを明らかにしています(マタイ5:5、詩篇37:9,29、115:16)。イエスはご自分に従う者たちに、父の家に「すまい」を用意すると約束されました(ヨハネ14:1-3)。わたしたちが特に言及してきたように、聖書は父なる神のみ座と天国の本部を新エルサレムに置いており、それがこの地球に下ってくるのです。(黙示録21:2,3,5)。

都のわが家

新エルサレムはアブラハムが見た都です(ヘブル11:10)。あの巨大な都の中に、キリストは「すまい」(ヨハネ14:2)、またはその原語が示すとおり「住む場所」、現実の住宅を用意しておられます。

いなかのわが家

しかしあがなわれた者たちは新エルサレムの城壁の中に閉じ込められるのではありません。彼らはこの地球を受けつぐのです。都のわが家から、あがなわれた者たちはいなかに出て行き、自分たちの夢の住宅を考え、建築し、作物を植え、収穫し、それを食べます(イザヤ65:21)。

神とキリストと共にくつろぐ

「わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ14:3)とイエスが弟子たちにされた約束は、この新しい地で永遠の成就をみます。受肉の目的である「神われらと共にいます」はついにその目標に到達してしまいます。「見よ、神の暮屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、彼らの神となり」(黙示録21:3)ます。【訳注1】

このときに、あがなわれた者たちは父なる神とみ子の前で生き、彼らと交わる特権をもちます。

新しい地での生活

新しい地での生活はどのようなものでしょうか。

神とキリストと共に支配する

神はあがなわれた者たちを、神の王国の業務に参加させられます。「神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼に仕える。…そして、彼らは世々限りなく支配する」(黙示録22:3-5、NIV、5:10参照)。

わたしたちは彼らの統治の範囲を知りません。しかし、無難に考えられることは、王国においてあがなわれた者たちの果す役割の重要な部分は、宇宙へのキリストの大使として仕え、神の愛について彼らの経験を証しするということです。彼らの最大の喜びは神に栄光を帰することです。

新しい地での肉体的活動

新しい地での生活は、永遠に向かって最も野心的なことに挑戦するでしょう。あがなわれた者たちがそこでなしうる活動をひと目見れば、わたしたちの興味が刺激されます。しかしひと目見たからといって、その可能性に限界を定めることはなさそうです。

わたしたちは既に、あがなわれた者たちは「家を建てて、それに住」(イザヤ65:21参照)むという聖書の約束を見てきました。家を建てるということは、設計し、建築し、家具を備えることを意味しますし、また改造したり、再建築したりする可能性を意味します。さらに「住む」という言葉からわたしたちは、毎日の生活に関連する活動の全領域を推測できます。

新しい地の全体像の底を流れる主題は、神が初めの創造に対して計画しておられたことの回復です。エデンにおいて神は最初の人間に園を与え、「これを耕させ、これを守らせられ」(創世記2:15)ました。もし、イザヤが言ったように、新しい地で人がぶどう畑を作るとすれば、果樹園や穀物畑を作っても不思議ではありません。もし、ヨハネの黙示録が示すように、人が立琴をひくのなら、トランペットや他の楽器を使っても不思議ではありません。結局、人間のうちに創造への強い衝動を植えつけられ、彼らを限りのない可能性をもった世界に置かれたのは、神ご自身だったのです(創世記1:28-31)。

新しい地での社会生活

わたしたちは永遠の中で、わたしたちの喜びの相当な部分はさまざまな関係の中にあることを悟るでしょう。

1友だちと家族

わたしたちは、栄化されて、イエスのかたちに変えられてしまった後、自分たちの友達や家族を認めるでしょうか。キリストの復活後、弟子たちは彼を認めるのに苦労はありませんでした。マリヤは彼の声を認めましたし(ヨハネ20:11-16)、トマスはキリストの肉体の姿を認めました(ヨハネ20:27,28)。またエマオからの弟子たちは彼のしぐさで彼だとわかりました(ルカ24:30,31,35)。天国でもアブラハム、イサク、ヤコブはそれぞれ自分の名前をもっていますし、彼ららしさを保っています(マタイ8:11)。わたしたちは、新しい地では、今知っており、また愛している人たちとの関係を継続するのだと考えてさしつかえありません。

事実、わたしたちがそこで楽しむのは、さまざまな関係です。それは家族や現在の友達との関係だけではありません。この関係のゆえに天国はわたしたちにとって希望に満ちたものとなるのです。その物質的な祝福は、「父なる神、わたしたちの救い主、聖霊、天使、あらゆる部族、民族、国語、国民から救われた聖徒たち、またわたしたちの家族との関係の永遠の価値と比較すれば、なきに等しいものに見えるでしょう。…もはや人格の崩壊も、家庭の分裂も、交わりの崩壊もありません。全宇宙は一つとなり、健康が満ちるでしょう。肉体的にも知的にも完全になることにより、天国と永遠とは完全な達成を見るのです。」[5]

「神ご自身が魂にうえつけられた愛と同情とは、そこで最も真実な、最も美しいものとして発揮される。聖者たちとのきよい交わり、聖なる天使たち、及び…各時代の忠実な者たちとの、むつまじい社会生活、…こうしたものが、あがなわれた者たちの幸福となる。」[6]

2結婚

キリストと同時代の人々が、七回もの夫を持って何度もやもめとなった一人の女性のことを語りました。彼らはキリストに、彼女は復活後だれの妻になるのかと尋ねました。もしこの地上の結婚関係が天で更新されるとすれば、紛糾が果てしなく起ってくるだろうことは、想像するまでもなくわかることです。キリストの返事は神の知恵をあらわしています。すなわち「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである」(マタイ22:30)。

それではあがなわれた者たちは、現在の、結婚と結びついた祝福を奪われるのでしょうか。新しい地では、あがなわれた者たちは、良いもので奪われるものは決してありません。神は「主は…直く歩む者に良い物を拒まれることはありません」(詩篇84:11)と約束なさいました。もしこの約束がこの世で真実なら、来世ではなおさら真実でしょう。

結婚の真髄は愛です。喜びは、つまるところ愛を表現することのうちにあります。聖書は、「神は愛である」また「あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」(1ヨハネ4:8、詩篇16:11)と言っています。新しい地では、愛にも喜びにも楽しみにも欠乏する者はひとりもいません。そこには、孤独や空しさを感じる人、愛されないと感じる人はひとりもいません。

わたしたちは、この現世に喜びをもたらす結婚を考案された愛の神が、来世ではさらに良いものを備えてくださると信頼することができます。それは、神の新しい世界がこの世にまさっているように、結婚にまさるものです。

新しい地での知的生活

知性の回復

「その(いのちの)木の葉は諸国民をいやす」(黙示録22:2)。ヨハネの黙示録が述べているいやしは「治療」以上の意味をもっています。それは「回復」を意味します。なぜなら、そこに住む者のうちには、病気になる者はひとりもいないのですから(イザヤ33:24,20)。いのちの木から食べるにつれて、あがなわれた者たちは、何世紀にもわたる罪のために小さくなった肉体と、成長を妨げられていた知性が成長します。彼らは神のかたちに回復されるのです。

限界のない可能性

永遠は無限の知性の広がりを提供してくれます。新しい地では「不死の者たちが、創造力の驚異、贖いの愛の奥義を、永遠に尽きない喜びをもって研究する。人を誘惑して神を忘れさせるような、残酷で欺瞞的な敵はもういない。すべての才能が発達し、すべての能力が増大する。知識を獲得するのに、頭脳を疲れさせたり、精力を使いきってしまったりするようなことはない。そこではどんな大きな企画も実行され、どんな遠大な抱負も達成され、どんな大望も実現される。そしてそれでもなお、越えるべき新しい高いところ、感嘆すべき新しい驚異、理解すべき新しい真理、頭と心と体の能力を呼び起す新たな対象が現れてくる。」[7]

新しい地における霊的な営み

キリストから離れては、永遠の生命は意味がなくなります。永遠にわたってあがなわれた者たちは、たえずイエスからもっと多くを飢えかわくように求めます。すなわち、イエスの生涯と働きをもっと理解したい。彼ともっと交わりたい。彼の比類なき愛を堕落しない世界に証しする時間がもっとほしい。彼の品性をもっとよく反映するものとなりたいと。あがなわれた者たちはキリストのために、またキリストと共に生きます。キリストにあって、永遠に彼らは完全に満足して休息します。

キリストご自身は仕えるために生きられました(マタイ20:28)。また彼はご自分に従う者たちに、同じ生涯を送るように招かれました。今彼と共に働くこと自体報われることです。このことから生じる関係は、さらに新しい地で彼と共に働くより大きな祝福と特権を提供してくれます。そこで、大きな喜びと満足をもって「その僕たちは彼に仕える」(黙示録22:3)のです。

あがなわれた者たちは、自然という神の宝の家を研究する機会をもちますが、最も人気のある科学は、十字架の科学です。神が彼らに与えようとされた鋭敏さに回復された知性で、罪の盲目を取り除かれて、彼らは、この地上ではあこがれることしかできない方法で、霊的な真理を悟ることができます。彼らは永遠にわたって、救いのテーマ――あらゆる現像を越えた深さ、高さ、広さを包含するテーマ――を研究し、また歌います。この研究によってあがなわれた者たちは、イエスのうちにあるがままの真理がたえずもっと大きく開けていくのを見るでしょう。

週毎に救われた者たちは、安息日礼拝のために共に集まります。「『安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する』と主は言われる。」(イザヤ66:23)。

もはや……は、ない

あらゆる悪は根絶される

新しい地に関して最も慰めに満ちた約束はそこにないものに関連しています。「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)。

これらの悪はすべて、永遠に消滅します。なぜなら神があらゆるかたちの罪、すべての悪の原因を根絶されるからです。聖書は新しい地の一部としていのちの木のことを述べていますが、一度たりとも善悪を知る木や他のどんな誘惑の源をも含めていません。その良い地では、クリスチャンは世と世の欲、また悪と戦う必要は決してないのです。

新しい地が、罪に汚れた、古い惑星地球からの移民の流入であるにもかかわらず、「新しさ」を維持する、という保証は、神が「忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者」(黙示録21:8、22:15)、を排除されるという事実です。神はそうしなければなりません。なぜならどんな罪でも侵入するなら、新しい地は破滅するからです。

「あらゆる災いの跡は一掃される。…思い出させるものがただ一つある。われわれの救い主は、永遠に十字架の傷跡をとどめられるのである。主の傷ついたみ頭に、その脇腹に、その手と足に、罪の残酷なしわざの唯一の跡がある。預言者ハバククは栄光のキリストを見て、『その光は彼の手【訳注2】からほとばしる。かしこにその力を隠す』(ハバクク3:4)と言っている。…カルバリーの傷跡は永遠にわたって、主への讃美を示し、主の力を宣言する。」[8]

さきの事はおぼえられることがない

新しい地では、「さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない」(イザヤ65:17)とイザヤは言っています。しかし文脈の中で読めば、あがなわれた者たちが忘れるのは、昔の生活の苦悩であることが明らかになります(イザヤ65:16参照)。彼らは神がなさったよいこと、神が彼らを救われたあふれる恵み、それがなければ罪との戦いがすべてむだになってしまう豊かな恵みを忘れません。キリストの救いの恵みについて、聖徒たち自身が経験したことが、永遠にわたって彼らの証しの精髄です。

加えて、罪の歴史は「その敵に二度としかえしをする必要がない」(ナホム1:9)という保証の重要な要素となります。罪が産み出した悲しい結果について考えることは、あの自滅的な道を選ぶようにたえず誘惑を受けた人には、再び永遠にわたって妨げとなるでしょう。過去のできごとは重要な目的に役立つのですが、天の雰囲気は彼らの苦痛についてのあの恐ろしい記憶を清めてくれます。約束は、あがなわれた者たちは良心の苛責、後悔、失望、悲しみ、心痛を思い出すことはない、ということです。

新しい創造を信じることの価値

新しい地の教理を信じることは、クリスチャンに、たくさんの非常に実際的な祝福をもたらします。

それは耐え忍ぶ動機となる

キリストご自身「自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び」(ヘブル12:2)ました。パウロは未来の栄光を瞑想することによって勇気を取り戻しました。「だから、わたしたちは落胆しない。…なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」(2コリント4:16,17)。

それは報いの喜びと確かさをもたらす

キリストご自身が言われました、「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい」(マタイ5:12)と。パウロはくり返します。「もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受ける」(1コリント3:14)と。

それは誘惑に抵抗する力を与える

モーセは「罪のはかない歓楽」と「エジプトの宝」から離れて歩むことができました。なぜなら彼は「報いを望み見ていたからである」(ヘブル11:26)。

それは天国を前もって味わわせてくれる

クリスチャンの報いは未来だけではありません(エペソ1:14)、キリストは「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはい」(黙示録3:20)ると言われます。「そしてキリストがおいでになるとき、彼はいつもご自身と共に天国をもたらされます。」キリストと交わることは「心の中の天国です。それはすでに始まっている栄光です。それは前もって体験される救いです。」[9]

それはより実際的に役立つ者にする

ある人たちは、クリスチャンは天国に心を奪われるあまり、この地上では価値のない者であると考えます。しかしクリスチャンにこの世を動かす堅固な土台を与えるのは、まさにあの来世を信じる信仰なのです。C・S・ルイスが認めている通りです。「もしあなたが歴史を読むならば、この現世のために最も多くのことをなしとげたクリスチャンたちは、まさに来世のことを一番深く考えていた人々だったということを見いだすでしょう。…クリスチャンがこの世においてあまり役に立たなくなったのは、彼らが来世のことを考えることを、ほとんどやめてしまって以来です。天国をめざしなさい。そうすればあなたは『身を投じる』この世を得るでしょう。この世をめざしなさい。そうすればあなたは何一つ得ることはないでしょう。」[10]

「賢明な人は雪でできた建物よりも、大理石像の彫刻物の方により注意を向けるでしょう。」[11]

永遠に生きる計画をもっているクリスチャンは、自分はどうでもよく、ただ捨て去られるためにだけ生れてきたと考える人よりは、当然、自分の人生をより注意深く築くことでしょう。(こういうわけで社会に対してより建設的に影響を与えるのです。)

聖霊に養われて、天国のことで心がいっぱいなると、強力な理解力が生れます。天国のことを考えることによって魂はひき上げられ、気高くされます。視野が広がり、洞察力が深められます。また見えるものと見えないものの相対的な割合と価値がもっと明白に正しく評価されます。」[12]

それは神のご品性を啓示する

この世界は、わたしたちが現在見ているとおり、総体的に、神の品性とこの惑星に対する神の最初の計画とをどちらも誤り伝えています。罪は地球の自然の生態系をひどく損ったので、多くの人たちは、この世界と、創世記1章と2章に描かれた楽園との間の関係をほとんど想像することができません。現在は、生き残るための絶えざる苦闘が人生の特徴です。信じる者の人生ですら、この世と、肉欲、また悪魔と戦わなければならず、神の最初の計画を正確には描いていません。神があがなわれた者たちのために計画して下さったこと、すなわち、サタンの感化に触れられていない世界、神の目的だけが支配する世界の中に、わたしたちは神の品性のより真実な表現を見るのです。

それはわたしたちを神に近づける

最後に、聖書は非宗教的な人をキリストにひきつけるために、新しい地を描いています。一人の人は、「エデンの美しさに回復された地球が、『現在ある地球』と同じように現実のものであり、聖徒たちの最後の住いとなること」、そこでは聖徒たちは「すべての悲しみ痛み、死から開放され、お互いに顔と顔とを合わせて見てわかるでしょう」ということを聞くやいなや、激しく反対しました。

「なぜ」と彼は言いました。「そんなことはありえません。それだったらこの世にふさわしいことでしかありません。それだったら悪人が好むことでしかありません。」

多くの人たちは「最後の報いを教える宗教は、この世が持ちえない願望を満たすものでなければならないと考えているようです。したがって、どんな状態の幸福であれ、それが幸福と名づけられるとき、それは人の心が、堕落した状態において真に切望するものでしょうが、それは真の宗教の役割を全く果しえていない、と彼らは考えます。」[13]

神がご自分を愛する人々のために備えられたことを知らせる目的はまさに、この世のことで夢中になっている状態からひとりびとりの心をひきつけ、彼らが来世の価値を認め、備えられた美しい事柄の中に、父なる神の愛を一目見るのを助けるためです。

永遠に新しい

この古い地球では、「すべての良きことには終りがくる」としばしば言われています。新しい地に関する最良の良き知らせは、決して終りが来ないということです。そのときあの「ハレルヤ・コーラス」の叙情詩篇が実現します。「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(黙示録11:15、ダニエル2:44、7:27参照)。さらに聖書は、すべての被造物があの頌歌に加わると言っています。「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」(黙示録5:13)。

「大争闘は終った。もはや罪はなく罪人もいない。全宇宙はきよくなった。調和と喜びのただ一つの脈博が、広大な大宇宙に脈打つ。いっさいを創造されたお方から、いのちと光と喜びとが、無限に広がっている空間に流れ出る。最も微細な原子から最大の世界に至るまで、万物は、生物も無生物も、かげりのない美しさと完全な喜びをもって、神は愛であると告げる。」[14]

訳注

  1. 口語訳には「彼らの神となり」が訳出されていません。
  2. 本書の原書は「手」の代わりに「脇腹」を訳出し、それを欄外の語とことわっています。

[1]ジェームズ・ホワイト、「新しい地。アダムにおいて失われ、キリストを通して回復された統治権」『レビュー・アンド・ヘラルド』、1877年3月22日号(James White, “The New Earth. The Dominion Lost in Adam Restored Through Christ,” Review and Herald, Mar. 22, 1877)、92,93ページ。

[2]英語の「new」(新しい)は新約聖書に用いられた二つのギリシャ語の翻訳です。ネオスは「時間に関する新しさの概念を表現しており、『新しい』、『最近の』、『若い』とも訳せます。これはアーカイオス、『昔の』、『最初の』、『古代の』の反対語です。」他方、カイノスは「形や質に関する新しさ」を意味し、『新しい』、「新鮮な」、『性質が異なる』とも訳せます。これはパライオス、『古い』、『老齢の』、『疲れ果てた』、『そこなわれた』の反対です。カイノスは『新しい地』を描写するのに用いられた言葉です。」(「新しい地」『セブンスデー・アドベンチスト聖書辞典』、改訂版(”New Earth,” SDA Bible Dictionary, rev. ed. )、792ページ。

[3]同。

[4]リチャード・W・コフェン、「新しい生活、新しい天、新しい地」『ズィーズ・タイムズ』、1969年9月号、(Richard W. Coffen, “New Life, New Heaven, New Earth,” These Times, Sep. 1969)、7ページ。

[5]ニール・C・ウィルソン、「再び一つとなった神の家族」『アドベンチスト・レビュー』、1981年10月8日号、

(Neal C. Wilson, “God’s Family Reunited,” Adventist Review, Oct. 8, 1981)、23ページ。

[6]ホワイト、『各時代の大争闘』、下巻(福音社、1974年)、465,466ページ。

[7]同。

[8]同・460,462ページ。

[9]「エスコルのぶどうのふさ」『レビュー・アンド・ヘラルド』、1845年11月14号(”Clusters of Eschol,” Review and Herald, Nov. 14, 1854)、111,112ページ。

[10]C・S・ルイス、『単なるキリスト教』(ニュージャージー州、ウエストウッド、バーバワー杜、1952年)、C. S. Lewis, Mere Christianity(Westwood, NJ ・ Barbour and Co., 1952)、113ページ。

[11]フェーガル、『天国はあなたもの』(Fagal, Heaven Is for You)、37ページ。

[12]「エスコルのぶどうのふさ」、111,112ページ。

[13]ユライヤ・スミス、「大衆の希望、そしてわれらの希望」『レビュー・アンド・ヘラルド』、1854年2月7日号(Uriah Smith, “The Popular Hope, and Ours,” Review and Herald, Feb. 7, 1854)、20ページ。

[14]ホワイト、『各時代の大争闘』、下巻、467ページ。

*本記事は、『アドベンチストの信仰』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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